仁保裕介 さん プロフィール

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仁保裕介さん: 真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのため
ハンドル名仁保裕介 さん
ブログタイトル真実なクリスチャンライフを求めて〜自由な祈りのため
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/chlife/
サイト紹介文キリストへの祈りは生活の現場から誰にでも自由にできます。キリストは呼び求める人と共に居る方です。
自由文このブログでは、痛みの連鎖のある世界について、祈りを共有し、見るべきこと知るべきことを探していきます。皆がぶつかって考え込むような共通のことを書いています。
クリスチャン2世として、教会の問題、カルト化の問題について、傷を受けた皆さんと共に祈り、教会・教派主義からの脱出と信仰について、自立を目指す現実的視点で触れていきます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供71回 / 365日(平均1.4回/週) - 参加 2013/01/20 12:52

仁保裕介 さんのブログ記事

  • なすべき現実の行いと祈り
  • クリスチャンがなすべき行いは、救われるための善行ではなく、負うべき十字架の重荷ではないでしょうか。それぞれの人生にある違う関心や避けられない体験から神を求め祈るなら、自分と隣人を生かす発見があり、そこに助けが必ずあります。信仰は逃避と言う人もいます。ある時は、確かに神は我らの避け所です。毎日、瞬間瞬間祈るなら、神は確かな避け所です。しかし、それは現実を知って叫ぶから避け所なのであって、それぞれ受け [続きを読む]
  • 痛みのある弱さのある人になることが成長
  • 人は皆、強くなることが成長だと思っていますよね。しかし、キリストを見ると、私たちのゴールは弱さに留まって祈り、隣人の痛み苦しみを感じる存在になること、それこそが信仰の強さだと思うのです。キリストが栄光に入られたのは、地に下り死にまで従われたから、と聖書にあります。父のみ心に従って、人の弱さに留まり、多くの人と交流し、病と悩みと祈りと願いを担いました。神の愛ゆえに、罪に死に行く人間を見捨てることはせ [続きを読む]
  • 神の声を聞き、人の話を聞かない教会とは
  • 教会も罪ある人の集まりですが、一部の人が神がかり的に教会を美化したり高揚していたりします。聖霊はどこででもキリストを求める人に働きますが、『この教会の集いには聖霊が働いていて、ここに来ない人は悪魔に支配されている』と言い出したら、もうカルトです。福音派や聖霊派の中に多く、その教会内では何の疑問も無く受け容れられていると思います。その上、カルト化している教会では、新来者にこそ丁寧に対応しますが、教会 [続きを読む]
  • 労苦を共にできるのが愛
  • 快適さや理想よりも、労苦を共にできるのが愛です。私たちは、これにとどまるべきです。キリストは、十字架につけられことで、人類の罪の結果を共にしましたが、それがキリストの愛であり、弟子たちに教えた人生の歩き方でした。すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれ [続きを読む]
  • 教会の言いなりから脱出して、自分の心を回復しましょう。
  • 教会の言いなりから脱出して、自分の心を回復しましょう。どの人でも互いに感じ取れる思いやりや苦労からの共感があるものです。しかし、教会の考え方だけに自分を押しとどめて、人とのふれあいを排除して『確信』にとどまるなら、多くの人の共感や共に歩む支えや受容寛容などは味わえません。多くのふれあいのある人ほど、真のキリストの姿を見つけることができるのではないかと思います。なぜなら、キリストは教会にとどまらず、 [続きを読む]
  • 自分のために悩み、人のために悩もう
  • 自分のために悩み、人のために悩む、それは旧約聖書の預言者から新約聖書の使徒に至るまで共通する、主の働き人の姿です。その中心にはキリストの御姿があります。日常に悩みの無い人生はありません。自分のために悩む時間も大切です。慰めや癒しの時間も必要です。キリストは、栄光の姿に変えられた、その体には釘と槍の傷跡があります。私たちの歩みの中でできた傷も、自分や隣人の救いに用いられていることに気付きます。そうし [続きを読む]
  • 主に対してするように人に仕える
  • 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。 あなたがたが知っているとおり、あなたがたは御国をつぐことを、報いとして主から受けるであろう。あなたがたは、主キリストに仕えているのである。コロサイ人への手紙 3:23?-24 JA1955http://bible.com/81/col.3.23-24.JA1955主イエス・キリストは、弱くても求める人には応える方。私たちは、その主に対して慕い求め信頼するように、すべての人を見 [続きを読む]
  • 「子どものように信じる」とは簡単で単純なことか
  • 「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。 彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを [続きを読む]
  • 苦しみが、人生そのもののような人と、添え物のような人と
  • 試練の時を通して結ばれた実を握ることで、成すべきこと、道筋がおぼろ気ながら分かる気がします。その実とは、弱さを認めること、弱さから祈ること、そして、学びと奉仕のために周りの状況を受け容れつつ、状況に安住したい執着・欲求を握らないこと。試練が人生そのものと思える時であっても、自他の人の弱さを知る目的があることを知れば、ある程度耐えられ、心の渇きも祈りに代えられます。これは、イエス・キリストの山上の垂 [続きを読む]
  • すたれない信仰とは
  • 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、 [続きを読む]
  • 普通の愛ある常識に救われることも多い
