筑波巫女 さん プロフィール

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筑波巫女さん: 3分でわかる日本の偉人
ハンドル名筑波巫女 さん
ブログタイトル3分でわかる日本の偉人
ブログURLhttps://pp3min.jp
サイト紹介文日本の戦国武将から幕末の志士など、わかりやくす、短い時間で理解できる解説。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供36回 / 365日(平均0.7回/週) - 参加 2014/07/03 21:13

筑波巫女 さんのブログ記事

  • 小野寺十内(小野寺秀和) 赤穂浪士
  • 小野寺十内(おのでら-じゅうない)は、江戸時代の武士で、赤穂浪士47士(忠臣蔵)のひとりになります。正式な名前は小野寺秀和(おのでら ひでかず)と言い、1643年に浅野家の家臣・小野寺又八の長男として常陸・笠間城下にて誕生しました。母は400石の重臣・多川九左衛門の娘で、妻は灰方佐五右衛門の娘・丹となります。小野寺十内は150石と中級藩士で、赤穂城開城の折や、主家再興の嘆願でも、筆頭家老・大石内蔵助(大石良雄)を補佐し [続きを読む]
  • 戸沢政盛
  • 戸沢政盛(とざわ-まさもり)は、戦国時代の1585年に角館城主・戸沢盛安の長男として生まれました。父・戸沢盛安は正室を持たなかったため、戸沢政盛の母は百姓である源左衛門の娘となります。この百姓・源左衛門の娘は、戸沢盛安が鷹狩をした際に、見初めた小古女沢の身分の低い女性でした。そのため、長男として誕生した戸沢政盛は嫡子として認められず、母も側室にならずに、東光坊という山伏に嫁いだため、戸沢政盛は百姓の子と [続きを読む]
  • 小野寺輝道(小野寺景道)
  • 小野寺景道(おのでら-かげみち)は、出羽・湯沢城主である戦国大名・小野寺稙道の4男として1534年に生まれました。小野寺輝道とも言います。父・小野寺稙道は横手城に本拠を移そうとしますが、1546年5月27日、金沢八幡の別当・金乗坊、横手城主・大和田光盛(横手佐渡守)ら家臣の権力闘争に巻き込まれ、湯沢城に追い詰められて暗殺されます(平城の乱)。そのため、小野寺輝道(小野寺景道)が家督を継ぎますが、羽黒山に逃れたあと、 [続きを読む]
  • 楯岡満茂
  • 楯岡満茂(たておか みつしげ)は、本城満茂とも書きますが、最上氏の庶流である最上一族で、出羽・楯岡城主でした。戦国時代の1547年に生まれ最上義光に仕えました。1586年に、横手城主・小野寺義道は、名将・八柏道為を従えて侵攻し有野峠の戦いとなりますが、最上義康と共になんとか撃退しています。1595年、最上勢の総大将として小野寺領に侵攻すると、湯沢城を陥落させました。出羽・湯沢城主になると、湯沢氏を称しています。1 [続きを読む]
  • 菊姫 (武田信玄の娘、上杉景勝の正室)
  • 菊姫(きくひめ)は、戦国時代の1558年、武田信玄の5娘として生まれました。母は側室の油川夫人ですが、同じ母の子としての兄弟は姉妹には、仁科盛信、葛山信貞、松姫がいます。1578年、上杉謙信が死去したあと越後で御館の乱が勃発すると、兄・武田勝頼は上杉景勝と同盟を結び、その証として1579年に武田菊が上杉家に嫁ぎました。上杉景勝の才色兼備な正室として、甲州夫人・甲斐御寮人と呼ばれています。1589年12月からは、妻子を [続きを読む]
  • 巴御前
