嵯峨野の青竹 さん プロフィール

  •  
嵯峨野の青竹さん: 今週の話題から
ハンドル名嵯峨野の青竹 さん
ブログタイトル今週の話題から
ブログURLhttps://ameblo.jp/pandausagi37/
サイト紹介文テーマは「歴史と旅」です。日々の街歩きや小旅行から得たヒントを公開していきたいと思います。
自由文最新号は、「杉下右京は、寅さんを超えた!」
一つ前号は、「日本国債の格下げ」
もう一つ前号は、「神楽坂で花粉症予防」です。

宜しくお願いします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供298回 / 365日(平均5.7回/週) - 参加 2011/03/10 14:54

嵯峨野の青竹 さんのブログ記事

  • 高村光雲一門作「善光寺仁王門」と仲見世
  • 善光寺の参道の緩やかな坂道を上り、最初に潜るのが「仁王門」です。宝暦2年(1752)に建立されましたが焼失し、現在の門は大正7年の再建です。 門の左右に、高村光雲と弟子の米原雲海の作品(仁王像)が見られます。 ”阿形”と”吽形”が、通常とは逆になっています。 「仁王門」を過ぎると「仲見世通り」です。土産ものや信州グルメのお店が並んでいます。善光寺さんの地所で、この”地代”は、善光寺さんの貴重な収 [続きを読む]
  • 善光寺七福神のうち「恵比須と毘沙門天」
  • 「善光寺さんの七福神」をご紹介しています。 「西宮神社」を本社とする「恵比須さん」ですが、長野でも大きな神社です。 いつものように、右手に”釣り竿”を、左手に”鯛”を抱えて、「商売繁盛、家内安全、五穀豊穣、除災開運」などの信仰を集めています。(関西では、”鯛”が最高級の魚です。) この辺り、有名な蕎麦店も多く立地しています。 最後に「毘沙門天」です。 世尊院(釈迦堂)といいます。 「毘沙門天」 [続きを読む]
  • 善光寺七福神のうち「弁才天と布袋さま」
  • 「善光寺七福神」を、順次、ご紹介しています。 まず「弁才天」。 インドの河の女神と言われています。”音楽などの藝能”を司り、「学問と技芸、雄弁と智慧」を授けます。 善光寺さんへ通じる「中央通り」から長野電鉄「権堂」駅へ続く「権堂アーケード」を少し入った「往生院」に祀られています。「往生院」境内の「宇賀弁才天社」は、”権堂の藝能の神”として、信仰を集めてきました。 一方、「布袋」さんですが、「ふじや [続きを読む]
  • 善光寺七福神のうち「大国天と福禄寿」
  • 「善光寺さんの”七福神”」を、ご紹介しています。 「刈萱山西光寺(壽老人)」につづいては、「大国主神社(大国天)」です。 「大国天」は、三宝を守り”戦闘”を司ったインドの神様です。日本では、大国主神として習合し、農産と福徳の神として、民間の信仰の対象となって来ました。 次に「西後町秋葉神社/十念寺(福禄寿)」です。 「福禄寿」は、南極星の象徴、泰山真君を人格化した福と高禄(財運)、長寿の三徳を [続きを読む]
  • 善光寺七福神のうち「かるかや山西光寺(壽老人)」
  • 長野駅から善光寺までの”約2.5Kmの「表参道」”沿いに「七福神」が点在しており、人気です。 此方は、「刈萱山西光寺」と呼ばれる寺院ですが、七福神では「壽老人」の位置付けです。 「壽老人」は”長寿”を象徴する神様で、老子が天に昇り仙人となったとも言われています。 「刈萱山西光寺」の開祖:刈萱上人とその子・石童丸の2人が刻んだ「2体の刈萱親子地蔵尊」がご本尊です。「絵解きの寺」としても有名です。 手 [続きを読む]
  • 北斎支援者/高井鴻山菩提寺「祥雲寺」
