J.W.Mccallister,jr さん プロフィール

  •  
J.W.Mccallister,jrさん: 古田史学とMe
ハンドル名J.W.Mccallister,jr さん
ブログタイトル古田史学とMe
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/james_mac
サイト紹介文古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供76回 / 365日(平均1.5回/週) - 参加 2014/11/03 08:40

J.W.Mccallister,jr さんのブログ記事

  • 「隋帝」からの「訓令」について(二)
  •  「隋」の「高祖」は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教(及び道教)を解放し、(特に)仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれています。 それ以前の「周」(北周)が「儒教的雰囲気」の中にあり、学校教育の中身も「儒教」が中心であったわけですが、「高祖」 [続きを読む]
  • 「隋帝」からの「訓令」について(一)
  •  『隋書』によれば「倭国」から派遣された使者が「隋帝」(高祖)に対し「兄弟統治」と思われる政治体制を紹介したところ、「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件があります。「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」(『隋書倭国伝』における「開皇二十年記事」) ここで言う「義理」については以下の『隋書』の [続きを読む]
  • 『日本書紀』における「伊吉博徳」達の移動日数の疑問について
  •  ところで『書紀』の『斉明紀』に記された「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」一行の行程には不審があります。 以下に『伊吉博徳書』の関係部分の抜粋を示します。(黒板勝美「国史大系『日本書紀』」による)「(斉明五年)秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未 [続きを読む]
  • 「日本」国号への変更時期と事情
  •  日本国という国号に関する議論(西村氏の論とそれに言及した山田氏のブログ)を見まして、中村直勝という方の論文「一字姓と二字姓」(大手前女子大学論集 8号, 1974年)に興味あることが書かれていることを思い出しました。そこでは「平氏」「源氏」という一字姓は、それまでの二字姓より「格」が高いことを示し、そのような一字姓が出現したのは中国へのコンプレックスがなくなったためであり、それは「唐」の没落を契機とした [続きを読む]
  • 「軍王」とは(続き)
  •  「軍王」について述べましたが、論者の中には『万葉集』の「軍王」について「雄略紀」との名称の近似について述べているものもありますが、そこでは「百済王族」の「尊称」という理解のようです。しかし「軍君」や「軍王」が尊称ならば、『書記』の「百済」との関係記事は「軍君」や「軍王」だらけになって不思議はないはずであるのに、実際には「昆支君」という「コン」という発音の人名に使用されている例だけが確認できる唯一 [続きを読む]
  • 「軍王」とは
  • 単なる思い付きを書きます。たまたま山田氏のブログで「百済」の「嶋王」に関することが書かれており、その中に「昆支君」について「軍君」と書かれているのを見て、その「軍」の「音」が「こん」であることを思い出しました。「(雄略)五年…夏四月。百濟加須利君盖鹵王也。飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也。而籌議曰。昔貢女人爲釆女。而既無禮。失我國名。自今以後不合貢女。乃告其弟『軍君崑攴君也』曰。汝宜往日本以事天皇。『 [続きを読む]
  • 「射日神話」と「シリウス」
  •  すでに、紀元前八世紀付近で各地に気候変動があり、より寒冷となった地域とより炎熱となった地域が出たと思われ、そのような気候変動がより快適で、より多くの食糧を得られる地域へと民族(というより地域に居住する人々)の移動が行われる源泉となったと思われるわけですが(それは即座に「武装化」の進行であり、金属器の発展となったと思われるわけであるわけですが)、その契機となったのが「シリウス」伴星による新星爆発現 [続きを読む]
  • 「魏使」が「末盧国」へと誘導された理由についての「補足」
