雨宮清子(ちから姫) さん プロフィール

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雨宮清子(ちから姫)さん: 力石に魅せられて 姫は今日も石探し
ハンドル名雨宮清子(ちから姫) さん
ブログタイトル力石に魅せられて 姫は今日も石探し
ブログURLhttps://chikaraishiworld.blog.fc2.com/
サイト紹介文昔の若者たちが鍛錬と娯楽に使った「力石(ちからいし)」を紹介します。古典芸能や民俗行事、俳句なども。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供110回 / 365日(平均2.1回/週) - 参加 2014/06/21 20:22

雨宮清子(ちから姫) さんのブログ記事

  • 笑顔が並んでる
  • 埼玉の研究者・斎藤氏の「路上観察物件」をご紹介します。斎藤氏は力石だけでなく、路上観察歴も長く豊富です。埼玉県草加市の某所だそうです。思わず笑ってしまいました。不謹慎な!とお叱りにならないでくださいね。石塀ごしに隣りの墓地を覗く植木の坊やたち。なんて楽しい光景なんでしょう。植木屋さんのセンスかしら。それとも、茶目っ気たっぷりのこの家のご主人のアイデア?癒されます。地上の人も地下の人も。 [続きを読む]
  • 師走二題
  • 「もう12月だなんて。一年なんてあっという間ねえ」「ホントにねえ。また一つ年とっちゃうよ」って言うことが、多くなりました。しょうがないよね、いやでもなんでも月日は巡るんだから。そんな走るが如き師走の中、ちょっと話題を変えてお話を二つ。今年の年頭のブログに、私は干支の犬を載せました。近所の農家のおじさんが亡き愛犬をモデルに作ったススキの犬。その後どうなったかなあと行ってみたら、いました! ヨレヨレのボ [続きを読む]
  • 久世家の庭石
  • 昭和20年の敗戦から立ちあがり、近代化へと突き進んだ日本。中でも物流の世界ではいち早く機械化が進み、目覚ましい発展を遂げます。しかしそれと引き換えに、すべてを人の力に頼っていた人力の時代が急速に衰退し、同時に力石も見捨てられていきました。それを惜しみ、往年の力持ちたちの力石を集めて開催したのが、「誉れの力石建立祭り」でした。発起人の古谷野庫太郎が、あえて「誉(ほま)れ」と名付けたのは、長い年月の間に [続きを読む]
  • 琉球弧の島唄
  • 昨日は沖縄民謡をたっぷり聴いてきました。場所は、静岡音楽館AOI。早くから前売り券を買って楽しみにしていました。「たっぷり聴いてきた」なんて言っちゃいましたけど、こんな本格的なのは初めて。出演は、知名定男、大城美佐子、大工哲弘、仲宗根豊、西和美の各氏。奄美、沖縄、宮古、八重山の民謡界を代表する方ばかりだそうです。そういう方々の声量豊かな歌声が、三線、横笛、太鼓、琴の音と共に、広いホールに響きわたりま [続きを読む]
  • 黒山の人だかり
  • 戦後9年目の昭和29年1月、秋葉原駅前にある日本運輸倉庫の広場は、力持ちたちの妙技を見ようと集まった群衆で埋め尽くされた。背後に見えるのが当時の秋葉原駅ホームです。「鏑木止め」「人篇止め」「曲俵」「脚立受け」…。「道行く人はみんな足を止めて見入った」と平原氏。ヒョイヒョイっと                 ホラヨッと こちらは「力石建立祭り」の開催を事前に知らせた毎日新聞の記事です。力石の前で説明し [続きを読む]
  • 東喜代駒
  • 力持ちの古谷野庫太郎の尽力で開催に漕ぎつけた「誉れの力石」の祭りには、かつての仲間たちがおおぜい詰めかけた。その中に、力持ち界から芸能界入りした東喜代駒(あずま きよこま)がいた。喜代駒は「バイオリンを引っ提げて参加した」と、「物流史談」の著者、平原直は書いています。下の写真は、大正13年、「峰崎家」主催の宴遊会で、力持ちの余興をする神田川一派です。徳蔵の隣りの洋装の男が喜代駒です。喜代駒は昭和初期 [続きを読む]
  • 誉れの力石建立祭り
  • 力持ちの古谷野庫太郎と会った翌日、平原直は九州全土をめぐる講演旅行に出た。帰京は一か月後。旅行中、平原は「力石と力持ちを思い浮かべて独り興奮していた」。興奮は収まりそうにもない。そこでとうとう、旅先から古谷野へ手紙を書いた。「力持ちの技法こそは、われわれ先人たちが苦心を重ねた末編み出した貴重な日本の伝統技術の一つであると思う。このまま日本の伝統文化の中から消してしまうのは残念だ。帰京したら復活の準 [続きを読む]
