詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) さん プロフィール

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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さん: 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
ハンドル名詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) さん
ブログタイトル詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005
サイト紹介文日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供588回 / 365日(平均11.3回/週) - 参加 2014/10/02 10:33

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) さんのブログ記事

  • 福岡県警への疑問
  •  2018年08月17日(金曜日)、地検に呼び出された。05月28日、福岡市天神の歩車分離交差点(岩田屋、ビオレの対抗二車線の交差点)を自転車に乗って渡ったことについての確認である。 福岡中央署のことがあったので、事前にやりとりを録音していいか尋ねた。不許可だった。理由はネットなどに公表されると困るから、ということだった。なぜ困るのか、録音を公表しなければいいのか、ということは面倒だったので問わなかった。 口 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(41)
  • 41 薊の木 アナトリアでこの乾燥した土地では アザミも木になる その木になったアザミを高橋は見たのか。うわさを聞いて書いているのか。「薊」と「アザミ」は意識的に書き換えたものだとするなら、この表記の背後には現実と夢が交錯している。掘り起こしたその根は とろとろに柔かく老人の衰えた精を養う というお化けアザミの精のついた老人は?美しい花は咲かせず 棘だらけ近づく人をやたら刺しに刺す 原文は「堀り起こ [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(40)
  • 40 二つの瓶絵この瓶絵の髯の男は指を伸ばして 向き合う少年の皮かむりを愛撫別の瓶絵の大人は 後ろ向きの青年の尻の向こうの締まった睾丸を掌に包もうとこれを猥褻というのはたやすいが 仮に比喩と考えてみては どうだろう 「比喩と考えてみる」ということばがおもしろい。 「比喩」とは、いまここにないものを借りて、ここにあるものを語ることである。いまここにあるのは、男が少年(青年)の性器に触れるという姿である [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(39)
  • 39 出会いは この作品は「38 少年に」の語りなおしとして読むことができる。二千五百年前の二十歳と 二千五百年後の八十歳が愛しあった それを不似合いの二人と きみは言うか八十歳の二十歳への愛は 何処から見ても 掛け値なしの純金二十歳の八十歳へのそれも 金メッキではない と思いたいこの奇蹟の恋愛譚の作者は 偶然あるいは偶然の仮面を被った必然どちらにしても出会いはやすやすと時空を超える ということ 「き [続きを読む]
  • 「平成最後」という必要はあるのか。
  • 「平成最後」という必要はあるのか。             自民党憲法改正草案を読む/番外220(情報の読み方) 読売新聞2018年08月15日の夕刊(西部版・4版)の一面の見出し。平成最後 終戦の日/戦後73年 陛下「平和な歳月に思い」 「平成最後」ということばが気になって仕方がない。来年「改元」がおこなわれ「平成」ではなくなる。だから「平成最後」と言うのだろうが、「終戦の日」を「平成」や「昭和」という「 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(38)
  • 38 少年に その名はエペボス イスタンブル考古学博物館 博物館で見た少年の姿に高橋は問いかけている。きみの年齢は十五? それとも十三歳?ではなくて二千歳 だとすれば きみの その匂い立つばかりのみずみずしさは 何ゆえ 問いかけながら、問いかけていない部分もある。「ではなくて二千歳」は少年の答えではなく、高橋の「答え」である。なぜ、そう答えたのか。二千年前につくられた像だから二千歳なのか。もしそうだ [続きを読む]
