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gonsongkenkongskさん: 中国通史で辿る名言・故事探訪
ハンドル名gonsongkenkongsk さん
ブログタイトル中国通史で辿る名言・故事探訪
ブログURLhttp://gonsongkenkongsk.blog.fc2.com/
サイト紹介文中国の通史で、故事来歴や名言を学ぶ。
自由文中国の神話時代から現代中国まで、その4千年の歴史から生まれた故事成語や名言を、また多くの古典籍から目ぼしい思想を抜粋して、評価したり批判の材料に供すべく提示した。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供59回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2013/01/30 17:13

gonsongkenkongsk さんのブログ記事

  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(報恩と背逆の論理)
  •  「報恩と背逆の論理」                    春秋時代 》 晋の恵公の即位 《    紀元前650年   晋では先代の献公(19代)が驪姫との間に儲けた奚斉(在位は  前651年)と悼子(在位 前651年)が相次いで弑殺され、梁に亡命  していた夷吾が秦の穆公の支援を受け、かつ覇者たる斉の桓公の  仲介もあって君位に就く。   晋国内では人望の高かった公子重耳に期待をかけたが、実現しな   [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の田氏)
  •  「斉の田乞、田氏隆盛の基礎固め」                    春秋時代 田乞(「こつ」は慣用読み。字は釐子【きし】)は、春秋の覇者 斉の桓公の時に陳から亡命してきた王族(公子)陳完の六世の孫で、斉の二十六代景公に仕えて大夫となり、次第に才略を以って田氏隆盛の基礎を確固たるものにした。 【小斗を以って受け、民に与えるに大斗を以ってす。】 年貢は小さな枡(斉の公用枡)で受け取り、 貸し与え [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(古人の糟魄(粕))
  •  「古人の糟魄(粕)」                    春秋時代  昔の聖賢の言葉や著作として今日に伝わるものは、聖賢の神髄とは 言えず、その粕に過ぎないということ。  所謂 真髄は言葉や文章では伝えきれないという老荘流の思想。  糟も魄も「かす」の意で、糟魄の原義はつまらないものの喩え。  斉の桓公、書を堂上に読む。  車輪作りの輪扁(輪は職を意味する)は、車輪を堂下で作っていたが、 槌と [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(一国の政はなお一身の治の如し、)
  •  「一国の政はなお一身の治の如し、    治まる所以を知らず」                    東周  ある時 異民族の戎王が、由余(ゆうよ)という者を秦に派遣した。  戎王は、秦の穆公(9代)が名君であること耳にして、視察の為に由余 を派遣してきたのである。  この由余はその先祖が晋から戎への亡命者であったので、彼は中原 の言葉を理解することが出来た。  晋の穆公は、蛮族からの使者というこ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の躍進)
  • 「大子立つを得ず」                    東周  晋は献公十六年(=魯の閔公元年。前661年)、軍を上下の二軍 として増強し編成した。  献公は自らは上軍を率いることとし、太子申生を下軍の将に任じた。  そして自らの指揮車の御者と車右には、それぞれ趙夙と畢(ひつ)万 を抜擢した。    ※ 一軍は、一万二千五百人の編制。  かくして晋軍は軍事行動を起こして、周辺の同族の小国の霍(かく [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(呉対楚の戦い)
  •  「鴆茲の戦い」                    春秋時代 紀元前570年、呉と楚の戦いがあった。 呉の君子は19代寿夢、楚の君子は24代共王である。 呉が楚の甲冑軍団を鴆茲(ちんし)で撃破する。 「楚の子重(しちょう) 奔命に罷(つか)る」 紀元前570年の春、楚の子重は呉を伐ったが、その軍勢はえり抜きの精鋭であった。 先ず鴆茲(ちんし)を抜き衡山に至り、ここで鄧廖(とうりょう)を主将とし [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(陳人、其の公子御寇を弑す)
  •  「陳の公子完、斉へ亡命」                    東周  魯桓公十二年(前700年)、陳の13代厲公が崩じた。  公子完は厲公の二男であったが、厲公の兄の12代桓公の三人の 公子が順次に即位した。  即ち利公(14代。在位期間 前700年)、荘公(15代。 前700−693)、宣公(16代。前693−648)である。  その宣公二十二年、この年は魯の荘公二十二年に当たりその春に、  [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の鬻拳の極諫)
