しずか さん プロフィール

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しずかさん: 大河ドラマに恋して
ハンドル名しずか さん
ブログタイトル大河ドラマに恋して
ブログURLhttp://shizuka0329.blog98.fc2.com/
サイト紹介文大河ドラマの舞台を旅しています。今年は幕末維新の史跡、「西郷どん」の舞台がメインです。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供366回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2013/09/04 01:29

しずか さんのブログ記事

  • 西南戦争 城山の西郷洞窟
  • カゴシマシティビューで「 西郷洞窟前」で下車。明治10(1877)年2月、鹿児島城下を出発した薩軍は、九州各地で転戦したのち、8月に解散。その後西郷隆盛率いる一行は九州の宮崎・鹿児島の山岳部を踏破し、9月1日、鹿児島に入り、城山を占拠。西郷は、薩軍と政府軍との西南戦争の最終段階の城山攻防戦において、明治10年(1877)9月19日から24日未明にかけて、薩軍の指揮をとりながら、最後の5日間をこの洞窟で過ごしたいいます。現在 [続きを読む]
  • 西南戦争 鶴丸城の石垣の弾痕
  • 鶴丸城は、慶長6年(1601年)頃に、島津家18代家久が築いた島津氏の居城で、背後の城山と麓の居館からなる城でした。正面中央には、御楼門がありましたが、明治6年(1873)の火災で焼失。 遺構として、石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存しています。大手橋昭和28年9月7日に県の史跡に指定されました。石垣には西南戦争の際についたといわれる弾痕が数多く残っています。 御角櫓跡御角櫓は [続きを読む]
  • 西南戦争 城山からの展望と薩軍本営跡
  • カゴシマシティビュー「城山」下車。城山は、西南戦争最後の激戦地であり、西郷洞窟や西郷終焉の地など、西南戦争にまつわる史跡が多く存在しています。また、クスの大木やシダ・サンゴ樹など600種以上の温帯・亜熱帯性植物が自生し、大部分がシラスで構成され、 国の史跡および天然記念物に指定されています。城山展望台へ。城山展望台の標高は107m。現在は城山公園として整備され、錦江湾や桜島、鹿児島市街地を一望できます。天 [続きを読む]
  • 西南戦争 涙橋血戦之碑
  • 西南戦争の舞台となった鹿児島の地を訪ねました。市電「涙橋駅」で下車し、涙橋を目指します。ここは西南戦争の激戦地の一つに数えられており、橋のたもとに涙橋血戦之碑があります。西南戦争で戦死した枕崎出身の90名の薩軍兵士を供養するために建てられました。涙橋血戦之碑 旧谷山街道と新川が交わるこの地の下流にかかっている橋は江戸時代、橋の先の処刑場に向かう罪人と家族が、この橋のたもとで最後の別れをしたことから、 [続きを読む]
  • 岩倉具視が剃髪した霊源寺
  • 京都市北区西賀茂の船岡山の東麓に岩倉家の菩提寺である霊源寺があります。通称「霊源皇寺」。山号は清凉山、臨済宗、本尊は釈迦如来像。寛永13年(1636年)、後水尾天皇が仏頂国師(一絲文守いっしぶんしゅ)を開山とし創建。当初は霊源庵と呼ばれてました。寛文16年(1666年)、上皇より勅額を賜り、現在の山号、寺名になりました。仏頂国師は岩倉具尭の第3子で、堺の南宗寺の沢庵に師事し、その高風を聞いた後水尾上皇の帰依を受け [続きを読む]
  • 篠原国幹の墓
