雨宮清子(ちから姫) さん プロフィール

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雨宮清子(ちから姫)さん: 力石に魅せられて 姫は今日も石探し
ハンドル名雨宮清子(ちから姫) さん
ブログタイトル力石に魅せられて 姫は今日も石探し
ブログURLhttp://chikaraishiworld.blog.fc2.com/
サイト紹介文昔の若者たちが鍛錬と娯楽に使った「力石(ちからいし)」を紹介します。古典芸能や民俗行事、俳句なども。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供109回 / 365日(平均2.1回/週) - 参加 2014/06/21 20:22

雨宮清子(ちから姫) さんのブログ記事

  • 俗も聖域
  • 末尾の参考文献からお借りして、今回も暁斎さんと東助さんを続けます。明治17年8月25日の「暁斎絵日記」に描かれた本町東助です。東助の本名は「波野」。絵日記には「浪野」と書かれています。東助は暁斎の終生の友だったそうです。暁斎はこの絵を描いた5年後の明治22年にこの世を去り、東助はその2年後に友の待つあの世とやらへ旅立ちました。絵日記に描かれる東助は、いつも酒の肴(さかな)持参です。前回ご紹介した絵には、「 [続きを読む]
  • 酔っぱらいの絵師
  • 河鍋暁斎。幕末から明治前半にかけて活躍した絵師です。暁斎と書いて「きょうさい」と読ませています。画号を狂斎から暁斎に変えたとき、読み方だけは変えなかったそうです。ちなみに図書館では「ぎょうさい」と濁らないと検索できません。仕方がないか…。左はフランス人画家のフェリックス・レガメが描いた暁斎の肖像画。右は東京美術学校への提出用とされる写真。いずれも河鍋暁斎記念美術館蔵下記、参考文献よりお借りしました [続きを読む]
  • 本町東助碑
  • 今回からいよいよ、神田川徳蔵が全精力を傾けて再々建した「本町東助碑」のお話をしてまいります。碑は東京都世田谷区北烏山の幸龍寺にあります。この寺は初め静岡県浜松市に建立されましたが、天正19年(1591)、徳川家康の入府と共に江戸へ移転。しかし、それから332年後の大正12年、関東大震災によって焼失したため、昭和2年、現在地へ移転したという歴史を持っています。そのため、「東助碑」も移転。これに尽力したのが神田川 [続きを読む]
  • 羽部重吉の力石②
  • 「鳳凰石」について新たな記事を加えましたので、ぜひお目を通してください。神田川(羽部)重吉の力石4個目はこれです。東京都世田谷区北烏山・妙壽寺左にある大きな石、これに徳蔵と連名で重吉の名があります。でもこれを担いだのは徳蔵でも重吉でもありません。竪川町の大工の兼吉、「竪川大兼」です。「鳳凰 明治廿六年 竪川大兼 大正十三年改刻ス  世話人 神田川 飯定 徳蔵 重吉」つまり大兼さんが、明治26年と大 [続きを読む]
  • ラストハンター
  • 市の広報紙に聞きなれない講演会が載っていた。「罠猟の極意と山や川の現在」講師は静岡県西部の浜松市天竜区に住むホンモノの猟師、片桐邦雄さん。昭和26年生まれ。猟師といっても獲物を鉄砲で射とめる人ではない。イノシシや鹿と向き合い、一進一退を繰り返しつつ捕獲する罠(ワナ)猟師です。こうした猟師さんはこの人が日本で唯一かもしれません。日本一の「罠猟師」であることは間違いありません。この日は雨で、止めようかと [続きを読む]
  • 羽部重吉の力石①
  • 荷役業「飯定組」の親方、飯田定次郎に最も信頼され、組の2代目・飯田(神田川)徳蔵を陰で支え続けた男、羽部重吉。徳蔵氏のお孫さんで、埼玉県児玉郡新里で中華料理店「麺飯珍」を経営するKさんの記憶の中の重吉は、「おとなしそうなおじさん」。その重吉さんの名前が刻まれた石をご紹介します。全部で5個あります。2回にわたって全部お見せします。まずは氷川神社から。力石は氷川神社の「稲荷大明神」の祠のところに並んでい [続きを読む]
  • 帰りゃんせ
  • 「神田川徳蔵物語」から、ずいぶん寄り道してしまいました。徳蔵さんの千社札コレクションの中から、民俗学の祖・山中共古の札を見つけたのがそもそもの発端。そこから話は民俗学の大家で「官のアカデミー」の柳田国男に及んだ。その柳田が出版業者に発した「本屋ふぜいが!」の上から目線にカッチーン!同様に私の祖先はこの人から「巫女ふぜいが!」と見当違いの記述をされ、さらに地元郷土史家からは、未公開の私文書を楯に、「 [続きを読む]
  • 友、遠方より来たる②