  • 「金龍山祥雲寺」。観光バスが列をなす「北斎館」の道路1本隔てた処にあります。北斎を何度も小布施へ招聘した、いわばスポンサーの豪商/高井鴻山の菩提寺です。 高井鴻山は、幕末から明治初期にかけての豪農・文人です。小布施に生まれましたが、祖父が幕府から「高井姓」を与えられるほどでした。 京都に遊学し、梁川星厳・春日潜庵に師事。詩文・陽明学を学びました。後に江戸で、佐藤一斎に入門。嘉永期以降は攘夷論を主張 [続きを読む]
  • 小布施「北斎館」と「栗日記ギャラリー」
  • 小布施は、栗の町。そして、北斎の街です。北斎は、地元の富商”高井鴻山”の招きで、遥々と何度も小布施の土を踏みました。 小布施の中心地。観光客が集中するエリアに「北斎館」があります。 北斎が小布施で描いた”祭屋台天井絵”など、約50点が展示されています。”天井絵を備える「祭屋台」”のほか、肉筆画や版画も展示されています。 小布施は、北斎が晩年に寄留し、”画業の集大成”を図った特別な場所です。 北斎は [続きを読む]
  • 「栗の小道」を散策し「傘風楼」でランチ
  • ”小布施のシンボル・ストリート”「栗の小道」。 「北斎館」から「高井鴻山記念館」の横を抜ける”静かな散歩道”です。足もとには、”小布施の栗の間伐材”が敷き詰められています。 蔵や昔ながらの板塀に沿って歩きます。全長約150mの散歩道です。 「傘風楼」は、老舗の”栗スイーツ店”「小布施堂」の”イタリアン・レストラン”です。 「栗の小道」を眺める”窓際の席”は、人気です。 散歩の後の食事は、美味し [続きを読む]
  • 「小さな栗の木美術館」
  • 小布施は”綺麗に整備された町”、”散策が楽しい街”です。 栗菓子の老舗「桜井甘精堂泉石亭」には、土蔵を改造した小さな美術館もあります。 「小さな栗の木美術館」には、大正から昭和初期の日本画家の作品を中心に収蔵されており、貴重な「洲之内コレクション」の展示もあります。 庭園も整備されており、路地を抜けると、何処へ繋がるのか、散策が楽しみです。                           [続きを読む]
  • 安芸49万8千石を棒に振った「福島正則霊廟」
  • 「三成憎し」の感情が強かったのは事実ですが、黒田長政の口車に乗せられて、「関ヶ原の戦い」で東軍側につき、安芸49万8千石の大大名になりましたが、幕府の”謀略”により「改易」、「川中島4万5千石に左遷」させられた”福島正則”の霊廟が、岩松院にあります。 気力・財力とも、新しい菩提寺を建立するほどのものがなく、既存の「岩松院」の大檀越となり、身の悲運を嘆きつつ、寛永元年(1624)64歳で、亡くなりました。 [続きを読む]
  • 北斎の傑作大天井画”八方睨みの鳳凰図”が残る「岩松院」
  • 信州・小布施。北斎・(福島)正則・一茶縁の古寺です。 小布施駅からは、少し距離があり、バスかレンタサイクルで出掛けます。 まずは、葛飾北斎の力作・大天井画「八方睨みの鳳凰図」です。実に見事な天井画を拝観出来ますが、残念ながら、撮影禁止です。 北斎/最晩年の作品。間口6.3m、奥行5.5mの大画面です。「鳳凰図」は、朱・鉛丹・石黄・岩緑青・花紺青・べろ藍・藍などの顔料を膠水で溶いた絵具で彩色され、周囲は胡粉、下地は [続きを読む]
  • 松代藩の財政改革を担った「恩田 杢」と「真田宝物館」
  • 江戸時代も中期になると、「爛熟期」を迎え、貨幣経済も進み、どの藩も農本主義であるが故に「財政危機」を迎えました。薩長や米沢藩の”財政改革”が有名ですが、松代藩でも18世紀中期、「恩田 杢(もく)」が登場します。 「恩田 杢(もく。木工とも)」は、松代藩家老でした。扶持米不払いによる”足軽不勤騒動”や”増徴反対一揆勃発”に揺れていた松代藩で、「宝暦の財政改革」を主導しました。 幕府から「拝領金1万両 [続きを読む]
