伊勢めじろ さん プロフィール

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伊勢めじろさん: ふぁいたーず!!
ハンドル名伊勢めじろ さん
ブログタイトルふぁいたーず!!
ブログURLhttps://ameblo.jp/kabadeden147/
サイト紹介文2009年から愛し始めたファイターズを、データで分析したりして応援していきたいです(*^^)v
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供46回 / 267日(平均1.2回/週) - 参加 2013/04/12 00:23

伊勢めじろ さんのブログ記事

  • 537年(4) 独孤如願、洛陽に到りて旧都を復し 宇文貴、背城の陣を布いて潁川を保つ
  • ●韓賢の死 10月、己酉(18日)、西魏の行台の宮景寿・都督の楊白駒が洛陽を攻めたが、東魏の大都督の韓賢(『魏書』では延。いま北史の記述に従う)に撃退された《魏孝静紀》。 韓賢はまた洛州民の韓木蘭(韓雄、537年〈2〉参照)の挙兵も擊破した。賢が雄軍の死体の鎧武器を自ら品定めしていると、死体の間に隠れていた雄兵が突如そのすねを斬りつけた。賢は間もなくその傷が元で死んだ。 賢は武将ではあったが穏やかな性格 [続きを読む]
  • 537年(2) 宇文泰、十二将を率いて恒農を襲い 高歓、寛大を以て鮮漢の宥和を図る
  • ●東魏と梁の通好 これより前、梁は自国に投降していた西魏益州刺史の傅敬和を東魏に送り、通好を求めていた《魏98島夷蕭衍伝》。東魏はそこで兼散騎常侍の李諧(生年496、時に42歳。孫搴をからかった。536年参照)を正使、兼吏部郎中の盧元明と兼通直散騎常侍の李業興を副使として梁に派遣した《魏孝静紀》。 李諧、字は虔和は、李平の子である【李平は李崇の従弟で、孝文・宣武に仕えた(508年8月参照)】。諧は背が小さく、 [続きを読む]
  • 536年 高歓、急進して夏州を陥とし 賀抜勝、険を冒して闕に帰す
  • [西魏:大統二年 東魏:天平三年 梁:大同二年]●高歓、夏州を奇襲す 春、正月、辛亥(9日)、西魏の文帝(時に30歳)が南郊にて天を祀った。また、この時より道武皇帝に加えて神元皇帝も天に合わせ祀る事とした【太和十六年(492)に孝文帝が初代太祖道武帝を南郊に合わせ祀った。神元帝は、元氏の始祖の拓跋力微(173〜277)の事である】《北・西魏文帝紀》。 甲子(22日)、東魏の丞相の高歓(時に41歳)が自ら厙狄干ら [続きを読む]
  • 535年(2) 侯淵滅んで東魏、三斉を制し 快刀乱麻を断って、高洋、父に能を示す
  • ●侯淵の乱 夏、4月《魏孝静紀》、東魏が封延之(封隆之の弟。行勃海郡事に任じられ、のち婁昭の樊子鵠討伐に従った)を青州刺史とし、侯淵と代わらせた(侯淵はもともと斉州刺史だったが、汝陽王暹と交代させられ、代わりに元貴平が刺史を務める青州を奪取してその刺史となっていた。534年10月参照)。淵は新しく別の刺史に任じられなかったことに不安を覚え、朝廷に帰還する途中、広川(斉州の広川郡か青州斉郡の広川県。魏66 [続きを読む]
  • 534年(5) 高歓、元善見を擁立して東魏を興し 北魏、二に分かれて三国鼎立す
  • ●潼関の攻防 辛酉(8月11日)、高歓が洛陽を発ち、自ら孝武帝を追った。 戊辰(18日)、清河王亶が制を下して大赦を行なった《魏出帝紀》。 この月、歓は恒農に到り、潼関を攻め陥として守将の毛鴻賓を捕らえ(『魏書』出帝紀では9月己酉(29日)。『北斉書』神武紀・『周書』文帝紀では8月の事としている。洛陽出立から約2ヶ月もかかるとは思えないので〈諸事情からそうなったのかもしれないが〉、北斉書などの記述を採 [続きを読む]