  • 篠原国幹は、明治7年(1874年)に桐野利秋・村田新八らとともに鹿児島に私学校を設立し、その監督となり、青年子弟を養成。明治10年(1877年)、弾薬庫襲撃事件と中原尚雄による西郷刺殺計画を聞いた篠原は私学校本校で行われた大評議では出兵に賛成しました。西南戦争では、鹿児島軍1番大隊長として熊本城を攻撃、高瀬に戦い、吉次峠の攻防戦で陣頭指揮の最中、赤裏の外套をひるがえして陣頭に立って部隊を指揮していました。その [続きを読む]
  • 大山綱良(格之助)の墓
  • 初代鹿児島県令であった大山綱良(格之助)は、西南戦争で積極的に西郷隆盛を支援したため,明治10年9月30日長崎で処刑されました。文政8年(1825年)、樺山善助の次男として鹿児島に生まれる。幼名は熊次郎。 嘉永2年(1849年)12月26日に大山四郎助の婿養子となる。通称は正圓、角右衛門、格之助。大山氏の本姓は宇多源氏で、養子先の家伝では佐々木盛綱の子孫である康綱の後裔を称するが明確ではない。 西郷隆盛、大久保利通らとと [続きを読む]
  • 西郷小兵衛の墓
  • 西南戦争で、薩軍の一番大隊一番小隊長として出軍した西郷小兵衛は、高瀬の戦で敵弾を受けて戦死しました。小兵衛は、西郷家の末っ子として育ち、その面影や性格は、兄である西郷隆盛に最も似ていて、隆盛によく可愛がられていたそうです。西南戦争中、小兵衛戦死の知らせを受け、隆盛は号泣したと伝えられています。小兵衛の墓は、鹿児島の南洲墓地にあります。西郷小兵衛西郷隆盛の末弟。名前は小平と書かれることもある。 弘化4 [続きを読む]
  • 萩の乱(2)
  • 前原一誠による萩の乱の責任を取る形で自害した吉田松陰の叔父である玉木文之進は、文化7年(1810年)9月24日、長州藩士・杉常徳(七兵衛)の3男として萩で誕生しました。文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継ぎます。天保13年(1842年)に松下村塾を開き、杉梅太郎、吉田松陰兄弟を厳しく指導しました。また親戚の乃木希典も文之進が教えています。天保14年(1843年)に [続きを読む]
  • 萩の乱(1)
  • 近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布。この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、これが契機となり、1876年(明治9)不平士族らが、前原一誠を擁して、奥平謙輔とともに山口県の萩で明治政府に対する士族の反乱を起こしました。これが萩の乱です。『萩一戦録』 萩の乱の錦絵前原一誠前原は、幕末期久坂玄瑞や高杉晋作らと松下村塾に学び [続きを読む]
  • 小石川後楽園の藤田東湖の碑
  • 小石川後楽園は、江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の中屋敷(のちの上屋敷)の庭として造ったもので、二代藩主の光圀の代に完成した回遊式築山泉水庭園です。光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後 れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。庭園は、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配 [続きを読む]
  • 岩倉具視ゆかりの実相院
  • 岩倉具視幽棲旧宅から岩倉実相院へ。実相院は、穴場かと思って行ったのですが、国際会館からのバスに長蛇の列ができていて、たどり着くまでに相当かかりました。こちらは、部屋の黒い床に木々が反射する光景の「床みどり」「床もみじ」が有名ですので、それが目当てな人ばかりかと思っていたら、聞えてくるワードは「鶴瓶さん」鶴瓶さんの岩倉具視が大人気なようで、大勢の大河ドラマファンでも賑わっていました。その岩倉具視さん [続きを読む]
