たつや さん プロフィール

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たつやさん: いにしえララバイのブログ
ハンドル名たつや さん
ブログタイトルいにしえララバイのブログ
ブログURLhttps://blogs.yahoo.co.jp/hs_anriver
サイト紹介文いにしえララバイのブログは、古代歴史小説と日本の起源をテーマにした古代史の記事を掲載しています。
自由文たつやのいにしえララバイのブログ以外の4つのブログ。
ソフトコレクションのブログ(ソフトの紹介)
http://blog.livedoor.jp/tf_collect/
たつやの料理教室(レシピ集)
http://ameblo.jp/tf-cook/
たつやのブログ(たつやのコメント)
http://blogsyahoocojphsanriver.blogspot.com/
たつやの私的情報室(インターネットの機能等の紹介)
http://blogs.yahoo.co.jp/fujimakitatuya

参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供34回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2011/03/12 11:47

たつや さんのブログ記事

  • 辛酉という暦と神武天皇の真実
  •  日本に西暦(太陽暦・グレゴリオ暦)が入って来て、正式に使用されるようになったのが明治6年のことでした。それまでの皇室や武家を除いての人々は、十干十二支を使用し、60年で一周する軌道になっていました。甲乙丙・・の十干と子丑寅・・の組み合わせによってその年を表現していました。この十干十二支は、中国の殷王朝の時代に発明され、甲骨文にも使用されていたようです。日本に十干十二支が入って来たのは、第33代推古天 [続きを読む]
  • 崇仏派と排仏派との真実は、ヤマト王権の権力争い
  •  仏教公伝は、百済の聖明王から第29代欽明天皇の時代とされています。その時に天皇の側近であったのが、大臣の蘇我稲目でした。蘇我稲目は、第27代継体天皇の大臣、巨勢男人から大臣職を引き継ぎ、536年に第28代宣化天皇から務めていた。その当時の大連は、物部尾興で、ヤマト王権内で大臣と大連の権力争いがなされていました。 大臣も大連も古くからのカバネで。大臣は、『先代旧事本紀』によると第4代懿徳天皇の時代に申食国政 [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第5章 百花繚乱 第6節
  •  「先生、徐福茶、飲んでくださいね。長生きして頂かないと。それで、徐福の日本渡来はわかりましたが、徐福伝説なのです。私が育った新宮には、1,700年から1,600年前に掛けて飛鳥山の麓に集落があって、阿須賀神社の境内に弥生式竪穴住居跡があって。」 「ふぉ、4世紀から5世紀の頃だね。邪馬台国の卑弥呼が亡くなって、臺與の頃から倭の五王までの失われた4世紀の時代ですね。」 「阿須賀神社はその頃に創建されたと思う。神 [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第5章 百花繚乱 第5節
  •  俊樹と晴美は、阿須賀神社を参拝した後、熊野川の沿岸に出た。 「ねぇ、俊樹、大学を卒業したら新宮に帰ってくるの。」 「今のところわからない。」 「将来、何がしたい。」 「学校の先生にでもなるか。大学で教員課程を選択しているから。」 「東京に何時戻るの。」 「明日、たつや先生にも言われているので熊野三山に。そして、明後日にでも戻ろうかと。」 「もう、戻っちゃうのね。」 俊樹と晴美はたわいもない会話を [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第5章 百花繚乱 第4節
