城新聞 さん プロフィール

  •  
城新聞さん: 城新聞
ハンドル名城新聞 さん
ブログタイトル城新聞
ブログURLhttps://ameblo.jp/shiro-shinbun/
サイト紹介文これまで趣味で旅行してきた全国の「城」と、仕事で携わる「高校」の紹介
自由文Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供41回 / 365日(平均0.8回/週) - 参加 2014/06/27 00:51

城新聞 さんのブログ記事

  • 第640号戸倉城
  • 築城年は不明ですが、南多摩地域の国人衆「武州南一揆」の有力者であった小宮氏によって築城されたと云われています。「新編武蔵国風土記」という文献によるとこの付近の領地については1461年から1466年の間に上杉憲明という武将が当地に来て小宮姓に改めて治めたということからこの時期に築城した可能性があります。秋川渓谷の三方を巡る入り口に位置し、縄張りは臼杵山から東に延びる尾根先端の急峻な地形を利用した単純な根古屋 [続きを読む]
  • 第639号烏山城
  • 1417年、沢村資重によって築かれました。前回、沢村城で紹介した通り、那須資氏の跡を継いだ福原城主の那須資之とその弟で沢村氏を嗣いだ沢村資重が不和となり沢村城を攻められ、さらなる攻撃から備えるため築城しました。また、このとき那須氏は上那須家と下那須家に分裂し、以来烏山城は下那須氏の本拠となります。標高202mの八高山に位置した山城で、山上部に本丸、二の丸を中心に五城三廓と呼ばれる廓を配した縄張りでした。1 [続きを読む]
  • 第638号沢村城
  • 1187年、那須与一の甥、沢村満隆によって築かれたと云われています。 縄張りは北から、北三の丸・北二の丸・本丸・二の丸・三の丸・南中丸と続く連郭式の山城で北は箒川に面してかなり急峻となっていました。1414年、那須資氏の二男である資重は沢村氏の家督を継いで8代目沢村五郎資重と名乗りましたが、本家を継いだ兄那須資之との不和により沢村城を攻められ、資重は烏山に逃亡。当初興野氏の館に住み、その後稲積城を修築して移 [続きを読む]
  • たそがれ清兵衛をもう一度
  • 「たそがれ清兵衛は不運な男だった、とおっしゃるのをよく聞きましたが、私はそんな風には思いません。父は出世などを望むような人ではなく、自分のことを不運などとは思っていなかったはずです。私たち娘を愛し、美しい朋江さんに愛され、充足した思いで短い人生を過ごしたに違いありません。そんな父のことを、私は誇りに思っております。」これは、映画版のラストシーンで、大人になった清兵衛の娘が、語り手として最後に締め [続きを読む]
  • 第637号川崎城
  • 1199年から1203年の間に塩谷朝業により築城され、以後塩谷氏の本城となりました。縄張は南北約1km、東西約200mの南北に長く、主郭周辺は蝸牛城と呼ばれる構造。主郭はその南端にあり、時代を経て北へと城郭が拡大し、主郭の北側に水の手曲輪、さらに北に新城と呼ばれる独立した城郭構造があり、一城別郭となっていました。その新城の北側の尾根続きの山は的場山と呼ばれ、射的場になっていたと云われています。前回の御前原城で紹 [続きを読む]
  • 映画「関ヶ原」
  • 久しぶりの編集後記です。今回は、先日、鑑賞した映画「関ヶ原」をご紹介します。本作は、司馬遼太郎の同名の長編時代小説をもとに作られた作品です。監督はクライマーズハイなど史実モノ作品で有名な原田眞人監督。この作品のために構想25年かけたと云われるだけあって、制作に熱のこもった感じが随所でみられました。とくに合戦シーンはこれまで世に出た関ヶ原の戦いの映像と大きく異なり、例えば長槍を「突く」のではなく、「叩 [続きを読む]
  • 第636号御前原城
  • 築城年代は、1177年から1183年間に源義家の孫で、塩谷(しおのや)氏の祖である堀江頼純によって築かれた説と、1315年に塩谷頼安により築かれたとする説があります。ただし、前者の説の場合、すでに塩谷頼純は没しているため、現時点では、頼安築城説が有力とされています。川崎城とともに塩谷氏の居城として機能していましたが、当時の状況は、平城の方形居館である以外あまり後世に伝わっていません。これは、御前原城を居館、川崎 [続きを読む]
  • 第635号白旗城
  • 築城年代ははっきりしませんが、1394年から1428年に大関増清によって築かれたと云われています。縄張りは、舌状台地利用し、尾根を空堀で区画した連郭式の山城です。大関家は、那須家に属した武将集団、那須七騎の旗頭で、主家の元で周辺勢力との抗争を繰り返し、この城をはじめ、拠点を移しながら着々と下野国に地盤を築いていったそうです。1518年、12代当主宗増の時、同じく那須七騎である福原資安ともに主家那須氏の信頼の厚い [続きを読む]
