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油屋種吉の独り言 https://blog.goo.ne.jp/knvwxco

種吉が今と昔のお話をいろいろに語ります。

ライフスタイルブログ / 季節感のある暮らし

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油屋種吉
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住所
栃木県
出身
奈良県
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2013/08/16

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  • 喉もと過ぎれば……。

    こんにちは。ブロ友のみなさま。いかがお過ごしでしょうか。わたしは、このところ、あまり元気がありません。なぜかといえば、詐欺メールに、見事なまでにひっかかってしまったからです。どうやって、彼は、わたしのクレカの詳細を知るのでしょう。どうしたら、わたしのいのちの次に大切なものを抜き取ることができるのでしょう。彼なりに必死に考えたのでしょう。敵は手ごわい。クレカについての知識を、充分に認識しています。異変は三月の半ばにありました。PCの画面に、明らかに、詐欺だとわかるくらいの画像が現れました。わたしは直ちに鹿沼ケーブルに電話。「この画像を削除するにはどうしたらいいでしょう」「では、こうしてください」この判断は正しかった。即座に、正確な処理のしかたを教えていただき、事なきを得ました。問題はこのあとでした。発信元が...喉もと過ぎれば……。

  • 忘却。 (4)

    かみさんの小言は、スーパーの玄関を出る際にもつづいた。(また始まったか。まったくいつまで続くのだろう)おれは思わず、あらぬ方を見つめた。その瞬間、ふっと何かが、おれの視界を横切った。年輩の女の人らしかった。割烹着を草色の着物の上に重ねていた。横顔がどこかで見たことが……と思ったら、もうこの世にいないはずのおれのお袋に似ていた。(おれを心配して、お袋は、自分の若いときの姿で出て来てくれたのだろうか、あれは白昼夢だったんだ。そうに違いない)おれはしばらくしてから、そう思った。かみさんの小言は、まるでしとしとと降ってはやみ、降ってはやみする、菜種ツユのようだった。ぶつぶつと小声で言っている。そのぶんエネルギーの消耗が小さい。だから、ねちねち、ねちねちと長引いてしまうように思われた。おれが少しでも、その小言に対し...忘却。(4)

  • 忘却。 (3)

    久しぶりに、二人してドライブ。若い頃なら子育てがあったりで、協力関係を保つのは当然である。しかし、双方とも古希を過ぎた身では、なかなか共通の話題が見当たらない。ともすると、互いに別々の行動に走ってしまうが、まあそれも良しとするのが夫婦が穏便にやっていく秘訣らしい。スーパーマーケットでのショッピングひとつするのにも、ツウと言えばカーというわけにはいかならなかった。互いにプラスとマイナス。近寄れば、パッと火花が散りそうな雰囲気になってしまう。こんな場合、男のほうが常に引く。しかし、こころの中でわだかまっているものをいつまでもそのままにしておくのは体にわるい。「あああ、いいい、ううう、ええお」おれは、少し離れて歩くかみさんの耳に入らない程度にうつむき加減でつぶやく。そんな調子で、ひと通り、かみさんの欲しいものを...忘却。(3)

  • 忘却。 (2)

    二階の部屋。外向きの窓は二枚のガラス戸になっている。けっこうな重量感があり、開け閉めするのに両手を使わざるをえないほどである。いちばん外側に雨戸があり、次に網戸がひかえている。三番目がガラス戸。その内側に障子戸が外からの陽光をさえぎっている。階下のかみさんの動向が気になるが、自らの身体の不調のほうが問題で、ちょっと横になってれば、いつもの身体にもどるだろうとたかをくくり、右向きで身体を、くの字型に保つ姿勢をとった。そのうち両のまぶたに鳩がとまったらしく、この頃とみに、てっぺんあたりが薄くなった頭を、上下にこくりこくりと振りだした。「あんた、寝てたんだね。道理で静かだと思ったわ」耳もとで、かみさんがそうささやくのを聞くまで、おれは夢の世界にどっぷりつかっていた。「うん……、ああ、まあ、そうみたい」ようやく、...忘却。(2)

  • 忘却。 (1)

    「あんたあ、どうしたのよ。寝てるのお。いい加減に下りて来てよ。用があるのよお」かすかに、かみさんの声がした。彼女はきっと、声を張り上げているに違いない。それがきわめて小さく聞こえるのは、おれのせいだろう。おれがいまだに目が覚めず、うつらうつらしているからに違いない。しかし、それにしても、何かが変だった。生来、せっかちの性分。いつもなら、彼女の声を耳にしただけで、胸の辺りがどきどきざわざわしだす。おかしなことに、今回はそうはならない。至って平静である。どっしりと構えている。しかしながら、頭のどこかで、以前のくせを憶えているのだろう。だんだんにもともとの性分の芽が出始めると、そわそわしだした。(早く返事しなけりゃだめだ。そうでないとまたまた彼女の機嫌を損ねてしまう)それっと、ベッドの上で起き上がろうとしたが、...忘却。(1)

  • 忘却。

    シュバッ。不意にスマホが音を立てた。誰かがメールを寄こしたらしい。しかし、ラインのトーク印が朱色に染着信の形跡がない。それじゃメッセージだろうと思い、アプリをタップし中身を調べた。あった。発信者の苗字がおかだとある。「おれだよ、おれ。どう、元気?」言葉に親しみがこもっている。おかだ、おかだ、おかだ……。こころの中でそう言ってみるが、その苗字についての記憶の糸が、容易に見つからない。(ああ、とうとう、おれも……)急降下していくエレベーターに乗っているような気がして、意識が遠のく。やっと自分らしくなり、ああでもないこうでもないと、返信をためらっているうちに、ふたたびメッセージが届いた。「ほら、高校時代のおかだだぜ。わかんないのか。かわいそうにその歳でな」ぼけ老人にされてしまった。そんなひどいことを言うんじゃ、...忘却。

  • 口にするものは……。

    こんにちは。ブロ友のみなさま。ようやく桜の花がひらいたと思ったら、夏日になるのですもの。驚きますよね。そして、次の日は気温が急降下。夕方になって、タンスにしまった服をもう一度身につける始末です。57年前のT大入学式。桜が満開でしたが、灰色の空から、白いものがふわりふわり。たちまちにして、ピンクの花びらが視界から消えてなくなりました。(えらいところに来たもんや。まあしゃあない。地元も阿波も受け入れてくれなかったんだから。ああ、もっと性根入れて勉強しとけば良かった)わたしの身体は、肌をさす空気の中で、ぶるぶる震えていました。甲州の郡内地方の冬。やっぱり、富士山のふもとは寒いのだなあと、手袋をはめない両手に、白い息を吹きかけました。ある冬の夜、銭湯に向かいました。行きはよいよい、帰りはこわい。風呂上がりで濡れた...口にするものは……。

  • ポケット一杯のラブ。 エピローグ

    今でこそはYは平気で女の子に、声をかけられるけれど、もともとはすごいひっこみ思案だった。M子と出逢い、胸の奥から、なにやらあったかいものがわき上がってくるようになってから、ちょっぴり自分を信じられるようになってきた。共にやった郵便局の社会学習はせっかくの良い機会だったし、M子とはあれきりで終わりにしたくないと思う。ある日、自転車で家に帰る途中、M子を見かけた。幸いなことに、あたりに人影がない。自転車を降りて、声をかけた。ほんの五、六歩あるくだけの距離がとても長く感じられた。「ねえ、M子、いっしょに帰らない。定期テストも近いし、いっしょに勉強しない」ふいにわきから女の子の声がかかった。M子がふり向き、Yを見てあらっという顔をした。すぐに、プッとふきだす笑いを、鼻のあたりに浮かべてから、M子の友の方に向きなお...ポケット一杯のラブ。エピローグ

  • ポケット一杯のラブ。 (6)

    最寄りのバス停留所に、Yがはあはあ言いながら駆けつけたとき、Yは、M子の様子がさっきとまったく異なり、不機嫌になっているように感じた。Yに対面の姿勢は保っているが、彼女の目は地面を見つめている。「あったよ。はいこれっ、良かったね。上司の女の人が気づいて、とっといてくれたんだ。そんなに気に入らないような顔してる理由がわかんないよ。これでもおれ、一所懸命、バスの時刻に間に合わせようと、一所懸命だったんだ」M子はいまだに顔を上げない。紙袋を受け取ると、すぐさまそれを左手でつかみ、自分の背後に回した。「ありがとう。でも、何が良かったよ。わたし何もいいことなんてないわ」M子に気おされ、Yは、びくりと身体をふるわせた。「なんでそんなに怒られなくちゃならないんだろ。だいじょうぶかい。腰のほうは?軽く足踏みしてるようだっ...ポケット一杯のラブ。(6)

  • 十三歳の頃って。

    中学二年生をあつかっていますけれどどうだったのかな。その頃の自分って?今の歳からみると、ずいぶん昔の話ですね。でも、ちょっと振り返って考えるのもありじゃないか。勉強になるんじゃないか。そう思い、つらつら思いだしながら書き綴ってみることにしました。もちろん、それを通して、今どきの中二のみなさんの思いに少しでも触れれば最高ですよね。昭和三十年の後半でしたね。あれは確か、三十七年だったか。そうですね、池田勇人さんが総理大臣だったでしょう。最初の五輪をひかえ、国民ひとりひとりがわくわくどきどきしていました。橋幸夫さんと吉永小百合さんが歌った「いつでも夢を」その歌が当時を象徴していました。親の手伝いをさせられた時代でしたね。五右衛門ぶろをわかす仕事やら、にわとりの世話、それに飼い犬の世話。堀っこに行って、にわとりが...十三歳の頃って。

  • ポケット一杯のラブ。 (5)

    局勤めは、裏門からの決まり。まっすぐ前を見ると、車庫に原付自転車がいくつか並んでいるのが見える。神さまお願い、きょうこそ、仕分けや配達の仕事がうまくできますようにと、目をつむりたくなる瞬間だ。「ちぇ、こんな時でも、いつもの癖が出てしまう。ああ、びくびくすんなよ。今は、M子の忘れ物を取りに来ただけなんだから」Yは、われとわが身をいたわる。中学生の二週間にも満たない社会勉強であるにもかかわらず、気を遣う。本当の職員さんの気遣いは、真剣勝負といったところだ。しかし、このところ、局に、お客さんからのクレームが多い。主に、配達にかかわる不平不満。「もう、日にちがかなり経っているのに、相手から返事が届かない。急を要したから速達で頼んだのに、一体どうなっているのですか」「すみません。調べた上で、すぐにお返事さしあげます...ポケット一杯のラブ。(5)

  • ポケット一杯のラブ。 (4)

    これほど率直に自らの想いを他人、ましてや女の子にぶつけられるとは……、ちょっと前まではとてもじゃなかった。どうせ自分なんか幸せになれるものか。いや幸せになってはいけないんだ。そんな想いが思春期に入ったばかりのYのこころをむしばんだ。どうしてそんなことを考えてしまうのか。Y自身よくわからなかった。足早に郵便局へともどりながら、Yはこれまでの十四年足らずの人生を、振り返った。父母と祖母そしてYの四人暮らしだった。母と祖母に対する気遣いが、子どもなりに半端じゃなかった。幼い頃は、母と祖母、互いに相いれないところがあると感じながらも、久しぶりの男の子誕生のうれしさがあって、祖母は母に対して感謝の念さえ持っていた。「可愛い子を産んでくれてありがとう」祖母の母への一言が、それを象徴していた。人間として正直で率直な気持...ポケット一杯のラブ。(4)

  • ポケット一杯のラブ。 (3)

