服部武雄 さん プロフィール

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服部武雄さん: 幕末血戦録
ハンドル名服部武雄 さん
ブログタイトル幕末血戦録
ブログURLhttp://thshinsengumi.seesaa.net/
サイト紹介文若者達が異なる信念の元に命を賭した時代、幕末。新撰組と御陵衛士を中心に、人々の生き様を書き記します。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供12回 / 365日(平均0.2回/週) - 参加 2013/12/07 01:17

服部武雄 さんのブログ記事

  • 南瓜祭り騒動2017・後編
  • 「おや、お団子。頂きます」沖田は部屋に入ってすぐに、卓上の団子を手にした。「今年は静かだな」「そうですね。念の為、一番隊を東山周辺に送っていますし、月真院も見張らせています。でも、まだ動きはないみたいですね」新撰組屯所の一室で、火鉢の前に座したまま表情を一切崩さない土方歳三と団子を頬張る沖田総司。ここ数年の御陵衛士が、というよりも藤堂平助と阿部十郎が中心となって引き起こしている騒動に対しては、新撰 [続きを読む]
  • 南瓜祭り騒動2017・中編
  • 「いずれにしても大切なお祭りなのです。決して悪ふざけで参加してはいけないのですよ」「勿論、私達だって悪ふざけのつもりなんてありませんよ」「そうかも知れませんが、少なくとも衛士の皆も悪ふざけと見ている人は少なくありませんよ。特に、伊東さんと、それに服部さんが・・・」伊東と服部の名前が出た途端、藤堂と阿部の表情が変わる。「私もそうですが、今年は特別なのですよ。藤堂君、貴方も同じではありませんか?古傷が [続きを読む]
  • 南瓜祭り騒動2017・前編
  • 「さて、御二人に来て頂いたのは他でもありません」毛内監物は湯呑に口を付け、一息入れてから言った。何時になく神妙な面持ちである。「今年も、またやるおつもりでしょうか?」藤堂平助と阿部十郎は一瞬顔を見合わせた。「やる、というのは何の話でしょう?」「お菓子をくれなきゃ・・・という、あれです」やはりその話しか。この時期に、この2人が呼び出された時点で予想は出来ていた。藤堂が敢えて惚けたのは、毛内の出方を見 [続きを読む]
  • 没後150年 坂本龍馬(江戸東京博物館)
  • 2017年4月29日〜6月18日まで、江戸東京博物館において、『特別展・没後150年 坂本龍馬』と題された展示がされていました。注)既に終了しています。展示期間終了間際に、漸く訪れる事が出来ました。入口には大きな坂本さんの立像がお出迎えして下さり、ワクワクしながら会場へ。同時期の様々な、貴重な資料が展示されていましたが、特に私の目を引いたのは坂本さんの手紙でした。当時は手紙と言えば巻物。その両面に、後に妻とな [続きを読む]
  • 武士道とは
  • 武士道と云うは死ぬことと見付けたり「葉隠」の有名過ぎる一節です。同書は、肥前国佐賀鍋島藩の山本常朝の口述を元に筆録、纏められた書物です。武士としての心得が纏められている書として有名です。しかし、表題の一節が独り歩きしてしまい、また先の大戦時の特攻や玉砕の際にも、この言葉が使用された事から、国の為(藩の為)に死ぬ事を肯定していると解釈されている面があります。危険な思想であるとして、戦後は一時禁書扱い [続きを読む]
  • 私の追憶「懐かしのムービースター」
  • 服部武雄の黒子役をさせて頂いております。「死地に駆ける」の作者です。年末のご挨拶を兼ねての登場でございます。2016年も間もなく終わってしまいますね。ここ数年、時間の流れがとても早く感じます。これは年齢のせいなのでしょうか。今年も1年、お付き合い頂き、ありがとうございました。今年はブログの更新も滞りがちだった事が反省です。2017年は定期的な更新を目指したいと思います。さて、話は変わって今回は、私の好きな [続きを読む]
  • 追悼・油小路『死地への道・後編』
  •  伊東が訪れた時、出迎えたのは近藤の他に、土方歳三、山崎烝、原田左之助、吉村貫一郎という、いずれも幹部級の隊士達だった。これだけの顔ぶれが一同に会する機会というのも、確かにそうあるものではない。 近藤らの応対に心を許し、伊東は久々に酔った。国事についても大いに語り合った。 この七条醒ヶ井の妾宅は、新撰組の屯所からも近い。そこに来て、この面々だ。伊東を暗殺するには好条件と言えるし、この場で彼らがその [続きを読む]
  • 追悼・油小路『死地への道・前編』