  • 松代藩/文武併習の「文武学校」
  • 「文武(ぶんぶ)学校」は、松代藩が設けた文武併習の学校として、安政2年(1855)に開校されました。建物は、嘉永6年(1853)に建築されたものです。松代小学校の校舎として使用されたこともあり、松代の子供たちは、歴史の雰囲気に囲まれて育ちました。 この”由緒正しい文武学校”は、先人の苦労が無ければ、取り壊しにあっていました。大正6年のことです。「新校舎建設案」が提出され、”旧文武学校”は取り壊しの方向 [続きを読む]
  • 幕末の先覚者を祀る「象山神社」
  • 佐久間象山は、文化8年(1811)2月松代に生まれました。東洋の道徳と西洋の藝術や砲術等を教えました。門下生に、勝 海舟(象山夫人の兄)、吉田松陰、小林虎三郎、坂本龍馬など、錚々たる英傑が揃っています。 象山は、死して”神”になりました。そして、「生誕の地」に隣接して「神社」が創設されました。 大正2年、象山殉難50年を祈念して、元大審院長/横田秀雄らが”神社創設”を計画しました。社殿は総檜材桃山式三間 [続きを読む]
  • 真田幸道開基の黄檗宗寺院「恵明寺」
  • 松代第3代藩主/真田幸道開基の黄檗宗寺院です。「恵明(えみょう)寺」といいます。 延宝5年(1677)創建されました。その後、度重なる災禍で焼失しましたが、天保4年(1833)第8代藩主/真田幸貫により、本堂、御霊屋、鐘楼、庫裡などが再建されました。本堂には、幸貫自作の「布袋和尚像」が安置されています。 黄檗宗大本山「萬福寺」開創が寛文元年(1661)ですから、それから”僅か16年後”の当寺開創です。外様生き残 [続きを読む]
  • 昭和19年11月「松代大本営」建設開始!
  • 昭和19年11月11日午前11時。太平洋戦争の敗色が濃いなか、「大本営を松代へ移転する”マ工事”」が着工されました。「いい日、いい月、いい時間」のゴロ合わせだったといわれています。 この日から、昭和20年8月までの8カ月。朝鮮人労働者や地元の人々を動員した”突貫工事”が進められました。 宮内庁と大本営を(地盤が確りしている)松代へ移転し、国民を無視しつつ、一部の組織のみ生き残る作戦が始まった瞬間でした。 「象 [続きを読む]
  • ”松代の三山”と称えられた「山寺常山」邸
  • 山寺常山は、佐久間象山、鎌原桐山と共に”松代の三山”と称えられました。 8代藩主/真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行や郡奉行を務め、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあって、その政務を補佐していました。 「山寺常山邸」は、現在、松代城下に残る門のなかでは「最大」である「長屋門形式の表門」、「表門と渡り廊下で繋がり近代和風建築の秀作である書院」、「神田川の水を引き入れている池(泉水)を湛 [続きを読む]
  • 「象山記念館」in松代
  • ”幕末の傑物”「佐久間象山」製作の”電気治療器”や科学に関する資料、政治に関して述べた記録類、自筆の墨跡類などの関係資料を展示しています。 2階には、象山の”電信実験”に因んで、明治初期から昭和頃までの”電話機”の展示があります。 佐久間象山は、文化8年(1811)、松代に生まれました。老中/海防掛の松代藩主/真田幸貫の「顧問」となり、「海防八策」を提唱。「東洋の道徳、西洋の藝術」を唱え、「象山塾」を開き [続きを読む]
  • ”大審院長”や”最高裁長官”を育てた「旧横田家住宅」
