yichintang さん プロフィール

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yichintangさん: いーちんたん−−北京ときどき歴史随筆
ハンドル名yichintang さん
ブログタイトルいーちんたん−−北京ときどき歴史随筆
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/yichintang
サイト紹介文胡同や清朝のマニアックな世界へ。北京をめぐる歴史や日常を綴る。
自由文カテゴリーごとにまとめて読んでください。
胡同物語、アパート内装の顛末、西安旅行などをアップしました。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供44回 / 365日(平均0.8回/週) - 参加 2011/05/27 12:48

yichintang さんのブログ記事

  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語29、たとえば耶律楚材
  • 異民族に「参謀」としてつき、「抑止力」の行使に尽力した人物としては、チンギス・ハーンの元にいた耶律楚材が思い出される。中原から漢人をすべて追い出して草原にして羊を飼う、と言い出すようなレベルのモンゴル人に、農民から租税を取ることがどんなにわりのいい儲けになるか、懇々と説得する、といったことに至るまで「抑止力」の行使に努めた。ある意味では、彼が純粋な漢人ではなく、漢文化の教養も備えた契丹人だったから [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語28、ぶたれる前に
  • ぶたれてから「痛い」と初めて知るのではなく、何をしたらぶたれるか、ぶたれたら痛いだろうなあ、ではぶたれないようにしたほうがいい、そのためにはどうしたらいいのか、と思考できるのが、権謀術数の渦巻く中原文化の教養である。李儒がこの故事を出したというのは、史実ではない。なぜなら周知のとおり、三国志の中で唯一貂蝉だけが架空の人物であり、歴史上存在しないからだ。その貂蝉を奪い合う主従二人のために説得した言葉 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語27、あの董卓でさえ
  • 残念ながら、人間の生存条件の限界をいく極寒の満州の地において、この時点でドンシャン(董山)らにその役割を果たす教養のある持ち主は、召し抱えられなかったらしい。たとえ、彼らが日々さらって来ている漢人や朝鮮人の中にそんな教養の持ち主がいたとしても、女真族のリーダーたちは、大きな舞台に出たこともなければ、その必要性も感じず、そのまま牛馬のごとき労働力として、かれらを飼い殺してしまうまでだろう。「参謀」例 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語26、非儒教集団に接する戸惑い
  • ここに儒教を背景にした価値観を持つ集団とその価値観がまったく通じない非儒教集団の接する戸惑いがある。儒教はよく統治者のための論理というが、ある意味の「抑止力」がある。儒教が統治者側の理論として、生き残ることができたのは、ほかの諸子百家と比べ、独自の歴史観を持つからであろう。過去の経験を未来への反省として生かし、「学習機能」を備えることを目指す。中原世界では、たとえ文盲の教育を受けたことがなく、自分 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語25、明おそるるに足らず
  • 女真側は、明おそるるに足らず、という思いから、明の朝廷で暴言を吐いたり、抜刀するなどという身の程知らずなことをやり、その末路がどういうものになるか、想像する思慮さえ欠けていたのである。今日の我々から見ると、巨大な明帝国を相手にした不遜なる行動の数々は、風車に突進するドンキホーテの如く正気の沙汰とは思えないが、それは後世の人間だから見えることである。もちろん今追っているのは、清の太祖ヌルハチの家系で [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語24、覚悟を決めて挑む明
  • ここまでの狼藉を働かれては、明も討伐軍を差し向ける決定がなされるまで時間はかからなかったことは、いうまでもない。逆にいえば、明側は女真族らに勅令を出した段階ですでにこの日を覚悟しており、その用意もできていたともいえる。前述のようにここまで女真族側が明を見くびるようになったきっかけは、皇帝がモンゴルの捕虜になってしまった土木の変である。 その後もエセン・ハーンが北京城を包囲するなどの危機が続くが、北 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語23、女真族使節、紫禁城で大暴れ
  • その後の朝廷の賜宴では、悪態をつく部下の指揮使もあり、その態度についても、再び明の成化帝の叱責を受けたのだった。女真族側は、一度ならずも二度も面子をつぶされ、怒り狂った末に刀を取り出し、殺してやるなどといった暴言まで飛び出した。近衛兵の見張りがにらみを効かせている中で、直ちに制止されたのはいうまでもないが、なんともあきれた野蛮人ぶりである。 それだけではない。董山らが服従の意を表して入朝している最 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語22、女真族、明から叱責を受ける