  •  晴美が歴史民俗資料館の扉を開けようとしたとき。 「しょっと、待って。」 「どうしたの。」 俊樹は、階段を半分上がっていたのにUターン。 「あの標識を見てくる。」 「弥生式竪穴住居跡ね。」 「この辺りには、1,700年から1,600年前の集落があったらしい。堀立柱建物跡が4棟、竪穴式住居跡が10棟も。かなり大きな集落だ。それにあの煉瓦の形からみて、隅丸方形・長方形住居のようで、カマドも設置されていたようだ。古墳 [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第5章 百花繚乱 第3節
  •  俊樹は、もう陽が落ちようとしているときに家に着いた。母親は俊樹のために食事の用意も終え、テーブルには俊樹の好きな肉料理が並べられていた。 「ただいま。」 「お帰り。遅かったね。さぁ、お風呂に入って着替えなさい。そうそう、晴美ちゃんに会った。この間、バッタリあって俊樹の話をしたら、駅まで向かいに行きますといっていたけれど。」 「駅に着いたら待っていたよ。そして、徐福公園をぶらぶらして。明日、阿須賀 [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第5章 百花繚乱 第2節
  •  俊樹が新宮駅に着いたとき、彼女、立花晴美が駅の改札口で待っていた。 「お帰り。東京からだと時間がかかるね。私、もうここで小一時間も待っていたのよ。」 「スマホで到着する時間をメールで送っておいただろう。」 「でも。早く着いたらと思って。ゆっくりできるのでしょ。」 「それが。大学のたつや先生から宿題をもらって。」 「宿題。それ何。」 「新宮に帰ったら、徐福の伝説を調べてくるように。」 「徐福公園に [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第5章 百花繚乱 第1節
  •  松井俊樹は、大学の行き帰りに電車の中で、持ち歩いている書籍があった。丁度座っている前に良祐が。 「俊樹、何を読んでいるのだ。」 「良祐ではないか。」 「関裕二さんの『物部氏の正体』だよ。新潮文庫だけどね。」 「関さん、歴史評論家だよね。天皇家や蘇我氏のことも書かれていますね。」 「一度、たつや先生に聞こうと思っている。関さんこと。」 「では、先生のところに一緒にいって聞こうよ。」 青柳良祐と松井 [続きを読む]
  • 済州島と日本との関係
  •  「北朝鮮と韓国とが平和的に統一」という現在の話題に合わせて、済州島と日本との繋がりを探ってみたい。 戦中から「建国同盟」を結成していた親日派の呂運亨が終戦の1945年8月15日にその当時の朝鮮総督府の遠藤柳作から朝鮮の政府樹立を目的にして、「朝鮮建国準備委員会」を託され立ち上げた。その中には親米派で全州李氏出身の李承晩もソ連の傀儡政権としての朝鮮労働党の金日成も参加していた。9月8日に朝鮮半島に上陸した [続きを読む]
  • 黄金の国、JAPANと漆器のJapan
  •  私達の国名表記には、全くたくさんありますね。国内では、日本という漢字で統一されていますが、読み方としては「ニッポン」と「ニホン」とがあり、国際大会のスポーツで応援するときは、海外の人にアピールするために「ニッポン」と言い、正式な記述、たとえば憲法では「ニホンコクケンポウ」と発音しています。海外から日本を表記する場合、「JAPAN」とされ、略されて「JAP」とされたりします。この略語「JAP」と言う言葉が差 [続きを読む]
  • ヤマト王権時代の氏名を探る
  •  現在、日本人は各氏名を持ち、先祖代々その地で生活しておられる方や生活基盤のために大都市に移住しています。でも、明治維新前の日本では、武士以外は氏名を持たず、実際には農民、商人、職人は姓名があっても隠されていて、先祖からの言い伝えにより、氏名が存在していました。そんな江戸時代には、姓名がないので、その地名の○○と名乗っていました。明治時代になって、すべての人が氏名を名乗ることができるようになり、先 [続きを読む]
  • 画文帯神獣鏡とヤマト王権の関係
