ta.ta.da さん プロフィール

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ta.ta.daさん: 城旅人
ハンドル名ta.ta.da さん
ブログタイトル城旅人
ブログURLhttps://sirotabi.com/
サイト紹介文日本全国のお城の情報。駐車場情報など、登城する際の詳細も分かります。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供56回 / 365日(平均1.1回/週) - 参加 2014/06/29 09:35

ta.ta.da さんのブログ記事

  • 武節城〜長篠敗戦のあと武田勝頼が命からがら逃れた城
  • 武節城武節城(ぶせつじょう)は愛知県豊田市武節町にある別名を地伏城(じふせ)・竜の城とも呼ぶ平山城で、標高は550m、比高は麓の旧飯田街道とで50mです。永正年間(1504年〜1521年)に菅沼定信が築いたあと、菅沼定信の時には田峯城の支城として、一族の菅沼十郎などが城代を務めていました。なお、弘治2年(1556年)に武田家の下条信氏が攻めており、激戦の末に落城すると、甲斐・武田の支配下となっています。1575年、長篠の戦い敗 [続きを読む]
  • 水口岡山城〜長束正家の夢破れた甲賀の本拠地
  • 1600年9月15日、関ヶ原の戦いで敗れてしまった石田三成。石田三成に味方した西軍諸将は、関ヶ原で討死・自刃した者もいれば、本国への逃走を図った者もいました。関ヶ原の敗戦そんな中のひとり、長束正家は関ヶ原から直線距離で約65kmで歩くと約16時間の「甲賀」が本拠地で、わりと関ヶ原は近いと言えます。南宮山の東に布陣し徳川家康の後方を狙いますが、吉川広家の妨害で戦いに加わる事ができませんでした。多少、池田輝政や浅 [続きを読む]
  • 薩摩・夏蔭城〜城山防衛の最後の砦【西南戦争】
  • 薩摩・夏蔭城(なつかげじょう)は、西郷どんで有名な薩摩・上山城(城山)の北側を守る、重要な拠点(出城)でした。この山には、大きな松や楠(クスノキ)が生い茂っていて「日陰」が多く、夏でも過ごしやすかったとこから?、夏蔭城と呼ばれたようです。南北朝時代の1352年に上山氏が築城したとも言われます。 夏蔭城には城の構えなど砦としての機能は無かったようですが、鹿児島城(鶴丸城)の背後にある上山城(城山)の北方を警備する [続きを読む]
  • 田代城と細野城(新野城)〜北条氏が津久井地方を統治した城跡
  • 田代城は、小田原北条氏家臣の内藤下野守秀勝(内藤秀勝)が半原・田代・角田を領して、戦国時代の1555年〜1558年位に築城されたと考えられる。田代中学校付近には居館が構えらたと考えられ、背後の山には、狼煙台が設けられたようだが、行政の拠点としたようだ。細野城(新野城)は、愛川町役場の裏山で、田代城から中津川を挟んだ対岸にある標高170mにある山城で、防御目的の城。築城は田代城から少しあとになる1557年〜1570年くらい [続きを読む]
  • 飯羽間城(飯場城)〜武田勝頼の遠山領攻めで最後まで持ちこたえた城
  • 飯羽間城(飯場城)飯羽間城(飯場城)(いいばまじょう)は、岐阜県恵那郡岩村町飯羽間上切地区にある平山城で、梯郭式と連郭式の混合縄張です。標高は530m、比高は20mほどとなります。飯羽間城は鎌倉時代、遠山氏によって築かれた城と伝わりすま。遠山氏の分家である、飯羽間遠山氏の本拠となった城で、岩村城の支城としての役割の他、、明照城・苗木城との繋ぎの城としても機能しました。戦国時代には遠山友勝が城主となっています [続きを読む]
