研修隊員 さん プロフィール

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研修隊員さん: 日本史探検隊
ハンドル名研修隊員 さん
ブログタイトル日本史探検隊
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/nihonshi758/
サイト紹介文日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三
自由文探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供52回 / 365日(平均1.0回/週) - 参加 2012/06/01 15:08

研修隊員 さんのブログ記事

  • 335 弥勒菩薩は遅刻する?
  • さてさて、仏教においてはこんな考え方もあるそうです。〜現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次に  この世に現れる約束になっているのが弥勒菩薩である〜有難いことです。菩薩様は決して現世を忘れてはおられません。では、ここにある「次に」とは、具体的に一体いつのことなのでしょうか?この点については、お経の本でも説明されていますから、どうぞご安心ください。〜ゴータマの入滅後「五十六億七千万年後」の未 [続きを読む]
  • 334 宗教界は情報公開を嫌う
  • 自らの信仰の教義を記した物、たとえばキリスト教なら「聖書」に当たるものですが、こうしたものを一般信者が自分で読めるようになったのは、割合に新しい時代のことです。それまでの聖書は、ヘブライ語かギリシャ語かはたまたラテン語なのかは知りませんが、一般信者自身が日常に使っている言語にはなっていませんでした。ですから原語で聖書を読解できない一般信者には、神父など教会関係者を経る形でしか「神の意思」を知る方法 [続きを読む]
  • 333 赤穂浪士は変装した?
  • ドラマの決定版ともいえる、いわゆる「忠臣蔵」においては、浪士(義士)たちは、全員が各人の名前を書き込んだお揃いの衣装で吉良邸討入りに臨んでいます。そうしたいでたちで四十七人もの武士が勢ぞろいした姿は、さすがに圧巻で、映像的にも強烈な印象を残しますが、おそらく史実として「赤穂事件」における四十七士はそんな「ド派手」なものではなかったはずです。だって、考えても御覧なさい。目的は吉良邸討入りですから、塀 [続きを読む]
  • 332 八百万神々は和の精神を愛す
  • 昔々の大昔のこと。土着の八百万神を信仰していたこの国(日本)にも、「仏サマ」と名乗る外来宗教の「新・外国人?神サマ」が加わることになりました。もっとも、国挙げての大歓迎というわけではなく、そこには多少の摩擦も生じた事実もありましたが、ともかく最終的には歓迎することに落ち着いたのです。しかしそうは言っても、その「仏サマ」の人相・風体をつらつら眺めてみると、なんとはなしに日本人離れした人相も、ちじれっ [続きを読む]
  • 331 みんなが天皇家に憧れた?
  • この国においては、「天皇家」の出身であることが、「天皇」になるための必須の条件になっています。いかに抜きんでた武力を備えていようと、あるいは世間の富の半分を手中に収めるほどの財力があろうとも、要するに「天皇」になる資格という面では何らの意味も持っていません。つまり、「血統のカリスマ性」こそが、その正当性を担保する仕組みになっているわけです。実はこれ以外にも、天皇家は天皇家で世間とは異なった特有のシ [続きを読む]
  • 330 朱子学はカイゼンを嫌う?
  • 江戸幕府を創設(1603年)した徳川家康(1543-1616年)は、幕府の公式学問として朱子学を選択しました。家康の脳裏に刻み込まれた戦国の遺風、例えば明智光秀(1528?-1582年)が主君・織田信長(1534-1582年)を討ったり、また同じく信長の家臣にあった豊臣秀吉(1537-1598年)が、その織田家をちゃっかり乗っ取ったような、いわばモラルに欠けた所業が、徳川家に起きないようにするには、、「孝(親孝行)」を最高の徳目としてい [続きを読む]
  • 329 世の常識はそれを許さない
  • 戦国の世には、元はと言えば足軽身分に過ぎなかった者が、後には出世街道を驀進し、遂には人臣最高位の関白にまで上り詰めた事件?があります。その人物の名は豊臣秀吉(1537-1598年)。しかし、現代人の印象とは違って、この出世物語は、当時の人々にはあまり歓迎されるものではありませんでした。〜末世とはほかにはあらじ木の下の猿関白を見るにつけても〜(意味) まさに世も末だゼ。       なにせ木の下の猿(秀吉) [続きを読む]
  • 328 独自信仰には手を触れるな
