ta.ta.da さん プロフィール

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ta.ta.daさん: 城旅人
ハンドル名ta.ta.da さん
ブログタイトル城旅人
ブログURLhttps://sirotabi.com/
サイト紹介文日本全国のお城の情報。駐車場情報など、登城する際の詳細も分かります。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供191回 / 304日(平均4.4回/週) - 参加 2014/06/29 09:35

ta.ta.da さんのブログ記事

  • 鬼ノ城 鬼の居城とされる展望も良い空中要塞
  • 鬼ノ城(きのじょう)は、岡山県総社市の標高約400mとなる鬼城山(きのじょうさん)にある古い時代の山城で、国指定史跡・日本100名城にも選ばれています。高さ6mにも及ぶ土塁や石塁が鬼城山の山頂付近に約2.8kmに渡って築かれています。西暦663年、飛鳥時代のとき白村江の戦い(はくそんこう)にて百済復活のため援軍を出した大和朝廷との連合軍は敗北し、唐・新羅(しらぎ)の連合軍が日本に侵攻してくることが想定されました。 [続きを読む]
  • 備中・福山城 20万対1500で合戦になった城
  • 備中・福山城(ふくやまじょう)は岡山県総社市清音三因(きよねみより)にある連郭式山城で、国の史跡に指定されています。通常「福山城」と申しますと、天守も復元されている広島県福山市の福山城が有名ですが、あちらは「備後」でして、今回、ご紹介するのは備中の福山城となります。備中・福山城は、標高302mの峰を持つ福山に築かれていますが、奈良時代から山岳寺院「福山寺」がありました。報恩大師が山上に福山寺と十二坊を [続きを読む]
  • 鞆城 鞆の浦にある軍事拠点
  • 鞆城(ともじょう)は、備後国の鞆(広島県福山市鞆町)にある平山城で標高24m、比高22mとなります。瀬戸内海は、干潮と満潮で潮の流れが代わりますがその真ん中に位置するのが「鞆の浦」(とものうら)という事で、瀬戸内海を行き来する船は、必ずと言ってよいほど、鞆に寄港し、潮目が変わるのを待ちました。足利尊氏がまだ、室町幕府を開く前の話です。鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇の建武の新政に協力するも反旗を翻し、足利尊氏 [続きを読む]
  • 備後・大可島城 鞆の浦にある風光明媚な海城
  • 備後・大可島城(だいがしまじょう)は、標高10mの岬にある水軍城で、鞆の浦(とものうら)にあります。瀬戸内海国立公園の鞆の浦は、古くから瀬戸内海の潮待ちの港として知られ、また万葉集にもうたわれた風光明媚な場所です。すぐ近くの鞆城よりは古い時代から城郭があったようで、1342年に岡部出羽守が築いたと言う伝承があります。大可島というくらいですので、昔は今のように陸続きではなく「島」になっていました。この1342年に [続きを読む]
  • 相方城 山上に築かれた石垣が戦国を偲ばせる山城
  • 相方城(さがたじょう)は、広島県福山市新市町にある山城で、別名を佐賀田城、鬼ヶ滝加山城とも言います。標高は191m、比高は170mと結構な山城になっています。戦国時代の1563年に、知勇兼備の勇将として知られる有地元盛(ありちもとのぶ)が築城したと伝わります。備後・有地氏は、備中国の守護も務めていた亀寿山城主・宮氏(みやし)の一族ですが、月山富田城の尼子氏に従ったあと、1548年頃に大内氏の攻撃を受けて没落していま [続きを読む]
  • 備後・亀寿山城 幻の名族となった宮一族の滅亡
  • 備後・亀寿山城(かめじゅやま-じょう)は標高139m、比高120mの山城で、もともとの漢字は、亀地であったことから亀地山城とも言います。築城年代は不明ですが、鎌倉時代に宮正信(宮下野守正信)が築いたとする説がありますが、この宮正信についてもよくわかっていないようです。宮氏の出自に関しては、初代・宮下野守正信(下野判官正信)が、藤原鎌足の23代下野判官代と関係があるともされ、応長元年(1311年)に、備後国守護となって下 [続きを読む]
  • 高越山城(高越城) 北条早雲が生まれ育った?備中の城
