雨宮清子(ちから姫) さん プロフィール

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雨宮清子(ちから姫)さん: 力石に魅せられて 姫は今日も石探し
ハンドル名雨宮清子(ちから姫) さん
ブログタイトル力石に魅せられて 姫は今日も石探し
ブログURLhttps://chikaraishiworld.blog.fc2.com/
サイト紹介文昔の若者たちが鍛錬と娯楽に使った「力石(ちからいし)」を紹介します。古典芸能や民俗行事、俳句なども。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供111回 / 365日(平均2.1回/週) - 参加 2014/06/21 20:22

雨宮清子(ちから姫) さんのブログ記事

  • 清正公さんの力くらべ
  • まずはこの写真をご覧ください。人、人、人。大変な群衆です。背後の建物には「旭硝子株式会社倉庫」の文字がみえます。赤丸の中に丸太を担いでいる徳蔵がいます。写真にはこんな説明がついていました。「大正十五年七月十九日 名古屋市郵般会会空地ニ於イテ 二日間力角及ビ力持ヲ催ス 中央輪掛セルハ神田川徳蔵」この「輪掛け(りんがけ)」ですが、伐採した木材を乾燥させるため井桁(井の形)に組むことをいいます。それで、 [続きを読む]
  • 徳蔵の絶頂期
  • 大正15年(1926)前後から昭和前期にかけては、徳蔵の絶頂期だったと思います。ことに大正15年はその活動がめざましく、各地で力持ちを披露。下の写真は、「大正十五年 高園寺ニ於テ角□店先ニテ寫(写)ス」の覚書がある記念写真です。赤矢印が神田川徳蔵です。徳蔵、このとき、35歳。斎藤氏は、背後の幟に書かれた「天力 丙寅仲夏」から開催月は「大正15年5月」、店は日本蕎麦屋、左隣りは歯科医院と推定。こちらが写真に貼付 [続きを読む]
  • 削られた裏面
  • 今回も「東助碑」の裏面にこだわっていきます。シツコイ? でもね、物事はこだわりを持つところから進展する。なんちゃって!なんせ、これは神田川徳蔵の名誉に関わる問題なので、悪しからず。東助没年の翌明治25年に建立されたこの碑、そのときの石工(彫刻師)は山口平四郎でした。しかし、現在の碑にこの名はありません。碑の表と裏では石面の肌触りや色が明らかに違います。たぶん碑の裏面は、大正15年の再建のとき研磨して元 [続きを読む]
  • ハマリますよ!
  • 某ブログに書かれていた「碑背面には高砂や榊原、馬術の草刈庄五郎らの名があります」を確かめるべく幸龍寺へ飛んだ埼玉の斎藤氏。その日のうちに結果がもたらされました。「やっぱりなかったですよ。ブログ記事は勘違いかフェイク」力石や力持ち碑などは注目度が低いので、それを採り上げてくださるのは本当に有難いのですが、ちょっと困惑。というわけで、斎藤さん、ご苦労様でした。でも何事も無駄にはしない斎藤氏です。ちゃっ [続きを読む]
  • 久しぶりに怒っちゃった
  • 疲れましたァ…。久しぶりに怒りが脳天突き抜けて、ここ数日、気をもんでイラついて。いつも利用している某通販に注文したら荷物が届かない。委託の宅配業者の問合番号で追跡したら、なんとすでに「配達済み」。そんなバカな! 宅配業者へ電話したら、「間違ってボタンを押しただけ。荷物は手元にあるから」と。でもね、その後、配達された荷物、なんかグシャッとしててセロテープがベッタリ貼られていて。そこで初めて、荷物は誤 [続きを読む]
  • 神田川派の旗揚げ
  • 元・薩摩藩士でのちに第二代総理大臣になった黒田清隆。この人が力持ちのために揮毫した石碑は2基あります。一つは東京都大島の岡田港にある「大島伝吉」碑、そしてあと一つが「本町東助」の碑です。黒田清隆が総理大臣になったのは明治21年。翌年、大日本帝国憲法が発布されますが、黒田はその年のうちに辞任。東助碑は辞任の3年後、伝吉碑は5年後の明治27年の建立です。下の写真は5年前、私が写してきた「東助碑」の裏面です。こ [続きを読む]
  • 納札睦会
  • 神田川徳蔵の結婚前の名は佐納徳蔵。荷揚業「飯定組」の親方、飯田定次郎に見込まれて、定次郎の5女お千代さんの婿養子となり、二代目を継いだ。この結婚がいつごろかは定かではないが、縁者のEさんによると、大正10年から12年ごろではないかという。徳蔵30〜32歳のころにあたります。最初授かった女の子を幼くして亡くし、震災の翌年、待望の男児を授かります。飯田定太郎です。下の写真は、定太郎誕生のころの力持ち興行です。 [続きを読む]
  • 東助碑、倒壊
