列伝 さん プロフィール

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列伝さん: きょうのもののふフォト列伝
ハンドル名列伝 さん
ブログタイトルきょうのもののふフォト列伝
ブログURLhttps://ameblo.jp/yamazakibakufu
サイト紹介文熱く散って逝った源平・南北朝・戦国・幕末のもののふ達の、フォト・レクイエム列伝です。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供112回 / 365日(平均2.1回/週) - 参加 2010/09/28 22:44

列伝 さんのブログ記事

  • ●激しく闘ったのは四十七士だけにあらず! 吉良家臣は26人が散った!
  • 忠臣蔵・赤穂浪士の物語で、私はまったく目もくれなかった吉良家の家臣たち。 愛知県吉良町の吉良家菩提寺・華蔵寺に刻まれていた12月14日に討ち死にした吉良家家臣たちの名。な、なんと茶坊主までいるではないか。彼らも義周も、果敢に四十七士に挑んだのだ。 右端の小林平八郎と、12番目の中村一学はよく知られる家臣だ。 討死者、鳥居利右衛門・須藤与市右衛門・斎藤清左衛門・左右田源八郎、小堀源次郎、新貝弥七郎、大須賀 [続きを読む]
  • ●12月14日が近い、遠くで山鹿流の陣太鼓がひびいている…
  • 師走14日がひたひたと近づくと。信州にいてもなんとなく江戸高輪・泉岳寺が気になる。 そして、播州赤穂城を思い出す。しかし、我が信州は忠臣蔵・赤穂浪士と決して無縁でない。なんと、あの「嫌われて斬られた吉良上野介」が一子・吉良義周は信州・諏訪の地に眠っているのだ。  吉良義周(きらよしちか 1686〜1706)赤穂四十七士に討たれた吉良上野介義央の養嗣子。 実父の米沢藩主・上杉吉憲は上野介の実子だったことから上野 [続きを読む]
  • ●義仲町から雨晴海岸・義経神社、天下の絶景へ
  • こんな恐い?弁慶像が迎える安宅関公園。弁慶って、優しくて強いイメージが定着してる羨ましい武将。本当の人物像はどうだったのか。次々回の信州往来もののふ列伝で探ってみたいと思っている。 ところがである。この像の道路を隔てたすぐの街並みは、なんと「義仲町」が町名。隣もなんと「木曽町」。 弁慶町でも義経町でもないのが、ちょっと不思議なくらい。実は、この市街と安宅関の間を南北にはしる道は、通称「木曽街道」と呼 [続きを読む]
  • ●知らなかった「弁慶謝罪の地」、そして雨の安宅関
  • ?利伽羅峠・源平の郷を経て。勧進帳の安宅関へ向かう。 あそこの弁慶像はかっこいいからなぁ。と、くるまを走らせていると、???ムムなんだ、なんだ、「弁慶謝罪の地」という看板を発見。 話が後先になるが勧進帳の名場面で、義経をさんざんに殴打した弁慶が、関所を通過してしばらく行くと、足をとめ、涙ながらに義経にいう。 「難を逃れるためとはいえ、殿(義経)をあのように打擲し、まことに申し訳なく…」 「なんの、弁慶、 [続きを読む]
  • 火牛の計はロマンか夢か、はたまた真実か
  • 中国・戦国時代の斉の名将・田単は、牛の角に剣を、尾に松明を装着する奇策で合戦に勝利したとか。 義仲は牛の角に松明を付けたという。あの北条早雲も小田原城攻めで火牛の計を用いて、見事城を乗っ取ったというが…。 ?利伽羅峠にはこんなかわいい火牛が二頭並んでいた。しかし今回の来訪にて、津幡町の道の駅・源平の郷でかくも強大な火牛を発見、これは大迫力! これいいねぇ、これはこえぇ、火牛はこうでなくっちゃ。 …… [続きを読む]
  • ●次、そして次のために〜と、?利伽羅峠、安宅関へ出陣〜
  • 「ところでさ、おめぇ、鎮西紀行の博多・福岡城の話、ブログ書いてねぇだろ? 楽しみにしてたのに」「…………」「列伝さんよ、会津若松の高遠蕎麦の話も書いてねぇし、どうしただ?」「……………」「ずっと前の天空の城紀行シリーズさ、最後の方なかったわな、あれよかったのに」「…………」 ーーーーなんて言われて、集中できなった(泣)(困)。なんて言い訳しつつーーーーそのうち必ず といいつつ。次回、「信州往来もののふ列 [続きを読む]
