nekozou さん プロフィール

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nekozouさん: 天海山河
ハンドル名nekozou さん
ブログタイトル天海山河
ブログURLhttp://take-s-tosanyanko.blog.so-net.ne.jp/
サイト紹介文時は戦国乱世、南海僻陬に滅亡の危機から家を興し、己が器量で国を切り取り、天下一統を志した蛮酋がいた。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供39回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2013/11/10 11:34

nekozou さんのブログ記事

  • 岡豊城址
  • 岡豊城址に潜入。探索の入り口は北側の高知県立歴史民俗資料館。付属の駐車場(無料)から遊歩道が整備されている。城の北側は工石連山の山並。一気に坂を登って、二ノ段を目指す。一部岩がむき出しになっている。当時の面影を偲ばせる。『二ノ段』やや開けた平坦な場所に出た。そこからは土佐のまほろばを望むことができる。写真左上の森が国分寺。その向こうに紀貫之も赴任した土佐の国衙があった。『詰下段』『堀切と井戸』岡豊城 [続きを読む]
  • 海4章 宮内少輔(その六)
  • 沖では、康政がじれていた。「政所様、お呼びにございましょうや。」と、鶴津丹波守が小舟に揺られてやって来た。 丹波守は仁井田五人衆、志和(難波)氏の一族で本姓を島岡という。 もとは志和村の土居近くに居を構えていたが、鶴津の地を与えられて、そこに移った。 鶴津は外界と急峻な山によって隔てられ、手前の小鶴津には海に突き出した岬があり、奥の大鶴津と分かれている。 丹波守はその岬に城を構えていた。 ある日、 [続きを読む]
  • 海4章 宮内少輔(その五)
  • 船はゆっくりと東へ進んだ。 浦戸城から南に突き出た龍王崎を回れば、勝浦ヶ浜の美しい松並木とともに弓の如く延びる玉白洲が目に入る。 龍王崎の舳先には一本の大松と赤い鳥居を付けた小さな社が立ち、浜には長宗我部の陣幕が張られ、出迎えらしき人影が二三十群れている。「ここでよい。」 康政は水主に合図した。 船は浜から三町沖に碇を下ろし、小舟を付けた。「康政様、御上がりのご用意が調いました。」と、水主 [続きを読む]
  • 海4章 宮内少輔(その四)
  • 浦戸城は鷲の嘴のように突き出た半島の先にある。 北は二十間(60メートル)ほどの急峻な崖となり、麓の低地に湊が開かれている。 平安期に紀貫之が来土した頃には、すでに大津の湊と並んで賑わいを見せていたというから、土佐において最古の湊の一つであろう。 その湊は内海の中にあり、波は実に穏やかで、浦戸の入江に浮かぶ小島、浜辺に植えられた松並木、背後の鷲尾の山並み、そしてはるか彼方に浮かぶ蒼霞の工石連山と、翠 [続きを読む]
  • 海4章 宮内少輔(その三)
  • 土佐湾を黒潮の流れに乗って、東へと進む無数の船団があった。 その中に、無数の櫂が取り付けられ、舳先に銅飾りを付け、八反帆の帆柱を立てた立派な船があった。 船の上には御輿のような屋形があり、 御簾には下がり藤の紋が描かれている。 その中から一人の男が現れた。「やれやれ、土佐は広うおじゃるな。」と、にかっと笑って、お歯黒を覗かせた。そして、羽扇で扇ぎながら涼をとり、「水主よ。この辺りは何処ぞ。」と、問う [続きを読む]
  • 海4章 宮内少輔(その二)
  • その夜、弥三郎は床に就きながら覚世の心底を推し量っていた。 弥三郎が物心付いた頃には、覚世は昼夜問わず常に陣中にあった。 天竺、山田らを滅ぼし、香長一帯を併呑し、策を巡らして周孝と謀議を重ねていた。 一にも二にも本山を倒し、遺恨を晴らすためと思ってきた。家中の者もそう思っているであろう。 しかし、昼間の覚世の言葉に本山への強い遺恨は感じられなかった。むしろ、一矢報いた晴れがましい思いと、我ら兄弟 [続きを読む]
  • 海4章 宮内少輔(その一)