  • 谷川俊太郎『バウムクーヘン』
  • 谷川俊太郎『バウムクーヘン』(2018年念09月01日発行) 谷川俊太郎『バウムクーヘン』を読みながら、ふと思うことがあった。知人に「これ読んでみて」と「あさこ」という詩のページを開いて見せた。おんがくしつであさこはハイドンをさらっていたわたしはうちでおなじきょくをひいてみたなんどかつっかえたけどわたしのほうがうまいとおもったあさこはらいねん ウィーンへいくわたしはそらをみるのがすきあおぞらじゃなく  [続きを読む]
  • 天沢退二郎「四月の雨」
  • 天沢退二郎「四月の雨」(「文藝春秋」2018年09月号) 天沢退二郎「四月の雨」は短い。アクアアクアアクア雨だ 雨が降っている四角い雨だ安心だ、雨が四角い雨だまだ暗い、まだ四角い雨、安心だ、四月の雨、これが!!アクア アクア アクア! 何を感じる? 「四月の雨」は「四角い雨」? わからない。「四月」と「四角」は「四」の文字が共通する、ということしかわからない。だから「四角い雨」なのか。 アクアは「水」 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(37)
  • 37 タコ泳ぐタコ 匿れるタコ 墨噴いて遁走するタコ月の夜に海から上がり 八本足でスイカを抱くタコ 高橋が書いているタコは、どこで見たのだろうか。よくわからない。けれど「八本足でスイカを抱くタコ」はとても印象に残る。スイカとの組み合わせよりも、「抱く」という動詞のためだろう。人間は「手」で抱く。けれどタコは「足」で抱く。しかも八本ある。そこに「抱く」ことへの強い欲望を感じる。エロチックなのだ。 この [続きを読む]
  • 高橋弘希「送り火」
  • 高橋弘希「送り火」(「文藝春秋」2018年09月号) 高橋弘希「送り火」は第百五十九回芥川賞受賞作。 父親の転勤にともない青森県に転校する中学生が主人公。最後に思わぬ暴力にまきこまれるまでを描いている。ウィリアム・ゴールディングの「蠅の王」が意識されているのかもしれない。でも、暴力(野蛮/野生)の持つ「魔力(愉悦)」のようなものが書かれていないので、最後の「暴力」が飛躍しすぎていて、納得できない。そ [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(36)
  • 36 迷路 クノッソス 「迷路」には二つの種類がある。「路」そのものが入り組んでいるときと、「意識/自己」がさだまらないとき。路がまっすぐでも、その路で迷うことはある。「この方向でよかったのか」と、ひとは、いつでもどこでも迷う。この 掘り出され 真夏の日差にさらされた 明るい迷路 クノッソスの迷路(迷宮)に立った後、高橋は自分の迷路を見つけ出す。「迷路」は「迷う」と言いなおされた後、路は「謎」と言い [続きを読む]
  • 安藤元雄『「悪の華」を読む』
  • 安藤元雄『「悪の華」を読む』(水声社、2018年05月20日発行) 安藤元雄『「悪の華」を読む』はタイトル通り、安藤がボードレールの『悪の華』をどう読んできたかを書いている。繊細な内容なので、私にはわからないことがたくさんある。 第四章は「旅への《さそい》」。「旅へのさそい」をとりあげ、「微妙な異同」について書いている。「異同」はいくつかある。感嘆符が追加され、「ティレ(棒線)」が省かれる。それを取り [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(35)
  • 35 ドドナにておう ドードーナ ドードーナそれは地名である以前に 烈しい風音 「地名である以前に」の「以前」が重要だ。「名前以前」とは「名づけられる前」ということ。「名」として分節される前。未分節。つまり「無」の状態。そこではただ風が音を立てている。何かになろうとする動きが、そのまま風の激しさとして存在している。「名づけられる」前に、自ら「音」を発している。 これは、こう言い換えられる。風のみなも [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(34)
  • 34 不在 エピダウロス円形劇場の擂鉢の底に立つ旅人は と書き始められる詩。「旅人」は高橋のことである。「擂鉢の底」は舞台である。そこから観客席を見上げる。そこには「自分はいない」。いるのは演劇の神 ではなく底のない青空 青空という名の無 ギリシアの空はどこまでも澄んでいる。その描写なのだが、「青空という名の無」がとても印象的だ。「青空」を「無」と言い換えたのか、「無」を「青空」と名づけたのか。名を [続きを読む]
