黒田裕樹 さん プロフィール

  •  
黒田裕樹さん: 黒田裕樹の歴史講座
ハンドル名黒田裕樹 さん
ブログタイトル黒田裕樹の歴史講座
ブログURLhttp://rocky96.blog10.fc2.com/
サイト紹介文受験対策にも万全!現役高校教師による「分かりやすくて楽しい」歴史ブログです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供384回 / 365日(平均7.4回/週) - 参加 2012/08/07 01:21

黒田裕樹 さんのブログ記事

  • 湾岸戦争の大きな教訓 その6
  • 海上自衛隊のペルシャ湾への掃海艇派遣を通じて、人的支援の重要性を再認識した日本政府は「現行憲法の枠内で自衛隊を海外派遣することが可能かどうか」を検討し始めるとともに、国内でも大きな議論となりました。政府は「国際貢献という観点から、戦闘終結地域への、戦闘目的以外の自衛隊の派遣であれば可能である」との判断を下し、湾岸戦争の翌年に当たる平成4(1992)年に「国際平和協力法(PKO協力法)」を成立させ、「国連平 [続きを読む]
  • 湾岸戦争の大きな教訓 その5
  • 湾岸戦争で人的支援を見送ったことで、国際的な批判を浴びた我が国は、平成3(1991)年4月24日に、政府が「我が国の船舶(せんぱく)の航行の安全を確保する目的で、ペルシャ湾における機雷の除去を行うため、海上自衛隊の掃海艇(そうかいてい)を派遣する」と決定しました。昭和29(1954)年に自衛隊が発足して以来、初めてとなった海外派遣は、国連や東南アジア諸国の賛成もあって、6月5日から他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃 [続きを読む]
  • 湾岸戦争の大きな教訓 その4
  • 湾岸戦争で我が国がとった行動は、平たく言えば「カネは出しても、人は出さない」ということですが、これがいかに問題であるかということは、以下の例え話を読めば理解できるはずです。ある地域で大規模な自然災害が発生しましたが、これ以上の被害を防ぐための懸命な作業が行われていました。自分自身のみならず、愛する家族の生命もかかっていますから、全員が命がけです。しかし、この非常時において、地域の資産家が「そんな危 [続きを読む]
  • 湾岸戦争の大きな教訓 その3
  • かくして、イラクによるクウェート侵攻から湾岸戦争への流れにおいて、我が国は支援国の中で最大の合計130億ドル(約1兆7,000億円)もの財政支援を行いましたが、人的支援をしなかったことによって、国際社会から冷ややかな目で見られました。湾岸戦争後、クウェート政府はワシントン・ポスト紙の全面を使って、国連の多国籍軍に感謝を表明する広告を掲載(けいさい)しましたが、その中に日本の名はありませんでした。また、湾岸 [続きを読む]
  • 湾岸戦争の大きな教訓 その2
  • イラクによるクウェート侵攻に対して、我が国は平成2(1990)年8月5日に、アメリカからの要請によってイラクへの経済制裁に同意するとともに、同月下旬から9月上旬にかけて、国連の多国籍軍へ総額40億ドル(約5,200億円)の支援を発表しました。しかし、アメリカが我が国に求めていたのは、経済よりも「人的支援」でした。「日本は何らリスクを負おうとはしない」という批判に対して、当時の海部俊樹(かいふとしき)内閣は、自衛 [続きを読む]
  • 湾岸戦争の大きな教訓 その1
  • 先述のとおり、1989(平成元)年12月に、アメリカのブッシュ大統領とソ連(当時)のゴルバチョフ書記長とが、地中海のマルタ島で会談し、両首脳によって「冷戦の終結」が発表されましたが、その後も世界の各地域で紛争が続きました。1990(平成2)年8月2日、イラク軍が突然クウェート領内に侵攻して軍事占領したうえ、クウェートの併合を宣言しました。これに対して、国連安保理事会は直ちにイラクを非難し、アメリカを中心に多国 [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その19
  • 中華人民共和国の強硬姿勢は、チベットやウイグルなどの少数民族にも容赦なく襲(おそ)い掛かりました。チベット人などによる、抗議の意味を込めた焼身自殺が後を絶たないなど、中華人民共和国による民族抑圧は、世界中からの非難を浴びて、大きな国際問題となっています。これに対し、1989(平成元)年には、チベットのダライ・ラマ14世が、世界平和やチベット宗教・文化の普及に対する貢献が評価され、ノーベル平和賞を受賞しま [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その18
  • 聖徳太子(しょうとくたいし)以来、我が国の国是(こくぜ)であった「チャイナ」との「対等外交」を闇(やみ)に葬(ほうむ)り去ってしまった宮澤喜一首相の行為は、まさに「国賊的」といえるでしょう。かつて官房長官時代に起きた「教科書誤報事件」をきっかけとして「近隣諸国条項」を勝手に創設し、我が国の歴史(あるいは公民)教科書の検閲権を中華人民共和国や韓国に売り渡した宮澤首相は、天皇陛下まで「チャイナ」に売り [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その17
