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仏道修行のゼロポイント https://zeropointbuddha.hatenablog.com/

ブッダの瞑想修行、その原像を古代インド世界の心象風景にまで遡って探求する。

ゴータマ・ブッダが説いたのは難しい『思想』などではなく、極めてシンプルな『実践』に他ありませんでした。 その実践の真実について、背後にある特殊古代インド的な心象風景に照らしながら論理的に追求していきます。 「脳と心とブッダの悟り」ブログの統合版。

パラシュラーマ
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2011/09/26

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  • ヨーニ・ガルバの原心象と蓮華輪そしてストゥーパ

    【2022, 8, 31追記訂正あり】 ここしばらくHatena Blogでの更新が途絶えてしまっていたが、実はこの5月からNoteの方で「チャクラの国のエクササイズ」の投稿(移転再投稿)を開始しており、最近インド思想・仏教関連について、自分の中で再び情熱の火が熾り始めている。 どうも私の場合、その情熱が燃え上がるサイクルというものがあって、特定のテーマへのベクトルあるいはモメンタムとでも言うものが、おおよそ2~3年周期で盛り上がっては燃え尽き、を繰り返している様だ。 そもそもこの「チャクラの国のエクササイズ」は、本ブログ(遡ると2012年から始まったYahoo Blogの「脳と心とブッダの覚…

  • 「エナジーの平衡点:Vīriya-samataṃ」を観取せよ《瞑想実践の科学 32》

    以前に私は、「ヴィーナと比丘、それぞれの『仕事』」記事の中で、『箜篌(ヴィーナ)の喩え』の最終節の中に、ブッダの瞑想行法を理解する上で極めて重要な、様々なキー概念が凝縮して提示されている、と書いた。 今回はその一節を最初に再掲引用しよう。 Therefore do you, Sona, determine upon evenness in energy and pierce the evenness of the faculties and reflect upon it." Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamataṃ adhiṭṭhaha, indriyānanc…

  • 『Virya=エナジー』から見た世界の諸相と「地水火風」《31》

    バラモン教の不法な動物犠牲を伴った『外なる祭祀』に対する、批判的代替として提示された『内的な祭祀』としての比丘サマナの苦行や瞑想行。そのような視点で、ここまで考察してきた。 その流れで、前回投稿の最後には、 そこで最初に焦点になるのは、『内なる火の祭祀=タパス』と ‟Virya” すなわち ‟エナジー” のセットだ。それが外であれ内であれ、火の祭祀が行われるのならエナジー(燃料)は必須となる。 と私は書いた。 そこで今回はまず最初に、『火の祭祀の内部化』においてキーワードとなるこの《Virya / Viriya=Energy》、という言葉について考えてみたい。 エナジー、これは私たちの日常的な…

  • 気胸体験と “Kha” の恐怖

    本投稿はYahooブログ「脳と心とブッダの覚り」2015/12/23「気胸体験と“Kha”の恐怖」を元としているが、これもまたどのように移転しようかあるいはしないか、で悩んでしまった記事だ。 しかし、ここに書かれた「恐怖の気胸体験」は私にとって色々な意味で忘れられないものであり、同時に本ブログのテーマである「仏道瞑想修行」とも大いにシンクロするタイムリーな(今読んでもかなり笑える)内容でもあったので、ほぼそのまま移転する事にした。 そこに書かれた若干の内容は、ひょっとして気胸や入院の初心者?にとっては、何がしかの有用な情報になるやも知れない。 そういう訳で、以下は「時制」を含め2015年の当時…

  • 『外なる悪しき祭祀』とマーラ、『内なる善き祭祀』とブラフマー《30》

    『祭祀の内部化』という前回までに取り上げたテーマは、ブッダの瞑想法とそれに至る沙門シッダールタの内的遍歴を考える上で極めて重要な意味を持つものなので、繰り返しを恐れずに念を押していきたい。 バラモン教とは祭祀の宗教だった。 その祭祀とは、第一には『火の祭祀』であり、第二にはその火に捧げる『供犠の祭祀』であり、第三にはそれら火の犠牲祭と共にある『賛歌詠唱の祭祀』だ。 このような祭祀の万能性を主張したバラモン祭官たちは、自らを神をも超える超越的な力を持つ『神人』と標榜し、人々の願いの実現はおろか、大地や星宿の運行すら支配する力を持つと慢心していた。 そうして、そのような祭祀の絶対的な万能性を信じさ…