  • 「望嶽亭・藤屋」をでると、目の前が「薩埵(さった)峠」の登り口です。友人はなにしろ海外の山旅のベテランなので、夕べの夜行バスの疲れもなんのその。坂の途中で振り向けば笠をかぶった富士山が…。雪のない富士山で、雄大さにはちょっと欠けるけど、「海と富士山を一緒に見たい」という希望は、なんとか叶えてあげられたかも。静岡市清水区由比西倉沢登るほどに駿河湾が迫ってくる。友人は歩きながら、片手に持ったカメラで野 [続きを読む]
  • 友、遠方より来たる①
  • 10月3連休は、石川県金沢市から友人を迎えて楽しみました。昔、私が出した山登りの本を読んで、「お母さんになっても登山を続けていいんだと勇気をもらいました」というお手紙を下さった方です。所属する山の同好会で静岡市へ旅行に来ることになり、彼女だけ一日早く来静。なんと、27年ぶりの再会です。お互い、孫を持つ身と相成りました。初日の半日は由比の「薩埵(さった)峠」へ軽いハイキング。由比といえば桜えび、というわ [続きを読む]
  • これでおしまい
  • 「角田桜岳日記」の中で河津祐邦が言った「曽我社には細川、雨宮という二人の神主がいた」というくだりを読んだとき、真っ先に浮かんだのは、伯母の一人から聞いた話だった。この伯母は兄や姉たちにではなく、なぜか、「何を考えているかわからない気味の悪い子」と疎んじられていた私に、「清子さん、よく覚えておくのですよ」と懸命に話しかけた。こんな話だった。「祖先はもとは細川といい、京都で戦乱が起きた時、都落ちしてき [続きを読む]
  • 光明
  • 今日のブログは長〜いです!よそんちのごくごく個人的な歴史をお読みいただくのは申し訳ないと思いつつ。     ーーー?ーーー父を青ざめさせた「神主が横領云々」の文言は、その本の著者によると、「延宝六年、厚原・曽我八幡宮の神主、細川喜太夫が、伊豆の河津三郎兵衛に宛てた宝物借用願いの中にあった」という。そこに書かれていたのは、貸した宝物は河津三郎兵衛代々の系図や正観音など五点。しかし出開帳のあと、四点は [続きを読む]
  • 長政まつり
  • 「長政まつり」へ行ってきました。静岡浅間神社の門前の商店街で行われました。山田長政は駿府(静岡市)で生まれ、江戸時代初め、シャム(タイ)へ渡り日本人町で頭角を現わし、その後、タイ・リゴールの王さまになった人です。最後は毒殺されたともいわれています。タイの長政から静岡浅間神社へ奉納された絵馬と祭り用の象のハリボテ。このまつりは静岡市の若者たちが1986年に始めたもので、その後、日本とタイの友好事業となり [続きを読む]
  • 想いあふれて
  • 「お父さんのうちはドロボーをするような家じゃない」「神主が横領したか?」の記事を見たとき、咽喉の奥から漏れた父のうめき。他人さまにはなんでもない小さな記事ですが、父には自分の人生の支えを叩き潰されたように思えたのです。それにはこんな理由がありました。父は、私には祖父にあたる人の3番目の妻の子で、父親が53歳のときに生まれ、わずか14歳でこの父を亡くした人です。22歳年長の腹違いの兄は19歳のとき、没落した [続きを読む]
  • 青ざめた父
  • 力持ち・神田川徳蔵の千社札コレクションの中に、民俗学者・山中共古を見つけたため、話がずいぶん飛んでしまいました。回り道ついでに、もう一つお話しなければ収まりがつきません。父への鎮魂です。あと三回ほどお付き合いください。柳田国男の著作の中に父の家のことが出ていたのは、すでにお話しました。「小祠」という指摘はその通りですが、「歩き巫女の定着した」という見当違いの記述は、幸い、父に知られずに済みました。 [続きを読む]
  • 「本屋風情(ほんやふぜい)が!」
  • 柳田国男は東京帝大の坪井正五郎が設立した「集古会」について、自著「故郷七十年」でこう述べている。「道楽の気味のある人ばかりの集まりで、突飛なものさえ出せばほめられる。私は田舎者だからそういう人と一緒になって、「さようでゲス」なんていって歩くことはできなかった」明治29年から昭和19年まで続いた集古会の会誌。「内田魯庵山脈」よりお借りしました。柳田は集古会の人たちの研究発表を「道楽」と蔑んでいますが、こ [続きを読む]
  • 野のアカデミー
  • 日本民俗学の父と呼ばれた柳田国男と同時代に、宮本常一という民俗学者がおりました。足にゲートルを巻き大きなリュックを背負い、野越え山越峠を越えて、山奥の村から村へ民俗探訪の旅を続けた人です。行った先々で民家に泊めてもらい、古老に話を聞き、古文書を書き写した。そういう旅を死ぬまで続けた。訪れた先は全国1200ヵ所にも及んだという。同じ民俗学者であっても、柳田と大きく違っていたのは、柳田が非定住者の漂泊民や [続きを読む]
  • 権威って何だろう?
