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キヨ & ヨーコ
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2011/11/13

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  • 京都の紅葉

    七福神も紅葉狩り伏見の酒蔵東福寺...

  • 伏見城の躑躅、藤、青もみじ

    つい先日まで桜を追いかけたけど、早くも初夏。...

  • 勝持寺(京都西山)

    京都市の西部にある山の麓のお寺。花の寺との別名もあり、「願わくば桜の下にて春死なん」と詠んだ西行に縁のあるお寺です。...

  • 京都/祇園白川の桜

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  • 海禅寺の桜

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  • 京都伏見の桜/長建寺と川沿いの酒蔵

    伏見区にある長建寺のご本尊は弁財天。弁財天は水に纏わる神様てもあるそうです。伏見と言えばお酒。伏見の名の由来は伏水から来た、とも。恵れた湧き水から造られるお酒は美味しい。その水を守る弁財天が祀られているのも納得。牡丹桜黄桜...

  • 城南宮(京都市伏見区)の梅の花

    城南宮は794年に平安遷都がなされた時に都の安泰と国家の守護の為に創建されました。平安京の南にあることが名の由来です。平安後期には、上皇の離宮が設けられ宴が催され、王朝文化の中心だったそうです。そんな優雅な憩いの場も、鎌倉時代には、承久の乱の発端地として上皇が鎌倉幕府への反旗を翻しました。また、江戸時代末期には、鳥羽伏見の戦いの場となり官軍の錦の御旗が翻りました。今はまた、穏やかな庭園の姿に戻り、四...

  • 京都市東山区の泉涌寺

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  • 斑鳩の法起寺と法輪寺

    法隆寺の北東2kmほどにある小さなお寺。いずれも聖徳太子の皇子の山背大兄皇子に縁のあるお寺です。三重塔は、上層階に至るほど階層と屋根が小さくなっていて、下から見上げると遠近感の関係でより高く見えます。...

  • 法隆寺

    柿を食いたくなって、法隆寺に行った。梅原猛氏は、法隆寺は聖徳太子とその一族の祟りを恐れた時の権力者が、太子一族の鎮魂のために再建した、と説く。その理由の一つとして、中門の真ん中に設けられた柱。普通、門には柱がないか、ある場合は2本あり、真ん中を通り抜けることができる。しかし、法隆寺の中門の真ん中の一本の柱は、寺院内の魂を封じ込めるためのものだ、と説く。歴史や美術の教育書に載っていた巨大な建造物や荘...

  • 京都の達磨寺

    正式名は法輪寺。臨済宗妙心寺派のお寺です。寺院内に凡そ8,000体の達磨さんが奉納されていることから、達磨寺として親しまれています。...

  • 秋の京都

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  • 萬福寺の十八羅漢

    梅原猛さんによると、「羅漢は仏と人の間にいる」そうです。そして「羅漢は、広大な自我を持ち、永遠と無限の自由な境地を遊んでいる」と解釈している。萬福寺の十八人の羅漢は一人ひとりの表情や仕草が異なります。手を振り上げ怒りを露わにする羅漢、穏やかに人を諭す羅漢、書を手にしたり瞑目している羅漢さんも。彼らは、日常で接する様々な人たちの、更には自分自身の中にある、その時々の姿形や心を表しているように感じさせ...

  • 萬福寺 その1

    宇治市にある萬福寺。隠元豆や煎茶を日本に伝えたとされる、中国の僧、隠元が開いた寺院です。境内には中国の雰囲気が広がっています。山門を潜り最初に目に入るのは布袋さんの像。後ろには、韋駄天も。...

  • 京都市/泉涌寺

    京都市市街の南西部にある御寺。...

  • 六道乃辻

    京都市街地の南東部、清水寺の上り口近くにあります。六道は、人が生前の善悪の業因によって行かなければならない六つの冥界、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界のこと。平安時代、この地は、西側の洛中の生の世界と、東の鳥辺野と呼ばれた死後の世界の境でした。野辺の送りがここで行なわれた為、六つの冥界への入り口として「六道乃辻」と名付けられました。その辻の一角に、小野篁に所縁のある「六道珍皇寺」が建っています。...