  • 明の朝廷は、女真族の朝貢団を迎えると、まずは勅諭で叱責した。これまでの非を責め立て、過去のことは不問とするが、再び繰り返した場合は、容赦しない、と。幾重にも防衛網が整った宮殿の中で言われては、これに服するしかない。入朝した女真族の一団を迎えたのが紫禁城の中だったのか、その周辺の官公庁だったのかは定かではないが、少なくとも紫禁城の外側を取り囲む「皇城」の中であろう。六部の行政役所は、ほとんどが皇城に [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語21、明の兵力規模
  • 明の朝廷が、成化三年(一六四七)正月、女真側に使者を送ったのは、対モンゴルの混乱がようやく収束し、他の問題に目を向ける余裕ができたからであった。明から使者が来て、意見をされたことでさすがにまずい、とドンシャン(董山)も思ったらしい。明を本気で怒らせて大軍を差し向けられるのは、どうにもまずい。明の軍隊は、兵数の桁が違う。土木の変で動員した兵力数は、五十万人。世界的に見ても、他の地域と比べたら、確実に [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語20、土木の変後の混乱の隙にやりたい放題
  • 明の朝廷が、いつまでもこの状態を座視しているわけはない。土木の変に伴う一連の混乱が落ち着いた成化三年(一六四七)正月、明は、錦衣衛帯俸署の都指揮使・武宗賢を通して、ドンシャン(董山)らに警告を出す。これまでの不法行為は、今後改めるなら許す、と。明の朝廷が、ようやく動いたのである。明の朝廷は、土木の変後、しばらくは大混乱に陥っており、辺境の少数民族が少々悪さをしようが、とてもそれにかまっている余裕は [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語19、女真族による拉致、膨大
  • こうして朝鮮は、女真から逃亡してきた漢人を大量に受け容れることとなり、彼らを明の領域である遼寧までたびたび護送した。その数は、明初の洪武二十五年から景泰三年(一三九二から一四五二)までの六十年で八百三十人にものぼる。もちろん朝鮮領地まで逃げおおせた人たちは、たまたま幸運だったが、その背後には、逃げられずにそのまま使役されていた人たちの方が、膨大な数にのぼったことだろう。朝鮮から一度に千人の奴隷を捕 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語18、朝鮮に逃げ込む拉致被害者たち
  • 女真族による人間の拉致例をいくつか挙げてみよう。朝鮮の「李氏実録」には、次のとおり記録する。「建州衛の李満住の子リジナハ(李吉納哈)の奴僕・朴右は、 建州地区から逃げ出し、朝鮮に逃げてきた。 曰く、自分は遼寧(つまり明の領土の漢人)の人間だが、 李満住の部下の李雄に捕虜にされた後、リジナハに転売され、奴隷として使役されていた、 少しでも失敗するとひどい折檻を受けたので、耐えられず、逃げたという」ま [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語17、土木の変で明の権威失墜
  • 建州女真の中心的人物となったドンシャン(董山)は、これまでにも増して激しく、外部勢力への略奪を行うようになる。李満住、ファンチャ(凡察)らとともに、朝鮮、明の国境を侵しては、略奪を働いた。壮丁(成人男子)が多く、武力の強い酋長は、他部族を略奪するようになるのが、女真人の社会の普通の概念である。明に対する略奪の傾向が特に激しくなったのは、明の正統年間の「土木の変」以後のことだった。 「土木の変」は、 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語16、ドンシャン頭角を現す
  • この間、ドンシャン(董山)は明朝に何度も入朝し、朝貢を行ったことで貿易により実力を蓄えていく。ドンシャンは李満住、ファンチャと比べ、一世代若い。そのために老いた指導者の元で動きが鈍くなっていたほかの二衛に比べ、一気に実力を伸ばしたのだろうかと思える。社会構造が単純な社会であるほど、リーダーの年齢により、一気に実力が逆転することも起こりうるということだろう。これが大規模な帝国を形成する明朝であれば、 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語15、明の永楽帝に女真族の妃あり
  • 明の正統六年(一四四一)の時点で、建州女真は三つの衛に分けられる。最も豊かな建州衛は、アハチュの子孫である李満住が管理する。アハチュの娘は、皇子・燕王だった時代の永楽帝に嫁ぎ、妃の一人となる。そのために舅であるアハチュは永楽帝に重用され、「李思誠」の漢人名を賜う。これ以後この家系は女真族でありながら「李」姓を名乗り続け、「建州衛李姓」として、存続し続けるのである。モンケ・テムールが朝鮮から明朝へ帰 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語14、モンケテムールの死
