gonsongkenkongsk さん プロフィール

  •  
gonsongkenkongskさん: 中国通史で辿る名言・故事探訪
ハンドル名gonsongkenkongsk さん
ブログタイトル中国通史で辿る名言・故事探訪
ブログURLhttp://gonsongkenkongsk.blog.fc2.com/
サイト紹介文中国の通史で、故事来歴や名言を学ぶ。
自由文中国の神話時代から現代中国まで、その4千年の歴史から生まれた故事成語や名言を、また多くの古典籍から目ぼしい思想を抜粋して、評価したり批判の材料に供すべく提示した。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供72回 / 365日(平均1.4回/週) - 参加 2013/01/30 17:13

gonsongkenkongsk さんのブログ記事

  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の趙氏族滅の危機)
  •   「死するは易く、孤を立つるは難きのみ」                    春秋時代  死ぬことはた易いが、孤児を守り抜きその身を立てることは至難の業 だとの意。  晋の正卿であったが今は亡き趙盾(ちょうとん)の友人である 程嬰(えい)が、趙盾の孫を政敵の手から守るために食客・公孫杵臼 (しょきゅう)とその善後策を相談した時に語った言葉である。  いつしか晋では、二十六代景公(姫拠)の時代に [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(老子)
  •  「老子綵衣」                     戦国時代  親孝行な行いを言う。  綵衣(さいえ)という様々な色模様の衣服を着て、親を楽しませる の意。  「戯綵娯親」とも言う。  七十才の老萊子が、或る日のこと更に高齢の両親の面前において、 子供の着る綵衣を着て、両親の膝元で戯れたり子供の泣き真似を したと言う故事。  老萊子は、春秋時代の楚の人と謂われる。  この老萊子は、孝子の詩撰で [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(孔子家語)
  •  「地 若し入る可くんば、    吾 豈に宓子(ふくし)を見るに忍びんや」                   春秋時代 己を深く恥じ入ることの喩え。 地中に身を隠すことが出来るものならば、隠れたいものだ、 宓子賤(ふくしせん)に合わせる顔が無い。 魯の宓子賤が単父(ぜんぽ)の地を治めていた時、斉がこの地を襲った。 邑の長老たちは麦が熟している時なので、すぐにも村人総出で麦の収穫をさせ、斉軍に刈り [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・郤克の私怨)
  •  「郤克、斉に使いする」                    春秋j時代  紀元前592年春、晋侯(28代景公)は離反した国々 (宋・鄭・陳・蔡)を咎めるべく、断道で諸侯会盟を持つために 郤克を使者として斉に派遣し,斉侯に会盟参加を呼びかけようとした。  ところが斉の頃公は、朝堂に婦人(母堂の蕭同叔子)を呼んで几帳 (仕切りの帳)で隠し、引見する際に脚の悪い郤克を見世物にしようと した。  それ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(黒牛、白犢を生ず)
  •  「黒牛、白犢を生ず」                    戦国時代  毛色の黒い牛が、白い子牛を産むの意。  吉が必ずしも吉でなく、凶が必ずしも凶でないことを謂う。  宋人でよく仁義を行う者がいて、三世も惰らずに来たが家で飼って いた黒牛が故無くして白犢(はくとく。白い子牛)を産んだ。  因って之を孔子に問うと、之は吉祥であるという。  そこで上帝に献じた。  ところがその一年後、その宋人は故 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の五大会戦 そのⅢ)
  •   邲の戦い そのⅡ                    春秋時代  「開戦」  晋軍の陣営にあっては、和睦の使者として派遣した魏錡らが一晩 経っても帰陣して来なかったので、もしかして楚軍を刺激して怒らせた のではないかと心配して、防護用の兵車を差し向けた。  ところが魏錡を追っていた楚の将軍・潘党は、晋の兵車の挙げる 砂塵を見て本陣に急使を派遣し、敵の襲撃有りと通報した。  「むしろ人に迫ると [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋五大会戦 そのⅢ)
  •      邲の戦い そのⅠ                    春秋(東周)時代  紀元前597年、鄭を巡り楚・荘王(23代)と晋・景公(26代)が 邲(ひつ)の地で雌雄を決した。  1 「会戦の背景と国内事情」    鄭国は北に晋、南に楚という大国に挟まれ、常に両面外交を   強いられていた。    晋が軍事行動を起こせば晋に付き従い、それに対して楚が報復   すれば楚に付くという反復常無き外 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(孔子伝)
