yo-yo さん プロフィール

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yo-yoさん: 遊泳する言葉
ハンドル名yo-yo さん
ブログタイトル遊泳する言葉
ブログURLhttp://yo8yo.blog34.fc2.com/
サイト紹介文日常や過去に光をあててみる。そこから浮き上がってくる言葉のふしぎを、詩と散文で探っています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供68回 / 365日(平均1.3回/週) - 参加 2012/03/11 22:28

yo-yo さんのブログ記事

  • きょうは空まで掃くのだ!
  • 早朝の空の高いところでは、いつも季節がすこし先を進んでいるようにみえる。そこではもう冬の冷たい風が吹いていて、薄い雲が布のように流されている。それは、誰かが箒で掃いたあとのようにもみえる。おでかけですかー?と空から声が降ってくる。掃いていたのは、レレレのおじさんだったようだ。今日ははりきって空まで掃除している。バカボンのパパなら、「お出かけじゃない、帰ってきたところだ」と怒鳴るところかもしれない。 [続きを読む]
  • この電車はどこへ行きますか
  • このところ、電車の夢をよくみる。どこかへ行こうとして乗るのだが、その電車は見慣れない駅に止まって、その先にはもう走らない。仕方なく電車を降りて歩き始めるのだが、街の様子も風景もはじめて目にするものばかりで、どこを歩いているのか、どこへ行こうとしているのかも分からない。それでも歩き続けている。目が覚めると、歩き疲れたという疲労感だけが残っている。まったく割りの合わない夢だ。夢が日常の生活や精神状態を [続きを読む]
  • 恐や赤しや まだ七つ
  • 近所の農家の、納屋の裏の空き地に彼岸花が群生して咲いている。今年はいつまでも暑かったので、花の季節も遅くまでずれ込んでいるのかもしれない。いちめんに血のような、鮮やかな色がみごとだ。   ごんしゃん、ごんしゃん 何故(なし)泣くろ彼岸花を見ると白秋の詩が浮かんでくる。いや、『曼珠沙華(ひがんばな)』という歌が聞こえてくる。というか、とっくに死んだ友人の歌声が聞こえてくる。遺族からもらった今年の年賀 [続きを読む]
  • 夢の柵をこえる
  • おりおりに、黒井千次の短編集を読んでいる。何気ない日常生活の中に、ふっと現われる妖しい夢や危険な陥穽。不思議な土人形の家や、凝視し続ける眼科医院の巨大な眼の残像。シャッタースピード1秒の写真に残るものと残らないもの。ある物の影が、突然、その物の存在そのものになってゆく。夢と現(うつつ)、影と物、それらがひとつになる時、普段ぼくらが見過ごしているものの、もうひとつの形が見えてくることがある。 「彼」 [続きを読む]
  • 栗のイガは痛いのだ
  • ひと月ほど前に、近くの山で栗の実がなっているのを見つけた。それから実が弾けるのを秘かに楽しみにしていたが、今朝、栗のイガが無残に剥かれて散乱していた。まだ白っぽい未熟な殻だ。またもや早々に先取りされてしまった。ぼくの栗ではないけれど、イガが弾けて実が茶色くなるまで、どうして待てないのかと腹が立った。初夏には、グミの実もなる。ピーナツほどの大粒のグミだ。赤くなるのを待っている内に、いつも誰かに採られ [続きを読む]
  • 彼岸と此岸
  • 彼岸とか此岸とか、そんな言葉を、日常われわれはあまり使わない。 仏教語で彼岸とは涅槃のこと、すなわち悟りを得た理想の世界のことをいい、此岸とは現世のことで、われわれが今生きている世界のことをさす、というのが常識のようだ。 ぼくの中では、彼岸は向こう岸のイメージで、彼岸と此岸の間には川が流れている。三途(さんず)の川だ。川のこちらの岸には河原があり、そこを賽(さい)の河原という。 古くて懐かしいような [続きを読む]
  • 彼岸て、どこにあるんやろか
  • このところ急に涼しくなった。暦の上では秋分、日暮れが早くなった。彼岸とも呼ばれる。昼と夜の長さが均衡し、季節を分けて秋が到来する。そこに彼岸という言葉があると、なんとなく季節の川を渡るイメージもある。気になる彼岸という言葉だが、彼岸というものはどこかにありそうだが、どこにあるのかわからない。時間的には、夏から秋へと季節が変わる、そのどこかにあるのだろうか。真っ赤な彼岸花が咲いている、そのあたりにあ [続きを読む]
  • カビの宇宙
