しずか さん プロフィール

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しずかさん: 源平・義経ゆかりの史跡めぐり しずかblog
ハンドル名しずか さん
ブログタイトル源平・義経ゆかりの史跡めぐり しずかblog
ブログURLhttp://shizuka.cocolog-tnc.com/shizuka/
サイト紹介文源平合戦、源義経ゆかりの史跡を追って日本全国旅しています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供35回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2013/09/04 10:12

しずか さんのブログ記事

  • 源頼朝ゆかりの上田端八幡神社
  • 東京都北区田端に鎮座する上田端八幡神社(かみたばたはちまんじんじゃ)は、文治5年(1189年)に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、祭祀を起し、郷土の鎮守とした神社です。 現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれていました。各々の地域には、鎮守の八幡神社がまつられており、こちらの八幡 [続きを読む]
  • 東覚寺の赤紙が貼られた金剛力士像
  • 東京都北区田端の東覚寺の山門には、赤紙が貼られた金剛力士像があります。これは、通称赤紙仁王と呼ばれ、病を患った人がその部分に相応する箇所に赤紙を仁王像に貼ると治癒されると言われています。 また、その後病が治癒すると、草履を供えるものとされており、その風習も現在残っているそうです。 江戸時代までは東覚寺が別当寺を務めており、仁王像は隣接する田端八幡神社の前にありました。その後、神仏分離令発令によ [続きを読む]
  • 源頼朝ゆかりの田端八幡神社
  • 東京都北区田端二丁目に鎮座する田端八幡神社。祭神は品陀和気命(応神天皇) 1189(文治5)年、源頼朝が、この地の豪族・豊島氏らと共に奥州藤原氏を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請、祭祀を起こし、郷土の鎮守とした神社です。 この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(応神天皇)を祭神をしています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに [続きを読む]
  • 源氏ゆかりの王子稲荷神社
  • 王子稲荷神社は、東京都北区岸町にある神社で、東国三十三国稲荷総司との伝承を持ち、落語『王子の狐』でも有名です。 古くは岸稲荷と号していました。『新編武蔵風土記稿』巻之十八の豊島郡之十 によれば、荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座した事から名付けられました。康平年間(1058〜1065年)に源頼義により「関東稲荷総司」の称号を得ています。治承4年(1180)には源頼朝が源義家の腹巻や薙刀等を奉納したとされています。ま [続きを読む]
  • 源義家が戦勝祈願した王子神社
  • 王子神社の御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称して「王子大神」と呼ばれています。紀州の熊野三社権現(本宮・那智・新宮)の御子神さまの呼称で、熊野古道には多くの王子神が祀られていたといわれます。創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、 [続きを読む]
  • 源頼朝布陣伝承地(3)音無親水公園
  • 音無親水公園は、小平市の東部を源にして隅田川に注ぐ石神井川の旧流路に整備された公園です。石神井川は、北区付近では“音無川”と呼ばれ親しまれ、古くから四季の行楽の名所、景勝の地でしたが、戦後の発展とともに石神井川は生活排水などで汚れた川となってしまいました。昭和30年代から始まった改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に、「かつての渓流を [続きを読む]
  • 源頼朝布陣伝承地(2)松橋弁天
  • かつて金剛寺の領域内には松橋弁天と呼ばれる弁才天を祀った祠がありました。当寺院傍に流れる石神井川の崖下にあった洞窟に祀られていた弁才天で、弘法大師の作ともいわれています。松橋は当地の旧名で、弁才天は岩屋にあったことから岩屋弁天ともいわれました。『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われているそうです。弁天像を納めていた岩屋 [続きを読む]
