黒田裕樹 さん プロフィール

  •  
黒田裕樹さん: 黒田裕樹の歴史講座
ハンドル名黒田裕樹 さん
ブログタイトル黒田裕樹の歴史講座
ブログURLhttp://rocky96.blog10.fc2.com/
サイト紹介文受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供385回 / 365日(平均7.4回/週) - 参加 2012/08/07 01:21

黒田裕樹 さんのブログ記事

  • 昭和天皇の大御心 その9
  • その後もご巡幸を続けられた昭和天皇は、GHQの予想を大きく覆(くつがえ)して、各地の国民から熱烈な歓迎をお受けになりました。しかし、何と言っても終戦直後です。全国各地の中にはまともな宿泊施設は少なく、列車の中や学校の教室などに泊まられた事もありました。しかし、陛下は「戦災の国民のことを考えれば何でもない。十日ぐらいは風呂に入らなくてもかまわない」と全く気にされることもなく、元気にご巡幸の毎日をお過ご [続きを読む]
  • 昭和天皇の大御心 その8
  • 昭和天皇によるご巡幸は、昭和21(1946)年2月の神奈川県下の昭和電工を振り出しに始められましたが、この付近は終戦後にアメリカ軍が接収(=権力機関が個人の所有物を強制的に取り上げること)しており、我が国の中でも占領色が一段と濃い場所でした。それだけに、会場には外国のカメラマンやアメリカ兵たちがひしめき合っており、彼らによって昭和天皇はあちこち引っ張られるなどもみくちゃにされました。しかし、陛下は全く意 [続きを読む]
  • 昭和天皇の大御心 その7
  • 戦争に負けた国の当時の最高権力者が直(じか)に国民に会うことはもちろん、まして励ますなど、世界の常識では考えられないことでした。なぜなら、前回(第66回)述べたように、戦争に敗北した国の元首の末路は悲惨なものであり、またその血統は断絶して、新しい王朝が誕生するのが当然だったからです。それだけに、陛下のご巡幸の計画を聞いたGHQも、当初は「天皇の意図が分からない」と怪しみましたが、やがて一つの確信を得る [続きを読む]
  • 昭和天皇の大御心 その6
  • 昭和20(1945)年10月、昭和天皇は宮内省の役人に対して下記のお言葉を発せられ、全国をご巡幸される強い決意を示されました。「先の戦争によって先祖からの領土や国民の多くの生命を失い、大変な災厄を受けた。この際、私としてはどうすればよいのかと思い、退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、全国をくまなく歩いて国民を慰め、励まし、また復興のために立ち上がらせるための勇気を与えることが自分の責任と思う」。「この [続きを読む]
  • 昭和天皇の大御心 その5
  • つまり、昭和天皇は「新日本建設ニ関スル詔書」において、天皇と国民との絆は、神格化によらずとも相互の信頼と敬愛とによって固く結ばれていることや、我が国の民主主義は外国によるものではなく、明治天皇の頃から我が国独自で育て上げてきたものであるという、いわば当然のことを言葉とされることで、終戦で傷ついた国民の誇りを失わないようにと配慮されたのです。それなのに、マスコミや出版社の多くが「天皇が神格化を否定し [続きを読む]
  • 昭和天皇の大御心 その4
  • 昭和天皇が「新日本建設ニ関スル詔書」の中で仰っておられることは、終戦の詔書などと比較しても際立って新しいこととはいえませんし、むしろ常日頃からお考えだからこそ、繰り返し強調されておられるのではないでしょうか。ところで、この詔書の最初に、明治天皇による「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が紹介されているのを皆さんはご存知でしょうか。詔書に五箇条の御誓文を付け加えられたのは昭和天皇ご自身のお考えであり、実 [続きを読む]
  • 昭和天皇の大御心 その3
  • 「新日本建設ニ関スル詔書」の文章の中で、一般的に人間宣言の根拠となっているのは以下の部分です。「天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基(もとづ)クモノニモ非(あら)ズ」。この文章だけ読めば、昭和天皇が自らの神格化を否定されたと見なすことも不可能ではないですが、これは詔書のほんの一部分に過 [続きを読む]
  • 昭和天皇の大御心 その2
  • 前回(第66回)述べたように、GHQは我が国と神道(しんとう)のつながりを断ち切るため、国家が神道を支援したり、あるいは普及させたりすることを禁止する「神道指令」を昭和20(1945)年12月に発しましたが、その次の段階として、天皇の神格化を否定しようと考えました。しかし、これをGHQの主導で無理やり行えば、日本国民の反発を招き、占領政策に悪影響となるのは確実でした。このため、GHQは昭和天皇があくまでも「自主的」 [続きを読む]
  • 第67回「黒田裕樹の歴史講座」大阪講演の報告
