クマコ♡ さん プロフィール

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クマコ♡さん: セラピスト♡クマコ日記
ハンドル名クマコ♡ さん
ブログタイトルセラピスト♡クマコ日記
ブログURLhttps://ameblo.jp/the-kumako/
サイト紹介文クマコとは…人大好き♡癒す仕事大好き♡ 人生泣いたり、笑ったり、笑ったり、笑ったり。
自由文クマコは、
マザー・テレサの
「Love is doing small things with great love.」
〜小さなことを、大きな愛で〜
という言葉が大好きです♡

目の前にいる大切な『あなた』を
何度でも何度でも笑顔にしたい!

そんなシンプルな想いで
セラピストをさせていただいております。


心豊かな方。お友達になりましょう!
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供90回 / 365日(平均1.7回/週) - 参加 2014/10/14 06:09

クマコ♡ さんのブログ記事

  • 【言志晩録 62条より】 今の学者は博と通に失う
  • 【言志晩録 62条より】 今の学者は隘(あい)に失わずして、博に失い、陋(ろう)に失わずして、通に失う。88888888888888888888888888888888今の学者は、学問の狭いために失敗するのではなく、博いために失敗している。また、その学問が偏っているので失敗するのではなく、何事にも通じているので失敗するのである。88888888888888888888888888888888Q.あなたは広く通じていることで失っていることはあるか? [続きを読む]
  • 【言志晩録 2条より】 狂と狷二則 その1
  • 【言志晩録 2条より】 狂者(きょうしゃ)は進みて取り、狷者(けんしゃ)は為さざる所有り。子路(しろ)、冉有(ぜんゆう)、公西華(こうせいか)は志進み取るに在り。曽晳(そうせき)は独り其の撰を異にす。而るに孟子以て狂と為すは何ぞや。三子の進み取るは事に在りて、曽晳の進み取るは心に在り。88888888888888888888888888888888狂者とは、志ばかり高く行いの伴わない者をいうが、この狂者には進取の気象がある。また狷者とは引っ込 [続きを読む]
  • 『言志四録−Ⅲ言志晩録』
  • ◎一覧『言志四録〜はじめに〜』『言志四録−Ⅰ言志録』『言志四録−Ⅱ言志後録』 『言志四録−Ⅲ言志晩録』 ◆◇◆今日のことば◆◇◆【言志晩録 76条より】 経書は心で読め『言志晩録』【言志晩録】 はしがき【言志晩録 1条より】 為学と為政【言志晩録 2条より】 狂と狷二則 その1【言志晩録 3条より】  狂と狷二則 その2【言志晩録 4条より】  修養の工夫【言志晩録 5条より】  胸中虚明【言志晩録 6条より】  心 [続きを読む]
  • 【言志録 45条より】  寵愛過ぐる者
  • 【言志録 45条より】寵(ちょう)過ぐる者は、怨(うらみ)の招なり。昵(じつ)甚(はなはだ)しき者は、疏(うとん)ぜらるるの漸なり。88888888888888888888888888888888上の人や同僚から、余りに可愛がられるとそれがかえって怨(うらみ)を招くことになる。また、余りになじみ過ぎると、かえって疎遠になる基を造るものだ。88888888888888888888888888888888Q.あなたは適度な親近の距離を保っているか? [続きを読む]
  • 【言志録 29条より】 大徳と小徳
  • 【言志録 29条より】大徳は閑(のり)を踰(こ)えざれ。小徳は出入すとも可なり。此(ここ)を以て人を待つ。儘(まま)好(よ)し。 88888888888888888888888888888888徳の大きなもの、忠・信・孝・梯(てい)というようなものは、これを守って、礼儀規則を外れてはならない。しかし、小徳、例えば進退応対のようなものは、その仕切りを出入りしても許せる。このような寛大さをもって、他人に対するのはまあよかろう。(自分を律するには、小 [続きを読む]