  • 天安門事件による世界からの孤立に悩んでいた中華人民共和国は、日本の天皇を自国へ招き、友好的な姿勢を演出して、国際世論を軟化させようと目論みましたが、これは我が国にとっては到底(とうてい)受けいれられないことでした。なぜなら、東アジアにおいて、周辺の国がチャイナを訪問することが「朝貢(ちょうこう)」とみなされていたからです。ということは、もし天皇陛下がチャイナの都を訪問されれば、それは我が国が「チャ [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その16
  • ソ連や東欧の共産主義国家が民主化に向かって進み始めた世界の流れは、同じ共産主義国家である中華人民共和国の国民にも大きな刺激となり、1989(平成元)年4月の胡耀邦(こようほう)元共産党書記長の死去をきっかけとして、学生や市民が民主化を求めて、北京の天安門広場でデモを展開するようになりました。しかし、中華人民共和国は、同年5月20日に北京に戒厳令(かいげんれい)を発すると、6月4日には人民解放軍が学生や市民に [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その15
  • 大東亜戦争以前より、我が国にとって最大の脅威となっていたソ連が消滅したことで、我が国の保守系の識者の多くは「これで我が国の思想や言論の流れが変わるだろう」と安堵(あんど)しました。しかし、そんな保守系の「油断」の隙を突くかたちで、左翼系の「進歩的文化人」と呼ばれた人々は、自らの思想を満足させるために、ソ連崩壊以前から続けていた「日本の歴史から、中華人民共和国や韓国の好みそうな問題を取り上げ、両国に [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その14
  • しかし、ロシア共和国大統領であったエリツィンの呼びかけもあって、クーデターが失敗に終わると、それをきっかけにソ連共産党が事実上解体し、バルト三国のうち、残りのエストニアとラトビアの独立が承認されるなど、ソ連の弱体化が一気に加速しました。そして、同年12月までに「ソビエト社会主義共和国連邦」を構成していた共和国のすべてが独立を宣言したことで、ソ連は崩壊し、新たにロシア共和国などからなる独立国家共同体( [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その13
  • 国家財政の立て直しを図ったゴルバチョフ大統領は、ペレストロイカなどの改革を次々と行ったものの、経済の停滞は依然として続き、1990(平成2)年に入ると、ソ連都市部の食糧不足が深刻化するようになり、ゴルバチョフは西側諸国を訪問して、経済援助を懇願(こんがん)しました。また、第二次世界大戦中にソ連に併合された、エストニア・ラトビア・リトアニアのいわゆる「バルト三国」がそれぞれ独立を主張するようになり、ソ連 [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その12
  • 大東亜戦争で我が国は敗北しましたが、欧米列強の植民地であった東南アジアの国々は戦後に次々と独立を果たし、日本を目標に新たな国家の運営を行いましたが、経済大国となった我が国が、アジア全体にその技術力を伝授したことによって、マレーシアやインドネシアなども次々とハイテク製品をつくり、東欧諸国に輸出するようになりました。黄色人種どころか、自分たちが人間扱いしてこなかった旧植民地の被支配者層がつくった製品で [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その11
  • かつて我が国は、明治維新から日清戦争・日露戦争を経て、短期間で世界の大国にまで駆け上りました。しかし、欧米列強の白色人種国家に目の敵(かたき)にされ、近代国家の運営に不可欠な石油を禁輸されたことがきっかけとなって、我が国は大東亜戦争を戦い、そして敗れました。その後、占領期から朝鮮特需、そして高度経済成長を経て、見事に復興を成し遂げ、世界有数の経済大国となった我が国は、二度にわたる石油危機も乗り越え [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その10
  • アメリカとの冷戦終結を実現したソ連のゴルバチョフは、同時に国内における改革を継続するため、1988(昭和63)年に憲法を修正して、翌1989(平成元)年には国会に相当する人民代議員大会を開設すると、さらに翌1990(平成2)年には新設された大統領に自ら就任しました。しかし、アメリカと和解するために軍縮に踏み切ったことは、ソ連の軍事力が低下したと同時に、他の東欧諸国に対する締め付けが弱くなったことを意味していまし [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その9
