御坊哲 さん プロフィール

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御坊哲さん: 禅的哲学
ハンドル名御坊哲 さん
ブログタイトル禅的哲学
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/gorian21
サイト紹介文禅的視座から哲学をすると、こんな景色が見えてくるのではないだろうか。
自由文私は禅者ではありません、仏教者でさえありませんが、多少ものを見る目はもっていると自負しております。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供44回 / 365日(平均0.8回/週) - 参加 2013/12/07 23:29

御坊哲 さんのブログ記事

  • 神の存在論的証明
  • 前回記事に引き続き「世界はなぜ『ある』のか?」(ジム・ホルト著)から、神の存在論的証明というものをご紹介したい。中世ヨーロッパの神学者、聖アンセルムスは初めて神の存在を純粋な理論によって証明しようとした人である。その論証過程をジム・ホルトは次のようにまとめている。 ① 神は、想像し得る何かのなかでもっとも偉大である。 ② 単なる想像上の何かよりも、存在する何かの方が偉大である。 ゆえに、③ 神は存 [続きを読む]
  • 世界はなぜ「ある」のか?
  • 東日本大震災の際に、被災した人々が過酷な状況の中でも、恐慌をきたさず秩序正しく協力し合っていたことに対して、世界中から称賛の声が寄せられた。こういうことから見て、日本人は西洋の人々に比べて現実を受容する力が強いのではないかと考えられる。おそらく日本人の精神の深層には仏教による影響があるのではないだろうか。仏教的諦観というのは現実に起こってしまったことは受け入れるしかないということを言う。現前する事 [続きを読む]
  • むもん法話集より
  • 故山田無文老師は日本臨済宗を代表する名僧にして講話の名手でありました。生前は日本中をまわって講話をされました。私も二度ほど実際に聴いたことがあります。本日は「むもん法話集」の中の話を一つ取り上げたいと思います。一時期「日本のヘレン・ケラー」と言われた中村久子さんのお話です。老師がこの話をされますと、大の男でも泣いてしまうほど感動してしまいます。彼女は3歳の時にかかった凍傷がもとで 特発性脱疽とな [続きを読む]
  • 不立文字
  • 前回記事「仏教的世界観 無常と空 その4」において、私は次のように述べた。【ものを固定して見ることをしない仏教的観点においては「差異」というものはもともと存在しないものである。ものごとに境界を設け比較することによってはじめて「差異」は生まれるが、自然の変化は不断かつ連続的に生じているのだから、客観的な境界というものはあるはずもなく、「差異」は生まれようがないのである。】すると、ある人から「もし差異 [続きを読む]
  • 仏教的世界観 無常と空 その4
  • 「 始めに言葉ありき」という言葉が象徴するように、西洋においては言葉に対する万能感が強い。「思考しえること」=「語りえること」の図式が強固に信じられている。しかし、あるがままに自然を見ようとする仏教的視点から見れば、そのようなロゴス信仰が反自然的原理を招き入れる源となっていると考えられるのである。中島義道先生はわが国におけるカント研究の第一人者であるが、その著書『後悔と自責の哲学』の中で、次のよう [続きを読む]
  • 仏教的世界観 無常と空 その3
  • 先日テレビを見ていたら、強制収容所の生き残りの人の証言というのがあって、恐ろしい話を聞いてしまった。その人の妹さん(当時6歳)はガス室送りになってしまったらしい。「ガス室で死ぬということがどういうことだか分かりますか? そこでは弱い者が強いものの踏み台になるんですよ。ガスで死ぬには十数分かかります。その間ずっともがき苦しみ続けるわけです。誰もがもがき苦しむ中で、弱い者が踏み台になる。ガスは下から充 [続きを読む]
  • 仏教的世界観 無常と空 その2
  • 仏教では、この世界には固定的で不変のものはないと説く、なぜかと言うと現にそうだからである。無から有は生ぜず、また有が無となることもない。質料は互いに関係しあいながら動きとどまることはない。智者である釈尊が「エネルギー保存則」と現在言われているものを洞察したのである。「不生不滅。不増不減。」とはそのことである。現にそうであることはそうであると受け止める、それが仏教の原理である。しかし、なぜ世界がこの [続きを読む]
  • 仏教的世界観 無常と空 その1