  • 『至高の内なる祭祀法』としての比丘サマナの瞑想修行道《29》

    ジャイナ教の開祖マハヴィーラなどに代表されるサマナ修道者が好んで行った苦行や、ブッダの瞑想行法が、バラモン教的な『外的祭祀』の代替となる『内部化された祭祀』だった、と前回までに書いた。 この点に関して、まずは典拠を示して、『内なる祭祀』というものが、具体的にどのような言葉で語られているのか、見てみたいと思う。 最初の参考文献は、山崎守一著 大蔵出版刊『沙門ブッダの成立』だ。この本はブッダが出家し修行した当時の北インドの宗教事情をよく捉えているもので、中でもジャイナ教の古文献を仏典と並行して引用し、そのディテールを際立たせている。 本書を入口に、様々なパーリ経典からの引用も絡めて、この『内部化さ…

  • 内部化された祭祀としての “苦行”と「坐の瞑想」《28》

    賛歌と言うバラモン教的な『瞑想実践』に対するオルタナティブとして提示されたのが『ブッダの瞑想法』であり、『賛歌のデバイスである(ヴィーナとしての)ウドガートリ祭官の身体』は『瞑想のデバイスである(ヴィーナとしての)比丘サマナの身体』と、完全に対置されていた。 バラモン教的な祭祀とブッダの瞑想行法が、具体的かつ実践的に『接続』しており、そのキーワードは『祭祀の内部化』である。 そのように、前回投稿の最後に書いた。 この『祭祀の内部化』とは一体何を意味するのか。この事はゴータマ・ブッダが当時の求道者たち、あるいはバラモンたちからしばしば “ヴェーダの達人”、あるいは "ブラフマンに等しい" と称賛…

  • 苦行者シッダールタの日常風景:「これはドゥッカの車輪である1」の補遺

    頭蓋内部には明確に車輪と重ね合されるような構造が存在し、その事実をシッダールタたち古代インドの求道者は知っていた可能性が高い。そう私は前に書いた。 今回はその根拠について若干追記して述べよう。 6本スポーク状に仕切られた脳内 当時、シッダールタが生活していた北インド一帯では、死者を葬る際には風葬が一般的だった。特別に身分のある場合は火葬が行われていたようだが、一般には人里からやや離れた森の中、その特定のエリアを墓場とし、地面の上に布にくるんだ遺体を放置し、腐るに任せていたようだ。この様な森を屍林(寒林 Śitavana梵)と呼ぶ。 そしてシッダールタの様に正統バラモン教から外れたサマナと呼ばれ…

  • 「賛歌」のオルタナティブとしての『ブッダの瞑想行法』《瞑想実践の科学27》

    ここまで私は、パーリ経典における数少ない実践的な瞑想ガイダンスの中で、最も重要なフレーズとして、 parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā(Maha Satipatthana Sutta)顔の周りに思念(サティ)をとどめて(春秋社:原始仏典Ⅱ)fixes his awareness in the area around the mouth(ゴエンカジー) に注目し、その最重要ワードとしてParimukham(顔、口の周りに)を取り出し、様々な考察を試みてきた。 そして、ParimukhamのコアとなるMukhaというパーリ単語について、その意味を紐とき、さらにその語源にまで遡…

  • ウドガートリ祭官の「歌詠瞑想」と“発声器官”《瞑想実践の科学26》

    今回は最も根源的かつ素朴な疑問から話を始めたい。それは、そもそもインドにおいて『瞑想』という時、その名称と営為はどこに起源するのか、という問題だ。 これについてはこれまでにも何回か取り上げたが、インダス文明の遺跡で発見された印章の彫刻に、ヨーガ行者が坐って瞑想している様な姿があり、これこそがその起源ではないか、と言われている。 Wikipediaより:インダスの印章に見る瞑想するヨーギの坐相 そこに、確かな文献的データがある訳ではない。インダス文明には一般に文字であろうと考えられるいくつもの図形の羅列が発見されているが、その意味内容は未だ解読されてはいないからだ。 だから、上の絵柄を見た上での…