  • 534年(4) 熒惑、南斗に入って孝武 都を追われ 宇文泰、帝を奉戴して長安に西魏建つ
  • ●高歓出陣 高歓は洛陽に向かうに際して、弟で定州刺史の高琛に晋陽の留守を任せ、兼丞相府長吏の崔暹にこれを補佐させた。崔暹は、崔挺(496年9月参照)の族孫である【524年7月に破六韓抜陵に大敗を喫した崔暹とは別人である(この崔暹は河陰の変の際に殺害されている)】。歓は兵士たちに対してこう告げて言った。「わしは爾朱氏の擅(専)権に憤り、これを討って大義のなんたるかを天下に示し、主上を奉戴して大忠のなんた [続きを読む]
  • 534年(3) 高歓、朝政を壟断して洛陽を圧し 孝武、空拳を振るってこれに対す
  • ●于謹の提案 これより前、于?は六鎮の乱のさい広陽王淵の軍師となって活躍し、淵の死後は荊州にて梁と戦っていたが、孝荘帝が即位すると鎮遠将軍とされ、まもなく直寝(侍衛の官)に遷された。のち太宰の元天穆(爾朱栄の義兄)の葛栄討伐(528年〈5〉参照)・邢杲平定(529年〈1〉参照)に加わり、征虜将軍に任ぜられた。天穆は?に会うと感嘆してこう言った。「王佐の才なり。」 のち爾朱天光の万俟醜奴討伐(530年〈1〉 [続きを読む]
  • 534年(2) 侯莫陳、恩に背いて岳を夢見 宇文泰、勅に背いて仇を討つ
  • ●宇文泰の志は悦を討つにあり 孝武帝は岳の死を聞くと、武衛将軍の元?に遺衆を慰労させると共に、これを洛陽に召還しようとした。しかし?が平涼に到った時、遺衆は既に宇文泰を盟主に戴いていた。また、?は侯莫陳悦の召還も命じられていたが、悦は歓に付いていたので応じなかった。泰はこれを聞いて諸将にこう言った。「悦は忠良の臣を無道に殺すだけでは飽き足らず、詔命にさえ応じようとせぬ。まさに国家の大賊である。や [続きを読む]
  • 534年(1) 賀抜公、志半ばで凶刃に斃れ 宇文夏州、決然と立って遺衆を収む
  • [西魏:永熙三年 東魏:天平元年 梁:中大通六年]●紇豆陵伊利滅ぶ 春、正月、壬辰(9日)、高歓が河西の苦泄河に割拠する費也頭族長の紇豆陵伊利を攻め、これを捕らえてその部落を河東に移住させた【河西は、五原河の西の地域のことである。河東は、五原河の東の地域のことである】《魏出帝紀・北斉神武紀》。孝武帝は歓の行為を責めて言った。「伊利は叛かず侵さず、国家の忠臣であった(左伝襄公十四年の戎子駒支の言葉 [続きを読む]
  • 533年 高歓、爾朱兆を討って天子に図られ 宇文泰、自ら虎口に入って歓に会う
  • [北魏:永熙二年 梁:中大通五年]●爾朱兆の最期 春、正月、辛卯(2日)、梁の武帝が南郊にて天を祀り、大赦を行なった《梁武帝紀》。 この月、竇泰が爾朱兆の本営に攻撃をかけると、兆らは果たして年始の宴に興じて警戒を怠っていたため、奇襲となった。兆はいきなり現れた泰軍の姿に肝を潰し、本営を棄てて逃亡した《北斉神武紀》。 甲午(5日)、高歓が大軍を率いて晋陽を発ち、兆を追った《魏出帝紀》。 丁酉(8日 [続きを読む]
  • 532年(2) 燦然たる威名に 諸将、地に伏して 堂々たる義軍に 元氏、再び廃立に遭う
  • ●節閔帝の処遇 辛巳(4月18日)、高歓は廃帝と共に邙山(洛陽の北)まで到ると《魏前廃帝紀》、帝の血筋の悪さが気にかかるようになり、そこで上は百官を集め、下は士庶に至るまで令を下し、こう尋ねて言った。「爾朱氏は暴虐にして天の理を捻じ曲げ弄んだため、孤は信都にて義兵を挙げ、天を蔑する罪人どもをかくのごとく討ち滅ぼした。孤はそこで皇室の中から血筋が良く賢明な者を推戴して補佐し、魏の国運を改めて盛んにし [続きを読む]
  • 531年(4) 爾朱氏、暴虐を尽くして人心を失い 高歓、義の旗を挙げて広阿に決戦す