    ガチャガチャとまるで買い物カートの小さな車輪が何かの故障でうまく前に進まない気鬱を思い起こさせるような物音が背後でして、M子とYが驚いて首を回した。嘱託あつかいのBさんが、配達用自転車に乗ってやって来るところだった。いかにも古くて頑丈そうな自転車。今どき、どこかで買いたくても、めったに店では買えない代物である。荷台あり、押せばプカプカと鳴るラッパあり。にぎやかなことこの上ない。太いパイプがハンドルになっていて、ブレーキをかけるのが大変。いざという場合、右と左のざりがに似のはさみに似た部分を、それぞれぎゅっと握りしめねば止まることができない。昭和五十年くらいまで、牛乳を配達したり、豆腐を売り歩いた人が、しばしば用いたものである。突然、キキッとブレーキのかける音がした。改めてM子とYが目を丸くした。Bさんが自...ポケット一杯のラブ。(3)

  • まさかの出来事。

    こんにちは。ブロ友のみなさん。あれから13年目ですね。未曽有の大震災の犠牲になられた方々の御霊に改めて鎮魂の祈りを捧げます。大地震や巨大津波から運よく生きのびた方々にまさかの原発建屋の水素爆発がつづきました。放射能に汚染された物質が、四方八方に吹き飛ばされ、風の吹くまま拡散して行きました。それらは雲となって、わたしの住む栃木県の北の山なみから日光連山までをおおいつくしたことです。我が町の山間部の小学校の運動場の土の入れ替えをしなくてはならないほどの被害でした。山々を除染することなどできない相談でそこに住む動植物にどれくらいの影響があったかなど知るすべはありません。放射能が半減するのにかかる時間はどれくらいでしょう。福島原発の建屋内部に残っている、燃え残りの放射性物質をすべて、取り除くのに一体どれくらいの月...まさかの出来事。

  • ポケット一杯のラブ。 (2)

    Yは長い間、とても恥ずかしがり屋だった。それがどうしたことか、M子とともに郵便局で会って以来、人が変わったように明るくなった。それでも、なかなか一歩進んでM子と話せないでいた。M子が腰を痛めたことを聞き、とても気にしていたが、自らすすんで彼女にからだの具合をたずねることができなかった。さいわいにして、主任のNさんが後押しがあったから、休憩室に来たようなもの。そうでなければ、Yはずっと行くか行くまいかと悩んでいたことだろう。YがM子のあとに従っていく。「ありがとうね。わたしはだいじょうぶだから、あなた持ち場にもどって。ゆっくり歩いてくから。心配しないで」「うん」M子にそういわれると、Yは小さくうなずき、くるりと方向を変えた。しかし、M子のことが気になる。Yは立ち止まり、振り返った。M子の後ろ姿がゆらゆらして...ポケット一杯のラブ。(2)

  • ポケット一杯のラブ。 (1)

    声の主はN主任だった。「だいじょうぶです」M子は無理に立ち上がろうとしたが、からだが思うように動かない。思わず、よろめいてしまい、わきにあった机に両手をついた。「ちょっと待って。ぎっくりかもしれないからね」(ぎっくりって、ああいやだ。それじゃうちのお父さんが、この間やったわ。そんじゃ動けないじゃないの)NさんはつかつかとM子のもとに歩いて来るなり、彼女をひょいと抱きかかえた。ごつい腕だ。なんでも郵便局員になる前は、山仕事をしていたらしい。ぷんと汗のにおいがした。M子は目をつむったまま、薄青色のジャージの上着の袖口から突き出た両手を、Nの首にまわした。「すみません」消え入りそうな声で言った。「だいじょうぶだよ。人間、生きてるといろんなことがあるのさ」(大人の男の人って、なんて強くてたくましいのだろ)休憩室の...ポケット一杯のラブ。(1)

  • ポケット一杯のラブ。 プロローグ

    公立中学校の二年生になるとほんのわずかの間だが世の中に出て大人たちの職場で実際に働いてみる機会がある。社会科見学より一歩ふみこんだもので、この学習に対して異論はむろんあった。しかし、図書館や郵便局といった公共機関が選ばれているうえ、思春期をむかえた子どもにとって意義あるものらしく、もう数十年続いている。M子は学区内にある小さな郵便局で、この体験学習に参加した。ある日のこと、誰に頼まれたわけでもないのだが、大人がやっているのだから、自分にもできそうだと、封筒やら手紙やらの郵便物が一杯つまった大きな袋を、力まかせに持ち上げようとした。そのとたん、腰の辺りがくきっと鳴った。M子にとっては初めて耳にする音で、少し痛みをともなう。彼女はその場にへなへなとしゃがみこんだ。「おい、誰かみてやれ。ちょっとむちゃなことやっ...ポケット一杯のラブ。プロローグ

  • 受験の季節。

    T県の高校受験。私学の場合、すでに昨年12月から始まる。著名なプロ野球投手を輩出したことのあるS高などは、県立高の結果をも踏まえたうえで、第一第二そして第三と生徒を募る。今年の県立高の入学試験は3月6日。結果発表は12日である。現時点では、ほとんどの受験生はひとつやふたつのすべり止めとして、私学への切符を手にしている。今月中旬には県立高の特色選抜制度に基づく試験があり、各校の定員の何パーセントかの合格者が内定している。しかし彼らの合格の喜びはごく控えめなものだ。選抜で志望校に合格するには、中学校の成績優良はもちろんだが、推薦が必要。それにもれた受験生は、あと12日間、一般入試での合格をめざし、主要五科目の苦手分野克服に大わらわとなる。あと一点、いや、あと二点採れば、と、家庭や塾で補習に力がこもる。「Yちゃ...受験の季節。

  • 人、さまざまに。

    この元日、わたしのスマホ宛に、不意にメールがとどいた。発信者はいずれの方だろう。スズキとある。名字だけで、名前が書かれていない。スズキさん。その名字をお持ちの方は日本全国津々浦々までかぞえると、一体どれくらいの方がおられるのだろう。この疑心暗鬼のご時世である。一瞬、わたしは詐欺を疑った。気味がわるくなり、すぐに返信を送らないでいた。すると、その方は二度三度と追伸メールを送ってくる。これは異例の事態。わたしのほうに何らかの落ち度があるやもしれない。こちらの旧姓をご存じだし、メールの中身はまことにざっくばらんなもの。昔からの知己でなければ、書けない話の内容であった。ボケが始まったかしらん?いやいや、待てよ。度忘れということがある。一度や二度くらいでは、そうそう悲観することはない。そう自分を奮い立たせ、じっくり...人、さまざまに。

  • 若がえる。 エピローグ

    曲がりくねった谷あいに造られた線路を、列車がわだちをきしませながら走っていく。運転席の真うしろにたたずみ、Nはあたりの景色をずっと眺めた。車窓に目を向けると、山々の木の葉が色とりどりにNの目を楽しませてくれる。しかしNの視線はもっぱら道行く人や、車内の若い女性に向けられた。それはまるで恋人を見るまなざしに似て、時折は相手に気づかれてしまい、きっと強い視線を返された。(おれってどうかしてるんやな、きっと)列車がときどき大きく揺れる。そのたびにNはもよりのつり革や鉄パイプにつかまり、からだを支えた。三つ峠駅を過ぎたあたりから、頂に白化粧をほどこしたどっしりしたお山が、Nの視界の中に見え隠れするようになった。(ずっとのぼり坂だ。こんな土地によくぞ線路が敷かれたものだよな……。いかに機械とはいえ、列車だってしんど...若がえる。エピローグ

  • 遺影。

    「おめもむこさまだよな。きにょうやきょうの人さまの釜のめしってえことじゃねえだろが……」暗い中から声がした。低くてしわがれている。だが、Nにとってやけに親しみが感じられる声だ。(えっ、なに……。いま時分、だれ?)寝室全体に木の香りが漂っている。隣の部屋との間にふすま四本建ての間仕切り。鴨居の上は書院造りになっている。なぜかNの視線はその書院のすき間に固定されたようになっていて、あちらこちらと両目を動かすことができない。ふいにNの息づかいが荒くなった。Nの意識そのものが、Nの体から抜け出しそこら辺を浮遊しているようである。白い霧状のものがその隙間をとおりぬけて来て、すうっと尾を引き、畳の上まで来た。しばらくふわふわはいまわっていたが、突然するする煙のごとく宙に向かった。横たわっているNのベッドわきに、先ほど...遺影。

  • 若がえる。 (13)

    今さっきまで橋上にいた女たちのようだ。三人連れで橋わきの小道を川べりに向かって来る。「わっきゃっ、あっあぶない……。あっああどうしよう」三人のひとり、先頭を歩く見るからにお嬢さま風情の娘が突然かけ足になった。道わきの雑木にきゃしゃな体ごとぶつかり、しばらく動けないでいる。「ああ、手が痛い。両手で支えたから顔は助かったけど、まともに衝突してたらどうなってたことやら……」とべそをかいた。左手にくっついた松の幹の皮のかけらを、右手の指でていねいに取り払っていく。「気をつけてね。あなたは東京育ちなんだし、こんなところ歩いて下りたことがないでしょう。だからそうなるの。わたしなんて、お茶なんか栽培してる農家の子だから小さいころから畑の中を走り回ってたわ。転ぶのはしょっちゅう。生傷が絶えなかった。ねえこうするのよ見てて...若がえる。(13)

  • 若がえる。 (12)

    複数の女たちのおしゃべり。それがMがいるところまで風にのって運ばれてきた。その話の内容におおむね心当たりがある。ただ単にそれだけのことであるが、Mは気になってしかたがなかった。よほど橋の上までのぼって行き、どんな人が話しているか、確かめたいと思った。(ひょっとしたら、ひょっとする。ひろ子とかいうあの娘もこの大学で……、確かそう言ってたよな)誰かにぎゅっとしめつけられるかのように胸が痛みだすのを感じて、Mは両手で我が身を抱いた。心臓の鼓動が速くなった。Mはあえてため息をひとつ吐いた。突然、身も世もなくなったように荒れだした、自らの心の平静をなんとかして取り戻したかった。医者にかかったことがないから、持病のカテゴリーには入らないものの、Mにはひとつの考えにこだわると、なかなかそこから出られないところがあった。...若がえる。(12)

  • 手ぶり地蔵。

    その日の朝あたりは霧でおおわれていた。ルル、ルルルルルルッ。ふいに軽トラックらしいエンジン音がA子の耳に入った。A子は小学四年生。こころ穏やかではいられない。およそ五百メートル先に竹林がある。車はその向こうを走っているらしい。竹林の外れに小さな交差点がある。とても見通しがわるいのだが、トラックは減速しそうにない。A子の胸に不安がよぎる。節分をいく日も過ぎた、ある日のことである。A子は菜の花を摘もうと家を出てあぜ道を歩いた。(速すぎるわ。あれじゃあぶない。運転手さん知らないのかしら。あの交差点。このままじゃ事故になるわ)農道に出たとたん、A子の目の前を霧をかきわけるようにして貨物車が通り過ぎた。T私鉄の踏切で警告音が鳴りだすと、いったんその車がとまった。しかしまた走り出した。軽トラックの目の前に紅い毛糸の帽...手ぶり地蔵。

  • 若がえる。 (11)

    久しぶりにまじかでフジヤマを観たいと思うMの起床は早い。湯船のある部屋どなりの空間がわずかに白々としている。K川のせせらぎにまじり、チチ、チチッと鳥のさえずりが谷間にひびく。寝覚めが思いのほかいいし、頭がすっきりしている。Mはいま一度湯船につかろうと、はだけてくしゃくしゃになった浴衣をきりりとしめなおす。Mは笑った。これから裸になるのになんでと思う。「いつ誰に見られてもいいように、男たるもの、しっかりふんどしのひもはしめておけ」一昨年の五月、急逝したおふくろの口ぐせをふいに思いだし、笑いがこみあげてくる。湯船のわきにしゃがみ小桶に湯をくむと、二三度体にかけた。両脚から音を立てないようにして体を湯船に沈めていく。(これ以上のしあわせはないな。それにぐっすり眠れた。熟睡が最高のアンチエイジングだと何かの本で読...若がえる。(11)