  • 3枚の写真
  • 先のブログ記事、「力石を愛し続けた男」で、私はこの写真を掲載しました。昭和28年に初対面を果たした力持ちの古谷野庫太郎と、物流の父・平原直(右)が力石の前で並んでいる写真です。一段高い所に立ててある石には「山豊石」と彫られています。あとで出てきますので覚えておいてください。1枚目の写真でも掲載後、「平原アルバム」の別の写真を見て、ハタと考えてしまいました。どちらも同じ時期のものですが、上の写真の男性 [続きを読む]
  • ちょっとひと息
  •   =追々記=横浜の通り魔捕まりましたが、私が8月に遭遇した杖の男に似ているんですよ。わざわざ横浜からこちらまで来るとは考えられませんが、でも「恥さらしな人間のクズ」と私に吐き、金属製の変な杖を振り上げかけた姿は今も脳裏にこびりついています。  =追記=本日(11日)、静岡浅間神社内にある資料館へ。境内は着飾った七五三の小さな紳士淑女たちで華やいでいました。その中に、白地に金糸銀糸、赤青などの豪華な [続きを読む]
  • 旅する力石
  • 今日のブログは長〜いです! 飽きずにお付き合いのほどを…。   ーーーーー◇ーーーーー力石って、よく動くんです。昔はもうしょっちゅう。お地蔵さんもたびたびいなくなりました。「毎晩、夜遊びに出歩くお地蔵さんに困り果てた寺の住職が、とうとうお堂に閉じ込めてしまった」なんて話も。実はこれ、お地蔵さんが自分で出歩いたわけではありません。夜こっそり若者たちが運び出したのです。昔は、自分の力で持ち運べたら、力 [続きを読む]
  • 「浦しま 五十六メ目」
  • 前回、物流の平原直と力持ちの古谷野庫太郎が、戦後の昭和28年、秋葉原駅近くにあった日本運輸倉庫前で、初めて会った話をしました。そのとき撮影した写真に気になる石がありました。こちらです。左の石には「五十六メ目」の刻字があります。古谷野の「銘石調帖」には、こう書かれています。「浦しま 五十六メ目   郵船 浦島丸 船頭名不明 箱崎へ」「浦島丸」って、もしかしたら、これでしょうか? 「浦島丸」 大正14年( [続きを読む]
  • 力石を愛し続けた男
  • 平原が力持ちの古谷野庫太郎と初めて会ったのは、終戦から8年後の昭和28年の秋だった。きっかけは、かつて勤務していた日本通運の友人からの紹介。そのとき、平原の目に映った古谷野は、「語る言葉も朴訥(ぼくとつ)な、一見、野人。根っからの現場育ちの荒くれ男」深川河岸の船頭の子として生まれた古谷野は、関東大震災後、陸へあがって日本運輸倉庫で働くようになった。そして、現場での腕を磨くため、力持ちの技の修行に専念 [続きを読む]
  • 平原アルバムを開く
  • 「徳蔵物語」、再開します。大正・昭和初期の力持ちで、神田川一派を率いた飯田徳蔵は、第二次大戦の東京大空襲で、家も職場も力持ちへの意欲も失ってしまいます。そして終戦から9か月後、身を寄せていた「飯定組」の従業員・重吉の家のふろ場で、突然の死を迎えてしまいました。享年55歳。一人息子の定太郎が戦地から帰還してわずか1週間目。あまりにも短い再会です。でも失意の中にいた徳蔵にとって愛息子の生還は、何ものにも代 [続きを読む]
  • 人の見残したものを見る
  • 静岡県立美術館の木下直之館長のことは、ロバート・キャンベル氏との対談を聞くまで、私は何も知らなかった。この対談から啓示のようなものを感じて、私は慌てて館長の著書を読んだ。もうまったくの速読・乱読。でも飛び込んでくる言葉は共感できるものばかり。私はたちまち魅了された。「祭礼の数日間だけ出現しては壊されながらも次の祭礼にはまた出現する、という具合に、日本にはハリボテをハリボテとして眺め、いわば、そのイ [続きを読む]
  • 意外なところに「東助」が…
  • 久しぶりに美術館へ行きました。絵を見に、ではなく講演と対談を聞きに。私は美術館が苦手。まず建物に威圧され、知的で上品な受付の女性に緊張し、鑑賞者が一様に押し黙り、順路通りに歩くのを見て息苦しくなり、暗がりに座り続ける生人形みたいな学芸員さんにギョッとなるから。加えて、出口に至るわずかな時間に、いかにも教養を高めたような気分になってしまう自分に嫌気がさすから。かなりひねくれています。小学生のころ、夏 [続きを読む]
  • うーれしいな、うれしーな!
