nekozou さん プロフィール

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nekozouさん: 天海山河
ハンドル名nekozou さん
ブログタイトル天海山河
ブログURLhttp://take-s-tosanyanko.blog.so-net.ne.jp/
サイト紹介文時は戦国乱世、南海僻陬に滅亡の危機から家を興し、己が器量で国を切り取り、天下一統を志した蛮酋がいた。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供32回 / 365日(平均0.6回/週) - 参加 2013/11/10 11:34

nekozou さんのブログ記事

  • 海2章 戸ノ本(その五)
  • 縦に伸びていた本山の陣形は、激しい地鳴りとともに大きくくの字に曲がり、真っ二つに引き裂かれた。 右辺に構えていた茂辰は大きく煽られ、浜際まで押しやられた。 この時、池添源兵衛は大窪美作守の息子、勘十郎を討ち取り、東四郎右衛門という者は吉良民部の御首級をあげた。 浜田久左衛門は豪傑で知られる宇賀平兵衛と組討ちし、平兵衛あわや首を討たれんとするところ、郎党が加勢して、久左衛門の首を討ち取った。 そ [続きを読む]
  • 海2章 戸の本(その四)
  • 既に午の刻三つである。 本山勢がやや押し始め、木戸めがけて群がった。 土埃が舞い上がり、軍馬は嘶き、兵卒は轟を上げる。 本山勢は前のめりに、まさに木戸を蹴倒さんとする。 機は熟した。「今じゃ。」 弥三郎は谷忠兵衛に合図した。 忠兵衛は手に持つ黄色い旗を棹に掛けて、高々と天に向かって振り上げた。 紺色の月餅紋が蒼い空に靡いた。「何じゃ、あれは。」と、覚世が叫んだ。「大殿、大変のござりまする。若殿が [続きを読む]
  • 海2章 戸ノ本(その三)
  • 朝倉城では、本山茂辰が長浜の落城を知って驚いた。「殿、これが信濃守の本性にございますぞ。」と、吉井修理亮が言った。「すぐにでも出陣じゃ。」 茂辰は周章てて出陣の用意を命じた。「殿、焦りなさいますな。ここは岡豊を攻めるが宜しかろう。」と、修理亮が進言した。すると、中島新助という重臣が、「敵は寡兵にして、我が領分の内にあり。この朝倉には二千の兵がおれば、大軍をもって長宗我部を討つべし。西より攻め立てれ [続きを読む]
  • 海2章 戸ノ本(その二)
  • ひょっこりこのような形でついてきたとはいえ、親信には一つ疑問がある。 なぜ、弥三郎は城を守らず戦に向かおうとしているのだろうか。初陣で弥五郎に遅れまいと焦りでもあるのか。 しかし、覚世が留守の岡豊城は本山にとって格好の標的である。そこで戦もできるというものだ。いずれにしろ、遅かれ早かれ初陣となろう。 覚世も何をしでかすか分からない弥三郎を戦場に連れていくよりは、城に置いて守らせたほうがましだと思 [続きを読む]
  • 海2章 戸の本(その一)
  • ある夜のこと、街道の辺りをからからと鈴の音が鳴り響いた。 親信は、はたと起き上がった。 すると、向かいの桑名の屋敷が騒がしくなった。 出陣の合図である。 親信が縁側に出ると、生け垣の向こうで桑名の家人たちが松明を灯し、慌ただしく出立の準備を始めていた。 親信にはそれが羨ましかった。 だが、己には己の勤めがある。 と、親信は己を言い聞かせた。 この時、親信の父、肥後守則義は出家して昌源と号していた。 昌源は [続きを読む]
  • 海1章 姫若子(その四)
  • そうそう、この三年で槍の稽古はさっぱりだったが、弥三郎にはちょっとした収穫があった。 一宮村の住人の谷兄弟と知り合えたことだ。 兄は忠兵衛忠澄といい、高賀茂大明神の神官で、弟は非有斎という滝本寺の僧侶である。 特に忠兵衛とはうまが合う。 忠兵衛は背はそれほど高くはないが、気骨のある人物である。神官ということもあり、話をよく聞き、的確に答えてくれる。歳も弥三郎より五つ上で、親信とほぼ同じだが、何処 [続きを読む]
  • 海1章 姫若子(その三)
