経堂薫 さん プロフィール

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経堂薫さん: RAMBLE JAPAN
ハンドル名経堂薫 さん
ブログタイトルRAMBLE JAPAN
ブログURLhttp://ramblejapan.seesaa.net/
サイト紹介文日本各地をブラブラ見て歩いた旅行記です。
自由文古き良き日本の面影を探して、北は北海道から南は九州沖縄まで彷徨い歩きます。しかし自家用車は使いません。利用するのは鉄道、バス、航空機、フェリーなど公共交通機関と、自分の足のみ。レンタカーも使いません。タクシーは、ピンチの時に使うかも。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供67回 / 365日(平均1.3回/週) - 参加 2013/10/30 16:19

経堂薫 さんのブログ記事

  • 飛騨國一之宮[水無神社]32
  • 国分寺は天平13(741)年、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため勅願を発して各国ごとに建てた官寺。だが、今でも諸国に存在する一之宮に対し、国分寺は結構な数が既に消滅している。もともと国分寺は疫病や飢饉、反乱などの厄災を、仏教の力で封じ込めるために生まれたもの。時代が貴族社会から武家社会に移り、権力者が変転するにつれて国分寺の存在意義も薄れていく。中には廃寺になるものが現れても不思議ではない。なお、現存す [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]30
  • 幹にポッカリ空いた洞 [うろ]に石仏が祀られている。天平時代、七重の塔が建てられた時のこと。大工の棟梁が柱の寸法を誤って短く切ってしまい、とても悩んでいた。一人娘の八重菊は、柱の上に枡組を作って長さを補うことを提案。塔は無事に完成し、枡組は装飾の役割も果たし、その出来栄えは評判を呼んだ。しかし父親は「枡組」の真相が漏れて自身の名誉が損なわれることを危惧。八重菊を口封じのため殺し、人柱として境内に埋め [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]29
  • 山門をくぐって境内に入ると、正面に鐘楼堂、その左奥に大銀杏、突き当たりに本堂。大銀杏の左側には庫裏と太子堂、右側には三重塔と枯山水の庭が広がっている。飛騨国分寺は天平18(746)年に創建された飛騨国最古のお寺さん。開基は行基菩薩と伝わっている。創建時は境内に七重塔、金堂、仁王門などが立ち並ぶ壮大な伽藍が広がっていたそう。だが天正13(1585)年、金森長近の飛騨松倉城攻略に巻き込まれ被災。その後、飛騨の領主と [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]28
  • 平日の真っ昼間だというのに三町重伝建地区は国内外の観光客でごった返している。江戸時代と変わらない道幅に大勢の観光客が押し寄せているので、明らかにオーバーフロー気味。ゆっくりと建造物を見て回るどころの話ではない。高山駅へ引き上げるべく橋を渡ろうとした刹那、袂に佇む石碑が目に止まった。「高山の夜」と刻まれたその石碑は、昭和45(1969)年に発売された御当地ソングの記念碑。岐阜県を地盤に活動する演歌歌手、しい [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]27
  • 現在、三町には6つの造り酒屋が軒を連ねている。そのいずれもが現役の酒蔵として、古ぼけた重伝建の街並みに生命の息吹を与えている。ただ、扱う酒は清酒がほとんどで、あってもにごり酒かおり酒、水無神社の特区にあった濁酒はない。それにしても決して米どころではない飛騨で、なぜ酒造りが盛んになったのだろうか?酒造りには寒冷地が適していること、飛騨山脈=北アルプスの良質な水に恵まれたこと。商業が産業の基軸だけに近 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]26
  • 濃尾バスで再び高山駅に戻る。昨夜は暗くて分からなかったが、陽光の下で見る駅舎の外観はモダンな印象。随分と前に訪れた際の記憶に残る駅舎の面目は、どこにも見当たらない。やはり外国人観光客を意識してのデザインなのだろうか?次の目的地へはJRを利用しないので、このまま高山駅とはサヨナラだ。せっかく飛騨高山まで足を運んだことだし、まだ時間にも若干の余裕がある。そこで三町伝統的建造物群(重伝建)保存地区を散策し [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]25
  • 水無神社を後にし、再びバス停に戻ってきた。悪代官といえば「水戸黄門」などの時代劇で欠かせない存在。だが、こうして現実的な存在感を目前に突きつけられると、物語の一要素に過ぎない“敵役”という認識を改めざるを得ない。というか、現代社会でも社会的地位を利用して私腹を肥やす政治家や官僚は後を絶たないし、むしろ江戸時代に比べても「悪政」に対する罪の意識が薄いのではなかろうか?切腹とか打首といった命を取られる [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]24