  • 以前『魏志倭人伝』の中で「魏使」が「末盧国」経由で入国していた件について書きましたが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/19ded18130b5acdcf32dcf51c4e6b123)、今回「山野草氏」のブログ(http://39228087.at.webry.info/)に「佃収氏」の論として「博多湾」の水深の話が出ていました。それによれば大型の構造船が進入できるほど博多湾は深くはないということを示されており、大変参考となりました。(自分でも色々調べその [続きを読む]
  • 環濠集落と都市国家
  •  「弥生時代」を代表するといわれる集落の形態が「環濠集落」というものです。これは「吉野ヶ里」の遺跡で明確なように「集落」の周囲に「環濠」を巡らし、その中に(多くの場合)住居や倉庫を建てるものであり、その多くにおいて径が100メートル以上あったものです。 しかし子細にみればこれは実際には「代表」と言われるほど主流ではなく、少数のグループによって行われていたと考えられるようになっています。その源流は半島 [続きを読む]
  • 「聖武」と「伊勢神宮」
  •  「東大寺」に当初「大華厳寺」という額が掲げられていたことについて書きましたが、その中で「伊勢神宮」と「聖武」の関係について書きました。つまり「東大寺」を建立するにあたり伊勢神宮へ「行基」と「橘諸兄」を差し向けていますが、これはありていに言えば「贖罪」と「支援」の要請及び「費用」の調達の意味があったとみて間違いないでしょう。 ここで使者として派遣されているのは「橘諸兄」ですが彼は以前「葛城王」であ [続きを読む]
  • 「大華厳寺」という寺名について
  •  肥沼氏のサイトで東大寺に元々「大華厳寺」という扁額がかけられていたという記事がありました。林修先生ではないが「初耳」であり、なるほどと思った次第です。そのようなことの経緯として以下のことを考えてみましたので記します。(試案です) この「大華厳寺」という寺名は明らかに「華厳経」という経典に深く関係していると思われるわけですが、『続日本紀』など渉猟しても「聖武」が「華厳経」について詔を出したという記 [続きを読む]
  • 紀元前八世紀という時期(補足)
  •  すでに「弥生時代」の始まりと「シリウス」という星の状態に関係があったこと、「紀元前八世紀」付近で地球的気候変動があったことを述べたわけですが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/7103f16e4dd324e74a6e31f639dc7fad)、そのことはギリシャの当時の実情を解析した別の論文からも言えそうです。 紀元前八世紀付近の気候変動に関わると思われる論文を渉猟していた中に安永信二氏の論文(「アルゴリスにおけるポリス成立を [続きを読む]
  • 「太陰太陽暦」と「二倍年暦」の共存
  •  「暦」というものは本来農事に関わるものとするのが多数意見ですが、倭国では『魏志倭人伝』が言うように一般民衆は「正歳四節を知らなかった」とされています。つまり本来農業においては重要な要素は日照時間と気温の推移、雨の多少であり、これらは本来「月」の運行とは関係はなく「太陽」に強く依存しています。その意味では「太陰暦」でなければならないという必然性は少ないこととなります。今でも「二一〇日」とか「二二〇 [続きを読む]
  • 弥生時代の始まりと倭王権
  •  以前「シリウス」について考察しましたが、「紀元前八世紀」という時点付近で「縄文時代」に別れを告げ、「弥生時代」という新しい時代位相を迎えたとみられるわけですが、『書紀』の神話にもそれが反映していることとなりました。つまり「天孫降臨神話」の主役である「火瓊瓊杵尊」という名前から、その原型は「シリウス」が「赤かった」あるいは昼間も見えるほど「明るかった」時代を反映しているとみられるわけです。そして、 [続きを読む]
  • 「牛頭天王」について(四)
  •  「牛頭天王」に関わる事実を考察しているわけですが、ここでは「善光寺」に「願文」を提出していたとされる「厩戸勝鬘」という人物について考察し、この人物の正体と「牛頭天王」の関係について考えてみます。 「善光寺文書」(『善光寺縁起集註』)には「聖徳太子」とされる人物からの手紙が記され、そこには「斑鳩厩戸勝鬘」という「自署名」が記されています。         御使 黒木臣名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩 [続きを読む]
  • 「牛頭天王」について(三)
  •  「牛頭天王」は「素戔嗚尊」の他「薬師如来」との同一化も行われていますが、そもそも「薬師」信仰は非常に新しいものであり、中国では「薬師」信仰も「薬師」仏も見られません。特に「日本列島」で盛んになったものです。 「法隆寺」の「金堂」には「薬師如来」像が存在しますが、その「光背」には「用明天皇の時に病気になった天皇の治癒祈願のため」に「薬師如来像」が造られたとされ、この時点付近で「薬師信仰」が始まった [続きを読む]
