sk5132 さん プロフィール

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sk5132さん: 『清流』 無明橋 - 中高年の子守歌 - 太平洋を越えて
ハンドル名sk5132 さん
ブログタイトル『清流』 無明橋 - 中高年の子守歌 - 太平洋を越えて
ブログURLhttps://ameblo.jp/sk5132/
サイト紹介文週に1度の新聞に折り込まれた、読者だより『清流』 今回のサブタイトルは「無明橋 Ⅲ」
自由文2011年夏、カナダ・アメリカ旅行記ーー ヴァージニア州に住む友人夫婦に誘われ、バンクーバー、カナディアン・ロッキー、ナイアガラ、ヴァージニアと気ままに旅した13日間の旅行記
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供54回 / 365日(平均1.0回/週) - 参加 2011/09/20 16:50

sk5132 さんのブログ記事

  • 無明橋 Ⅲ 061、 本 匠 4
  •  教師が勤務する学校の近くの住宅に住み、そこから通勤するというのは、交通事情のよくなかった昭和30年代はごく普通のことであった。 しかし、経済の高度成長が加速する40年代に入ると、モータリゼーションの広がりの中で、学校の先生たちの通勤事情もかなり早いスピードで変化が始まっていた。 本匠東小学校に転勤した昭和49年当時、10数名いた教職員の中で自動車を持っていたのは一割程度でしかなく、それはほとん [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 060、 本 匠 3
  •  昭和40年当時の人事異動は、現在とはだいぶ違っていて、転勤が決まって実際に転出(移動)するのは4月上旬のことであった。 ところで、転勤する学校が決まっても、住む家が決まっていないというのは何とも不安なことだった。ときのY校長さんが、転勤先の校長さんに、「どうしても学校の近くに住み込みたいって言い張りよる」と伝えて、相手の校長さんも手を尽くしてくれているみたいだが、春休みに入って離任式の日が近づ [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 059、 本 匠 2
  •  佐伯市や南海部郡(当時)の小中学校教職員の人事異動は、県教委の出先機関である佐伯教育事務所が行うのだが、実際問題として教育事務所の人事担当者だけでこなせるような仕事ではない。 そこで、学校現場の教職員を把握している校長会や教育長会などが、教育事務所と連携して協議会を立ち上げ、協力し合って実際の人事を行っていた。今では考えられないことだが、教職員組合も、「組合員を守る」立場で人事に関する協議会の [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 058、 本 匠 1
  •  つい先日のこと、NHKのテレビ番組で教師の過酷な残業の実態が報じられていた。中学校の教育現場では、一月の残業時間が過労死ラインの80時間を超える教師が大勢いて、中には180時間を超える教師もいる、というそんな内容だった。大分合同新聞も、9月12日付の朝刊で、小中学校教職員の過酷な労働(ブラック残業)の実態について特集記事を載せていた。記事によると、過労死ラインを超えて働いている教師が、中学校で [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 057、 木 浦 54
  •  脱線話や余談に多くの紙面を割きながら、長々と書いてきた木浦時代の青春ドラマ―――。 独身青年教師によるサークル「きりは」の結成や、校区内4地区での「教育を語る会」の取り組みを中心に、青春のエネルギーを爆発させるかの如く活動していた様子を書いた。「子どもや保護者のために……」と、勤務時間の枠を大きく超えて頑張っていたのだが、今と違って「ブラック」や「過労死」などの言葉はなく、そういうことを意識す [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 053、 木 浦 53
  •  一昨日8月31日の夕刻、今なお交流が続いているサークル「きりは」のメンバー5名が、竹田市長湯の温泉旅館に夫婦同伴で集まり旧交を温め合った。 心尽くしの料理に舌鼓を打ち酒を酌み交わしながら、互いの近況を報告し合い、木浦時代の想い出に話の花を咲かせた。一次会では時間が足りず、二次会に場を移して話は弾んだ。 懐かしい想い出話の中で、3つの中学校の統合反対の取り組みも話題になって、「宇目町役場に3人で [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 055、 木 浦 52
  •  お盆には少し早かったが、古い友人の奥さんの初盆参りに木浦まで行って来た。連絡なしに行っても、家族のだれかが居るはずと思ったのだが……、それが甘かった。施錠せずに閉めている玄関の引き戸を開け、中に向かって数回声を掛けたが応答がない。やむを得ずお供えの品物にメモを添え、気付くように上がり框の上に置いて引き返すことになった。 友人の家は学校の近くで、帰りがけに、廃校となって20年余りが経つ木浦小中学 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 054、 木 浦 51
