伊勢めじろ さん プロフィール

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伊勢めじろさん: ふぁいたーず!!
ハンドル名伊勢めじろ さん
ブログタイトルふぁいたーず!!
ブログURLhttps://ameblo.jp/kabadeden147/
サイト紹介文2009年から愛し始めたファイターズを、データで分析したりして応援していきたいです(*^^)v
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供34回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2013/04/12 00:23

伊勢めじろ さんのブログ記事

  • 549年(6) 高洋、白刃を以て魏帝を青くし 岳陽、窮鼠となりて西魏を入る
  • ●能吏唐邕 東魏の勲貴(重臣)たちは太原公の高洋にこう勧めて言った。「強兵はみな并州にございます。早く掌握しに行かれませ。」 洋はこれに従った《出典不明》。 夜、洋が大将軍督護(北史。北斉書では『大将軍府参軍』)で太原の人の唐邕(字は道和)に四方の鎮圧の差配を命じた所、邕はそれを瞬く間に終わらせてしまった。以降邕は洋に重用されることになった。 邕の父は霊芝といい、北魏の代に寿陽県令となった。邕は [続きを読む]
  • 549年(4) 武帝、憂憤の内に宮城にて餓死し 王思政、配下を憐れんで降を選ぶ
  • ●その時に非ず 甲辰(4月19日)、東魏が大将軍・勃海王の高澄を相国・斉王とし、緑綟綬(後漢書輿服志下曰く、『相国は緑綬を付ける。』注曰く、『綟は草の名であり、これを用いて染めると緑に似た色になる。』大漢和辞典では綟綬を『かりやす草で染め〔てでき〕た萌黄色の〔綾〕絹で作った丞相の服飾(ひも)』とする)を用いて官印(官吏の身分証明のためのしるし)を下げることや、謁見の際に姓名を呼ばれず、官職名だけを [続きを読む]
  • 549年(3) 詔下って 諸軍、揃って本任に復し 水厄に遭って 慕容、潁川に命を落とす
  • ●太子との会見 侯景は武帝と会ったのち、次いで永福省(梁30徐摛伝。陳32殷不害伝では『中書省』とある)に赴いて太子綱に会ったが、太子もまた恐れる様子が無かった《南80侯景伝》。このとき景が連れていた兵士はみな羌・胡の雑種で、誰彼構わず喧嘩を売るなど態度が非常に不遜だったため、侍衛(侍従と衛兵)は驚き恐れて逃げ散っていた。しかし、東宮通事舍人【朝廷でいう中書通事舍人】で陳郡の人の殷不害と太子中庶子【朝 [続きを読む]
  • 549年(2) 爛汁 溝渠に満ちて 台城、失陥し 天威を前にして 侯景、冷や汗を流す
  • ●鶏子 武帝は常に粗食を食べて過ごしていたが、包囲が長期に及んで御厨房の食材が全て無くなると、今度は鶏卵を食べるようになった。救援軍との交通が暫し許され、邵陵王綸(字は世調。武帝の第六子。白昼堂々人を殺害させた事がある。549年〈1〉参照)から数百個の鶏卵が献じられてくると、武帝は涙にむせびながらそれを手ずから料理した《出典不明》。 ●湘東王繹進まず 都督荊雍湘司郢寧梁南北秦九州諸軍事・荊州(治 江陵 [続きを読む]
  • 549年(1) 柳仲礼、深手を負って覇気を失い 侯景、糧を失って偽和を求む
  • [西魏:大統十五年 東魏:武定七年 梁:太清三年]●青塘の戦い 春、正月、丁巳朔(1日)、建康救援軍の大都督(総督、総指揮官)で司州刺史の柳仲礼(賀抜勝の雍州侵攻を退けた。身長八尺の勇将。548年〈5〉参照)が、軍を新亭から朱雀大航の南に前進させた《梁武帝紀》。裴之高(字は如山。名将裴遽の兄の子で、西豫州刺史。548年〈5〉参照)は南苑(建興苑?)に、南陵太守の陳文徹(548年〈5〉参照)・宣猛将軍の李孝欽 [続きを読む]
  • 548年(5) 侯景、百道より再び台城を攻め 救援軍、陸続と到って秦淮河に陣す
  • ●鄱陽王範・南康王会理動く この日(11月29日)《梁武帝紀》の?(出典不明)、安北将軍・合州刺史の鄱陽王範(武帝の異母弟、鄱陽忠烈王恢の子。548年〈2〉参照)が雄信将軍・西豫州刺史の裴之高(字は如山。名将裴遽の兄の子。548年〈2〉参照)を督江右援軍事に任じ、世子の蕭嗣や建安太守の趙鳳挙(出典不明)らと共に江西の兵を率い、建康へ救援に向かうよう命じた。嗣らは後渚(?)に到ると、蔡洲(建康の近西にある、長 [続きを読む]