  • ●嶺松院(義信室)、早河殿(氏真室)は…そして三条の方(信玄室)は
  • 武田義信の正室となった嶺松院(幼名生年不明)は、1552年に駿河今川家から甲府に輿入れしてきた。その婚礼行列はでやかなものだったという。嶺松院の母・定恵院は信玄の姉、よって義信と嶺松院はいとこ同士であった。 信玄は躑躅ケ崎館に二人の住む西曲輪と新居を新設してこれを迎えた。▼武田館の東曲輪(左)と西曲輪を分ける中堀ところが8年後、嶺松院の父・今川義元が桶狭間に倒れると情勢は激変。信玄の駿河侵攻の野望に火がつ [続きを読む]
  • ●黄梅院(信玄娘)、峯松院(義元娘)、早川殿(氏康娘)の哀切
  • 武田義信を調べていて、今までほとんど考えずにいた妻室たち・女性の動向を追った。 天文23(1554)年、三巨頭は今は廃寺となった駿河・善得寺にて霊峰富士を眺めながら直接顔を合わせて盟約を結んだという。 三巨頭とは甲斐・駿河・相模の、すなわち信玄・今川義元・北条氏康。 三者とも大物の戦国大名だっただけに直接三人が会ったかは疑問ともいわれているが。 この甲駿相の盟約で確認されたいわば不可侵条約の内容は、今川義元の [続きを読む]
  • ●信虎を追放し、義信を自決させた信玄 古来父子の相克は…
  • 信玄は父・信虎を駿河に追放し、嫡男・義信を自決に追い込んだ。武田家のみならず、古来武家の父子の相克は例が多い。 源為義・義朝父子の嫡流同士が保元の乱で敵味方で争い、義朝は父を討った。 足利尊氏の子・直冬は、尊氏弟の直義養子となったものの、最後まで尊氏は直義・直冬と争っている。 斎藤道三は子の義龍と戦い、家康は忠輝を最後まで許さず流人とした…。 父子の心情よりも、強大な権力の争奪はそれぞれの家臣団・とり [続きを読む]
  • ●川中島合戦にて謙信本陣を急襲した…悲劇の若大将・武田義信
  • 武田義信は、自らの「意思」をつらぬき、父・信玄と対決したというべきか。いや、周囲の「反信玄」の家臣にまつりあげられ、失敗したというべきか。30歳にして散った武田義信の事件は不明なことが多い。「信州往来もののふ列伝 巻104 武田義信」、またぜひご一読のほどを。 ◆武田義信(たけだよしのぶ 1538〜1567) 戦国時代の武将。武田信玄の嫡男。通称太郎義信。正室は今川義元娘。13歳の時、義の一字を将軍・足利義輝から授 [続きを読む]
  • ●信玄・義信親子の悲劇、妻室たちもまた哀切…
  • さればでござる、会津の旅報告もいまだおわらぬうちに、はや「信州往来もののふ列伝 巻104」のとき。今回は信玄が嫡男・武田太郎義信にて候。我がお抱え絵師は、かくのごとくな若武者にて描いてくれ候。かつての大河ドラマ「武田信玄」。30年近くも前だが、特にこの父子の対決は鬼気迫るがごとく緊迫した場面が連続した。 信玄妻にして、義信が母の三条夫人(配役・紺野美沙子)、そして義信が妻・嶺松院(配役・古村比呂)、この二 [続きを読む]
  • ●白虎隊墓所にて……凌霜隊の碑に会う
  • かつて美濃・郡上八幡城へ。 城内にて偶然見つけた大きな「凌霜隊」の碑文。 碑には隊長・朝比奈茂吉以下35人の名が刻まれていた。 「凌霜隊?」全くの初耳だった。 「凌霜隊略記」の碑文。 そして、 会津飯盛山の白虎隊墓所にて、凌霜隊の碑と対面した。 双方の碑に刻まれた「道ハ一筋ナリ」。 ―――幕末の頃、郡上八幡・青山藩も、「勤王か? 佐幕か?」で揺れに揺れた。もちろんこれは郡上藩に限らず全国大半の藩の苦悩&動 [続きを読む]
  • ●会津に信州の名残が…
  • 福島県会津若松。あちこち市街を巡って1万歩以上もセッセと歩く。 まずは…。それにしても白虎隊墓所は、昔来た時のイメージとまったく違っていて面食らった。 その前に大龍寺(市内慶山)へ。かつての信濃守護職・小笠原長時(信州往来もののふ列伝巻24参照)の墓参へ。信玄に追われ、謙信を頼り、川中島合戦に出陣したともいわれるが、その後どのような数奇な運命をたどったのか判然としない。長時を顕彰する石碑が。 松本府中の林城 [続きを読む]
  • ●謙信の前に謙信無し、謙信の後に謙信無し!