  • 【言志晩録 67条より】 石田心学を評す
  • 【言志晩録 67条より】 世に一種の心学と称する者有り。女子、小人に於いては寸益無きに非ず。然れども要するに郷愿(きょうげん)の類たり。士君子にして此を学べば、則ち流俗(りゅうぞく)に汨(しず)み、義気を失い、尤(もっと)も武弁の宜しき所に非ず。人主誤って之れを用いば、士気して怯懦(きょうだ)ならしめむ。殆(ほとん)ど不可なり。88888888888888888888888888888888世間に心学と称する一種の学問がある。女子や小人には多少 [続きを読む]
  • 【言志晩録 28条より】 日本の宋学 その一
  • 【言志晩録 28条より】 惺窩藤公(せいかとうこう)、林羅山(はやしらざん)に答えし書に曰く、「陸文安は天資高明にして、 措辞渾浩(そじこんこう)なり。 自然の妙も、亦 掩(おお)う可からず」と。又曰く、「紫陽は篤実にして 邃密(すいみつ)なり。 金溪(きんけい)は高明にして 簡易なり。 人其の異なるを見て、 其の同じきを見ず。 一旦貫通すれば、 同じきか、異なるか、 必ず自ら知り、 然る後已(や)まん」と。余謂う [続きを読む]
  • 【言志晩録 61条より】 精義入神と利用安身
  • 【言志晩録 61条より】 義を精(くわ)しくして、神(しん)に入るは、燧(すい)もて火を取るごときなり。用を利して、身を安んずるは、剣の室に在るがごときなり。88888888888888888888888888888888くわしく道理を研究して、神妙な奥義に達することは、(社会を正しく導くことになり)ちょうど火打石から火をとって、明りをつけるようなものでだ。また、日常の仕事を有利にさばいて、その身を楽にすることは、ちょうど護身用の剣を室に [続きを読む]
  • 【言志晩録 44条より】 四書講説の心得
  • 【言志晩録 44条より】 論語を講ずるは、是れ慈父の子を教うる意思。孟子を講ずるは是れ伯兄の季を誨(おし)うる意思、大学を講ずるは、網の綱に在るが如く、中庸を講ずるは、雲の岫(しゅう)を出ずるが如し。88888888888888888888888888888888『論語』の講義には、慈愛のある父親が、諄々(じゅんじゅん)と子供に教える気持。『孟子』を講ずるには、兄が末弟を親しみをもって教える心構え。『大学』を講ずるには、条理整然と綱を一本 [続きを読む]
  • 【言志晩録 37条より】 学者、党を分つは朱子の意に非ず
  • 【言志晩録 37条より】 南軒(なんけん)、東萊(とうらい)は朱子の親友なり。象山(しょうざん)、龍川(りゅうせん)は朱子の畏友なり。後の学者は、党を分かちて相訟う。恐らくは朱子の本意に非じ。88888888888888888888888888888888張南軒と呂東萊は朱子の親友である。陸象山と陳龍川は朱子の畏友である。(この人々は 所説は異にしながら 仲が良かった。)ところが後世の学者は、党派を立てて相争っている。これは恐らく朱子の本意 [続きを読む]
  • 【言志晩録 13条より】 一燈を頼め
  • 【言志晩録 13条より】 一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂れうる勿れ。只だ一燈を頼め。88888888888888888888888888888888暗い夜路を行く場合、一張の提灯をさげて行くならば、如何に暗くとも心配するな。ただその一つの提灯を頼んで行けばよいのだ。88888888888888888888888888888888Q.あなたの行く先には一つの提灯があるか? [続きを読む]
  • 【言志晩録 46条より】 講書と作文について