  • 奥州藤原氏は、日本史の中でも殊に独特な信仰を持っていたように見受けられます。いわゆる「奥州藤原氏四代のミイラ」がそれで、○初代:藤原清衡(1056-1128年)○二代:藤原基衡(1105-1157年)○三大:藤原秀衡(1122-1187年)○四代:藤原泰衡(1155-1165年)の一族の長・四代が、揃いも揃ってわが身をミイラとして残しているのです。ミイラ自体は、僧が即身仏になる時にも見受けられますが、そうした例は多いとは言えず、むし [続きを読む]
  • 327 将軍を巡る女の戦い
  • 江戸幕府の創始者・徳川家康(1543-1616年)の後継となった第二代将軍・徳川秀忠(1579-1632年)には、二人の次期将軍候補がいました。嫡男・家光(1604-1651年)とその弟・忠長(1606-1634年)です。秀忠本人も妻・江も、次期(第三代)将軍として、容姿端麗で才気煥発な弟の忠長を考えていました。嫡男・家光は、肉体的に病弱である上に吃音があり、さらには、家光の性格的(残虐性?性的嗜好?)についても、夫妻は「問題あり」 [続きを読む]
  • 326 他人様に迷惑な長生き
  • 実質的な天下人だった豊臣秀吉(1537-1598年)の死後も、しばらくの間「豊臣家」は存在していました。秀吉の死(1598年)から豊臣家滅亡(1615年)に至る、二十年弱の間で、これは徳川家康(1543-1616年)が江戸幕府を創立した年(1603年)から数えても十年以上になります。この江戸幕府のその後の安定ぶりを眺めてみると、この間の出来事が、もう少しテキパキと運んでいてもよかった印象にもなりますが、必ずしも一つ方向に一気に [続きを読む]
  • 325 神功皇后の不可解な特異性
  • メッチャ古い時代の天皇<いわゆる「上古天皇」について語られる事績は、どちらかと言えば歴史(史実)より伝説(創作)に近い印象ですが、その中でも異彩を放っている一人に「神功皇后」の名を挙げることができそうです。ただ、「皇后」の立場であった女性を「(上古)天皇」の仲間に加えること自体が、ハナからルールから外れているという指摘も出そうなところですが、必ずしもそうとは言い切れません。明治時代(1868-1912年) [続きを読む]
  • 324 間借り人は浮き沈む
  • 主君・豊臣秀吉(1537-1598年)の没後の加藤清正(1562-1611年)や福島正則(1561-1624年)は、「「秀吉子飼いの家臣」であるのもかかわらず、その豊臣家から一歩控えた場所に立つようになりました。〜主君・秀吉様が亡くなったのだから、豊臣家からオサラバだ〜決して、こんな気持ちを持ったわけではなく、同じ豊臣家の同僚である石田三成(1560-1600年)とは、どうしても反りが合わないために、やむなく選択した道でした。で、二 [続きを読む]
  • 323 戦国乱世の内部告発?
  • たとえば法令違反の業務を強いられているとか、あるいは労働環境があまりにも劣悪であるとか、現代社会なら、いわゆる「内部告発」によって、それを表面化することもできないわけではありますん。ところが、強い者が勝ち残るという原則の社会「戦国時代」では、労働者を守るための「労働基準法」も未整備だし、さらには「コンプライアンス(法令遵守)」の概念も生まれていませんでした。そのために、多くの大名が今でいう「ブラッ [続きを読む]
  • 322 信長死す!本願寺の快哉
  • 実質的に天下の主だった織田信長(1534-1582年)が家臣・明智光秀(1528?-1582年)の謀反によって、突然の自害に追い込まれた事件が、いわゆる「本能寺の変」(1582年)でした。このことは織田家家臣を含め、多くの人間にとってまったく「予想外」の出来事だったため、驚きふためく者もいれば、当座の善後策に動き出す者など、その受け止め方は様々でした。そうした中には、確実に「ほくそ笑んだに違いない」と思える人物も少なか [続きを読む]
  • 321 先人たちの宗教戦争
  • 「宗教戦争」なんて言葉を耳にすると、どうしても「一神教」世界におけるそれをイメージしがちです。ところがドッコイ、現代では「平和の象徴」もどきの位置にあると言えそうな日本宗教も、昔はそうした戦争?を数多く経験しています。江戸時代以前の宗教勢力は、他宗派または権力者から自らの存在・利権を守るために、神社なら神人、寺院なら僧兵などの武装専門兵士?を、どこもが当たり前に抱えていました。〜文句があるならウデ [続きを読む]
  • 320 官軍幕府と賊軍長州の入れ替わり
  • 幕末維新の頃の幕府および長州の様子を眺めてみると、その立場がそっくり逆転していることに気が付きます。早い話が、使用前?は幕府が官軍、長州が賊軍だった扱いが、使用後?のおいては、官軍=長州/賊軍=幕府に変身?しているわけです。この場合の官軍・賊軍という呼び方には日本特有のルール?があって、朝廷(天皇家)が支持した側を官軍と呼び、その反対の立場にある者を賊軍と呼ぶことになります。しかし、冷静に眺めてみ [続きを読む]
  • 319 三成のホロ苦き大将デビュー