  • 高越城(たかこし-じょう)は、岡山県井原市東江原町にある標高172mの山城で、高越山城とも言います。比高は140mですが、最初は鎌倉時代中期の1281年に、宇都宮貞綱(うつのみや-さだつな)が執権・北条時宗の命を受けて、蒙古来襲に備えて築城したとされます。山陽道と小田川を見下ろす高越山に築かれました。室町時代には、伊勢盛定(伊勢行長、伊勢新左衛門行長)が「備中守」となって、六庄300貫の知行を得て、那須氏に代わって [続きを読む]
  • 備中・矢掛茶臼山城 毛利元清が本城として新築
  • 備中・矢掛茶臼山城(やかげちゃうすやまじょう)は、岡山県小田郡矢掛町東三城にある標高114mの平山城です。中山城とも呼ばれますが、山陽道の宿場として観光客も訪れる矢掛宿の東側にある丘陵(中山、茶臼山)にあります。 通常は茶臼山城と言いますが、備中には星田にも茶臼山城があるため、区別する必要性があり、矢掛の茶臼山城としてご紹介申し上げます。最初の築城年代は不明ですが、戦国時代の天正年間(1584年?)に猿掛城主 [続きを読む]
  • 猿掛城 山陽道の重要拠点となる穂田(穂井田)の山城
  • 備中・猿掛城(さるかけじょう)は、岡山県倉敷市真備町から小田郡矢掛町にかけてある標高230mの連郭式山城で、比高は220mとなります。最初の築城は南北朝時代の初めころとされますが、安芸にも猿掛城があります。広島のは通常、多治比猿掛城と記載することが多いので、岡山の猿掛城は、そのまま猿掛城として明記することをお許し願います。武蔵国児玉党の出自で幸山城を本拠としていた、庄資政が猿掛城を築いて拠点を移したと言い [続きを読む]
  • 幸山城(高山城) 備中・石川氏の豊かな拠点
  • 幸山城(こうざんじょう)は岡山県総社市にある標高162mの山城で、高山城、甲山城と書く場合もあります。また、同じ尾根の延長上、南側には備中・福山城もあります。最初の築城は鎌倉時代の末期となる延慶年間(1308年〜1311年)前後に、庄資房(荘左衛門四郎資房)が築城したとされます。庄資房(しょう-すけふさ)の先祖は武蔵で勢力を誇った児玉党とされますが、武功を挙げて備中国小田郡の所領を得ました。そして、鎌倉幕府の北条 [続きを読む]
  • 鶴首城(成羽城) 三村家の軍師・三村親成が城主となる
  • 鶴首城(かくしゅじょう)は、岡山県高梁市成羽町にある連郭式山城で、別名は成羽城と言います。標高は338m、比高は250mと結構、堅固な山城です。鎌倉時代の最初の頃となる1189年に、奥州・藤原氏の平定で功績があった河村秀清(河村四郎秀清)が築城したと伝わります。河村秀清(かわむら-ひできよ)は、波多野氏の一族で本貫は、相模・河村城でした。13歳にて奥州合戦で武功を挙げたことに感激した源頼朝は、岩手や宮城に3箇所、そ [続きを読む]
  • 大松山城 備中兵乱による三村家の滅亡
  • 備中・大松山城(おおまつやま-じょう)は岡山県高梁市内山下の臥牛山にある山城です。峰続きになっている備中松山城の城跡の一部とも言え、関ヶ原の戦いの直前くらいに整備されたの近世城郭の備中松山城ですので、それより前の合戦があった戦国時代には北側にあるこの「大松山城」が中心だったようです。そのため、本稿では、大松山城としてご紹介し、備中松山城に関しては別記事にて記述させて頂いております。大松山城を訪れる [続きを読む]
  • 備中松山城〜雲海に浮かぶ天守の幻想的な姿を見たい
  • 備中・松山城(びっちゅう-まつやまじょう)は岡山県高梁市内山下の臥牛山にある山城で、別名は高梁城(たかはしじょう)、小松山城とも言います。標高は420mで、比高はなんと350mもある堅固な山城で、岩村城、高取城とともに日本三大山城のひとつとされます。NHK大河ドラマ「真田丸」にて、オープニング映像にも使われた石垣があるのが、備中・松山城ということになります。現存天守12城の中で「山城」となっているのは、備中松山 [続きを読む]
  • 金川城(玉松城) 松田元賢の最後も
  • 備前・金川城(かながわじょう)は、岡山県岡山市北区御津金川にある標高225m、比高185mの連郭式山城です。臥龍山(がりゅうざん)の山頂が本丸で、別名を玉松城と言います。旭川と宇甘川〈うかいがわ〉の合流点にあり、交通の要所を抑えた城となっています。最初の築城は、鎌倉時代の承久年間(1219年〜1222年)に承久の乱で戦功を挙げた松田盛朝が、備前国御野郡に所領を与えられて築城されたとされます。この備前・松田氏は、藤原秀 [続きを読む]
  • 神辺城(村尾城) 約280年間も備後の中心地だった山城
