詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) さん プロフィール

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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)さん: 詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
ハンドル名詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) さん
ブログタイトル詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/shokeimoji2005
サイト紹介文日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供648回 / 365日(平均12.4回/週) - 参加 2014/10/02 10:33

詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記) さんのブログ記事

  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(147)
  • 147  久留和海岸 「久留和海岸」がどこにあるか、私は知らない。高橋の住む街の近くなのかもしれない。そう感じさせることばが動いている。国道からの下り坂の 片方にはそよぐ木群下りきると 小さいが本当の浜 本当の漁港曇り空をわずかに輝かせる日没が 確かにあり走りまわる子ら 漁網をつくろう大人たちここにあるのは 本当の日常 本当の人生 「本当」が何度も繰り返される。「本当」は「確か」ということばで言いなお [続きを読む]
  • 朝吹亮二「人の野」
  • 朝吹亮二「人の野」(「現代詩手帖」2018年12月号) 「現代詩手帖」2018年12月号に「アンソロジー 2018年代表詩選 130選」が載っている。はじめて読む作品が多い。少しずつ感想を書いてみる。 朝吹亮二「人の野」(初出「文藝春秋」17年11月号)。秋の、野の、ひろがり人の野だから、小鳥たちはさえずる、粘菌たちは繁茂する颱風が去って、化粧する朝、乳香が煙っている冷めた紅茶、燃えかす、ゆっくりしかすす [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(146)
  • 146  塔 新倉俊一に 田代尚路に 新倉俊一は知っているが、田代尚路は知らない。並列して書いているから英文学者なのだろう。同胞どうしが憎しみあい 殺しあった 暗い時代詩人が籠った塔について 私たちは語りあった 詩人の「孤独(孤立)」をテーマに語り合ったということだろう。 最後の四行。(生きている私たちも ひとりひとり孤立した塔その窓が他の窓への銃眼にならないよう 心しよう)その扉は ひたむきに叩く拳 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(145)
  • 145  送辞 誰に対する「送辞」なのか。とても厳しいことばである。詩人が死んだあと、その詩を読んでみた。しかし、詩を読むよろこびも おののきも ついに感じえなかったそれはつまり あなたの「詩」がじつは詩ではなかったそして あなたはつまるところ はじめから詩人ではなかった 「144  きみに」も「きみ」が誰かわからなかった。もしかすると、この詩に書かれてる詩人かもしれない。一度では気がすまず、否定を念押し [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(144)
  • 144 きみにこのところ詩が降りてこない と きみはぼやく最初から降りてこなかったんだよ きみのところには 「きみ」が誰を指すのか、わからない。批判はつづく。降りてこないのには じつは確かな理由がある理由というのは外でもない きみの中がきみでいっぱいだからかりに降りてきても 詩はきみの中に入りこみようがない ここからは「詩」というものが「きみ」とは「異質」のものであることが推測できる。「異質」ものも [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(143)
  • 143 誘拐者人は抱擁の悦びにおいて 関わりのない魂を攫ってわが子にするだから 生殖には本源的な罪がある と聞いたことがある 私は、聞いたことがない。ここに書かれていることが、よくわからない。聞いたことがあったとしても、わからないから、聞いたことがないと思うのかもしれない。 人はあらかじめ知っていることしか、わからない。 私はまず「魂」を知らない。「聞いたことはある」が見たことも触ったこともない。「 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(142)
