歴史男 さん プロフィール

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歴史男さん: 歴史の宝庫、米沢の街を歩く
ハンドル名歴史男 さん
ブログタイトル歴史の宝庫、米沢の街を歩く
ブログURLhttp://yaplog.jp/rekishi-houko/
サイト紹介文神武天皇から源平、戦国、江戸時代を通し、素晴らしい日本の歴史をともに語りたい。
自由文神武天皇、神功皇后、源義経、石田三成、直江兼続、赤穂浪士、坂本龍馬など日本歴史上の人物の実像に迫りたいと思います。米沢を基点として歴史を振り返ると、新しい見方ができるように思います。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供7回 / 365日(平均0.1回/週) - 参加 2010/07/17 15:06

歴史男 さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 映画、関ヶ原の感想
  • 関ヶ原の戦い筆者の知る限りでは、最も迫力のある集団戦闘シーンは、1970年、イタリア・ソ連合作、「ワーテエルロー」(ツタヤレンタルDVD有)であろう。ナポレオンの率いる仏軍72000人とウエリントン率いるイギリス軍68000人とのワーテルローでの決戦を描いたもので、前進するフランス歩兵の大軍、迎え撃つ英軍、仏、英騎兵の激闘、ナポレオン軍最後の精鋭、近衛軍団の進撃とその破滅など、実に雄大で感動的であった。 [続きを読む]
  • 米沢の武者道
  • 米沢城跡JR米沢駅から米沢城大手門までの広い道とは平行に、2〜300mほど右側に直線の細い道がある。米沢城三の丸の壕に沿ったこの道は昔から武者道といわれていた。なぜ武者道と言われてきたのであろうか。城の防衛のためである、あるいは貧乏な家中の武士がその道を顔を隠して金策のために通ったためである、などの説がある。武者道は城の中心部から離れた場所にあり、城の防衛に関係するとは思えない。また、江戸のような都 [続きを読む]
  • 保科正之ー世界初の福祉国家、会津
  • 米沢の上杉家断絶の危機を救った保科正之(1611-1673)はいかなる人物であったか。正之は将軍徳川家光の腹違いの唯一の弟であった。長年、正之は日陰の存在として生きてきたが、家光に会津25万石の当主に引き立てられた。正之は、将軍家の藩屏となるべく、家臣に日々心身の鍛錬を求めた。幕末の戦いで、幕府直属の旗本御家人3万人が戦意を喪失し、全く戦闘に加わらなかったなかで、会津藩士が薩摩長州の精鋭に対して善戦したのは [続きを読む]
  • 米沢、上杉家断絶の危機
  • 米沢城跡江戸初期、1664年春、上杉30万石の城下町、米沢に激震がはしった。主君の上杉綱勝が26歳の若さで急死したのだ。しかも跡継ぎも無しで。大名家は、主君の跡継ぎとして、実子、あるいは養子を幕府に届けておくのが常であった。跡継ぎ無しで大名が死亡した後でも、死亡後に養子の届を出しても幕府に許されたのは、江戸時代のもっと後になってからである。小早川55万石は、小早川秀秋が急死後、跡継ぎがないため断絶 [続きを読む]
  • 恐怖政治の終焉
  • 昭和19年、太平洋戦争は日本の敗色が濃厚になってきたが、時の首相、東条英樹陸軍大将はまだ強気だった。彼は国内世論を憲兵政治で抑圧していた。憲兵とは元来、軍人を取り締まる軍隊の警察であるが、東条大将は国内の治安維持のための私兵に使っていた。一般国民が、反戦的言動をすれば、すぐに憲兵隊に拘束され、拷問をうけた。国会議員でさえも、私的会話で内閣を批判したことが憲兵に知られて、逮捕される有様であった。国民 [続きを読む]
  • 幕府の権力の基盤とは
  • 室町時代の多くの歴史書を調べてもよくわからないことがある。応仁の乱は、細川氏と山名氏が共に大軍を都に集めて戦い、そのために京の都は焼け野原になったという。それでは、その間、足利将軍はなにをしていたのであろう。大名間の利害を調整し、争いをやめさせる役割をなぜ果たせなかったのか。歴史学者の怠慢によるのではないかと思われるが、歴史書には、肝心な、将軍家の領土がどれほどであり、将軍直轄の兵がどれほどいたの [続きを読む]
  • 真田信繁の義父、大谷吉継の関ヶ原