  • 若がえる。 (10)

    不意にすすけた天井の一角から、ぽとりと大粒のしずくが落ちてきて木目もようを楽しんでいたMのひたいに当たった。思わず、Mは頭の上にのせてある白いタオルで目のふちを静かにぬぐう。Mの体は湯の熱でぬくもりを増し真っ赤に染まっている。ふたりしてつかると、もうそれ以上誰も入る余地のないような小さな湯船。霧がわくように上がる湯気が小さく開け放たれた小窓から外へとすばやく出ていく。MがY町駅でおり、若き日の記憶だけを頼りに最初に見つけた宿である。学生時代、最初に借りた部屋はやはりY駅裏。当時の借り賃は四畳半で一か月二千八百円也。その建物全体は傾いていてもはや住むことができない。数本の太い木をつっかい棒にしてやっとこ突っ立っているありさまである。その建物わきの坂道が、K川にぶつかる辺りに、この宿があった。Mは予約をしなか...若がえる。(10)

  • 若がえる。 (9)

    入線してきた車両の側面に機関車トーマスの絵がいくつも描かれている。色彩も豊かである。「時代の流れかな。ねえ、B子さん」大月駅で出会った友人らしい女性としばらく立ち話している彼女にMは遠慮がちに言葉を投げかけた。彼女は五六メートル先、Mの言葉が届いたかどうかわからない。Mの存在が、まだ彼女の眼中にあったらしく、笑顔で近づいてくる。彼女の友人も一緒だ。「何ですの、おじさま。なにか面白いものでも?」「うん?なにね、この漫画がね、めずらしくてね」「ああ、これ、もうずっと前からですよ。こんなのでびっくりなさってたら、どうお感じになられるでしょうね。T市もすっかり変わりましてよ」B子との縁もこれまでだろうか。次から次へと彼女の存在に気づいた女性がかけつけてきて、たちまち彼女はかしましい女たちの話の輪の中に引きこまれて...若がえる。(9)

  • いかがお過ごしですか。

    こんにちは、Aさん。あなたは確か、能登のご出身でしたね。今は金沢にお住いのようですが、ご出身は珠洲市と、はるか昔にうかがったことがあります。学生時代に撮った写真を貼り付けたアルバムをひもといてみました。大地震に大津波。テレビでそちらのひどいありさまを拝見していると、どうぞご無事でいてくださるようにと祈るばかりです。ご実家は大丈夫だと信じていますが、実際今はどんな状況でしょう。ご家族や親せき、ご近所の方々の安否はいかがでしょう。青春時代のある時期、ご一緒に勉学に励んだだけのお付き合いでしたが、心配でたまりません。一昨年五月、共に所属していた文化クラブのOB会が富士の裾野で開かれましたね。わたしは当時、コロナに感染したりしていたり、用があったりで、参加することができませんでしたが、あなたは参加されたようですね...いかがお過ごしですか。

  • 若がえる。 (8)

    Mに親近感を抱いたのだろう。自らの祖父に語るごとき調子で、件の女学生は間もなく、身の上話を始めた。まるで立て板に水。自分の姓名や出自など、Mが問う必要もないほどにぺらぺらしゃべる。それ相応にMも受け答えをした。はたから見れば、本物の祖父と孫娘と見えたことだろう。ふたりの会話は弾んだ。そのせいか、特急列車が大月駅にすべりこんだのもふたりして気づかなかった。Mがちらっと右手に視線を走らせ、「うん、あっここって?大月かな。あっそうだ。さっさと下りなくては……」「すみません、自分の話に夢中になってしまって」「いそごう。すぐに発車してしまう」ふたりはあわてて、ホームに降りたった。Mはホームに荷物を下ろし、辺りを見まわす。なつかしさがわっと押し寄せてきて、Mの胸がいっぱいになった。岩殿山が右手に見える。その威容は以前...若がえる。(8)

  • 若がえる。 (7)

    洗面所で体調を整え、自分の座席に向かう途中で、Mは車内販売の手押し車に出会った。特急列車はさすがに乗り心地が良くできていてほとんど揺れがない。若い女性のあつかう販売車をやりすごすことにして、Mはからだ一つだけ、三人掛けの座席の空間に踏み入れた。気を配ったつもりが、Mの体が揺れた。間のわるいことに、最寄りの席にすわっていた初老女性の紅い履き物を踏んでしまった。よほど痛かったのだろう。彼女はしばらくじっとして、茶系の腕抜きから出たほっそりした左手で、みずからの額をおさえ加減にした。薄桃色のめがねが彼女の表情をとらえにくくしている。「あっ、ほんとにすみません」Mはうつむき加減で急いで謝ったが、彼女から何の返事もない。Mの履いているのは家にいる際に履く運動靴、いささか土で汚れていた。ジーンズのズボンのポケットから...若がえる。(7)

  • 若がえる。 (6)

    あと三分もすれば、長野行き特急あずさが入線してくる。(もうすぐ東口と西口がひとつの通路で結ばれるらしい……、まったく変われば変わるもんだな)Mは新宿駅のあまりの変わりように戸惑いながらも、四十数年前を想い起していた。確かホーム上を風が通り過ぎていて、冬場なんぞ寒くて寒くて、ああそうそうこんなこともあったぞ。不意打ちのようにガンッと誰かに後頭部をなぐられた。くそっと誰なんだと思って振りむくと、目の前にスキーをかかえ、驚きで目をみはっている女子学生の顔があった。すみませんの言葉も彼女の口から出なかった。余程びっくりしたのだろう。急にMの腹が痛みを伴いながらギュルギュル鳴り出した。思わずMは腹の辺りを、左手で服の上からさすった。馴れない一人旅がたたったのだろう。ポールボキュウズとかいう、舌を噛みそうな名店で、件...若がえる。(6)

  • 若がえる。 (5)

    Mの歳は六十三歳。ふるさとの町の公立中学校で英語教師として働けるだけ働いた。それからのMは、あえて管理職の道には進まず退職した。「あんたはおばかさんよ。お母さんの弟さんのように、なんとか校長まで昇進してからやめれば良かった。そしたら、お金もうんと違ったのに……。今じゃうちの経済は青色吐息。学童のアルバイトなんてやるからよ」妻は、ある日の夕食どき、左手でテレビのリモコンをいじり、右手で頬杖をついたままの姿勢でテレビの画面に視線を向け、そうつぶやいた。風呂上がりのせいで、彼女の頭髪はくしゃくしゃ。頭をおおったタオルが垂れて彼女の両の目を隠している。ときどき、彼女は鼻をすすった。Mは、一度こうと言い出したら誰の意見も受け入れない。「アホ言え。学生時代、みなと一緒になって大学の先生たちをさんざんにつるし上げておい...若がえる。(5)

  • ああ、能登半島。

    能登半島の突端に雪が降りだした。その中で、官民一体となった懸命の救助作業がつづいている。…………。なぜか言葉が出てこない。しばらくして、2011年3月に起きた東日本大震災を想い起した。いまだに、その存在が知られていなかった活断層が能登半島の先端部で、相当な長さでずれていた。公の機関がそう確認した。(地面がずれた、か?1995年に起きた阪神淡路大震災に似ているな)そう思ったとたん、神戸・長田地区の大火災の模様が脳裏によみがえった。なんと六千人もの前途ある人々がお亡くなりになった。直木賞作家の藤本義一さんも、被害にあわれたことを憶えている。海岸から六甲山までは距離が短く、硬い岩盤が揺れを増幅したようだった。卯年から甲子辰年へ。移り変わって、十六時間が過ぎたばかりの出来事だった。時がたつにつれ、どれほどの家屋が...ああ、能登半島。

  • 若がえる。 (4)

    東京駅で乗り換える際、あたりの様子が昔とずいぶん変わっているのに気づき、しばしぼんやりたたずむ。新幹線のプラットホームが多くなっている。帰るときは、気を付けないと思う。「おじさま、お気をつけて。大学まで行かれるんでしたらまたお会いするかもね」急に背後から声をかけられ、あわてて振り向くと、ここまで同じ車両に乗っていた、にぎやかな女子学生の笑顔に出くわした。「ああ、そうだといいね。また助けておくれね」期待はしないお愛想だけの返事だった。しかし彼女は急にまなざしをきつくし、口をへの字に曲げた。Mのこころに、しばし嫌悪感がよどむ。(まあいいや、いいや。こんなこともあるから。人は見かけによらないもんだ)気持ちを入れかえ、乗り換えのため、改札口にいそぐ人の群れの最後尾につく。あわてて済ますべき用があるわけではない。ま...若がえる。(4)

  • 十年に一度の寒さ……。

    こんにちは。急に師走らしい厳しい寒さがやってきましたね。このところ、ずっと小春日和のようなお天気だったから、体がびっくりしています。テレビの天気図を拝見しますと、シベリアおろしがいくつもの白い筋となって日本全体をおおっています。寒くて、ブルブルです。まるで冷蔵庫の中にいるようで、なるたけ体を冷やさないようにと一所懸命です。ブロ友や読者のみなさんも、どうぞお気をつけてください。とりわけ、風呂あがりは注意を要します。心臓は気温差に弱いから、脱衣室の保温が大切なのは言うまでもありませんね。空気がとても乾いていますし、ウイルスの侵入を招きやすいですね。インフルエンザや新型コロナの感染症がまたまた勢いを増しそうで、怖いです。こちら山間部では、今、麦の種まきの時期になりました。山あいを通り過ぎていく風の冷たさが身に沁...十年に一度の寒さ……。

  • 若がえる。 (3)

    「あっ、そうなんだ。大月で私鉄に乗り換えてね……」ほとんどオウム返しのMの言葉に、女子大生はクスッと鼻で笑い、「そうです。何かおかしいですか」「いや、そんなことない」「ひょっとして、おとうさま、わたしを私立のW大の学生って、かいかぶっていらしゃいませんでした?」「いや、そんなことないがね」「うそって、顔に描いてありますけど」Mは、二三度、もろ手で顔を洗うようなしぐさをした。「そんなことしたって、本音はぬぐえませんけれど……」「やっぱりか……」女子学生が笑い出した。「そんなに笑うことかな?」「ええ、だってだって……」細い指でささえられているコーヒーカップが揺れに揺れる。「実はね、おじさんも若いとき、あなたと同じ大学にいたんだ」「えっ、ほんとなんですか」「うん、そう」「気持ちをかくしたままにしておけない正直な...若がえる。(3)

  • 若がえる。 (2)

    相変わらす車内は、女たちのおしゃべりでさわがしい。せっかくの一人旅なのにと、Mは少々腹が立つ。でも旅は道づれ、世はなんとやらだ。Mは、ふいにあっそうだと小声で言い、ジャケットの内ポケットに手を入れた。耳栓をしのばせてあったことを思い出したのである。ようやくMは、自分だけの世界に入りこむことに成功した。列車がとまった。多分、静岡あたりだろうと見当をつけ、はてさて今度はどんなごじんが乗り込んでくるやら、と前後の出入口に目を向けた。二十歳前くらいの若い女性がひとり、切符片手に通路を歩いてくる。急に恥ずかしさをおぼえ、Mはうろたえてしまった。あわてて視線を車窓にうつす。なんで恥ずかしいのか、自分でもよくわからない。若き頃の自分を見つめる旅の途中である。たった今乗り込んで来た人とは、およそ四十年のひらきがあるわけで...若がえる。(2)

  • 気の早いことで……。

    きょうは十一月のみそか。あしたからは師走ですね。ブロ友のみなさん、お元気でしょうか。来月こそは、良きことがありますようにと願って、カレンダーを一枚、早々とめくってしまいました。別に特段、具合のわるいことがあったわけではありません。要するに気持ちの問題なのです。忘れっぽくなったとか、皮膚がますます弱くなったことくらい。さしたる病の自覚症状もなく、今、生かされている。そのことを、先ずもって、感謝するべきでしょうね。植物と違って、人は動物ですしね、動いていなきゃ、栄養をとることができない。ですから今まで一所懸命、がんばって生きてきた。うっかりすると車にぶつかったり、ぶつけられたりしますがね。こまかな事件事故にあったものの、いち早く逃げるが勝ちを決め込みました。新型コロナにり患しましたが、大した後遺症もない。じょ...気の早いことで……。