  • 7月29日に行いました第67回黒田裕樹の歴史講座「戦後史検討 その2 〜日本の独立回復」(大阪講演)には、台風通過直後の天候にもかかわらず、32名の皆様がご参加くださいました。終戦直後の昭和天皇のご巡幸から、昭和40年代の高度経済成長までを1回の講演で紹介するという長丁場でしたが、28ページにも及ぶレジュメを確認しながらということもあり、皆様のご理解も十分に得られたのではないかと自負しております。次回(第68回) [続きを読む]
  • 昭和天皇の大御心 その1
  • 昭和天皇は、昭和20(1945)年9月に初めて連合国軍最高司令官総司令部(=GHQ)のマッカーサー元帥(げんすい)とご会見なさった以降も、合計11回にわたって訪問され、我が国への食糧供給などをご要望されるなど、常に国民のために無私の行動をなさっておられました。ところで、昭和天皇は昭和21(1946)年の元日に「新日本建設ニ関スル詔書(しょうしょ)0099">」を発布なされましたが、今日ではこれが昭和天皇による「人間宣言」 [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その15
  • 競争社会の中では、いかにして生産性を向上するかが重要であり、そのカギを握っているのが、絶え間なく続く技術革新(=イノベーション)などによる変化です。オーストリアの経済学者シュンペーターは「馬車を何台つなげても汽車にはならない」と述べ、経済発展の原動力は、それまでの方法を破壊して新しい方法を創造していく「創造的破壊」の上で成り立つと説きました。生産性の劇的な向上にはイノベーションが必須ですが、いくつ [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その14
  • さて、先述した傾斜生産方式が一定の成功を収め、我が国の生産力が向上したことで、昭和25(1950)年に朝鮮戦争が勃発した際に「特需景気」が起きて、我が国の経済が急速に回復しました(詳しくは次回の講演で紹介します)。要するに、傾斜生産方式は当時の我が国にとってベストな選択であったともいえるのですが、資材と資金を石炭や鉄鋼などの重要産業部分に集中させた実態は、社会主義政策に見られる「計画経済」そのものである [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その13
  • ところで、戦後の昭和20(1945)年に労働組合法が制定されるなど、GHQが労働組合を結成しやすい環境を形成したこともあって、労働争議が続発するようになりました。こうした流れを受けて、民主革命を目指した日本共産党と産別会議の指導によって全官公庁共同闘争委員会に結集した官公庁労働者を中心に、当時の第一次吉田内閣打倒をめざし、昭和22(1947)年2月1日を期して鉄道や電信など基幹産業を巻き込んだゼネラル=ストライキ [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その12
  • 我が国の生産力は終戦直後に上昇しましたが、資材不足や石炭・電力不足のため、鉄鋼や化学などの基礎部門で停滞し始めました。このため、当時の第一次吉田茂内閣は経済安定本部を設置し、昭和22(1947)年には資材と資金を石炭や鉄鋼などの重要産業部分に集中させる「傾斜(けいしゃ)生産方式」を採用したほか、「復興金融公庫」を創設して、電力や海運などを含めた基幹産業への資金提供を行いました。翌昭和23(1948)年まで続い [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その11
  • 戦争が終わって軍需工場が閉鎖され、また軍人の復員や外地からの引揚げ者が増大したことで、多数の失業者が街にあふれるとともに、国民は極度の物資不足にあえぐようになりました。そんな折に、敗戦直後に臨時軍事費が大量に支払われたり、生活に不安を感じた多くの人々が預金を引き出ししたりしたことによって、日本銀行の対民間貸出しが増加するなど、戦後処理にともなって政府が通貨を増発しました。物不足で供給が停滞している [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その10
  • さて、長引いた戦争は国民生活に壊滅的(かいめつてき)な打撃を与え、多くの都市が空襲で焼け野原になったほか、鉱工業の生産力は戦前の3分の1の水準にまで落ち込みました。当時のコメの重要な供給地であった台湾や朝鮮を失った我が国は、徴兵や徴用による農家の労働力不足や生産資材の不足などによって、戦時中から続いていた食糧難を悪化させたのみならず、戦争が終結した昭和20(1945)年の記録的な凶作が拍車をかけました。政 [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その9
  • 労働者の権利の制限が、低賃金などの不満や消費の低迷による国内市場の狭さをもたらし、結果として我が国の対外への侵略行為につながると判断したGHQは、日本での労働基本権を確立するとともに、労働組合を結成しやすい環境を形成しようとしました。これを受けて昭和20(1945)年に「労働組合法」が制定され、公務員を含めた労働者に団結権・団体交渉権・争議権が保障されたほか、昭和21(1946)年に制定された「労働関係調整法」 [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その8