  • 548年(4) 侯景、目算が外れて本性を現し 邵陵王、入援して鍾山に刃を交う
  • ●焦燥 侯景(滏口の戦いにて葛栄を捕らえて大いに武名を挙げ、のち高歓に河南の軍事権を委任された。歓が病気になると立場が微妙になって西魏に寝返ったが、すぐに梁に付き、やがてその梁にも叛旗を翻した。548年〈3〉参照)は当初、建康はすぐに陥とせると楽観視しており、〔その余裕から〕士卒に軍律を徹底させ、略奪などを一切禁じていた。しかし、幾度もの攻撃を撃退され、梁の援兵に逆包囲される危険性が高まると、景は兵 [続きを読む]
  • 548年(3) 臨賀、賊を都に入れて帝位に即き 羊侃、子を射て台城を死守す
  • ●渡江 戊申(10月21日)、梁が光禄大夫の臨賀王正徳(武帝の弟の子。侯景と内応の密約を結んだ。548年〈1〉参照)を平北将軍・都督京師諸軍事とし、丹陽郡の朱雀航(秦淮河に架かる浮橋の中で最大のもの。朱雀門に面するためこう呼ばれる)(梁55臨賀王正徳伝)を守備させた《梁武帝紀》。正徳は葦草を運ぶためと偽って大船十艘を用意し、これを使って景軍を渡江させた。景は渡河する前に王質の舟師の妨害に遭うことを心配し、 [続きを読む]
  • 548年(2) 侯景、乱を起こして建康に猪突し 武帝、朱异を信じてこれを笑う
  • ●李賁の死 己未(3月28日)、梁が鎮東将軍・南徐州(建康の東)刺史の邵陵王綸(武帝の第六子。白昼堂々人を殺害させた事がある。546年〈1〉参照)を平南将軍・湘州(治 盧江)刺史・同三司之儀とし、中衞将軍・開府儀同三司・中書令・侍中の西昌侯淵藻(武帝の兄の子。539年参照)を征東将軍・南徐州刺史とした《梁武帝紀》。 この日、南越帝の李賁(546年〈1〉参照)が潜伏先の交州の屈獠洞中にて屈獠族に斬られた。首は建 [続きを読む]
  • 548年(1) 侯景、大敗して寿陽に逃れ 高澄、梁と和して離間を図る
  • [西魏:大統十四年 東魏:武定六年 梁:太清二年]●決着 東魏の東南道行台の慕容紹宗(もと爾朱兆の腹心。歓に降ると高隆之と共に鄴の朝政を任され、のち韓雄の挙兵の平定や洛陽以東の奪取、劉烏黒の乱の平定に活躍した。547年〈4〉参照)と梁の河南王侯景(滏口の戦いにて葛栄を捕らえて大いに武名を挙げ、のち高歓に河南の軍事権を委任された。歓が病気になると立場が微妙になって西魏に寝返ったが、これにも叛いて最終的 [続きを読む]
  • 547年(4) 杜弼、檄文を書いて梁の滅亡を予言し 紹宗、渦北にて侯景と雌雄を決す
  • ●檄梁文 東魏が軍司の杜弼(歓に西魏よりも先に勲貴を除くよう勧め、武器の列の間を歩かされた。梁が北伐の軍を起こすと、その迎撃軍に軍司として参加した。547年〈3〉参照)に(出典不明)檄文を作らせ、梁に送ってこう言った。「我が皇室は高貴にして正統であり、代々天下に恩沢をもたらしたが、ただ呉・越(梁)のみその教化を拒んだ。〔本来であれば討伐するのが当然だが、〕元首(孝静帝)が慈悲深く、上宰(高歓)がその [続きを読む]
  • 547年(3) 高澄、天子を罵って命を狙われ 紹宗、寒山に戦って梁武を眩ます
  • ●高歓父子と孝静帝 東魏の孝静帝は容貌美しく、しかも人並み外れた筋力を持ち、石造りの獅子を脇に挟みながら宮殿の塀を乗り越えることができ、弓を射れば百発百中の腕前を見せた。また、吉日の日に開いた宴会では大体群臣に対して詩を吟じさせた。ゆったりとしていて落ち着きがあり、学問があって上品なさまはまさしく孝文帝の風があった。大将軍の高澄はこれを非常に不快に思った《魏孝静紀》。 生前、高歓は主君を追放した [続きを読む]
  • 547年(2) 西魏、侯景を救って奸詐を見抜き 梁、片土に釣られて信義を破る
  • ●西魏、救援軍を発す 東魏が司徒の韓軌(歓の側室の韓氏の兄。むかし泰州を治め、のち司空とされた。547年〈1〉参照)・驃騎大将軍・儀同三司の賀抜仁(焉過児? 紇豆陵歩蕃の侵攻の際、爾朱兆を助けるのをわざと遅らせるよう歓に提言した。530年〈5〉参照。538年には南汾州の攻略や盧仲礼の乱の平定に活躍している。本年5月に太保とされた)・可朱渾道元(元の字。535年に西魏から東魏に寝返り、本年5月に司空とされた。54 [続きを読む]