  • 石清水川の流れはいつものようにゆったりとしている。 弥三郎は大津の湊より小舟に乗り換え、川を遡った。 四方から蝉時雨がけたたましく鳴り響き、木陰のない川面では陽射しは強く、肌をじりじりと焼いた。 色白い弥三郎の肌もいつしか茶色に焦げていた。 小舟は半刻ほで岡豊城の桟橋に着くと、「若様、早う、早う。」と、福留儀実が周章てて坂を駆け降りてきた。「飛騨か。すまぬな、そなたをおいてけぼりにしてしもうた。」 と [続きを読む]
  • 海3章 潮江(その五)
  • 若い輩もこれには不安を覚えた。「弥三郎様、我らだけでは城は落とせませぬぞ。お引き下されませ。」 と、周囲の気を察した久武親信が言った。「案ずるな内蔵助、俺の見立てに間違いない。」と、弥三郎は返した。 一体どこにこれ程の自信があるというのか。親信はそれが、反って不安であった。 振り返ると、老臣衆は遥か彼方に引き離されて、蟻の如く小さくなっている。 ふと向きを戻すと、弥三郎はわずかな供ばらを引 [続きを読む]
  • 海3章 潮江(その四)
  • 翌朝、茂辰は若宮八幡宮の辺りに目を遣ると、柵が一夜のうちに取り除かれていた。「これはいったい、何かの策ではないか。誰か見て参れ。」と、家来に見に行かせた。 家来は帰ってくると、「敵は社にも慶運寺にも居りませぬ。横浜、御畳瀬より退いておるようにござります。」と、言った。「退いておるのか。」と、茂辰が訊ねると、「はい。追い討ち致しましょうや。」と、家来が返した。「いや、無用じゃ。深追いして、もしも痛 [続きを読む]
  • 海3章 潮江(その三)
  • これ程の歯痒さはない。 若宮表を柵で閉じられ、背後の浦戸の瀬戸には長宗我部の舟が海路を遮るように並んでいる。北の方を見れば、長浜川を天然の堀にして長宗我部の陣が敷かれ、中原の王者と呼ばれた茂辰はその所領の端に閉じ込められたのだ。「袋の鼠か。」 茂辰は吉井修理亮のことばを思い起こして悔いた。 茂辰にはまだ長宗我部と互する兵がいる。城を捨て、全軍を繰り出せば、包囲の一画を崩せなくもない。 しかし、二 [続きを読む]
  • 海3章 潮江(その二)
  • 若宮表には白や黒、赤に緑、水色の小石が敷き詰められた浜が連なる。これを五色石と呼び、仁淀川の流れによって磨かれ、運ばれたものである。それは実に美しく、土佐を代表する奇貨である。 しかし、茂辰にはそのような風靡を味わう余裕などなかったであろう。 明くる早暁、茂辰は一千の兵を引き連れ、城を打って出た。 若宮八幡宮に陣取る長宗我部の本陣を崩し、帰路を確保するためだ。 辺りには海から運ばれた朝靄が白く立ち込 [続きを読む]
  • 海3章 潮江(その一)
  • 陽が西の山際に沈み、辺りを闇が覆い始めた。戸ノ本の辺りから、命を落とした者たちを弔う念仏が聞こえてくる。覚世が慶運寺の僧侶に頼んだのだ。今日、この辺りには西から東に向けて一本のまっすぐな川が流れているが、これは江戸時代になって掘られた『唐音の切抜』という運河である。そもそも、荒涼とした原野でしかなかったのだが、運河のおかげで新田開発が可能となった。そこでそこら一帯を掘ると、そこかしことしゃれこうべ [続きを読む]
  • 海2章 戸ノ本(その五)
  • 縦に伸びていた本山の陣形は、激しい地鳴りとともに大きくくの字に曲がり、真っ二つに引き裂かれた。 右辺に構えていた茂辰は大きく煽られ、浜際まで押しやられた。 この時、池添源兵衛は大窪美作守の息子、勘十郎を討ち取り、東四郎右衛門という者は吉良民部の御首級をあげた。 浜田久左衛門は豪傑で知られる宇賀平兵衛と組討ちし、平兵衛あわや首を討たれんとするところ、郎党が加勢して、久左衛門の首を討ち取った。 そ [続きを読む]
  • 海2章 戸の本(その四)
  • 既に午の刻三つである。 本山勢がやや押し始め、木戸めがけて群がった。 土埃が舞い上がり、軍馬は嘶き、兵卒は轟を上げる。 本山勢は前のめりに、まさに木戸を蹴倒さんとする。 機は熟した。「今じゃ。」 弥三郎は谷忠兵衛に合図した。 忠兵衛は手に持つ黄色い旗を棹に掛けて、高々と天に向かって振り上げた。 紺色の月餅紋が蒼い空に靡いた。「何じゃ、あれは。」と、覚世が叫んだ。「大殿、大変のござりまする。若殿が [続きを読む]
  • 海2章 戸ノ本(その三)