  • 岩倉具視幽棲旧宅(2)
  • 岩倉具視幽棲旧宅は、茅葺の主屋(約60?)と瓦葺の附属屋(約67?)、繋屋(約9?)から成ります。敷地の南土塀に表門を構え、門を入って主屋南庭に通じる中門、池庭、離れの便所によって構成されています。平成20年(2008)から4箇年をかけて京都市が国庫補助を得て、本格的な修理が行われました。それでは家屋の中に入ってみましょう。主屋茅葺の建物で、西側に玄関である式台を設け、玄関、6畳の次の間,床の間のある6畳の座敷と東西一 [続きを読む]
  • 岩倉具視幽棲旧宅(1)
  • 岩倉具視幽棲旧宅は、京都市左京区岩倉上蔵町の岩倉具視が隠れ住んだ屋敷です。公武合体を掲げ、皇女和宮の将軍家降嫁などに尽力した岩倉は、倒幕急進派から弾劾され、官職を辞して剃髪したうえ洛中から追放され、11代前から縁のあったこの地で慶応3年(1867)までの間幽棲しました。元治元年(1864)に大工藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入し、主屋と繋屋を増築して住居としたのがこの旧宅です。大久保利通や中岡慎太郎、坂本龍馬など [続きを読む]
  • 山口の木戸孝允旧邸跡と木戸神社
  • 山口県山口市の木戸孝允旧邸跡です。木戸孝允は、慶応年間にここに本邸を新築し、山口藩庁政治堂に通っていました。当時の家は瓦葺の平屋で、広さは約80平方メートルで四間ぐらいのもので、大正になって約100メートル東側に建て替えられました。当時ものとして、石垣と南側にある裏門が残っています。木戸神社明治10年(1877年)、木戸孝允は死に臨んで「山口の糸米(いとよね)村にある木戸家の旧宅・田畑・山林を糸米村へ寄付し、 [続きを読む]
  • 木戸孝允の神道碑(勅撰碑)
  • 京都東山の京都霊山護国神社墓所での階段を上ると、すぐ正面に見えてくるのがこの木戸孝允の神道碑(勅撰碑)です。神道碑は国家に功績のあった人物の墓所参道に建てられる碑で、その人物を顕彰する役割を持つそうです。明治維新以降、大久保利通・毛利敬親・大原重徳・岩倉具視・広沢真臣・島津久光・三条実美・木戸孝允の神道碑が明治天皇の命により建立されました。明治天皇の勅命により建立されたことから「勅撰碑」とも呼ばれ [続きを読む]
  • 京の木戸孝允(桂小五郎)邸宅跡と達磨堂
  • 河原町丸太町バス停から約5分のところに、お宿いしちょうと旅館・石長松菊園があります。この一帯に、小五郎が、近衛家の下屋敷を譲り受け、別邸とした木造二階建ての公卿屋敷で、尊皇攘夷、討幕運動の拠点としていた屋敷のひとつがありました。お宿「いしちょう」お宿「いしちょう」前の石碑旅館・石長松菊園石長(いしちょう)の名前は、当主の姓「石井」の石を取り、「長」は長州藩の長ををもらい、「長」は長く栄える意味が含ま [続きを読む]
  • 高知の山内容堂・西郷南洲会見の地
  • 高知市鷹匠町のホテル三翠園がある場所には、かつて山内容堂の別邸下屋敷がありました。戦後、会見場所の屋敷は売却され、現在は大部分が三翠園の敷地になっています。三翠園の庭園に山内容堂・西郷南州会見の地の碑があります。慶応3年(1867)年2月、西郷隆盛は、薩摩藩主・島津久光の命を受け、四候会議への参加を促すために来高し、この日本庭園内で容堂と会見しました。慶応三年 ( 西暦一八六七年 ) 二月十七日薩摩島津公の命に [続きを読む]
  • 鹿児島の旅(56)篠原国幹の誕生地之碑
  • 鹿児島市加治屋町の篠原国幹の誕生地碑です。加治屋町は、江戸時代には下級武士の居住地であり、西郷隆盛や大久保利通、東郷平八郎・大山巌、山本権兵衛など、江戸時代から明治時代にかけて活躍した多くの政治家、軍人などを輩出しました。篠原国幹は、征韓論に敗れた西郷隆盛にしたがって下野し、隆盛を助けて私学校を経営、西南戦争の田原坂の戦いで戦死した薩摩藩士です。 篠原国幹没年:明治10.3.4(1877)生年:天保7.12.5(1837 [続きを読む]