  • モンケ・テムールの死は、明の宣徳八年(一四三三)であった。日本風にいえば、「畳の上で死」ぬこと叶っていない。女真の勢力の一派であるヤンムダウの率いる勢力を明の官軍とともに討伐し、その復讐で殺された。この時にモンケ・テムール、その長男の阿谷(アグ)が戦死し、次男の董山(ドンシャン)と阿谷の妻は、敵側の捕虜となった。 戦いに明け暮れる生活形式はまさに乱世だ。その根本には生産性の低さがある。少ない資源を [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語12、明の北辺警備を担う
  • 永楽二十年(一四二二)三月、永楽帝は大軍を率い、モンゴル北元の和寧王アルタイ(阿魯台)を撃つ。このときモンケ・テムールは、一族の荘丁を率いて従軍した。一連の活躍を評価し、永楽帝は次々とモンケ・テムールの位を上げていく。最終的に宣徳八年(一四三三)には、右都督まで昇進した。モンケ・テムールは、同時に朝鮮との関係も維持する。前述のとおり、朝鮮から出兵された場合、数日のうちに到着するほどの近距離に存在す [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語11、ついに明の臣下に
  • 朝鮮王は、永楽帝直々の叱責を伝える使者の言葉を聞くと震え上がり、モンケ・テムールを北京まで送り届けるための護衛団を派遣した。ところが護衛団が慶源に到着すると、モンケ・テムールと明の使節団の一行は、すでに国境を越えて北京に向かったあとだった。朝鮮王はその報告を聞き、青ざめるが、後の祭りである。 こうしてモンケ・テムールは、明の正式な官職を授かる。永楽帝より建州衛指揮使を任命され、正式な印信(正式な公 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語10、明の使者・王教化ふたたび
  • 進退極まり、迷っているところに、それを察したかのように再び明側から使者の王教化がやってきた。曰く、明の朝廷から官職を授けるから迎えにきたという。つまりは明朝の護衛団に守られて北京に入り、そのまま正式な中央官僚としての身分が与えられるということである。明の正式な軍隊に守られているモンケ・テムールを道中で襲うほどの荒唐無稽なことを朝鮮側がするわけはなく、そうやって去っていったモンケ・テムールの部落を襲 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語9、明と朝鮮のはざまで
  • 明朝に帰順を誘われる一方で、朝鮮には強く引き止められ、モンケ・テムールは決断を迫られる。朝鮮に渡ってからすでに二十年以上の時間が流れており、それなりに安逸な生活を過ごせた。しかしこのままでは、永遠に故郷である満州の地に戻ることはできない。また明朝は大国であるだけに外敵が来たときの保護、天災で食糧難となった時の援助なども大規模なものが期待できる。しかし明が成立し、皇帝が二代も替わっているのに、挨拶の [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語8、朝鮮側の懐柔
  • 朝鮮としては、明朝を宗主国として仰いでいる以上、女真族らを呼び戻す使者に真っ向うから抗議するわけに行かない。そこでまずはモンケ・テムール側には、懐柔作戦に出た。この時期に奇しくも、慶源などの地の軍万戸を管理する印信を授与し、清心丸、蘇元丸、木綿布、白寧布を下賜している。 清心丸、蘇元丸はともに漢方薬、今でも北朝鮮の特産品である。清心丸は朝鮮人参を主成分としており、解熱に効く。生産性の低い時代には、 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語7、永楽帝が呼び戻しに
  • 明初の永楽年間に入ると、情勢がやや変化してくる。永楽帝は首都を北京におくことにより、それまで南方に置かれていた帝国の重心を大きく北に傾けることになる。 自らも幾度にも渡り、モンゴルに遠征した永楽帝は、北方の防衛を何よりも重視しており、東北地方もできるならモンゴル族以外の、モンゴルの勢力下にない部族らに住んでほしいという事情があった。 そこで戦乱で東北から離れてしまった女真族を呼び戻す動きが始まる。 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語6、モンケテムール、朝鮮の配下に入る
  • モンケ・テムールは、先に入植していた女真族らに倣い、高麗王に朝貢し、臣下の礼を取ることでその身の安全を保証された。その後、現地の都指揮使・李成桂の行政管理下に入った。ところがこの李成桂がのちに高麗から独立し、李氏朝鮮を打ち立てることとなる。モンケ・テムールは李成桂の独立戦争に参戦し、一族の壮丁を率いて従軍したという。このように李氏朝鮮の創立にも直接関わり、モンケ・テムールは朝鮮との関係を深める。自 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語5、モンケテムール、朝鮮へ避難
  • モンケ・テムールが登場するのは、元代の末期である。東北地方も元朝の五つの「万戸府」を行政単位として、支配下に置かれていた。ところが元朝が崩壊し、順帝が大都(北京)を放り出して「北帰」すると、東北地方を治める勢力がなくなり、地域全体が空白の無政府状態と化した。曲がりなりにもあったパワーのヒエラルヒーによる抑止力のたがが外れ、互いに戦争を仕掛け、人間、家畜を奪い合う大混乱状態となった。 故郷のかかる惨 [続きを読む]