  •  「君を懼すに兵を以ってす」                    東周時代  魯・荘公九年(前675年)春、楚の19代文王(熊貲)は巴の軍を 防いだが、楚の津で黄軍に大敗を喫して、帰国した。  ところが先君が命じて文王の補佐役とした鬻拳(しゅくけん)は、 文王を都に入れようとしなかった。  そして、国君が大敗を喫しておめおめ帰るとは何事ぞ、とばかりに 強く意見を君に呈した。  だが文王は聞きいれ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の台頭)
  •  「晋の武公、内紛を収拾す」                    東周時代  晋は内紛で長らく、【翼(本家筋)】と【曲沃(分家筋)】に分れて、 主導権争いをしていたが、曲沃の桓叔の孫・姫称が宗家の晋侯の 姫緍(きびん)を殺して宗家の勢力を削ぎ凋落させ、また晋の宝器を 周王朝の釐王(16代。僖王とも)に献上したりして信任を得、改めて晋の 国君に任ぜられた。この姫称が第18代武公である。  ※ 曲沃 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋五大会戦 その4)
  •  「鞍の戦い」                    春秋時代  紀元前589年、晋(26代景公)が魯・衛・曹の連合軍を率いて、 斉軍を鞍の地に破る。これを「鞍の戦い」といい、春秋五大会戦・ その四に数えられる。  楚(24代共王)と晋が互いに相手を凌駕することが出来ず、覇権を 確立することが出来ずにいた間に、中原の東端にある斉の23代頃公 が、嘗ての勢いを取り戻しつつあった。  「前哨戦」  前 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(斉・桓公の覇者への道程)
  •  「斉の桓公、春秋の覇者へ」   紀元前681年〜651年               春秋時代  斉の管仲は経済政策の基本として、特産品の塩の専売制を行い、 諸国との交易で莫大な財政収入をもたらした。  また農政にも力を入れて、国家の穀倉は充ち溢れるようになった。  民の衣食も十分となったので、老人から子供に至るまで礼儀を 重んずるようになり、民は誇りを持つようにもなった。    そして国力も充 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(一芸に通ずる者の志)
  •  「羿の道は射に非ず、造父の術は馭に非ず。  奚仲の巧みは斲削に非ず。                    東周王朝  羿(げい)は弓を射るのが巧みであるというが、羿の根本の道は、 決して弓を射るということにある訳ではない。  また造父(ぞうほ)は、馬を馭する術に熟達しているというが、彼の 技術は、決して馬を馭するにある訳ではない。  奚仲(けいちゅう)は車を作るのに、切ったり削ったりすることに [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(長勺の戦い)
  •  「それ戦いは勇気なり、  彼竭(つ)き 我盈(み)つれば克つ」                     春秋時代  魯・荘公九年(前685年)秋、斉は小国の魯を乾時(かんじ)に破り、 盟を交わして軍を退いた。  ところがその翌年春、斉の桓公は管仲らの反対に拘らず、盟約に 背いて高傒を将として再び魯に軍を進めた。  魯の荘公が応戦の準備で大童の時、郷人の曹劌(そうけい)という者が 王に拝謁を願い出て [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(管仲、斉の宰相となる)
  •  「管仲、斉の宰相となる」                    春秋時代  魯に抑留されていた管仲は、「管鮑の交わり」の故事で有名な鮑叔牙 の配慮で斉の桓公を焚き付けて、斉に帰国することが出来た。  鮑叔牙は管仲との再会を喜び、早速 城中に管仲を帯同し桓公に 面謁させた。  拝謁してから管仲がこれまでの君に対する非礼を詫びると、桓公曰く、  「斉はいま国を富まし、兵を強くせねばならぬ時である。  [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(楚武王の天禄盡く)
  •  「盈ちて蕩(うご)くは天の道なり」                     春秋時代  》 楚の武王の天禄盡く 《      中原諸国では、軍装備としての「戟」は必需の主戦武器であったが、  荊蛮と言われ半ば蔑視されていた楚では、武王の末年に至りよう  やく戟を装備するようになった。   魯・荘公四年(前690年)の春、武王は随を攻伐しようとして、  初めて師(編成した軍団)に新兵器としての「孑 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の妖婦・夏姫 その4)
  •  「夏姫、巫臣と共に晋に亡命」                    春秋(東周)時代  その後 楚の荘王は夏姫を連尹(弓矢の管理官)の襄老に娶わせた。  ところがその襄老は紀元前597年、楚晋の戦いである邲(ひつ)の 戦いにおいて戦死してしまった。  そして、その遺骸は晋に奪い去られてしまった。  夏姫は夫の死後、襄老の子・黒要と通じ、さらには巫臣とも通じた のである。  それから幾年かが過ぎた [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(不疑何卜)
