黒田裕樹 さん プロフィール

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黒田裕樹さん: 黒田裕樹の歴史講座
ハンドル名黒田裕樹 さん
ブログタイトル黒田裕樹の歴史講座
ブログURLhttp://rocky96.blog10.fc2.com/
サイト紹介文受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供386回 / 365日(平均7.4回/週) - 参加 2012/08/07 01:21

黒田裕樹 さんのブログ記事

  • 厳しい制限貿易による「鎖国」の完成 その5
  • 江戸幕府が貿易を厳しく統制した理由の第2は、貿易の利益を幕府が独占するためでした。なぜなら、貿易は必ずと言っていいほど儲(もう)かるからです。外国から「輸入する」ということは、その商品が我が国では手に入らなかったり、手に入ったとしても非常に高価だったりするのが普通です。と言うことは、輸入によって仕入れた商品は、相手がどんなに高価でも手に入れようとしたり、あるいは安く大量に手に入れたりすることによっ [続きを読む]
  • 厳しい制限貿易による「鎖国」の完成 その4
  • ここまで述べてきたように、設立初期の江戸幕府は、平和的な海外貿易に積極的でした。しかし、時が流れるにつれて、幕府は次第に貿易を厳しく統制するようになりましたが、その理由は主に2つありました。理由の第1は、キリスト教(=カトリック)の問題でした。幕府は始めのうちはカトリックを黙認していましたが、一神教(いっしんきょう)であるキリスト教の性質から、仏教や儒教(じゅきょう)との対立が深刻化しており、キリシ [続きを読む]
  • 厳しい制限貿易による「鎖国」の完成 その3
  • 豊臣秀吉の時代から、多くの日本人が海外に進出していましたが、家康も秀吉の政策を引き継ぎ、海外貿易に従事する商人たちに対して、渡航を許可する「朱印状(しゅいんじょう)」を与え、その活動を保護しました。朱印状を与えられた船を「朱印船」といい、貿易の名前は「朱印船貿易」と呼ばれました。当時の貿易の主な輸入品は、チャイナで生産された生糸(きいと)でしたが、マカオを拠点(きょてん)とするポルトガル商人が、生 [続きを読む]
  • 厳しい制限貿易による「鎖国」の完成 その2
  • さて、江戸幕府はオランダに慶長14(1609)年、イギリスには慶長18(1613)年にそれぞれ貿易の許可を与えて、肥前(ひぜん、現在の佐賀県と長崎県に相当)の平戸(ひらど)に商館を設けて貿易を始めさせました。家康はイスパニアとの交易にも積極的で、慶長14(1609)年に上総(かずさ、現在の千葉県の一部)に漂着した、ルソンの前総督ドン=ロドリゴを翌慶長15(1610)年に船で送還する際に、京都の商人であった田中勝介(たなか [続きを読む]
  • 厳しい制限貿易による「鎖国」の完成 その1
  • 16世紀後半のヨーロッパは、大きな変化が起きていました。1581年にはオランダがイスパニアの支配を脱して独立を宣言し、また1588年には、前回(第62回)の講演で紹介したように、イギリスがイスパニアの無敵艦隊をアルマダの海戦で破ったことにより、オランダとイギリスがヨーロッパの新興勢力となりました。そんな折の慶長(けいちょう)5(1600)年、オランダ船のリーフデ号が豊後(ぶんご、現在の大分県の大部分)に漂着(ひょ [続きを読む]
  • 第63回「黒田裕樹の歴史講座」大阪講演の報告
  • 12月4日に行いました第63回黒田裕樹の歴史講座「日本外交史 その四」(大阪講演)には、42名の皆様がご参加くださり、盛況となりました。今回は江戸時代の外交史でありながら、現代にも潜む様々な問題提起を行わせていただきました。歴史はつながっているからこそ、二度と同じ間違いを繰り返してはならないのです。次回(第64回)の歴史講座は、平成30年1月20日(土)午後3時より東京・飯田橋で、並びに1月27日(土)午後6時30分 [続きを読む]
  • 明治新政府の発足・メルマガ編 その8
  • 明治元(1868)年旧暦7月、明治天皇の名において、江戸は「東京」と改められ、東京府が置かれました。続く8月には、京都で明治天皇の即位の礼が行われ、9月8日には、元号がそれまでの慶応から明治へと改められました。明治の元号は慶応4年旧暦1月1日からさかのぼって適用され、以後は天皇一代につき元号一つと決められました。これを一世一元の制といいます。一世一元の制によって、天皇が交代するまでは同じ元号を使用するととも [続きを読む]
  • 明治新政府の発足・メルマガ編 その7
  • 桓武(かんむ)天皇が794年に平安京へ遷都(せんと)されて以来、一時的な例外を除いて、京都は我が国の首都でしたが、大政奉還から王政復古の流れのなかで、政治の刷新という意味も込めて、新しい首都を定めようという雰囲気が高まりました。新政府の内部では、大久保利通(おおくぼとしみち)が大坂(=現在の大阪)への遷都を主張しましたが、江戸城が無血開城となり、江戸の街が戦火によって都市機能を破壊されることなく新政 [続きを読む]