  • 「身体とヴィーナ」における『発声器官』、そして『純粋呼吸瞑想』《瞑想実践の科学25》

    牛が「モ~」と鳴く時、その啼いている姿の全体像は、全身が一本の共鳴管、あるいはラッパの様に、腹腔・肺・気道・咽喉・口腔が一直線の管になったかのようにして、そのモ~という声を鳴らしている。 前二回にわたって、牛が鳴く姿と絡めて“Mukha”という言葉の意味する事について、様々な角度から考察してきた。 その中で私は、冒頭に再掲したように、牛が鳴く姿を一本の管楽器の様だと表現した。 身体の本質とは共鳴管(Hollow Tube)としての “Kha”、つまり『空処性』であり、その “Kha”という空処性の中で、音声は共鳴し、発せられる、という視点だ。 ここで思い出されるのは、以前に取り上げた、あの有名…

  • ”Mukha”の原像と『声門』という新たな焦点《瞑想実践の科学24》

    (本投稿には解剖学的画像が含まれます) 前回私は、『コップと言うものの本質とは一体何だろうか?』と設問し、その答えを例示した。それはすなわち、何らかの液体の容れ物である事を可能たらしめる "開口し奥行きのある空処性" だった。 同じように "Mukha" すなわち "口(くち=Mouth)" と言うものの本質とは一体何だろうか、と考えた時、それはコップと同様、正に「口」という表意文字に端的に表されている様に、ぽっかりと口を空けたその "空処性" に他ならない事が理解された。 もしそこに "空処" がなければ、どうやって水や食物が入る(飲食する)事が出来るだろうか? もしそこに "空間=スペース…

  • 『核心』としての「Kha」すなわち「空処」《瞑想実践の科学23》

    ブッダの瞑想法の原像を復元するに際して、もっとも重要であると考えられるパーリ経典の文言は、 parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā顔(口)の周りに、気付き(サティ)を、とどめて というものであり、中でも気づき(サティ)のポイントを明示するものとしてparimukhaṃがその焦点となる。 そしてpariは “周り” を意味し、muは牛が「モ~」と啼くその擬声語に由来し、mukhaという単語の原風景とは、牛がモ~と啼く、その鳴き声を発するところの鼻づら・口吻であった。 そして、parimukhamの中の最後に残されたkhaの語意について、先の投稿終盤に詳しく見ていった。 そこで…

  • アートマンの棲み処と「こころ」の所在

    (※本投稿には解剖学的な画像がふくまれます) 本ブログではこれまで、インド思想の核心とも言える「苦である輪廻からの解脱」、その立脚点である苦、すなわち『ドゥッカ Dukkha』という概念が、『車輪』という事物と密接に関わって生まれたという事実を繰り返し紹介してきた。 そして前回の投稿では、このDukkhaあるいはSukhaの焦点となる "Kha" が、仏教だけではなく汎インド教的な思想的核心部分を包含している事実を示唆した。 今回はその流れのひとつとして、まず苦からの解脱においてその解放される主体であるところの、ウパニシャッド的な『アートマン』について考えてみたい。 アートマンとはインド思想の…

  • "mukha" の原風景に見る「牛」と「Kha=空処」《瞑想実践の科学22》

    パーリ経典の多くで共有されている『サティを顔の周りに留めて坐る』という一節。繰り返し述べて来た事だが、これはブッダの瞑想法の原像について考究する時に、もっとも重要なものだと私は見ている。 ゴエンカ・ジーはこの『顔の周り=parimukham』を “口の周り” とし、「上唇の上から鼻腔にかけての三角形のエリア」と解釈した。 パオ・メソッドでも同様の気づきのポイントが採用されている事を考えると、これはゴエンカジーが、と言うよりも、レディ・サヤドウからウ・バ・キン師に至る系譜、あるいはそれをさらに遡るビルマの瞑想の伝統の中でその様に解釈されて来たと考えてもいいのかも知れない。 しかし、ここでひとつ問…

