しずか さん プロフィール

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しずかさん: 大河ドラマに恋して
ハンドル名しずか さん
ブログタイトル大河ドラマに恋して
ブログURLhttp://shizuka0329.blog98.fc2.com/
サイト紹介文大河ドラマの舞台を旅しています。今年は幕末維新の史跡、「西郷どん」の舞台がメインです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供368回 / 365日(平均7.1回/週) - 参加 2013/09/04 01:29

しずか さんのブログ記事

  • 勝海舟銅像
  • 浅草の吾妻橋を通って墨田区役所へ。区役所の脇に、勝海舟像があります。2003年に海舟生誕180年を記念して、市民グループ「勝海舟の銅像を建てる会」により、区役所前うるおい広場の緑地内に建立されました。海舟は維新後「安芳(やすよし)」と改名したことから、勝安芳像とも呼ばれます。    建立の記勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉 [続きを読む]
  • 赤坂の勝海舟邸跡の碑
  • 東京の赤坂氷川神社から、本氷川坂(もとひかわざか)を下ると、坂の 右手に勝海舟の旧宅を示す標示板があります。  勝海舟邸跡の記  港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。 海舟は終生赤坂の地を愛し、3カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。 海舟は号で [続きを読む]
  • 萩の木戸孝允旧宅地
  • 萩市呉服町に、木戸孝允旧宅地があります。木戸孝允(桂小五郎)の生まれてから江戸に出るまでの約20年間を過ごした木造瓦葺の2階建て、瓦葺きの家です。12部屋の家には、誕生の間や幼少時代の手習いの書を表装した掛け軸、写真などが展示されています。孝允は1833年(天保4)に長州藩医・和田昌景の長男として生まれ、7歳のときに桂家の養子となりますが、実家のこの家で育ちました。通称・桂小五郎。藩校明倫館に通い吉田松陰の [続きを読む]
  • 薩摩郷土料理「吾愛人」
  • 今日は久しぶりに鹿児島の旅行記です!鹿児島中央駅近くの「吾愛人」中央西口店本店は天文館にあるそうです。独特な店名の「吾愛人」(わかな)は昭和37年、先代と親交のあった児童文学者の椋鳩十氏が命名したそうです。「愛人」(かな)とは、鹿児島の南に位置する奄美大島の方言で、「愛しい人」 「大切な人」西郷隆盛の奄美大島での島妻は「愛加那」(あいかな)さん。西郷が好んで使い揮毫した言葉に、天を敬い、人を愛すると [続きを読む]
  • 品川宿本陣跡
  • 品川は平安時代よりその地名があり、鎌倉時代には江戸湾の港として栄えました。江戸時代、品川宿は日本橋を起点とする東海道最初の宿場町として栄えました。大名や勅使が休息・宿泊する旅宿は本陣といわれ、江戸前期には北品川宿、南品川宿にそれぞれの本陣がありましたが、中期以降は北品川宿1つだけになりました。現在の本陣跡は1771年に定着し、品川三宿のほぼ中央に位置しています。品川宿本陣跡明治元年(1868)の明治天皇東幸 [続きを読む]
  • 品川台場(御殿山下台場跡)
  • 京急線 北品川駅徒歩5〜6分、品川区東品川に、品川台場(御殿山下台場跡)があります。御殿山下砲台は、江戸防衛のため幕末に築かれた「品川台場」のひとつです。1853年6月のペリー来航により脅威を感じた幕府は、江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画し、勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取って、同年8月から御殿山や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して工事を進めましたが、資金不足のため、完成したのは御殿山下砲台を含めて6 [続きを読む]
  • 山内容堂の墓
  • 土佐藩下屋敷跡から鮫洲方面へ向かい、立会小学校の隣りある大井公園を目指します。すると、公園の入り口に「山内容堂の墓」の案内板があります。山内容堂の墓「贈従一位山内豊信公之墓」と刻まれています。山内容堂幕末の土佐藩主。名は豊信(とよしげ)。容堂は号で,ほかに鯨海酔侯(げいかいすいこう)などの別号をもつ。20歳で藩主となり吉田東洋らを起用して藩政改革を行なった。1857年―1858年将軍継嗣問題の際,松平慶永,島津 [続きを読む]
  • 土佐高知藩山内家下屋敷跡
  • 浜川砲台から土佐藩下屋敷跡へ品川区東大井三丁目の土佐藩山内家下屋敷があった場所は、現在は中学校や住宅地となっています。黒船到来時、坂本龍馬はこの下屋敷に滞在し、沿岸の警護にあたったものと考えられます。浜川中学校維新後まもない明治2年に、日本で最初のビール工場が下屋敷跡に建設されましたが、後に廃業となりました。このビールは、現在「品川縣ビール」として復刻されているそうです。 立会川沿いの高知藩山内家 [続きを読む]
