黒田裕樹 さん プロフィール

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黒田裕樹さん: 黒田裕樹の歴史講座
ハンドル名黒田裕樹 さん
ブログタイトル黒田裕樹の歴史講座
ブログURLhttp://rocky96.blog10.fc2.com/
サイト紹介文受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供385回 / 365日(平均7.4回/週) - 参加 2012/08/07 01:21

黒田裕樹 さんのブログ記事

  • ヴェルサイユ体制とワシントン体制 その2
  • 我が国は連合国の一員としてパリ講和会議に参加しましたが、会議において最も発言権が強かったのはアメリカでした。なぜなら、先述したように、ヨーロッパ本土で多くの血を流して共に戦ったアメリカと、山東半島や地中海など限定的な戦闘に留まった我が国とでは、他の主要な連合国であるイギリスやフランスの感謝度が全く違ったからです。かくして、講和会議はアメリカ・イギリス・フランスを中心に行われただけでなく、アメリカは [続きを読む]
  • ヴェルサイユ体制とワシントン体制 その1
  • さて、4年以上も続いた第一次世界大戦でしたが、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「十四か条の平和原則」を、ドイツが1918(大正7)年11月に受けいれたかたちによって、ようやく休戦となりました。翌1919(大正8)年1月に、フランスのパリで講和会議が開かれましたが、我が国も連合国の一国として、当時の原敬(はらたかし)内閣が、西園寺公望(さいおんじきんもち)を全権として会議に派遣しました。会議の結果、同年6月にド [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その14
  • 自国での革命に成功したソビエトは、世界の共産化をめざして1919(大正8)年に「コミンテルン」を組織しました。コミンテルンの主な目的は、各国の知識人や労働者をそそのかして、共産主義の革命団体を世界中に旗揚げし、そのすべてをソビエトからの指令によって動かすことで、各国の内部を混乱させて共産革命を引き起こそうというものでした。コミンテルンはやがて目標の一つを東アジアに定め、中国大陸内で民衆に共産主義を広め [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その13
  • そればかりか、チェコ軍の孤立を自国の領土的野心を満たす好機として我が国が進んで出兵したとか、あるいは我が国がシベリアでズルズルと駐留を続けたことで国際的な非難を浴びたというような、余りにも一方的な記述が見られる教科書もあり、当時の我が国が置かれた深刻な状況を判断することが極めて難しくなっています。なお、我が国が保障占領した北樺太ですが、国家としてのソ連が成立した後の大正14(1925)年に日ソ基本条約が [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その12
  • 尼港事件に激高した世論を受け、我が国は事件の解決まで北樺太を保障占領することを宣言しました。なぜなら、事件当時に訴えるべき相手方たる政府が、シベリアには公的に存在しなかったからです。後になって、ソビエトの革命政府が事件の非を認めてパルチザンの責任者を処刑しましたが、我が国が求めた賠償を革命政府が拒否したこともあって、現地での安全保障を重視した我が国は、大正11(1922)年までシベリアから撤兵ができませ [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その11
  • 樺太(からふと)の対岸に位置し、黒竜江(こくりゅうこう、別名をアムール川)がオホーツク海に注ぐ河口に位置する沿海州のニコライエフスクには、日本人居留民や日本軍守備隊など合わせて約七百数十名が駐留していましたが、大正9(1920)年1月下旬に、革命軍のパルチザン(=非正規の戦闘集団のこと)が包囲攻撃を仕掛けてきました。パルチザンは我が国の守備隊と一旦は講和しましたが、やがて共産主義に同調しないニコライエフ [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その10
  • いわゆる「ロシア革命」を成功させたソビエト政権は、それまで対立していたドイツと休戦し、1918(大正7)年3月に「ブレスト=リトフスク条約」を結んで、第一次世界大戦の東部戦線から軍を撤退させましたが、これはドイツが西部戦線に兵力を集中させることが可能になったことを意味していました。ドイツに戦力を集中されることを恐れたイギリス・フランス・イタリアの三国は、当時シベリアで孤立していたチェコスロバキア軍を救援 [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その9
  • 日露戦争の敗北は、ロシアを支配していたロマノフ王朝にとって大きなダメージとなっていましたが、その後も第一次世界大戦でドイツに敗北を重ねたことや、生活物資の不足にあえいだことなどによって不満を爆発させた民衆が、1917(大正6)年3月に大規模な暴動を起こし、それがきっかけとなって、ついにロマノフ王朝が倒されました。これを「三月革命」といいますが、ロシアが当時使用していた暦に合わせて「二月革命」とも呼ばれて [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その8