  • 【言志晩録 46条より】 講書と作文は同じからず。作文は只だ習語を飜(はん)して漢語と做(な)すを要す。講書は則ち漢語を飜して以て習語と做すをば、教授に於いて第一緊要の事と為す。視て容易と為す可からず。88888888888888888888888888888888書物を講義するのと、文を作るのとは同じではない。文を作るにはただ、日常語を漢語になおす事が必要である。書物を講義するには漢語を飜訳して日常語にすることが教授において第一に必要 [続きを読む]
  • 【言志晩録 26条より】 儒学の流れ その一
  • 【言志晩録 26条より】 孔・孟は是れ百世不遷(ひゃくせいふせん)の祖なり。周・程は是れ中興の祖、朱・陸は是れ継述(けいじゅつ)の祖、薛(せつ)・王は是れ兄長の相友愛する者なり。 88888888888888888888888888888888孔子と孟子は百世に亘り不変の聖学の祖である。北宋時代の周子と程子兄弟は聖学中興の祖、南宋時代の朱子や陸象山はその後を受け継いで説述に努めた継承者、明代の薛敬軒と王陽明の二大学者は、仲の良い兄弟同士の [続きを読む]
  • 【言志晩録 51条より】 文章について その一
  • 【言志晩録 51条より】 文は能く意を達し、詩は能く志を言う。此くの如きのみ。綺語麗辞、之を佞口(ねいこう)に比す。吾が曹の屑(いさぎよ)しとせざる所なり。88888888888888888888888888888888文章はいおうとする事の意味がよく達すればよいし、詩は心の向う所をいい表わせれば十分である。綺麗な言葉や文句を並べるのは、口先きだけうまい事をいうようなもので、われわれの気持よしとはしない所である。888888888888888888888888 [続きを読む]
  • 【言志晩録 58条より】 孔子の弟子は皆、実践的
  • 【言志晩録 58条より】 顔淵(がんえん)、仲弓(ちゅうきゅう)は、「請う斯(こ)の語を事とせん」と。子張は、「諸(これ)を紳に書す」。子路は「終身之を誦(じゅ)す」。孔門に在りては、往往にして一二の要語を服膺(ふくよう)すること是くの如き有り。親切なりと謂う可し。後人の標目の類と同じからず。88888888888888888888888888888888顔淵と仲弓は「孔子に教えられた言葉(語義、参照)を実行します」といい、子張は「紳に書きつけ [続きを読む]
  • 【言志晩録 40条より】 昔の儒者と今の儒者
  • 【言志晩録 40条より】 古(いにしえ)の儒は立徳の師なり。「師厳にして道尊し」。今の儒は立言のみ。言、徳に由らず。竟(つい)に是れ影響のみ。何の厳か之れ有らん。自ら反りみざる可けんや。88888888888888888888888888888888昔の儒者は自ら道徳を樹立して、人を教え世を導く師であった。まさに、「師は厳格であり、 その説く所の道理は 尊いものであった。」ところが、昨今の儒者は、言葉をいうだけであり、その言葉も徳によれる [続きを読む]
  • 【言志晩録 42条より】 講説の心得 その一
  • 【言志晩録 42条より】 講説の時、只だ我が口の言う所は我が耳に入り、耳の聞く所は再び心に返り、以て自警と為さんことを要す、吾が講已に我れに益有らば、必ずしも聴く者の如何を問わじ。88888888888888888888888888888888学生達に講義するとき、自分の口から出る言葉が、自分の耳に入り、耳に入ったことが、再び心に戻って来て、それを自分の警(いまし)めとすることが大事である。自分の講義が自分の修養上の利益になるならば、 [続きを読む]
  • 【言志晩録 63条より】 心理は竪、博覧は横
  • 【言志晩録 63条より】 心理は是れ竪の工夫、博覧は是れ横の工夫、竪の工夫は則ち深入自得(しんにゅうじとく)し、横の工夫は則ち浅易汎濫(せんいはんらん)す。88888888888888888888888888888888内面的に心の本性を追究するのは竪の工夫であり、外面的に博く書物を見てゆくのは横の工夫である。竪の工夫は深く入って自得するに至るが、横の工夫は浅くて、本当の自分のものとはならず、こぼれ出てしまうものである。8888888888888888 [続きを読む]
  • 【言志晩録 5条より】 胸中虚明