  • 浜川橋(涙橋)〜坂本龍馬が守った砲台跡「浜川砲台」
  • 浜川橋は、品川区南大井にある鈴ヶ森刑場跡の近くの立会川にかかっていた旧東海道の橋で、通称「涙橋」 江戸時代、小塚原と鈴ヶ森はともに犯罪者の刑場でした。鈴ヶ森は江戸の北の刑場である小塚原に対しての南の刑場として設置され、刑場に向かうには、近くの立会川にかかる涙橋を渡りました。涙橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場であり、この橋の [続きを読む]
  • 立会川の二十歳の龍馬像
  • 今年の春、京急線立会川駅から坂本龍馬ゆかりの地・立会川の史跡巡りをしてきました!駅から歩いてすぐのところの品川区立北浜川児童遊園に、坂本龍馬の銅像があります。以前は、浜川砲台跡から敷石の一部が発見されたことを記念し、平成16年(2004年)に高知市より寄贈されたプラスチック製の像が設置されていたそうですが、大河ドラマ「龍馬伝」の爆発的ヒットにより、平成21年(2009年)に京浜ロータリークラブよりこの銅像が寄贈さ [続きを読む]
  • 島津久光が移り住んだ鶴丸城二の丸跡
  • 鹿児島城は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことから別名「鶴丸城」と呼ばれています。1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏の居城でした。1874年(明治7年)に焼失したのちは再建されず、現在は本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。鹿児島県立図書館(画像:Wikipediaより)鹿児島市立 [続きを読む]
  • 照国神社に建つ島津久光の銅像
  • 鹿児島の照国神社の敷地に、島津家第28代当主・島津斉彬の弟で、第29代当主・忠義公の父である島津久光の銅像が建っています。島津久光は島津家第27代斉興の第五子として文化14年(1817年)、鹿児島城(鶴丸城)に生まれました。第28代島津斉彬の異母弟にあたり、斉彬の遺言で久光の子の忠義が藩主になると、「国父」として藩政の実権を握り、忠義を後見しました。文久2(1862年)、斉彬の意志を継ぎ、藩政改革を志して、千人の兵を率い [続きを読む]
  • 島津斉彬が勝海舟と面会した望嶽楼
  • 鹿児島の仙巌園の望嶽楼は江戸時代初期に琉球王国から薩摩藩に贈られたと伝わるものです。その名の通り、桜島(嶽)を眺(望)めるためにつくった東屋(楼)。桜島が美しく見える場所に建てられています。床に敷かれた塼(せん)とよばれる273枚の敷き瓦が、中国秦時代(紀元前3世紀)の阿房宮のものを写したといわれ、内部に掲げられた扁額は、中国東晋時代(4世紀)の書家・王羲之の書を模したものと伝えられています。安政5年(1 [続きを読む]
  • 築地の軍艦操練所跡
  • 東京の築地市場駐車場前に軍艦操練所跡の案内板があります。軍艦操練所跡 ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(1857)4月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。 万延元年(1860)正月に講武所が神田小川町(現在 [続きを読む]
  • 吉田屋跡〜立命館草創の地
  • 京都市上京区中之町、山紫水明処から少し北に行ったところに、吉田屋跡と立命館草創の地の石碑があります。ここはかつて、三本木という花街だったところで、慶応3年(1867)薩摩藩と土佐藩の間で「薩土盟約」が締結されました。土佐藩の後藤象二郎や薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らが集まって、龍馬も同席のもと会合が行われたのが、料亭「吉田屋」です。その後料亭・清輝楼となり、そこを仮校舎として学校を始めたのが現 [続きを読む]
  • 海軍操練所顕彰碑
  • 神戸のメリケン波止場のみなと公園には、海軍操練所顕彰碑の石碑が建っています。右側は、陸奥宗光(兵庫県知事・外務大臣)の功績を称えた顕彰碑で、裏面には、神戸ゆかりの人物として、勝海舟、坂本龍馬、伊藤俊助(博文)、陸奥宗光の名が刻まれています。第4代兵庫県知事陸奥宗光公を讃える。この地、海軍操練所に学び、のち、第4代兵庫県知事となって、県政の礎を築き、後年伊藤内閣の外務大臣として難局に処した公を偲んで、 [続きを読む]
  • 神戸海軍操練所跡
  • 神戸海軍操練所は、江戸時代の1864年(元治1年)5月に、大阪湾湾岸防衛の必要から、江戸幕府が許可し、軍艦奉行の勝海舟によって、神戸に設置された海軍士官養成機関、海軍工廠(かいぐんこうしょう)であり、現在の神戸市中央区新港町周辺にありました。操練所の塾生には、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐亨、北添佶摩、望月 亀弥太などがいます。しかし、八月十八日の政変で失脚した長州藩が、京都へ進攻した禁門の変の責を問われ、 [続きを読む]