  • ゴエンカジーの偏頭痛と「Mukhaの周りに気づきを留めて」《瞑想実践の科学21》

    ブッダの瞑想行法、そのメソッドの焦点となるのは、“五官・六官の防護” である。それがこれまでの考察から導き出された結論だった。 そしてブッダの瞑想法と呼ばれる『止観』のうちの “止(サマタ)瞑想” 、その具体的なメソッドの焦点になるのが、五官六官が集住する「顔の周りに思念を留める」という事であり、それは牛・馬・象など動物の調御において急所となる、首から上の身体部位と重なり合うものであった。 そしてこの「六官を防護する為に顔の周りにサティを留める」という瞑想実践が、十二縁起という苦の連鎖の中で「六処において六入(アーサヴァの漏入)を防ぐ」事を実現し、その結果、続く触・受・愛・取・有・生・老死の苦…

  • 『正念』としての “六官の防護”《瞑想実践の科学20》

    これまで本ブログでは、『瞑想実践の科学』シリーズを中心に、ブッダの瞑想法の “作用機序” について、外堀を埋める形で様々な考察を行ってきた。 その「ブッダの瞑想法」と言うのは、端的にいえば2500年前のウルヴェーラ村で菩提樹下に禅定しニッバーナに至り悟りを開いたゴータマ・ブッダが、その瞑想法の作用機序を明確に理解した上でそれを言語化し、サールナートの鹿の苑において最初の弟子である五比丘達に口頭で伝授し、それを知的に理解して体得的に実践したコンダンニャがまずは悟りを開いたという、そのブッダ直伝の瞑想法そのものを意味する。 そしてそれこそが、私が想定する「仏道修行のゼロポイント」に他ならない。 そ…

  • 「仏教思想のゼロポイント」と『仏道修行』のゼロポイント

    今回の投稿は2015年6, 7月にアップした二本の記事を統合移転するものだが、当時から様々な状況が変わっており、どのような形で処理するかこれまた悩んでしまった。 しかし、「だから仏教は面白い!」に続くこの「仏教思想のゼロポイント」という魚川さんの著書との出会いが、正に本ブログのタイトル「仏道修行のゼロポイント」の『事始め』になっており、これら投稿はその間の消息をよく記録している事もあり、若干の加筆修正を施すだけでそのまま移転する事にした。 「仏教思想のゼロポイント」の2020年現在の書評、と言うものは、じっくりと再読した上で、近い内に改めて投稿したいと思っている。 ~~~~~~~~~~~~~ …

  • マーラ(悪魔)としての愚父シュッドーダナ王と、生母マーヤーの死

    本投稿はYahooブログ 2015/6/17「シッダールタ王子と愚父シュッドーダナ王」としてアップされた記事の移転になる。 これは当時、二ヶ月の入院闘病の果てに父が亡くなった直後のエントリーで、そこにまつわる生々しい情動に少なからず影響されており、そのまま移転するかどうか大いに悩んだのだが、本文に書いてある様に、この「父親」という存在は私にとって(そしておそらくはシッダールタ王子にとっても)、その求道探求のある種の原動力であり反面教師になっていた、という事実を考慮して、ほぼ当時のままに移転する事に決めた。 そこには、亡くなった直後の父に対する批判的な文言が明らかで、不快に感じる方もいるかとは思…

  • 悟れなかったアーナンダ尊者

    ブッダの死後マハー・カッサパを発起人とし、さらにアーナンダを主要な証言者として開かれた第一結集において、気づきとしてのサティではなく記憶としてのサティに秀でたアーナンダが重要な役割を果たしてしまったという史実の中に、初期仏教の草創期、つまり原点における問題点があった、と前回指摘した。 このアーナンダという、仏教徒であれば誰もが知っているブッダの愛弟子だが、実はパーリ経典をはじめ紀元前後までにまとめられた初期教典の中では、ある種特異な描かれ方をしている人物なのだった。 たとえば、確か説一切有部伝承の物語にある、村娘プラクリティに恋慕されて惑乱し逃げ惑う話。 王宮の女性たちに説法する為に向かったが…

  • 魚川祐司著「だから仏教は面白い!」を読んで

    この投稿は、Yahooブログ「脳と心とブッダの覚り」2015/5/31記事が元になっているが、今回の移転に当たっては、大幅に書きなおすかどうしようかと、少々悩んでしまった。 何しろ四年以上前の事であり、私の立ち位置もそれ相応に変わってきている。 しかし結局、今連続して投稿している「瞑想実践の科学」シリーズはおおむねYahooブログの時系列通りに移転作業を進めており、この「だから仏教は面白い!」もまさに当時このタイミングで書いたものだから、多少の修正はあるが、ほぼそのままで『「一切」としての十二処十八界とマーラ、そして「四聖諦」』の直後に移転投稿する事にした。 2020年現在の「魚川祐司評」と言…

