kii さん プロフィール

  •  
kiiさん: 試撃行
ハンドル名kii さん
ブログタイトル試撃行
ブログURLhttp://yaplog.jp/shigekikou/
サイト紹介文幕末・維新に係る記事。史跡訪問。幕末維新系の時代劇レビュー。最近の事件を歴史に絡て考えてみたり。
自由文高杉晋作と幕末志士を紹介するHP「ぬしと朝寝がしてみたい」のブログです。
http://www.access21-co.jp/sinsaku/top.html
住んでる山口県下関市を拠点に観光や出張などで史跡をまわったり、幕末・維新に係るいろいろな記事を書いたりします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供219回 / 365日(平均4.2回/週) - 参加 2013/12/12 13:15

kii さんのブログ記事

  • 山口県山口市 山口政事堂跡
  • 江戸時代初期より長州藩の藩庁は萩の指月城でしたが、幕末に攘夷決行に備えて海に面した萩から、内陸であり領地の中心でもある山口に藩庁が移されました。長州藩が萩を藩庁としたのは幕府の指示であり、もちろん勝手に藩庁を移すことも、城を新たに造る事も許されません。幕府への申告には、萩は下関や二田尻、室積などの領内要所から遠く、イザというときの指示号令に差し障りがあるので、仕方なく山口に仮移転するという趣旨で報 [続きを読む]
  • 幕末朝鮮史
  • 日本が幕末に尊皇攘夷運動から倒幕を経て、明治維新を遂げた頃、お隣の朝鮮国はどのような状況だったのでしょうか?(タイトルが幕末朝鮮史ってなってますが、朝鮮は幕末ではないので、正確ではありませんが、わかりやすい表現として使っています)当時の朝鮮半島は、李氏朝鮮と呼ばれる王朝があり、日本と同じく鎖国政策を布いています。しかし、日本の出島や清国の広州のように欧米への窓口は無く、李氏朝鮮には世界情勢を知る手 [続きを読む]
  • 長州藩の異国船討ち払い
  • 長州藩は、幕末に下関で外国船に対して砲撃を行いました。これは周知される事件ですが、その137年前の享保11年。須佐湾に侵入した外国船を討ち払いを行っています。永代家老益田家の領地である須佐湾に唐船が現れ、これを須佐衆・萩衆があの手この手で攻撃を加えて沈めた事件で、当時の一隻の唐船さえ難儀していたのに、西洋の黒船に攻撃を仕掛ける事が、どれだけ無謀かを知る事ができるでしょう。享保11年8月7日。蟶潟の [続きを読む]
  • 島根県益田市 剣豪永井金三郎の墓
  • 石州戦争で戦死した剣豪永井金三郎の墓に行ってみました。永井は浜田藩士で剣豪として名の知られた人物だったようで、長州藩にも剣術を教えに出かけた事もあるらしいのですが、残念なことに調べても流派が判りませんでした。永井の墓は、石州戦争で戦場となった萬福寺の墓地にあります。この萬福寺の墓地には、かつて益田を治めていた益田兼見の墓があり、こちらの墓の方が有名で、説明板も建てられています。「益田兼見の墓」。益 [続きを読む]
  • 島根県益田市 染羽天石勝神社〜米原恭庵頌徳碑
  • 年末年始は嫁さんの実家の島根県益田市で過ごすことにしています。本来僕は長男ですので、自分の実家で過ごすのが道理なのでしょうが、嫁さんとこは男兄弟がおらず、正月は他の姉妹が帰って来ないので、寂しい正月を迎えるのは忍びないと、ウチの家族がお邪魔するわけです。そんなわけで益田市にちょくちょく行くわけですが、やはり益田市といえば石州戦争の舞台となった場所で、史跡も滞在中に少しずつ訪問しています。島根県益田 [続きを読む]