  • 源頼朝布陣伝承地(1)紅葉寺と呼ばれる金剛寺
  • 今から5年前のことですが、東京都北区滝野川の源頼朝布陣伝承地を訪ねました。秋は紅葉の名所として「紅葉寺」として知られている金剛寺は、源頼朝が伊豆で挙兵した後、隅田川を渡って武蔵国へ攻め入る際、陣を張った場所といわれています。寺伝によると、弘法大師・空海がこの地を遊歴し自ら不動明王像を彫ったと言われている。 この不動像は現在当寺院の本尊になっているものである。その後、平安時代末期・源頼朝の時代に源頼朝 [続きを読む]
  • 俊寛の碑
  • 鹿児島市中町の西本願寺別院近くのビルに囲まれたある一角に「俊寛の碑」の石碑があります。 ここは、俊寛が鬼界島に流されるときに船出した場所といわれています。 明治31(1898)年頃、ここが埋めたてられるまでは堀があって、俊寛堀と呼ばれていましたそうです。 俊寛は、後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にありましたが、安元3年(1177年)鹿ヶ谷の俊寛の山荘で密議が行われた藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わり [続きを読む]
  • 源義家ゆかりの円通寺
  • 東京都荒川区南千住の円通寺。 寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられています。 円通寺サイトによると、当寺を中心に六里四方を観音原と呼んでいたが、八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四拾八を此処に埋め四拾八塚(首塚)を築いたことにより、小塚原とこの辺が呼ばれる様になった。 首塚の上に建っているのが、この寺の由緒「重興圓通寺記幵塔銘」が刻んである七重の石塔。石造七重の塔の銘に [続きを読む]
  • 熊野の長藤(2)遍照山西法寺跡
  • 境内の中に進んでいくと、見事な藤棚が広がっています。 白藤はまだ長さが不十分でした。 ここには、昔遍照山西法寺という寺院がありました。 遍照山西法寺跡 遍照山西法寺跡  ここには『遍照山西法寺(へんしょうざんさいほうじ)』という寺院がありました。西法寺は、今から約770年前の鎌倉時代の貞永年間(1232年)に創立された真言寺院で、本寺は高野山普門院、本尊は不動明王でした。真言宗は平安時代に空海(弘法大師 [続きを読む]
  • 熊野の長藤(1)熊野(ゆや)御前と平宗盛
  • 今年も熊野の長藤を見に出かけて来ました。 「熊野の長藤」は、磐田市池田の行興寺にあり、平安時代、平宗盛に寵愛された熊野御前が植えたとされる推定樹齢800年以上を数える長藤で、国の天然記念物にも指定されています。この長藤の開花期間の4月下旬から5月上旬にかけて催される、「池田・熊野の長藤まつり」では、能舞台での各種イベントや、池田の渡船の再現、屋台の曳き回しなどがあります。 謡曲「熊野」と行興寺 謡曲 [続きを読む]
  • 源氏からも平家からも愛された平野神社の桜
  • 毎年、春になると、平家にも源氏にもゆかりのある桜で有名な京都の平野神社を訪ねます。 平野神社は794年(延暦13年)、平安遷都の際桓武天皇が奈良より勧請し、創建されました。平野神社の祭事である平野祭は、『延喜式』四時祭に記載されている祭祀で、桓武天皇の後王(後裔の皇族)、大江氏と和氏が参加することが規定されていました。桓武天皇の後裔で発達したのは平氏で、1019年(寛仁3年)平理義が平野祭に氏人として参加して [続きを読む]
  • 志津城跡と藤原共資公の石碑
  • 正暦4年(993)、藤原共資が築いたといわれる志津城に向かいました。浜名湖国際頭脳センター付近に、志津古城址の石碑が建っています。 志津城は浜名湖畔の半島に築かれましたが、現在は埋め立てが進み、湖面から離れています。井伊谷に伝わる古文書によると、平安時代に井伊氏の祖となる藤原共資がこの地に住んで館を築いたとされます。周囲には城山・根古屋などの地名が残りますが、城の主要部は湖面埋め立てのため削り取られて失 [続きを読む]
  • 日蓮聖人の先祖・貫名氏の館跡に建つ妙日寺
  • そもそも、この疑問を持ったのは、我が家の愛犬のお墓があるお寺の入り口に掲げられてる「井桁と橘」の紋に始まります。 気になって、井伊家に関係があるのかとご住職に質問したところ、それは日蓮宗の紋だという。そこに偶然通り掛かった息子さんが、「日蓮のお父さんが、井伊家の人だからでしょう。」と。と、前に訪ねた共生寺の説明と結びつき、袋井のあるお寺に向かってみました。 袋井市の妙日寺は、正慶元年(1332年)身延山 [続きを読む]
  • 随縁寺と共正寺 頼朝に配流された貫名氏