  • 当時の著名人たちが発起人になり、華々しく報道された「本町東助碑」。最初、亀戸八幡宮境内に建立するはずでしたが、なぜか2か月後には、当時、浅草にあった幸龍寺に変更となった。こちらは現在の亀戸天満宮に残る力石です。東京都江東区亀戸この幸龍寺は初め、2代将軍秀忠の生誕地、静岡県浜松市に創建されます。その後、家康の移動に伴い、駿府(今の静岡市)へ移転。そこから江戸・湯島、さらに浅草へと移転を繰り返します。そ [続きを読む]
  • 発起人たち
  • ※「相撲の土俵の一件」付け足しました。東都力持ち界の中心人物・本町東助こと波(浪)野東助は、怪力の人でもあり、風雅の道を極めた人でもありました。その東助、明治21年に自らの引退披露のための「書画会」を開催。その様子を無二の親友、河鍋暁斎が描いたのが下の絵です。東助は米俵につけた筆で書をしたため、風雅と力技を披露しています。「酔うて候ー河鍋暁斎と幕末明治の書画会」成田山書道美術館・河鍋暁斎記念美術館編 [続きを読む]
  • 再び、神田川徳蔵です
  • 大正・昭和を代表する力持ち、神田川徳蔵。前の記事から1か月半ぶりの登場です。もうね、みなさんの記憶から消えているんじゃないかと。だって書いている私が「ハテ? 話はどこまでいったっけ?」なんですから。頭を切り替え記憶を取り戻して、再スタートです。前回は、今から95年前の大正12年に起きた関東大震災でのお話でした。大惨事の被服廠跡へ親方の娘・おスミさんを捜しに行った徳蔵。しかしどこにも姿はなく。もうこの世 [続きを読む]
  • 豊かさをありがとう
  • 玄関を入ると目の前の壁に、ご一家の写真が飾られている。いずれも正装して写真館で撮ったものだ。最初は友人夫妻と3人のお子さんの写真。壁の写真はそこからスタートして、次の写真にはそれぞれのお嫁さんが加わり、さらにお孫さんが増えていき…。そのどの写真にも、家族の要(かなめ)に友人がいた。間もなく沖縄で挙式するという三男さん。そのお嫁さんもすぐに新しい家族としてこの壁を飾ることでしょう。結婚に失敗した私に [続きを読む]
  • 夢は実現させるもの
  • 「私の山歩きの原点は父」と友人は言ったその父が始めたファミリー登山で鍛えられたという。「当時、周囲は青年、壮年の男性ばかり。女性も子供も珍しく、幼い弟は褒められては歩き、母の胸に手を出してはまた歩き…。槍ヶ岳は私が小6、弟が小2で立っています」その槍ヶ岳(後方のとんがった山)と北穂高岳です。ついでながら、私の初めての雪山山行・奥穂高をお見せします。 (上の写真もこのときのもの)前から2番目が私。山 [続きを読む]
  • 主婦が山へ行くということ
  • そもそも友人とはどこで知り合ったのか、みなさん気になる所だと思います。思い返せば今から33年前。私が本を出したことに始まります。こんな本でした。主婦もどんどん外へ出て、好きなことをやりなさいという、「不良のすすめ」「そそのかし」の指南書です。ちなみにお世話になった発行元の山と渓谷社の担当者さんは、定年後伊豆へ移住。今も賀状で近況を伝えてくださっています。この本の私は「昔の名前」で出ております。「表紙 [続きを読む]
  • ごちそう攻め
  • 白山市から再び金沢市へ。駅で地元のTさんと別れ、しばし土産物の物色です。友人は観光客用ではなく、地元の老舗が並ぶ一画に案内してくださった。でも迷いましたねぇ。日もとっぷり暮れたころ友人は、とある料理屋さんの前で、「ここここ。さ、入って」と戸を開けた。「えっ?」と戸惑う私に、「予約してあるのよ」もうサプライズの連続です。案内されたのは蓮根(れんこん)料理の「はす家」さん。金沢のうまいもんといえば日本 [続きを読む]
  • 文弥まつり・でくの舞③
  • 白山市東二口(ひがしふたくち)の人形、裸にするとこんなふうになっています。十字に結んだ心串に首(かしら)を差し込んであるだけで、手も足もありません。これに衣装を着せて人形遣いが一人で動かします。これを一人遣いといいます。ここから発展したのが文楽で、こちらは3人で動かしますから三人遣い。語りは延宝・元禄のころ一世を風靡した「義太夫節」。東二口の浄瑠璃(でくまわし・でこまわし)は「文弥節」です。この違 [続きを読む]
  • 文弥まつり・でくの舞②
  • 浄瑠璃の表題は「出世景清」。で、私、思ったんです。なんで「出世」とつくのだろうって。作者の近松門左衛門は、その最終章の「五段目」をこう締めくくっています。「源頼朝は自分の命を狙う景清を捕えて首を刎ねた。そしたら観音さまの首が落ちた。つまり観音さまが身代わりになったのだ。これを見た頼朝は深く感じ入り、景清を赦した上、日向国まで与えた。この温情に景清は声をあげて泣いた。でも気がかりなのは、頼朝の姿を見 [続きを読む]
  • 文弥まつり・でくの舞①