  • 朝倉城では、本山茂辰が長浜の落城を知って驚いた。「殿、これが信濃守の本性にございますぞ。」と、吉井修理亮が言った。「すぐにでも出陣じゃ。」 茂辰は周章てて出陣の用意を命じた。「殿、焦りなさいますな。ここは岡豊を攻めるが宜しかろう。」と、修理亮が進言した。すると、中島新助という重臣が、「敵は寡兵にして、我が領分の内にあり。この朝倉には二千の兵がおれば、大軍をもって長宗我部を討つべし。西より攻め立てれ [続きを読む]
  • 海2章 戸ノ本(その二)
  • ひょっこりこのような形でついてきたとはいえ、親信には一つ疑問がある。 なぜ、弥三郎は城を守らず戦に向かおうとしているのだろうか。初陣で弥五郎に遅れまいと焦りでもあるのか。 しかし、覚世が留守の岡豊城は本山にとって格好の標的である。そこで戦もできるというものだ。いずれにしろ、遅かれ早かれ初陣となろう。 覚世も何をしでかすか分からない弥三郎を戦場に連れていくよりは、城に置いて守らせたほうがましだと思 [続きを読む]
  • 海2章 戸の本(その一)
  • ある夜のこと、街道の辺りをからからと鈴の音が鳴り響いた。 親信は、はたと起き上がった。 すると、向かいの桑名の屋敷が騒がしくなった。 出陣の合図である。 親信が縁側に出ると、生け垣の向こうで桑名の家人たちが松明を灯し、慌ただしく出立の準備を始めていた。 親信にはそれが羨ましかった。 だが、己には己の勤めがある。 と、親信は己を言い聞かせた。 この時、親信の父、肥後守則義は出家して昌源と号していた。 昌源は [続きを読む]
  • 海1章 姫若子(その四)
  • そうそう、この三年で槍の稽古はさっぱりだったが、弥三郎にはちょっとした収穫があった。 一宮村の住人の谷兄弟と知り合えたことだ。 兄は忠兵衛忠澄といい、高賀茂大明神の神官で、弟は非有斎という滝本寺の僧侶である。 特に忠兵衛とはうまが合う。 忠兵衛は背はそれほど高くはないが、気骨のある人物である。神官ということもあり、話をよく聞き、的確に答えてくれる。歳も弥三郎より五つ上で、親信とほぼ同じだが、何処 [続きを読む]
  • 海1章 姫若子(その三)
  • 元親の家督について、通説では永禄三年と言われているが、実際はそれより早く、弘治年間に元親は継承者として、国親と共に国分寺を再興している。 つまり、長宗我部親子は二頭政治に入っていたのである。 兎にも角にも、一番驚いたのは守役の福留儀実であった。 儀実は俄然やる気が出てきた。 儀実は槍を担いで、毎日、岡豊城に登った。 しかし、いつものごとく弥三郎に逃げられるばかりである。 と、言うのは儀実の側のこ [続きを読む]
  • 海1章 姫若子(その二)
  • 天文年間の末、岡豊城下では儒学が流行っていた。これは、学問を重んじた国親が奨めたもので、城下の兼序寺で月に数度、日を定めて講義が行われていた。兼序寺は、もとは常通寺という名であったが、弥三郎の祖父母、元秀と千歳の冥福を祈って、国親が再建したものである。そこへ吸江庵より儒僧を呼び、一門、家臣の子息のみならず、城下の童子、老若に関わらず、望む者には分け隔てなく享受した。当時、下野の足利学校や奈良の興福 [続きを読む]
  • 海1章 姫若子(その一)
  • 館の奥に、小さな明かり取りを付けた小部屋がある。棚には書物が積み上げられ、奥までぎっしりと並べられている。小窓のそばには小さな机があり、少年は日の光りを浴びながら、そこでうたた寝をしていた。麗らかな春の日和、すうっと小窓から温かく爽やかな風が吹き込む。少々青臭いか。少年はくしゃみをした。だが、目を覚まそうともせず、何やら寝言を言いつつ、そよ風に吹かれていた。「…伊予之二名島※は…愛比売(えひめ)と建 [続きを読む]
  • 29章 御畳瀬へ(その六)
  • 種崎へは二里半の途。 長宗我部軍が岡豊を発ったのは、もう日が変わった二十七日の子の刻二つ(0時過ぎ)であった。 覚世に続くは、吉田伊賀介重康、桑名丹後守重定、同藤蔵人、久武肥後守則義、中内藤左衛門、中島大和守親吉、長宗右兵衛親武など、名だたる兵である。 それに、初陣の左京進親貞、後詰めの周孝が続いた。 軍勢は、おおよそ一千。 夜露を払いながら、前へ前へと進んだ。 丑の刻を過ぎた頃、長宗我部軍は種崎 [続きを読む]