  • 宇治市

    京都府も緊急事態宣言が解除され、久しぶりに早朝サイクリングに出かけました。今朝は宇治市。源氏物語宇治十帖の所縁の地。紫式部や光源氏を模した像もあります。宇治川は鵜飼でも知られています。例年なら大忙しの鵜も、まだstay home。...

  • JR東海道線の老ヶ辻三連橋(京都府長岡京市)

    道に迷って出会った橋。イギリス人技師が設計し1876(明治9年)に完成した煉瓦造りのアーチ橋。幅15メートルほどの三連橋は今も現役。土手から河原に降りることができ、向こう岸まで飛び石がありますから、橋の下を多角に覗き込むことが出来ます。...

  • 明智光秀のゆかりの地 勝龍寺城

    京都の南西端にある勝龍寺城。城と言っても、幅10mにも満たない堀に囲まれた周囲300m弱の砦の様なものです。天守閣なんかありません。とは言え京都と大坂を繋ぐ要衝にあり、応仁の乱の頃の1470年には西軍が陣を構えていました。現在も、近くを国道1号線、名神高速道路さらに東海道線と新幹線が直ぐ近くを通っています。東・西・南を大小の川に囲まれ、北は土塁のある空堀が設けられており、防御力はあったようです。戦国の世の1573...

  • 琵琶湖の月の照り返し

    雲の隙間から月光が琵琶湖の水面に照り返しています。この照り返しを、凡そ450年前、琵琶湖を北上する小さな舟で心細く眺めていた一行がいました。松永久秀が足利13代将軍の義輝を殺害し、義栄を傀儡将軍として操ろうとしていた頃のことです。久秀に対抗するため、細川藤孝(幽斎)らは、僧籍に入っていた義輝の息子を還俗させました。後の室町幕府最後の15代将軍となる足利義昭です。義昭は、琵琶湖東南岸の矢島に滞在し上洛の機を...

  • http://kiyoandoyoko.blog137.fc2.com/blog-entry-898.html

    関ヶ原の戦いの後、天下人となった徳川家康によって1603年に完成した二条城。洛中洛外図に描かれた天守閣は1750年の雷火で焼失し石垣しか残っていません。二の丸御殿内で、歴史の教科書に載っていた大政奉還が宣言された大広間を見学しましたが、思っていたより少し狭く感じました(御殿内は撮影禁止の為画像をアップできません)。城内には手入れされた庭園が広がり、城郭と言うより、巨大邸宅の様相です。...

  • 琵琶湖の西岸

    琵琶湖の西岸にある、カジュアルイタリアン。日中なら、目の前に広がる琵琶湖を眺めながら美味しいランチを楽しめます。夜も気軽に過ごせます。比叡山の3合目くらいから見渡す琵琶湖。信長や光秀が北陸や東国からの侵攻に備え、重視した土地だと言うことが分かります。...

  • 秀吉を看取った城・伏見城

    「彼は英雄として生き、最も平凡愚昧な人間として死んだのである」。 海音寺潮五郎は、天下人にまで上りつめた、ある武将の最期を、著書『武将列伝』で記している。 京都市最南端の伏見区桃山にある伏見城。ここは、豊臣秀吉が天下人となり晩年を過ごす為に建てられた、と言われる。そして、今際の際に、徳川家康に「秀頼のこと、頼みまいらせる」と涙ながらに哀訴嘆願した城である。まさか、その後、家康が秀頼を攻め滅ぼすこ...

  • 今治市小島(おしま)

    今治市北部の波止浜から渡船で10分ほど。その名の通り、瀬戸内海に浮かぶ周囲3km弱の小さな島。来島海峡の要所にあり、日露戦争当時の1900年にロシア艦隊の侵攻に備えた「芸予要塞」が築かれました。たた1905年の日本海海戦での日本の勝利により、またその後の戦闘機の普及により実戦で使われることなく終わりました。その要塞跡は島内に残っています。発電所、地下室、砲台跡は当時の姿を偲べます。島の最高部にある司令塔跡から...