  • 若がえる。 (1)

    名古屋駅で四人の女たちが乗り込んで来てから車両はまるで一個の生き物のよう、彼女らのおしゃべりに合わせ、横揺れがひどくなったり、いくつもの車輪の轟が大きくなった。ふたりはいずれもMと同い年くらい、ほかのふたりはふたつみっつ上のようにみえる。「ここよ、ここ、間違いないわ」「ああら、おにいさんの近くなのね。切符売りの方も粋なことをなさること」先頭に立つ女の一声で、あとに続く女たちが次々に勝手なことを言い出す。(おにいさんって、ひょっとして、俺のことなんだ……)Mは顔を上げ、社内をみまわす。幼子と出会ったおかげで活気づいた、郷愁の念に似た感情がみるみるしぼんでいく。あと少しで午睡できそうだったのにとくやしくて唇をかんでからチッチッと舌打ちした。彼女らに少しばかりの反抗の意思を示してやらねば気が済まなかった。侮られ...若がえる。(1)

  • 若がえる。 プロローグ

    Mは東京にむかうT新幹線の車両に乗っている。終着駅に到着するまでにいくども停まる。彼には青年から壮年にかけ、仕事に追われてばかりで、ろくに自分というものを見つめれなかったという悔しい想いがあった。会社を退職し、ようやく初老をむかえた昨今になってはじめて、学生時代に行きつ戻りつした土地を訪れるたいと願った。若かりし頃の自分のこころの内奥をふりかえってみたかった。(でもなんだか笑っちゃうよな。昔を恋しがったってさ。無理なんだよな)Mはふふんと鼻で笑った。長いトンネルをぬける際の暗がりのなか、ほとんどトンネルの壁ばかりで、色彩の欠いた窓にうっすら映る、しわの多い初老の男に見入った。平日の午後である。Mのいる車両はがらんとしていた。ふたり掛けの席にひとり、なにもかも忘れたような気分で、Mは秋色濃い外の景色に視線を...若がえる。プロローグ

  • たそがれて……、今。

    人生百年時代。そう喧伝される昨今だが、わたしは常に今しかないと思っている。一寸先は闇。そうは断言しないが、「するってえと何でございますか。わたしの人生の残り分は、あと三十年弱はあるってことでござんすね。それはそれは良かった良かった」なんて疑心暗鬼で胸を一杯にし、三度笠ふうに口走りたくなる。ひょっとして、必死でわたしの身体を生かし支えようと試みてくれているモノたちが、故障したり、ストライキを起こしたりするかもしれない。当たり前だが、そんなものたちをじかに観ることができない。姿見を使い、我が身を観ようとしても、見えるのは、せいぜいわたしの身体の表面だけである。わたしの内部は一体、どうなっているのだろうか。血と肉がつまった袋は……?だから時折、健康診断を受ける必要にせまられるわけだが、今やかなりもうろくしたわた...たそがれて……、今。

  • 水晶びいき。 エピローグ

    足もとのあやうい川沿いをふたりしてさがし歩き、時の経つのも忘れた。(もう何時ごろだろ……)Nはそうつぶやき、右手首を見つめた。彼の叔父から借りたセイコーの腕時計がはめられている。かなり古いが、午後四時半をさしていた。あっというNの声にびっくりしたのか、岸辺にしゃがみこみ、右手で、丸石をひっくり返していたK子がなあにと言って顔をあげた。額が濡れているのは、汗ばかりのせいじゃなさそうだ。「何なの、それ?めずらしい腕時計ね」「うん、もう四時半。帰ろう。駅までかなりの道のりだし、これじゃ17時ちょうどの列車に乗り遅れる」「まあ、たいへん。なんとしてもそれに乗らなきゃね。母が心配するわ」ふたりは、採集した丸石の中から、脈の有りそうなものを選び出し、それぞれのリュックにつめられるだけ詰めた。入れるのは石ばかりではない...水晶びいき。エピローグ

  • 水晶びいき。 (3)

    「とってもきれいな砂じゃないこと?これって、水晶がまざってるのかもね」K子が足もとを見つめながら、口もとに笑みをたたえて言う。彼女のひとみがキラリと輝く。「そう簡単に見つかるんだったら、苦労がないよ。違うに決まってる」K子の意見をNがバサリと切り捨てた。K子はプンとほほをふくらませ、「そうかしら?わかんないじゃない」と言い、その場にしゃがみこんだ。「あれれ、そんなことしちゃ、ズボンが濡れてしまうよ」「濡れたっていいの。素直にあたしの意見を受け入れないNくんなんて、だいっきらい」K子がべそをかきだした。Nはその場にたたずんだまま、なすすべがないといった風情である。(中学二年の時だってずっとずっと、Nくんって笑わなかった。よっぽど家でつまんないことがあるんだろう。叱られるばかりでほめられることがない。暗い暗い...水晶びいき。(3)

  • 晴れの日がつづいて。

    このところお天気がいい。晴れの日がつづくと、こんなにも気分がさわやかになるものかと嬉しくなる。体温に近いほどの高温、それにゲリラ豪雨と……。これが永らく温帯に属していた我が国の気候かといぶかしんだ。ひさかたぶりの日本晴れが、それらの重々しい気分をどこかに吹き飛ばしてくれた。まずは、生まれて以来ずっと弱かった胃腸の調子が良くなった。それに皮膚の荒れが収まった。これには、最近、つとにさつまいもを食している恩恵があるようだ。さつま、と聞くと、近ごろ亡くなった昭和元年生まれの母を思い出す。いい想い出も身体にいい影響があるもののらしい。「小さい手でうねを掘っては、赤い赤いさつまがつぎつぎとび出してきょる。それを見たお前がぼこん、ぼこん言うて、えらいよろこびよった。お母ちゃん、それがうれしゅうてな、がんばって、芋の苗...晴れの日がつづいて。

  • 酷暑をしのいで。

    こんばんは。ブロ友のみなさん。夜も更けましたね。お身体の調子はいかかでしょう。わたしは夏の疲れがどっと出てしまった感じでいます。自律神経の乱れというんでしょうか。だるかったり、肩がこったり。おなかが痛くなったり。皮膚が荒れてかゆかったりします。年のせいでもあるのでしょうね。夜中にひんぱんにトイレに行ったりで熟睡できずに困っています。不幸にも、この酷暑を乗りきれなかった方々がおられる。高温多湿で熱中症にかかってしまい、お医者さまの世話になった方も……。近年にないほどの体温に近い暑さの日々が続いたのですもの。これくらいの身体でいま、生きていられるのはハッピーといえるでしょう。まあ、七十代の坂をずんずんのぼり始めましたしね。この調子で八十代そして九十代の坂へと、人生を楽しみながら歩んでいきたいと思っています。午...酷暑をしのいで。

  • 水晶びいき。 (2)

    「ふうん、何よそれ、ただの石英じゃないのよ、あきれた。Nくん、とっても大事そうに持ってるから、宝石みたく、よっぽどきれいで値打ちのあるものだと思ったじゃないの」「ああ……、そりゃそうだけど、でもねあんまりね」「あんまり、……何なの?」誰にせよ、石のことでとやかく言われるのを、ぼくはおもしろくなかった。どんな石だって、それなりの歴史を持っているものだ。一瞬、ぼくがK子を見る目が鋭くなったらしい。K子はぷっとほほを膨らませた。「ふん、なによ、その目は?気に入らないなら帰るから、わたし」K子によって後ろ手でぽおんと放り投げられたリンゴのかけらを、ぼくは無造作に右手で受け取り、口にくわえた。がぶりと噛むと、甘酸っぱい味がした。(初恋の味って、こんなかな……)ぼくは少なからぬショックを受けていた。リュックを背負った...水晶びいき。(2)

  • 水晶びいき。 (1)

    リンゴの皮むきにK子は手間取っている。ナイフの刃であやうく指を切りそうになって、あっと声をあげた。「なによ。見ないでよ。これってむずかしいのっ。Nくんできるんならやってみせて」K子は両ほほをふくらませ、ぼくの顔をにらみつける。「そうだよね。うん、むずかしそう」ぼくはあわてて空を見あげた。五月の連休はずっと晴天がつづく。青地の布を白糸で縫うように、ジェット機が西から東へ、ひとすじの白雲を作って飛ぶ。「リンゴをむくのって、大変なの」K子がそう言って口もとをゆがめた。「うんうん、そうだよね。むずかしいもんだよねそれって。ぼくなんかぜったいできないや」ぼくは最寄りの山のてっぺんを見つめたままでしゃべった。(K子ってナイフの扱いに馴れていないみたいだな。小学生の頃から川っぷちで葦を切ってはチャンバラごっこの剣の代わ...水晶びいき。(1)

  • 誤解。 (7)

    S子の一件以来、M課長はすっかり人が変わったようになった。職務中、ドアの隙間から、かすかに響いてくるヒールの音を耳にしても、気にする様子が見られない。ましてトイレに行くふりをし、誰が二階から降りてくるかと、わざわざ、課長席から離れることがなかった。組合で働く女子行員たちのMについての噂話が次第にフェイドアウトしていく。ある日のお昼休み、Mは建物の西側に設置されてある網目状のフェンスの上部に、両肘をつき、道行く車をぼんやり見つめた。四十過ぎのひとり者、配偶者がいれば身なりに気にしてくれるのだが、じぶんではきちんとして職場にのぞんでいるようでも、どこかに間違いがあった。彼の頭の片隅にはいまだに、R駅で落ち合った時のS子の様子がうっすら残っている。(いやはやおんなってのはこわいものだね。いまさらながら、よくわか...誤解。(7)

  • 水晶びいき。 プロローグ

    ぼくは白い石ばかり見つめ、山道をのぼった。崖の地層がむき出しになっているところがあると勇んでそこにかけよった。悠久の時をかけて、積みかなさった土や砂、小石が層になり、幾重にもどっかと腰を下ろしている姿が好きだ。初めましてこんにちは、と挨拶したい気持ちになってしまう。「さっきから落ち着きなく、そわそわしてるのっていったい、どういうこと?」K子が不服そうに言う。「あっ、うん、ごめんごめん」ぼくは、頭をかきながら、K子のもとに引き返した。K子は、そんなぼくを無視し、持参したリュックを道端に置くなり、じぶんもそのわきにすわった。リュックから飲み物やら、食べ物やらを取り出している。さっそく、リンゴをむき始めた。「あなたね。せっかくの日曜なのよ。ほかにも用がいっぱいあるのにね……、今日は何のためにわたしがここでこうし...水晶びいき。プロローグ

  • 誤解。 (6)

    Mが駅の駐車場に着いた。今さっき、Mがその気になればすぐにでもS子に会えたものを、Mはじぶん勝手に、その場を立ち去ったのである。(とにかくS子にひと言あやまらねば)そう思い、Mは急ぎ足になった。「わるかったね。待た……」そう途中まで口にし、Mはあっと思った。S子らしき人影が急速に動きだし、Mから離れていく。「やっぱりな。怒ったってむりもない。この時間までいてくれただけで、満足まんぞく」Mは、S子と会えたかもしれないこの機会を、そう思ってあきらめることにした。ふらりふらりと車に戻りはじめる。いったん宵闇にまぎれ、姿が見えなくなってしまったS子。彼女がいずこからともなく現れ、Mの面前に立った。R駅の構内が一挙に明るくなった。下りの特急列車が通過するらしい。そのフロントライトに照らされ、S子の顔があらわになった...誤解。(6)

  • 誤解。 (5)