  • 日露戦争後に国交を修復した我が国とロシアは、明治40(1907)年から三次にわたって日露協約を結び、お互いの利害関係を調整しましたが、第一次世界大戦で両国が共に連合国側に属したことによって、関係はさらに深くなりました。大正5(1916)年、我が国とロシアは第四次日露協約を結び、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認したほか、両国の軍事同盟的な関係を強化しました。また、翌大正6(1917)年にはイギリスとの [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その7
  • さて、1916(大正5)年に袁世凱が急死すると、チャイナは軍閥割拠(ぐんばつかっきょ)の時代となり、多くの軍閥が独自の活動を見せるようになりましたが、第二次大隈重信内閣の後を受けた寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣は、軍閥のうち北京政府に積極的に関わろうとしました。寺内内閣は西原亀三(にしはらかめぞう)を北京に派遣(はけん)して、袁世凱の後継となった段祺瑞(だんきずい)政権に対して巨額の借款(しゃっかん [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その6
  • 嘉永(かえい)6(1853)年にペリーが我が国に来航して以来、アメリカは我が国に対して一定の理解を示し続けた国でした。だからこそ、我が国は日露戦争の終結へとつながったポーツマス条約の締結を、アメリカのセオドア=ルーズベルト大統領に斡旋(あっせん)してもらったのです。しかし、我が国が日露戦争に勝利したという事実は、アメリカをして我が国に警戒感を植え付けせしむ結果をもたらしましたし、さらに、前回(第64回) [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その5
  • 我が国からの提案内容そのものは、当時の国際情勢から考えても不当な要求をしたとは決して言えず、また提案を受けた側の袁世凱自身も、大筋では妥当(だとう)な内容であると考えていました。しかし、少しでも我が国からの干渉を逃れたいと思った袁世凱は、極秘のはずだった提案内容を外部へ漏(も)らしたほか、我が国からの提案を「要求」と捏造(ねつぞう)して、我が国の「不当」を喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)しま [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その4
  • 先述のとおり、我が国は第一次世界大戦において、ドイツが租借していた青島(チンタオ)の攻略に成功しましたが、その後に中国国民党の袁世凱(えんせいがい)政府が、我が国が青島から撤退することを要求してきました。正規の戦争において獲得した権益の返還を求められたのであれば、相手国にその代償を求めるのは当然の権利です。かくして、我が国は大正4(1915)年1月に、袁世凱政府に対して、チャイナにおける満州(現在の中国 [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その3
  • 中国大陸の山東(さんとう)半島に出兵した我が国は、ドイツが租借(そしゃく、他国の領土の一部を一定の期間を限って借りること)していた膠州(こうしゅう)湾の青島(チンタオ)を占領したほか、太平洋へと逃れたドイツの東洋艦隊を追撃して、ドイツ領だった南洋諸島も占領しました。また、我が国は海軍を地中海やインド洋・太平洋など各地へ派遣して、連合国の商船や輸送船の護衛などを担当しましたが、ヨーロッパ戦線に陸軍を [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その2
  • 1914(大正3)年6月、オーストリアの皇位継承者夫妻が、バルカン半島のボスニアの州都サライェヴォ(=サラエボ)で、セルビア人の民族主義者に暗殺されました。オーストリアが報復として翌7月末にセルビアに宣戦布告をすると、同盟や協商関係によって、8月にはドイツとロシアの戦争に拡大し、さらにはイギリスやフランスもロシア側について次々と参戦しました。こうして、戦いはドイツ側の同盟国と、イギリス側の連合国とによって [続きを読む]
  • 第一次世界大戦とロシア革命 その1
  • 大航海時代以来、ヨーロッパの白色人種(=白人)による世界征服と植民地化は、帝国主義(=政治や経済、軍事などの面で他国の犠牲において自国の利益や領土を拡大しようとする思想や政策のこと)という歴史の大きな流れを招きましたが、その勢いはヨーロッパ各国に微妙な温度差をもたらしていました。イスパニア(=スペイン)やポルトガルによって始まった大航海時代は、やがてイギリス・オランダ・フランスによる海外進出をもた [続きを読む]
  • 第65回「黒田裕樹の歴史講座」大阪講演の報告