  • 2020年初

    京都に転居して半年。ブログ更新も怠っていました。気も新たに再開しようと思います。年末年始は今治で過ごしました。12月28日に高校同期7日で忘年会。当初予定の内3人が体調不良で欠席。このところ誰かが欠席でなかなかフルメンバーが揃いません。29日には、やはり仲の良かった高校同期の訃報に接しました。60代も半ばに差し掛かるこれから、健康管理には更に留意しなければならない冬です。1日は他生の縁のある方たちと、広島県...

  • 東京のパン屋さん『365日』

    お店の名前が『365日』です。新宿から小田急線で10分ほどの「代々木八幡」駅から徒歩3分程、商店街から少し入った住宅地にあります。平日の昼下がりに訪ねたのですが、その時間帯でも行列ができていて人気の高さが窺えます。この他にも美味しそうな食パンが並んでいたのですが、お客様の列と重なり写真を撮ることができませんでした。店内には8席のカウンターがあり、買ったパンを食べることができます。コーヒーもあじわいふかい...

  • 青もみじ

    「もみじ」と言えば紅葉。紅く色づいた秋の楓を思い浮かべます。しかし初夏のこの時期のもみじは秋とは異なった風情を見せてくれます。京都中西部の広隆寺から車折(くるまざき)神社、嵐山の天竜寺までジョギングがてらに青もみじを辿ってみました。青もみじは、古くから残る言葉です。平安時代の貴族の衣を重ねて着る「襲(かさね)」は、衣の裏と表の色を季節によって決めていたそうです。「青紅葉の襲」は夏の色だったそうです。吉...

  • 一区切り

    この度、予定より3年早く39年間のサラリーマン生活を卒業することとになりました。年数を距離に置き換えますと、マラソンのゴール42kmまで後3kmの39km地点でのリタイアです。マラソンレースなら歩いてでもゴールできるところですが、まぁまぁ良いサラリーマン生活だったかな、と思います。山あり谷あり、毀誉褒貶もありました。楽しいこと、辛いこともありました。それでも一言で尽くせば「面白かった」。先日、新社会人になって初...

  • 故郷の海に向かいて語ることなし

    今治市の北端、瀬戸内海に突き出た三角形の高縄半島の突端にある大角鼻。四季折々の景色を楽しむことができます。2月上旬は、咲き誇った水仙とちらほら咲きの河津桜を楽しむことができます。故郷を出る勇気はあったけれど捨てる根性はなかった。ましてや故郷から捨てられる覚悟など。さだまさしの『駅』。都会から泣き腫らした目で帰って来た友を駅のプラットホームで出迎える。都会でのことは誰も知らないし、語ることもいらない...

  • 「論争の人ではあったが、論争の相手をこきおろすことはなかった。」

    私の精神の支柱となる四人の内の最後の方が、年明け早々に亡くなった。梅原猛氏。「梅原日本学」は世に広まった呼び名だが、この方の肩書を一言で括ることはできない。哲学者であること間違いないのだろうが、日本古代学、仏教論、更に後年はスーパー歌舞伎も手掛けられた。 この方の著書に初めて出会ったのは、20代半ば。『神々の流竄』だった。大和政権によって敗者として出雲に追われた神々がテーマだった(ただ、後年『葬ら...

  • 『神田川』

    1976年.キヨタは高校を卒業し今治を離れ一人暮らしを始めた時の部屋は木造モルタル塗り2階建ての四畳半ひと間のアパートでした。風呂とトイレ(と言うより便所)は共同。台所もなく三和土の脇に洗面台とコンロが1台置けるほどのものでした。家賃は9,000円だったと思います。それでも南側に大きな窓があり天気の良い日中は夜明けから日没まで陽のあたる部屋でした。 その少し前から『四畳半フォーク』と呼ばれる歌が世に広まっ...

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