    スズキのグレイの軽、番号も、S子のものに間違いない。あまり化粧っ気がない顔。髪の毛をゴム紐か何かでまとめて後ろに縛っている、彼女らしき人物が運転席に前を向いたまますわっている。彼女の車に近づけば近づくほど、Mはゆっくりした足取りになった。車内のS子の状況がしだいにはっきりしてくる。制服は脱いでしまっているのに、Mは気づいて、いささかあわてた。中年の女性に不釣り合いな、白っぽい上着と赤っぽいスカート。S子のほうも、Mが近寄って来るのがわかったらしく、そわそわし始めた。何やらS子がせわしなく、首を振り出したと思ったら、R駅に下りの列車が近づいたようだ。あたりが急に明るくなる。(大した人数じゃないが、人が下りてくる)様子をみるか、とMは歩みをとめ、空を仰いだ。よほど息せき切って、ここにかけつけて来たせいだろう。...誤解。(5)

  • 水晶に魅かれて。

    こんばんは、ブロ友のみなさん。この日もなんて暑かったことでしょう。わたしの住む町では午後二時前後に、摂氏30度をかるく超えたと思われます。「残暑お見舞い申し上げます」いつもどおりそう申し上げようとして、はたと指先がとまりました。まるで真夏のよう、いまだに酷暑がつづいているからです。しっぺ返しのごとく、先ほどから音立てて雨が降り出しました。夕立です。それもとても激しい。二階の窓を手始めに一階まで、わたしはあわてふためいて歩き回りました。いまようやく窓という窓をやっと閉め終え、パソコンの前にすわったところです。パソコンは立ち上げたままの状態。ひとつふたつとあちこちページをめくりますと、ふとひとりのブロ友さんの詩に興味をおぼえました。わたしの目に、水晶という言葉が飛び込んできました。わたしのパソコンのわきに、ふ...水晶に魅かれて。

  • 誤解。 (4)

    S子が指定した駅は、某組合のある町から車で十五分くらいかかる。配偶者を持たないMである。大人の女性といるところを誰かに見られても、さほど問題にとはならない。だが公務員のような色合いの強い職場。組合員さんはあちこちに散らばって存在していて、彼らのほとんどが野良仕事に明け暮れすることで口に糊している。油断がならなかった。三月、午後五時過ぎともなれば、辺りはずいぶんたそがれてくる。なるべくひとめにつきたくない一心で、Mは大通りを使わず、路地ばかり通るつもりなので、ずいぶんと時間がかかる。とんでもなく回り道になる。定時で上がったら、とても約束の時刻に間に合わなかった。早速、総務部長に私的な急用ができてと申し入れた。「なんだい、めずらしいな。いつだってまじめに勤め上げていくのに、うん?一体どうしたんだ」口をへの字に...誤解。(4)

  • ながつきの頃は。

    台風13号が近づいている。テレビを観ると、どうも房総半島あたりにお住まいの方がもっとも被害を受けていらっしゃることがわかる。九十代の女の方が、土砂で、腰から下がうまってしまったと聞いた。助けられた。命には別条ないと聞いて、ほっとした。台風の速度はゆっくりだ。いまだに上陸していないようで、午後三時現在、その勢力は996ヘクトパスカル、最大風速は30メートルくらい。あまり大きくないけれども、雨をたくさん降らせている。昔から長月はかように雨が多く、わたしなど永らく山間に居住し、米作りに励んできた者の頭をなやませてきた。ちょうど実りの時期だからだ。べったり倒れた稲は、ながらく放置しているとモミが水を吸い、芽を出してしまう。このふみつき、はづきはずっと日照りがつづいた。暑いなんてものじゃなかった。なんて表現したらい...ながつきの頃は。

  • 誤解。 (3)

    S子は三十路、それももう少しで越える。口が達者で、要注意人物だそうだ。彼女の問いかけには、無視が一番、さもないと自分の返答次第で、あらぬ噂が組合内に広がってしまう。Mはそう心得ていて、尻や太もも、したたかに打ったところが痛むのを、歯を食いしばってこらえた。なんとか立ち上がり、両手でズボンのすそをパタパタとはらった。「ねえねえ、課長」またもやS子が二の口を放つ。少しばかり開いた西側のドアから、S子がほっそりした顔をのぞかせているのである。それも、内緒話をするような、ひぞひそ声でだ。(まずい、まったくまずい。こんなところを誰かに見られたら……)Mは足を引きずってでも歩いて、裏手から、ビルの反対側にあるドアにおもむき、何ごともなかったように部署に戻ろうとした。S子のほうに視線を向けることなしに、傷む左足を引きず...誤解。(3)

  • 誤解。 (2)

    三月某日、午前十時。十分の休憩時間が始まった。空はまだ、冬の名残の灰色の雲でおおわれ、時折、白いものがちらちら。くだんのM課長は外の空気を吸おうと、ビル西わきにある出入口のドアを開けたいと思い、背広の両腕に力をこめた。ひんやりした空気が、すぐさま彼の顔や首に吹きつけてきて、ぴりぴりしている彼の神経をなだめる。思わず、深呼吸をひとつした。新鮮な空気が彼の口腔だけでなく、頭の隅々まで入り込み、長年の間に、ほこりのごとく積もりに積もった予断や偏見をきれいさっぱりどこかに流し去ってしまうように思えた。高卒で組合に入って二十数年、たいがいの仕事は難なくこなせる。いらだつ神経は、彼が立ち上がって、あたりを見渡せば、すぐに目に入る重役たち。すなわち、部長や参事それに常務といった上役への心遣いによるものである。彼はできる...誤解。(2)

  • 誤解。 (1)

    午後五時。終業を知らせるチャイムが、二階建てのビルの中で鳴り響きだしたとたん、組合内が急に騒がしくなった。とりわけ、二階の廊下を、女子職員が、ヒールをはいて歩く。一階へと、コツコツと音高らかに、階段をおりてくる。人によって靴音が違うのだろうか。総務部のM課長は、いつの頃からか、そのヒールの音で、だれがのぼりおりしているか、言い当てるのがうまくなっていた。しかし、その話を誰にもしない。変に思われること請け合いだからだ。だから、そのことは、自分の胸の奥にそっとしまっておいた。彼の歳は四十がらみ、未婚。顔立ちは俳優の中井貴一氏に似ていた。それは、ただ自認しているに過ぎなかったけれども、組合内では、けっこう、女子職員にもてた。人によっては、階段付近で、用もないのにうろうろしていると、たちまち女たちに警戒されてしま...誤解。(1)

  • えっ、少子化って?

    先ごろは、わたしたちの代表である議員さんの口から、子どもの数が少ない云々といった言葉を耳にすることが多くなった。いわゆる少子化問題である。統計によれば、昭和三十年代の子どものかずと比べると今はそのおよそ半分らしい。ううん、……。ここで、わたしは思わずうなってしまう。どうしてだろう。三十を過ぎても、男女とも、いまだに未婚の方がたくさんおられるらしい。なぜだろう。はたと考え込んでしまう。わたしには子どもが男ばかり三人いたが、彼らはすでに四十代に達している。ふたりはなんとか結婚し、子をもうけたが、ひとりはいまだに未婚。どうやら孤独を楽しむのが好きらしい。異性に対して、猪突猛進といった風情は見られない。チュンチュンと雀が鳴くように、年頃になると女性に興味をおぼえるのが当たり前と思っていたが、それは間違いだったのか...えっ、少子化って?

  • そうは、言っても。 (17)

    「あんた、まったくもう、一体、どこへ行ってたのよおう。何度も電話したのにでなかったじゃないの」種吉が帰宅してすぐに、汗を流そうと、浴室の更衣室にとびこんだところに、いきなり種吉のかみさんの声がした。種吉は返す言葉につまる。「あれ、何かあったの?」「あったなんてもんじゃないわ。あんたったらもう……」主語がなく、だらだらと述部ばかりの話がつづいて、種吉はいささかうんざりする。プラス思考って、常日ごろ、話している人にしては、種吉の欠点ばかりのたまう。「ちょっとわるいね。シャワーを浴びてからにしてくれる?頼むよ」種吉がやんわりと言った。種吉は身に付けているものを脱ぎ捨てると浴室に入った。二つ折りのドアをグッと内側に引っ張る。近所のどなたかが亡くなったらしいことはなんとなく理解できる。興奮しているのか、彼女は簡単に...そうは、言っても。(17)

  • そうは、言っても。 (16)

    八月十五日の早朝。台風七号のせいだろう。ときおり、二階の屋根を雨が激しくたたく。突発性難聴をわずらっていて、両の耳が聞こえにくい種吉にしてはめずらしい。種吉はふと目をさまし、きょろきょろとあたりを見まわす。容易に、気になる場所に、思いの焦点があてられない。(あれは夢だったんだな。いったい誰やろ?ずいぶんと年老いている。小男?だった気がする。昔むかし、はやったどてらを着こんでいた気がする。こんな季節にな。それもきちんと身に付けてはいず、胸から下腹部あたりまでからだの前がまる見えで、ふんどしだったろう。白っぽい布切れが彼の大事な部分を隠していた)その小男はふと立ち止まると、ふずまの隙間からそっと種吉の部屋をのぞきこんだ。にこにこ顔なのが救いだった。種吉は恐ろしくなり、彼の心臓がドクンドクンと鳴り出した。その小...そうは、言っても。(16)

  • そうは、言っても。 (15)

    令和5年8月12日。種吉は、午前四時ごろ目をさました。ぼんやりした頭で、きょうなすべきことを考えてみようとしたが、下腹が妙に重々しい。あっそうやと思い、ベッドを両の手でささえた。すばやく動きだしたいのだが、思いに行動がついて行かない。二、三度からだを揺すってから、「よっこらしょ」と声をかけた。からだのわりに大きめのふたつの足を、たたみの上に置き、しげしげと眺めた。(ここまでずいぶんと長く働いてくれたな)種吉は愛おしくて、胸がじんときた。しばらくして、もう一度、よいしょ、どっこいしょと、両腕に力をこめ、ようやく立ち上がった。用を済ませ、部屋にもどった。さっさと常の服に着がえ、トントンと一階に下りたいところだが、いまだに気分がすっきりしない。いま一度ベッドに横たわった。ここら辺が、起きがけからさっさと動ける三...そうは、言っても。(15)

  • マイナカード物語

    種吉が朝から元気がない。お気に入りのぬれ縁に腰かけ、わきからひょいと種吉のひざにのってきた飼い猫のからだを、あちらこちら、なでてやってはいるのだが、いまひとつ気持ちが入らない。みやあっ、種吉の顔をみて、ひと声鳴いた。ああ、おめえも心配してくれのかい?わるいわるい。言葉のつうじぬおめえに話してもせんないことだけんども、おらのカードのぐあいがわるいんだってよ。みやあああっ。もうひと声鳴くと、彼は、種吉の左手を、丹念になめはじめた。まあ、お上がやられるこった。最後までお手並み拝見といこうか。それにしてもいやしいよな、おらの根性、たかだか二万の金が欲しくってよ。命とおんなじくらいに大事なふたつの証文、世の中にさらけだしてしまいやがった。おまえさん、ごはん出来てるよ。家から、種吉のかみさんが出てきた。ああ、いつもお...マイナカード物語

  • お盆の季節。

    ゆうべ、雨がたくさん降ったからでしょうか。久しぶりにぐっすり眠れました。朝方、夢を見ました。子どもらかいっぱい夢の舞台に出てきましたし、きっと、何か良いことが起こる前ぶれかもしれませんね。お盆が近いですね。昔むかしの知り合いの顔が、思い出されます。若くして亡くなった方ばかり。独り言だっていい。できるだけ口に出し、彼らのことをいろいろとおしゃべりするようにしています。彼らの魂が喜び、かがやいてくれるでしょうから。お盆の季節。