  • ●高歓叛す 高歓が爾朱氏討伐の兵を起こすことを考えると、鎮南大将軍の斛律金(525年〈5〉参照)や軍主で善無の人の厙狄千、歓の妻の母の弟の婁昭《北斉17斛律金伝》、妻の姉の夫の段栄らがこれに賛成し、その実行を勧めた《北斉16段栄伝》。 歓はそこで爾朱兆の書状を偽造し、六鎮兵らに対してこう言った。「柱国は諸君を契胡のもとに配し、その私兵にしようとしている。」 六鎮兵らは以前契胡らに虐待された過去があったた [続きを読む]
  • 530年(5) 北騎襲来して 爾朱兆、大敗し 六鎮の兵を得て 高歓、遂に能く龍に変ず
  • ●爾朱氏に確執起こる 爾朱世隆は爾朱兆よりも先に洛陽へ出発していたが、河陽にて兆と合流した時、兆は既に洛陽を平定し終わっていた。兆は自らが挙げた大功に思い上がり、世隆に目を怒らせながら剣を突きつけ、激しい声音でこう責めて言った。「叔父上は朝廷暮らしが長く【胡太后が摂政をしていた時から世隆は朝廷に勤務していた。】、見聞が広いはずでありますのに、どうして天柱大将軍に災いが降りかかるのを止められなかっ [続きを読む]
  • 529年(3) 梁武、仏教に凝りて国を傾かし 侯淵、奇計を以て韓樓を平らぐ
  • ●論功行賞 甲戌(閏6月24日)、北魏は上党王天穆を太宰に、城陽王徽を大司馬・兼太尉に任じた。 乙亥(25日)、孝荘帝は都亭にて慰労の宴を催し、爾朱栄・上党王天穆及びその部将たちに宮女三百人・絹織物数万疋を功績の多寡に準じて分け与えた。 丁丑(27日)、元顥の弟の元頊を捕らえ、市場にて斬刑に処した《魏孝荘紀》。 元頊は特に秀でた所が無い凡人であったが、宗室に血筋が近いという事だけで早くから要職を与えら [続きを読む]
  • 528年(5) 二強並び立ち、滏口に決戦起こる
  • ●葛栄の南下と邢杲の乱 この月(6月)、葛栄は兵糧が乏しくなってきた事から、僕射の任褒に三万余を与えて南方を略奪させた。褒軍は沁水(洛陽の北)にまで到った。 癸卯(17日)、北魏は上党王の元天穆を大都督・東北道諸軍事とし、宗正珍孫・奚毅・賀抜勝・爾朱陽都らを率いてこれを討伐するように命じた。 孝荘帝は世がまだ治まっていないことを理由に、正殿に居るのを避け、食事の量を減らして自らを責めた《魏孝荘紀》 [続きを読む]
  • 528年(4) 爾朱栄と孝荘帝
  • ●郢・潁二州、梁に降る 辛丑(4月14日、爾朱栄が洛陽に入城した日)《梁武帝紀》、北魏郢州刺史の元顕達が梁に降伏し(527年10月より孤立していた)、梁の郢州刺史の元樹がその接収に赴いた。司州刺史の夏侯夔(北魏の東豫州を湛僧智と共に陥とした)も楚城よりこれに合流し、義陽の守備を行なう事になった。武帝は北魏の郢州を北司州とし、夔にその刺史も兼任させた【504年8月に北魏が梁の司州を占拠しこれを郢州とすると、 [続きを読む]
  • 528年(3) 河陰の虐殺
  • ●長楽王の擁立 爾朱栄は諸王の成人した者の中で誰が皇帝に相応しいか元天穆と密かに議論した《伽藍一》。その結果、北魏に大いに忠勤のあった故・彭城武宣王勰の第三子で、自らも令名の高い長楽王子攸(527年〈2〉参照。高道穆を一時匿った)を新帝に擁立する事に決めた《魏孝荘本紀》。 そこで栄は従子の爾朱天光と腹心の奚毅・家奴の王相を洛陽に潜入させ、王族事情に詳しい爾朱世隆に可否を尋ねさせた。世隆が賛同すると、 [続きを読む]
  • 528年(1) 定州の陥落と蕭宝寅の乱の平定
  • ●定州・瀛州、相次いで杜洛周の軍門に下る 春、正月、癸亥(5日)、北魏は北海王顥を驃騎大將軍・開府儀同三司・相州刺史とした。 これより前、定州は鮮于修礼と杜洛周の二勢力に殺掠を受け、州城の中山は長期間孤立していた。守将の楊津は薪や兵糧を多く蓄え、兵器を修理し、更に城壁も補強して戦い続け、敵が来襲してくるや常に兵器を次々と動かしてこれを迎撃した。また、城内から城を去ること十?の地点まで地下道を掘っ [続きを読む]