  • 元親の家督について、通説では永禄三年と言われているが、実際はそれより早く、弘治年間に元親は継承者として、国親と共に国分寺を再興している。 つまり、長宗我部親子は二頭政治に入っていたのである。 兎にも角にも、一番驚いたのは守役の福留儀実であった。 儀実は俄然やる気が出てきた。 儀実は槍を担いで、毎日、岡豊城に登った。 しかし、いつものごとく弥三郎に逃げられるばかりである。 と、言うのは儀実の側のこ [続きを読む]
  • 海1章 姫若子(その二)
  • 天文年間の末、岡豊城下では儒学が流行っていた。これは、学問を重んじた国親が奨めたもので、城下の兼序寺で月に数度、日を定めて講義が行われていた。兼序寺は、もとは常通寺という名であったが、弥三郎の祖父母、元秀と千歳の冥福を祈って、国親が再建したものである。そこへ吸江庵より儒僧を呼び、一門、家臣の子息のみならず、城下の童子、老若に関わらず、望む者には分け隔てなく享受した。当時、下野の足利学校や奈良の興福 [続きを読む]
  • 海1章 姫若子(その一)
  • 館の奥に、小さな明かり取りを付けた小部屋がある。棚には書物が積み上げられ、奥までぎっしりと並べられている。小窓のそばには小さな机があり、少年は日の光りを浴びながら、そこでうたた寝をしていた。麗らかな春の日和、すうっと小窓から温かく爽やかな風が吹き込む。少々青臭いか。少年はくしゃみをした。だが、目を覚まそうともせず、何やら寝言を言いつつ、そよ風に吹かれていた。「…伊予之二名島※は…愛比売(えひめ)と建 [続きを読む]
  • 29章 御畳瀬へ(その六)
  • 種崎へは二里半の途。 長宗我部軍が岡豊を発ったのは、もう日が変わった二十七日の子の刻二つ(0時過ぎ)であった。 覚世に続くは、吉田伊賀介重康、桑名丹後守重定、同藤蔵人、久武肥後守則義、中内藤左衛門、中島大和守親吉、長宗右兵衛親武など、名だたる兵である。 それに、初陣の左京進親貞、後詰めの周孝が続いた。 軍勢は、おおよそ一千。 夜露を払いながら、前へ前へと進んだ。 丑の刻を過ぎた頃、長宗我部軍は種崎 [続きを読む]
  • 29章 御畳瀬へ(その五)
  • 夕刻より降りだした雨は次第にその音を増し、戌の刻に至っていっそう激しくなった。 長浜の城では侍、大工が無礼講に酒を酌み交わしていた。 これより数刻まえのこと、右馬丞は長浜の東、御畳瀬というところにいた。 御畳瀬はよさこい節にも詠われる月の名所である。 するとそこへ、一人の漁師が魚を一掴みして歩み寄った。 「魚は如何でござろうや。」 と、漁師が訊ねた。「一ついただこう。」「一文でござる。」「文の穴 [続きを読む]
  • 29章 御畳瀬へ(その四)
  • 潮江の南、宇津野山を越えると、横浜という漁村がある。 そこから袙(あこめ)、御畳瀬、浦戸と続き、入江は大海に至る。 岩礁、小浜が入り組み、松を湛える小島と合わさって、実に風光明媚である。また、陽光の下のみならず、浦戸の瀬戸から上る小夜の月は余情を催す。 横浜水口山の城主、水口次郎左衛門はしばしば領内を見回っていた。 そもそも、次郎左衛門は本山氏の譜代の臣ではない。 父、弥惣左衛門は津野氏の家臣 [続きを読む]
  • 29章 御畳瀬へ(その三)
  • 覚世からの詰問状に目を通した本山茂辰は仰天した。 「殿、岡豊殿は何とお申しか。」 と、吉井修理が訊ねた。「義父殿は大いにお怒りじゃ。此度のこと、わしの心底より起こったと申しておる。」 と、茂辰は詰問状を修理に渡した。 修理は一読すると、「殿、これしきの事、捨て置きなされ。」 と、言った。「捨て置ける訳がなかろう。岡豊殿とわしは義親子の間柄、貞茂も元服し、いずれは家督を継ぐ。さすれば、我が家の血 の [続きを読む]
  • 29章 御畳瀬へ(その二)
  • 今日、県都である高知市は、その市街の大半が海の中にあった。 かつては高知城のそばまで海が迫り、比島、高須、知寄町(国沢)辺りが海面より浮き出ていたぐらいで、浦戸の瀬戸より入り込んだ海水が大きな入江をつくっていた。 その一角に孕という所がある。 今は浦戸湾と呼ばれ、ヘチマのように南北に伸びた形であるが、覚世が生きた頃、この入江は浦戸の瀬戸を鶴頸に瓢箪を逆さまにしたような形をしていた。 そのくびれ目が、まる [続きを読む]
  • 29章 御畳瀬へ(その一)