  • 大政奉還慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的事件坂本龍馬暗殺(近江屋事件)慶応3年11月15日(1867年12月10日)に坂本龍馬と中岡慎太郎、山田藤吉の3人が京都河原町近江屋において暗殺された事件。慶応3年11月18日(1867年12月13日)新撰組からの使いが月真院を訪れる。新撰組の局長、近藤勇からの伝言で、伊東が予てから依頼してい [続きを読む]
  • 【甲子太郎忌・御礼と報告】
  • 甲子太郎忌の御礼11月12日の甲子太郎忌には、予想を大きく上回る方々にご参加頂く事が出来ました。遠方からお越し下さった方も多いようでしたし、御参加下さった方々には、改めて御礼を申し上げたいと思います。可能であれば、皆さんが、どういった経緯で甲子太郎忌をご存知になったのか、お聞きしたかったですね。当日の天気も大きな要素にはなると思いますが、来年は更に沢山の方々にお越し頂ける可能性があると思います。境内も [続きを読む]
  • 追悼・油小路『高台寺での日々』
  • 高台寺は、豊太閤北の政所高台寺隠棲のところで、臨済宗随一の巨刹、小堀遠州の心血をそそいだ林泉を囲って、夏から秋にかけて、萩の花が敷いたようにこぼれた。一同が移った時には、もう一ぱいの花、うす紫、白、風情ある眺めであった。こうなっては盟友新選組とは全く反対の立場。衛士は近藤の鋭い眼で睨まれている事は素より知っている。従って碌々安心して寝た事もない、みんな必ず刀を抱いてねた。子母沢寛・著/新選組物語「 [続きを読む]
  • 甲子太郎忌についてのお願い
  • 慶応3年11月18日、西暦1867年12月13日、御陵衛士である伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助そして服部武雄が油小路の変にて絶命しました。今年(2016年)は、節目となる百五十回忌にあたります。この度、伊東甲子太郎の絶命の地である京都の本光寺に於いて、甲子太郎忌が行われます。甲子太郎忌の実施にあたって、幾つかお願い(注意事項)があります。・参拝、法要の際は一般的な服装でお願いします。・コスプレ、各種隊服等の着 [続きを読む]
  • 衛士とハロウィン2016
  •  月真院内を走り回る篠原泰之進の姿があった。「篠原さん、そんなに慌てて、どうしたんですか?」「おお、新井君。阿部と藤堂を見なかったかね」「あの二人なら、先程出掛けて行きましたよ」「何だって?」「篠原さんの使いで、伊東さんを迎えに行くと言っていましたけど。違うのですか?」「やられた…」 篠原が膝から崩れ落ちるの見て、新井は慌てて駆け寄った。 「トリックオアトリートぜよ」「お菓子をくれなきゃ、討ち入る [続きを読む]
  • 甲子太郎忌のお知らせ
  • 【甲子太郎忌のご案内】慶応3年11月18日、西暦1867年12月13日、御陵衛士である伊東甲子太郎、藤堂平助、毛内有之助そして服部武雄が油小路の変にて絶命しました。今年(2016年)は、節目となる百五十回忌にあたります。この度、伊東甲子太郎の絶命の地である京都の本光寺に於いて、甲子太郎忌が行われます。当日は、10:00〜16:00の間は境内が解放され、伊東甲子太郎が絶命した際に腰を落としていたと言われる、題目石塔(日蓮宗 [続きを読む]
  • 薩英戦争の評価
  • 薩英戦争は、薩摩藩と英国の間で繰り広げられた戦いです。幕末における歴史の大きな転換点となった事件の1つとして上げられると思います。文久2年(1862)8月21日、横浜港付近の生麦村で、薩摩藩の行列を乱した英国人3名が殺傷される生麦事件が発生しました。この事件の解決と補償を迫る英国と薩摩藩との間で、文久3年(1863)8月15日に戦いが始まりました。戦闘は約3日間。英国側の損害は、軍艦の大破1隻、中破2隻の他、死傷者63 [続きを読む]
  • 士農工商と四民平等
  • 長い間、江戸時代は身分による差別が制度として存在していたと言われてきました。『士農工商』と言えば、以前は必ず社会科の授業で扱われました。武士を頂点とした身分制度であり、その下に農民、職人、商人などの身分があったと言われています。武士は最も偉く、国力の元である米を作る農業がその下に位置して、手に職のある工業、商売に携わる商業と続くという考え方です。それぞれの身分は世襲制で、その違いも明確にされており [続きを読む]
  • 刀と剣
  • 御陵衛士の服部武雄です。今回は武士の魂でもある刀について、西洋の剣との違いを見ながら触れたいと思います。日本刀の特徴は、やはりその形状にあります。反りをもったこの刀の独特の形状は、その使用目的から来るものです。反りの具合(程度)は、その時代の風潮や流行りもありました。従って、反りの具合で、刀の製造時期もある程度分かります。日本刀は、斬撃と刺突に特化した形状です。刀剣は単純に押し付けても斬れるもので [続きを読む]
  • 池田屋事件・新撰組の真相