  • 真田信繁の正妻は豊臣家の武将、大谷吉継の娘である。大谷吉継は文武に優れた武将として知られていた。大谷吉継は、佐和山城で親友の石田三成から徳川家康打倒の相談を受けた。吉継はいずれ豊臣家に害をなす家康を倒さねばならないと考えていた。しかし、今は家康は名目上は豊臣秀頼の命を受け、大軍を率いて上杉征伐に向かっている。時期が悪すぎると反対した。しかし三成の決意の固いのを知り、ともに家康を討つ決心をした。吉継 [続きを読む]
  • 関ヶ原  島津義弘の戦い
  • 関ヶ原で開戦前、島津義弘の胸にはふたたび怒りがこみあげていた。石田三成が米沢城主、直江兼続と図って挙兵した時、義弘の手元には250人の兵しかいなかった。三成に味方した義弘は、国元にできるだけ多くの兵を大坂に送るよう使者をだした。しかし、薩摩で実権を握る、兄の島津義久は、国元で反乱の兆しがあるという理由で派兵を拒否した。そのため、義弘の直属の兵が、三々五々、徒歩で大阪に向かうという有様であった。関ヶ [続きを読む]
  • 自衛隊出動
  • 201X年、米国高官が日本首相官邸に乗り込んできた。「米国軍艦がペルシャ湾で敵対勢力による攻撃を受けた。反撃しなければならない。敵の基地を制圧するために、日本の自衛隊も米軍と一緒に行動してほしい」。躊躇する日本首相に対して、米高官は突き上げた。「この日のための集団的自衛権ではないか。同盟国の米国が攻撃されたのだから、日本が派兵するのは当然ではないか」。自衛隊の海外派兵の先駆けであった。どの沼のようなゲ [続きを読む]
  • 憲法第九条の意味
  • 戦後まもなく、日本はGHQ(占領軍司令部)から、新生日本の新しい憲法制定を求められていた。我妻栄東大教授は責任者の一人であった。我妻教授は米沢で生まれ育ち、法律学者として高名であった。本ブログ中、http://yaplog.jp/rekishi-houko/archive/12参照我妻教授はデータを前に目を疑った。今まで隠されていた太平洋戦争の真実のデータが次第に明らかにされてきた。戦争での日本陸軍の死者のうち、直接米英軍と対戦して戦死した [続きを読む]
  • 関ヶ原への路 真田昌幸、幸村の決断
  • 真田幸村上杉を討つために、徳川家康は軍勢(東軍)を小山まで進めたところで、石田三成の挙兵を知った。米沢城主直江兼続と三成の謀議であった。三成のもとには、家康の予想を越えた大軍が集結している。一瞬青ざめた家康も、気を取り直して従軍した大名達を集めて言った。「西軍に付きたいものは、この場から去ってよろしい。各人の判断にまかせる。」集まった大名の多くは、秀吉によって、一介の武士から大身に取り立ててもらっ [続きを読む]
  • 二・二六事件とは
  • 今年も2月26日がやってきたが、歴史的な二・二六事件とはなんだったのであろう。昭和11年2月26日、十数人の青年将校に率いられた千五百人の兵士は、重臣らを殺害して、都内の要地を占拠したが、やがて鎮圧され、青年将校の多くは処刑された。教科書にはこう記載されている。青年将校等は、当時の日本の状況、農村の極度の困窮、多くの国民の希望の無い貧困生活を憂い、これらは腐敗した政治家、軍人首脳部に責任がある、軍 [続きを読む]
  • 関ヶ原への路 
  • 米沢城址1600年、豊臣家に代わり天下の権を狙う徳川家康は、会津の上杉景勝が反乱を準備しているので討伐するという名目で、各地の兵、約10万人を江戸に集合させた後、会津に向けて進軍を開始した。これより先、景勝の重臣、直江兼続は、石田三成と相談していた。上杉勢が東軍、徳川勢を東国で引きつけている間に、三成が大阪で挙兵し、東西から,豊臣家を簒奪しようとする家康を挟み撃ちにしようという雄大な戦略である。家 [続きを読む]
  • 正義と実利ー真田幸村の挑戦
  • 長い戦国の世も終焉し、日本の政権は海外貿易に注力し、東南アジアには日本人村のネットワークが築かれていた。日本が朝鮮半島での拠点を失ってから千年を経て、日本の海外雄飛の条件は整った。ところが、この日本政権をひっくり返して国を閉ざし、自分の一族だけで日本を自由に支配しようとした人間がいた。徳川家康である。直江兼続家康は、先代の創業者、秀吉の未亡人と幼い遺児をないがしろにし、創業者の遺言も無視し、自分に [続きを読む]
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