  • 神辺城(かんなべじょう)は、標高133m(比高115m)の連郭式山城で、広島県福山市神辺町にあります。別名は色々あり、村尾城、神辺道上城、紅葉山城、黄葉山城、楓山城となりますが、神辺城(黄葉山)と呼ばれるようになったのは、江戸時代の廃城後ですので歴史的には「村尾城」が正しい城名となります。もっと古い時代には、三吉氏の一族・上利右近の居城とも言われる古城山城が神辺城の北(古城八幡宮のところ)にありました。1335年 [続きを読む]
  • 小諸城とは〜佐久は小諸の懐古園を城跡として歩く見学ポイント
  • 小諸城(こもろじょう)は、長野県小諸市の平山城で、別名は酔月城、鍋蓋城、穴城、白鶴城と言います。日本100名城、日本さくら名所100選、日本の歴史公園100選、平安時代末期に「平家物語」「源平盛衰記」にも登場する源氏・木曽義仲の家臣・小室光兼(小室太郎光兼)が、宇頭坂城を、現在の古城付近に構えたのが始まりとされています。南北朝時代になると清和源氏流小笠原氏一門の小室氏は衰退し、甲斐武田流大井氏である大井城主 [続きを読む]
  • 信濃・富士見城(大室城)〜徳川家臣で弓の名手である柴田康忠
  • 信濃・富士見城(ふじみ-じょう)は、小諸市諸字飯縄山にある標高836m、比高130mほどの山城となります。別名は大室城とも言いますが、小諸城はかつて小室城とも言いましたので、何か関連がありそうです。最初の築城は不明ですが、大井城主の大井氏が、滋野氏の侵攻に備えて築いたともされます。佐久ではかなりの高所にある山城で、本丸からは佐久や滋野方面が一望できますので、監視するのには都合が良い山城です。天気が良ければ、 [続きを読む]
  • 信濃・大井城〜佐久を治めた小笠原一門・岩村田大井氏の居城
  • 鎌倉時代から佐久の東部で勢力を誇った、大井氏の本拠地で湯川の断崖に沿う立地となっています。北から石並城(いせならびじょう)、王城、黒岩城の三城が、天然の堀切に分割されており、その総称として大井城と呼ばれていると言って良いでしょう。岩村田城、岩村田館とも呼ばれることがあります。清和源氏・小笠原長清の7男・大井朝光が、宇治川の戦いの戦功により大井庄12郷の地頭となったのが始まりです。1335年、中先代の乱の [続きを読む]
  • 志賀城とは〜小田井原の戦いと笠原清繁の首塚
  • 信濃・志賀城(しがじょう)は、長野県佐久市にある山城で、標高は880m、比高は170mとなります。天然の岩肌も露出する急峻な山上に築かれていますが、最初の築城は不明です。武田信虎に従っていた諏訪頼重も1540年に大井貞隆の長窪城を落としていますが、武田信玄が諏訪に侵攻すると長窪城を奪還していました。その後、武田信玄はの相木昌朝や芦田信守を調略し、1543年9月に再び長窪城を奪還し、捕虜となった大井貞隆は甲府に連行 [続きを読む]
  • 信濃・田口城〜佐久の重要拠点でもあった大規模や山城
  • 信濃・田口城(たぐち-じょう)は標高881mの山城で、比高は150mとなります。吉沢川と雨川に挟まれた山の頂部にあります。なお、山上には多数の郭が配置されている巨大な山城で、田ノ口城とも呼ばれます。最初の築城は田口氏とも言われますが、その田口氏すら、詳しいことはわかっていません。大塔物語では、田口氏の記述があるようです。諏訪御符礼之古書では、1460年に「左頭、田口民部少輔長秘、御符之礼五貫八百文」とあり、1467 [続きを読む]
  • 龍岡城(龍岡五稜郭) 日本に二つしかない五稜郭の一つが佐久にある
  • 龍岡城(たつおかじょう)は、長野県佐久市田口にある平城で、別名を龍岡五稜郭、その形から「桔梗城」とも呼ばれています。国の史跡で、続日本100名城にも選定されました。五稜郭(ごりょうかく)と申しますと、北海道・函館にある、星型をした西洋式城郭が良く知られていますが、実は日本に五稜郭は2つあるのです。函館の五稜郭は、ロシアに備えて日本の防衛のため、幕府主導で本格的に整備しましたが、ここの龍岡五稜郭は小藩の城 [続きを読む]
  • 相木城と相木昌朝(相木昌友)〜相木市兵衛や相木頼房も
  • 相木城(あいき-じょう)は、長野県の南佐久郡北相木村坂上にあり、阿江木城とも言われます。山城ではなく、平坦部の北相木川が大きく曲った場所にあり、相木城の東・南・西の三方を川で囲まれた地形になっている平山城となります。標高は約1000m、比高は10mほどと言ったところでしょうか?ただし、付近は民家や畑などになっており、相木城としての遺構は、見受けられません。ぶどう峠に繋がる街道沿いの番所があったと考えられる場 [続きを読む]