gonsongkenkongsk さん プロフィール

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gonsongkenkongskさん: 中国通史で辿る名言・故事探訪
ハンドル名gonsongkenkongsk さん
ブログタイトル中国通史で辿る名言・故事探訪
ブログURLhttp://gonsongkenkongsk.blog.fc2.com/
サイト紹介文中国の通史で、故事来歴や名言を学ぶ。
自由文中国の神話時代から現代中国まで、その4千年の歴史から生まれた故事成語や名言を、また多くの古典籍から目ぼしい思想を抜粋して、評価したり批判の材料に供すべく提示した。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供44回 / 365日(平均0.8回/週) - 参加 2013/01/30 17:13

gonsongkenkongsk さんのブログ記事

  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(周代の命名法)
  •  「名に五 有り」                    周代  周の時代には、人の名の付け方に五つの慣習があった。  生まれた時の特徴で名を付けるのを、「信」という。  徳に因んで名を付けるのを、「義」という。  似たものを名とするのを、「象(しょう)」という。  万物の名称から付けるものを、「仮(か)」という。  父に関係づけて名づけるのを、「類」という。  だが、建前として、国名・官名・山川 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(周王朝の東西並立から東周王朝へ)
  •  「混迷の周王朝から東周王朝の創建へ」                    東周時代  周の国都の鎬京が、異民族の犬戎に蹂躙された後、国家壊滅状態 の中で、幽王の二人の遺児がそれぞれの支持する諸侯によって擁立 された。  周王朝の西方の有力者であった西虢の虢君翰(かくくんかん)は、 申公や魯・許・鄭の諸侯等に擁立された姫宜臼に対抗して、幽王の 公子・余臣を立てて宗周(鎬京)で王朝を開かせた。   [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(未亡人)
  •  「未亡人」                    春秋時代  春秋時代の魯の成公(22代)の九年(紀元前582年)、魯の伯姫は 宋公(宋の25代国主の共公)に嫁すことになった。  魯の季文子がその嫁入りの采配を命じられたが、無事にその任務を 果たして、魯に還り成公に復命した。  成公はこれを労うべく、慰労の宴席を設けた。  その席上、季文子は「詩経」の言葉を借りて主君と宋公を讃え、宋の 国土はよ [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(誅しても不当、誅さなくても不当)
  •  「誅しても不当、誅さなくても不当」                     周王朝 「宣王の容喙(ようかい)」  魯の9代君主の武公9年(紀元前817年)、武公は二人の公子を 伴って周王朝に参朝した。   そして宣王に謁見した後、親子はしばらく周の国都に滞在したが、 二人の公子のうち 弟の戯が宣王に寵愛されるようになった。  その後に至り、宣王は魯の後継者について臆面も無く容喙 (口を差し挟む) [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(周公 摂政を辞す)
  •  「周公 楚に逃れる」                    周王朝  幼かった成王も、幼少の身で即位してから7年が経った。  成王も成長したので、自ら政治を執り行なうことが出来るようになった ので、周公は政治の大権を返上した。  そして臣下の席に着き、臣下の礼を以って王に仕えるようになった。  成王は周公の手を離れて大権を掌握したが、臣下に対しては常々、 叱咤激励した。  「功の高きは惟れ志、業 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(王朝の女官の制)
  •  「歴代王朝の内宮の諸制度」   中国の歴代王朝においては、公の政を行う朝廷(外廷)に対して、  天子或いは帝王の私生活の場である後宮についても、決まり事  即ち制度的なものが定められた。   天子に仕える女官は、それぞれの階級と階級別の人数及び  官位が定められた。   以下 先ず周王朝の女官の制について記す。   「周王朝」   階級は正妻たる「皇后」に続いて、   「夫人」は三人、「嬪(ひん [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(周礼の制定)
  •  「周礼の制定」                    周王朝  周公旦は幼い天子の成王を摂政する任に就いたが、王朝維持の 為の制度として、「周礼(しゅうらい)」を制定したとされる。  制度の根本は、封建制と井田(せいでん)制である。  『封建制』  武王は一族功臣を各地に封じたが、周公旦はそれを拡充し制度化 した。  封建制は王朝の地方統治の制度であり、天子が一族の功臣及び 殷討伐に敢えて敵対し [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(周公の三笞)
