yichintang さん プロフィール

  •  
yichintangさん: いーちんたん−−北京ときどき歴史随筆
ハンドル名yichintang さん
ブログタイトルいーちんたん−−北京ときどき歴史随筆
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/yichintang
サイト紹介文胡同や清朝のマニアックな世界へ。北京をめぐる歴史や日常を綴る。
自由文カテゴリーごとにまとめて読んでください。
胡同物語、アパート内装の顛末、西安旅行などをアップしました。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供47回 / 365日(平均0.9回/週) - 参加 2011/05/27 12:48

yichintang さんのブログ記事

  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語45、ヌルハチの祖父と父の死の謎
  • 清の『実録』によると、ジェチャンアは、一人で敵側アタイの要塞にもぐりこみ、孫娘を救い出そうしたという。しかし要塞では、夫のアタイがこれに同意しなかった。すったもんだの押し問答をしているところへ、なかなか戻らぬ二人にしびれを切らせたタクシもやってきたが、この直後に要塞は陥落し、明軍に無差別に殺されてしまった、・・・・・というのである。これはあきらかに絵空物語とは言えないか。砲弾や矢、石が雨あられと激 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語44、ワンガオ一家とジェチャンア一家の因縁
  • ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)と父タクシ(塔克世)は、この戦いで戦死したという。なぜ道先案内人として、明側に協力していたはずのジェチャンア父子が、ワンガオ討伐で、いきなり「戦死」したのか。史料の記述は、いよいよ支離滅裂になってくる。この二家族の関係は、確かに哀しき縁(えにし)の絡まりの中にあった。ジェチャンアの長男リトン(礼敦)の娘が、ワンガオの息子アタイに嫁ぎ、アタイの娘がヌルハチの父タク [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語43、ワンガオ一族の滅亡
  • 明の万暦三年(一五七五)八月、ワンガオは北京にて磔(はりつけ)の刑となり、処刑される。この時の明の朝廷の喜びようは大変なものだったと伝えられる。当時十三歳だった神宗(万暦帝)が、太廟で祝いの祭祀を行ったほか、荘厳なる捕虜献上の式典が執り行われた。ワンガオがその筆頭として、文武百官の前を曳きまわされたのは、いうまでもない。文武百官が参列し、二十年に渡る辺境の災いの元の解決を祝った。しかしこれに深く恨 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語42、ワンガオ捕らわれる
  • 明の万暦二年(一五七四)十月、明軍の総兵(将軍格)李成梁は、数万の兵を遼東の各地に駐屯させた。一方、ワンガオ(王杲)は騎兵三千人を率い、五昧子に攻め入った。しかし明軍が逆にこれを八方から包囲、驚いたワンガオは衆を率い、自身の要塞に戻った。要塞は険しい山の地形を生かし、断崖絶壁の山の上に作られている。さらに深い外堀があり、防護の樹の柵も幾重にも設けられていた。李成梁はワンガオの要塞前にあった樹の柵を [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語41、寧古塔貝勒ニングータ・ベイレ
  • ジェチャンア一族の強みは兄弟が多いことだ。厳寒の気候、かつ生存条件の酷なる満州の大地において、人口を増やすことは、困難に困難を極める「技術」だ。成人男子を一族の中に何人抱えるかで一族の勢力に大きな差が出てくる。だからこそ、手っ取り早く漢人や朝鮮人をさらってきてしまうのだが、それだけ満州の自然環境の中で、人間を成人になるまで育て上げることが困難なのである。その中で、ジェチャンアには長兄ドシク(徳世庫 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語40、ワンガオの勢力
  • 歯切れが悪いなりに話を続けて行く。ジェチャンアは明の将軍(都督同知)李成梁に辺境の動向を知らせ、ワンガオ討伐に全力で貢献する。この行動がワンガオに大きな打撃を与えたことはいうまでもない。ワンガオ(王杲)が東北で二十年以上に渡り、周辺を席巻できた理由として、二つ挙げることができる。一つは建州女真部、モンゴルのトメト部、タイニン(泰寧)部、リャンヤン(梁顔)部と連合することができたこと。もう一つは断崖 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語39、ジェチャンア明に降る
  • ここに至り、明もさすがに堪忍袋の緒が切らし、大軍を派遣すると警告してきた。ヌルハチの祖父ジェチャンア(覚昌安)は、それまでワンガオの姻戚として、襲撃活動に一族の壮丁どもを率いて参加してきたが、ここで、はたと考える。わずか千人の勢力で明の大軍に対峙し、一族皆殺しに遭うか――、それとも敵に降伏するか――。ジェチャンアは、降伏するほうを選んだ。明の遼東総兵官の都督同知・李成梁の元に降ったのである。投降し [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語38、ワンガオが明を挑発