  • 陽が落ちると、虫の声が賑やかになった。夜空の月も輝きを増して明るく澄みきっている。夏から秋へと、昼間せめぎあっていた二つの季節が、夜にはすっかり秋の領分になっている。久しぶりに、風を寒いと感じて窓を閉めた。夏のあいだ開放していた窓を締めきると、どこからともなくカビ臭い匂いがしてきた。いかにも部屋に閉じこめられている感じがする。この感覚は懐かしい。カビの匂いは嫌いではない。カビ臭い部屋にいると、特別 [続きを読む]
  • 虫たちとの小さなさよなら
  • コオロギを飼う子どもだった。そんなぼくは、すこし変わった子どもだったかもしれない。畑の隅に積まれた枯草の山を崩すと、コオロギはなん匹でも跳び出してくる。それを手で捕まえた。尾が1本なのはメス、2本なのはオスだった。いい声で鳴くのはオスの方だが、かまわずにごっちゃに飼った。大きめの虫かごを自分で作り、枯草を敷き、キュウリなどの餌を与えた。家の壁や雨戸などを突き抜けて聞こえてくる、コオロギの透きとおっ [続きを読む]
  • 秋の夕やけ鎌をとげ
  • きょうは夕焼けがきれいだった。よく乾燥した秋の、薄い紙のような雲に誰かが火を点けたように、空はしずかに燃えていた。急に空が広くなり、遠くの声が聞こえてきそうだった。お〜い、鎌をとげよ〜と叫ぶ、おじいさんの声が聞こえてきそうだった。夕焼けした翌日はかならず晴れるので、農家では稲刈りをすることになるのだった。祖父は百姓だった。重たい木の引き戸を開けて薄暗い家の中に入ると、そのまま台所も風呂場も土間つづ [続きを読む]
  • 犬は風景を見ない
  • 子どもの頃は田舎で育った。だから、周りは山や川ばかりだった。けれども、山や川のある風景をじっくり眺めたことはなかった。いつも山の中にいた。あるいは川の中にいた。つねに自然の風景の中にいた。風景を外側から眺めることはなかったのだ。すばらしいとか、美しいとか、感嘆の思いで風景を眺めた初めての経験は、いつだっただろうか。たぶん、青年期が始まろうとしたときではなかっただろうか。田舎を抜け出して都会で生活を [続きを読む]
  • あんたがたどこさ
  • ぼくが子どもの頃は、子どもたちはみんな、家の前の道路で遊んでいた。ゴム跳びや瓦けりは、男の子も女の子もいっしょになって遊んだが、球技はもっぱら男の子の遊び、鞠つきは女の子の遊びと決まっていた。ぼくも鞠つきには何回か挑戦したが、どうやっても女の子にはかなわない。女の子が手まり唄を歌いながら鞠をついているときは、側でぼんやり眺めているしかなかった。    あんたがたどこさ 肥後さ    肥後どこさ 熊 [続きを読む]
  • つくづく一生
  • あちこちで、ツクツクボーシが盛んに鳴きはじめた。ツクヅクイッショウ(つくづく一生)、ツクヅクオシイ(つくづく惜しい)と鳴いているらしい。夏の終わりに鳴くセミにふさわしい鳴き方だ。季節に急かされているような、せわしない鳴き方でもある。    この旅、果てもない旅のつくつくぼうしこれは種田山頭火の句であるが、山頭火の放浪の旅にも終わりはあった。昭和14年(1939年)10月、四国遍路を果たした彼は、松 [続きを読む]
  • ペテンダックを食べたい
  • 連日35℃の猛暑。もう、この夏の暑さにもうんざりだ。すでに頭のヤカンも煮えたぎっている。 こうなると思考力と集中力が真っ先にダウン。注意力も弱っているから、言動にもあまり自信が持てない。 とりあえず、タイトルは「ペテンダック」で正しい。あの中華料理の「ペキン(北京)ダック」ではない。 沸騰寸前の頭では、本を読む気力もない。読みかけの漱石も、夏の初めから栞を挟んだままで、明暗の淵をさ迷いつづけている。 長 [続きを読む]
  • 瀬戸の夕なぎ
  • 夏の夕方、大阪では風がぴたりと止まって蒸し暑くなる。昼間の熱気が淀んで息ぐるしく感じる時間帯がある。瀬戸の夕凪やね、とぼくが言うと、みんなは笑う。大阪人は海の近くで生活しているが、ほとんどの人は海に無関心で暮らしている。海岸線が全部埋め立てられて、海が遠くなったこともあるかもしれない。瀬戸の夕凪という言葉を、ぼくは別府で療養していた学生の頃に知った。療養所は山手の中腹にあり、眼下に別府の市街と別府 [続きを読む]
  • 遠くの花火、近くの花火
  • 幼稚園のお泊り保育の勢いで、その翌日は、孫のいよちゃんがひとりでわが家にお泊りすることになった。すっかり自信のついた顔つきになっている。夕方、いよちゃんのお気に入りの近所の駄菓子屋へ連れていったが、あいにく店は閉まっていた。バス通りのコンビニまで歩けるかと聞くと大丈夫と答えたので、手をつないで坂道をのぼってコンビニまで行く。以前は買物かごの中に、次々とお菓子を入れていくので戸惑ったものだが、いつの [続きを読む]
  • 夏の手紙