  • 豊臣政権下で五奉行の一人に名を連ねた石田三成(1560-1600年)は、武将と言いながら、むしろ官僚としての能力をより大きく評価された人物です。逆に言えば、軍人としての能力はさほどではないと見られていたことになります。同じ豊臣方の武将である加藤清正(1562-1611年)や福島正則(1561-1624年)ら、いわゆる軍人肌の面々と反りが合わなかったのも、ここいらへんにその原因があったのかもしれません。清正や正則からすれば、 [続きを読む]
  • 318 主君の趣味は領国拡張に勝る
  • 元はといえば、織田信長(1534-1582年)が、「茶」を趣味にしていたことが大きな影響を与えたのかもしれません。「茶」の楽しみには欠かせない「茶器」に対して、そこにある種の付加価値を持たせたことです。もっとも、なんの変哲もない茶器に評価を与えることで「高額茶器」に変身させるなどのことは、信長に先立ってすでに千利休(1522-1591年)なども行っていました。ただ、その利休は言うなれば一介の茶人に過ぎず、片や信長は [続きを読む]
  • 317 キリスト教苦戦の原因
  • キリスト教が、それまで縁のなかった日本に伝わったのは、戦国時代のことで、宣教師フランシスコ・デ・ザビエル(1506?-1552年)の来日が最初のことだとされています。実は、これ以後も日本には多くの宣教師が訪れるようになり、熱心な布教活動を展開するようになりました。確かに、少なくない信者も獲得しましたし、キリスト教を信じる、いわゆる「キリシタン大名」も登場しましたが、しかし、「布教成果」?という面から眺めれ [続きを読む]
  • 316 三英傑の神サマ変身症候群
  • 「みんな」が神サマになりたがった。その「みんな」とは、いわゆる戦国の三英傑」に数えられる○尾張出身・織田信長(1534-1582年)○尾張出身・豊臣秀吉(1537-1598年)○三河出身・徳川家康(1543-1616年) です。その理由は単純そのもので、この国においては、それこそ自分自身が「神サマ」にでもならないことには、至高の存在とされている「天皇」の権威を超えられないからです。その最初の「発案者」?であり「挑戦者」?は [続きを読む]
  • 315 洗脳された純血エリート
  • 「寛政異学の禁」(1790年)という政策を実施・主導したのは、幕府老中・松平定信(1759-1829年)でした。その趣旨をやや乱暴に言い切るなら、〜朱子学以外の学問を禁じる〜ということですから、別の言葉なら「学問統制法」ほどのイメージになるのでしょうか。徳川家康(1543-1616年)によって開かれた江戸幕府は、依頼幕府の公式学問としてこの「朱子学」を採用してきました。なのに、今頃になって、〜「朱子学」以外はイカン!〜 [続きを読む]
  • 314 鬼も仏も殺される
  • 意見の相違は「暗殺」をもって解消する。こんな雰囲気を漂わせていたのが「幕末」という時代でした。そうした顛末で落命した人物を挙げれば枚挙に暇がありませんが、数多の暗殺犠牲者のうちで、今回は特にこの二人の人物に注目してみました。○横井小楠(1809-1869年) 熊本藩士であったが、後に請われて福井藩の政治顧問と なり、さらには幕政改革や公武合体を推進し、 明治維新(1867年)後においては新政府の参与となった  [続きを読む]
  • 313 幕府のパワハラに泣き寝入り
  • 国民の生活や産業の基盤となる公共設備を整え充実させるなどのいわゆる「インフラ整備」は、現代なら「公共事業」として国家やそれぞれの自治体が行うものとされています。ところが江戸時代はそうでなく、「天下普請」とか単に「お手伝い」などと称され、幕府の命により諸藩の手で行うものとされていました。ですから、諸藩とすれば財政的に大きな負担を強いられる、こうした「お手伝い」から極力逃れたいのが本音でした。さて、現 [続きを読む]
  • 312 三幕府の個性比べ
  • 日本の歴史には三つの「幕府」(武士政権)が登場しています。これを通説となってい年代で古い順から並べてみると、○鎌倉幕府(1192-1333年/約142年間/将軍は 9代)○室町幕府(1336-1573年/約238年間/将軍は15代)○江戸幕府(1603-1867年/約265年間/将軍は15代)見ての通り、三幕府は、確かに中枢機構の所在地が異なってもいますが、さらにはそれぞれの政策理念が異なっていたことも指摘できそうです。そうでなければ、 [続きを読む]
  • 311 帽子を被る烏帽子を脱ぐ
  • 女性の場合は別として、一般的に男性が他人様と顔を合わせた時などに、帽子を被った(着帽)まま挨拶に及ぶのは、現代ではいささか失礼(不作法)なこととされています。ところが、これは「現代の常識」?であって、時代が違えば常識にも違いがあるものです。〜鎌倉時代から室町時代の前半にかけては被り物(帽子)が  ないのを恥とする習慣が生まれた〜つまりは、現代とは真逆の常識があったことになります。細かく言えば、現代 [続きを読む]