  • 御陵衛士の服部武雄です。元治元年6月5日(1864年7月8日)、京都の三条木屋町の旅館・池田屋において、長州や土佐藩などからなる尊王攘夷派の志士達を新撰組が襲撃しました。世にいう、池田屋事件です。近藤局長などの書簡によると、近藤隊の隊士は10名、土方副長に従う隊員は12名。井上源三郎に従う隊士は12名とされています。この内、池田屋に行き当たり、突入したのは近藤隊でした。施設周囲への警戒を残し、内部に突入 [続きを読む]
  • 池田屋事件・志士達の真相
  • 御陵衛士の服部武雄です。(久しぶりの記事の更新です・汗)元治元年6月5日(1864年7月8日)、京都の三条木屋町の旅館・池田屋において、長州や土佐藩などからなる尊王攘夷派の志士達を新撰組が襲撃しました。池田屋事変、池田屋騒動などとも言われます。この出来事は、維新を10年遅らせたとも、逆に10年早めたとも言われ、幕末期における大きな転機となりました。維新を遅らせたという見方は、事件で殺害された志士の [続きを読む]
  • それぞれの誓い・月の章(43)
  • 「そんな言い方は止めて下さい」「万一の話ですよ。その時は、よろしくお願いしますよ」 笑いながら言った伊東の言葉が、今の内海の脳裏に鮮明に蘇っていた。 気付いた時、内海は泣いていた。 自分は伊東との誓いを果たしていない。伊東を護る事が出来ず、その仇を果たす事も出来ず、今また、何も出来ないままに死のうとしていた。 自分には、伊東から託された事がある。伊東との誓いがある。今、この場で死ぬ訳には行かなかっ [続きを読む]
  • それぞれの誓い・月の章(42)
  • 「正直、私は自分の認識の甘さを後悔しています。京に行って、実状は私の想像を遥かに超える物だった事に気付きました。古い体制を維持しようとする幕府は勿論、それを倒そうとする薩長にも問題は少なくない。そんな様子を横から見ている欧米諸国には、今後一層の警戒が必要でしょう。これから京における活動は、更に慎重を要し、且つ激しい物となるでしょう。私は、自分が生きて江戸に帰れる可能性は少ないと思っています。だから [続きを読む]
  • それぞれの誓い・月の章(41)
  • 「内海」 聞こえる筈のない伊東の声が聞こえたのは、正にその時だった。驚愕と共に顔を上げた内海は、そこに見える筈のない伊東の姿を見た。「後の事は、貴方に任せますよ」 それは、嘗て伊東が内海に言った言葉だった。 新撰組に参加して京に上った伊東や内海達のその後は多忙を極め、江戸に帰る時間を作る所の話ではなかった。しかも、京では日々天誅や粛清といった騒ぎで血の流れない日はないという状態である。そんな話は、 [続きを読む]
  • それぞれの誓い・月の章(40)
  •  そして内海次郎である。 内海はこの後、同志達とも一切の連絡を断ち、従って記録にも全くその名は残されていない。阿部だけが、彼の生活の一端を把握していたが、その阿部が北海道に渡ってからは連絡も途絶えてしまった。 実は内海は、伊東達の遺体を改葬したその夜、死ぬつもりだった。 同志達が立ち去った後の戒光寺の墓地で、一人静かに伊東達の前に座した。伊東の為の太刀として戦い、伊東を護る盾となろう。伊東の為に生 [続きを読む]
  • それぞれの誓い・炎の章(36)
  •  篠原秦之進は、新井や鈴木と共に大津の獄を出て薩摩藩の預かりとなった後の六月、やはり二人と同様に軍曹となって仁和寺宮麾下の軍に属して、北越へ出征した。 この戊辰戦争の中で、篠原は会津城攻略にも参加した。 会津落城後は斬敵の掃討戦に従い、十月には新井と再会して、その従者高井久蔵の死を弔う。更に、京都への凱旋の際に、出雲崎で戦死した富山を弔っている。 維新後、篠原は旧姓の秦と改名し、以後は秦林親と名乗 [続きを読む]
  • それぞれの誓い・炎の章(35)
  •  阿部十郎は新井や鈴木達が大津に投獄された際に、一時期この赤報隊を指揮する等して戊辰戦争にも積極的に参戦した。後に、徴兵七番隊と命名された同部隊の隊長になると、奥州などを転戦して戦功を上げた。 戦後の明治二年十二月二十日付で弾正台少巡察に任じられると、新井等と同じ京都支台に配属された。明治五年二月には開拓使としての職を得て、札幌などで勤務し、明治十五年に開拓使が廃止されるまで勤務に就いた。開拓使と [続きを読む]
  • それぞれの誓い・炎の章(34)
  •  鈴木三樹三郎は、新井や篠原と共に大津の獄から解放された後、六月に軍務官軍曹を命じられ、翌年には弾正台小巡察となった。その後、伊那県(現在の長野県と愛知県の一部)、鶴岡県(現在の山形県庄内地方)、山形県などで、主として警察や司法の職に就いた。 明治十八年一月に官を辞し、故郷である茨城県石岡町に購入した邸宅で悠々自適の余生を送る事となる。 愛する兄であり、師でもあった伊東甲子太郎は、彼にとって出来過 [続きを読む]