DUGON(ジュゴン) さん プロフィール

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DUGON(ジュゴン)さん: 幸せを約束する聖書の言葉
ハンドル名DUGON(ジュゴン) さん
ブログタイトル幸せを約束する聖書の言葉
ブログURLhttp://d.hatena.ne.jp/Dugon/
サイト紹介文あなたが聖書のみ言葉に接するとき、心に満足と喜び平安が与えられます。
自由文日々、神様が私共に与えてくださる聖書のみ言葉を通して、生きる力と助けを得たいと思います。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供128回 / 365日(平均2.5回/週) - 参加 2010/06/15 11:18

DUGON(ジュゴン) さんのブログ記事

  • 永遠の者として・・・新しい世界
  •  ある人は言いました。 この世が全てではない。 この地上の歩みは、あたかも本番前のリハーサルのようなものだ。 丁度お母さんのお腹にいる赤ちゃんが、お腹の中で、何時までも居ないように、新しい世界に生まれてくるように、私たちの人生もこの地上だけで終らず、次の新しい世界が待っていると言うのです。 神様は、私達の心の奥底に永遠に対する思い、憧れ、あるいは予感をお与えになりました。 それは、この地上で私達の [続きを読む]
  • 使徒とされたパウロ
  •  エペソ人への手紙1章1節に、 「神のみ心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」とあります。 ギリシャ語の聖書や、英語の聖書は、先ずパウロの名前が文頭にあげられて、それから文が続いています。 パウロという名前は、ラテン語によるものです。ヘブル語ではサウルと言われています。 イスラエルの最初の王はサウルと言いましたが、同じ名前です。そして、サウル王とサウルは同じベニヤミン部族の出身です。 [続きを読む]
  • キリストより目を離さず(3)・・・再臨の主を仰ぐ
  •  イエス・キリストから目をそらせてしまうのは、イエス・キリストの使命と、神の国を理解しないためだからです。 自分の思いがけない状況の中で、弟子たちは、不平不満が高じてきて、それがイエス・キリストを見失わせました。 イエス・キリストを見ないで、自己過信や優越感を持って仲間や他人を見るとき、キリストを見失います。困難や人生の荒波と呼ばれるのを見ることで、キリストから離れるのです。 その結果、何が起こる [続きを読む]
  • キリストより目を離さず・・・イエスを見上げる
  •  私たちは、イエスから目を離してはなりません。 イエス・キリストを見上げ、見つめているとき、心は平安で、喜びと希望に満たされます。 イエス・キリストによって、救われ、新しい歩みをしている私たちは、イエス・キリストを救い主として信じるばかりでなく、私たちを支配する主、王の王、再臨の主として信じる必要があります。 マタイによる福音書22節から33節には、次のように述べられています。「それからすぐ、イエ [続きを読む]
  • 悲しみの中での復活(3)・・・矢内原忠雄 『春三月』
  •  矢内原忠雄という方は次のように述べています。 春三月 わが愛する者の天に召されたのは、 春三月のうららかな日であった。 その日俄かに黒雲がわき起こって 孤独の私をつつんでしまった。 悔恨と悲痛に湧きあふれて 抑えるに力がなかった。 しかし黒雲がやや薄れて その水滴の幕のかなたに 春の陽のかがやく時が来た。 わが愛する者の墓は 御国の園の入口に立つ、 そこから梯子が天に直通し 御使たちが昇り降りし [続きを読む]
  • 悲しみの中での復活(2)・・・打たれた傷によっていやされたのだ
  •  「ナインの門で、悲しむ母親の側にお立ちになったイエスは、棺のかたわらで泣き悲しんでいるひとびびとりを見守っておられる。イエスの心はわれわれの悲しみへの同情で動かされる。 愛し、あわれまれたイエスの心は、変わることのないやさしい心である。死人を生き返らせたイエスのみ言葉は、それがナインの若者に語られたときと同じように、今も力がある。イエスは「わたしは、天においても地においてもいっさいの権威を授けら [続きを読む]
  • 悲しみの中での復活(1)・・・復活の力を信じる
  •  一つの詩があります。 「愛する者を喪った時・・・ その悲しみは、ひととおりではない。 それは時に五月雨(さみだれ)のように  それは驟雨(しょうう)のようにやってくる。 ひとり悲しみだけは澄んでいる。 その悲しみにある時こそ、私たちは、 復活を身近に感じるのである。 痛み、苦しみ、悲しみに徹底的に寄り添うときこそ、 復活は親しく訪れるのである。 その果てにおいて、死のただ中にこそ復活と呼ぶべき事 [続きを読む]
  • さあ、私たちは主に帰ろう(6)・・・希望を語る神
  •  エゼキエル書37章の聖句は、希望を伝える聖句と言われています。 ここで告げられているのは、神様の命、希望です。 神様は不思議な方で、希望のないところに、希望を語ることのできる方であり、死の中に、生命、復活を語ることのできる神です。 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んで」くださる神様です。(ホセア書6章1節)  ホセア書2章 [続きを読む]
  • さあ、私たちは主に帰ろう(5)・・・人間の力に頼った人々