  • 142  この詩はこれは自分が書いた詩だ と自信をもって言えるのかほんとうは 自分ではなく誰かが書いたのではないのかよしんば書いたのは とりあえず自分だったとしてもじつは 見えない誰かに書かされたのではないのかだからこそ くりかえし読み返すのではないのか 「この詩」「これ」ということばがつかわれているが、それが実際に「どれ」を指しているかは書かれていない。しかし、詩一般についての「認識」が書かれている [続きを読む]
  • 重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』
  • 重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』(思潮社、2018年08月31日発行) 重本和宏『いわゆる像は縁側にはいない』は「邪」という作品がおもしろい。人間でないものになりたいたどたどしい川とか満載喫水線たどりつけない驟雨きれいな足首駱駝の固い頭ふやけたスタジアムなめらかな水掻き正しいものの横にそっと置かれた誰かの悪意にそして いつも間違っていますように 「きれいな足首」は「人間でないもの」ではなく、人間 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(141)
  • 141  梟 日本語と外国語はどう違うのか。あるいは日本人と外国人はどう違うのか。「観念」と「比喩」の結びつき方が違う気がしてならない。ある存在を見つめ、凝縮する。「比喩」になり、「観念」に変化する。そこから「観念(抽象)」がもう一度「比喩/象徴」に変化する。こういう絡み合いに対する訓練が日本語(日本人)には欠如しているような気がする。単に、外国人のことば(翻訳でしか知らないけれど)の方が、抽象と象徴 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(140)
  • 140  他人の庭 「139  悲しみ」の続篇か。昼寝から目覚めて見る 自分の庭は他人の庭のようによそよそしい 「昼寝から目覚めて」は「昼の夢から目覚めて」かもしれない。夢は本能が見ている。本能から見れば、現実は「他人」なのかもしれない。そしてこのとき、「他人」とは「本能の自分ではない」という以上の意味を持たない。 しかし、詩は、こうつづいている。「意味」をつくりはじめる。そうではなくて ほんとうに他人の [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(139)
  • 139  悲しみ 老人と赤ん坊を対比させている。昼寝から帰ってくるたび世界が新しく見えるのは なぜだろう眠りの中で自分が老いたぶんだけ世界が若くなった と思いたいのかほんとうは そのぶん世界は老い自分も 確実に老いているそのことを 曇らされず知っているから目覚めた赤子は 激しく泣くのだ 「意味」はわかる。けれど、「悲しみ」はだれのものを指して言っているのか。老人(高橋)の悲しみか、赤子の悲しみか。高橋 [続きを読む]
  • estoy loco por espana (番外27)
  • Miguel González Díazの作品。この作品は、木と出会うことで表情が変わった。背景が空間だったときは、現代人の不安を感じさせた。木と出会うことで、そこに不条理が加わった。不安をつくりだしているのは人間(ブロンズ)ではない。人間(ブロンズ)ではない何か(木)が、ことばにならない接続と切断を迫っている。Obra de Miguel González Díaz.La expresión facial de este trabajo cambió al encontrarse con un árbol [続きを読む]
  • 志村喜代子『後の淵』
  • 志村喜代子『後の淵』(水仁舎、2018年08月16日発行) 志村喜代子『後の淵』は、凝縮度の高いことばで構成されている。「凝らす」という作品の全行。いちぶ始終を 見たい土ふまずに音は こぼれのんどは声をしたたらせ地獄耳 生え狂おしきひとあり凝らすあまり眼球 落ち耳 枯れ冴えされこうべをして なお這いすがる愛着ひばばの ははの また母の はるかよりゆずり受けいちぶ始終を 見たい 何の「いちぶ始終」か。「 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(138)
  • 138  蝉の夏 田原に 中国では、脱皮する前の蝉を食べる−−という話を高橋は田原から聞いたらしい。そこからこんな具合にことばを動かしている。土から出て幹を登る蝉を採り 袋に入れる母親が鉄鍋で音立てて 彼らを煎り上げ五十歳の君の中には いまも何百匹何千匹が脱皮前の異形で 上へ 下へ 這いまわっている君の中の無数の沈黙を脱皮させ 飛び立たせてやれ存分に鳴かせてやれ それが彼らと君の夏の完成 「無数の沈黙 [続きを読む]
  • estoy loco por espana (番外26)
  • Joaquin Llorens Santa の「Entre dos aguas 」 水が動く。水は出会った瞬間にひとつになる。 しかし、ホアキンは二つの水を描く。 「波」ではなく「流れ」と思って見つめる。 ひとつの流れはどこからやって来て、どこへ行こうとしていたのか。 もうひとつの流れもまた、どこから来て、どこへ行こうとしていたのか。 おそらく違ったところから来て、違ったところへ行こうとしていた。 けれども出会ってしまった。 出会うこ [続きを読む]
