あきおう さん プロフィール

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あきおうさん: 城めぐりチャンネル
ハンドル名あきおう さん
ブログタイトル城めぐりチャンネル
ブログURLhttps://akiou.wordpress.com/
サイト紹介文全国のお城訪問記を写真満載で掲載しています。編集方針は「行った気になる臨場感溢れる写真とレポート」。
自由文編集方針は「行った気になる臨場感溢れる写真とレポート」です。百名城スタンプやお城メダルも取り扱っています。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供77回 / 365日(平均1.5回/週) - 参加 2013/09/13 17:52

あきおう さんのブログ記事

  • 鳥羽山城 [2/2] 本丸外周部の腰巻石垣などは夏場は草に埋もれ見えない。
  • 鳥羽山城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]本丸南の駐車場より散策開始。大手道から外枡形を経て本丸へ。夏場の訪問のため草に覆われて石垣があまり見えないが、立派な居館が建てられていたことは感じられる。其の二では本丸内部の散策と、本丸外周部に残る石垣を探してみます。訪問時期:2018年8月鳥羽山城 訪問記 − 其の一、二。<訪問記>鳥羽山城 図面を再掲。現在は本丸南側の大手門を入ったところにいる。図面には描 [続きを読む]
  • 鳥羽山城 [1/2] 二俣城の川向かいに建つ「別城一郭」の城館跡。
  • 鳥羽山城は、二俣城の川向かいに位置する独立丘陵上に建てられた山城。天正三年(1575)に徳川方が武田方の二俣城を攻めるための砦として築いた記録が残るが、それ以前に永禄三年(1560)の桶狭間の戦い後に今川方が築いていた説もある。二俣城からわずか500mの位置にある鳥羽山城はその立地から徳川氏と武田氏による度重なる合戦の舞台となった。徳川氏の関東転封で豊臣方の堀尾氏が城主となると、鳥羽山城は居住・政治の場として再整 [続きを読む]
  • 二俣城 [3/3] 復元された井戸櫓と信康公廟のある清瀧寺へ。
  • 二俣城 訪問記 其の三。[前回までの訪問記 概要]二俣城跡を散策。かつて本丸の外周を囲んでいたと思われる石垣は多くが崩れ去っていたが、それでも天守台や大手虎口櫓台の石垣などは良好に其の姿を留めていた。続いて、かつて天竜川から二俣城へ水を汲み上げるために用いられていたという井戸櫓(復元)と、二俣城で自刃した家康の嫡男 松平信康公の墓所がある清瀧寺へ向かいます。訪問時期:2018年8月二俣城 訪問記 − 其の一、二 [続きを読む]
  • 二俣城 [2/3] 急斜面の上に築かれた巨大な大手虎口へ。
  • 二俣城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]かつての堀切跡に作られた山腹の駐車場から城内へ。堀切、馬出しを越え、食い違い虎口から本丸へ。城内の石垣は多くは崩れているが天守台は(整備されているからか)キレイに積み上げられている。其の二では二ノ丸から大手虎口跡を経て、西曲輪を散策します。訪問時期:2018年8月二俣城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>本丸南側に残る虎口跡。右側の一段低い場所が二ノ丸跡だ [続きを読む]
  • 二俣城 [1/3] 二本の川に囲まれた要衝の地で武田徳川の激戦地。
  • 二俣城(ふたまたじょう)は、浜名湖の東を流れる天竜川とその支流の二俣川に挟まれた台地の先端部、比高40mほどの岩盤上に築かれた城。信濃と遠江とを結ぶ水上交通の要所であり、今川氏 武田氏 徳川氏などがここを抑えようと戦った。三方を河川が囲む岩盤上に築かれた天然の要害に築かれており、1572年の信玄上洛戦や1575年の長篠合戦後の徳川方による攻撃でもその堅固ぶりが発揮されている。1579年には信長から武田方への内通を [続きを読む]
  • 浜松城 [3/3] 籠城時の生命線だった天守台の地階に残る石組井戸。
  • 浜松城 訪問記 其の三。[前回までの訪問記 概要]主要部のみが整備されて残る浜松城へ。天守台の一段下にあたる本丸の石垣は改変されているようだが、そこから間近に見える天守曲輪の野面積み石垣が荒々しく迫力満点。復元された天守門を越えて、巨大な野面積み天守台に乗る小さな模擬天守へ。当時の附櫓台跡を通って中に入る。訪問時期:2018年8月浜松城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>では浜松城の模擬天守へ入ってみよう [続きを読む]