  • 駱英『文革記憶−−現代民謡』(竹内新訳)
  • 駱英『文革記憶−−現代民謡』(竹内新訳)(思潮社、2018年01月15日発行) 駱英『文革記憶−−現代民謡』には詩がつくられた日付と時間、さらに場所が書かれている。「城壁そばの処刑場」には二〇一二年十一月九日06:47 米ロサンゼルス、リンダ・アイスル、ニューポートビーチ96番地 と書かれている。そして、この日、この場所で書かれた作品は、「鍛冶屋の劉さん」(04:22 )に始まり、「『紅色娘子軍』」(11:02 )まで二 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(33)
  • 33 旅 ボイオティア 「旅」とあるが、単純な旅ではないだろう。兵士の帰郷を思わせる書きぶりである。一休みして立ちあがり また歩きだす趾の先先 日の照りつける まぶしい道歩く者の影は 乾いた土に吸われつづける 読むだけで、歩いている人の疲れが伝わってくる。水ではないのだから、人間の影が「乾いた土に吸われ」ることはないだろうが、そんなふうに見えてしまう。 歩み、人間の痕跡が消えていくというのは敗北だ。 [続きを読む]
  • 若尾儀武『枇杷の葉風土記』
  • 若尾儀武『枇杷の葉風土記』(書肆子午線、2018年07月20日発行) 若尾儀武『枇杷の葉風土記』は戦争の記録。息子を戦場に送った母親たちの思いがつづられている。「息子」の名前は出てくるが、母親の名前は出てこない。母親の思いはひとつ、ということなのだろう。田の水 抜いて仕上げの草引きしてましたそしたら何べんも草引きしたはずやのに馴染みのない草生えとりましていつ見過ごしたんか風の色みたいな花つけましてそも [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(32)
  • 32 目覚めよ 「光と闇」と同様にソクラテスのことを描いている。雄鶏を一羽 アスクレピオスに献げといてくれないか という一行から始まり、雄鶏、雌鶏の比較、最後にはどちらも潰され、食べられてしまう運命を書きつづり、こんな風に転調する。かの人もデルポイからの使者よろしく 虚仮 コケコッコー汝自身を知れと 告げつづけたばかりに 潰されたもの 「潰された(潰す)」には肉体のうごめきがあるが、「虚仮 コケコッ [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(31)
  • 31 光と闇 「考える人(考えつつ語る人)」が主役。彼は「夏の光の中で」考え、語り続けているのだが。語り疲れると 屋内の闇に帰っていくが そこは考える空間ではない 子供が泣き 女が喚く場所考える人が考えることを止め 汗まみれで眠りこけ目覚めて ふたたび 考える人に戻るための この詩も理屈っぽいと私は感じる。「子供が泣き 女が喚く」は現実だが、ほかのことばには現実の実感がない。 高橋が「考える人」と一 [続きを読む]
  • 嵯峨信之『土地の名−人間の名』(1986)(2)
  • 「台地」*(ある台地)ある台地時の終りがすべて集まつていていま小草一本生えていない突兀たる高所 「集まる」と「生えていない」の「ない」とは矛盾している。「集まる」ならば、そこには「ある」はずだが、何もない。「無」が集まってきていることになる。 「時の終り」が「無」である。 「終り」が「集まる」と何もない。 しかし、ことばは「無」を語ることができる。「無」を「ある」ものとして語ることができる。 それ [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(30)
  • 30 眠りの後に 午後のある時間。人間だけではなくすべてが眠っている。道も 樹樹も その影も それらの上の雲一つない青空も そう書いた後、開け放した窓から 部屋の中の闇の部分を窺う羽沓を穿き 羽杖を手にした 不吉な横顔の若い神 ということばがつづく。「若い神」は死神。そういうことは知らずに、眠り足りた人は、涼しい風と光の中へ歩み始める。眠った分だけ死に近くなった自分に 気づかずに 光と影(闇)、生と [続きを読む]
  • 嵯峨信之『土地の名−人間の名』(1986)を読む(1)
  •                          2018年08月06日(月曜日)(不幸よ)不幸よわが偉大な休息の島その空を飛んでいる一羽の信天翁よ 「不幸」「島」「信天翁」は、「ひとつ」のものである。どのことばがどのことばの「比喩」なのか、特定はできない。相互に呼び合っている。 「動詞」を探してみる。 「休息の島」には「休息する」という動詞が隠れている。 この「休息する」と「飛んでいる」が向き合う。 [続きを読む]