  •  「不疑何卜」                    春秋(とうしゅう)時代  漢語読みで、「ふぎかぼく」。 「疑わずんば何ぞ卜(ぼく)せん」と訓読。  不安や疑問がなければ、占う必要はない。  魯・桓公十一年(前701年)、楚の屈瑕(武王の公子)は貮(じ)・ 軫(しん)の二国と会盟しようとしたが、この時 鄖(うん)は蒲騒に陣を 構えて敵対し、なおかつ随・絞・州・蓼(りょう)の四国と連合して楚軍 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の懿公、竹林に憤死)
  •  「斉の懿公、竹林に憤死す」                   春秋(東周)時代  「紀元前六〇九年 夏五月戊戌、斉人 その君・商人を弑す」  商人が未だ即位する以前のこと、邴?(へいしょく)の父と田地を 巡って争い敗れたことがあった。  それから幾年か後に即位するや、今は亡き邴?の父の遺体を掘り 起こさせて、刖刑(げっけい。足切り刑)を加えた。  剰えその息子・邴?を起用して自らの御車に任じた [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(匹夫 罪無し)
  •  「匹夫 罪無し、玉を懐いて其れ罪あり」                    春秋時代  魯の桓公十年(前702年)春、初め虞国の虞叔は、世にも稀な玉を 保有していた。  虞叔の兄であり君侯の虞公は、弟に之を求めた。  だが虞叔は、その時は献上しなかった。  ところが虞叔は、やがてそのことを後悔し始めて謂った。  「周諺(周の諺)、之有り。  『匹夫罪無し、玉を懐いて其れ罪あり』と。  ※ 平凡 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(速杞の戦い)
  •  「楚は左を上位にす」                    春秋時代  隋の少師には、国君の寵愛一方ならぬものがあったという。  そのあり様を聞くにつけ、楚の闘伯比は隋の攻伐を進言した。  東周桓王十七年(紀元前704年)夏、楚の武王は諸侯を楚の沈鹿 に招集したが、黄と随は参集しなかった。  武王は、イ章を黄に遣わして攻め、また王自らは軍を率いて随を伐ち、 漢水と淮水の間に軍を進めた。  その様 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(国の宝)
  •  「仁者に親しみ隣国に良く付き合うは、国の宝なり」                    春秋時代  鄭、陳を侵奪する      紀元前717年  魯の隠公六年(紀元前717)五月の庚申(二十七日)、鄭が陳を 攻めて多くの戦果を挙げた。  これより先、今回とは逆に陳が鄭を攻めて、鄭が和を請うて来たことが あったが、陳は許さなかった。  時に陳公の弟の五父は兄を諌めて、進言した。  「仁者に親しみ隣 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(黄泉で母に見える)
  •  「地を穿(うが)って母に見ゆ」                    春秋時代  春秋の昔、鄭の武公と姜夫人(武姜)の間には二人の公子がいた。  兄の寤生(ごせい)が太子となったが、武姜は寤生を生む時 難産 (逆子)であったので、宗教的理由から彼を忌避し、次子の段を大子に しようと画策したことがあったが失敗した。  武公の没後、太子の寤生が即位した。これが荘公である。  荘公の即位後、母の武姜は [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(国家の立つや、)
  •  「国家の立つや、本は大にして末は小なり」                     東周  晋の内憂            紀元前745年〜   「その遠因」   晋の9代穆公(前811〜785)には、夫人姜氏の産んだ二人の子が  あった。   大子の仇(後の11代文公)と成師(曲沃に封じられた桓叔)である。   この二人の命名については、   仇は穆公七年(前805)の条の討伐の時に付けられ、成 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(兵は戢めて時に動かす)
  •   「先王は徳を輝かして兵を観(しめ。誇示すること)さず。  それ兵は戢(おさ。=収)めて時に動かす。  動かせば則ち威(おそ)る。観せば則ち玩(けが。懿徳が)る。   玩るれば則ち震(おそる。威厳が)る無し。  この故に周の文公(周公旦の死後の諡号)の頌に曰く、  『載(すなわ)ち干戈を収め、載ち弓矢を嚢(のう)にす。  我 懿徳(=美徳)を求め、時(こ)の夏に肆(つら)ぬ。  允(まこと)なる [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(周代の命名法)
  •  「名に五 有り」                    周代  周の時代には、人の名の付け方に五つの慣習があった。  生まれた時の特徴で名を付けるのを、「信」という。  徳に因んで名を付けるのを、「義」という。  似たものを名とするのを、「象(しょう)」という。  万物の名称から付けるものを、「仮(か)」という。  父に関係づけて名づけるのを、「類」という。  だが、建前として、国名・官名・山川 [続きを読む]