  •  全国各地の古墳から出土される三角縁神獣鏡は、邪馬台国の卑弥呼が楽浪郡に使者を送り、魏の第二代皇帝、明帝(曹叡)から頂戴した100枚の鏡ではないかと言われています。この三角縁神獣鏡は日本では100枚以上発見され、日本で模造されたのでは。三角縁神獣鏡は中国で発見されなかったこともあって、その様な疑いをかけた学者もいました。しかし、2015年に中国の骨董市で三角縁神獣鏡が発見されたことにより、魏の時代に製造され [続きを読む]
  • 諏訪湖付近の遺跡からみる縄文時代をリードした人々
  •  諏訪湖周辺の遺跡で最も古いのは、今から2万年から3万年前の八ヶ岳連峰中の冷山山ろくに位置し、茅野市奥蓼科渋川温泉東方に展開する先土器時代の渋川遺跡と、諏訪市湯ノ脇にある、温泉寺高島藩主廟所の上の丘陵から谷筋にかけて残された旧石器時代の遺跡、上ノ平遺跡や茶臼山遺跡・北踊場遺跡などがあります。3万年前ですから、その頃、日本列島およびその周辺では、海岸線の低下によって北海道と樺太、ユーラシア大陸は陸続き [続きを読む]
  • Y染色体(O1b2)移動経路と稲・青銅器・鉄器の伝達
  •  日本人の男性Y染色体には、一橋大学名誉教授、野中郁次郎先生の2007年の統計では、D1b(38.8%)、O1b2(34.3%)、O2(16.7%)、C(5.3%)、O1a(3.4%)、N(0.8%)、D1a(0.4%)、Q(0.4%)となっています。D系列とC系列は約6万年前にDEとCFから別れたので古く、孤島となった日本列島に残っている系列です。後期旧石器時代(約3万年前)から受け継がれている系列で、縄文人にもこの2つの系列は受け継がれていました。O系 [続きを読む]
  • 日本文化の根源を求めて
  •  日本文化は、一体何処から来たのでしょうか。世界で一番平和な国。そんな国になってきた日本ではありますが、それには長い歴史があり、一概には言えない。現在の日本の国民性や文化は、江戸時代に築かれたと言われる方もおられるでしょう。日本の食文化の基本は稲作ですし、宗教観にしても基本は仏教。文字も漢字。これすべてが中国から渡ってきたものばかり。現在でこそ、日本文化の独自性が強調されていますけれど、実際はすべ [続きを読む]
  • 須恵器と神功皇后
  •  縄文土器、弥生土器、土師器と時代によって変化してきましたが、これらの土器はすべて野焼きによるものでした。粘土状の土を縄で巻き付け、土器の形を決めていき、表面の形を残して、内側の土を取り除く。それが、古墳時代に朝鮮半島から入って来た、回転可能な円形の板で台を作り、その台に粘土状の土を乗せ、回転しながら形を整えていく轆轤(ろくろ)が入って来て、野焼きの代わりに登り窯に。須恵器は轆轤と登り窯によって古 [続きを読む]
  • オノゴロ島と大八島神話とヤマト王権
  •  『古事記』や『日本書紀』にイザナキとイザナミが国産みを行う話とこの神話を作成したヤマト王権について検証してみたいと思います。この検証で、ある仮定のもとにお話しますので、実際のところは不明。「ヤマト王権が九州からやって来て、奈良県桜井市の纒向に政権基盤を置いた。」と仮定します。 纒向遺跡から4km程離れた奈良県磯城郡田原本町に唐古・鍵遺跡があり、この遺跡から弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物 [続きを読む]
  • 古墳の発生と水田治水
  •  世界最大の前方後円墳は、言うまでもなく大阪府の堺・百舌鳥にある大仙御陵古墳ですね。昔は仁徳御陵と呼ばれていましたが、宮内庁が設定した御陵名で実際には仁徳天皇が眠っていることが分からない。日本最古の古墳、最初に出てくるのが奈良県の纒向古墳群にある3世紀中頃の箸墓古墳だとよく言われますね。最近の調査では、同じ纒向古墳群の纒向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳が箸墓古墳よりも50年 [続きを読む]
  • ヤマト王権の土蜘蛛退治と邪馬台国の卑弥呼