  • アメリカとの軍拡競争によって経済状況が極端に悪化したソ連でしたが、何とか体制を立て直そうとする政治家があらわれました。1985(昭和60)年に共産党書記長に就任したゴルバチョフです。就任当時54歳の若さだったゴルバチョフは、それまでの社会主義体制の立て直し(これを「ペレストロイカ」といいます)に着手し、情報公開(これを「グラスノスチ」といいます)を軸とした政治や社会の自由化を推進しました。また、アメリカと [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その8
  • 私有財産を認めない社会主義国家では、経済の運営を国家が計画的に管理するという、いわゆる「計画経済」が行われました。ということは、仮に事業に成功しても、国民は私産を一切得られませんし、それどころか、どれだけ頑張って働いたとしても、計画経済の下では、ノルマのみを実現させた人間と同じ価値としか見られないのです。このような体制で、どうやって労働意欲を高められるというのでしょうか。計画経済が長く続いたことは [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その7
  • さて、ソ連との軍拡競争によって、先述したように世界最大の債務国に転落したアメリカでしたが、自由主義(資本主義)国家であったことから、景気の回復などによって財政再建を実現できる余地が残されていました。なぜなら、自由主義社会を本当に回しているのは、他でもない資産家、すなわち「金持ち」だからです。金持ちが産業を創造し、人を雇い、また贅沢(ぜいたく)をすることによって、国の資産が循環するとともに、新たな文 [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その6
  • ところが、冷戦の終結とソ連崩壊後の1990年代に入ると、「世界の警察」を自任したアメリカが、それに伴う国際的な非難や、軍事費の莫大(ばくだい)な増強もあって、かつての勢いに陰りが見られるようになりました。我が国もバブル崩壊(詳しくは次回の講演で紹介します)後の不況が長引いたこともあって、国内総生産(=GDP)が30年近く前からほとんど上昇していないほど経済が停滞(ていたい)していますし、またイギリスもヨー [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その5
  • イギリスと日本との連携によって、アメリカはソ連との軍拡競争に結果として勝ち抜くことになったのですが、裏を返せば、1980年代後半の世界は、日米英の3か国で動かすことが可能であったということを意味していました。なお、我が国が戦後に「国際情勢をも動かすことができる大国」として本格的に復活したのは、中曽根内閣の頃からです。中曽根氏には「靖国神社への参拝を取りやめた」という大きな失点があり、評価の分かれるとこ [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その4
  • さて、イギリスのサッチャー政権と協調したレーガン大統領でしたが、日本に対して貿易摩擦に対する厳しい姿勢を見せた一方で、外交面では我が国との関係をむしろ強めました。当時の我が国は中曽根康弘首相の時代でしたが、中曽根首相はレーガンと愛称で呼び合う(いわゆる「ロン・ヤス」)ほどの関係を構築し、日米関係は一気に緊密化しました。レーガンが日本を味方に引き入れたのには大きな理由がありました。円高不況を乗り越え [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その3
  • ソ連によるアフガニスタン侵攻を受けて、1981(昭和56)年に新たに共和党のロナルド・レーガンが大統領となったアメリカでは、大幅な減税や規制緩和による経済再建が図られました。また、当時のイギリスのサッチャー首相(保守党)は、経済に対する政府の過度の介入を避け、民間の活力に重きを置いた「小さな政府」をめざそうとする「新保守主義」を唱えていましたが、レーガンはサッチャー政権と協調したうえで「強いアメリカ」を [続きを読む]
  • 冷戦体制の崩壊 その2
  • ソ連の暗躍(あんやく)によって親ソ政権が誕生したアフガニスタンでしたが、1979(昭和54)年9月に再びクーデターが起こって政権が倒れると、ソ連は同年12月にアフガニスタンに軍事介入を行いました。ソ連による軍事介入は、中東包囲網の一環であるアフガニスタンを手放さないというソ連の意思を世界に示すとともに、ソ連の武力進攻がこの後もあり得るという厳然たる事実を明らかにしましたが、北方領土におけるソ連の軍事力増強 [続きを読む]
  • 第69回「黒田裕樹の歴史講座」東京講演の報告と大阪講演のお知らせ
  • 11月18日に行いました第69回黒田裕樹の歴史講座「戦後史検討 その4 〜混迷から復活へ」(東京講演)には、16名の皆様がお越しくださいました。主として平成元年前後から平成24年までを振り返ることになった今回ですが、当時の私たちが気づかなかった数々のトリックが明らかになるにつれて、会場全体の雰囲気が重苦しくなっていくのを感じました。これもまた「歴史に学ぶ」ことです。次回(11月24日)は大阪講演を行います。多数の [続きを読む]