  • ぬけがけの時代を描き終えて。

    T県、K市。この街の北西部の高台に遊園地がある。あえて名は告げない。読者諸氏がお調べ願いたく、できれば訪ねていただきたいと思う。観覧車があったり、子どもが喜ぶようなチンチン電車を走らせている。以前より市当局はこの街の知名度を上げようとあちこちに働きかけていて、おかげで新垣結衣さんが出演した青春映画のロケが行われたりした。ほかにも、この市としばらく前に合併なった山深いA町には、今もなお、木造校舎が保存されていて、やはり映画やテレビの宣伝に利用されたりしている。くだんの遊園地。現在は乗り物料金も格安で、町の人々のかっこうの遊び場になっている。その昔、四十年ほど前のことだが、我が子を連れ、いくども、その遊園地、おっと公園といった方がいいだろう。K市で運営しているものである。当時、その公園の片隅で、うさぎに猿それ...ぬけがけの時代を描き終えて。

  • ぬけがけの時代に。 (7)

    それから二十年あまりのうちに、K市の台地の目ぬき通りに面する店が、ファミレスはいうに及ばない。業種を問わず、次から次へと変わっていった。床屋さんも例外ではない。組合に入っているからと、昔ながらのやり方に安住していると、時代に取り残されてしまい、お客がさっぱり来なくなってしまうありさまになった。地域の住民が次々に代替わりし、若い人の意向が大きくなってきていた。若者らしい発想や考えに同調できずにいると、捨て置かれてしまうのである。医院とても、例外ではない。見立てが良いとかわるいとか、それは開業医としては当然のこと、単に、人当たりがいいとか、子どもに優しく接してくださるとかが人気ポイントとなる。学習塾にしても、そうである。創立五十年、ずっと専業でがんばっていますが、通じなくなった。A塾ほど、英才教育をほどこすの...ぬけがけの時代に。(7)

  • ぬけがけの時代に。 (6)

    Kにとって、M男は弟のようなもの。そう思い、Kは常日ごろ、関西人らしいぶっちゃけた正直なもの言いをしたが、M男はそれが承服しがたいらしい。しかたなく、Kは、とことん、店長に対することばづかいでM男に接した。「失礼ですが、今はおひとりで?」「ああ、うん……」とたんに、M男の視線があらぬ方を向いてしまう。余計なことをと、M男は引いているのである。Kは、そんな相手の意向を無視してしゃべりつづける。「家にはまだ嫁に行かずにいるかみさんの妹がいますが、一度会いませんか」率直きわまりないものいいに、M男は顔色を変えた。視線を宙にさまよわせたり、耳の中に左手の指を入れたり、両脚をこきざみにゆすったりした。さすがのKも、自分の思案がとても荒いことに気づき、話題を変えた。「おとなりのライバル店さんの人気が気になりますね」「...ぬけがけの時代に。(6)

  • ぬけがけの時代に。 (5)

    いつもと同じ一日だと、Kは思ったが、少し違った。その日の宵、Kは少々、おなかの調子がわるくなった。グルグルとおなかが鳴る。腸が動いているようだ。困ったことに、授業中トイレにかけこみたくなってしまった。そんな症状がときどき起きるようになっていた。Kはみたてに定評のあるT町通りにある内科の先生の門をたたいたことがあった。「あんたは、ちょっとこれ、のんだがいい」白い玉っこを、三日分ほど渡された。効能かきを見て、Kは、へえっと目を丸くした。(おら、ちょっとばかり、どこかで無理してるのかもな。先生みたく利口じゃないし瞑想もやらない。たいして本も読まない。まだまだ修行が足りないや)「被害妄想の気があるから」A塾の先生に、以前、注意を促されていたことがあった。歯に衣着せない物言いが、Kにとってとても新鮮だった。Kはちょ...ぬけがけの時代に。(5)

  • ぬけがけの時代に。 (4)

    そのころ、そう今から四十年ほど前であるが、K市の在所で暮らす人々のほとんどは兼業農家だった。今のように、農業を継ぐ意思がないですとはっきり主張する若者はさほどおらず、ご先祖さまの田畑を、先ずは大切にと考えていた。農業とは、もともと人が寄り集まってこそ可能だった営みであり、もう一度初心に帰ってでも、外国の米麦に頼らず、自前の米や麦を作ろうとする意欲が残っていた。共同作業の復活、すなわち集団栽培方式を採用することで、農業の跡継ぎ問題を、なんとかして解決しようとした。米作りは苗を植え付ければ、当分の間、さほど労力がいらなくなる。その間を縫うようにして、主に、土曜や日曜に、若者がふんばったのだ。彼らのやる気に呼応するように、老いたりとはいえど、まだまだ身体が動けるわい、と見よう見まねで、こんにゃくやいちご、それに...ぬけがけの時代に。(4)

  • ぬけがけの時代に。 (3)

    会話はそれ以上つづかず、M男は腰をくの字に曲げて体勢を低くすると、カウンターの下にある、店内へとつづく戸を開けた。しかし、しかしである。M男は、店内の黄色味を帯びた淡い光の下にあらわれないのである。Kは心配になってきた。(ええっ、そんな……、店長さん、どうしたの、一体……)Kはつま先だったり、首を大きく振ったりして、こころの中でM男に呼びかけた。(まあ、子どもじゃないんだし、店内のどこかにはいる。さっきだって、わたしが到着するまでは店内にいるのが鉄則なのに、外に出ておられたようだったし……)Kはうつむき、洗い場に積み重ねられた油まみれの食器などを、きれいにする作業に没頭しだした。「かんじざいぼさつ、ぎょうじんはんにゃあはらみたじ、しょうけんごおうんかいくういっさいくうやく……」Kは誰にも聞き取られないよう...ぬけがけの時代に。(3)

  • ぬけがけの時代に。 (2)

    Kは厨房に通じるドアの取っ手を持ち、左側に回しながら、そっと内側に押した。蛍光灯のライトがまぶしい。厨房内でよどんでいた空気が、まるで生き物のように、ふわりとドアにからみついてくる。その先端部がいとも簡単にドアの表面をつたい、するりとKの湿っぽい鼻腔に入り込んで来た。花粉症の気がある鼻がむずむずする。あわててKはズボンの右ポケットから、ハンカチを取り出し、両手で鼻にあてた。杉や松の花粉症の持病があり、だしぬけにつつうっと水のごとき鼻汁が垂れるから注意が必要だ。臨時にウエイターの役割をになうこともあり、お客さまに不快な思いをさせないよう日頃から心がけている。このままで店長のM男と顔を合わせるのを気が引ける。Kはいったん開けかけたドアを閉め、右ポケットに入れたハンケチで軽く鼻をかんだ。先ほどまで降っていた雨が...ぬけがけの時代に。(2)

  • ぬけがけの時代に。 (1)

    K市の高台は、第二次大戦以後三十年を経てようやく、街らしい装いを整えはじめた。それでも、中には保守的な態度をとる人がいた。うちの畑は先祖代々のもの、ぜったい売るものかの一点張り。長い間土への執着が強く、時代の変わりゆく有様にただただおろおろするばかりで、自ら毅然として変革にのろうとする進取の志が持ちづらかった。JRK駅前の十字路を起点に、東西に一本の幹線道路がつらぬく。途中、JR線をくぐり、県都U市へと長くのびる道路があり、半時間足らずで、U市都心に行きつく。もうひとつのルートは、工業団地方面へと木工団地経由でぬけられた。このように交通の便が良かった。次第に高台に住まいを求める人が増えた。もともと、この地の低い街では、近隣の山々で伐採された木材をあつかう材木屋さんがかず多い。当然、ふすまや東障子を製造する...ぬけがけの時代に。(1)

  • いつかきっと晴れ上がる。

    朝からうす曇り。一時は空がしらじらとしてきて、よしよし、この分じゃ、午後にはお日さまが顔をのぞかせてくれるかもと、ガレージのすみに置いてあった、二本の物干しざおを、定位置まで運びました。このところ雨の日ばかりで、たまりにたまった汚れ物を、目分量で三等分し始めました。「あっ、三度も続けて?やめてよ。一日くらいやすませてくれればいいのに」と、口があったら、不平を言いだしそうな洗濯機のハラの中に、むりやりほうり込みました。しめて百分以上。浴室のすみで、ごとごとガタガタ、洗濯機は器械なりの不満を響かせていました。ありがとう、ありがとう。わたしはこころの中で言いながら、みたび、脱水完了を知らするピーの音が鳴るごとに、浴室まで出向きました。床に投げ出した衣類やらを、ピンク色のかごの中に、無造作につめこみ、戸外にでまし...いつかきっと晴れ上がる。

  • 女の子って、わからない。 エピローグ

    Y公園までおよそ1400メートル。スマホで確かめた道順を、康太はきょろきょろしながら歩く。わきに人が多くなった。ほとんどが康太と同じ目的だろう。康太の目は自然と、同世代の若い男女のペアのほうに向く。(あんなふうに、あおいと歩けたら、どんなに嬉しいことだろう)多くの人を魅了する歌い手は、二十歳くらいの女性。浜崎さん以来、久しぶりに世に出たアイドル的存在。その歌声は聞くものをして、彼女の世界観にかるがると引き込んでしまう。某歌手を真似たいのだろう。頭の先から足の先まで、彼女のそっくりさんがかっぽするありさまを観るのは、康太にとってとても興味深い。(某歌手はとてもスリム。とりわけまなざしに天賦の才が感じられる。そこらのミーちゃんハーちゃんがいくらがんばったって、彼女のクローンですって、わけにはいかないものなのに...女の子って、わからない。エピローグ

  • 女の子って、わからない。 (7)

    久しぶりにあおいに会えたのがうれしい。康太は素直にその気持ちを、あおいに伝えようと、横断歩道の反対側で、彼にしてはとびきりの笑顔で彼女を待ちかまえた。康太は、あおいがじぶんを見つけようと、視線をさまよわせていないのが気になった。(幾人もの人の中にいることだし、あおいはあおいなりに、きっと恥ずかしいのだろう)康太はそう思い、じぶんの内にわいてくる不安な気持ちをこらえた。両想いなんてなかなかない。温度差があるのはしかたないこと。次々に生じてくる不安。それらを打ち消すように、康太の胸は次第に高鳴ってくる。雲間から時折、まばゆいくらいの陽ざしがさしこんできて、康太の視界をさえぎってしまう。そのたびに、康太はあおいの姿を見失っては大変と、右手で目の上に日陰をつくろうとしたが、やめにした。ほんとは片手をあげたりして、...女の子って、わからない。(7)

  • 急に気温が上がって……。

    こんにちは、ブロ友のみなさん。きょうは朝から気温がぐんぐん上がりましたね。からだがついて行けず、わたしなどおたおたしています。このところ、主夫をやっていますのでおおいそがし。ゆうべの雨で納屋にとりこんでおいた洗濯ものをいそいで外に出しました。それから、ごみの世話。一般ごみの日です。K市の勧めるイチゴ色のふくろに、つめこめるだけつめこみ、収集場にむかいました。八時半までに出すようにとのお達し。なんとかセーフでした。五十代のころは、朝からせわしなく動くと、すうっと奈落に沈み込むような気分になったことがあります。でも、今はそんなことはありません。五十肩っていうのでしょうね。がんこな痛みに悩まされたころでもありました。うれしいことがひとつありました。田んぼの水回りを見に行ったときのことです。「先生、元気ですか」制...急に気温が上がって……。

  • 女の子って、わからない。 (6)

    神経戦のような粘り強いあおいとの交渉のあと、ようやく康太の念願がかなった。ゴールデンウイークの最終日。この日は朝から空のかなりの部分が、灰色の雲でおおわれてはいるものの、ところどころ青空がのぞく。風はある。それは神宮の木々のみずみずしい葉をかろうじひるがえさせるくらいの強さで、康太の脳裏に、薫風という言葉を思い起こさせた。冷気と暖気の入れ替わりのまめな、この時期にはめずらしいことで、康太には、神さまが、じぶんのために、エールを送ってくださっているように思えた。行きかう人の十人に一人くらいの割で傘を携帯している。(さてと竹下通りに面した駅舎の顔だけど、一体、どんなふうに変わっていることやら?)康太はわくわくどきどきしながら、改札口を通り抜けた。赤の信号の出ている、横断歩道の手前で、康太は後ろを向かないでいた...女の子って、わからない。(6)