  •  『古事記』神武紀や『日本書紀』神武・景行・神功の3紀に「都知久母(つちぐも)」が見られる。ヤマト王権が奈良・桜井の纒向集落を起点にして勢力を増していた頃、各地にはヤマト王権に従わない勢力があった。その勢力を「都知久母(つちぐも)」と言ったらしい。記紀が編纂された後に「都知久母(つちぐも)」が土蜘蛛と表現されるようになったようです。土蜘蛛は、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑・豪族・賊魁などに対す [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第4章 永永無窮 第4節
  •  ケイコの米の発表が一区切りついた時、たつやはケイコと交代して教壇にたった。 「ケイコさんの発表でも解られたと思いますが、米が日本で食べられるようになったのは、中国で稲作が開始された時期とそんなに変わらないのではないか。中国の浙江省の河姆渡遺跡から紀元前5,000年頃の水田跡が発見され、その水田の周りに集落が形成されています。この頃、日本でも青森県の三内丸山で集落が発生し、200人以上の縄文人が共同生活を [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第4章 永永無窮 第3節
  •  たつやも教壇から戻り、ケイコの米の発表を聞くことにした。 「先生が言われたサティバ種のジャパニカ米は、熱帯ジャポニカ種のことで、現在でもインドネシアやアジアの熱帯地域では行われている耕作方法(陸稲)で栽培されています。この熱帯ジャポニカ種の弱点は、温帯ジャポニカ米に比べて、脱穀しやすくその関係もあって、それと稲穂の背が高いため脱穀する前に種子が落ちてしまい、生産量が低い。それと、寒さに弱かったの [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第4章 永永無窮 第2節
  •  教壇に立ったたつやは、笑みを浮かべながらケイコが続けようとしている言葉を止めた。   「ケイコさん、よく調べてきたね。現在、イネ科で生存しているのは22種類で、栽培されているのは西アフリカで一部稲作が行われているグラベリマ種と殆どがインディカ米、ジャポニカ米、ジャパニカ米のサティバ種。東南アジアのアッサム、雲南地方にわたるヒマラヤ山麓で紀元前7,000年〜紀元前6,000年に栽培し始めた品種。これが現在の定 [続きを読む]
  • たつやの古代旅日記 第2章 永永無窮 第1節
  •  青柳良祐と松井俊樹は、今年最後のゼミ「日本人起源論」を受けるため大学に。二人とも時間待ちのために大学の学生食堂に立ち寄っていた。 「俊樹、ここにいたのか。」 「良祐、たつや先生のゼミを受けてよかったと思う。」 「なぜ、そんなこと聞くの。当然、いいに決まっているのに。」 「ぼく、天皇家や物部氏や蘇我氏の起源を調べたいのに先生はその辺りのことを教えてくれないので。」 「実家が福岡の糸島だろ。この間、 [続きを読む]
  • 多鈕細文鏡と銅鐸の伝達と神武東征と同じ経路
  •  鏡として注目されているのは、邪馬台国の卑弥呼が魏の明帝から頂戴したという三角縁神獣鏡ですけれど、それ以前の時代にも銅鏡が存在していました。福岡の早良平野の中心部、貫流する室見川の中流左岸に立地し、西には飯盛山が。この地に旧石器時代から中世にいたる吉武遺跡群あり、その遺跡群の中の吉武高木遺跡の特定集団墓の3号木棺から銅剣2・銅矛1・銅戈1・ヒスイ製勾玉1・碧玉製管玉95と多鈕細文鏡が発見されています [続きを読む]
  • 稲作の普及と日本語の確立
  •  現在、水田跡の最古のものとしては、縄文時代晩期の佐賀県唐津市にある菜畑遺跡でおおよそ3,000年ほど前とされています。その当時の日本各地の人口は、小山修三先生によると日本全体で161,000人、九州では10,000人、もっとも多いのは関東の52,100人、その次が東北の43,800人、のちにヤマト王権があった近畿ではわずか4,400人だったそうです。縄文時代の主流の日本人は、東日本であったことがわかります。縄文時代中期の東北の繁 [続きを読む]