  • 長久手城と岩作城〜長久手の戦いに戦場となった徳川勢の城跡
  • 長久手城長久手城は、愛知県愛知郡長久手町城屋敷2408にある平城で、最初の築城年代や築城者は不明です。戦国時代には、織田信雄に仕えていた加藤忠景(加藤景常)が、前領主・斎藤氏の古城を修築して居城としていました。 この加藤忠景は岩崎城主・丹羽氏次の姉を正室に迎えおり、また娘を丹羽氏次の継室にと嫁がせていました。現在の長久手城址は小さな公園になっており、のちに観音堂が建立されました。その観音堂の脇に、長久手 [続きを読む]
  • 伏見城の観光情報〜伏見城の戦いでの鳥居元忠
  • 関ヶ原の戦いとなる約3ヶ月前の1600年7月18日、伏見城に40000とも言われる大軍が押し寄せ「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)となった。石田三成が徳川家康を討つために蜂起し、その趣旨に賛同した西軍はまず畿内の徳川勢力の駆逐を考えた。攻め手は宇喜多秀家を総大将に、小早川秀秋が副将を務め、毛利秀元、吉川広家、小西行長、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂、大谷吉継、松浦久信などそうそうたるメンバーで、のち9月 [続きを読む]
  • 竹中氏陣屋(岩手城)〜堅固な城門や虎口がコンパクトに残っている名城
  • 竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、垂井町岩手にある竹中家の先祖伝来の地で別名は岩手城、岩手陣屋とも言います。戦国時代には「岩手城」と呼ばれ、背後にある菩提山城が詰めの城と言う事になりましたが、竹中半兵衛までは菩提山城を居城としていました。浄書は岐阜県不破郡垂井町岩手619-2となります。竹中氏陣屋を築城したのは1588年ですので、竹中半兵衛が亡くなったあと、家督を継いだ子の竹中重門(たけなか-しげかど)が築いた [続きを読む]
  • 岩崎城〜小牧長久手の戦いでの岩崎城攻防戦
  • 1584年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と徳川家康が戦った「小牧・長久手の戦い」シリーズですが、関ケ原でも活躍した岩崎城主・丹羽氏次にも繋がるお話で、岩崎城の写真と共に掲載いたします。岩崎城尾張・岩崎城(いわさきじょう)は、織田信長の父・織田信秀が築城したとされますが、築かれた年代は不明です。1529年に、松平清康7000にて岩崎城を攻撃し、岩崎城の戦いとなりました。この時、織田勢の岩崎城主・荒川頼宗が抵抗しましたが、 [続きを読む]
  • 垂井城〜関ケ原の戦いにて名を馳せた平塚為広の居城
  • 美濃・垂井城関ヶ原の戦いにて、西軍の大谷吉継と共に奮戦した平塚為広の居城「垂井城」は、関ヶ原町の隣にある岐阜県垂井町の中心部にあります。浄書は岐阜県不破郡垂井町1349、専精寺がある場所です。この垂井の専精寺付近も湧水が豊かな地であり、旧中山道も通っており、その街並みはいかにも古く素晴らしいです。水が沸くところには人が集まりますので、かなり昔から発展した街であったことには間違いなさそうです。上記トップ [続きを読む]
  • 肥後・岩尾城と阿蘇氏の本拠地だった浜の館
  • 鎌倉時代の1207年頃に、名門・阿蘇家の阿蘇惟次が、本拠地をこの山都町(矢部町)はの浜の館に移しましたとされますが確証はありません。そして、貞応年間(1222年〜1224年)頃に阿蘇惟次が詰の城として築いたのが、岩尾城だと考えられています。この浜の館と岩尾城をまとめて掲載したいと思います。肥後・浜の館浜の館(はまのやかた)は、1207年頃からだとすると戦国時代まで約370年間、阿蘇神社の大宮司である阿蘇家の本拠となり、属 [続きを読む]
