ta.ta.da さん プロフィール

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ta.ta.daさん: 城旅人
ハンドル名ta.ta.da さん
ブログタイトル城旅人
ブログURLhttps://sirotabi.com/
サイト紹介文日本全国のお城の情報。駐車場情報など、登城する際の詳細も分かります。
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更新頻度(1年)情報提供126回 / 208日(平均4.2回/週) - 参加 2014/06/29 09:35

ta.ta.da さんのブログ記事

  • 志布志城と鎌田政近〜松尾城・内城・高城・新城からなる城郭群
  • 志布志城(しぶしじょう)は、鹿児島県志布志市志布志町にある山城です。志布志城の特徴と致しましては、ひとつの城と言う事ではなく、志布志にある内城・松尾城・高城・新城の4つの独立した城郭のすべてを総称として「志布志城」と読んでおり、その規模の大きさから続日本100名城にも選ばれました。最初の築城はよくわかっておらず、鎌倉時代の初期に救仁郷平八成直が志布志の松尾城に居たという記録があるように、これまた名前が [続きを読む]
  • 箕輪城〜素晴らしい空堀などが残る戦国時代における群馬の拠点
  • 箕輪城(みのわ)は、1512年(又は1526年)に長野尚業が築いた丘城とされますが、長野尚業は鷹留城を築いたので、その子、長野憲業が築いたとも伝わります。長野氏は関東管領・山内上杉氏の重臣で、戦国時代の長野業政は関東管領・上杉憲政を支えました。1541年には、武田信玄に海野平の戦いで敗れて、羽根尾城に逃れていた海野棟綱・真田幸隆らを一時、箕輪城内にて保護した事もあります。1557年4月には、武田義信を総大将に、飫富虎 [続きを読む]
  • 日向・飫肥城と風情ある城下町は超オススメの観光スポット
  • 飫肥城(おびじょう)は、宮崎県日南市飫肥にある群郭式平山城で、舞鶴城とも言い、国指定史跡と日本100名城にもなっています。標高は51m(比高50m)と海からも近いことがわかります。最初の築城は、延岡の日向・井上城主である土持通綱や土持宣綱など土持氏の一族が飫肥(おび)(飫肥院)にも広がった飫肥土持氏だと考えられます。その後、島津宗家の所領となっており、1458年に島津忠国は、一族の新納忠続を志布志城から飫肥城へと [続きを読む]
  • 延岡城(懸城)〜延岡市をいつまでも見守る石垣も立派な城
  • 日向・延岡城(のべおかじょう)は五ヶ瀬川と大瀬川が合流する地点にある標高51.7mの城山と呼ばれる独立丘陵にあり、縣城、亀井城とも言う梯郭式平山城です。続日本100名城にも認定されました。古くは県(あがた)と呼ばれたこの地は、約700年に渡り、土持氏が領していましたが、1578年に、豊後の大友宗麟によって滅ぼされ、その後、島津家が支配していました。1587年、豊臣秀吉の九州攻めにて戦功があった高橋元種に延岡5万3000石 [続きを読む]
  • 西階城〜わずか16年しか使われなかった縣土持氏の本拠地
  • 西階城(にししなじょう)は、宮崎県延岡市の金堂ヶ池上の丘陵にあ西階運動公園が目印で金堂ヶ池を回る遊歩道がある標高61.7mの山城で、中の城、宝坂城とも呼ばれます。大瀬川の対岸にある大将軍神社の東「天守山」に古くから「日向・井上城」があり、その井上城主・土持綱宣(土持次郎太郎全宣)(縣土持氏)が築城すると1429年に本城を移したとあります。しかし、1444年、わずか16年で、土持孫太郎宣綱(土持太郎宣綱)が北方の岡富村 [続きを読む]
  • 日向・井上城〜懸土持氏にとっては最初の本拠地
  • 日向・井上城(いのうえじょう)は、宮崎県延岡市にある山城で標高は69m、比高は60mとなります。北側には大瀬川が流れており、天然の水堀になっています。最初の築城は、1177年頃の土持栄綱、または1297年頃の土持国綱とされます。ただし、その頃は、門川伊東氏や鎮西奉行で豊後守護の中原親能がこの付近を領していたことがわかっているため、この鎌倉期に懸土持氏が築城したとは考えにくいです。南北朝時代となり、1336年に土持栄 [続きを読む]
  • 日向・松尾城(縣城)〜日向の延岡にて勢力を誇った土持氏最後の本拠