  • 鹿児島の旅(55) 村田新八誕生地碑
  • 鹿児島中央高校前に、村田新八誕生地の碑があります。加治屋町山之口馬場(高見馬場方限)で高橋八郎の第三子として生まれ、幼にして村田十蔵(経典)の養子となりました。年少より西郷隆盛に兄事。文久2(1862)年,島津久光の上洛の際、西郷と共に先発しましたが,過激派を扇動したと久光の怒りを買い、西郷は徳之島へ、新八は鬼界が島に流されました。元治元年(1864年)、赦免された西郷は途中、喜界島へ寄って村田を鹿児島へ連れ [続きを読む]
  • 佐賀の乱に敗れた江藤新平が西郷を訪ねた鰻温泉
  • 西郷隆盛は、指宿の鰻湖畔にたたずむ江戸時代から続く温泉地である鰻温泉をこよなく愛し、幕末から明治にかけて、幾度も湯治に訪れたといわれています。明治7年、征韓論に敗れ,鹿児島に帰ってきた西郷が突然、犬13匹を連れて鰻湖畔に泊まりに来て、約一月滞在しました。昼は開聞岳辺りへ猟に出かけたり、近所の子どもたちと遊んだりして、毎晩温泉に浸かり、福村市左衛門宅に逗留しました。この時、佐賀の乱に敗れた江藤新平が西 [続きを読む]
  • 鹿児島の旅(54)私学校跡・西南戦争の銃弾跡
  • 鹿児島市城山町(現・鹿児島医療センター)の私学校跡。明治6(1873)年10月、征韓論に破れ、下野して鹿児島に帰って来た西郷隆盛は、鹿児島の士族たちのため、桐野利秋、篠原国幹、大山県令などと共に拠出金でこの地に私学校を創設しました。 鹿児島城の旧厩跡に建てられた私学校は、銃隊学校と砲術学校からなり、篠原国幹、村田新八が指導にあたりました。本校の他に市内各方限や地方にも分校が設けられ、明治9年(1876)末頃は県内 [続きを読む]
  • 鹿児島の旅(53) 西郷武屋敷跡
  • 明治6年(1873)西郷隆盛が、征韓論に破れて鹿児島に帰り、明治10年(1877)の西南戦争までの4年間、武屋敷で過ごしました。この屋敷は明治2年(1869)薩摩藩の上級武士から譲り受けたもので、敷地約3600?、高縁の御殿づくりで部屋数も多く、庭には大きな松の木もあったといいます。西南戦争で焼失しましたが、明治13年(1880)西郷の弟の従道が再建しました。西郷隆盛と庄内藩(山形県)の有力な家老であった菅実秀(臥牛)が対話してい [続きを読む]
  • 鹿児島の旅(52)井上良馨誕生地
  • 鹿児島市高麗町の大久保利通の誕生地のすぐそばに、海軍大学校初代校長を務めたのをはじめ、海軍の大事な仕事を次々に務め、元帥となった井上良馨(いのうえよしか)の誕生地があります。井上良馨(いのうえ-よしか)没年:昭和4.3.22(1929)生年:弘化2.11.2(1845.11.30)明治期の海軍軍人。薩摩(鹿児島)藩士井上七郎の長男。薩英戦争(1863)の際沖ノ島砲台で応戦,慶応3(1867)年藩の軍艦「春日」に乗艦し,阿波沖,奥州,箱館と転戦。兵 [続きを読む]
  • 周防明倫館兵学寮跡と靖国神社の大村益次郎の像
  • 1815年(文化12)、長州藩士・上田鳳陽(ほうよう)は学問所として「山口講堂」を開設しました。その後「山口明倫館」と名前を変え、兵学寮と文学寮に分けられ、文学寮には小学舎及び編集局、兵学寮には歩兵・騎馬・砲兵の三兵塾がありました。一時は、大村益次郎が兵学寮の教授となり、洋式兵学の教育が行われました。大村益次郎その兵学寮のあったところに碑が残されています。大村 益次郎幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である [続きを読む]