J.W.Mccallister,jr さん プロフィール

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J.W.Mccallister,jrさん: 古田史学とMe
ハンドル名J.W.Mccallister,jr さん
ブログタイトル古田史学とMe
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/james_mac
サイト紹介文古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供301回 / 365日(平均5.8回/週) - 参加 2014/11/03 08:40

J.W.Mccallister,jr さんのブログ記事

  • 「天智」という人物について
  •  『古事記』序文には「投夜水」(夜水に「投」(いた)りて)という表現があります。「…曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣自清 乃放牛息馬 愷悌歸於華夏 卷旌戈 詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道 [続きを読む]
  • 『古事記』偽書説について
  •  『古事記』については以前から「偽書説」の立場から多数の論が成されており、その中には全体が「偽書」であるとするものや「序文」だけが偽書であるという説あるいは「序文」については後代の成立であるという説など、多数乱立しているようです。 「序文」が「並序」として「上表文」の体裁をなしていることを捉えて「後代成立」とする論者もありますが、「序」と「上表文」が同時に共存している論理性については「古田氏」によ [続きを読む]
  • 『古事記』の成立事情と「隠蔽」について
  •  彼(天智)はこの「序文」の中にもありますが「帝紀及本辭」を書き換えようとしたとみられます。(以下『古事記』序文より)「於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運 [続きを読む]
  • 八世紀「新日本国王権」と「天智」
  •  前述したように『書紀』の「壬申の乱」記事と、『古事記』序文記事とは相違する部分が多く、これを「同一の事象」を記した別の史料とは考えにくいと思われます。この「両記事」の違いは『書紀』と『古事記』の「編集方針」の違いとか「表現方法」の違いというようなレベルではなく、この二つの記事は全くの「別物」であって、「別の時点」の「別の事象」を記したものではないかと考えるべきでしょう。 その考えをさらに補強する [続きを読む]
  • 「高市皇子」への挽歌と『古事記序文』
  •  『万葉集』に「柿本人麻呂」が作ったとされる「高市皇子」への「挽歌」があります。(全文を掲げます)「万葉百九十九番歌」「かけまくも ゆゆしきかも [一云 ゆゆしけれども] 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の [続きを読む]
  • 『古事記序文』の主人公について(続)
  •  『古事記』序文に見られる戦闘の描写と『書紀』の「壬申の乱」の様相には明らかな違いがあり、その「動機」、「契機」となったこと、「移動の方法」等が全く異なっています。改めてその違いを確認してみます。 まず『古事記』「序文」に描かれた「動機」についての描写があります。『古事記』ではいってみれば「野心」そのものであり、少なくとも、当初から「政権」を「奪取」する目的で行動しているように受け取ることができま [続きを読む]
  • 『古事記』序文の主人公について
  •  前回の記事では「天智」という人物について「革命王」とする見方を提示していましたが、その論拠等詳細については以前述べていますが、今改めて以下に記し理解の一助としたいと思います。 すでに「唐・新羅連合」との間に行われた戦いの過程において、「筑紫君」という「薩夜麻」が捕囚となっている間に別の人物が「倭国王」として筑紫にいたらしいことを推定しました。この「薩夜麻」については別途述べますが、「筑紫君」とい [続きを読む]
  • 「舒明」「皇極」「天智」という存在の意味
  •  『書紀』には「六二〇年」を初出とする天文観測記事があります。しかし、「皇極」の時代以降約「三十年間」観測記事が消えてしまいます。次に現れるのは「壬申の乱」の前年です。この間よく目立つ「日食」などあったと思われますが、一切記録されていません。つまり、「皇極」「孝徳」「斉明」「天智」の四天皇の時代「天文観測」は行われなかったと考える必要があります。 また、その後『天武紀』になると、天文観測記録が再び [続きを読む]