  •   「周公の三笞」                    周王朝  よく子弟を教育することの戒め。  周公旦の子である伯禽は父の襲封地である「魯国」に、また周公の 弟である康叔が「衛国」にと、それぞれが着任した後のことである。  彼らは上京して成王に謁見したが、その席で周公にも会った。  だが周公旦は、その二人を訳も言わずに鞭打った。  その後も同じように三度 成王に謁見したが、そのたびに周公は  [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(韓原の戦い)
  •    「韓原の戦い」     「汎舟の役」   魯・僖公十三年(前647) 晋では未曾有の大飢饉が発生した。   晋の恵公(二十代。姫夷吾)は隣国の秦に食料の緊急救援を要請  した。   秦では先に晋の領土割譲を反故にされた経緯もあり、この機会に  晋を討つべしという意見もあった。   だが穆公(十代)は葵丘の会盟での盟約、即ち「飢饉が生じた際の  諸国の食糧の融通」という条目もあって、それを順守 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(管蔡の乱)
  •   「管蔡の乱」                    周王朝  「管蔡の乱」は、「禄父の乱」 或いは「三監の乱」ともいう。   武王が崩じた時 後継者たる誦(しょう)はまだ嬰児であった。  そこで叔父に当たる周公旦が、誦即ち成王を摂政するようになった。  だがその内 周公旦の兄弟達の中から、三男の管叔と五男の蔡叔 が流言を天下 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(社右宗左)
  •   「社右宗左」                    殷王朝   国の神位を建つに、社稷を右にし宗廟を左にす。    (=国家の神殿を建てるに際して、社稷は右に建て、宗廟は      左に建てるものである。)      ※ 社稷とは、土地の神(社)と五穀の神(稷)。         天子や諸侯は建国の時、国家の守り神として社稷を        祀った。   また喪国の社は、これに屋して天陽を受け [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(二つの周都)
  •  「宗周と成周」                     周王朝   受命の君と謂われ評判の高まった西伯昌は、周原と謂われた  岐山の麓から、「豊邑」の地に遷都した。時に西暦前1039年。   周という国、すなわち後の周王朝の名はこの周原に由来する。   その昔、西伯昌は犬戎、密須国を討伐して更には耆(き)国を  撃破した。   西伯昌のこの活躍を紂王の忠臣・祖尹(そいん)が警戒するよう  進言し [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(虞芮の争い)
  •   「虞芮の争い」                     殷王朝末期  他を見て我を改めることを云う。  殷王朝の末期、諸侯国たる「周」の君主である西伯昌は、諸国の人民 から篤い人望を集めていた。  時に虞(ぐ)と芮(ぜい)という国が、その田地の所有権を争い、何年 経っても解決しなかった。  そこで虞と芮の君は、お互いに解決策を持ちかけた。  「周の西伯という御仁は、仁人であると聞く。我らその地 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(郤氏の雌伏)
  •  「郤氏の雌伏」                    東周  紀元前636年 晋の重耳は故国に迎え入れられて即位することに なったが、一方では重耳が流浪し他国に亡命中 晋に留まり官途 に就いていた呂甥(史記では呂省)と郤芮は、重耳の即位による報復 の処罰を畏れて重耳(文公)暗殺計画を巡らしていた。  だがその計画は、漏えいして失敗に帰した。  重耳は事前に其の暗殺計画を知ることとなり、これに対処 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(覆水は定めて収め難し)
  •   「覆水は定めて収め難し」                     殷王朝末期   「覆水盆に還らず」とも。   水盆から大地にこぼれ落ちた水は、再び元の盆に戻すことは  出来ない。   本義は、一度離婚してしまった夫婦は、再び元の鞘に復し難い  ことの喩え。   現代では、一度やってしまったことは取り返しがつかないことの喩え。   殷王朝の末期のことである。   太公 初め馬氏を娶る。書を読み [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(狗 猛しければ則ち酒酸)
  •  「狗 猛(たけ)しければ則ち酒 酸にして售(う)れず                    東周  国で姦臣が重用されると、賢臣は寄り集まらず、その国はいずれ 衰亡することの喩え。  春秋時代 宋の国で酒を売る人がいた。  其の酒は美味く且つ貯蔵用の酒壷もとても美しくて清潔そのもの であった。  また見事な字で書かれた看板も店頭高く掲げられ、よく人目に付いて いた。  ところが酒は一向に売れず、 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(道のある所、天下之に帰す)