  • 浜松城 [2/3] 巨石が配された天守門と天守附櫓の石垣が見所。
  • 浜松城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]元二ノ丸の市役所駐車場からスタート。以前は模擬天守がよく見えたが天守門が再建され重なって見えなくなってしまった。本丸部分が公園化された浜松城跡へ。荒っぽく割られたままの石材を積み上げた野面積み石垣が満載。若き日の家康像を見てから、最上部の天守曲輪へ。訪問時期:2018年8月浜松城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>本丸と天守曲輪の間の帯曲輪的なスロープへ。 [続きを読む]
  • 大垣城 [2/2] 公園化で改変された本丸を歩いて当時の姿を探る。
  • 大垣城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]駅から歩いて大垣城へ。当時の巨大な水堀は埋め立てられ、そのまま歩いて本丸へ。米軍の無差別爆撃により焼失した天守が外観復元されている。中はコンクリート丸出しではあるが展示は古絵図にムービーにジオラマにとなかなか見所が多い。其の二は大きく改変されてしまった本丸跡を見て回ります。訪問時期:2018年5月大垣城 訪問記 − 其の一、二。<訪問記>天守最上階へ。展望台か [続きを読む]
  • 小倉城 [1/2] 南蛮造りの大天守を持つ総石垣の近世城郭。
  • 小倉城は、本州から関門海峡を越えて九州に入ってすぐの街 小倉に建てられていた近世城郭。関ヶ原の論功行賞で豊前40万石を得た細川忠興が、改易された毛利勝信・勝永親子の居城だった城を改修し、大天守を持つ現在の姿に変えたという。当時は東を流れる紫川の東側、現 小倉駅あたりも取り込んだ一大城郭だった。大天守は破風の無い層塔型かつ最上階が下層より広い「唐造り」というとても特徴的で稀有な構造だったが、江戸後期に焼 [続きを読む]
  • 忍城 [3/3] 街中に建てられた忍城石碑めぐり。
  • 忍城 訪問記 其の三。[前回までの訪問記 概要]レンタサイクルを借りて忍城本丸跡から街中に建てられた石碑めぐり。かつて城を囲んでいた沼地のほとんどは埋め立てられ住宅街に。それでも場所を比定して街中に石碑が建てられている。其の二は西半分の門跡・櫓跡をめぐった。其の三では東半分を回ろう。訪問時期:2018年9月忍城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>忍城 石碑マップ 再掲。其の二では左半分をめぐった。中学校の校 [続きを読む]
  • 忍城 [2/3] 本丸跡に残る外周土塁の一部と藩校表門。
  • 忍城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]駅近くでレンタサイクルを借りて登城スタート。まずは資料館からの三階櫓へ。かつては湿地帯に点在する沼の間に建てられた城だったが、大半が埋め立てられ往時の面影は無い。其の二では本丸に現存する土塁跡を見に行きます。訪問時期:2018年9月忍城 訪問記 − 其の一、二、三。<訪問記>資料館のちょうど奥に当たる位置に移築された門。武家屋敷の表門だったが、その前は藩校「進修 [続きを読む]
  • 忍城 [1/3] 映画のぼうの城の舞台として有名になった「浮城」。
  • 忍城(おしじょう)は関東北部の湿地帯に築かれた平城。沼地に点在する島を橋で繋いだ、大変堅固な城だったという。秀吉の小田原攻めの際に城主の成田氏は籠城し、石田三成率いる豊臣方が水攻めを行うも落城しなかったエピソードが映画「のぼうの城」で取り上げられたことで一躍有名となった。江戸期に改修され絵図等で伝わる縄張りが完成したと言われるが、明治の廃城後に城を囲んでいた水堀のほとんどは埋め立てられた。現在は主 [続きを読む]
  • 松ヶ嶽城 [2/2] 三ノ丸南に残る僅かな石積み跡と、堀切に散乱する巨石群へ。
  • 松ヶ嶽城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]古刹 竹林寺を軽く散策し、近隣の有力国人領主だった平賀氏一族の墓所をお参りした後、松ヶ嶽城を目指す。分かりやすい鳥瞰図が描かれた説明板を見てから、山道を奥へ。梵字石を越えて奥へ進むと、土橋の先に主郭への入口が見えてきた。訪問時期:2018年4月松ヶ嶽城 訪問記 − 其の一、二。<訪問記>説明板の脇にある坂道から、切岸の上へと上がる。いきなり主郭側に出てしまうの [続きを読む]
  • 松ヶ嶽城 [1/2] 奈良時代建立の古刹 竹林寺の支峰に築かれた中世山城。