  • 「文武」と「孝徳」の類似点
  •  今回の投稿は2016年10月に一度投稿しているものと基本同じですが、記事のつながりの関係もあり再度投稿します。 既に見たように当初の『日本紀』は「七世紀半ば」までしか書かれておらず、『続日本紀』はその「七世紀半ば」以降について書かれていたと推定した訳であり、『文武紀』は実は『孝徳紀』の場所に入るべき「記事」でありまた、「倭国王」ではなかったかと考えられることとなったわけです。 これについては一般に(多 [続きを読む]
  • 「文武」天皇と「浄原御寓」(二)
  • 「文武」の統治した宮が「浄原宮」であることが「藤原継縄」の上表文で明らかとなっているわけですが、『三国仏法伝通縁起』によってもそれは明らかとなります。『三国仏法伝通縁起(下巻)』「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行 [続きを読む]
  • 「文武」天皇と「浄原御寓」
  •  すでにみたように『書紀』に先行して『日本紀』が存在していたものであり、かなり後代まで『日本紀』が存在すると共に、現行『書紀』(日本書紀)の編纂の完成が遅れたことが推定されるわけですが、平安時代「嵯峨天皇」の時代に『続日本紀』に続く「正史」として編纂されたのが『日本後紀』です。(この書名も『日本紀』が原点となっていると思われます) この中に『続日本紀』編纂に関する話が出てきます。 以下『続日本紀』 [続きを読む]
  • 氷連老人と薩夜麻が同時に捕囚となっていた理由について
  •  「持統」の「大伴部博麻」を顕彰する「詔」の中でその名前が出てくる「冰連老人」という人物については、彼が「遣唐使」として派遣されて以来、継続して「唐」に滞在していたと考えられるものであるのに対して、「冰連老人」と同席していたとされる「博麻」や「薩夜麻」は「唐」ではなく「百済国内」で「捕囚」になっていたと見るべきと考えられることとなり、これらの事は「何らかの」矛盾を含んでいることを示すものと思われま [続きを読む]
  • 三十年にわたる捕囚の理由について
  •  「大伴部博麻」の帰国後「持統天皇」から出されたという「詔」によれば、彼は「土師連富杼等」の「唐人所計」を本国に伝えるために「身を売った」とされています。しかし、先に検討したようにこの時に帰国したのは「土師連富杼」ともう一人(弓削連元寶兒)が一緒であったもようです。彼ら二人分の帰国費用と考えると「三十年」も「ただ働き」する必要はあったのかは、はなはだ疑問ではないでしょうか。 この「大伴部博麻」達は [続きを読む]
  • 「大伴部博麻」の収容されていた場所についての考察(二)
  •  「大伴部博麻」の収容先について「唐」の地である可能性が高いと推量したわけですが、他方「半島」のどこか(百済あるいは新羅の地)であるとみることもまた可能である様に思われます。 先に見た「慶雲年間」の「捕虜」の帰国も、また『天武紀』の「捕虜」の帰国記事からも、当時の「捕虜」達が「官戸」という半奴隷的立場に落とされていたことが明らかになっていますが、当時戦争捕虜が「奴婢」として扱われるのは通常のことで [続きを読む]
  • 「大伴部博麻」の収容されていた場所についての考察(一)
  •  『書紀』には「持統四年(六九〇年)九月条として「三十年間」「唐」軍の捕虜になっていた「軍丁筑紫国上陽羊郡大伴部博麻」が「新羅」からの使節に随行して帰還した記事があります。そしてその「直後」にその「大伴部博麻」を顕彰する記事があり、その内容は、彼が「百済を救う役」で捕虜になった際に、同じく捕虜になっていた「筑紫君薩耶麻等」等が「唐人所計」を本国に伝達するための旅費を稼ぐために、自分の身を売って金に [続きを読む]
  • 『書紀』編纂過程の解析からわかること
  •  『持統紀』に「続守言」と「薩弘恪」への「褒賞」記事があります。これは「六九二年」という年次に書かれているもので、「続守言」と「薩弘恪」という「唐人」に対して「褒賞」として「水田」を下賜した記事です。「(持統)六年(六九二年)十二月辛酉朔甲戌。賜音博士續守言。薩弘恪水田人四町。」ところで、この記事の直前記事は「(持統)六年(六九二年)冬十月壬戌朔壬申。授山田史御形務廣肆。前爲沙門學問新羅。」 とい [続きを読む]
  • 「第三次藤原京」について