  • 【言志晩録 5条より】 胸次虚明なれば、感応神速なり。88888888888888888888888888888888胸中がからっぽで透明であるならば、(万事に誠の心が通じ)その感応は実に神の如く迅速である。88888888888888888888888888888888Q.あなたのこころは透明であるか? [続きを読む]
  • 【言志晩録 48条より】 朱子の業績
  • 【言志晩録 48条より】 朱子は春秋伝を作らずして、通鑑綱目(つがんこうもく)を作り、戴記(たいき)を註せずして、儀礼経伝通解を編みしは、一大識見と謂う可し。啓蒙は欠く可からず。小学も亦好撰(こうせん)なり。但だ楚辞註、韓文考異は有る可く無かる可きの間に在り。陰符、参同に至りては、則ち窃(ひそか)に驚訝す、何を以て此の泛濫(はんらん)の筆を弄するかと。88888888888888888888888888888888朱子は『春秋』の伝を作らない [続きを読む]
  • 【言志晩録 21条より】 九族一体
  • 【言志晩録 21条より】 我が身は一なり。而も老少有り。老少の一身たるを知れば、九族の我が身たるを知る。九族の我が身たるを知れば、古往今来の一体たるを知る。万物一体とは是れ横説にして古今一体とは是れ竪説(じゅせつ)なり。須べからく善く形骸を忘れて之れを自得すべし。88888888888888888888888888888888わが身はいうまでもなく一つである。一つであるが、少年時代あり老年時代がある。この老少ともに同じく一身であること [続きを読む]
  • 【言志晩録 18条より】 理は理
  • 【言志晩録 18条より】 理を窮む。理固(も)と理なり。之を窮むるも亦是れ理なり。88888888888888888888888888888888われわれが物事の道理を究めようとする場合、その目的とする理はもとより宇宙間に存在している理である。そしてこの理を究めようとすることもまた理である。(主観の理も客観の理も何れも 宇宙間に存在する理であると いうことである。)88888888888888888888888888888888Q.あなたは真理を究めているか? [続きを読む]
  • 【言志晩録 19条より】 理と気は一つ
  • 【言志晩録 19条より】 理は本(も)と形無し。形無ければ名無し。形ありて而る後に名有り。既に名有れば、理之を気と謂うも不可無し。故に専ら本体を指せば、則ち形後も亦之を理と謂い、専ら運用を指せば、則ち形前も亦之を気と謂う。並びに不可なること無し。浩然の気の如きは、専ら運用を指せり。其の実は太極の呼吸にして、只だ是れ一誠のみ。之を気原と謂う。即ち是れ理なり。88888888888888888888888888888888(一般に名称は  [続きを読む]
  • 【言志晩録 38条より】 宇宙内の事は己れ分内の事
  • 【言志晩録 38条より】 象山の「宇宙内の事は、 皆己れ分内の事」とは、此れは男子担当の志是くの如きを謂う。陳澔(ちんこう)此れを引きて射義を註す。極めて是なり。88888888888888888888888888888888陸象山は「天地間の事は 皆自分の中の事、 自分の中の事は 皆これ天地間の事」といったが、これは大丈夫たる者は、如何なる事でも、これを引受けたら徹底的に解決すべきであるという意気込みを表わしたものである。元の陳澔は [続きを読む]
  • 【言志晩録 36条より】 陸象山、一派を立てることを嫌う
  • 【言志晩録 36条より】 象山は濂溪・明道を以て依拠と為せりと雖(いえど)も、而も太(はなは)だ門戸を立つるを厭(いと)えり。嘗(かつ)て曰く、「此の理の在る所、 安(いず)くに 門戸の立つ可き有らんや。 学者各門戸を護るを要む。 此れ尤(もっと)も 鄙陋(ひろう)なり」と。信(まこと)に此の言や、心の公平を見るに足る。88888888888888888888888888888888陸象山は周子と程伯子の学説を拠り所としてはいるが、一派を立てることを非 [続きを読む]