  •  どうして、このようになったのでしょう。 それは、アダムがそうであったように、人間の力を高め、人間の力に頼る罪が絶えず誘惑になって、イスラエルを、また今日の私たちをおそうからです。 例えば、エジプトから救われて、カナンに定着したイスラエルの人々は、隣の異教の人とやっていくのに、王様が欲しいと思いました。 また、隣国の繁栄と力を見ると、真似したいと思ったのです。 神様に従うよりも、人間の力、人間の知 [続きを読む]
  • さあ、私たちは主に帰ろう(4)・・・生きた屍(しかばね)
  •  バビロンに連れて行かれた、生きた屍(しかばね)のイスラエルの人々に、エゼキエルは神の言葉を語ったのです。 何故、イスラエルの人々は、幻に象徴されるように、生きた屍になったのでしょうか。 それは、単純に言えば、神に従わなかったからです。不従順だったのです。 神との契約を破り、神の戒めに従わなかったのです。 創世記3章を見ると、何故、死と苦しみが人間の世界に入ってきたかを教えています。それは、神の戒 [続きを読む]
  • さあ、私たちは、主に帰ろう(3)・・・生き返るのに望みのない骨
  •  エゼキエルが見せられた、この幻は何を意味しているのでしょう。 野ざらしになっている人骨、しかも大分時間が経っている骨は、何をあらわしているのでしょう。 エゼキエル書37章11節から14節でわかることは、  枯れた骨、生き返るのに望みのない骨は、イスラエルの人々であるというのです。 そのイスラエルの人々が、死んでいて、生き返ることが出来ないのほど、絶望的であるというのです。 しかし、神が、あたかも [続きを読む]
  • さあ、私たちは、主に帰ろう(2)・・・生きた人間になる
  •  エゼキエル書 第37章1節から14節を読みましょう。 「主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。 彼はわたしに言われた、『人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか』。わたしは答えた、『主なる神よ、あなたはご存じです』。彼 [続きを読む]
  • さあ、私たちは、主に帰ろう・・・(1)
  •   ヴァイオリンニストの千住真理子さんという方がいます。 2才の頃からヴァイオリンを始めたそうです。小学校5年生の時に、全国音楽コンクールで優勝して以来、天才少女と呼ばれるようになりました。 ところが、20才になった頃、スランプに陥って、ヴァイオリンを止めてしまうのです。 千住真理子さんは、音楽学校は出ていません。慶応の幼稚舎から大学まで出ていましたが、大学では哲学を専攻したと言われます。 スラン [続きを読む]
  • イエス・キリストの中に見たもの(3)・・・苦難の象徴
  •  イエスは宿屋に泊まることを断られ、家畜小屋で生まれ、ベッドではなく、飼葉おけに布に包まれて寝かされていました。 神が守り、導いているなら、どうして、御子イエスをもっと立派なホテルか、または病院へ導かれなかったのでしょう。 立派な医者や、看護士の方々に取り囲まれ、立派なベッドに寝かされていいはずです。  E.ホワイトは、そのイエスの姿を犠牲と呼びました。 W.バークレーは、 「たまたま宿に部屋がな [続きを読む]
  • イエス・キリストの中に見たもの・・・イエス・キリストの誕生
  •  ルカによる福音書2章1節から7節を見ると、 イエスが、いつの時代に、どのような状況で、何処で、お生まれになったかが記されています。 8節から14節までは、羊飼いたちに、天使が御子イエスがお生まれになったことを示す個所です。 そして、14節には、天使たちの賛美が記されています。 15節から20節は、羊飼いたちが、天使に従って行ってみると、そこには、天使が言ったとおりにイエスがお生まれになったことが [続きを読む]
  • 主イエスに支えられて・・・(3)弱さを超えて立ち上がる力
  •   私たちは、自分の強いところも認めると同時に、弱さも認めなければなりません。 短所と同時に長所も受け入れる必要があります。 両方丸ごと受け入れることが大切なのです。 この相反する二つの事柄を受け入れていくことが、人間が成熟していくのに大切なのです。 ペテロは自分の強さを、信念を過信しました。本当は弱さを理解して、神に祈るべきだったのです。 自分の中にある、相反する性質を知って、自分を統一してくだ [続きを読む]
  • 主イエスに支えられて・・・(2)イエス・キリストの愛を知る
  •  ペテロは自分の弱さを知りませんでした。  ここで弱さは「あなたのためには命を捨てます」と言える強さにありました。 彼は一歩退いて、自分に果たしてそんな力があるかどうか、また、恐怖や非難、中傷に打ち勝つ愛があるかどうか吟味すべきでした。 しかし、現実は物事が起こってみないと分からないのが人間です。誰も自分自身を誇ることができません。 ペテロがイエス・キリストを否認した後、鶏が鳴いたとき、「にわとり [続きを読む]
  • 主イエスに支えられて
  •  ヨハネによる福音書18章2節から二つの物語があります。 一つは、主イエスが裁判にかけられているところです。 もう一つはペテロの主イエスを否認するところです。 イエスとペテロの姿はとても対照的です。 ペテロは自分の信念を貫けず、心ならずもイエス・キリストを裏切っていきます。 そのペテロに対してイエスは気品に溢れ、微動だにせず、威厳を保ちご自分をあらわしています。 このイエス・キリストとペテロの姿を [続きを読む]
  • イエス・キリストの再臨を祝う(2)・・・天のホーム
  •  「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書14章1節〜3節)  [続きを読む]