  • 松ヶ嶽城は東広島の山中深くに築かれた中世の山城で、現在 竹林寺が建つ標高450mの篁山の支峰山頂にある。地誌によると南北朝期から室町期にかけて地頭 入野氏の居城とされ、険しい山中に堀切や急峻な切岸に守られた階段状の削平地が造られている。曲輪の周囲法面にはわずかに石積跡が残り、山頂には石積井戸も残る。<基本データ>●名称:松ヶ嶽城 (まつがたけじょう)●所在:広島県東広島市河内町 (地図)●城主:入野民部少輔貞 [続きを読む]
  • 御薗宇城:高い土塁に囲まれた安芸国人領主の城館跡。
  • 御薗宇城(みそのうじょう)は、安芸国の有力国人領主・平賀氏の居城(居館)跡で、小山の上の平場を高い土塁で囲んだ、甲賀地域でよく見られるような居住性と防御性を兼ね備えた館城であったようだ。室町時代に一時期 安芸国の守護となった山名氏から1403年に攻撃されているが、3年もの間耐え、撃退したという。1300年頃から1500年頃まで平賀氏の本拠地として維持されていたが、その後 より山城化した白山城へ本拠を移したと言わ [続きを読む]
  • 鏡山城 [2/2] 巨石に守られた御殿場(1郭)へ。
  • 鏡山城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]広島大学 東広島キャンパスの横にある鏡山公園へ。湖の奥にある山頂が鏡山城跡だ。城内はハイキングコースとして整備されており、登りやすい山道をあがって山上を目指す。土橋や堀切が見どころ。井戸のある急峻な切岸の上に造られた5郭、大手門跡とされる4郭へ。其の二では主郭および北の畝状竪堀群を見に行きます。訪問時期:2018年4月鏡山城 訪問記 − 其の一、二。<訪問記>4 [続きを読む]
  • 鏡山城 [1/2] 西国の守護大名 大内氏の拠点だった巨大山城。
  • 鏡山城は室町時代に瀬戸内西部の守護大名だった大内氏の拠点で、一時は六カ国もの守護を務めた。鏡山城は安芸国支配の拠点として築かれ、細川氏や尼子氏との争いの場となった。1523年の鏡山城の戦いでは尼子氏に従っていた毛利元就が鏡山城を攻め落としている。2年後に大内氏は鏡山城を奪還するも、拠点はより急峻な杣城に移され、鏡山城は廃城になったとされる。現在、一帯は鏡山公園として整備され、西には広島大学キャンパスが [続きを読む]
  • 山手銀山城:明瞭な畝状竪堀群や石垣が残る杉原氏の山城。
  • 山手銀山城は戦国期の備後国人領主・杉原氏が築いた中世山城で、畝状竪堀群や石積みなどが良好に残っていることが特徴である。杉原氏は神辺城を中心に南備後でかなりの力を持つに至ったが、天正期に毛利氏により滅ぼされてしまう。銀山城はその頃に廃止になったようだ。現地に説明板や登山口などの案内は一切なく、林道から直接 斜面を上がる形の登城となる。<基本データ>●名称:山手銀山城 (やまてぎんざんじょう)●所在:福山 [続きを読む]
  • 相方城 [1/2] 細長い山頂に所狭しと高石垣が築かれた国人領主の山城。
  • 相方城(さがたじょう)は備後国(広島県福山市)の国人領主・宮氏やその一族の有地氏らによって築かれた山城で、急峻な山頂にも関わらず総石垣の曲輪を持つ堅固な近世山城である。有地氏は領地替えにより天正末期頃(1591年頃)に当地を去り、後は関ヶ原後に毛利氏が備後から撤退するまで毛利氏の統治下だったとされる。毛利氏の撤退により相方城も廃城となった。標高200mほどの山頂に巨大な堀切で分断した東西の曲輪群が築かれ、 [続きを読む]
  • 三原城 [2/2] かつて海に面していた船入櫓跡から中門跡へ。
  • 三原城 訪問記 其の二。[前回までの訪問記 概要]小早川隆景の海城・三原城へ。まずは駅舎から天主台を見学、駅の北側にほぼ往時のまま残る堀越しに天主台をじっくりと見て回る。後藤門石垣が復元されるなど整備が進んでいる。其の二では断片的に残る三原城の痕跡を求めて街を歩く。訪問時期:2018年4月三原城 訪問記 − 其の一、二。<訪問記>まずは案内板に掲載の絵図を使って、これから訪れる場所をご紹介。天主台の東に残る川 [続きを読む]
  • 三原城 [1/2] 小早川隆景が水軍の拠点として築いた巨大海城
  • 三原城は毛利家の重臣・小早川隆景が三原湾の島を繋いで水軍の拠点として築いたのが始まりとされ、やがて村上水軍の居る芸予諸島の北端という三原の立地が水軍統括上で重要になってくると、旧来の中世山城だった新高山城から居城を移し、更に改修を続けた。小早川氏転封の後は福島氏や浅野氏などが城主となり、広島藩の支城として江戸期を通じて維持されたが、明治の廃城令により建物はすべて撤去された。本丸上には山陽新幹線 三 [続きを読む]