  • きょうも早朝からセミが鳴いている。 セミは、ある気温以上になると鳴き始めるという。セミが鳴いているということは、気温がぐんぐん上昇していることでもある。夏の太陽も顔を出して、きょうの近畿地方は35度をこえる予報が出ている。 セミのことを手紙に書いた。 セミのことばかりを書いた。好きだということを書けなかったので、その想いの量だけ、とにかくセミのことをいっぱい書いた。 ぼくは若かった。 はじめにマツゼミ [続きを読む]
  • 花のなまえ
  • 連日あつい真夏日が続いているが、百日紅の花も負けずに燃えるように咲いている。あちこちで白い花や黄色い花、小さな花や大きな花など、名前もわからないが、それぞれの花が、それぞれの花の時季を迎えて咲いているようだ。こんなただ暑いばかりの夏も、花の季節なのだろうか。炎天下で咲き誇っている、真夏の花の強さを感じる。キハナ(季華)という名の女の子の孫がいる。いつのまにか、女の子とも言えないほど成長してしまった [続きを読む]
  • いつか、朝顔市のころ
  • アサガオは朝ごとに新しい花をひらく。毎日が新しいということを、なにげなく花に教えられる。アサガオが中国大陸から渡来した時の名前は、「牽牛(けんご)」あるいは「牽牛花」だったという。中国ではアサガオの種は高価な薬で、対価として牛1頭を牽いてお礼をするほどだった。牽牛(けんご)という言葉の語源は、そんなところからきているらしい。牛からアサガオなどと、とても連想しにくい名前だったのが、アサガオが好まれた [続きを読む]
  • 雲の日記
  • 小学生の頃の夏休みに、雲の日記というものに挑戦したことがある。絵日記を書く課題があったのだが、その頃は絵も文章も苦手だったので、雲を描写するのがいちばん簡単だと考えたのだった。たしかに雲の写生は簡単だった。白と灰色のクレヨンがあればよかった。日本晴れの日は雲がない。何も描かなくていい、やったあ、だった。それでも1週間も続かなかった。やはり簡単で単純なものは面白くないのだった。午後は、日が暮れるまで [続きを読む]
  • ひとはなぜ、絵を描き始めたのだろうか
  • 先日、近くの大阪府立弥生文化博物館に行ってきた。およそ2千年前の弥生時代の土器や銅鐸に線描きされた絵は、見ているとどれも妙に懐かしいものがあった。どこかで見たことがあるような懐かしさだ。それは幼児が初めて描く絵と似ている。ひとは誰でも、幼い頃そんな絵を描いていたにちがいない。身近にある物のかたちを写し取ることができた喜びを、親子で味わった瞬間があると思うが、絵というものを初めて認識したときの、そん [続きを読む]
  • どこかにいい国があるかな
  • ヒグラシの声を久しく聞いていない。    また蜩(ヒグラシ)のなく頃となった    かな かな    かな かな    どこかに    いい国があるんだ                 (山村暮鳥『ある時』)ぼくの住んでいるあたりでも、かつては車で1時間ほども走ると、里山ではヒグラシが盛んに鳴いていた。谷あいを細い川が流れ、瀬音に混じってカジカの鳴き声も聞くことができた。清流の石ころに巣食っている [続きを読む]
  • むらさきいろさくかも
  • ことしもアサガオが咲いた。種から種を引き継いできたから、咲く花の形も色もいつもと同じだ。今年もまた、いつもの夏の顔に会うことができた、といった懐かしさがある。もう何年つづいているだろうか。もともとは、孫のいよちゃんから種をもらったものなので、たしかブログに記録が残っていると思って、ブログの中のアサガオを検索してみた。早いものだ、十年一日の如し、10年前の記録が残っていた。アサガオの花は、きょう一日を [続きを読む]
  • 木にやどる神
  • クリスチャンではないので、ふだん教会にはあまり縁がないが、旧軽井沢の聖パウロカトリック教会には魅せられた。建物にみせられたのだ。思わず教会の中に入ってしまったが、居心地が良くて、しばらくは出ることができなかった。周りの木々に調和した木造の建物は、柱や椅子、十字架にいたるまで、木が素材のままで生かされており、信仰を超えて、木の温もりの中に神が宿っていそうだった。それは柔らかくて優しい神だった。「初め [続きを読む]
  • 赤いノスタルジー
  • ヤマモモの実がたわわになっている。赤く熟れた実をみると取って食べたくなる。飢えていた子どもの頃からの習性だろうか。というよりも、ぼくらの子ども時代は木の実をとって食べるのが本能みたいなものであり、遊びでもあったのだ。木の実はたいがい酸っぱさと渋み、それにわずかな甘みがある。子どもの頃に甘みに敏感だった舌は、成長するにつれて酸味や苦みへの反応が増していくみたいで、子どもの頃の味の記憶は忘れかけている [続きを読む]