  • 「牛頭天王」について(二)
  •  これも以前書いたものであり、内容は半分は「妄想」のようなものですから、特にどこかに投稿したというようなものではありませんが、内容としては前回の記事と関連が深いものです。 「○」印はなぜ「まる」と読むのか、なぜ「良い」という意味があるのか、また「×」をなぜ「ばつ」と発音し、「悪い」という意味があるのでしょうか。 この「○」印と「×」印に「良い」「悪い」あるい「プラスイメージ」「マイナスイメージ」を [続きを読む]
  • 「牛頭天王」について(一)
  •  肥沼氏のブログで「牛頭天王」について書かれていました。この「牛頭天王」は「素戔嗚尊」と同一とされるとともに「薬師如来」とも同一視されています。氏はこの「牛頭天王」を「出雲王朝」と関連ありと見ておられるようであり、多分その時代として「弥生時代」を想定していると思われますが、私見ではそれほど古い話ではないとみており、これに関しては以前駄文をいくつか書いていますので、ここで改めて掲示してみます。  以 [続きを読む]
  • 「伊吉博徳」の「官位」の停滞について(補足)
  •  先日「伊吉博徳」の官位について書きましたが、その時書き漏らしたことがありますので追加します。それは「伊吉博徳」が「小山下」になる以前に「大乙中」という位階を得ていたことが『善隣国宝記』が引用する『海外国記』に書かれていた事ことです。「白村江の戦い」後の「六六四年」に当時「百済」を占領していた唐軍の将である「劉仁願」の配下の人物である「郭務宋」が「表函」を提出した際の応対に「壱岐史博徳」の名前が見 [続きを読む]
  • 「寶命」の使用例についての考察
  •  前の記事では『推古紀』の国書の内容について「寶命」以外の用語について検討したわけですが、ではその「寶命」についてはどうでしょうか。 古田氏は「寶命」は「天命」と同じであり「新王朝」の「初代皇帝」にのみ使用しうるものという指摘をしたわけですが、以前の論ではその点について考察し、その論は「成立しない」という結論を得ていました。( http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0fe367f7d379c0e9e0bea6d88bac48ea、ht [続きを読む]
  • 『推古紀』の国書の文言について
  •  『推古紀』に「裴世清」が持参したという「国書」の内容が書かれています。それを見てみると、「…朕欽承寶命 臨仰區宇。思弘徳化 覃被含靈。愛育之情 無隔遐迩。…」というように自らの政治的姿勢とでもいうべきものを表す言葉が並んでいる部分があります。このうち「寶命」について古田氏は「初代皇帝」のみが使用しうる性質の文言とされ、そこから「唐の高祖」がこの「詔」を書いた本人であると論証したわけですが、この「寶 [続きを読む]
  • 「伊吉博徳」の「官位」の停滞について
  •  すでに「貧窮問答歌」について考察したわけですが、そこで「山上憶良」が「遣唐使」段階で「无位」であったのは「旧王権」に忠誠を示した結果であるとしました。その際「比較」として「伊吉博徳」について触れたわけですが、そこでも述べたように彼の「官位」の変遷については明らかな「停滞」があります。その点について述べてみます。 「伊吉博徳」という人物が『斉明紀』に出てきます。彼は遣唐使団の一員として「六五九年」 [続きを読む]
  • 「高地性集落」と津波の関係 −銅鐸の変化とともに−
  • 山田氏のブログhttp://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/09/post-9e4f.htmlで(地震の歴史)として多数の地震記録が挙げられており、日本列島が地震列島であることが良くわかります。ところで、以前「高地性集落」の発生が「津波」から逃れるためのものではないかと考え、以下の文章をまとめて「古田史学の会」に投稿しましたが(最初の投稿からすでに三年以上経ちましたが未掲載であり、どうもボツとなっているようです)、論 [続きを読む]
  • 「敏達紀」と「欽明紀」の類似と年次移動について
  • 『請観音経』と「天然痘」について考察した記事の中で、「天然痘」の流行は「庚寅年」つまり「五七〇年」付近であると見られると書きましたが、『敏達紀』を見るとそこに「天然痘」と思われる病気の描写があり、また国内にそのような患者が溢れているとされています。(五八五年)十四年春二月戊子朔壬寅。蘇我大臣馬子宿禰起塔於大野丘北大會設斎。即以達等前所獲舎利藏塔柱頭。辛亥。蘇我大臣患疾。問於卜者。卜者對言。祟於父時 [続きを読む]
  • 「裴世清」の来倭を「来迎」したのは「兵衛」
  • 「釆女」と「兵衛」について引き続き検討します。「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河 [続きを読む]