  •  西洋式庭園と日本式の庭園を比較すると、「西洋式」の方は幾何学的な直線や曲線が多いのに対し、「日本式」は人工的なものを極力排除して、石の置き方一つにしても規則的にならないように配慮される。「西洋式」は幾何学的な美しさを理想としているのに対し、「日本式」はあくまで自然そのものを再現しようとしているかのようである。 この幾何学的な美しさが西洋思想に超自然的原理を象徴している。彼らは自らを自然と対峙す [続きを読む]
  • 主体的であるということ
  • 昨日から「西野監督はすごい」という声を何度となく耳にする。私も確かにすごいという気がする。もし、セネガルが最後の10分間で一点入れていれば、西野監督への批判は尋常のものではなかっただろう。しかし、彼はセネガルが得点できないことに賭けた。確かにセネガルが点を取る確率はそんなに高くなかったかもしれないが、それは誰にもわからないことである。賭けに負ければボロクソに叩かれる、そのリスクは決して小さくない。な [続きを読む]
  • 人間は所詮自分が信じられることしか信じない
  • 先日の記事、【南師曰く、『仏教の要諦は、無常・無我・空・無記である』】 において、私は「仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」と述べたのであるが、それに対しあるところから、「あなたは自分に都合のいいところだけ信じるのか?」という問いかけを頂いた。「都合のいいところだけ」という言葉に多少引っ掛かるが、まあ大体その通りである。端的に言って、誰もがそうし [続きを読む]
  • 言葉ははたして通じているのか?
  • 「鳥が飛んでいる」と言ってみると、何かが言えたような気がする。聞いた方も確かになんらかの意味を受け取ったような気がする。しかし、言った本人は、トンビが螺旋を描きながら高く舞い上がっている光景を見ていたのだが、それを聞いた人は雀が枝から枝へ飛んでいる様子を思い浮かべていたのだ。龍樹は、「一般的な鳥というものは存在しない」し「一般的な飛び方というものも存在しない」と言う。だったら、言語が通じていると思 [続きを読む]
  • あるとないとは同じではない
  • インターネットのSNS上で「空」について議論しているところがあったので、のぞいてみると次のような文言が目に留まった。≪ あるとないとは同じことだと、仏教は言います。論理的には同じだと。だから、はじめから空なのだと。≫この人にはこの人の言いたいことがあるのだろうが、「論理的」には明らかに間違っている。論理というものはあるとないの区別があるところに基盤があるのであって、その区別がないのなら論理の依って [続きを読む]
  • 無常の恐ろしさ
  • 無常とは「万物が生滅変化し,常住でないことをいう。」とある。虚心坦懐に世界を見つめればこれは当たり前のことである。それがなぜ恐ろしいか?なんら固定的なものはないということは、何か形をとどめようという力というものが一切ないということである。すべては偶然であり過渡的かつ完成に向うということも無い。つまり、この世界を差配するものは何もない。それは実は当たり前のことなのだが、実存的な視点からその景色を見 [続きを読む]
  • 輪廻説が仏教にとって不必要なわけ
  • 前回記事で「仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない」と述べたら、「此れはしかし同時に、仏教(仏説)であっても自分が共感する部分だけを受け容れたら良いといっているのと同じ事の様にみえます。」という方がおられたので、少し言い訳しておきたいと思います。前にも述べたように、仏典は多くの人の手によるもので仔細に見れば矛盾もあります。しかし、仏教は学問ではなく宗 [続きを読む]
  • 南師曰く、「仏教の要諦は、無常・無我・空・無記である」
  • 先日(5/17)、横浜の朝日カルチャーセンターで、南直哉さんの講話を聴いてきました。このところ毎年聴いているので、だいたい同じような内容なのだが、絶妙な語り口で何度聴いても、とにかく腹を抱えて笑うほど面白い。失礼な言い方を許してもらえば、下手な漫才を聞くよりよっぽど面白いので、毎年聴きに行っているのです。南師は恐山の住職代理で、哲学にも造詣深くて、今や曹洞宗を代表する論客でもあります。彼は常々仏教の要諦 [続きを読む]
  • あるとないとは同じこと?
  • デカルトは考える私以外のものはすべて疑わしいと考えた。それ以来、哲学者は懐疑論というものに取りつかれるようになってしまった。私たちのあらゆる知識は確かな根拠というものを持たないのである。極端な話、自分の精神以外はなにも存在しないのではないかとまで考える人もいる。私は自分の両手をじっと見てみる。こんなにありありとはっきり見える自分の手が実はまぼろしかもしれないというのだ。しかし、これはおかしな話では [続きを読む]
  • われ思うゆえにわれはあるか?