  • 巴御前(ともえごぜん)は、弓の名人であり武勇で知られる鎌倉時代の女武将です。諸説ありますが、中原兼遠の娘で母は千鶴御前、または樋口兼光の娘、または今井兼平の妹などとされます。いずれにせよ、木曽の出身だったようで、源義仲(木曽義仲)が落ち延びると、のちに愛妾となりました。1180年、木曽義仲が挙兵すると共に行動し、越中・礪波山の戦などを経て、京に入りました。宇治川の戦いでは、まだ幼かった木曽義仲を逃がした恩 [続きを読む]
  • 朝倉宗滴(朝倉教景)
  • 朝倉宗滴(あさくら そうてき)は、本名を朝倉教景(あさくら-のりかげ)と言う越前の戦国武将ですが、一乗谷城主の朝倉氏の一族である重臣となります。諸説ありますが、1477年に越前守護である朝倉孝景の8男として生まれました。金吾の名でも知られます。1503年に敦賀城主・朝倉景豊の謀反に当初は加わる姿勢を見せると、その謀反の企てを朝倉家当主・朝倉貞景に密告した功績にて、朝倉宗滴は金ヶ崎城主となり、以後、朝倉家の重鎮と [続きを読む]
  • 雑賀孫市(鈴木孫一) 鈴木重秀・鈴木重朝
  • 雑賀孫市(さいか まごいち)は、鈴木孫一(すずき まごいち)と言う雑賀衆の頭領で紀州・雑賀城主である戦国武将ですが、正式な名前は鈴木重秀と考えられています。雑賀衆は、地域の職人などの小さな集まりで構成された協同組合のような武装集団で、場合によってはお金で動く傭兵集団でもありました。本願寺門徒の勢力が強い紀ノ川の下流域が本拠で、特に石山本願寺での戦い「石山合戦」では、鉄砲が得意な雑賀衆を率いて本願寺顕如に [続きを読む]
  • 静御前
  • 静御前(しずか-ごぜん)は、鎌倉時代初期の女性で、白拍子(しらびょうし)とされます。白拍子と言うのは、歌いながら踊る芸子のことで、貴族などの屋敷に出向いては、舞を披露したりしていました。静御前の母とされる磯禅師(いそのぜんじ)も白拍子だったとされます。源義経が平家打倒で京にのぼると、静は源義経に愛されて妾(めかけ)になりました。義経が京都堀川第(ほりかわだい)の屋敷にて、兄・頼朝の刺客・土佐房昌俊(とさぼうし [続きを読む]
  • 源義経
  • 源義経(みなもと-の-よしつね)は、平安時代末期の武将で、鎌倉幕府の初代将軍になった源頼朝の弟になります。ただし、源義経は9男(九郎義経)で、母は側室・常盤御前でした。幼いころは牛若丸(うしわかまる)と呼ばれ、父・源義朝が謀反人となり討死すると、母と逃亡しました。牛若丸が11歳のころ母が再婚すると、京都・鞍馬寺に預けられて、遮那王(しゃなおう)と称されています。しかし、鞍馬寺を出ると、弁慶と知り合い、東北に向 [続きを読む]
  • 木曽義仲(源義仲)
  • 木曾義仲(きそ-よしなか)は、源義賢の次男として1154年に生まれました。父の兄・源義朝(源頼朝の父)が京から下って関東の豪族を従えて勢力を付けると父・源義賢は1153年、北関東に入って上野国の多胡館に入りました。そして、武蔵の最大勢力である大蔵館主・秩父重隆と秩父重弘の親子と結び、大蔵館を本拠として、秩父重隆の娘を妻にしています。木曽義仲の母である小枝御前(さえごぜん)は、遊女だったなど諸説あり、正直よく [続きを読む]
  • 足利義満
  • 足利義満(あしかが よしみつ)は、室町幕府3代将軍として1369年〜1395年に在職しました。父は2代将軍の足利義詮(よしあきら)で京都で生まれました。南朝勢力に京を占領されると、4歳の足利義満は建仁寺に一時隠れ、北朝勢が奪還するまで、赤松則祐の居城である播磨・白旗城に避難しています。父が重病になると、叔父の足利基氏が推挙していた管領・細川頼之が後見し、11歳で足利義満は征夷大将軍となりました。現在の今出川駅付近に [続きを読む]
  • 山極勝三郎