  • 岩国の吉川家墓所
  • 岩国の吉川家墓所は、吉川家初代・広家(ひろいえ)から、6代経永(つねなが)を除く12代経幹(つねまさ)までの当主及び一族の墓が51基立ち並んでいます。内部は、広家や経幹が眠る「山のお塔」、3代広嘉(ひろよし)や4代広紀(ひろのり)などの眠る「寺谷のお塔」に分かれています。墓石の多くは五輪塔で、藩主及び夫人の墓石は高さ3.5メートルを越える立派な石造文化財です。吉川経幹・順正夫人の墓所ここに吉川経幹と順正夫人 [続きを読む]
  • 三家老(益田親施 、国司親相 、福原越後)の切腹
  • 元治元年(1864)には、禁門の変によって長州征討の勅命が下されると、幕府軍を中心とする征長軍による長州藩への攻撃が決行されようとしていました。長州藩は外国との戦いなどで疲弊し、武備もまだ旧式で勝ち目はなかったため、長州藩主・毛利敬親は、朝廷、幕府との交渉を岩国の吉川経幹(通称・監物)に依頼。山口県東部にある岩国は、毛利一族の吉川家の岩国領があったところです。錦帯橋岩国城長州征伐の参謀に任命された西郷隆 [続きを読む]
  • 長州藩邸跡〜桂小五郎像
  • 禁門の変後、幾松や対馬藩士・大島友之允の助けを借りながら、潜伏生活を余儀なくされた桂小五郎(後の木戸孝允)。会津藩などによる長州藩士の残党狩りが行われ、京都での潜伏生活が難しくなり、但馬の出石へと潜伏の場所を移します。その後、高杉晋作が下関で挙兵すると、藩のリーダーとして藩政を仕切り、薩長同盟を成立させ、倒幕へと導いて行きます。京都の河原町御池の長州藩邸があった場所には、現在京都ホテルオークラが建 [続きを読む]
  • 禁門の変(6)禁門の変の戦死者の墓
  • 京都霊山護国神社には、禁門の変などで亡くなった志士たちのお墓があります。長州藩士の墓久坂玄瑞の墓久坂の隣には、同じく禁門の変で戦死した来嶋又兵衛、明治維新を目前にして病死した高杉晋作久坂と刺し違えた寺嶋忠三郎、槍で刺されて亡くなった入江九一、そして久坂、寺嶋らとともに鷹司邸内で自刃した有吉熊次郎久坂玄瑞の墓は、この他にも、萩の吉田松陰誕生地の団子岩、下関の桜山神社にもあります。萩市椿東椎原の護国山 [続きを読む]
  • 禁門の変(5)入江九一の最期と墓
  • 入江九一は、天保8年(1837年)、長州藩の足軽・入江嘉伝次の長男として生まれました。弟に野村靖(和作)、妹にすみ子(伊藤博文の最初の妻)。入江九一(『高名像伝 : 近世遺勲. 地』(Wikipediaより)安政3年(1856年)家督を継ぎ、安政4年(1857年)に弟が吉田松陰の松下村塾に入塾。九一は家計を支えるため、安政5年(1858年)になって入門。松陰から「僕はこの人にはおよばない」といわしめるほど、高く評価され、久坂玄瑞、高 [続きを読む]
  • 禁門の変(4)久坂玄瑞終焉の地・鷹司邸跡
  • 堺町御門は、京都御苑の南側にある門で、丸太町通に面しています。堺町御門1863(文久3)年8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津、薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿7人と尊皇攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。 堺町御門警備担当の長州藩が御門に集結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。 政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、 [続きを読む]
  • 禁門の変(3)弘源寺の長州藩士の刀傷
  • 弘源寺は、天龍寺の塔頭寺院で、永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川持之が、天龍寺の開山・夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建し、持之の院号をもって弘源寺の寺号としました。創建当時は小倉山の麓に位置し北は二尊院、南は亀山にいたる広大な寺領を有していましたが、幾度かの火災に遭遇し変遷を重ね、明治15年に末庵である維北軒と合寺しました。 通常非公開ですが、春と秋に特別拝観が行われます [続きを読む]
  • 禁門の変(2)蛤御門に残る銃痕と来嶋又兵衛の最期
  • 来嶋又兵衛は、浪人者や庶民を集めて結成した遊撃隊を率いて嵯峨から出撃し、会津藩兵が護衛する蛤御門を攻撃し、戦が始まりました。一時は、来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入し、優勢でしたが、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転。長州勢は次々に銃弾に倒れていきます。蛤御門(はまぐりごもん)は、京都御苑の外郭九門の一つで、正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」といいます [続きを読む]