  •   「道のある所、天下之に帰す」                     殷王朝末期   ある日、周の君・西伯昌と太公望呂尚が治国の方策について語り  合った。   その内 太公望は西伯昌から “天下掌握の方策” を問われた。   太公望 語って曰く、   「凡そ人は死を悪(にく)みて生を楽しみ、徳を好みて利に帰す。   良く生利をするものは道なり。   道のある所、天下 之に帰す」と。   即ち [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(魯の季友、上卿となる)
  •   「慶父を去らずんば、魯の難 未だ已まじ」                    東周  魯の18代閔公元年(前661年)夏六月、先代の荘公を葬る。    ※ 閔公:「史記」では湣公と記す。  同年秋八月、閔公は斉の桓公と落姑で盟を立てたが、その際に 先に陳に奔った季友を呼び戻すべく斉侯の助力を請い、後に斉侯 の口添えもあり陳から季友が帰国してきた。  そしてその年の冬 斉の大夫・仲孫湫は、魯のお [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(虢国に神降る)
  •  「神を得て以って国興り、また或いは以って亡ぶ」                     東周  東周王朝の17代惠王十五年(前663年)に神が虢(かく)国の莘 に降るという事件があった。  惠王と大夫の内史(史官)の過との間で、虢国存亡についての深刻 な問答があった。  惠王が過に其の事を質した。  「何故そのような事が起こり、虢に降ったのか」と。  過は、  「国が興隆する時には、その君は公明 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(晋の重耳の放浪)
  •  「重耳と夷吾の放逐」                    東周  晋の19代献公(在位期間は前676−651)の大子であった申生や 公子の夷吾(後の20代恵公)・重耳(後の22代文公)は既に立派な 青年公子になっていた。  ところが献公が晩年になって娶った驪姫の策謀により、太子申生が 曲沃の新城に遷された際 重耳は蒲城に、夷吾は屈城にそれぞれ 遷されていた。   [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(獲るところ覇王の輔ならん)
  •   「西伯昌と太公望の出会い」                       殷王朝時代末期      諸侯国の君の西伯昌が、或る日のこと狩猟に出ようとして、之を  占ったところ、次のような卦が出た。   「獲るところ龍に非ず彲(ち)に非ず、虎に非ず羆(ひ)に非ず、  獲るところ覇王の輔ならん」と。       ? 彲とは、蛟龍(みずち)のことで、蛇に似た水生の生き物。        羆は、ひぐま。 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(斉の後継者争い)
  •   「臣 謹んで誅を行う」       紀元前686年 斉(姜斉)の大夫擁廩(=林)は、15代の公孫無知 を弑してから大夫連中に告げて曰く、  「無知は、襄公(14代の姜諸兒)」を弑して自立す。  臣 謹んで誅を行う。  ただ大夫ら、さらに公子の当に立つべき者を立てよ。  ただ命をこれ聴かん」と。  自らは、懼れ多くも野望の無いことを闡明したのである。  『小白と糾の後継者争い』    大夫擁廩(林)の [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(西伯昌、羑里に幽閉)
  •   「西伯昌、羑里に幽閉される」                    殷王朝   后稷(こうしょく)を祖とする周は、西伯昌の代になって政治の範  を后稷・公劉(后稷の曽孫)・古公亶父(ここうたんぽ。西伯昌の  祖父)・季公(西伯昌の父で王季とも)等の先君に求めて、仁政に  これ努め、老を敬い少を慈しみ、賢者には礼下し日中まで食するに  暇非ず。以って士を待つという国風を醸し出していた。   その [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(楚の熊通、王を称す)
  •  「我、自ら尊くせんのみ」                    春秋時代  18代楚王の熊通(ゆうとう)は、周・桓王十五年(前706年)に 周王朝の同族である「隋国」を攻めたが、その一方では周王朝に 自らの高位の爵位を要求した。    ※ 楚国は当時においては、子爵の国であった。  ところが朝廷にその願いを一蹴されたので、  「我、自ら尊くせんのみ」と称して、久しぶりに荊蛮(未発展)時代の 王号 [続きを読む]
  • 中国通史で辿る名言・故事探訪(菟裘)
  •  「菟裘」                    春秋時代  菟裘(ときゅう)は、魯の隠公の隠居しようとした地名である。  転じて、官職を退いて隠居する地のことを謂う。  魯・隠公十一年(前712年)冬、恵公(13代)の嫡子・允(軌とも) は、公子の羽父(公子翬?き?)に唆されて、すでに退位を決意していた 異母兄の隠公(14代)を殺させて自立した。  隠公十一年のある日のこと、魯の公子羽父が隠公に [続きを読む]