  • 山極勝三郎(やまぎわ かつそぶろう)は、人工的に癌(ガン)の発生に成功した病理学者です。幕末の1863年に信州・上田城下にて、上田藩士の3男として生まれました。16歳のとき、恩師の勧めで医師・山極吉哉の養子になると、ドイツ語を学び医師を目指します。東京大学医学部に入学すると、首席の成績で卒業し、東京帝大医学部助教授になりました。また、ドイツに留学すると、フィルヒョーに師事し帰国すると、東大教授となり、病理解剖 [続きを読む]
  • 豊臣秀吉
  • 豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)は、戦国時代の武将で、関白となり天下に号令し、太閤(たいこう)に至りました。若いころは、木下藤吉郎と言い、一般的には尾張出身の農民とされています。清洲城主・織田信長に仕えると、武功を挙げ、1573年には近江・長浜城主に抜擢され、羽柴秀吉と改名しました。1582年、本能寺の変のあと、毛利家と和睦すると中国大返しを行い、山崎の戦いにて明智光秀を破りました。そして、清洲会議を経て、賤ケ [続きを読む]
  • 卑弥呼
  • 卑弥呼(ひみこ)は、魏志倭人伝(ぎし-わじんでん)の中に記載されている倭国の女王の名前です。邪馬台国に都を置いて30余国を統治し、西暦239年に魏の明帝に朝貢すると、親魏倭王の称号と金印とを受けたとされます。鬼道(呪術(じゅじゅつ))にすぐれ、夫はなく弟が政治を補佐し、180年代の初めごろ王位についたとあります。なお、247年、狗奴(くな)国との戦乱のなかで、死去したらしいと言う事になります。今の日本では一般的に「ひみ [続きを読む]
  • 天草四郎(益田四郎時貞)
  • 天草四郎(あまくさ-しろう)は、天草四郎時貞とも言うキリシタンの少年で、本名は益田四郎(ますだ-しろう)とされます。江戸時代の初期1621年か1623年生まれとされ、キリストの洗礼名はフランシスコ(Francisco)となります。諸説ありますが、関ヶ原の戦いで敗れ斬首となったキリシタン大名・小西行長の祐筆で6000石だった益田好次の子と考えられます。母は、天草の庄屋とされる渡辺伝兵衛の娘(千束善右衛門の妹)・よね(とも)とさ [続きを読む]
  • 伊達政宗
  • 伊達政宗(だて-まさむね)は、戦国時代の大名で、父は米沢城主・伊達輝宗、母は山形城主・最上義守の娘である義姫となります。幼少の頃に疱瘡(ほうそう)で右眼を失明していたことから、のち「独眼竜政宗」とも呼ばれます。片目が見えず武将としての能力を心配されましたが、片倉小十郎などの世話を受けて優秀な若者に育ちます。13際の時に、三春城主・田村清顕の娘である愛姫(12歳)を正室に迎え、15歳で初陣を果たしました。1584年 [続きを読む]
  • 京極高知
  • 京極高知(きょうごく-たかとも)は、近江守護の名門である京極高吉の次男として、1572年に小谷城下で生まれました。母は、浅井久政の娘・京極マリアで、兄に京極高次がいます。しかし、京極氏は、父の代に被官だった浅井氏によって追放されており、没落していました。その後、父が足利義昭の擁立に尽力したことから、織田信長と親交を得ましたが、足利義昭が追放されると、まだ幼かった兄・京極高次を織田家に人質として出して臣 [続きを読む]
  • 徳川家康
  • 徳川家康(とくがわいえやす)は、戦国大名で、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた戦国三英傑のひとりです。今川義元に従っていた松平家の嫡男として岡崎城で産まれました。人質として6歳で駿府(すんぷ)に送られましたが、臨済宗の僧・太原雪斎から教育を受け、優秀な武将へと育ちます。元服すると今川家重臣である関口親永の娘・瀬名(築山殿)を正室に迎えています。1560年、今川勢として桶狭間の戦いに出陣しましたが、織田信長 [続きを読む]