  • カルト化、ブラック化した教会や会社に触れ続けることで、常識否定し、自己否定し、服従と使命感に進んでしまいます。『信仰的清さ』『神の計画』や『正統性』『実績』を得たという新たな自己肯定に進み、この錯覚に浸り続けたいと思えてくるのです。目標と手段がとてもクリアに見えることで皆が同じ思考になって一致し、そこで安堵し続けたいのです。この錯覚では同質性にこそ価値があり、多様性は否定されます。『目的や目標に一 [続きを読む]
  • 神の何を信じるのか。教会ではなく、まずは神の愛を信じましょう。
  • 信仰は、目の前の教会に期待することではなく、牧師の教えに従順になるものではなく、神の愛と赦し、癒しを個人的に期待して、現実の矛盾や痛みから求めるものだと思います。人生の現実は困難があって簡単なものではなく、目の前のものにすがっては違和感や虚しさを覚えています。習慣や他人や世間の価値観でなんとか納得しようと自分が評価されることを追います。しかし、今は目に見えない神キリストご自身を求めて祈る人には、そ [続きを読む]
  • 人の弱さの中に見つかる神の働き〜それこそが証し
  • 弱くても、軽くみられることがないように、神様が 信仰者の歩みの実を導かれます。信仰の道は、一人で孤独に頑張って結果を出す道ではありません。また、教会の指示や牧師の手に人生をゆだねることでもありません。個人としてキリストを求め、祈り、自分の生活の様々な出来事の中での導きを見つけるものです。神を求める人の集いにそれを持ち寄って語り合い、励ましあうのです。信仰者は弱々しそうに見えて良いし、どこまでも祈り [続きを読む]
  • 弱さのまま生きる、その社会生活での祈りとは
  • 社会生活での祈りとは、神に従って置かれたその場の自分自身のあり様を、ありのまま人と神にささげ、自分と目の前の隣人に御心御手がなされることを祈り、とりなすこと、祈りは、このために導かれること、用いられることのためではないでしょうか。良い言葉と行いを意識して与えようとするのではなく、私たちはいつも気付かない内に用いられたいし、気付かない愛や支えを互いに与え合い受けたいのです。だから祈るのではないでしょ [続きを読む]
  • 信仰があれば、自分の無力を知っても恐くはなく、平安と希望がある
  • 皆が間違っている中でなんとか必死に生きている、それが現実です。誰一人、神の義に対する正解者はいない世の中に、私たちは生きています。私たちは答えを持つ頼れるヒーローを探し続けていますが、人間にそんな人はいません。キリストの十字架に見える真実とは、人間は、正しい答えに満足せず、自分に都合の良い答えのために、他人を殺すこと、神の愛は、人を裁かずに救おうとして犠牲を払う、ということです。たとえクリスチャン [続きを読む]
  • キリストにある復活の命は、肉を削ぎ練りきよめられて永遠に生きる命
  • キリストの救いは、私たちが神の子となり、霊が神と共にあって永遠に生かされる命です。キリストの復活、よみがえりにあずかる命です。この命は、人の努力によらず、ひたすら神から子への、一方的な愛と赦しによります。「人の努力によらない義」、「ただ赦しを受けるしかない身」という部分が、人には受け入れづらいところで、それこそ信仰が試されます。世の剣や争いとは、義について、守るべき自分の責任についての争いだと、互 [続きを読む]
  • キリストについていく人が負う十字架は、その人の負える分
  • キリストの救いを受ける信仰は、ありのままそのまま、神に赦されているのを受け入れ、永遠に神にあがなわれ愛され救われた神の子どもになります。「ありのままそのまま、子どもとして」、これは、クリスチャンどの人にも負える、共通、基本の部分です。実は、この部分だけでも受け入れるのが難しく、『もっと優れて、有利な条件で神や人に認められたい』、と私たちは意識せずに潜在的に願っています。キリストの福音は、ありのまま [続きを読む]
  • 天にも地にも主は満ちている。
  • わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか。誰かが隠れ場に身を隠したならわたしは彼を見つけられないと言うのかと主は言われる。天をも地をも、わたしは満たしているではないかと主は言われる。エレミヤ書23:23-24 新共同訳 神の聖さは、人の悪が満ちている世界にキリストが来て十字架につき、人の犠牲として罪をあがない、人を救うことに現れています。悪がある世界に、主なる神は [続きを読む]
  • 勇気と励ましが来るのは、こんな自分にイエスが居るから
  • 自分の罪と弱さを知ってこそ、キリストを知ります。罪と弱さを知るほどに深く。自分の中身は本当に良くない思いであふれている。神も人も信じられず、期待せず、落胆し、気ままで、恨み、つぶやき、文句を言い、非難し、悪態をつく。そんな時は一日に何時間もある。日によっては、嘆きの方が信仰の思いよりも長く支配する。教会の交わりは 、そもそも そんな人の、ありのままの罪の問題を含んでいるもの。初代教会はそうでした。あ [続きを読む]
  • 「祈りのある家を建てたい」と思っていますか?
  • 家は何のために建てるのでしょう。それぞれの信仰生活と人生を、聖書は家にたとえています。雨露をしのぎ、安全に健康に楽しく永く住まうことが家の理想でしょう。聖書は、揺るがない堅固な基礎、確かな土台を、キリストご自身と、その教えに据えるように求めています。砂地に簡単に建てるのではなく、岩の上に建てなさい、と。さらに建物を、わらで建てるか金で建てるか、と問います。火で試される時に残るのか、と。人に教わった [続きを読む]
  • 思い出が成長と相反する時に、手放す勇気
  • 大切な思い出、人生の節目、信仰の決心、時々のみことばに、私たちは安堵します。『決して動かすべきでない金字塔』のような位置づけをして、頼っているかもしれません。『忘れないように、流されないように』と、しっかりと『記憶と良心と信仰の杭』を打ち込み、動かないアンカーにしようとします。しかし、キリストが導く道を求めて成長するクリスチャンには、さらに多くの経験が上書きされ、私たちにとって最も良かった重要な思 [続きを読む]
  • 献身とは、摂理とは、見分けとは、堅い食物とは
  • ヨブ記38:1-19 新改訳聖書主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。 その台座は何の上 [続きを読む]