  • 山口県萩市 前原騒動慰霊碑
  • 萩の乱で散った士族達を慰霊する碑が、萩往還から萩市街に入る道筋にあります。萩市椿大屋周辺(前原騒動慰霊碑の場所)「前原騒動慰霊碑」。南無妙法蓮華経とだけ刻まれており、一見何の碑かわかりません。実は前々からここに碑があるのは知っていましたが、それが何の碑かは知りませんでした。この辺が萩の乱の激戦地だったとされますが、あまり資料がなくてよくわかりません。地元の人々が建てた慰霊碑なので、たまたまここに建 [続きを読む]
  • 下関市清末 清末藩陣屋跡
  • 清末付近に寄る事があったので、清末藩の陣屋跡に再訪。市内とはいえ自分の行動範囲とは外れていますし、これといった遺構があるわけでもないので、なかなか訪問する機会も無いのですが、気が向いたので、ちょっと行ってみました。清末藩は、全国で唯一の「孫藩」という立場にある藩です。宗家である長州藩の支藩である長府藩のさらに支藩であったので、長州藩を親とすれば孫のような立場でした。全国の他の支藩が分家を作り、1万 [続きを読む]
  • コーヒーブレイク
  • 年始早々コーヒーブレイクとは如何なものかとも思いますが、このブログは大概がコーヒーを飲みながら書いています。僕にとってコーヒーは欠かせません。朝食と共に1杯。出勤後に1杯。3時頃に1杯。そして夜ブログを書く時に1杯と、1日4杯も飲んでいます。出張中でもコンビニで100円のコーヒーを飲むのはお約束。僕はコーヒーで眠れなくなる事はありませんが、眠たいときに飲むと目が覚めるようで、とても便利な飲み物なわ [続きを読む]
  • あけましておめでとうございます 2019
  • あけましておめでとうございます。今年も試撃行をよろしくお願いいたします。維新150年の節目も終わりましたし、今年は大河も幕末モノではない。今年は結構気楽に新年を迎えております。とはいえ毎日100人前後の方が、このブログをご覧になっているようですので、2日に1度の更新はこれからも続けていくつもりです。継続は力なりと申します。これからも頑張っていきますので、「試撃行」よろしくお願いいたします。↓ランキ [続きを読む]
  • 平成最後の大晦日ですね
  • 平成は2019年4月30日に、天皇陛下の御退位と共に終わります。なので本日は平成最後の大晦日ということですね。もちろん明日は平成最後の元旦ですし、ちょっと前には平成最後のクリスマスだったし、これから平成最後の成人式があり、平成最後の節分があり、平成最後の卒業式、入学式があり、平成最後のエイプリルフールがあるわけです。なので2019年5月1日より新元号となりますが、意外と楽しみだったりします。僕は昭 [続きを読む]
  • 福岡県久留米市 山川招魂社
  • 久留米市にある山川招魂社に行ってみました。久留米の幕末の志士といえば、水天宮の神官で過激な尊攘活動家真木和泉ですね。彼によって久留米藩では水戸学(天保学)が盛んとなり、「天保学連」と呼ばれた尊皇攘夷の一派が生まれました。しかしながら藩内門閥派との抗争によって弾圧され、「天保学連」は壊滅。久留米藩は佐幕派によって運営され、真木ら尊攘派は10年に及ぶ蟄居処分となる。この事件は嘉永の大獄と呼ばれています [続きを読む]
  • 「錦の御旗」を最初に掲げたのは晋作??
