Francisco Maximiliano さん プロフィール

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Francisco Maximilianoさん: Verbum Caro Factum Est
ハンドル名Francisco Maximiliano さん
ブログタイトルVerbum Caro Factum Est
ブログURLhttps://ameblo.jp/marco-s/
サイト紹介文カトリック信者の思索。主日の福音やミサ、祈り、典礼、聖母のことなど書いています。
自由文ブログタイトルは「御言葉は人となり給い」という意味。「お告げの祈り」のラテン語からとりました。日頃思うこと、教会生活、聖書釈義など中心に不定期に書いています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供2回 / 365日(平均0.0回/週) - 参加 2011/02/10 06:14

Francisco Maximiliano さんのブログ記事

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  • 時は満ち、神の国は近づいた。
  • 今年の四旬節が始まった。マルコ福音の冒頭にイエスの受洗と荒野での40日間の試み、ガリラヤでの福音宣教の発端が描かれている。 四旬節というと洗礼志願者の準備とすでに洗礼を受けた信者の回心の期間と言われる。四旬節の典礼や習慣はとても象徴的で意義深いが、同時に誤解を招きやすいように思う。どのような誤解か。罪と回心、試練と慰め。 マルコ福音によれば、イエスが洗礼を受けた受けた後、天が開け、霊が鳩のように降り次 [続きを読む]
  • イエスの沈黙命令
  • 次の主日、教会ではマルコ福音の「重い皮膚病」を患った人がイエスによって癒される場面が朗読される。聖書の世界では病は本人や親、もしくは親類や先祖が犯した罪の結果と捉えられていた。よって、関わることを明らかに拒むこと、隔離されて罪人の扱いを受けることは、この当時の文脈にあっては極めて当たり前の態度であった。病人を忌み嫌う事を誰も咎めることはなく、憐れに思う事をあらわにすることは、ひいては同じ罪の傾きを [続きを読む]
  • 傷と闇に価値を与えるイエス
  • 毎年のことなのだけど夏の終わりから秋の始まりまでどうも調子が良くない。かといって調子を良くしようともさほど思わない。なかなか動いてくれない自分の頭と体と、それを焦っている自分とが、なんとか仲良く一つの体で同居してくれればいいやくらいな感じで静かに鈍く暮らしている。 以前は良くなければ、良くなっていかなければならないと強迫的に思ったが、最近はそうは思わなくなった。良さへの衝動は世の中に突き動かさ [続きを読む]
  • マルタの親密さとイエスの新しさ
  • 次の主日教会ではルカ福音10.38-42が朗読される。イエスはマルタとマリアという姉妹のところに訪問するが、当時のユダヤ社会では親族でない女性と一人で話すことや訪問することは常識的にありえなかったようだ。もちろんこの背景には幾つかの理由があるのだけれど、それは一旦置いておいてもイエスのこの行動は非常に新しいものだと言える。もう一つ、律法(トーラー)の勉強や会堂での勤めといったいわゆるみ言葉への奉仕は男性に [続きを読む]
  • 何度も何度もあなたに逢っていたのだよ
  • イエスの誕生の時、王の誕生を知らせる星を見て東方から博士たちがベトレヘムを訪れ、幼な子に黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げたとマタイ福音に記されている。福音書には「マゴイ」すなわち「博士ら」と複数で書かれているだけで人数は書かれていないが、贈り物の数から「三人の博士」として語られている。民間伝承の物語によればこの「三人の博士ら」に加え実は、もう一人の博士がこれまた星を見て、自分の医師としての職業も [続きを読む]
  • 神の計らいはかぎりなく、生涯わたしはその中に生きる。
  • 教会の信心の中で「イエスの聖心(みこころ)」と「神のいつくしみへの礼拝」というものがある。「イエスの聖心」はイエスの心臓のことだが、これは人間に対して燃えがる神の愛の心をシンボル化したものだ。イエスの心臓や聖痕といった傷への信心は12〜13世紀にはすでに見られ、17世紀に現在の「聖心の信心」が確した。現在崇敬される聖心の図表には13世紀以前の心臓や傷への信心の影響が残されており、槍に貫かれた傷と茨の冠が描 [続きを読む]
  • 愛すること。無関心と決別していくということ。
  • この主日、教会ではルカ福7・36〜50が朗読された。新共同訳では「罪深い女を赦す」という小見出しが、本田哲郎神父の訳には「宗教者はイエスをさぐり、『道をふみはずした』女性はイエスを受け入れる」という小見出しがつけられている。本田神父の小見出しにある通り、イエスの時代の宗教者(ファリサイ派の人)はことある毎にイエスの言動をさぐり、あわよくば亡き者にしようとしていた。この会食も言ってしまえばイエスを失 [続きを読む]
  • 倒れても、何度でも、何度でも、起きあがればいいんだ
  •  聖務日課の寝る前の祈りの最後などに歌われる聖母賛歌の中に「Alma Redemptoris Mater」という賛歌がある。公会議以前は典礼暦に合わせて聖母讃歌も割り当てられていたが、現在は復活節に「レジナ・チェリ」を歌うということ以外は自由に選択することができる、と言っても伝統に従って選曲する共同体が多いのではないだろうか。ちなみにこの賛歌、以前はアドヴェントから2月2日まで歌われることになっていた。 それはさておき [続きを読む]
  • 新司祭の初ミサ
  • 先日主日のミサに行ったら、札幌教区の新司祭の初ミサが捧げられていた。予定表に書いてあったのだけどすっかり忘れており(汗)。とーっても綺麗な声で歌ミサを捧げておられました。悲しみにある人とともにあり、慰めの言葉をかけれるものとなりたいとの思いから、叙階記念のご絵には「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。」というルカの真福八端からみ言葉を選んでおられた。悲しむ人、しんどい思いを [続きを読む]
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