  • 寺島村(現・浜松市南区寺島町)に無住状態で寺号だけが残っていた普済寺(現・浜松市中区広沢)の前身だった随縁寺は、明治32年(1899)10月、村櫛の地に移され、再興する形で開かれました。この時、廃仏毀釈で廃寺となった宝谷寺の住職が、私財をなげうって買い取り、宿廬寺(浜松市西区庄内町)に預けられていた大日堂の大日如来像が須彌壇とともに移されました。当初、随縁寺は、村の中央にある上の山の中腹に建てられ、本堂は [続きを読む]
  • 五個荘(4)大城神社
  • 大城神社の創建は推古天皇29年(621)、聖徳太子が小野妹子に命じて金堂寺を開いた際、鎮守社として勧請されたのが始まりとされます。 嘉慶2年(1170)に現在地に遷座し、高皇産霊神、伊邪那岐命、出雲路幸神、天児屋根命、天満宮、武内宿弥大臣を勧請合祀し、五個荘の産土神と仰ぎました。 文亀3年(1503)には当時の地頭・那須興市が金堂寺を改修した際家運長久を祈願し、近江の守護職・佐々木氏の居城観音寺城の鬼門に位置してい [続きを読む]
  • 五個荘(3)近江商人屋敷
  • 五個荘まで来たついでに、近江商人屋敷のエリアを散策しました。 重要伝統的建造物群保存地区の五個荘金堂町には、五個荘商人の本宅を公開している施設があります。 外村宇兵衛邸 外村宇兵衛家は、五個荘商人として活躍していた外村与左衛門(6代)の末子が、分家して興したものです。  文化10年(1813)に与左衛門との共同事業から独立して商いを始め、努力の末に東京・横浜・京都・福井などに支店を有し呉服類の販売を中心に [続きを読む]
  • 五個荘(2)浄栄寺
  • 錦鯉が泳ぐ水路のある通りは、鯉通りと呼ばれ、この通り沿いには、浄栄寺というお寺があります。 こちらは、「金堂」という地名の由来に関わる寺院です。 寺伝によると、聖徳太子がこの地を訪ねた際、不動坊という僧とともに、大きな金堂を建立した。これにより村の名前を「金堂」としたという。 この時、聖徳太子と行動をともにした不動坊は不動明王の化身とされ、不動院を建立。その後、不動院は荒廃してしまったが、宝治元年 [続きを読む]
  • 五個荘の町(1)那須与一の孫・愚咄ゆかりの弘誓寺
  • 五個荘町の古い町並みが続く金堂(こんどう)地区にある浄土真宗大谷派の古刹・弘誓寺は、本願寺三世覚如上人の高弟で、那須与一の孫・愚咄(ぐとつ)を開祖とし、正応3年(1290)に創建されました。 正応5年(1292)には現在の寺号を受け、その後神崎郡躰光寺(たいこうじ)村に移り、天正9年(1581)には現在地の金堂に移転。 敷地は移転してきましたが、本尊と祖師親鸞上人真影は、代々受け継がれてきています。滋賀県下で2番目 [続きを読む]
  • 那須与一ゆかりの即成院
  • 泉涌寺塔頭の即成院は、伏見長者と称された橘俊綱の創建で、元伏見大亀谷に所在していましたが、明治維新の廃仏毀釈で無住となり、泉涌寺塔頭の法安寺と合併し、明治35年に現在地に移されました。ご本尊の阿弥陀如来坐像と二十五体の菩薩像が安置されています。     山門                本堂    地蔵堂即成院は那須与一ゆかりの寺とされ、京都で病にかかった与一が、即成院の阿弥陀如来に祈願したところ [続きを読む]
  • 後白河天皇ゆかりの今熊野観音寺
  • 泉湧寺の塔頭の一つに今熊野観音寺があります。 本尊は十一面観音(秘仏)、西国三十三所第十五番札所。 大同年間(806年〜810年)、熊野権現のお告げを受けた空海がお堂を建てたのが始まりで、その後、藤原緒嗣が伽藍を造営したと伝えられています。本堂                  大師堂 熊野権現を篤く信仰していた後白河天皇が今熊野の地に熊野那智権現を勧請したので新那智山とも呼ばれています。 頭痛持ちで苦し [続きを読む]
  • 新年のご挨拶
  • 昨年も当ブログへのコメント&応援ありがとうございました。 今年もよろしくお願いします。 応援のポチッのご協力お願いします。 にほんブログ村 偉人・歴史人物 ブログランキングへ [続きを読む]
  • 滝口寺(2)横笛高野山へ
  • 次に横笛が訪ねて来たら心が動いてしまうかもしれないと思った入道は、嵯峨 から高野山へと移って行きます。 ある日、横笛は入道が高野山にいることを知ります。想いを捨てきれない横笛は、女人禁制の高野山にに一番近い天野の里へ移ります。しばらくして、入道もまたある僧から天野の里の横笛の話を聞き、彼女に歌を送ります。 そるまでは 恨みしかど梓弓 真の道に入るぞうれしき それに対して、横笛は そるとても 何か恨まん [続きを読む]
  • 滝口寺(1)滝口入道と横笛
  • 祇王寺からさらに石段を奥に進むと滝口寺につきあたります。 滝口寺は、武士の身分から仏門に入った滝口入道と、建礼門院の仕女・横笛の悲恋の舞台として知られています。 平重盛に仕えていた斉藤時頼は、建礼門院に仕える身分の低い横笛に恋していました。しかし、時頼の父は、時頼を身分の高い女性を結ばせたかったので、横笛とのことを反対していました。時頼は、父にそむくこともできず、横笛との実らぬ恋に絶望し、仏門に [続きを読む]