  • ワンガオ(王杲)の明への挑発は、月日を追うごとに過熱していった。明の嘉靖年間にはモンゴル・タタール部のアルタンハーンの勢力が強大になり、明の朝廷がその対応に追われていた頃でもある。北京ではアルタンハーンの北京襲撃の恐怖に駆られて、南城を建て増した。このあたりの詳しい事情については、本ブログの「楡林古城 明とモンゴルの攻防戦」シリーズをご参考に。とにかくこういった事情からも、小さな小競り合い程度なら [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語37、撫順馬市での順位
  • 明の万暦六年(一五七八)四月から八十日間に渡って開かれた撫順馬市の記録では、合計二十五人の酋長が入場の許可を得て、合計43回の入場を果たしている。入場する際に率いてきた人数や回数により、女真族の部落の規模、勢力の強さがわかる。一番はジュチャンツオ(朱長草)が3回、一回目二百五十人、二回目百人、三回目八十人である。これに対してジェチャンアは十六番目につけており、合計三回、一回目は四十五人、二回目は二十 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語36、祖父ジェチャンア
  • 建州左衛というのは、元々大した規模ではなく、その中で数代前に有名な酋長がいたとしたら、ヌルハチの家系も遠い親戚の仲であることは間違いないだろう。後世の我々にとって重要なのは、どういう環境から清朝という王朝が生まれたか、という背景であり、大方近い血縁関係にあり、似たような歴史的環境の記録であれば、充分に思考に役に立つと思うべきである。ところでヌルハチの祖父「ジェチャンア」の漢字の当て字が、面白い。清 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語35、ドンシャン以後が曖昧
  • トロは父ドンシャンが好き放題やらかして身を滅ぼしたことを反面教師に、祖父モンケ・テムールを見習った。明との取り決めを守り、辺境に侵入せず、朝貢貿易に精を出し、自ら北京に行くこと十二回に及んだ。明の弘治十五年(一五〇五)にはトロが病没するが、子のトエンボー(脱原保)が後を継ぎ、建州左衛を統治、明との朝貢を続けた。明の嘉靖二年(一五二三)以後、明の実録にはトエンボーの記録がなくなり、死後誰が継いだかも [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語34、ドンシャンの次の世代
  • ドンシャン(董山)、李満住などの建州満州のリーダーらが大方殺しつくされてから、その後を担ったのは、次の世代である。ドンシャンには息子が三人いた。長子トロ(脱羅)、次子トイーモウ(脱一莫)、三子シボチ(石宝奇)である。シボチが、ヌルハチから遡って四代目の祖先となる。どうやらさすがに子孫まで連座させて殺すようなことはしなかったらしい。引き続き、誰かが満州を率いていかなければならない、という現実の問題も [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語33、ドンシャン征伐される
  • 明の成化三年(一四六七)五月、趙輔が将軍の印を授かり、総兵官に命じられ、遼東へ向かった。七月にはドンシャン(董山)ら百十五人を広寧師府まで連行し、勅令を読み上げ、奪った捕虜を解放するように叱責する。ドンシャンらは怒り、袖から小刀を出し、通事を刺した。これを見たハタハ(哈塔哈)ら百十五人もそれぞれに刀を持ち、師府の警備兵らを刺しまくった。趙輔は全員を逮捕するように命じ、その場で二十六人を刺し殺し、残 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語32、康熙帝のようにはいかぬ
  • そのあたりの力関係の構造を懇々と説得し、痛い目に遭わないうちにその痛さを表現する参謀が、ドンシャン(董山)の周りには、いなかったということだろう。明側のやり方もへたくそである。相手が自分たちと同じ常識を持っていないことを前提にしていない。後に康熙帝がモンゴル王公らを完全に抱きこんだ時のようなうまいやり方はしていない。康熙帝のモンゴル政策については、後に別途詳しく説明したい。以上、董山らがなぜ討伐軍 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語31、貿易不均衡
  • もう一つ重要な点がある。それは明と周辺騎馬民族の間には、「貿易不均衡」が常に存在したことであり、明との交易が断絶しては困るのは騎馬民族側、という根本的事実がある。土木の変で皇帝をさらったエセン・ハーンは、オイラート・モンゴルのリーダーである。オイラートの本拠地は当時、漠北(つまりはゴビ砂漠の北側)、モンゴル高原の中央部にあった。彼らが急速に強大化したのは、シルクロードのハミを手中に入れ、東トルキス [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語30、情報総合のシステムがない
  • 明の朝廷が女真側を「叱責」した背景には、そういう漢人知識人らが自分たちの「常識」で相手を図っているところがあり、「さまざまな情報を総合すれば、明の強大さがわかるだろうから、 まさか恭順にしないわけはない」という思いこみがある。ところが女真側には「さまざまな情報を総合する」システムがなく、ノウハウがない。だから「土木の変で、モンゴルに皇帝を拉致された」、「いくら略奪、誘拐をしてもうんともすんとも反撃 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語29、たとえば耶律楚材