  • 「孔子の三桓制圧策」                 春秋時代 魯の定公九年(前501年)、孔子は政治に携わる重要な官職に就く。 時に孔子五十歳の頃と言われる。 陽虎の乱が失敗して陽虎が斉に逃れた後、季桓子は孔子を抱き込もうとして、彼を中都の宰(長官職)に任じた。 それから二年後、定公は孔子を司空(土地・人民を司る役)に任じ、更に大司寇(司法警察の長)に抜擢した。 その後、孔子はさらに宰相職を代行 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の名臣 孫叔敖)
  •  「狐丘の戒め」                    春秋時代  他人に怨まれないようにせよ、との戒めである。  春秋の昔、楚の21代成王(熊惲)と23代荘王(熊侶)に仕えた 智謀の大夫がいた。その名を孫叔敖(しゅくごう)と云う。  姓と氏は、それぞれ羋(び)、蔿(い)。  通称は孫叔敖と云うが、蔿艾猟(いがいりょう)ともいう。  その曾祖父は、楚の第17代君主・蚡冒(ふんぼう)である。  ある [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(叔向伝)
  •  「其の罪 一なり」                    春秋時代(東周)  時に、晋の執政は韓宣子(韓起)であった。  夏姫と巫臣の間の子か否かは不明であるが、春秋左氏伝では言う 巫臣の子・邢侯が、同じく楚からの亡命貴族の雍子土地争いをして 裁判沙汰となった。  たまたま雍子の娘を夫人にしていた叔魚(羊舌鮒といい、古の遺直 と謂われる叔向の弟)が訴訟を裁くことになった。  ところがこの叔魚は兄 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(呉・楚の戦い)
  • 「申包胥立つ」                 春秋時代 楚の昭王(30代)は、戦いに敗れて隋の国に逃れた。 その時 申包胥は、昭王の使いとして秦に行き援軍を請うた。 申包胥は昭王の言葉として、秦の哀公(14代)に伝えた。 「呉は貪欲にして厭くことなき野蛮な国です。 若しも我が楚国が滅ぼされて、貴国が呉と国境を接するようになったら、それこそ貴国の大いなる憂患となりましょう。 呉が未だ楚を平定し終わ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の妖婦夏姫)
  •  「春秋の妖婦 夏姫その2」                    春秋(東周)時代 「巫臣の策謀」  陳討伐の後 楚の荘王は夏姫の美しさに惹かれて、彼女を楚に 連れて帰った。  そして自分の側室に加えようとしたが、信頼する臣下の反対に遭って しまった。  臣下に機略縦横の才を発揮する申公巫臣という者がいて、彼は楚の 名門である屈氏の出自であったが、その巫臣は夏姫を見てからという すっかりその虜に [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(春秋の妖婦夏姫)
  •  「春秋の妖婦・夏姫その1」                    春秋(東周)時代  「荘王、陳を伐つ」  荘王は陳の夏徴舒を伐つと称して、前598年冬、軍を率いて陳に 発向した。  そして陳に至るや、陳の人民に対して布告した。  「動くなかれ。まさに少西氏を伐たんとす」と。  即ち 我に領土的野望はない、陳君を弑殺して即位した夏徴舒を 誅するだけなのだ、と。  古い諺に謂う、  【牛を牽きて以 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(北林の戦い)
  •   「北林の戦い」                            春秋(東周)時代  楚・鄭連合軍 対 晋・宋・陳・衛・曹連合軍の戦い。  楚の二十三代・荘王(熊侶)が即位してから六年がたった。  魯の宣公元年(紀元前608年)秋、楚とその盟約関係にある鄭が 陳に侵攻し、ついでに宋を侵した。  その頃 荘王率いる楚の国力伸展には、目を見張るものがあった。  中原の覇者を自認していた晋は、楚 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の荘王の賢夫人)
  •  「賢は忠に劣る」                    春秋(東周)時代  賢いばかりが能ではない。君に忠誠こそが肝要という意。  楚の荘王には樊姫(はんき)という賢夫人がいた。  非常に賢明で心優しく、しっかり者で陰になっては楚王を励まし 続けた。  荘王は狩猟を大いなる楽しみとして、ややもすると執着する傾向が あったので、何時かはこれを止めさせようと考えていた。  そしてある時、遂に荘王に意 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(河曲の戦い)
  •  「河曲の戦い」                    春秋(東周)時代  秦の11代康公は、令狐の戦い(前620年)の恨みから、前615年 冬、晋に侵攻し羈馬を占領した。  晋の霊公(24代)は、趙盾を中軍の将に荀林父をその佐、郤缺を 上軍の将に臾駢(ゆへい)をその佐、欒盾(らんとん)を下軍の将に 胥甲(胥臣の子)を佐に任じた。  そして晋軍は河曲で秦軍を迎え撃った。  晋軍は当初、臾駢の意見に [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(秦の穆公)