  • 鳥羽伏見の戦いにおいて、新政府陣営に錦旗が掲げられ、これによって旧幕府軍は賊軍となり、朝敵となることを恐れた徳川慶喜は大坂城を脱出します。まあ錦の御旗に関しては、その正当性や有効性に諸説がありますが、とにかく官軍を象徴するシンボルでした。元々は朝敵討伐の証として、天皇から官軍の大将に与えられたもので、承久の乱で、後鳥羽上皇が藤原秀康に与えたのが最初とされてます。※実はこの承久の乱では、錦旗を掲げた [続きを読む]
  • 海響館
  • 下関には海響館という水族館があります。僕の子供の頃は現在の唐戸ではなく長府にありまして、隣接する遊園地「マリンランド」と共に、親や親戚に連れて行ってもらった記憶があります。この旧下関水族館は、開園当時東洋一の規模を誇り、イルカショーは日本初だったらしい。もちろん子供の頃の僕はそんな事はわかりませんが、釣りが好きで魚が好きだったので、連れて行ってもらえるのが嬉しかった。まあそういう思い出もあるので、 [続きを読む]
  • 長崎県大村市 五教館跡
  • 大村市立大村小学校の敷地内に、大村藩の藩校五教館がありました。五教館は九州では最も早く設立された藩校であり、全国でも7番目に出来た藩校です。4代藩主大村純長によって設立され、校名は集義館、静寿園と変更された後、9代藩主大村純鎮によって五教館と改称されました。名称の五倫道を教育の綱領にした事に由来します。現在の大村小学校のある場所に移されたのは、10代藩主大村純昌の頃で、その当時の正門が残されていま [続きを読む]
  • 長崎県大村市 斎藤道場跡
  • 玖島城下の武家屋敷通りのひとつ上小路に、斎藤道場跡があります。「斎藤道場(微神堂)跡」。大村藩に剣術指南役として招かれた斎藤歓之助は、与えられた屋敷内に道場を建てて「微神堂」と名付けました。藩が神道無念流を正式に推奨し、ほとんどの藩士達が神道無念流に転じ、一刀流や新陰流などの流派を学ぶ者がいなくなったとされます。歓之助は神道無念流練兵館の創立者斎藤弥九郎の三男で、剣術に優れ六尺を超える体格を誇り、 [続きを読む]
  • 西郷どん 総評
  • 西郷どん 総評のっけから薩摩にいるはずの無い島津斉彬を登場させ、西郷との運命的な出会いから始まった「西郷どん」。「民の為」をお題目に、民の為とは正反対の政策を繰り返す斉彬と、幼馴染という設定で、後の妻である糸を絡ませた少〜青年時代の西郷。江戸に出た西郷が出会うのは、まさかの品川遊郭通いの一橋慶喜。そして薩摩の貧農の出で、遊女となっていたふきは、慶喜の妻となるなど、まるで漫画のような展開でした。篤姫 [続きを読む]
  • 西郷どん47
  • 第47回「敬天愛人」。いよいよ最終回。西郷は糸や菊次郎、熊吉を延岡に残し、鹿児島へ向かう。延岡の病院は政府軍に接収され、糸らは西郷の行先を尋問されます。そこへ従道が現れて糸らと再会。従道は西郷が鹿児島に戻ったのだと直感しました。道なき道を進んで鹿児島に戻ってきた西郷軍。城山にこもって戦い続けます。一方、大久保は内国勧業博覧会を成功させるために精力を注ぐ。糸らは従道に連れられて鹿児島に戻ります。市来 [続きを読む]
  • 長崎県大村市 玖島城跡
  • 玖島城は大村藩の藩庁。大村藩の藩主家である大村家は、鎌倉時代より地頭を勤め、領主として地名の大村姓を名乗ったまま藩主家として存続しました。もちろん稀な例で、長州藩を毛利藩と呼んだり、薩摩藩を島津藩と呼んだりするような「藩主家+藩」の呼び名ではなく、他藩と同じように「地名+藩」なわけです。戦国時代には有馬貴純によって大村から一時的に追放されますが、再び大村を奪回し、有馬家から養子を迎えて縁戚関係を結 [続きを読む]
  • 長崎県南松浦郡 松園貫一翁頌徳碑