  • 山形県・米沢の上杉家御廟所はもう一度、また行ってみたくなる所。17年ぶりなれど、ここは感動が深かったゆえか、かつての記憶がそのままよみがえった。 廟所への参道は深い杉木立が左右に出迎えてくれる。次いで「龍」の旗と「毘」の旗! くわ〜! 荘厳で厳粛な廟所のたたずまいは、米沢市民が上杉家を、いや謙信公を崇拝する気持ちがひしひし伝わってくる。整然と横一列に十二代藩主の霊廟が並び、その中央一段奥に謙信公。戦 [続きを読む]
  • ●滅ぼされて40数年、ついに3万石藩主として復活した諏訪家
  • 武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重は、諏訪頼水の父・頼忠の従兄。この時から諏訪一帯は武田が支配。頼重の居城だった上原城には、信玄の城代として板垣信方が入った。以来40年、諏訪家は諏訪大社の神職としてのみ認められこの地にあった。そして武田の滅亡、そして信長の急逝。「好機来たり!」………そんな諏訪家の、頼水さんの物語をまとめました。またぜひご一読のほどを。地味〜な話で、スミマセン。 ◆諏訪頼水(すわよりみず 15 [続きを読む]
  • ●「なにっ、忠輝公を預かれと?」
  • さればでござる、次回「信州往来もののふ列伝 巻103」は「諏訪頼水」にて候。と、大きく出たものの、「すわよりみず? 誰やそれ」我が信州においても、ほとんど無名………。 しかし、しかしでござる、無名なる武人をも取り上げて、少しでも周知されればという我が願いでも。お抱え絵師・有賀さんは、かくの如く頼水さんを描いて候。 ◆諏訪頼水(すわよりみず 1570〜1641) 戦国〜江戸初期の武将・大名。諏訪高島藩初代藩主。武 [続きを読む]
  • ●総選挙かぁ〜、遠く米沢の地を思い浮かべる…
  • 総選挙の騒ぎを見て、ため息。「分断して統治せよ」と、ローマの皇帝たちは云った。「敵を分断せよ」は支配者たちの鉄則。そして「敵の敵は味方」なのである。 民進党、立憲民主党、希望の党………みごと分断されている。互いに罵り合っている。共通の敵をすっかり忘れて。テレビのコメンテーターですら互いにいがみ合ってる。「あべだとう!」のみで手を組めば、それでいいのに。                ◆◆ ………とい [続きを読む]
  • ●羽黒山五重塔にて、日本の塔を懐かしく…塔っていいなぁ
  • 出羽まで駆けてきたならば、ここへも行かねば。さまざまな写真で見ても、いつも光を浴びて輝いているあの塔を見なければ。出羽三山・羽黒山の五重塔へ。 おぉ、深山幽谷、深い杉林の森に包まれてまさに輝いて見えた。 天候にも恵まれ木漏れ日がまた。 もちろん国宝、南北朝時代の創建で、高さ29?、こけら葺。 細かな細工もすごい。周囲の巨木の杉木立もすごい。 あの奈良の室生寺の五重塔も木々に包まれて光っていたが、高さは [続きを読む]
  • ●奥州平泉に向かう義経一行に出会った「念珠の関」
  • 出羽に来たならばここに寄らねば。「古代の奥羽三関」のうち、念珠(ねず)の関。あれ、こっちがあの義経・勧進帳の本家の関所ということか?? かくして、常陸の勿来の関、磐城の白河の関、 ついに羽前の念珠の関の三関を踏破! やったぁ!おめでとう(自分で自分に言うあたり泣ける) しかしあの勿来の関は、さまざまな歌人・俳人が詠んだのに、ここ念珠の関はあの芭蕉すら句を残していないみたいで残念。なんか感慨 [続きを読む]
  • ●長駆、一路疾走「象潟や 雨に西施が ねむの花」
  • 突如突然思い立って、出羽の象潟(きさかた)へいざ、一路疾走。秋田県、日本海側、にかほ市へ。………ン十年前の高校時代の、かなりはっきりした記憶。古文の授業で芭蕉の俳句、「象潟や 雨に西施(せいし)が ねぶの花」の解説話を聞いた。その時だけめずらしくまじめに聞いていたらしい。 「へぇ〜、行ってみたいな、象潟なんてところへ」というわけで、ン十年間の秘めたる念願をついに成就・達成!芭蕉が感動した干潟に松の生え [続きを読む]