  • 埼玉の研究者、斎藤氏から封書が送られてきました。中に入っていたのがこれ。東京の地下鉄の駅で無料配布されている冊子、「MetroWalker  メトロウォーカー」秋号です。ヘェー、東京にはこんなおしゃれな冊子があるんだと早速開いてみた。地下鉄沿線の名所、味どころなど満載。歴史・サイエンスライターの原島広至さんが写真と文と古地図でたどる「メトロ今昔探訪」。今もつづく浮世絵の摺り師のお店や、宮大工の木組みの技法を紹 [続きを読む]
  • ただ今、「傷だらけの人生」中
  • 「勝ちゃん」も「徳蔵」もいなくなったけれど、「徳蔵物語」はしぶとく、もうちょっとだけ続きます。なので、今しばらくお付き合いくださいませ。実は私、台風一過の超秋晴れの日に、背中を肉離れさせてしまいまして。抜けるような青空に、さん然と輝く太陽を見た途端、洗濯だァー!となって、よせばいいのに布団を洗濯機へ放り込んだ。言い訳になりますが、これよりちょっと薄めのはOKだったのです。そのちょっと厚めの布団、洗 [続きを読む]
  • 勝ちゃん逝く
  • 「運命はあまりにも早い時期に彼を死の世界へ呼び寄せてしまった。さだめし生きたかったであろう。まだいろいろとこの世に未練もあっただろう。それを思うと友の心は察するにあまりある」よき後輩、よき友として、ウエイトリフティング創設期を共に歩んできた飯田勝康の突然の死に、井口幸男は慟哭した。「選手を甘やかしすぎるという批難も一部にはあったが、彼は自己の意志を変えることはなかった。相手の気持ちをうまく捉え、硬 [続きを読む]
  • バンコクへ
  • ローマ・オリンピックから6年後の昭和41年(1966)12月5日、重量挙の飯田勝康は第5回アジア大会の開催地、タイ王国の首都バンコクへ飛んだ。今度はさらに責任の重い監督として。今から52年前のバンコクの様子を、井口幸男の目で見て行きます。「羽田空港からバンコクまでの所要時間は6時間10分。時差はわずか2時間。覚悟はしていたものの暑い!」「空港から選手村まで30分。水田の中に下駄をはいたような家が建っているのを見た」 [続きを読む]
  • 憎悪と友好
  • 昭和20年(1945)、日本がアジア各地で展開していた戦争がやっと終わった。その終戦から6年目の昭和26年(1951)、第一回アジア競技大会がインド・ニューデリーで開催された。提唱者はインド。しかし、戦後の物資不足から開催は予定より半年も遅れた。参加国はわずか11ヵ国。競技も6競技だけ。重量挙はその中に入った。 (現在は45ヵ国、40競技)重量挙には、監督兼選手の井口幸男と窪田登の二人が出た。健闘して、二人とも3位に [続きを読む]
  • ローマへ
  • 終戦から15年後、というより今から58年前といったほうがわかりやすいですね。その半世紀以上も前の昭和35年(1960)8月8日、勝ちゃんこと飯田勝康は、第17回ローマオリンピック大会のウエイトリフティング日本選手団のコーチとしてイタリアへ飛んだ。この1960年はどんな年だったかというと、岸信介内閣のもと、新日米安保条約の調印を巡って反安保闘争が吹き荒れ、国会構内で女子学生が死亡。また、河上丈太郎、岸信介が暴漢に襲わ [続きを読む]
  • 憧れのハワイ航路
  • 「人は彼のことを「勝ちゃん」と呼んだ。勝ちゃんは江戸っ子気質の下町っ子で、多分に親分気質もあり、つねに若者たちに愛されていた」井口幸男は著書の中で、定太郎のいとこの「勝ちゃん」こと飯田勝康をそんなふうに語っている。けれど勝康の存在は影が薄く、縁者のEさん姉妹が知り得たことは、乳飲み子のとき、実母と死に別れたこと。叔父の徳蔵と共に活躍した長兄の一郎とは、16ほども年が離れていた。ウエイトリフティング [続きを読む]
  • 原点
  • 昭和20年8月15日、この日、15年続いた第二次世界大戦がようやく終わった。この昭和という時代は大恐慌で始まり、終戦までの5年間は「一億一心体当たり」の戦争一色となった。しかし、米軍機の波状攻撃で主要都市は焦土と化し、敗戦。昭和20年、連合国軍の支配下に置かれます。飯田徳蔵はそんな時代を生きてきました。そして、東京大空襲で仕事も住まいも輝かしい過去も失い、終戦の翌年、55歳でこの世を去ります。しかし徳蔵の「 [続きを読む]
  • 力石クン、晴れやかにデビュー
  • 埼玉の研究者・斎藤氏から新情報をいただきました。御影石の台石に保存処理された力石です。場所は千葉県松戸市の高龗(たかお)神社。  ※龗は雨冠に龍この力石、もとは高龗神社の東西にある東の六実稲荷神社と西の五香稲荷神社に放置されていたものとか。宮司さんの話では、「この石の大切さに気付いた氏子さんからの依頼で、二つの稲荷神社のちょうど真ん中に位置する当神社に保存した」とのこと。千葉県松戸市六高台1-15   [続きを読む]
  • 徳蔵死す
  • 徳蔵の一人息子の飯田定太郎が残したアルバムには、こんな写真もあります。右下にナチスの党章と思われる右卍(右向きの卍)の旗が見えます。※右卍(まんじ)の記号が出ませんので、ここでは左卍を使いました。ちなみにこの卍は吉祥印で、古代から世界中に存在しています。右卍は力、左卍は和を現わしているといいます。日本では和を尊ぶ左卍が多いですね。もしこれがナチスの党章であれば、ドイツ・ナチス党の青少年団体「ヒトラ [続きを読む]