  • 横田家は、松代藩で”150石”の家柄でした。その先祖は奥会津の出身でしたが、18世紀から、此の地に住まいしていたといわれています。 此の「横田家」からは、幾多の秀才が登場しています。まずは「和田 英」。富岡製糸場で教婦まで立身し、「製糸の技術」を松代へ持ち帰り、松代で「製糸業」を広めました。(「富岡日記」の著者) また、横田秀雄は「大審院長」に、その子/正俊は「最高裁長官」に。2代続けて、裁判所のト [続きを読む]
  • 松代/真田家菩提寺「真田山長国寺」
  • ”真田山”の山号を持つ、真田家の菩提寺です。当然のことながら、松代で最高の格式を誇る寺院です。 真田の郷に「長谷寺(ちょうこくじ)」という真田の菩提寺がありましたが、真田氏の松代移封に従い、「長谷寺の住職」が松代へ移り、「長国寺(ちょうこくじ)」を建立しました。 松代藩・初代/信之から12代/幸治まで、歴代藩主の墓があります。 ”伽藍に冠されている「鯱」”は、海津城から移築したものと言われています。 [続きを読む]
  • 信州の”長芋料理”が戴ける「食いしん坊かじや」
  • お昼を戴くため、「真田邸」から「食いしん坊かじや」へ向かいます。途中、真田家重臣の矢沢家の立派な門がありました。 矢沢家は、代々”筆頭家老”を務める1400石取りの重臣でした。流石に立派な門構えです。 さて、「食いしん坊かじや」へ着きました。郷土料理のお店です。 「長芋」は、江戸時代の藩政で、自家栽培が推奨されていました。松代の「定番料理」として、幅広い料理法があります。 お重”三段重ね” [続きを読む]
  • 松代/真田邸(史跡:新御殿)
  • 時代劇の撮影などで、よく利用されています。信州松代の「真田邸」です。 江戸時代の武家屋敷として、よく名残を留めています。 「真田邸(新御殿)」は、元治元年(1864)に、9代藩主幸教(ゆきのり)が、義母の貞松院の隠居所として建築しました。母屋、表門、土蔵7棟、庭園とも、江戸末期の様式をよく伝えています。 明治以降は、真田家の私邸として使用されました。 「座観式庭園」は、四季折り折りの美しい姿を見せ [続きを読む]
  • 真田10万石の「松代城跡」
  • 元和8年(1620)、上田・沼田藩主だった真田信之は2代将軍秀忠に呼び出され、「松代転封」を言い渡されました。沼田2万7千石はそのままで、上田6万8千石に2万3千石を加増するというものでした。 加増とはいうものの、「本貫地の上田」を離れる転封は”寂しい”ものでしたが、「外様大名」である真田氏にとって、幕府の命はやむを得ないもの。 信州最大の大名「真田10万石」の誕生の瞬間でした。 以来、松代は明治維新ま [続きを読む]
  • 謙信&信玄一騎打ち「三太刀七太刀の碑」
  • 謙信と信玄の”川中島の戦い”は、12年間で5度に及びました。そして、最大の激戦は、永禄4年(1561)。謙信と信玄の「一騎打ち」でも有名です。 越後から川中島へ進出した謙信は、妻女山へ陣取りました。八幡平に陣取る武田軍を尻目に、奥深く入り込み越後を睨む形で陣取りました。 武田軍は軍師/山本勘助の進言により、「啄木鳥戦法」に出ることとします。総勢2万人を2手に分け、1万2千の軍勢で妻女山を襲う。驚いた謙信 [続きを読む]
  • 「川中島/八幡古社」
  • 「甲駿相三国同盟(武田・今川・北条)」により信州への侵略行動を取る信玄と信州各武将に泣きつかれた謙信の「川中島の戦い」は、12年にもわたり、5回の死闘を繰り広げました。 なかでも永禄4年(1561)の「第4回川中島の戦い」は、両軍が総力で闘う最激戦でした。 信玄は「啄木鳥戦法」を取り、妻女山に籠る謙信を、1万2千の兵で攻めました。信玄本陣の8千と”挟み撃ち”にするつもりでした。 しかし謙信は機先を制し、 [続きを読む]