  • 五島列島の中通島に長期出張中。日曜日も現地休暇ということで、普通なら史跡めぐりでも・・となるのですが、中通島の幕末関連の史跡はすでに周り尽くしています。<記事は下記>長崎県南松浦郡 龍馬ゆかりの地長崎県南松浦郡 ワイルウエフ号と潮合騒動長崎県南松浦郡 鯛ノ浦キリシタン六人斬り関連史跡長崎県南松浦郡 続代官所跡まあ、今回はどこにも行く予定なかったので、宿のある魚目をうろついていましたが、ふと立ち寄っ [続きを読む]
  • 福井県敦賀市 敦賀陣屋跡
  • 敦賀藩は小浜藩の支藩で、小浜藩2代藩主酒井忠直の死後、次男であった酒井忠稠に1万石が分与されて始まりました。敦賀といえば戦国大名朝倉義景の領地で、豊臣時代には大谷吉継が治めていた地ですので、江戸時代も有力な大名の治める藩かなと思われがちですが、敦賀藩は1万石の小大名です。というのも敦賀のほとんどは、宗藩である小浜藩の領地で、敦賀藩は敦賀郡の一部を領しているだけで、現在の敦賀市街も小浜藩の所領でした [続きを読む]
  • 西郷どん46
  • 第46回「西南戦争」。西郷挙兵の情報に、政府は震撼。岩倉具視、木戸孝允、三条実美らは、大久保に詰め寄る。大久保は三条や岩倉に、西郷討伐の詔を賜れるよう頼みます。2月18日。西郷軍は川尻到着。突如、熊本城天守が炎上し、その2日後に夜襲が仕掛けられ、捕虜が捕らえられて熊本鎮台の仕業と判明します。捕虜より西郷と一党は賊軍で征討するという政府の意向が判明。西郷は「一蔵どんそういうことか・・」と西郷は覚悟を [続きを読む]
  • 家族旅行の最後に
  • 約一ヶ月をかけて旅行での史跡訪問の記事をUPしましたが、これにて終了(間に「西郷どん」の記事も挟みましたが・・)。家族旅行のついでに鳥取・岡山の諸藩庁を巡りましたが、とりあえず事故もなく、なにより家族に喜んでもらえたのが幸いです。車での旅行の楽しみのひとつは、サービスエリアでしょう。嫁さんはお土産選びを楽しみ、子供たちは探検を開始します。スイーツなどのおいしそうなものがあったら、皆で食べるのもまた楽 [続きを読む]
  • 岡山県倉敷市 東雲院〜生坂藩藩庁
  • 岡山藩の支藩は2つあって、どちらも岡山新田藩。藩というのは大概が藩庁のあった地(国持なら国)の名が付けられます。新田藩の多くは本藩の蔵米支給で成り立つ藩であり、実際は「1万石以上」という大名の称号を得るための方便でした。宗家がその分家を諸侯にするため「1万石以上」を与えた訳で、領地を分与して宗家の家格を下げないように、「新田開発によって生じた増益分」というカタチで、1万石以上の蔵米を分与したのが多 [続きを読む]
  • 岡山県倉敷市 岡田陣屋跡
  • 岡田藩は、羽柴秀吉に仕えた黄母衣衆の一人伊東長実を祖とします。長実は秀吉の死後は石田三成と敵対し、徳川家康に三成の挙兵をいち早く知らせた功績があり、関ヶ原の戦いにおける東軍勝利の要因のひとつとなりました。ですが、大坂の陣では豊臣方につき、家康と戦っています。戦後、関ヶ原での功を鑑みられ、改易されず僅かな厳封で大名として存続。以後、江戸時代を通じて伊東家が岡田藩の藩主として続きました。「倉敷市立岡田 [続きを読む]
  • 西郷どん45
  • 第45回「西郷立つ」。私学校が開設されて1年。生徒の数は2000人を超えました。元庄内藩士伴兼之と榊原正治もはるばる山形から参加。彼らは西南戦争に参加し、伴は田原坂で、榊原は延岡で戦死しています。戊辰戦争の回は端折りすぎで庄内藩と西郷の関係は、本編では語られずに今回の「西郷どん紀行」で補足してましたね。一方政府は、中原尚雄を密偵として潜りこませます。西郷は菊草をつれて帰ってくる。菊次郎にしてもそう [続きを読む]