  • 大原騒動を引き起こした悪政は彦四郎の息子、大原亀五郎正純へと引き継がれた。しかも職権濫用によるワルさの度合いがパワーアップ。例えば過納金(農民に米一俵につき30〜50文を過納させ、後で返す金)を返さないとか。幕府が天明の大飢饉対策として農民に免除した分の年貢を取り上げて私腹を肥やすとか。あげくに飛騨三郡の村々から総額6000両という大金を借り上げた。借りた…というより、ハナから返す気などサラサラなかったの [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]23
  • 来た道を引き返し、大鳥居の前をグルリと回り込み、絵馬殿の裏を抜けて境内の北側へと向かう。奥の駐車場から来る場合この北参道を抜けると、わざわざ正面に回ることなく楼門の前に出ることができる。参道には資材を積んだ軽トラックが停まり、業者の男衆が来るべき正月の初詣に向けて黙々と作業を続けている。だが北参道には進まず、山の方角へ続く道に向かう。ここまでたびたび登場している“聖地”位山。その名称は樫の木の一種 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]22
  • 大祭の看板や賽銭箱を眺めているうち、いつしか境内から出ていた。鳥居をくぐった先を左手に向かうと、道標[みちしるべ]が立っている。 右 位山道 左 宮峠道幾度か登場している位山は日本を表裏に分かつ分水嶺。ここから「水の主」水無大神の坐す聖域と見做され、奥宮が鎮座している。古来から霊山として名高い位山の山中には巨石群が存在する。人為的に築かれた遺跡という見方もあるなど、かつては神秘的な霊場だったと考 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]21
  • そのルーツは、やはり「大原騒動」。安永8(1779)年、一揆で荒廃した社殿の大造営竣工を記念して行われた遷座奉祝祭にある。飛騨国中の代表神社から神輿や祭り行列を招請し、3日間にわたって催行された。天下泰平や五穀豊穣などを祈願する一方、大原騒動で疲弊した飛騨の人々の心機を奮い起こしたそうだ。「世相の凶[あ]しきを吉に返す世直しの大まつり」この謳い文句こそ「飛騨の大祭」の本質を現しているだろう。以来、飛騨各地の [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]20
  • 境内へ入ってすぐ左側に大きな建物がある。絵馬殿。その名の通り内壁には数多くの絵馬が掲げられている。縦6本×横5本の柱が巨大な屋根を支えている。壁は上部にしかなく、下部は吹き抜けだ。棟札によると建造は慶長12(1607)年。当時の高山城主、金森長近が造営したと記されている。大原騒動の後遺症で両部神道が唯一神道に改められた際、仏教関係の一切が破却、移転、改築された。そんな中、取り壊しを免れたのが拝殿だった。江 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]19
  • 楼門の向こう側、左手すぐのところに巨大な老木が立っている。推定樹齢およそ800年という銀杏[いちょう]の大木だ。落雷によって上部が欠損しているが、折れた場所から若枝が繁茂。櫟[いちい]などの宿り木を抱え、もう何の木やら分からないほどの枝ぶりだ。枝からは銀杏特有の乳[ちち]が垂れ、その姿は優しげな母親の面影を連想させる。そのせいか古くから子授け、安産、縁結びに霊感あらたかな御神木として信仰されているという。 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]18
  • 拝殿正面の左右に青銅製の灯篭、その外側に狛犬、その更に外側に石灯籠が立っている。この石灯籠は幾度も登場している代官の大原彦四郎が安永8(1779)年に寄進したものだ。言うまでもなく彦四郎は江戸時代屈指の百姓一揆「大原騒動」の元凶(?)となった代官。歴史上の呼称は「安永騒動」だが、代官の姓をとって「大原騒動」と呼ばれているところに一揆の根深さを感じる。だがしかし、彦四郎は一揆の鎮圧と大増税による年貢収入アッ [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]17
  • (「両面宿儺」像/円光作/飛騨千光寺蔵)両面宿儺とは5世紀初頭ごろ、乗鞍山の麓に住んでいたとされる伝説上の怪人。その姿は『日本書紀』仁徳天皇65年条に描写されている。 ひとつの胴体と、背中合わせになった前後ふたつの顔面。 ふたつの顔は頭頂で一つになるので、項[うなじ]はナシ。 足に膝[ひざ]はあっても膕[よほろ=膝の後ろの窪み]はナシ。 力持ちで敏捷で、左右に剣を帯び、左右2組(計4本)の手で2組の弓 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]16
  • 主祭神の御年大神とは大年神[オホトシノカミ]のこと。古事記には須佐之男命[スサノオノミコト]と、大山津見神[オホヤマツミノカミ]の娘である神大市比売[カムオホイチヒメ]との間に生まれた神と記されている。大年神の「年」とは祈年祭[としごいまつり]の「とし」を意味し、豊年を司る霊力の象徴。祈年祭とは神祇官が陰暦の二月四日、国庁で豊作を祈願して催行していた祭りのことだ。大年神は民俗信仰の「年神様」と、ほぼ同一の神 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]15