  • デカルトは疑い得るものはすべて疑って、とうとう最後にいくら疑っても疑えぬものとして、「考える私」というものに行きついた。デカルトはその卓越した洞察力と思考力において、天才と言われるにふさわしい人物であることは間違いない。しかし、内観という点においては修練を経た禅僧には一歩及ばなかったのである。ヨーロッパ語の「私は考える」という文法の呪縛から最後の一歩で逃れることが出来なかった。「考えられたこと」 [続きを読む]
  • 真理は現前している (2)
  • 「ものごとをあるがままを見るなどということができるはずがない。」というふうに言われることがある。私たちがなにかを見る時には必ず何らかのフィルターがかかっているということなのだろう。しかし、私に言わせれば、そのような考え方自体が、自分の感覚というものを科学的客観的な視点から俯瞰するという論理的思考の罠に陥っているのである。科学的客観的な視点というのも一種の架空、超越的でありドクサ(臆見)の種である。「 [続きを読む]
  • 真理は現前している
  • 科学的真理の探究というのは、現象の背後にある秩序を探るということだが、禅仏教における真理というのは現象そのものを指す。いわゆる禅問答のテーマとして「鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか?」というのがある。設問の仕方が少々稚拙かもしれないが、一応これは科学的な分析を意味しているのである。この場合、「鐘が鳴る」と答えても、「撞木が鳴る」と答えても正解ではない。種目で鐘をつけば「ゴーン」という音が鳴り響く、その「 [続きを読む]
  • 私は今ここにいる
  • 論理学では必然的に正しい命題をトートロジー(恒真式)という。「私は今ここにいる」というのは、誰がいつどこで言ったとしても正しい。私の今いるところを「ここ」というのだから、実は同じ内容を繰り返しているだけである。トートロジーは同義語反復とも言われる。いつも正しい言葉というのは実は意味のない言葉でもある。試しに、そばにいる人に向って、「私は今ここにいる」と言ってみたらどうだろう。たぶん、「そんなこと言 [続きを読む]
  • 根源的なことはなにも問えない
  • 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」というのは哲学愛好家の間ではよく知られた問題である。ウィキペディアによる17世紀の哲学者ライプニッツによって定式化されたとある。ライプニッツはその解を結局神に求めた。あらゆることの原因の源を神であるとしたのである。少し考えればわかることであるが、これは全然解答にはなっていない。神様がこの世界を創ったのは良いとしても、その神さまはどこから来たのかという疑問 [続きを読む]
  • 析空観と体空観
  • 前回記事で、析空観(しゃっくうかん)という言葉が出てきたので、この際に仏教における空観というものを以前書いた記事をもとに整理しておきたい。析空観とはウィキペディアによれば、「ものの在り方を分析して、実体と呼べるもの、いつまでも変らずに存在するものが、ものの中に無いことを観ていくこと」とある。つまり、机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、 [続きを読む]
  • 言葉は浮遊する(2)
  • 人は、言葉には客観的な世界の秩序が反映されていると思いがちである。「犬」や「猫」という言葉には、当然それにふさわしい対象が客観的に存在すると思っているのである。しかし現代言語学ではそのような考えは否定される。「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば(その時々の関心や意識などの)観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると [続きを読む]
  • 言葉は浮遊する
  • 【 人は、名前について問うことが出来るためには、既に幾らかのことを知っている(幾らかのことが出来る)のでなくてはならない。それでは、人は何を知っていなくてはならないのか? 】(「哲学探究」第30節より)" 言葉=ロゴス " という図式は言葉が不変であるという思い込みからくるのだろう。私たちはなにかの「名」を思い浮かべた時に、この世界の中にアンカーを打ち込んだような手ごたえを得るのである。この世界は無常で [続きを読む]
  • 関係の絶対性
  • ある人のブログで永田洋子の「十六の墓標」の書評を読んでいたら、「関係の絶対性」という言葉が浮かんできた。もし彼女が今の時代に学生時代を送っていたらどんな人生を送っただろうか、ということは誰しもが考えることではないだろうか。私の学生時代の頃、吉本隆明はとてももてはやされていた。私の周りには代々木系も反代々木系の学生もいて、特に反代々木系の人たちは吉本隆明をバイブルのごとく扱っていたように記憶してい [続きを読む]