  • 第634号水口城
  • 1494年、大田原康清によって築かれたと云われています。大田原氏ははじめ大俵と表記、後に資清のときに大田原と改めたそうです。また、武蔵七党の1つである丹党を出自とし、阿保氏を称していたそうですが、康清のときに那須氏に仕えて5代にわたって居城としたと伝えられています。縄張りは平地にあり、城というより方形居館であったようですが、北東の土塁は内側に折れており、鬼門除けの入隅とっていたそうです。1518年、当主が [続きを読む]
  • 第633号谷地城
  • 1555年から1558年にかけて中条長昌によって築城されたと伝えられています。中条氏(ちゅうじょうし)はもともと武蔵七党横山党の一族であり、鎌倉幕府の成立に貢献した中条家長を祖とした名家で、北寒河江の領主としては5代に渡っ て統治していました。しかし、この長昌には嫡子がなく、国人領主であった白鳥氏が継承する形で城主と居城することになったと云われています。1582年頃、白鳥長久が城主として城郭を拡張。当時、本丸は [続きを読む]
  • 第632号長瀞城
  • 長瀞(ながとろ)城と読みます。別称雁(かりがね)城。1249年から1256年にかけて西根氏によって築かれたと伝えられています。それからしばらくは不明ですが、時代が変遷すると最上氏の所領となり、1414年、最上氏4代目である最上満家の隠居城となったこともあるそうです。その後は最上満種や最上満宗の居城になった説と国人の連合である最上八楯に属した長瀞左衛門尉が本拠を構えたなど諸説あり、この150年以上もの間も定かでは [続きを読む]
  • 第631号楯岡城
  • 別称舞鶴城。現在の村山市の東に位置し、縄張りは、周囲を断崖絶壁を利用し、また、山頂の主郭を中心に東西に伸びる尾根に段々と曲輪を連ねる連格式の山城です。築城時期は諸説ありますが、1208年に前森今嶺が築城した説が最も古い説となります。次いで1261年に里見氏が入部し改築または築城。本城氏と改名し、5代144年間続いたと云われています。室町時代に入ると、山形城主斯波兼頼の孫である満直の四男、最上満国が1406年に入 [続きを読む]
  • 第630号延沢城
  • 別称野辺沢城または霧山城。1547年、延沢満重によって築かれたと云われています。場所は、尾花沢盆地の南東部に位置し、縄張りは、尾花沢盆地に沿って北西方向に延びた古城山と呼ばれる山頂に主郭を中心に、北側と東側の尾根伝いに段郭群を形成した連郭式の山城でした。築城当初は、日常居館を兼ねた館城だったようですが、後に山麓に日常居館を移転。さらに要害部には桝形を敷設し、導線を付け替えて改修したものと推測されます [続きを読む]
  • 第629号清水城
  • 1478年頃、清水満久によって築かれたと云われています。清水満久は最上の祖である斯波兼頼の曾孫であり、鳴沢城主であった鳴沢兼義の次男です。最上氏は北方の守りを固めるため鳴沢満久をこの地に封じ、以後、満久は清水と改称しました。最上川中流域に位置し、縄張りは本丸から最上川一帯が眺望できる河岸段丘を活かした平山城の形式です。日本海から最上川を経由して山形中心へと繋ぐ交通の要衝であったため、隣接する大宝寺武 [続きを読む]
  • 第628号新庄城
  • 1625年、常陸国松岡より6万石で入封した戸沢政盛により築城されました。別名沼田城、鵜沼城。縄張は義兄にあたる山形城主鳥居忠政が取り仕切り、方形の本丸と南に二の丸を、それを取り囲むように三の丸を配した平城だったと云われています。築城当初は本丸に天守がありましたが、1636年の火災で失われ、以後再建されることはなかったそうです。1868年の戊辰戦争では、当初、新庄藩は奥羽越列藩同盟に参加していましたが、久保田藩 [続きを読む]
  • 第627号鮭延城
  • 1563年から1570年の間に小野寺景道の家臣、佐々木貞綱によって、築かれたと云われています。鮭川を見下ろす丘陵地を生かした天然の要害で、この築城を機に佐々木氏は地名に倣って鮭延氏と称し、小野寺氏の南の拠点として統治することとなります。しかし、1581年、最上義光が侵攻を開始すると城主であった鮭延貞綱の子鮭延秀綱は、一度は抵抗したものの最終的に降伏。領土を安堵されたため最上義光に恭順したことで、鮭延城は反対に [続きを読む]
  • 第626号城輪柵