  • 織田信長
  • 織田信長(おだ のぶなが)は、戦国時代の大名ですが、織田家は最初から大名だった訳ではありません。分かりやすく申し上げますと、尾張守護の斯波義統に仕えていたのが織田家ですが、その織田家の中でも本流ではなく、支流だったのが織田信長の父・織田信秀となります。しかし、清洲城主・織田信秀は尾張の虎の異名があるように、尾張屈指の勢力を築き、織田信長が跡を継いだと言う事になります。若いころは、素行が悪く「うつけ」 [続きを読む]
  • 大隈重信
  • 大隈重信(おおくましげのぶ)は、佐賀藩出身で、尊王派として幕末の京都や長崎などで活動しました。明治新政府が設立されると、薩摩藩の家老・小松帯刀の推挙で出仕し、イギリス公使パークスら外国人との交渉を担当しました。その後、大蔵大輔として地租改正などに取り組み財政に尽力し、鉄道・電信も推し進めたほか、三菱の岩崎弥太郎とも密接な関係でした。自由民権運動の際に、憲法制定の論議が高まると、伊藤博文と井上馨らに敗 [続きを読む]
  • 篤姫(天璋院)
  • 篤姫(あつひめ)は、幕末に薩摩藩の島津家一門である今和泉(いまいずみ)の領主・島津忠剛の長女として生まれました。最初は於一(おかつ)と言う名でしたが、17歳の時に藩主・島津斉彬の養女となり、篤姫と改名しています。そして、20歳のときに、江戸幕府13代将軍・徳川家定の正室となり江戸城の大奥に入りました。しかし、徳川家定は虚弱であったため、子は期待できず、次期将軍の座を紀州藩の徳川慶福と、水戸藩・水戸斉昭の実子 [続きを読む]
  • 勝海舟
  • 勝海舟(かつかいしゅう)は、幕末に活躍した江戸幕府の旗本(直臣)で、江戸城の無血開城に大きく貢献した偉人で、勝麟太郎とも呼びます。蘭学や兵学を学ぶと、長崎海軍伝習所に入りましたが、生粋の江戸っ子で、話し方もサバサバしていたと言います。1860年には、咸臨丸(かいりんまる)を指揮して、アメリカ・サンフランシスコまで太平洋を横断し、見聞も広めました。幕府の海軍創設のため、神戸海軍操練所を設立すると、坂本龍馬など [続きを読む]
  • 岩倉具視
  • 岩倉具視(いわくらともみ)は、幕末には倒幕に協力した公家で、明治政府では今でいう外務大臣を務めた維新の十傑のひとりです。権中納言・堀河康親の次男として京にて生まれましたため、14歳で岩倉具慶の養子になりました。しかし、岩倉家は公家の中では官位も低い下級公家で、貧乏な部類となります。孝明天皇の侍従として、江戸幕府と「公武合体」を推進し、仁孝天皇の皇女・和宮を、徳川14代将軍・徳川家茂の正室としました。この [続きを読む]
  • 徳川慶喜(一橋慶喜)
  • 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、日本最後の征夷大将軍、すなわち江戸幕府最後となった徳川15代将軍です。水戸藩主・徳川斉昭の7男として生まれたため、藩主になれる可能性は低かったのですが、2歳で夭折し跡取りがいなかった御三卿・一橋家(10万石)を継ぎ、一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)となりました。ペリー来航以来の難局を乗り切るため、老中・阿部正弘の推挙もあり、頭脳明晰な一橋慶喜を時期将軍に推す薩摩藩主・島津斉彬 [続きを読む]