  • また戦前には、どの村や町にも大抵は大きな屋敷があって、地方における文化の発信地となっていましたが、その多くが大地主でした。しかし、その大地主が没落したことで、地方における富裕層がいなくなるとともに、担(にな)い手を失った地方の文化が絶滅の危機に瀕(ひん)してしまったのです。実際には不徹底で終わったものの、GHQが財閥を解体して我が国の経済力を大幅に削減しようと考えたように、大地主の没落はそのまま地方 [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その7
  • GHQの命令による第二次農地改革によって、我が国の小作地率は、昭和15(1940)年の45.5%から、昭和25(1950)年には10.1%にまで減少し、その分自作農は大幅に増えました。こうした結果から、農地改革は「日本で成功した改革」のひとつに数えられることが多いようです。確かに「地主の廃止」は小作人を喜ばせて裕福にしましたから、貧者による「共産革命」が起きずに済んだのかもしれません。しかし、長い目で歴史を見れば、全国 [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その6
  • 日本における封建的な寄生地主制度などが農民層の窮乏化(きゅうぼうか)をもたらし、民主化を妨(さまた)げているとみなしたGHQは、昭和20(1945)年12月に「農地改革についての覚書」の指令を日本政府に出しました。これを受けて、当時の幣原(しではら)喜重郎内閣は農地調整法を改正し、在村地主の保有限度を5町歩(ちょうぶ、約5ヘクタール)に制限した「第一次農地改革」を始めましたが、我が国の共産主義化を目論(もくろ [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その5
  • 当初は我が国に対する徹底的な封じ込め政策が目指された占領政策でしたが、米ソによる冷戦や、東アジアの共産主義化への懸念から、日本を共産主義への防波堤として存続させた方が有益であると判断したGHQは、次第に日本の経済自立主義の方針へと転じました。例えば、昭和23(1948)年2月に325社が過度経済力集中排除法の指定を受けましたが、実際に分割されたのは11社に過ぎませんでした。また、独占禁止法についても、その後の改 [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その4
  • GHQからの財閥解体の指令を受けた政府は、昭和20(1945)年11月24日に「会社制限令」を公布し、会社の解散や資産の処分に大蔵大臣の許可を必要と定め、財閥や大企業の資産凍結を図ったうえ、昭和22(1947)年までに1,200社余りを制限会社に指定しました。翌昭和21(1946)年8月には「持株会社整理委員会」が始動し、財閥の所有する株式や有価証券を譲り受けて一般に売却するなど、財閥解体の執行機関として活動しました。さらに、 [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その3
  • 公職追放によって我が国の多くの有益な人材を駆逐(くちく)したGHQが、日本弱体化政策の一環として次に目指したのは「財閥(ざいばつ)解体」と「土地政策」でした。「貧富の差を憎むとともに私有財産制を否定して、資本を人民で共有する」ことを理想とした共産主義の思想者にとって、財閥の存在は「許されざる宿敵」でしたが、同時に、GHQの立場からも日本の財閥は「アメリカ全体の敵」に見えました。なぜなら、最終的には我が国 [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その2
  • 昭和20(1945)年11月、旧立憲政友会の流れをくむ鳩山一郎を総裁として「日本自由党」が結成されると、同年12月に制定された新選挙法によって、満20歳以上のすべての男女に選挙権が与えられた後に初めて実施された、翌昭和21(1946)年の戦後初の衆議院総選挙において139議席を獲得し、第一党となりました。日本自由党は、同じく昭和20(1945)年11月に旧立憲民政党の流れをくむ大日本政治会の後継政党として結成された「日本進歩 [続きを読む]
  • 経済面の占領政策とハイパーインフレ その1
  • 先述のとおり、昭和20(1945)年10月のGHQの指令によって釈放された徳田球一らを中心に「日本共産党」が合法政党として再建されると、ソ連のコミンテルンの指示を受けた「32年テーゼ」に基づいた「天皇制」打倒の主張を占領軍が黙認したこともあり、共産党は学界や教育界・労働界を中心に急速にその勢力を伸ばし、昭和24(1949)年の衆議院総選挙では35議席を獲得するまでに成長しました。しかし、昭和25(1950)年に朝鮮戦争が勃 [続きを読む]