  • 明治新政府の発足・メルマガ編 その6
  • 五箇条の御誓文で新しい政治の基本方針を示した明治政府でしたが、その一方で、国内の治安維持をどうするかということも、緊急を要する課題でした。幕末以来の政治の激変が深刻な社会不安をもたらしたところへ、曲がりなりにも260年以上続いていた幕府が崩壊したことによって、さらなる混乱が予想されたからです。そこで、政府は応急の措置として、五箇条の御誓文が発表された翌日の明治元(1868)年旧暦3月15日に、全国の庶民に向 [続きを読む]
  • 明治新政府の発足・メルマガ編 その5
  • 明治元(1868)年旧暦閏(うるう)4月、新政府は政体書を公布し、五箇条の御誓文で示された方針に基づく政治組織を整えました。具体的には、王政復古の大号令で定められた総裁・議定(ぎじょう)・参与のいわゆる三職を廃止し、太政官(だじょうかん)にすべての権力を集中させ、その下に立法権を持つ議政官(ぎせいかん)・行政権を持つ行政官・司法権を持つ刑法官を置くとする、三権分立制を採り入れました。三権分立制について [続きを読む]
  • 明治新政府の発足・メルマガ編 その4
  • 五箇条の御誓文の内容は以下のとおりです。一、広ク会議ヲ興シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スヘシ[意味:広く会議を開いて、あらゆることを公(おおやけ)の議論の場で決定すべきである]一、上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ盛(さかん)ニ経綸(けいりん)ヲ行フヘシ[意味:上の者も下の者もお互いに協力して、国家を治める政策を行うべきである]一、官武(かんぶ)一途庶民ニ至ル迄各(おのおの)其(その)志(ここ [続きを読む]
  • 明治新政府の発足・メルマガ編 その3
  • 明治天皇は明治元(1868)年旧暦3月14日に、新しい政治の基本方針をまとめた五箇条を、百官(=数多くの役人)を率いて天神地祇(てんしんちぎ、すべての神々)にお誓いされました。これを五箇条の御誓文(ごせいもん)といいます。五箇条の御誓文の主な内容としては、公議世論(=世の多くの人々の様々な議論のこと)の尊重や、攘夷をせずに開国和親を推進することなどが挙げられますが、これらは明治新政府にとっての、いわゆる [続きを読む]
  • 第63回「黒田裕樹の歴史講座」東京講演の報告と大阪講演のお知らせ
  • 11月25日に行いました第63回黒田裕樹の歴史講座「日本外交史 その四」(東京講演)には、当日に多くの行事が目白押しだったところを、10名の皆様がお越しくださいました。今回は江戸時代の外交がメインではありますが、実は現代にもつながっている話であることを、講演の終盤で時間をかけて説明しました。参加者の皆様の反応も大変良かったです。次回(12月2日)は大阪講演を行います。多数の皆様にお越しいただけることを心より [続きを読む]
  • 明治新政府の発足・メルマガ編 その2
  • このままでは我が国も他国の植民地とされてしまうのではないか、という危機感をもった明治新政府は、欧米列強と肩を並べるためにも、一刻も早い近代国家としての確立を目指さなければなりませんでした。しかし、それまで260年以上も政治を行ってきた江戸幕府に比べ、産声(うぶごえ)をあげたばかりの新政府が、いくら優れた政策を実行しようとしたところで、果たしてどれだけの国民がついてくるというのでしょうか。そこで、新政 [続きを読む]
  • 明治新政府の発足・メルマガ編 その1
  • ペリーによる黒船来航のいわゆる幕末の頃から、明治新政府によって我が国が近代国家として新たな歩みを始める一連の歴史の流れを、一般的に明治維新といいますが、当時は「御一新」と呼ばれました。徳川家による江戸幕府の大政奉還から王政復古の大号令を経て、政治の実権を握った明治新政府でしたが、その前途は多難であり、なさねばならない課題が山積していましたが、なかでも最大の問題は、「いかにして我が国の独立を守り、他 [続きを読む]
  • 戊辰戦争の悲劇・メルマガ編 その9
  • 榎本武揚(えのもとたけあき)らの旧幕府海軍は、会津戦争が続いていた明治元(1868)年旧暦8月に江戸を脱出し、仙台で新選組の土方歳三(ひじかたとしぞう)ら旧幕府軍の残存兵を収容した後に蝦夷地へと向かうと、年末までに蝦夷地を平定して、箱館の五稜郭(ごりょうかく)を拠点とする蝦夷共和国を樹立しました。しかし、新政府は蝦夷共和国を認めず、雪解けを待って翌明治2(1869)年に攻め込みました。これを箱館戦争といいま [続きを読む]
  • 戊辰戦争の悲劇・メルマガ編 その8
  • 上野戦争の勝利によって江戸を支配下に置いた新政府軍は、戦いの矛先(ほこさき)を、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成していた東北諸藩に向けましたが、特に会津藩(あいづはん)に対しては執拗(しつよう)に攻めました。なぜなら、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)が、京都守護職として討幕派と何度も衝突していたからです。なかでも長州藩は、会津藩が預かっていた新選組(しんせんぐみ)による池 [続きを読む]