  • 50年後の発見(3)
  •  岩倉雅美の作品。(追加)(実物を見ていないのだが、何枚か写真を送ってもらったので、その感想を書いておく) この作品は、完全な「抽象」ではない。鋭角的な幹から一枚の葉が出ている。若い葉と見るか、老いた最後の一枚の葉と見るか。まっすぐ天を指す幹の勢いを信じ、若い葉と見るのが一般的かもしれない。岩倉の狙いかもしれない。 しかし、私は、最後の一枚と見たい。ただし、幹にしがみついている一枚ではなく、老いた [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(137)
  • 137  鬼能風に 誰の死を描いているのか。「能」を手がかりにすれば能役者か。愛煙家。死因は肺がんかもしれない。 後半部が生き生きしている。「批判」というか、あきれ返っている。批判を含むから生き生きしているといえるし、批判は嫉妬から生まれるから生き生きしているのかもしれない。しかも 根っからの頑健を信じて 疑いもしなかったそれというのも いつでも勃起する それだけの理由でなんたる妄信 世には疲れ勃ちと [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(136)
  • 136  無際限の墓 「意味」が強い。「意味」ではなく、その「強さ」の方を感じ取ればいいのかもしれない。死んだ彼は焼かれて遺灰になり 海に撒かれた地球を覆う海ぜんたいが 彼の墓になった太陽の熱が海水を吸いあげれば 天空も墓吸いあげた水が雨と降れば 野も山も墓彼は宇宙になった 否 宇宙が彼になった 最終行の「否」が「強さ」を強調している。この「否」はなくても「意味」はつうじる。つまり、言い換えると、この [続きを読む]
  • 50年後の発見(2)
  •  井波は欄間で有名だ。木彫職人が店を並べている。 川田良樹を尋ねた。店先で作品をつくっていた。どの店もそうだが、こうやって仕事風景を見せながら、客を待っている。 彫っていたのは龍。正月の縁起物なのだろうか。ほかにも正月の縁起物らしい作品が並んでいる。 川田の人柄なのか、堅実な印象がある。叩いても壊れない、という感じ。木だから、叩いたくらいでは壊れないのは当たり前なのだが。 そうした縁起物のほかに、 [続きを読む]
  • estoy loco por espana (番外25)
  • Javier Messia の展覧会のポスターから。天地が対称になっている。正確には対称ではないのだが、正確ではないからこそ、対称という意識を覚醒させる。そして、ここにある対象の乱れは何か、ということを考えさせる。水面(たとえば川、たとえば海)に映った夜の街。銀色は窓の光か、星か。星ならば、それは降ってくる星。星がビルの中で明かりに変わる。そういう夢を誘う。夢とは、世界の「誤読」である。「誤読」は、対称の乱れに [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(135)
  • 135  雪崩 那須スキー場献花台前にてきみたち十七歳の七人 引率の若い先達を入れてつごう八人を突然の雪の塊が襲い 呑みこんだ 誰もが予想しなかったこと と、事故のことを書いている。その「誰もが予想しなかった」を、高橋は、こう展開する。おそらく 雪塊だってそう きみたちの匂い立つ若さを見て急に惜しくなったのだ 数年のうちにむくつけき大人についには無残な老人にしてしまうのが なんとも忍びなくてそこで思わ [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(134)
  • 134  怠惰北にも 南にも 微笑の影で牙を剥く国国東には つねに虎視眈々と侵入の機を伺う大国海上はるか西には まさに勃らんとする僣主たちその緊張の中で アテナイの詩は磨かれ 輝いたとすれば 今日の私たちの怠惰は 謗られて当然四方をひしひし 怖ろしい敵に囲まれながら自己満足か仲間向けの非詩を 濫作するのみ 古代アジアと現代日本を対比しながら、現代の日本の詩を批判している。「論理」が動いている詩である。 [続きを読む]
  • 50年後の発見(1)
  •  高校時代の同級生の作品を尋ね歩いてみた。 私は木に携わる仕事をしてみたかった。しかし、高校に入って実際に木に向き合ってみて気づいた。私の「立体感覚」は同級生に比べて格段に劣る。机の引き出し、つまり「箱」さえ正確な形にならない。立体をつくることに向いていない。 就職先もなく、大学へ進学しようかな、でも木の仕事もしたい。そう思っていたとき、県美術展で大丸晃世(勉)の作品を見た。男の頭。コンクリート製 [続きを読む]
  • 高橋睦郎『つい昨日のこと』(133)
  • 133  花冠どんな理屈を捏ねようと 白昼の群集の中でのきみの自爆は美しくないきみに何の縁もゆかりもない無辜の人びとの笑顔を巻き込んだからにはきみの匂い立つ盛りの若さを犠牲にしたとしても 涼しい木蔭は約束されまい 「涼しい木蔭」はコーランが約束する「天国」の描写のひとつだから、ここに書かれている「自爆テロリスト」はイスラム教徒ということになるだろう。 書かれている「意味」はわかるが、私はこういう「倫理 [続きを読む]