  • 女の子って、わからない。 (5)

    大ジョッキで二杯のビールは、康太をして、帰りの浅草駅の構内で、赤の他人の若い女性に、背後から、声をかけさせた。「ちょっと待ってよ。あおい、あおい。どうしたんだよ。こんなところで?」紺のスーツの上下を身に着けた女性は、振り向きざま、きついまなざしを康太に向けた。実際のところ、彼女は見かけよりうんと年老いていたらしく、振りむきざま、康太にきついまなざしを向けた。「ふうん、わたしがおたくの知り合いの女の人に似てるんだ。きっとお若いことでしょうよ。ああ、うれしいやらかなしいやら。まあ、ありがた迷惑もいいとこってとこね」彼女は、康太の目の前まで、つかつかと歩み寄った。そして細い右腕をしならせ、ピシャリと康太の左ほほを平手でたたいた。へえっと言ったきり、ふたりの様子をわきから観ているしかなかった二郎である。彼女が靴音...女の子って、わからない。(5)

  • 女の子って、わからない。 (4)

    「ほら、行こうよ。ねっ、いいでしょ」急に、相手が親指と人差し指を使って、康太の上着の袖をつまんで引っ張った。「はあ?ちょっちょっと、どこへ行くんですか」身体ばかりが大きくなった康太だが、知らないことが世間に多すぎた。ふわふわして地に足がつかない気分の康太である。あやうく、見ず知らずの人間について行きそうになってしまう。「おいおい、康太、おまえ、父ちゃんこと放っておいて、どこへ行くんだ」二郎の声が、不意にわきから飛んできた。康太にとって、その声は神さまのものに聞こえた。(あっ、父ちゃんだ)康太は相手の腕を振りほどき、逃げようとした。だが、相手の力が強い。康太のからだが、ぐいぐい引っ張られる。二郎が勇んでふたりの前に、立ちはだかったが、相手は気にとめない。「さあさあ、行こうね。いい思い、させてあげるって。あん...女の子って、わからない。(4)

  • 柳美里さん、退院おめでとうございます。

    こんにちは。退院とお聞きして、ほっとしております。お気の毒に、帰宅する間も、晴れやかな気分になることができなかったのですね。それを聞いて、とても悲しく思いました。何が、あなたを、そんなふうにさせているのでしょう。あなたの初期の作品を、いくつか読ませていただきました。あまりに生々しく描かれていて、どきどきしどおしでした。ご家族やご親戚ともども、異国の地で多大な苦労をなさってこられたのだ、と、思うばかりです。小高川のほとりを散策なさったのですね。お写真、拝見しましたよ。多少、空気に冬の名残が感じられたでしょうが、山や野の草木のやわらかないろどり、さらさら流れる川面のきらめき……。それらはきっと、あなたのこころを和ませたことでしょう。小高地区に居をかまえ、東日本大震災に遭遇された人々を、日々勇気づけてくださって...柳美里さん、退院おめでとうございます。

  • 女の子って、わからない。 (3)

    見知らぬ女が声をかけている相手が、まさか自分だとは思わない。康太はあたりを見まわし、彼女にふさわしい男のありかを目で探したが、それらしき人物は見当たらない。十メートルほど先にライトに照らし出された桜の木が二本あり、その辺りには、彼女の年に見合ったような年配者が三人ばかりいるが、みな女連れである。康太は思いきって、女に向き合った。声には出さず、右手の人差し指の先で、そっとじぶんの鼻のてっぺんを触った。女は、うんと首を振った。康太は現代っ子に似合わず、神経質な面がある。小学生の頃から友達の輪の中に入らず、ちょっと離れたところから彼らの話の内容を気にしているようなタイプだった。気が小さいだけで、ほんとうは彼らの中にとけこみたいと思っていたのかもしれない。「うふっ、可愛いのね。あんたよ。あんた。あたしが呼びかけて...女の子って、わからない。(3)

  • 柳美里さん、良かったですね。

    あごの手術をなさったそうですね。今さっき、手術後のあなたの写真を拝見して、あっと驚きました。心の底から何か熱いものがじわりと湧いてきて、たまらなくなり、こうしてコメントを差し上げている次第です。あなたの一ファンでしかない私ですが、一言、応援したくて筆をとりました。お若いのですから、身体は日に日に良くなっていかれると思います。わたしは宇都宮の近くに住んでいます。夢を持ってがんばっておられるのを、あなたのブログを通じて知っておりました。七十の坂をのぼっている私ですが、足腰の立つうちに一度あなたが経営されている本屋さんを訪ねたいと思っています。手術が終了しました。柳美里さん、良かったですね。

  • 女の子って、わからない。 (2)

    東武浅草駅で電車を下りてからもずっと、康太は落ち着きがなかった。改札を通り抜け、下りのエスカレーターに乗っている時も、上ってくるエスカレーター内の人を注意深く見つめた。まるで人込みの中に、知り合いの姿を認めようとするかのようだった。康太の挙動がおかしいのに、二郎は早くから気づいてはいた。最寄りの駅で、電車に乗った時からずっと、終始、康太はあちらこちらと視線を走らせていて、二郎と雑談に興じる気配はなかった。二郎はよほど、おい、おまえ大丈夫かくらいの声かけを、康太にしようとも思ったが、すでに十八歳である。そんな言葉を、喉元でこらえるのに、大した努力を必要としなかった。康太は康太で、父の表情から、じぶんに対する配慮を感じ取ったのか、「なんでもないからさ、おやじ。心配ありがとう。もうこれからは、受験勉強のことを考...女の子って、わからない。(2)

  • 女の子って、わからない。 (1)

    二郎親子は都内の下町暮らし。持ち家だが小さい。台所と茶の間、それに四畳半と六畳の部屋。どうにかトイレとお風呂がついている。離婚してからはむだ遣いせず、質素な生活をモットーにしてはいるが、男所帯である。ときどきは。はめをはずした。康太は四月上旬にM大学の商学部への入学が決まっていて、日々、文字どおり晴れやかな表情で過ごせるはずだった。しかし時おり、ひとみを曇らせる。そのことが、ある夕方、帰宅したばかりの父、二郎に気づかれた。いつもなら元気よく、玄関先で、お父さん、お帰りって、あいさつする康太だが、その日はどうも様子がおかしい。上がり框から奥の部屋へと廊下がつづく。小玉電球の弱い光も手伝って、康太の表情が暗くみえるのだろう。「うん?どうした、おまえ?腹でも空いてるのか。もっと明るい顔にならないのか。この大めし...女の子って、わからない。(1)

  • 女の子って、わからない。 プロローグ

    JR原宿の駅舎が、新しく建て替えられたという。このニュースを聞いたとき、日ごろ時おりふわふわ感のある二郎が、「どんなふうに建て替えられたんだろ。天皇家にゆかりのある駅だしな。あんまり現代っぽいのも考えものだ」と言って、顔をくもらせる。「へえ、めずらしい。そんなこと、お父さんが考え込まなくたって大丈夫、えらい人たちがちゃんとやってくれるさ。それよりあっちはどうしたの?」二郎のひとり息子の康太が、二郎の肩をポンポンたたきながら言った。「そりゃ、そうだな。だがな、JR京都駅がいい見本だ。あれじゃ古いみやこのイメージがぶちこわしじゃないか。あっちあっちって、まったくもう、おまえって、人の楽しみにいちいち口を出すんじゃない。朝早くから店頭にならんで買えるだけ買ってきたよ」「さすがあ、やることがすばやい。でもさ京都駅...女の子って、わからない。プロローグ

  • 巴波川・恋の舟歌 (13)

    町中の河岸からの乗船はひとめにつく。万一、人にみとがめられても言い逃れできるよう、仁吉はいやがるおよねにむりやり夜鷹のしたくをさせ、川下の葦のしげる河原に舟をしのばせた。返せるあてなどない舟一艘である。それに値するきんすは、仁吉の目をみはらせるほど多かったが、何もかも可愛いおよねのためと仁吉は銭袋のひもをゆるめた。「ちょっとばかり遠い親戚筋まで、のがれられねえ用でがす。荷もおおござんすのであいすみません」「そうかい。あんたもたかだか蕎麦屋の身でな。たくわえも大したこたあねえだろうに」船主はまなざしにぎらりと不審の念を浮かべた。「あっそうそう。これはこれは、すくねえですがたばこ銭にでも、と、仁吉は船主の着物の袖に、一握りの銭を差し入れた。「おおっ、すまねえ。よけいなことを言ってしまったな。まあ、気を付けて」...巴波川・恋の舟歌(13)

  • 巴波川・恋の舟歌 (12)

    (ふた親さまが承知なら、おらはなにもいうこたあねえ。ならず者にいたぶられ、身も心も傷ついてるおよね大切に、先々のことをかんげえていけばいいことだい)仁吉はそう腹をくくり、およねとの出立にそなえてきた。そこで降ってわくのは、どこで暮らすかということ。むろん、その場所で仁吉が張り切って仕事ができなくてはならない。幸いなことに、仁吉には、ものごころついたころからの夢があった。将軍さまのおられる江戸で、ひと旗揚げたい。そう考えていた。長かった戦乱の世が徳川の家康公のおかげさま、今は元禄の世まっさかり。(庶民からお武家様まで、うめえものを食したいと心底思っていらっしゃる)仁吉は人づてに聞いたり、時おり手にする瓦版を観ては、期待に胸をふくらませていた。ひとりして江戸に向かおうと思っていた矢先のこと、神か仏のご加護があ...巴波川・恋の舟歌(12)

  • 巴波川・恋の舟歌 (11)

    およねは、もはや呉服屋のお嬢さまといった身支度ではない。着物は茶色の木綿、髪に飾り物などない。この姿のまますぐ、ちまたになじめそうである。身内の者の見送りは、巴波川の念仏橋のたもと辺りまでだった。「それでは、お嬢さま、今はこれにてしばしのお別れでございます」手代の声がふるえて、言葉にならない。およねは、かぶりを大きく振って、彼の気持ちに応えようとしたが、一瞬めまいを感じてしまい、思うように身体が動かない。このまま倒れでもしたら、とうとうと流れる雪解け水の中に、ドボンとわが身を落としてしまわないとも限らない。(誰でもいい、助けて)祈るような思いで、そばに立っていた桜の老木の幹に、右手をのばした。バサリと音がして、およねが左わき腹に大事にかかえこんでいた、大きめのふろしき包みが地面に落ちた。(いっそ、このまま...巴波川・恋の舟歌(11)

  • 巴波川・恋の舟歌 (10)

    飲食物の出入りがとだえると、人とのかかわり合いがまったくなくなり、およねの不安がつのった。行燈の灯りがとどかぬ物影から、今にもぬっともののけが出そうな気がする。いまだに子ども子どもしているおよねは恐怖のあまり、気を失いそうになってしまう。(あたしにもぎょうさん、落ち度があるのはわかってる。それにしても、こんなひどい仕打ちをあたしにするなんて……。とてもとてもあの大好きなおとっつあんひとりの仕業とはとても思えない。おっかさんだってあたしを大事に思うんなら、もっともっと反対してくれたら良かったんとちゃうやろか……。あっそうだ。ねえちゃんだ。今ごろどうしているんやろ?)父親の言うことには絶対に従うべし。およねは時代を恨んだ。一日、二日と時間が経っても、今がお昼なんだか、夜なんだか、わからない。食事の世話はうちに...巴波川・恋の舟歌(10)

  • 巴波川・恋の舟歌 (9)