  • 戊辰戦争の悲劇・メルマガ編 その7
  • 江戸城の無血開城によって、大規模な戦乱は回避されましたが、戦わずして降伏することを嫌った旧幕臣を中心とする抗戦派は、各地で戦闘を続けました。このうち、江戸の上野では彰義隊(しょうぎたい)が結成され、寛永寺に立てこもって抵抗しました。このため、新政府軍は長州藩の大村益次郎(おおむらますじろう)が明治元(1868)年旧暦5月15日に総攻撃を加えました。これを上野戦争といいます。戦争当時、彰義隊は約1,000人の兵 [続きを読む]
  • 戊辰戦争の悲劇・メルマガ編 その6
  • 西郷と勝との話し合いは、明治元(1868)年旧暦3月13日から14日にかけて、江戸の薩摩藩屋敷で行われました。その結果、旧幕府は江戸城を無傷で明け渡し、慶喜は故郷の水戸で自主的に謹慎するという、極めて平和的な内容で決着し、西郷は翌15日に行う予定であった江戸城への攻撃を中止しました。この後、4月に江戸城は無血開城となり、戦いで多くの血が流されることを回避したほか、人口が100万人を超えた、世界でも最大規模の都市 [続きを読む]
  • 戊辰戦争の悲劇・メルマガ編 その5
  • 山岡が「慶喜の備前藩お預け」を拒否すると、西郷も「これは朝命(ちょうめい、朝廷の命令=天皇の命令のこと)である」と一歩も引きませんでした。二人の話し合いは平行線をたどり、もはや決裂かと思われたその時、山岡が決死の思いで西郷に迫りました。「西郷さん、もしあなたと私の立場が逆になって、島津侯(しまづこう、島津の殿様のこと)を他藩に預けろと言われれば、あなたはその条件を受けいれるつもりですか!」山岡の気 [続きを読む]
  • 第63回「黒田裕樹の歴史講座」(東京&大阪講演)のお知らせ
  • いつも「黒田裕樹の歴史講座」をご覧いただきまして有難うございます。ブログのもう一つの目玉である「本物の歴史講座」ですが、次回(第63回)は「日本外交史 その四」と題し、江戸時代全体の外交の流れを詳しく紹介します。なお、今回の大阪講演の会場が「関西大学梅田キャンパス」になりますので、お間違えのないようにご注意ください(アクセスはこちらです)。 ( で拡大されます)講座に参加をご希望の皆様(特に東京 [続きを読む]
  • 戊辰戦争の悲劇・メルマガ編 その4
  • 鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、朝敵と定めた徳川慶喜の征討軍を編成して、江戸へ向かわせましたが、征討軍が駿府(すんぷ、現在の静岡)にまで迫ってくると、旧幕臣で少し前まで陸軍総裁であった勝海舟(かつかいしゅう)が、早期の停戦と江戸城の開城を慶喜に進言し、交渉を委任されました。江戸を動くことが出来ない勝は、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)を使者として駿府へ向かわせ、明治元(1868)年旧暦3月9日に、官 [続きを読む]
  • 戊辰戦争の悲劇・メルマガ編 その3
  • 徳川慶喜は、御三卿(ごさんきょう)の一橋家(ひとつばしけ)の当主でしたが、元々は御三家の水戸藩から養子に入っていました。水戸藩では水戸学が発達していましたが、これは江戸幕府が「主君に忠誠を誓う」という内容から、公式の学問として採用した朱子学からの大きな流れが基本となっていました。ところが、幕末の頃の水戸学は、「主君としてふさわしいのは、幕府よりもむしろ天皇を中心とする皇室である」とし、また欧米列強 [続きを読む]
  • 戊辰戦争の悲劇・メルマガ編 その2
  • 鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍が錦の御旗を掲げた新政府軍に敗れ去ったという報告を受けた慶喜は、大坂城から深夜に密かに脱出し、海路で江戸へ向かいました。主を思わぬかたちで失った旧幕府軍は、大坂を放棄して総崩れとなりました。戦いに勝利した新政府軍は、慶喜を正式に朝敵とみなし、征討軍を江戸へと向かわせました。この中には、赤報隊(せきほうたい)を結成し、年貢を半減すると公約して農民の支持を得ようとしたものの [続きを読む]
  • 戊辰戦争の悲劇・メルマガ編 その1
  • 明治元(1868)年旧暦1月3日、旧幕府軍は、薩長を中心とする新政府軍と京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で激突しました。これを鳥羽・伏見の戦いといいます。戦い当時の兵力は、旧幕府軍が15,000名に対して、新政府軍は5,000名しかおらず、旧幕府軍は有利な戦いが出来ると思い込んでいました。しかし、いざ蓋(ふた)を開けてみれば、新政府軍の勝利に終わったのです。新政府軍が勝利した大きな理由の一つとしては、旧幕府軍と [続きを読む]