  •  「秦の穆公の雄略と死」                    春秋(東周)時代  秦の穆公三十六年(前625年)、穆公は孟明視等に兵を授けて、 再び晋を攻略した。  たちまち晋軍を一蹴して、王官や殽の地を奪取し、ここにおいて殽山 の敗戦の復讐を遂げることが出来た。  穆公も茅津から黄河を渡り、殽山の地に遺棄された将兵の遺骸を 埋葬し、全軍に喪を発して三日間にわたり哭泣の礼を行った。  後世をして [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(先軫の死)
  •  「晋の襄公、箕(き)に狄を破る」 東周王朝  紀元前627年、殽(こう)で秦と晋が戦った年の八月戊子(25日)、 白狄が晋を伐ち箕(き)に進出して来た。  晋侯はこれを箕に迎え撃ち、郤縠(穀)は白狄の君を捕獲した。  この戦いで従軍していた先軫は、  「先の殽の戦いの折、臣たる身が君に当たり散らす不敬の行いを したが、しかし君からは何のお咎めも無かった。  [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(文公崩ず)
  •  「覇者・晋の文公崩ず」                      東周王朝  晋の文公九年(紀元前628年)、その冬十二月己卯(16日)、文公が崩じた。 文公は紀元前629年の秋、諸侯に魁て清原で軍の勢揃いを行った。 これを「三行(さんこう)」といい、歩兵部隊を編成した軍団であった。 これは国土防衛の戦略上の必要に迫られて、従前からある戦車部隊とは別に編成したものであった。 晋では先代の君侯であ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(宋・衛・陳・鄭で大火)
  •  「天道は遠く、人道は邇し」                 春秋時代 人智によって、天の意志を推測することは出来ないということの喩え。 魯・昭公十七年(前525年)冬、彗星が大辰(火星)の西に現れ、その光が銀河にまで及んだ。 魯では大夫以下、様々な予測が飛び交ったが、火の手が上がるのは、宋・陳・鄭・衛の四カ国であり、火災は五月の丙子から壬午の日に起るだろうと噂された。 鄭では裨竃(ひそう)が子産 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(晋・文公の復讐戦)
  •  「鄭君を得て甘心せん」                   東周王朝  晋の文公七年(紀元前630年)の九月甲午(一日)、文公は晋の 穆公と連合して鄭を包囲攻撃した。  討伐の理由としては、かつて亡命の途中に立ち寄った鄭国で、 文公(重耳)を冷遇したことと城濮の戦いで楚に味方したことが挙げ られた。  鄭の都を包囲した文公は、鄭の大夫・叔瞻(しゅくせん)の身柄を 要求した。  叔瞻は重耳主従が流 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(郤氏の復活)
  •  「敬いて相待つこと賓の如し」                 東周王朝  ある日のこと、冀(き)に逼塞していた晋の郤缺(げきけつ。郤成子、 冀缺とも)が田野に出て雑草を刈り、彼の妻がその食事を用意する姿 があった。  彼らのその姿や態度、仕草たるや、当に賓客を迎えての接待である ような恭敬なものであった。  その二人の不思議な光景に目を止めた者がいた。  晋の文公の股肱の臣でまた重臣でもあった臼 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い)
  •  「城濮の戦い その4」                    春秋時代  四月戊申(5日) 尽くすべき措置を終わった晋は、直ちに宋・斉・秦と 四カ国連合軍を編制し、子玉の率いる楚の連合軍を城濮(衛の地) で迎えた。  楚軍は子玉がその一族の六卒を中軍に編入して総指揮をなし、右軍 には同盟国の陳・蔡軍を編入して子上(闘勃)が将となり、左軍は子西 (闘宜申)が率いた。  楚の連合軍は、険しい丘陵を背 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い その3)
  •  「城濮の戦い その3」                    春秋時代  「開戦」    晋が曹・衛を攻略した後、楚と宋の紛争が再燃した。   楚軍が再び宋都・商邱(そうきゅう)を包囲したので、宋は晋に救援を  求めて来た。   文公はその対策に窮した。   救援軍を直接送れば、必然的に楚と相戦うことになる。   楚の成王には曽て諸国流浪中に厚遇を受けた恩義があり、交戦は  気が進まなかった。  [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(城濮の戦い その2)
  •   「城濮の戦い その2」                    春秋時代(東周) 「謀略戦」   晋にとり、ここは宋を救援して楚と戦うより外に道は無かった。   だが晋は、この戦いに協力してくれる同盟軍が欲しかった。   戦略上、楚に近接する斉と楚の背後にある秦の協力が是非とも  必要であった。   戦略会議の席上、先軫が進言した。   「宋の救援を一応 形式的に断っておけば、宋は直ちに斉と秦に [続きを読む]