  • 日向・松尾城(まつお-じょう)は、宮崎県延岡市松山町の五ヶ瀬川を望む比高40mの台地上にある山城で標高は55mとなります。別名を懸城(あがた-じょう)と呼びますが、この懸城(吾田)と言う名称もよく使われます。松尾城の南は五ヶ瀬川が外堀代わりとなっており、西には堀があったとされます。また、東は水田が広がっており、北には山、南麓は東西に抜ける旧高千穂往還が通っていました。県の庄を本拠としていたのは、日向北部を勢力 [続きを読む]
  • 門川城と米良四郎右衛門(米良祐次)
  • 門川城日向・門川城(かどがわ-じょう)は、狗山城とも言う標高29mの平山城で、比高は20mになります。最初の築城は不明ですが、鎌倉時代に工藤祐経(工藤左衛門尉祐経)の子である伊東祐時の7男・伊東祐景(すけかげ)が日向に下向します。このときも、県(延岡市)と富田(門川町と日向市)を治めていましたが、伊東祐景は「門川殿」と呼ばれていますので、この門川城のあたりを知行していたものと推測できます。門川の本家は佐々宇津 [続きを読む]
  • 人吉城〜日本100名城にも選出されている石垣などが立派な城
  • 人吉城とは人吉城(ひとよしじょう)は、鎌倉時代に源頼朝に仕えた遠江国相良荘の相良長頼が、1205年に地頭として人吉荘に赴任して以来、長きにわたり在城することになった名城です。別名は繊月城、三日月城、相良城とも言いますが、国指定史跡となっており、日本100名城にも選ばれている立派な城跡となっています。相良長頼は最初、源頼朝には協力しなかったため、追放されていますが、のちに許されて復帰し、二俣川の戦いで手柄 [続きを読む]
  • 伊東祐邑と日知屋城〜キレイな海に囲まれた堅城と鵜戸神社
  • 日知屋城(ひちや-じょう)は、別名を船岡城とも呼ばれる海に面した丘城(海城)で標高は40m、比高は20mとなります。宮崎の伊勢ケ浜に脇の断崖上にあり、大嶽神社のすぐ東側となります。塩見城・門川城とともに日向三城と呼ばれて重要視されたいた城跡となります。築城年代や築城者は定かでないが、1457年、小浪川の戦いで財部土持氏を滅ぼした都於郡城主・伊東祐堯の持ち城になりました。埋まってしまったのか、規模は大きくありませ [続きを読む]
  • 日向・塩見城〜争いに翻弄された日向三城のひとつ
  • 日向・塩見城(しおみ-じょう)は、南北朝時代に土持氏が築いたと伝わります。日知屋城、門川城と共に「日向三城」と呼ばれた重要な山城でした。標高は60m、比高は20mとなります。1457年に伊東氏が財部土持氏を滅ぼしたあと、戦国時代の塩見城主は右松四郎左衛門尉で、都於郡城主・伊東祐重の弟が先祖であるとされます。右松四郎左衛門は伊東義祐が佐土原城から豊後に逃亡した伊東崩れのあとも、門川城主の米良四郎右衛門尉、山陰城 [続きを読む]
  • 日向・西城〜山陰百姓一揆の舞台にもなった宮崎県の山城
  • 日向・西城(にしの-しろ)は、宮崎県日向市東郷町山陰丙にある丘城(平山城)で、耳川の比高40mの断崖上にあります。戦国時代の天文年間(1532年〜1555年)には、伊東氏家臣・米良喜内則村の居城「山陰城」の支城となっていました。海岸線の平野部からは、だいぶ入った山間部となります。伊東48城の1つである山陰城とは約2kmほど離れています。島津家により伊東氏が日向から敗走すると、隣の山陰城には島津家の家臣・吉田右衛門が入っ [続きを読む]
  • 高鍋城(財部城)と小浪川の戦い〜財部土持氏の本拠地
  • 高鍋城(たかなべじょう)は、宮崎県児湯郡高鍋町にある城で、舞鶴城・財部城とも言い、現在の城跡は舞鶴公園として整備されています。半島状に突き出た丘陵が財部城(高鍋城)となっています。最初は斉衡年間(854年〜856年)に柏木左衛門尉(かしわぎさえもんのじょう)が築城したとも伝わりますが、財部城(たからべじょう)と呼ばれていました。北に小丸川、西に宮田川、東に日向灘を臨む丘陵上の平山城です。平安時代末期には、も [続きを読む]
  • 宮崎城〜戦国大名の伊東氏も一時本拠とした山城
  • 日向・宮崎城(みやざきじょう)は、宮崎県宮崎市池内町の山城で、別名は池内城、龍峯城とも言います。自然の地形を巧みに利用した標高92m・比高70mの山城で、本丸(椎城)、野首城、服部城、彦右衛門城、百貫城などの独立した曲輪で構成されており、船ヶ崎・万願寺・目引・野首と4つの登城口があります。最初の築城は不明ですが、これら郭の名称は、守将の名前からとったものだとされています。南北朝時代の建武2年(1335年)に、図師 [続きを読む]
  • 綾城と内屋敷城〜中世の山城を復元「伊東尹祐と綾の乱」も