  • 「一切」としての十二処十八界とマーラ、そして「四聖諦」:《瞑想実践の科学19》

    一般に、十二縁起の核心とは無明と渇愛であるが、無明や渇愛などという何処にどうやって有るのかも分からない漠然とした事象を、直接取り扱って、“なんとかして” 破壊する事など、想像すらできない。 しかし、渇愛に先行する所の六処(六官)、この六処の内の五処(五官)つまり、眼耳鼻舌身という身体器官は、何よりも眼に見える具体的な『門戸』として私たちの “目の前に” 存在している、という圧倒的な事実がある。 この六処(五処)はしばしば六入(五入)とも表現され、その機能とは、感官の対象である色声香味触(法)の五(六)境が、流入する門戸である。 六境の感覚刺激が流入して接触する事によって、感受が生まれ、渇愛が生…

  • 「照見五蘊皆空、度一切苦厄」と十二縁起と『六官の防護』:《瞑想実践の科学18》

    ブッダによって説かれた法の神髄とは、病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉の中に全て端的に表されており、その中核部分をひと言に要約すれば、それはすなわち “五蘊(五取蘊)からの遠離” であり、その遠離(厭離)を体現するための行道とは “五官六官の防護” である。 そして、“五官六官の防護” こそがブッダの瞑想実践そのものである、と言い切っていい。 以上が、前回までの大ざっぱなあらすじだった。 ここまで、中部経典第143経 教給孤独経:Anathapindikovada Suttaを読みながら色々と考えてきたが、私がこの病者アナータピンディカに向けて語られたサーリプッタの言葉を…

  • 病に苦しむアナータピンディカ:《瞑想実践の科学17》

    今回のタイトルは、日本人にはお馴染みの漢訳名である「給孤独長者」とどちらにしようか迷ったが、アナータピンディカにしておいた。 パーリ原語のアナータピンディカとは「身寄りのない困窮者を憐れんで食事を給する」という意味で、そこから漢訳の「給孤独」が来ているという。 この長者、つまり資産家の本名はスダッタといい、ブッダに帰依して祇園精舎を寄進したエピソードはつとに有名だが、晩年に重い病にかかり、重体となり悩み苦しむ。 そこで彼は、祇園精舎に滞在するブッダ達一行に使者を送り、サーリプッタ尊者に「自宅に来ていただければ幸いです」と懇請する。 サーリプッタは彼の窮状を察して、見舞いに訪れるのだが、そこにお…

  • 古代インドの「毛穴」の話:門戸において、治療し防護する《瞑想実践の科学16》

    前回は沙門シッダールタが遂行した激しい断食行の諸相について書いた。この断食行を含む三つの苦行経験があってはじめて、沙門シッダールタは覚りへと至る「道筋」あるいは『方法論』を直観し得た、という流れだった。 この「断食の行法」について記述した章節には様々な情報が盛り込まれていたが、最初に読んだ時に私が注目したのは、実は『毛穴』だった。 パーリ経典を通読してみると、現代日本人の感覚では到底理解不能な、不思議で奇妙な表現と言うのが多々見受けられる。 しかしそのような現代的には不可解な言葉も、古代インド人たるゴータマ・ブッダやその言葉を聞いている弟子サマナ達にとっては、極めて意味明瞭な一貫した流れの話と…

  • その小食のゆえに痩せこけて:三つの苦行の真意《瞑想実践の科学15》

    沙門シッダールタは「歯と舌の苦行」と「止息の苦行」の実践において、 「わたしはひるむことなく精進に励んだ。思念はそなわり、失念はなかった」 として、七覚支の内の精進(Viriya)と思念(Sati)の二つを備えていたが、 「けれども、その苦の精勤によって精勤が抑圧されていたために、私の身体は激動し、安らかではなかった」 と言う様に「安らぎ」に欠けていた。しかし「安らぎ」を欠いた中でも、 それなのに、王子よ、わたしに生じたそのような苦の感受は、わたしの心を占領してとどまらなかった。 として、「無常の観察」の原初形態とも言うべき “気付き” を体現しており、そこにおける「気づき」と「身受心法の観察…