  • 徳蔵の千社札コレクションの中に、考古・民俗学の研究家、山中共古の千社札があるのは、当然と言えば当然のことなのです。山中共古の名前がある千社札「浅草年中行事」です。「徳蔵コレクション」より上段右端に「山中笑(共古)」。下段左から2番目に江戸文字の高橋藤之助。右端の「寿多有」は、アメリカ人の人類学者、フレデリック・スタールです。「お札博士」と呼ばれていました。昭和8年、東京・聖路加病院にて死去。そして、 [続きを読む]
  • 粋と洒落の人生
  • 「いせ万」東京・神田多町の青物問屋「伊勢屋万次郎」の五代目。本名・大西浅次郎。明治七年(1874)生まれ。納札家・関岡扇令の言を借りれば、「柳橋、浜町、白山などの遊里へ足しげく通い、粋な遊びに興じ、また芸人をこよなく愛し …略…千社札の蒐集研究では、その右に出る者はなく、資料や古文書を納めた「いせ万文庫」は納札界において最も権威があった」 =「千社札」西山松之助監修、関岡扇令編 講談社 昭和58年=「遊 [続きを読む]
  • 「いせ万」追善力持ち
  • ※後ろに追加写真があります。すでに読まれた方も、ぜひもう一度見てください。           ーーーーー◇ーーーーー東京・秋葉原駅近くの神田川沿いにあった神田川米穀市場。そこで荷揚げを業としていたのが飯田定次郎の「飯定組」です。その「飯定組」の後継者となった神田川(飯田)徳蔵は、大正から昭和初期にかけて名を馳せた力持ち力士ですが、「千社札(せんしゃふだ)」の世界にも身を置いた趣味人でもありました [続きを読む]
  • 謎解き
  • 珍しい写真をお見せします。今から94年前の大正12年4月、「力持同好会」のメンバーや家族が船で花見に出かけた時の写真です。これは日本橋浜町でそば屋を経営していた浜町(田口)秀太郎のご子息が所持していた写真で、1975年に週刊朝日のグラビアに掲載されたものです。船の舳先に力石が積まれています。お囃子も同行。もちろん、こも被りの酒樽も。出発場所は日本橋浜町の蛎浜橋。行先は千住です。写真左上の看板に「釣舩(船) [続きを読む]
  • 徳蔵さん?
  • 前回、杉並区・氷川神社の「六拾貫余」の力石をご紹介しました。この石は神田川徳蔵が持ち、立会人として3人の力持ちの名があることもお伝えしました。今一度、ここにお見せします。3人の名は、竪川大兼、川岸寅五郎、浜町秀太郎です。どんな人たちかというと、こんな男達です。浜町秀太郎は前回の写真をご覧ください。下の写真は、大正15年、神田佐久間町佐久間学校にて行われた神田川徳蔵(中央)による「大石差切」です。左で扇 [続きを読む]
  • そば屋の秀太郎さん
  • 濱(浜)町秀太郎、以後、浜町と表記します。写真の登場人物の特定も、いよいよ佳境に入って参りました。浜町秀太郎、本名、田口。日本橋浜町のそば屋の主人。関東大震災のあと、世田谷区大原へ移転。秀太郎の力石は、都内3カ所に9個残っています。赤矢印が本日の主役、浜町秀太郎です。青矢印の人物は麹町生島。生島の横の帽子の男は「謎の男」です。あとでまた出てきます。埼玉の研究者の斎藤氏によると、赤い星マークの石には、 [続きを読む]
  • 懐かしくもあり切なくもあり
  • 青山熊野神社での「八百喜代納石力持」には、名の知れた力持ち力士が何人か参加しています。ここではその中の一人、東京都世田谷区羽根木を根城に勇名を馳せた羽根木一派の羽根木政吉をご紹介します。羽根木政吉、本名・細野。羽根木の漬物業者で、漬物石を日常的に持ち上げていたため力が強かったそうです。羽根木政吉です。向かって右は青山八百喜代です。羽根木政吉の名を刻んだ石は、都内4カ所に9個。そのうち八百喜代と連名の [続きを読む]
  • 減ったり増えたり
  • 大正9年、東京・青山で行われた八百喜代の納石力持ち。その記念写真の中に我らが徳蔵が見当たらない。でも似たような人物が一人います。しかし、埼玉の斎藤氏も徳蔵縁者のEさんも「この人では?」と思うものの、今一つ決め手がない。なにしろ当日の力持ち番付に徳蔵の名前がないのが致命的です。ま、徳蔵の件はこの際ひとまず置いといて、この日の主人公・八百喜代(やおきよ)へとまいります。青山八百喜代です。  (トリミン [続きを読む]
  • 花咲徳栄高校、おめでとう!
  • 埼玉の研究者、斎藤氏からこんなメールが届きました。「花咲徳栄(はなさきとくはる)高校、            埼玉県勢で初めて夏の甲子園で優勝!」「マスコミやTVアナウンサーや解説者は、広陵の勝利となるシナリオを描いていたのがほとんど。冗談じゃない。結果はそいつらの鼻をあかすに充分な勝ち方・得点で溜飲を下げた次第」テレビの前で缶酎ハイを飲みながら、拍手したり絶叫したりしていたそうです。で、そこはさ [続きを読む]