  • 騒動の発端は彦四郎が幕命により検地の強行、年貢の増徴など過酷な圧政を敷いたこと。彦四郎の度重なる約束の反故もあって農民たちの怒りは沸騰。直訴や駕籠訴[かごそ]に及ぶも全く聞き入れられず、やがて打ち壊しなど行動が過激化していく。また、農業生産能力に乏しい飛騨では山に住む領民達が「御用木元伐[ごようぎもとぎり]」といって、幕府の管理する山から材木を切り出す報酬として米や賃金を受け取り生計を立てていた。とこ [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]14
  • 短い石段を上がると中央に楼門が立ち、左右に透塀が連なっている。しかし入り口には大きな賽銭箱が立ちふさがり、立ち入れるのはここまで。さて、新たに高山藩主となった金森長近は水無神社の御神威を崇敬。慶長12(1607)年には近隣の農民に命じて普請を手伝わせるなどして再興を図ったという。潮目が変わったのは元禄5(1692)年、六代頼?[よりとき]の時。金森家は出羽国上山[かみのやま]へ移封となり、飛騨は天領となった。転封の [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]13
  • それはさておき、付近の地名を「一之宮町」と呼ぶぐらい、水無神社の歴史は古い。創建は神代と伝わっているが、太古の記録が散逸しており詳細な歴史は不明だ。最古の記録は貞観9(867)年に従五位上の神位を授けられた…というもの。元慶5(881)年には従四位上まで累進。平安時代中期に編纂された格式『延喜式[えんぎしき]』でも小社に列せられている。鎌倉時代に入ると神仏習合の影響を受けて「水無[みなし]大菩薩」を称するように [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]12
  • 歌碑の隣に摂社がひとつ鎮座している。社号は「白川神社」。この「白川」とは世界遺産にも指定されている合掌造りの里、白川郷。正確には岐阜県大野郡白川村のことだ。昭和32(1957)年に白川村で建設が始まった、本格的ロックフィルダム「御母衣[みぼろ]ダム」。ロックフィルダムとは岩と粘土だけで巨大な壁を築き、水を貯める方式のダムだ。同35(1960)年、東洋一の規模を誇る「御母衣ダム」は完成。しかし、偉業への代償とでもいう [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]11
  • 黒駒の隣には木彫りの白駒が立っている。こちらの作者は飛騨の工匠、武田万匠。元々は黒駒だったが、明治15(1882)年に宮司が色を白に塗り換えた。その際、腹部に武田の銘が発見されたという。その昔、深夜に神社から馬の嘶[いななき]と蹄の音が聞こえる。様子を見に行くと拝殿に神馬が放っぽり出されいることが度々。これは「神様が神馬で夜な夜なお遊びなっているのだ」と噂が。ここから「いななき神馬」という名が付いたそうだ。 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]10
  • 「拗の木」の奥に太い杉の木が立っている。推定樹齢およそ800年という老杉ながら、樹高45m、枝張り幅20m、目通り6。45mという巨大さ。昭和38(1963)年9月10日には県の天然記念物に指定されている。天然記念物としてより、水無神社の謎に包まれた歴史を見続けてきた生き証“木”としての価値のほうが遥かに高い。もちろん、もしこの老杉と会話できればの話だが。老杉の影に、まるで隠れているかのように小さな御社が佇んでいる。 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]09
  • 境内に視線を向けると神社にありがちな朱色の彩りがまるでない。隅から隅まで薄墨で描かれたようなモノトーンで統一されている。飛騨一ノ宮駅の赤屋根は水無神社のどこを見て塗られたのだろう?直接の関係は無いのかも知れないが、赤屋根が間抜けに思えてくるから不思議だ。鳥居をくぐって境内に入ると、右側に妙にねじれた木の幹がある。正確には幹の途中でバッサリ伐られた根の部分。それでも目通り(立っている人間の目の高さの [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]08
  • 益田街道を渡り、来たとき背を向けた水無神社の参道を進む。奥に鳥居が立ち、その中から黒々とした社殿が覗いている。手前には「常泉寺川」という細い川が流れ、上には小ぶりな「神橋」。神橋は大きな神社に付き物だが、ここの神橋は一般道に架かる普通の橋だ。現在、整備工事が行われている。来るべきお正月に備えているのだろう。橋を渡ってすぐ右手に巨大な石碑が立っている。表には「大原騒動 一宮大集會之地」の文字。大原騒 [続きを読む]
  • 飛騨國一之宮[水無神社]07
  • 跨線橋を経て再び駅舎の前へ戻り、水無神社の方角を見る。まだ「臥龍桜」駅と改名したほうが、観光客にアピールできるのではないか? と思ったが。鉄道の、特に各駅停車の普通列車に観光アイテムとしての役割を期待する時代など既に終わっている。莫大な費用をかけて改名したところで、観光に寄与する効果などタカが知れているのかも知れない。そんなことを思いながら飛騨一ノ宮駅を後にした。駅前に「源流の里」と刻まれた大きな [続きを読む]