  • 【菩提王子経】沙門シッダールタと『止息の行』:瞑想実践の科学14

    パオ森林僧院の四界分別観の瞑想において、首から上の顔の周り、特に歯と舌と言うものが、その気づきのポイントとして極めて重要な意味を持っている。 その行法上の典拠とも言える記述がパーリ経典に複数存在するが、そこでは歯と舌の行法に対する評価が、微妙にブレている。 ひとつは、歯と舌の行法によって直接的に貪瞋癡の思いが消滅し、その結果としてサマーディが深まる、という「考想息止経」の記述であり、それはマイトリ・ウパニシャッドに書かれたジフヴァー・バンダの絶大な効果と重なり合う。 一方で、菩提王子経などでは、歯と舌の行法は直接的に覚りに導く事のない、意味のない『苦行』という文脈の中に配置されている。 それで…

  • ブッダの「歯と舌の行法」と、ヨーガの「ジフヴァー・バンダ」:瞑想実践の科学13

    パオ・メソッドの四界分別観の瞑想は、ブッダゴーサの清浄道論に典拠していると言われているが、それ以前の大前提として、“普遍的な身体” と言うものの『科学的な真実』(脳神経生理学的な作用機序)に依拠している。 その事はペンフィールドの「ホムンクルスの小人」と言うビジュアルに、象徴的に現れている。 このような、人間の心がサマーディの深みへと没入していく作用機序(メカニズム)は、あらゆる宗教における “行の深まり” において普遍的な、神経生理(=心理)学的プロセスに他ならない。 神経生理学的な作用機序と言う観点から見た時、パオ・メソッドの四界分別観において、その気づきのポイントとして “歯と舌” を筆…

  • 仏の32相に見る『馬の歯』とパオ・メソッド:瞑想実践の科学12

    馬の調御と出家比丘の修道プロセスが重ね合わされたパーリ経典、『若い駿馬の喩え:中部経典第65経 バッダーリ経』に続いて、象の調御と出家比丘の修道プロセスを重ね合わせた、中部経典:第125経『調御地経・・・しつけられた者がいたる段階』について、前回紹介した。 こうやって見てくると、原始仏教において、牛・馬・象という動物の調御と比丘の修道プロセスが、相当以上の意味合いで “重ね合わされていた” 事は、もはや疑問の余地がないように私には思える。 このブログを読んでいる大方の読者も、さらにはテーラワーダの長老方もまた、この単純な重ね合わせの事実については同意していただけるだろう。 問題は、私がかねてか…

  • 「調御地経」野象の首を柱につなぐ様に:瞑想実践の科学11

    今日は前回の象つながりの流れで、象の調御と比丘の修行をドンピシャで重ね合わせたパーリ経典を紹介したい。 岩波文庫版のパーリ経典シリーズを何回も精読した末に、一見荒唐無稽なセーラ・バラモンの「広長舌相」のエピソードに注目し、それがインド女性のアクセサリーやヨーガの修行、更にはインド武術との関連から「動物」との “重ね合わせ” という視点に辿り着いた流れはすでに説明した。 その延長線上に、動物の調御と出家比丘の行道との “実態的な” 重ね合わせがあったのではないか、と発想しつつ、春秋社版の原始仏典シリーズを読み進めていたのだが、この「象の調御の喩え」に出会った時には、正に戦慄を禁じ得なかった。 そ…

  • 仏の32相に見る「象の特徴」と『無上のナーガ』:瞑想実践の科学10

    ブッダの瞑想法、その導入部に当たるアナパナ・サティにおける気づきのポイントが、動物の調教における『急所・焦点』である鼻先、額、耳、口、と重なり合っていて、それらが、パーリ経典の中では『顔の周りに思念を留める』というひとことで表現されていた。 調御される動物の中でも、馬はその顔の周りに頭絡と言う眼に見える装置を装着する事から、より象徴的な意味を持たされていた。 以上が、前回までのあらすじだった。 この一連の探求の出発点である “広長舌相” とは『仏の32相』のひとつであり、以前にもこれについて取り上げているが、今回は、再びこの原点に立ち返って、調御される動物と、さらには瞑想実践との重ね合わせから…

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