  • 546年(2)  韋孝寛、推挙に応えて玉壁を守り 高歓、病に倒れて勅勒歌に涙す
  • ●玉壁の戦い これより前(9月)、東魏の丞相の高歓が玉壁を攻囲し、昼夜分かたず激しく攻め立てていたが、西魏の兼摂南汾州事の韋孝?はこれを臨機応変に防いでいた《資治通鑑》。 歓は城の南に高い土山を築き、そこから城内になだれ込もうとした。城南の城壁の上には以前から二つの櫓が建っていたが、孝?はその櫓の上に更に木製の櫓を継ぎ足していき、常にその土山よりも高くなるようにさせ、そこに多くの兵器を置いて侵攻 [続きを読む]
  • 545年(2) 賀琛、大略を以て四事に意見し 武帝、瑣末を以て諫言を封ず
  • ●賀琛、武帝に意見す 12月、東魏が司空の侯景(高歓に河南の軍事権を委任された。544年参照)を司徒に、中書令の韓軌(歓の側室の韓氏の兄。むかし泰州を治めた。535年〈1〉参照)を司空とした。 戊子(14日)、太保の孫騰(四貴の一人。歓に早くから従い、懐刀として活躍した。545年〈1〉参照)を録尚書事とした《魏孝静紀》。 この冬、西魏が長安の南に円丘(天を祀るための円形の祭壇)を築いた《北史西魏文帝紀》。 こ [続きを読む]
  • 545年(1) 計破れて 任冑、首を甑に現し 東・柔結んで 二婦人、競いて飛鳥を射る
  • [西魏:大統十一年 東魏:武定三年 梁:大同十一年]●高歓暗殺計画 東魏の開府儀同三司の爾朱文暢(爾朱栄の第四子。歓の側室の爾朱氏の弟)・丞相府司馬の任胄(任祥〈勲貴の一人。徐州刺史。538年秋に亡くなった〉の子)・都督の鄭仲礼(歓の側室の鄭大車〈高澄に迫られ、関係を持った。535年(1)参照〉の弟。歓の弓矢の管理を任され、常にその外出に付き従った)・中府主簿の李世林・前開府参軍の房子遠(房謨の前妻の子) [続きを読む]
  • 544年 四貴、財貨を貪って国を乱し 崔中尉、大いに弾劾を行なって粛然とす
  • [西魏:大統十年 東魏:武定二年 梁:大同十年]●李賁、皇帝を称す 春、正月、交州叛民の李賁(541年に梁に対して叛乱を起こした)が交阯にて越帝(出典不明)を自称し、百官を置いて《梁武帝紀》年号を天徳と改めた《南史梁武帝紀》。●劉烏黒の乱 2月、丁卯(12日)、東魏徐州民の劉烏黒が叛乱を起こした(北斉20慕容紹宗伝では『梁人』とあり、『徐州に侵入した』とある)。東魏は行台の慕容紹宗を派してこれを討伐させ [続きを読む]
  • 543年(2) 高歓、気衰えて千載の悔いを残し 李昌儀、囚われて乱世の定めに従う
  • ●追撃すべきか否か 高歓が宇文泰に追撃をかけようとしたところ、これ以上戦い続けるのは良くないと言う者があった。そこで諸将や幕僚を集めてこれを諮ると、行台郎中の封子繪(封隆之の子)がこう言った。「黒獺は英雄の器でも無いのにいたずらに偽帝を擁立し、叛乱者たちを率いて伊・瀍(洛陽)の地に死ににやってきました。これは天下の患いが一朝にして消え去るものでした。〔戦いの結果、〕黒獺はすんでの所で逃しましたが [続きを読む]
  • 543年(1) 高仲密叛して 李遠、気勢を上げ 邙山に戦って 賀抜勝、高歓の胆を潰す
  • [西魏:大統九年 東魏:武定元年 梁:大同九年]●高仲密叛す 春、正月、壬戌(1日)、東魏が大赦を行ない、年号を興和から武定と改めた《魏孝静紀》。 これより前、東魏の高仲密(慎)は、高歓と孝武帝の対立の際に任地の光州から逃亡した(533年参照)のち、歓の元で大行台左丞、尚書を歴任した。仲密は官界を我が物顔にふるまい(原文『当官無所迴避』)、人々を恐れ憚らせた。 この時、安州(幽州の北)の人々は歓が爾 [続きを読む]
  • 539・540年 柔然、一女子のために西魏に兵を挙げ 文后、帝のために喜んで自死す
  • ◆539年[西魏:大統五年 東魏:元象二年・興和元年 梁:大同五年]●何敬容と朱异 春、正月、乙卯(1日)、梁が尚書左僕射の蕭淵藻を中衛将軍とし、丹楊尹の何敬容を尚書令とし、吏部尚書の張纘を僕射とした。纘は、弘策の子である【張弘策は武帝の舅で、その創業を佐けた(499年8月参照)】。 何敬容、字は国礼は、八尺(約190センチ)の長身で肌が白く、美しい顎髭と眉を備えていた。性格は慎み深く厳かで、上品な着こな [続きを読む]