  •  既に見たように「第二次藤原京」(下層条坊後期)は「六八七年」付近で整備が完了したものと見られます。そして、この「京」の中心である「宮殿」はその後続いた大地震の影響により「礎石建物瓦葺き」へと建て替えられる事となったと思われます。 「掘立柱」に「板葺き」という宮殿形式はすでに旧式であったと思われますが、地震の後「筑紫宮殿」が「礎石建物」として整備が進行している時点で「藤原宮」においても同様に整備が [続きを読む]
  • 瓦編年について(続2)
  •  「老司式」、「鴻臚館式」という瓦は「複弁蓮華紋」を基本として共通しているものです。この「複弁蓮華紋」という様式は「近畿」では「七世紀」の第二四半期に初めて確認されるものであり、この時期を「下限」として考えられています。(つまり時代としてはそれより遡らないと言うことです)しかし、このように認定する理由は、この「複弁」様式が「近畿」でそれまで見られない、というただそれだけの理由からなのです。 つまり [続きを読む]
  • 「瓦編年」について(続)
  •  既に述べたように私見では「法隆寺」は「元々」「元興寺」であったものであり、それは「隋」から直輸入とでも云うべき形で伝来し創建されたものと見られます。 この「元興寺」の創建は倭国王の勅願寺であったと同時に「隋皇帝」からの直々の下賜によるものではなかったかと考えられ、そのためその「瓦」の「笵」は他の寺院には提供されず、「元興寺」だけで使用されたものと見られます。(「七弦琴」などと同様の現象に思われま [続きを読む]
  • 瓦編年について
  •  いわゆる「瓦編年」では①「大宰府政庁に使用されている瓦(「老司Ⅱ式」と「鴻廬館式」)については「『藤原京式』瓦に後出する」とされます。②また「観世音寺創建瓦」である「老司Ⅰ式」は「老司Ⅱ式」や「鴻廬館式」に対して「十〜十五年『早期』と見られる」と考えられているようであり、③更にこれらは「薬師寺創建瓦」に対しては「かなり後出する」とされているようです。しかもこれらは「同じ形式」に部類されるものであ [続きを読む]
  • 「那須直韋提」の碑文解釈をめぐって
  •  古田史学の会のサイトなどで展開している古賀氏のブログで関西例会の様子が書かれていますが、その中に谷本氏の「那須直韋提」の碑文にある「永昌元年」に関する論が触れられています。その詳細はわかりませんが、それ以降書かれている古賀氏の記事内容から見て「国造」と「追大壱」が授与されたのが「永昌元年」と考えられているようであり、これは古田氏の説を踏襲したものと思われますが、当方はその理解に対し異議を唱えてお [続きを読む]
  • 「内裏焼亡」史料と「倭国王権」
  • 『古事談』という書物があります。鎌倉時代(初期)に書かれたとされるものです。(説話集とされ、それ以前からあったものを収集したものとされる)その中に興味ある記述があります。その「第一」には「内裏」(宮室)が火災にあった事例が3回あるとされています。『古事談第一』「…遷都以後。始内裏焼亡ハ天徳四年九月廿三日也。人代以後者第三度也。難波宮之時一度、藤原宮之時一度也。…」 この件については『扶桑略記』に [続きを読む]
  • 「附庸」と中央集権制
  •  前回の記事で『隋書俀国伝』の行路記事について考察しました。(以下当該行路記事)「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望??羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於倭」 この中の「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現について考察したわけですが、さらにここに出てくる「附庸」という用語に [続きを読む]
  • 倭国の「本国」と「附庸国」(改)
  • 久しぶりの投稿です。以前『倭国の「本国」と「附庸国」』とタイトルで書いたことがありますが、新たに知見を得たことを追加して再度投稿します。 『隋書俀国伝』の中に行路記事、つまり倭国への道順が書かれている部分があります。そこには以下の様に書かれています。「明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲疑 [続きを読む]
  • 「筑紫都督府」について(続)
  •  「百済鎮将」という語に関しこれを制度に則ったものという指摘をしたが、それに関し、類似の呼称と思われるのが『善隣国宝記』に見える「郭務悰」に与えたという「日本鎮西筑紫大将軍」という署名である。(『善隣国宝記』上巻 (天智天皇)同三年条」「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、 [続きを読む]