  • 築城時期は定かではありませんが『続日本記』では大和朝廷は712年、出羽国を建都し、733年には秋田城を国府政庁として秋田高清水岡に設けており、1931 年より始まった発掘調査によると、その秋田城から奈良時代末期の780年代に移設されたという説が最有力とのことです。また、庄内平野北部、最上川の北約6kmの日向川扇状地に位置し、1辺約720mの角材列で区切られた方形の外郭とその中央に1辺約115mの築地などで囲まれた内郭によっ [続きを読む]
  • 第625号新田目城
  • 築城年は定かではありませんが、奈良時代末期、出羽国の中心的な役割を持った城輪柵の国司を補佐する「留守殿」の居館として築かれたのが始まりと推定されています。城輪柵からは西北西約1.5km、庄内平野の中央北部、日向川南岸の微高地の場所に位置します。1062年、源義家が出羽国留守職としてに須藤氏を派遣すると、居館として改修し、須藤主馬首助清はここを拠点として1087年から1094年に起きた後三年合戦に従軍し活躍。その後 [続きを読む]
  • 第624号亀ケ崎城
  • 築城年代は定かではありませんが、1478年、大宝寺武藤氏が砂越城の城主である砂越氏に対抗するために築いたとも云われています。1600年代に入るまでは、東禅寺城と呼ばれ、築城から100年あまりは大宝寺武藤氏の支城として機能していました。しかし、1583年、家臣の前森蔵人義長は、主家の大宝寺武藤義氏が越後の上杉氏の支援を得て強権的な政治を行ったことに反発。庄内の領有をめざした最上義光の策謀で内乱が起こると、最上方に [続きを読む]
  • 第623号松山城
  • 1781年、酒井忠休によって築かれた比較的新しい城です。もともと酒井氏の庄内統治は、信州松代10万石の譜代大名である酒井忠勝が14万石で奥羽の外様大名の押さえとして、転封されたことが始まりです。その忠勝の遺言により、1647年、三男忠恒に中山地方・左沢地方の計2万石が分知。忠恒は、1662年に中山陣所を開き、2年後には庄内藩の支藩として松山藩が誕生しました。それから100年以上経ち、3代目藩主忠休が幕府の若の要職勤務 [続きを読む]
  • 第622号藤島城
  • 築城時期は定かではありませんが、708年ごろ平形にという地に国府が置かれた時の府城としての説があります。また、1193年頃に城主として、すでに土佐林次正が伝えられていることからかなり古くあったことがわかります。時を経て、1333年、葉室光顕が出羽国司として下向し、光世、光久と3代続き、1351年には、北畠顕信が後醍醐天皇の孫である守良親王を奉じて東北における南朝方の拠点なりました。その後は土佐林道俊が城主となり [続きを読む]
  • ケルン・鎮魂の鐘と光
  • 昨年の5月に久慈に行ってきたとき立ち寄った「ケルン・鎮魂の鐘と光」。「復興のしるべに」との願いを込め、東日本大震災の教訓を後世に伝えるため一昨年の5月に建てられたモニュメントです。写真の通り、登山の道しるべとなるケルンをモチーフにした円すい形で、高さは久慈を襲った津波高を参考に海抜14.5mに設定。市内で発生したがれきの土台の上に地元の人たちが持ち寄った石を積み上げ、表面には久慈の子どもたちが「絆」や「 [続きを読む]
  • 作家・藤沢周平の人生
  • 前回、鶴岡城の紹介で鶴岡南高校OBとして紹介した藤沢周平。もともと好きな作家ではありましたが、生い立ちやどんな人かも知らなかったので、この機会に調べてみました――1927年(昭和2年)に農家の第四子として誕生。子どもの頃から読書好き、さらには小学6年生の頃、時代物の小説を書いたそうです。それから黄金村国民学校高等科→昼間、印刷会社や村役場で働きながら現・鶴岡南高校(夜間部)→現・山形大学という学生生活を送 [続きを読む]
  • 第621号鶴岡城
  • 鶴ヶ岡城はかつては大宝寺城と呼ばれ、大泉氏の居城でした。1369年前後、鎌倉時代に大泉荘の地頭に任ぜられた大泉氏平の子孫である武藤長盛によって築かれたと伝えられています。以来、武藤は庄内地方で勢力を伸ばしていきましたが、16世紀に入る頃から一族の砂越氏の反乱が目立つようになり、1533年には砂越氏維の攻撃によって大宝寺城が焼亡。そこで1532年から1555年の間に武藤晴時は居城を北西にある尾浦城に移し、大宝寺城は [続きを読む]
  • 第620号寒河江城
  • 1225年から1227年の間に、源頼朝の重臣、大江広元の嫡男である親広によって築かれました。初めは本丸だけの館城だったようですが、度々改築を加え、8代目時氏によって、二の丸、三の丸を設置した三重の堀持つ連郭式平城が完成させました。ただし、いわゆる戦国時代の城郭より時期は早いので、まだ天守閣や壮大な石垣の設備はなかったそうです。その8代目時氏ですが、当主であった南北朝時代、南朝方に属しており、北朝方に属した [続きを読む]