  • 綾城(あやじょう)は宮崎県綾町の山城で別名は竜尾城と言います。標高は132m、比高は40mですので、山城と言うよりは平山城の分類するのが適切かも知れません。綾城は綾北川と本庄川の間にある段丘の東端にあります。最初の築城は1331年〜1334年頃、足利尊氏の家臣・細川義門(細川小四郎義門)とされますので、管領・細川家の一族が治めたと言うことになるでしょう。その子である細川義遠が、収納使として綾を領有し内屋敷城に入り [続きを読む]
  • 日向・高岡城(天ヶ城)と野村文綱(野村備中守文綱)
  • 日向・高岡城(たかおか-じょう)は、以前は内山城、麓城、天ヶ城(あまがじょう)とも呼ばれますが、ここに城ができたのは関が原の戦いのあとになります。地元では「天ケ城」と呼ぶのが一般的なようです。1600年(慶長5年)、関が原の戦いにて「中央突破」し、九州に戻った島津義弘は、八代に一泊て薩摩へと帰国します。そのとき、伊東氏の家臣で、清武城主・稲津重政(稲津掃部助)が、伊東氏の旧領回復を試み、宮崎城を攻略して八代へと [続きを読む]
  • 穆佐城〜日向守護になった畠山直顕の拠点
  • 穆佐城(むかさじょう)は、宮崎県宮崎市高岡町小山田にある平山城で、付近はみかん畑がたくさんあります。穆佐院高城とも呼ばれる日向三高城のひとつで、国指定史跡に指定されています。南北朝時代となると、足利尊氏の直轄領として築かれた模様で、一族の畠山直顕が穆佐城に派遣されると拠点となりました。日向に下った畠山直顕(はたけやま-ただあき)は、最初に国冨荘の土持氏や日下部氏らを幕府側に掌握します。そして、1338年 [続きを読む]
  • 清武城〜稲津重政と妻・雪絵15歳の死
  • 清武城(きよたけじょう)は宮崎県宮崎市清武町にある山城です。標高は70m、比高は40mとなります。もとは清瀧城と呼ばれていましたが、南北朝時代の1379年に、門川伊東氏の伊東祐行(清武祐行)が改修を施して「清武城」と改名しました。一説によると、日向に下向した伊東祐重の弟が清武祐行で、跡を継いだ清武祐恩(清武越後守祐恩)は妻に伊東祐重の娘を迎えたとされます。清武祐恩のあとは、弟の清武祐憲が継ぎました。なお、清武 [続きを読む]
  • 長沼館と西党・長沼氏(東京都八王子市)と田村氏館跡(日野市)
  • 東京の多摩を走る京王電鉄の長沼駅から徒歩5分の六宮社が長沼館跡とされます。多摩で長沼氏と言うと、武蔵七党の1つ西党の庶流にて、長沼氏が見られますが、その長沼氏の館跡だとする説があります。西党の勢力は、日野市の東光寺を本拠として、平山季重の平山氏もあります。その平山氏の平山城址公園駅から1つ隣となる、長沼駅の「長沼館」ですので、長沼館は西党の長沼氏だとするのです。浅川と湯殿川の伏流水によってできた沼が [続きを読む]
  • 平山季重と平山城(日野市平山城址公園)・平山氏館跡・八幡神社
  • 平山城(ひらやましろ)は、平山季重に関連すると考えられる城で、現在、日野市平山城址公園となっている。この平山季重(ひらやますえしげ)は鎌倉時代の武士で、武蔵七党・西党の最大勢力として平山氏(日野市)を名乗り、一ノ谷の戦いでは熊谷直実と先陣争いをしたことで知られる。本姓は日奉(ひまつり)。武者所と呼ばれた。横山党の八王子と領地が近いということもあり、横山党とは仲が良い。平山季重は1156年、保元の乱の際に源義朝 [続きを読む]
  • 伊豆・丸山城と富永山随(富永左兵衛尉)の伝説
  • 伊豆・丸山城伊豆・丸山城は静岡県田方郡土肥町八木沢にある山城(海城)で、標高は110m、比高110mとなります。戦国時代となり、伊豆の西海岸には、小田原城の北条家の「北条水軍」の城がいくつもありました。この伊豆・丸山城は、北条水軍の中でも最大勢力とされている、高谷城主・富永氏の支城として築かれたようで、北条水軍の基地のひとつとして使用されていました。この富永氏は三河国設楽郡発祥の御家人で、応仁の乱の前後に伊 [続きを読む]
  • 伊豆・狩野城〜工藤茂光と最後の城主である狩野道一
  • 伊豆・狩野城(かの-じょう)は、別名を柿木ノ城(かきぎのじょう)とも言う下田街道を見下ろす標高189mの山城で、比高は100mとなります。もうお分かりのとおり、狩野氏の本拠地ですね。狩野氏は藤原南家の系統で、藤原為憲を祖としますので、貴族出身の武士となります。藤原為憲が、940年の承平天慶の乱にて藤原純友とともに活躍し、従五位下木工助に叙任されると工藤姓を名乗るようになりました。1050年頃には工藤維景が駿河守を退任 [続きを読む]