  • 3月25日に行いました第65回黒田裕樹の歴史講座「日本外交史 その六」(大阪講演)には、36名の皆様がご参加くださり、盛況となりました。今回も約2時間の講演という長丁場でしたが、皆様に32頁のレジュメを配布していたことで、いつものように分かりやすくまとめられたのでは自負しております。いずれの時代も大切ではありますが、基本的にあまり知られていない近現代史への啓発はやはり重要ですね。次回(第66回)の歴史講座は、 [続きを読む]
  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合 その11
  • 遼東半島の旅順や大連の租借権をロシアから得たことによって、我が国は満州の権益を持つことになりました。明治39(1906)年には関東都督府(かんとうととくふ)が旅順に置かれ、半官半民の南満州鉄道株式会社(=満鉄)が大連に設立されました。満鉄は旧東清(とうしん)鉄道や、鉄道沿線の鉱山や炭坑(たんこう)を経営して開発を行いました。なお、この場合の関東とは、旅順・大連とその付属地域を指していたことから、当地が「 [続きを読む]
  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合 その10
  • 日韓併合における重い負担は、内政面も同様でした。日本政府は、朝鮮半島内の生活水準を本国並みに引き上げることを目標としましたが、併合当時これといった産業が見当たらなかった朝鮮半島において、工業を興(おこ)してインフラを整備することは、途方(とほう)もない大事業でした。結局、我が国は朝鮮に対して、保護国の頃に当時の費用で1億円(現在の価値で約3兆円)を支援したのみならず、併合時代の35年間においても、約20 [続きを読む]
  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合 その9
  • さて、我が国は韓国を保護国にするという当初の思惑とは全く異なり、結果的に併合することになってしまいましたが、このことが、軍事面や内政面などにおいて、我が国の大きな負担となりました。なぜなら、日韓併合によって、韓国は日本の領土となりましたから、朝鮮半島の安全保障も、当然のように本国並みの基準に引き上げなければならないからです。日露戦争の勝利によって、ロシアは確かに朝鮮から手を引きましたが、だからと言 [続きを読む]
  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合 その8
  • 朝鮮が我が国に併合されたことで、日本政府は、朝鮮内の衛生の改善や植林事業などを行いました。また、併合前から始めていた、土地制度の近代化を目的とした土地調査事業も本格化に行い、土地の一部が東洋拓殖(たくしょく)会社に払い下げられるなどによって、大正7(1918)年までに完了しました。この他、明治45(1912)年には土地調査令を公布して、地税の公平な賦課(ふか、租税などを割り当てて負担させること)を実現すると [続きを読む]
  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合 その7
  • 安重根による伊藤博文の暗殺という大事件は、我が国の世論を激怒させたのみならず、韓国を震撼(しんかん)させました。日本による報復行為を恐れた韓国政府や国民の反応は、韓国内の最大の政治結社であった一進会(いっしんかい)が日韓合併の声明書を出したこともあって、次第に併合へと傾くようになりました。しかし、我が国は併合に対してあくまで慎重でした。日韓併合が国際関係にどのような影響をもたらすのかを見極める必要 [続きを読む]
  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合 その6
  • 明治42(1909)年10月26日、伊藤博文はロシアの外務大臣と会う目的で訪れた満州のハルビン駅で、韓国人の民族運動家であった安重根(あんじゅうこん)にピストルで撃たれて殺されました。熱心な愛国家であったとされる安重根からしてみれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤の罪は重く、また伊藤こそが韓国を併合しようとしている首謀者だと考えたのかもしれません。しかし、伊藤が韓国人によって殺されるということは、現実 [続きを読む]
  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合 その5
  • ハーグ密使事件を受けて韓国への感情が悪化した我が国では、保護国ではなく韓国を日本の領土として併合するべきだという意見が強くなりましたが、そんな情勢に身体を張って反対したのが、初代統監の伊藤博文でした。伊藤としては、韓国の独立国としてのプライドを守るために、近代的な政権が誕生するまでは外交権と軍事権のみを預かり、その後に主権を回復させる考えだったのです。教育者であるとともに植民地政策に明るかった新渡 [続きを読む]
  • 日露戦争後の国際関係と日韓併合 その4
  • こうして韓国は我が国の保護国となりましたが、これは韓国皇帝の高宗(こうそう)にとっては屈辱的なことでした。このため、高宗は自身も認めた国際的な条約であったにもかかわらず、自国の外交権回復を実現するために、1907(明治40)年にオランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使を送って、第二次日韓協約の無効を訴えました。これを「ハーグ密使事件」といいます。しかし、会議に出席していた列強諸国が条約の違 [続きを読む]