  •  「中高年の子守唄」に区切りをつけ、「無明橋 Ⅲ」を書き始めたのは、ちょうど一年前の8月13日だった。本筋から外れた脱線話が多すぎて、丸一年が経過してもなお最初の赴任地から脱けきれないでいる―――。 木浦小中学校に、「待望のプールが建設される」という計画が具体化したのは嬉しいことだが、地元出身のS町議が持ち帰った設計図を見れば、「20メートル、4コース」という標準規格など無視した小さなプール一つであ [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 053、 木 浦 50
  •  全国学力テストの実施による深刻な弊害がいよいよ露(あら)わになってきた。学力テストの結果が全国最下位という大阪市で、「成績の悪い学校の職員はボーナスの支給額を減らす」、と表明した教育長の発言が、インターネットニュースに出ていた。猛反発する有識者たちのコメントも載せられていたが、「点取り競争がもたらす必然の結果」というか、「来るところまできた」という感じである。しかし、学力テストの弊害(マイナス [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 052、 木 浦 49
  •  落水、木浦鉱山、奥江・長渕、西山の4つの地区が一緒になった木浦校区の住民にとって、「木浦校区スポーツ友好クラブ」の結成は、実に画期的な出来事であった。 広い校区の中にあって距離的に離れた4地区は、地区間の不和や反発といった空気はないものの、同じ校区としての一体感や連帯意識は弱いといってよかった。前号に書いたように、スポーツ友好クラブの結成は、「宇目町で開催される各種スポーツ大会で、出場する選手 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 051、 木 浦 48
  •  大学を卒業したばかりの2人の男性教師、MさんとAさんが加わって、2年目のスタートを切った「木曜会」。年度初めの慌ただしさが一段落したところで、新人2人の歓迎会を開くことになった。 リーダー格のY先生が、新加入の2人に向かって、「木曜会」のこれまでの歩みについて説明し、「縁あって木浦に赴任した者どうし、木浦の子どもたちのために共に力を合わせて頑張りましょう」と、心を込めて歓迎の言葉を述べた。前号 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 050、 木 浦 47
  •  早々と梅雨が明けて、猛暑の夏がやってきた。大洪水や土砂崩れに平穏な生活を奪われ、先々の見通しも立たない人々は、災害に追い打ちをかける猛暑に不安を増幅させていることであろう。 大雨、地震、津波、台風、火山の噴火……、「天災は忘れた頃に来る」という名言を遺したのは、明治生まれの物理学者寺田寅彦だが、今や状況はすっかり変わってしまい、「天災は忘れないうちに来る」と、そんな時代になってしまった。 今年 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 049、 木 浦 46
  •  青少年赤十字賛助奉仕団協議会の総会(全国委員長会議)が、1泊2日の日程で日本赤十字社の本社ビル(港区芝大門)で開催されて、めったに行くことのない、行きたいとも思わない東京へ行ってきた。 青少年赤十字賛助奉仕団というのは、長年青少年赤十字の指導に関わったり、赤十字活動を理解し協力する退職教員等で組織された団体なのだが、早いもので賛助奉仕団の一員となって早10年が経過している。 毎年7月上旬に開催 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 048、 木 浦 45
  •  教育機器が今のように発達していなかった昭和30年代や40年代、教材を用意したりテストプリントを作ったりする教師の仕事は、ずいぶんな手間や時間を要していた。それ故に、学校での残業や持ち帰りの仕事は、多くの教師に日常化していた。しかし、それでいてほとんどの教師が、自分の仕事を「ブラック」などと思わなかった背景には、これまで書いてきたように、仕事に追われながらも生活や気持ちに余裕を持てていたからであ [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 047、 木 浦 44
  •  子どもでも大人でも同じだが、生活に「間」があることがいかに大事か。「間」の大切さについては、長い年月書き続けている「清流」でもたびたび取り上げて書いた。「えっ、いつ、どんなふうに書いた?」 と、問い返されそうだが、「清流」に書いてきたことの多くは、「間」についてことさら強調しないものの、書いている内容に「間」があって生まれた物語(ドラマ)と言っていい。一年前まで長々と書いた「中高年の子守唄」な [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 046、 木 浦 43
  •  つい先日のこと、佐伯市中心部の中学校で、関係する3つの小学校を含めた「コミュニティー・スクール」の運営会議が行われ、運営委員の一人として会議に出席した。 長い説明を要する「コミュニティー・スクール」はさて置いて―――、会議に先立って、出席した30名余の委員ために、1年生と2年生の全クラスで5時間目の「授業参観」を実施していただいた。わずか数分ずつではあったが、特別支援学級を含む全学級で、国語、 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 045、 木 浦 42