  • 異民族に「参謀」としてつき、「抑止力」の行使に尽力した人物としては、チンギス・ハーンの元にいた耶律楚材が思い出される。中原から漢人をすべて追い出して草原にして羊を飼う、と言い出すようなレベルのモンゴル人に、農民から租税を取ることがどんなにわりのいい儲けになるか、懇々と説得する、といったことに至るまで「抑止力」の行使に努めた。ある意味では、彼が純粋な漢人ではなく、漢文化の教養も備えた契丹人だったから [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語28、ぶたれる前に
  • ぶたれてから「痛い」と初めて知るのではなく、何をしたらぶたれるか、ぶたれたら痛いだろうなあ、ではぶたれないようにしたほうがいい、そのためにはどうしたらいいのか、と思考できるのが、権謀術数の渦巻く中原文化の教養である。李儒がこの故事を出したというのは、史実ではない。なぜなら周知のとおり、三国志の中で唯一貂蝉だけが架空の人物であり、歴史上存在しないからだ。その貂蝉を奪い合う主従二人のために説得した言葉 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語27、あの董卓でさえ
  • 残念ながら、人間の生存条件の限界をいく極寒の満州の地において、この時点でドンシャン(董山)らにその役割を果たす教養のある持ち主は、召し抱えられなかったらしい。たとえ、彼らが日々さらって来ている漢人や朝鮮人の中にそんな教養の持ち主がいたとしても、女真族のリーダーたちは、大きな舞台に出たこともなければ、その必要性も感じず、そのまま牛馬のごとき労働力として、かれらを飼い殺してしまうまでだろう。「参謀」例 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語26、非儒教集団に接する戸惑い
  • ここに儒教を背景にした価値観を持つ集団とその価値観がまったく通じない非儒教集団の接する戸惑いがある。儒教はよく統治者のための論理というが、ある意味の「抑止力」がある。儒教が統治者側の理論として、生き残ることができたのは、ほかの諸子百家と比べ、独自の歴史観を持つからであろう。過去の経験を未来への反省として生かし、「学習機能」を備えることを目指す。中原世界では、たとえ文盲の教育を受けたことがなく、自分 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語25、明おそるるに足らず
  • 女真側は、明おそるるに足らず、という思いから、明の朝廷で暴言を吐いたり、抜刀するなどという身の程知らずなことをやり、その末路がどういうものになるか、想像する思慮さえ欠けていたのである。今日の我々から見ると、巨大な明帝国を相手にした不遜なる行動の数々は、風車に突進するドンキホーテの如く正気の沙汰とは思えないが、それは後世の人間だから見えることである。もちろん今追っているのは、清の太祖ヌルハチの家系で [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語24、覚悟を決めて挑む明
  • ここまでの狼藉を働かれては、明も討伐軍を差し向ける決定がなされるまで時間はかからなかったことは、いうまでもない。逆にいえば、明側は女真族らに勅令を出した段階ですでにこの日を覚悟しており、その用意もできていたともいえる。前述のようにここまで女真族側が明を見くびるようになったきっかけは、皇帝がモンゴルの捕虜になってしまった土木の変である。 その後もエセン・ハーンが北京城を包囲するなどの危機が続くが、北 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語23、女真族使節、紫禁城で大暴れ
  • その後の朝廷の賜宴では、悪態をつく部下の指揮使もあり、その態度についても、再び明の成化帝の叱責を受けたのだった。女真族側は、一度ならずも二度も面子をつぶされ、怒り狂った末に刀を取り出し、殺してやるなどといった暴言まで飛び出した。近衛兵の見張りがにらみを効かせている中で、直ちに制止されたのはいうまでもないが、なんともあきれた野蛮人ぶりである。 それだけではない。董山らが服従の意を表して入朝している最 [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語22、女真族、明から叱責を受ける
  • 明の朝廷は、女真族の朝貢団を迎えると、まずは勅諭で叱責した。これまでの非を責め立て、過去のことは不問とするが、再び繰り返した場合は、容赦しない、と。幾重にも防衛網が整った宮殿の中で言われては、これに服するしかない。入朝した女真族の一団を迎えたのが紫禁城の中だったのか、その周辺の官公庁だったのかは定かではないが、少なくとも紫禁城の外側を取り囲む「皇城」の中であろう。六部の行政役所は、ほとんどが皇城に [続きを読む]
  • マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語21、明の兵力規模
  • 明の朝廷が、成化三年(一六四七)正月、女真側に使者を送ったのは、対モンゴルの混乱がようやく収束し、他の問題に目を向ける余裕ができたからであった。明から使者が来て、意見をされたことでさすがにまずい、とドンシャン(董山)も思ったらしい。明を本気で怒らせて大軍を差し向けられるのは、どうにもまずい。明の軍隊は、兵数の桁が違う。土木の変で動員した兵力数は、五十万人。世界的に見ても、他の地域と比べたら、確実に [続きを読む]