  • 350年もの伝統を持つ白山市東二口集落の「人形浄瑠璃」は、毎年2月の4日間だけ、ここ歴史民俗資料館で上演されるという。その貴重な千秋楽に、私は訪れることが出来たのです。なんという幸運!いよいよ始まります。開演に先立ち、まずは人形による口上です。派手な衣装のこの人形、勇ましい語りと大きな身振りで、右へ左へ舞台狭しと動き回ります。人形遣いさんも重労働ですね。人形の口上のあとは、浄瑠璃保存会の方の説明です。 [続きを読む]
  • 12戸の村
  • 金沢駅前からバスは一路白山市へ。行くほどに雪が深くなる。「東二口(ひがしふたくち)は本当に山の中なんですよ。国道ができてやっと行き来ができるようになって…」と友人。その国道とは、石川県から福井、岐阜をつなぐ157号線のこと。険しい山間地が連続するため「酷道」と呼ばれているとか。「落ちたら死ぬ」などと書かれた看板が立つほどだと聞いていたが、集落までは難なく通行できた。それでも4年前にはそこも土砂崩れを起 [続きを読む]
  • ちょこっと観光
  • ※ 末尾に「ヨリックさん」からの写真を追加しました。ぜひご覧ください。金沢滞在二日目は市内見物です。スキーや雪山山行とは違う、雪国の日常を知るよい機会となりました。雪囲いです。昔、豪雪地帯へ行ったとき、白一色の世界から、ふいに人影が現われてびっくりしたことがあります。家などどこにも見えないのに、音もなく丸い影がふわーっと。思わず目を凝らしました。この人たち一体、どこから?白一色というのは墨絵のよう [続きを読む]
  • 鯛のカラ蒸しと水蟹
  • 楽しいお座敷遊びから一夜明けた。なんだかずいぶん長居をしているみたいだけど、金沢へはつい昨日の午後着いたばかりだ。翌朝、午前5時に目が覚めた。金沢の朝はさすがに寒い。布団からなかなか出られません。頃合いを見て、食堂へお邪魔する。窓枠いっぱいに雪景色。その上に雪が音もなく降り注いでいる。テーブルにはすでに豪華な朝食が並んでいた。なんとまあ、いつの間にこれだけのお料理を!「鯛のカラ蒸し」です。鯛の背に [続きを読む]
  • テン、ドンドン
  • 厳しいお稽古に耐え、芸を磨いてきたお姐さんたち。艶やかに、でも、とっても楽しそうに踊っています。どの方も粋で優雅で美しい。うつくしき川は流れたりそのほとりに我は住みぬ大正13年、詩人の室生犀星は、自分の筆名にも用いた犀川のほとりに、作家・芥川龍之介を迎えた。そのとき芥川は、「シャッポ(ショッポ)」という変わった源氏名を持つ芸妓さんと会った。このシャッポさんは私たちが訪れた西茶屋街の芸妓さんで、このと [続きを読む]
  • お座敷遊び
  • ようよう友人宅へ到着。荷物を置いて上着をハンガーに掛けていたら、もうコーヒーが運ばれてきた。やることが素早い。「ひと息ついたら出かけましょ。着物着て…」友人が指差したテーブルの上には着物や小物が乗っかっている。「うちへ来たお客さんにはみんな着てもらってるの。留学生は喜んでくれるけど、中にはどうしても着たくないという人も。でもやっぱり着物でしょ」金沢ナカオ山岳会や金沢大学ワンゲル部OBの友人は、「石 [続きを読む]
  • 「金澤町屋」を歩く③
  • 「かずえ町茶屋街」を抜けて浅野川大橋へ。橋の上にも大通りにも人がぞろぞろ歩いている。全部観光客だという。「すごい! 天気予報は暴風雪って言ってたのに」冬の金沢へ観光にくるなんて発想、今までの私にはなかったから、この行列にはたまげた。「観光客がいなかったら冬の金沢なんて何んにもないところよ」だれよりもふるさと・金沢を愛している友人がそんなことを口にした。やがて町屋が集結したような一画に出た。二つ目の [続きを読む]
  • 「金澤町屋」を歩く②
  • 「大きく美しい黒瓦の屋根、木虫籠と黒漆喰の正面意匠」ー。金沢市文化財課では、料亭「壽屋」の建物をこのように紹介しています。で、「木虫籠(きむしかご)」って何だろうと思ったら、これ「キムスコ」と読み、町屋のあの細い出格子のことでした。建物を覆った木の格子は、まさに「虫かご」。その格子にインドのベンガラ地方の赤い顔料を使ったことから、「弁柄(紅柄)格子」ともいうそうです。そういえば前回ご紹介した町屋、 [続きを読む]
  • 「金澤町屋」を歩く①
  • 話が前後しますが、お許しを。毛針の目細商店へ立ち寄る前、私たちは「町屋(まちや)」なるものを見て歩きました。最初に目にしたのがこちら。かつてはこうした商家が軒を連ねていたそうですが、時代とともに取り壊しや空き家が目立つようになった。そこで、江戸の風情を今に伝える歴史的建造物を残そうと、市や市民団体が保存と継承、活用に取り組んでいるとのこと。細かい格子戸が印象的です。狭い道路に音もなく走り込んでくる [続きを読む]