  •  学期末ごとに子どもに渡し、家庭へ届ける「通知表」は、昭和30年代や40年代においてはいたってシンプルだった。国語、理科、社会、算数……、それぞれの教科について、「3」とか「4」といった数字を一つ記入すればよかった。シンプルながらも結構な気苦労をして、それなりに時間も要していたのだが、それでも、後に改訂された「新通知表」の煩雑さに比べればやはり楽なものだった。 新しい通知表では、「国語」だけで五 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 044、 木 浦 41
  •  昔の先生たちも、オーバーワークが日常化していた。理由は様々あるが、その一つは仕事道具に原因があった。パソコンやプリンター、コピー機などなかった時代である。テスト問題一枚、学級通信一枚を書くにも、全て蝋(ロウ)原紙をヤスリ板の上に置いて鉄筆でガリガリ音を立てながら書いていた。 蝋原紙の原版が出来上がると、次は原版を謄写版にセットして、べっとりしたインキを含ませたローラーを使って手作業の印刷である [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 043、 木 浦 40
  •  少年時代を振り返れば、40日間の夏休みは「気が遠くなる」ほどに長いものだった。しかし、長く感じたのは一学期の終業式が終わった後の教室で、担任の先生から、夏休みの過ごし方やいろんな注意を聞かされているときぐらいで、いよいよ夏休みが始まり、気ままな日々を送ってお盆を迎える頃になると、「もう半分以上終わった」と、遊び過ぎた悔いが胸に広がるのを覚えたものだ。日は容赦なく過ぎて8月下旬ともなると、「あと [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 042、 木 浦 39
  •  ここ数年来教職員の大量退職が続いている。そのせいで、新たに採用される教員の数も大幅に増えている。教員採用人数が少なく、採用試験の倍率が小学校で7、8倍、中学校や高校では十数倍という厳しい時期が続いた7、8年前の状況がウソのように思える。 退職してしばらくの間、大学の非常勤講師として、教員を志望する学生を指導する機会を得ていたので、試験倍率が低くなった今の時期の学生たちについては、「いい時期に巡 [続きを読む]
  • 道草  一 はじめに
  • 2005年10月9日 (日) 読んでいて肩の凝るような「無明橋」がようやく終わったと思ったら、今度は「道草」―――「何?それ。おかしな題(タイトル)じゃなあ」と思われた読者も多いに違いないが、これからしばらくは「読んでリラックス(癒し)できる話」を書いていきたいと考えている。「リラックスはいいとして、それが道草とどういう関係にあるん?」と、問われそうである。感のいい人は、「どうせ脱線話かなんじゃろ」と察知 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 041、 木 浦 38
  •  今年もまた日赤大分県支部の要請を受けて、赤十字強調月間に入った5月1日(火)、大分市にある私立のF幼稚園(認定子ども園)に出向いて、100名余の園児を前にして、30分ばかり、「人道・博愛・奉仕」をテーマに「赤十字」の話をしてきた。「小学校へ上がる前の幼児(3才〜5才)に、『赤十字』の話をするのは難しかろう」と、よく心配される。が、意外にもそうではない。F幼稚園はずいぶん(10年以上?)前から青 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 040、 木 浦 37
  •  今や「清流」の熱心な読者で、毎週の「清流」を数年前からインターネットのブログに載せてくれている別府の息子から、「16年前に「『無明橋 後編』に書いた内容と、今書いていることが違っているけど、どうなん?」と、メールが送られてきた。「違っている」というのは、西山地区の「教育を語る会」で、Sさんとやり取りしていた険悪な場面の記述である。指摘を受けて、16年前に書いた「無明橋 後編」のその場面を開いて読 [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 039、 木 浦 36
  •  話し合うために出席したのか、議論(ケンカ)を吹っ掛けるために出席したのか……、大学を卒業して間もない青年教師を相手に、「甘ちょろい、いい加減な姿勢を叩き直す」と、そんな剣幕で言い寄るSさん。 そんなSさんに、額に汗しながら精一杯応じていた青年教師たちだったが、「実りのない議論を続けては、他の出席者が迷惑する」と考えて、T先生が間に割って入った。「Sさん、あんたの言うことは分からんでもない。しか [続きを読む]
  • 無明橋 Ⅲ 038、 木 浦 35
  •  小学3年生までの児童が通う西山分校の宿直室(畳の間)に、15名余の親たちが窮屈そうに身を縮めて座り、座卓を前にして座った主催者の青年教師5名に険しい視線を注いで、狭い宿直室は異様な緊張感に包まれていた。その緊張感の中に、木浦在住のベテラン教師T先生が、「あんたたちだけじゃやおなかろう」と、助っ人として参加していたことについては前号に少し書いた。T先生は、西山地区の更に奥まった傾き山の麓にあった [続きを読む]