    それまで抱いていた不安が、いっぺんに吹き飛んでしまったとばかりに、およねは喜び勇んで裏庭に足を踏み入れたが、おようの姿が見あたらない。「ねえ、おっかさん、おっかさんたら。どこにいるの」およねは声をひそめて言った。春らしい気配が庭のあちこちに残っていたのは太陽が沈んでからしばらくの間。この時刻になると、冬の名残りのひんやりした空気がいずこからともなく漂いだしてきて、およねの足もとを冷やした。およねがぶるっと体をふるわせる。(どうしたのかしら?今の今までおっかさんがいたはずなのに……、寒いわ)息がつまりそうに思い、誰か来てと大声で叫び出したくなるのをこらえた。月の光に照らされただけだった石燈籠がふと、昼間の装いを取り戻した。淡い光を放つ提灯がひとつあらわれて、ゆらゆら揺れた。それはまるでおぼろな夜気にさそわれ...巴波川・恋の舟歌(9)

  • 巴波川・恋の舟歌 (8)

    夜風がおよねの身に染みる。からだの傷よりこころが、ひどくうずく。「ここいらでよかんべ。おらも、あんましかかわりあいになりたくねえし」与吉が声をおしころして言い、背中のおよねの体を、やんわり地面におろすなり、「あい、ほんま、おおきにどすえ」およねが上方なまりで返した。「初めはたいへんだんべけどな、時がたってしまえば、収まるところに収まる」若いわりに、与吉は老たけていた。「ええ……、いずれ、また逢ってお礼をしますから」およねの震える声に、熱心に耳を貸さない。「そんじゃな」と与吉は言い、川べりの闇をさがしさがし家路についた。ふいにおよねにとびきりの孤独が襲った。深い後悔の念が、およねのこころをいっぱいにした。少しでも大人びているところを、好きな仁吉さんに見てもらいたい。そう願うあまりとはいえ、事情があって大川の...巴波川・恋の舟歌(8)

  • 巴波川・恋の舟歌 (7)

    下腹のあたりがひりひりと痛んだ。しかし、それほどひどくはない。およねは、それがわかった。うれしくて、自然と涙がでた。(いま少し長く、自分のからだの上に男がいたら、たぶん……)そう思うと、およねは安らかではいられなくなる。小屋から走り出て、すぐにでも大川に身を投げてしまいそうだった。相撲取りのような男がふたたび、小屋に入って来ると、およねはすぐさま顔をふせた。礼を言いたいが、できない。ただ乱れに乱れたかぶりを、いくども、縦にふるばかりである。「おら、与吉っていうんだ。おらの背中にのるがいい。うちまで送ってやる」そういい終えると与吉はふうと息を吐いた。「あい……」およねの声はかぼそいが、両のまなざしはさっきまでより明るい。与吉はそう感じた。打ちひしがれている、およねになんと声をかけていいか、考えていたのだろう...巴波川・恋の舟歌(7)

  • 巴波川・恋の舟歌 (6)

    およねは身支度に気をつかった。いかにもいいとこのお嬢さんだと思われぬよう、茶系の格子模様の入った着物を身につけた。豊かな髪に紺の手ぬぐいをかぶせ、その一方のはじを歯でかんだ。うちを出るときから、およねは緊張しっぱなしである。知り合いに出くわしたときなぞ、思わず下を向いた。心の臓の動きがやたらと速い。はるかに、念仏橋のたもとが見えた。ほの明るい仁吉の屋台。そのまわりが人でにぎわっている。およねは近づくのをためらい、しばらくたたずんでいた。唐突に人声が近づいてきた。桜見物の帰りでもあるのだろう。町人ふぜいにのふたりの男が、およねの行く手にあらわれた。ひとりはほっそりしている。もうひとりは相撲取りと見まがうばかりの大男である。「よう、ねえさんよう、こんばんは」ほっそりしたほうが、およねの前に立ちふさがり、両手を...巴波川・恋の舟歌(6)

  • 巴波川・恋の舟歌 (5)

    「あっ蕎麦屋さんの、いっ、いつもどうもごちそうさまです」「へい、なんのなんの」およねはしばし黙りこみ、落ち着きなくあたりを見まわす。顔が紅くなるやら青くなるやら、こころの動揺が隠せないでいる。およねの緊張がただならぬ、そう思った仁吉は気をきかした。「いやあね、きょうはあっしの着物をひとつ頼もうと思いやしてね」むりに笑顔をつくった。「ええ、はい……」およねはほほ笑む。さすがは呉服太物を商う越後屋の糸さんである。一瞬、個人の感慨に、みずからの立場を忘れそうになったがすばやく、心構えをたてなおした。背筋をしゃんとのばし、着物の乱れをなおすふりをしながら、「すみません。何用があるのか、恥ずかしい事ですが店の物がおりません。おいそぎならご用の向きをつたえておきますが。ちょっとお待ちいただけるのなら、どうぞここで」お...巴波川・恋の舟歌(5)

  • 日光の奥山へ。

    この冬の寒さをたえがたく感じるのはじぶんひとりだろうか。四十代になったわが次男坊。日々五時起きし、さっさと勤めに出かけてしまう。やはり、年老いたせいかと苦笑してしまう。日光連山を有するわが県。想像もつかない、冬景色が広がる。先日テレビで、中禅寺湖畔の現在の模様をご覧になった方もおられるだろう。一に、龍頭の滝。大きすぎるつららが見ものだ。それは広く知られていて、ひとめ見んがために勇敢にも、雪と氷でおおわれたイロハ坂をのろのろとのぼって来られる。「温泉は平地にもあるのにどうして。あんな寒いところへ?」いぶかる妻をむりに誘う。「おまえも日頃、一生懸命働いてるんだし」「気づかってくれてるんだ。それほどいうなら行くけど、もう歳なんだし、ぜったいスキーやるなんて、いわないことよ」想定内のセリフである。「うん、わかって...日光の奥山へ。

  • 巴波川・恋の舟歌 (4)

    それからひと冬越えた。時節は、春。ひゅうっと風が吹きすぎて、薄桃色の花びらがおよねとおまきの肩にかかる。満月である。夜桜見物としゃれこむ人たちが巴波川沿いの道を大平山の方向に歩く。ふたりはその人の群れから、ようやくのことでのがれた。「ふう、ああしんどかった。人ごみって、いやね」およねがため息をついた。「そうよ。からだは疲れるし気もつかう。酔っぱらいはいるしスリもいる。女だと思ってとんでもないことをしでかす連中だって」「うん」「あたしらは、一本二本の桜見でじゅうぶん。さあ急ぎましょ」ようやくふたりは町中に入った。「もう、くたくた」おまきが青ざめた顔で言う。「あたしもよ。でもきれいね。巴波川、どうしたんやろ」巴波川のおもてに、薄ころもが敷いてあるのかと思ったら、よく見ると、さくらの花びらだった。ようやく、ふた...巴波川・恋の舟歌(4)

  • 巴波川・恋の舟歌 (3)

    およねの父、呉服太物を商う越後屋吉兵衛は大のそば好き。生来、うどん好きだったが、上州から入る蕎麦を、よく食するようになった。蕎麦がきやらなにやら、蕎麦と名の付くものならなんでもござれである。吉兵衛に聞けば、うどんやそばの来歴がぴたりとわかる。そう世間がうわさするほどであった。「おとうたん、あたちも連れてってくれるんでしょ、おそば食べにね、きっとよ」日が沈み、たそがれどきになると、五歳になったばかりのおよねは吉兵衛にまとわりついて離れない。「いやいや、だめだね。おまえはおさなすぎる。もっと大きくなってからだ。それまではおっかさんが買ってきてくれるゆでめんを食べてるといいぞ」「そんなのいや、あたしもうずまがわのたもとのやたいでふうふうしながら、そばを食べてみたい」「まったく聞き分けがない子だね。お外は風がびゅ...巴波川・恋の舟歌(3)

  • 巴波川・恋の舟歌 (2)

    およねはその頃、親友のおまきの家にいた。いつもと様子がちがう。髪はみだれ、着物のすそが汚れている。ふたりがいるのは、次女のおまきがむりやり父親に頼んで造ってもらった裏庭の隅の小さな家屋。おまきはそこに入るなり、持っていた巾着袋を、むぞうさに部屋の隅にほうり投げた。畳の上にぺたりとすわりこみ、ぐったりした風情をみせた。「へんなおよねちゃん、いったいどうしたんだろ」おまきが問いかけても、すぐには答えない。おまきが産声をあげた長崎屋。この町の中堅の呉服屋のひとつで、およねとは幼なじみ。家が近くふたりは顔を合わせるごとに、共に遊んだりふざけあったりして育った。子どもらしい天真爛漫さから来る気持ちから、ふたりにしかわからない方法で、互いの家を行ったり来たり。そんな秘密の雰囲気を、子ども時分から養っていた。いつもなら...巴波川・恋の舟歌(2)

  • 巴波川・恋の舟歌 (1)

    およねの母おようは、二階から急ぎ足で下りて来るなり、玄関わきに陣取る大番頭の嘉兵衛にむかって声をかけた。「あのさ、吉さん……」急ぎの用でもあるのか、そわそわして落ち着きがない。しかし、胸に飼い猫のたまなどかかえ、なでさすっているから、大したことじゃないようだ。「へえ、なんざんしょ、おかみさん。なにかご用で?」嘉兵衛はうわべは冷静をよそおっているが、内心穏やかでない。越後屋に奉公してから二十年。おかみがみずから番頭に声をかけることなどめったになかった。おようの息が荒い。「お、およねを見なかったえ?」声が一段と小さくなった。「こいさんどすか。みいしません。朝のうちは、いやはりましたけど、お昼過ぎてからはどこへ行かはりましたか……」「そうかえ……」おようは蒼白になり、くいっと口を歪めた。「ほんまに困った子や。姉...巴波川・恋の舟歌(1)

  • かわいいお客さま。 (3)

    翌朝、早く目をさました。午前五時を過ぎているが、辺りはまだ暗い。わたしの左足を、ふいに何かがかんだ気がして、急いで飛び起きた。何ごとが起きたのかと、寝ぼけた頭で考えてみるが、すぐには判らない。右手を天井に向かってのばし、蛍光灯のスイッチを入れようとした。するとまた、急に左足が痛んだ。(一体、何が起きてるんだ)ゆうべのことを思いだそうとするが、なかなか思い出せない。またまた認知症の走りかと、情けなくなってしまった。若年性認知症というのがあり、人によっては五十前後でかかるらしい。じぶんの妻をコンビニまで車で送ったのはいいが、すぐさま夫が帰宅してしまう。妻が買い物を終えた妻が、夫の車を探すが、駐車場のどこにも見当たらない。そういった具合だ。古希をいくつも過ぎた身である。いつなんどき、認知症にかかってもおかしくは...かわいいお客さま。(3)

  • 巴波川・恋の舟歌 プロローグ

    下野の栃木の地、巴波川のほとり。この日の昼間も、きびしい夏の名残の陽射しが降りそそぎ、江戸に材木を運搬しようとせっせと河岸で働く人々の身体を熱くした。だが、夏から秋へと時節は確実に移り変わっていく。夕暮れになり、ひんやりした風が吹き過ぎようになると、風邪をひいてもいけねえと彼らは帰り支度を急ぎながら、彼らは汗ばんだからだをぬぐった。川筋から町の中心部に向かって少しばかり露地を入った裏長屋。河岸の喧騒は、ほとんど届かない。そこに三十歳くらいの仁吉という男が住んでいる。やせ形で背が高い。彼みずからがどさまわりの女形でやんすと口上を切っても、さもありなんとみながうなずくくらいに端正な顔立ち。不思議なことにいまだ女房がいない。あいつの客はほとんどが女だから、きっとやつは遊び人にちげえねえと、巷のすずめたちがうるさ...巴波川・恋の舟歌プロローグ

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