  • 肥後・阿蘇二十四城 阿蘇氏の本拠である南郷城 長野城 下田城 吉田城
  • 阿蘇二十四城に数えられる肥後の南郷城・長野城・下田城、そして吉田城などをまとめてご紹介してみます。肥後・南郷城熊本県阿蘇郡南阿蘇村にある南郷城(なんごうじょう)は久木野城、桜山城とも言う、標高524m、比高98mの山城です。阿蘇氏は鎌倉時代に矢部(浜の館)へ本拠を移す前は、南阿蘇の南郷十ヶ村が拠点だったともされます。ただし、この南郷城は山城ですので、当時この山城が拠点だったとは考えにくいですが、吾妻鏡では [続きを読む]
  • 肥後・高森城と高森惟居〜菅野美穂さんもお参りした高森殿杉
  • 高森城の戦い高森城(たかもりじょう)は熊本県阿蘇郡高森町高森にある山城で、別名は囲城とも言います。最初の築城は鎌倉時代と伝わります。戦国時代には、阿蘇家一族の高森惟直が肥後・高森城を守備しました。高森惟直(たかもり-これなお)は、南郷七家の筆頭で、1585年に阿蘇惟光が岩尾城から逃れたあとも島津勢に反発して大友義鎮に助けを求めました。しかし、高森城は新納忠元らの攻撃を受けます。そのため、城から撃って出て [続きを読む]
  • 肥後・内牧城と内牧御茶屋〜加藤一族である加藤可重と加藤正方も
  • 肥後・内牧城(うちのまきじょう)は 熊本県阿蘇市内牧にある平城です。肥後・内牧城戦国時代には、阿蘇家の家臣・辺春盛道(へばるもりみち)が内牧城主として見受けられます。天正十三年(1585年)に島津勢が押し寄せると、辺春盛道(辺春丹波守盛道)は内牧城にて防戦しますが自刃したとされます。佐々成政の処罰後、加藤清正が熊本城に入ると、阿蘇の拠点とするべく内牧城は改修され、黒川の流れを変えて、旧黒川をそのまま水堀にす [続きを読む]
  • 仙台城(青葉城)と伊達政宗の豪華絢爛の墓所「瑞鳳殿」
  • 仙台城(せんだいじょう)は、仙台の城下町を見下ろす青葉山(標高202m前後)の丘陵群に、伊達政宗が築いた大規模な連郭式平山城です。比高は80mほどで、五城楼とも呼ばれます。仙台城(青葉城)は> 青葉山公園として整備されており、24時間立入可能です。下記は本丸跡です。昔はここまで整備されていなかったような記憶があります。標高が最も高いところは131.4mで、広瀬川に落ちる東の断崖は64mの高低差があり、南は80mと深い竜ノ [続きを読む]
  • 岡崎城とは〜天下の将軍「徳川家康」ここに生まれる
  • 三河・岡崎城(おかざき-じょう)は、愛知県岡崎市を流れる菅生川と矢作川の合流地点にある丘陵「龍頭山」に作られています。1452年(または1455年)に、三河国守護仁木氏の守護代・西郷稠頼が龍頭山砦として築城したのが始まりで、竜城・竜ヶ城とも呼ばれます。1531年、松平清康(徳川家康の祖父)が岡崎城主となり、城郭を整備して勢力を広げましたが、家臣の謀反(森山崩れ)で命を落としています。1542年、岡崎城内で竹千代(徳川家康) [続きを読む]
  • 駿河・田中城〜武田家が改修した武田氏流城郭
  • 駿河の田中城(亀城)は、1537年に今川家が築いた城で、もともとは徳之一色城と呼ばれており、静岡県藤枝市にある。1570年に武田信玄が駿河へ侵攻すると攻め落とし、改修すると「田中城」と改名した。この時、武田家の山県昌景が入ったが、1572年には板垣信安が城代として入城している。二の丸及び三の丸外に、丸馬出しが6箇所もあり、武田氏流城郭の特徴が出ている平城だ。武田信玄の死後、1582年2月、織田信長が甲斐攻めを行った際 [続きを読む]