  • 土佐の沖を一隻の帆掛け船が西から東へとゆっくりと進んでいた。 この船の主は高島与十郎という若い商人である。 この時、与十郎は頭を抱えていた。 それはこの船の中を見れば一目瞭然である。 いつもであれば白磁青磁、米を積み、数艘の荷船を従えて急いでいるところを、この度はがらんと空いた舟倉を与十郎は虚しく眺めていたのである。 当時、堺や都では白磁青磁は珍重され、また畿内では戦乱で田畑が荒れ果て、米が不作となっ [続きを読む]
  • 28章 漁夫の利(その四)
  • この頃、一条氏や本山氏が戦に明け暮れる中、長宗我部氏は五年のあいだ大した戦もなく、平穏そのものであった。 覚世に至っては寺奉行として吸江庵の山争いを解決するなど、まさに順風満帆であった。「長らく戦をしておらぬな。」と、覚世が言った。「おかげで蓄えも出来申した。」と、周孝が岡豊城の米蔵を指差した。「叔父貴、そろそろ背後を固めておきたいのだが。」と、覚世は言った。「背後。」と、周孝はとぼけた。「叔父 [続きを読む]
  • 28章 漁夫の利(その三)
  • 弘治二(1556)年、覚世は水争いを口実に突如として土佐郡秦泉寺郷へ討ち入った。 秦泉寺城主の吉松(秦泉寺)掃部頭茂景は、あわてて朝倉に援軍を求めたが、義父との争いを憚った本山茂辰は、覚世の行動を不問に付した。 覚世の事前工作が功を奏したのである。 この茂辰の対処に、腸を煮えくりかえしたのは茂景であった。 吉松氏は清和源氏の流れを汲む名門で、かつては土佐吾川両郡にまたがる広い土地を有していたが、今は秦泉 [続きを読む]
  • 南予勢力図
  • 伊予国では湯築城の守護河野氏を初め、東予に石川氏、西予に宇都宮氏、南予に西園寺氏が割拠した。その中でも、西園寺氏は公家大名として、朝廷より官位を与えられるほどの名門であった。勢力範囲は宇和郡のうち、南宇和を除く地域を支配したが、その力は守護の河野氏を凌ぐほどのものであったと考えられる。後に入封する藤堂高虎は7万石を有し、江戸時代に入封した伊達秀宗は宇和郡全域の10万石を誇った。西園寺氏もおおよそ7万石 [続きを読む]
  • 28章 漁夫の利(その二)
  • 家忠と勧修寺基詮は時折様子を見て、津島表へ出張った。 南方に一条氏きっての名将がいることは、西園寺衆にとっても脅威であった。 西園寺実充は板島丸串城に一門の西園寺宣久を入れ、一条勢の動きを警戒した。 実はこの少し前、弘治二年に実充は累代の居城、松葉城から南にあるより堅固な要害の黒瀬城に移っている。一条、大友方に抗するためであっただろう。 この戦の最中、一条兼定と宇都宮豊綱の娘との祝言が執り行われた。 [続きを読む]
  • 28章 漁夫の利(その一)
  • 時に、雨後森城を守るのは渡辺左近将監有高(ありたか、または、なおたか)、またの名を政忠という男であった。 政忠は三間盆地の深田城主、竹林院公義(きみよし)や大森城主、土居宗雲ら西園寺衆と密に連絡を取り、一条勢に付け入る隙を与えなかった。 殊に、土居宗雲は三間郷二十三ヵ村を有し、天文十五(1546)年に起きた大友の伊予打ち入りの際、法華津の湊から夜中に舟を漕ぎ出し、日振島に停泊する九千二百騎の大友軍を撃ち破っ [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その七)
  • 夕闇が辺りを覆った頃、草枕から起き上がった者がいた。 吉井修理である。「そろそろじゃ、皆を起こし、飯を食わせろ。」 と、修理は家来に命じた。 いったい、本山勢はどこにいたのか。 それは城方が思った通り、山の端の裏に潜んでいた。 しかし本山勢がいると悟られなかった理由は、昼寝をしていたからである。 修理が握り飯を食んでいると、鵜来巣弾正がやって来た。 弾正はすこぶる機嫌が良かった。「やれやれ、これ [続きを読む]
  • 27章 国司下向(その六)
  • その頃、本山氏の居城、朝倉では、「殿、好機にござりますぞ。どうやら御所の方にて、騒動がござった様子。蓮池を乗っ取るは、今にござる。」 と、家老の鵜来巣弾正が進言した。 茂辰はつい、吉井修理へ視線を向けた。 修理は苦虫を噛むのを堪え、小さく頷いた。「よし、弾正、兵を調えてすぐに出立じゃ。」 と、茂辰は返答した。「承知。」 と、弾正が一声して、飛び出して行くと、修理はその姿が見えなくなったのを見計らい、「 [続きを読む]