  • 徳川家康が整備した出世城「浜松城」のみどころ
  • 静岡県にある浜松城(はままつ-じょう)は、続日本100名城にも選ばれている梯郭式平山城で、もともと曳馬城(引馬城、引間城)(ひくま)と呼ばれていました。地形的には、三方ヶ原のある台地の突端にあります。築城者は諸説ありますが、瀬名姫の先祖・今川貞相であるとされています。曳馬城先に現在の浜松城より古い曳馬城をご紹介致します。下記の地図ポイント地点が曳馬城(引馬城)があったとされる浜松東照宮の場所です。浜松城の無料 [続きを読む]
  • 八戸城〜南部利直が築いた城で江戸時代に八戸藩として立藩
  • 八戸城(はちのへじょう)は青森県八戸市にある平城です。八戸に入った南部師行が、最初、八戸・根城を築城したとされていますが、その根城南部氏の2代・南部政長の3男である南部信助が、根城の支城として、この八戸城を築いたのが始まりと考えられています。八戸城は、馬渕川(まべち)、新井田川(にいだ)が形成した沖積平野に、突き出た形の洪積台地の先端部の標高20m地点に築かれた平城(丘城)です。ただ、築城した時期は、根 [続きを読む]
  • 九戸城とは〜奥州再仕置で豊臣勢6万が攻撃した九戸城の戦い
  • 九戸城九戸城(くのへじょう)は岩手県二戸市福岡城ノ内の梯郭式平山城で、福岡城、宮野城とも言う国の史跡で、続日本100名城にも選ばれています。標高は133.5m、比高は20mとなります。白鳥城と言う別名もあることから、平安時代中期の武将である安倍頼時の子・安倍則任(あべ-のりとう)(白鳥八郎)が築城したとの伝承もあります。ただ、主な城主としては九戸氏が知られています。九戸氏(くのへし)は、、南部氏の祖・源光行(三戸 [続きを読む]
  • 三戸城(留ヶ崎城)は意外と見所満載で景色も良い山城でした
  • 三戸城(さんのへじょう)は青森県三戸郡三戸町梅内にある標高130mの連郭式山城で、留ヶ崎城(とめがさき)とも言います。比高は90mですが、現在、城山公園となっていて山頂部までの道路と大きな駐車時があり、訪問しやすい山城です。以前から砦としての機能はあったと推測しますが、戦国時代・南部晴政のときに、三戸南部氏の本拠地・聖寿寺館(本三戸城)が、1539年に家臣・赤沼備中が反旗を翻し、聖寿寺館に放火して焼失します [続きを読む]
  • 七戸城と七戸家国〜姫塚伝説もある七戸南部氏の居城
  • 七戸城七戸城(しちのへじよう)は、青森県上北郡七戸町にある標高40mほどの平山城で比高は20m、柏葉城とも呼ばれ、国の史跡に指定されています。最初の築城は、南北朝時代の南部政長とされてきました。建武元年(1334年)に、北畠顕家の国宜で執権・北条氏の代官として、五戸と七戸を治めた工藤右近将監の名がみられますが、七戸城主となったかは定かではありません。そして、建武2年(1335年)に南部師行の弟・南部政長が、新田義貞 [続きを読む]
  • 大光寺城〜滝本重行と津軽の中心にあり歴史に翻弄された城跡
  • 陸奥・大光寺城の始まり陸奥・大光寺城(だいこうじじょう)は、青森県平川市の小高い丘の上にあった平城で、大光寺新城とも呼びます。正直なところ、大光寺城はほとんど遺構も失われていると言う事で、最初の訪問リストに加えておらず、時間があまったため写真撮影に赴いたものの、津軽為信の記事にて挿し絵的な写真使用に留めようと思っておりました。しかし、実際に大光寺城がある平川市にクルマを進めますと、古くからある街で [続きを読む]