J.W.Mccallister,jr さん プロフィール

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J.W.Mccallister,jrさん: 古田史学とMe
ハンドル名J.W.Mccallister,jr さん
ブログタイトル古田史学とMe
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/james_mac
サイト紹介文古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供303回 / 365日(平均5.8回/週) - 参加 2014/11/03 08:40

J.W.Mccallister,jr さんのブログ記事

  • 『天武紀』の「新羅王」死去記事の存在
  •  全二つの記事で会報へ投稿した「論」を掲載しましたが、その後「天武紀」の「新羅王」死去記事についても実際とは異なることが推定されることとなりました。これについても以前ブログにアップしていますが、改めて再度掲載します。 『書紀』によれば(以下のように)「天武十年」に「新羅王」死去を伝える記事があります。(六八〇年)(天武)九年…十一月壬申朔。…乙未。新羅遣沙■金若弼。大奈末金原升進調。則習言者三人從 [続きを読む]
  • 『書紀』と『続紀』の「新羅王」死去を伝える使者記事について(一)
  •  『持統紀』と『文武紀』に、それぞれ「新羅王」の死去を伝える使者の記事があります。  これについては以前会報へ投稿していますが未採用のまま今に至っています。これを以下に掲載することとします。『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」死去を伝える使者記事について(一)「趣旨」 以下は『文武紀』と『持統紀』の「新羅王」死去記事に注目し、その内容が『三国史記』や『旧唐書』などと相違する点について考察し、それら「 [続きを読む]
  • 「天武紀」から「文武紀」に至る記事群の年次移動の可能性について
  •  以上のように「六七五年」が初出とされる記事群およびまたこの翌年(六七六年)の「放生」記事および「六七九年」の「献杖(八十枚)」記事について検討しましたが、いずれもその内容から見て、その時点の導入とすると不審とみられるものです。 これらの記事がこの『天武紀』に始めて現れるということ自体が、既に不審であると言えるでしょう。なぜならこれらは全て「隋・唐」に起源があるものであり、その「隋」や「唐」との関 [続きを読む]
  • 「放生」記事について
  •  『書紀』の「六七六年」の年次のこととして「放生」が出てきます。「(天武)五年(六七六年)八月丙申朔…壬子。詔曰。死刑。沒官。三流。並除一等。徒罪以下已發覺。未發覺。悉赦之。唯既配流不在赦例。是日。詔諸國以放生。」 このその記事の直後が「金光明経」の講説記事であることはこの二つに関係が深いことを推察させます。さらにその後「猟」をする際の「わな」などについて禁止令が出されると共に「禁漁期間」を設定す [続きを読む]
  • 「献杖」記事について
  •  一連の「天武紀」記事の中に「献杖」という儀式に関する記事があります。「(六八九年)三年春正月甲寅朔乙卯条」「大學寮『獻杖』八十枚。」 この「献杖」という儀式は、元来「中国」の歴代王朝において「宮廷行事」とされていた「桃」の木から作った「杖」により「悪鬼を祓う」儀式を「正月卯の日」に行なっていたことのいわば模倣であり、輸入であると思われます。 ただし『延喜式』に拠ればこれは「曽波木」(海石榴)の木 [続きを読む]
  • 「貸税」について
  •  既に述べた「薪新」と同様同じ文脈として「貸税」制度について書かれています。これは「貸稲」と同じと考えられ、辞書などでも「律令以前の制度であり、稲を貸与え利息を取る行為。」という説明がつけられています。『天武紀』には以下のようにそれまでの「貸税」の融資基準を見直すよう指示が出されています。「天武四年(六七五年)夏四月甲戌朔壬午条」「詔曰。諸國貸税。自今以後。明察百姓。先知富貧。簡定三等。仍中戸以 [続きを読む]
  • 「薪新」記事について
  •  「天武紀」に「進薪」という儀式に関する記事があります。これは「宮廷」で使用する「薪」を「百官」が献納するというもので、中国の先例を導入したものと考えられます。 「進薪」記事は以下の「四件」です。「(天武)四年(六七五年)春正月丙午朔戊申条」「『百寮諸人。初位以上進薪。」「(天武)五年(六七六年)春正月庚子朔甲寅条」「『百寮初位以上進薪。』?日、悉集朝廷賜宴。」「(持統)三年(六八九年)春正月甲寅 [続きを読む]
  • 「占星臺」の建設と「大學寮」「陰陽寮」「外薬療」等について
  •  『天武紀』には「占星臺」を建てたという記事があります。「(天武)四年(六七五年)春正月丙午朔庚戌条」「始興占星臺。」 この「占星臺」というのはいわば「天文台」であると思われますが、同様なものが「新羅」に存在していました。「新羅」では「瞻星台」と呼ばれ、現「慶州北道」にあった(現存しています)ものです。それは「総数三六二個」の石を積上げて作られたと言う「石塔」であり、『三国遺事』によれば「善徳女王 [続きを読む]
  • 「射礼」記事について
  •  『書紀』には「射礼」記事があります。「射礼」とは本来「正月」の行事であったようで、「正月」を賀するために集まった多くの官人達による「矢当て競争」のことです。 元々は「弓矢」を射る技術の向上の目的であったと思われ、また「正月」に行われるということもあって、「神」に奉納する目的もあったと考えられますが、後に「娯楽」の要素が強くなっていったと考えられています。 『隋書俀国伝』によれば「毎至正月一日、必 [続きを読む]
  • 「廣瀬大忌神・龍田風神」記事
  •  『天武紀』に入った「六七五年」という年次に「廣瀬大忌神・龍田風神」への遣使の派遣という記事が始まります。この記事の中身については既に会報に投稿していますが(『古田史学会報118号『「廣瀬」「龍田」記事について 「灌仏会」、「盂蘭盆会」との関係において」』)、「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」に対する「祖先供養」という意味があったと考えました。しかし、それが『天武紀』になって突然始まるという「唐突 [続きを読む]
  • 会に対する提言について
  • 「古田史学の会」の今後の繁栄を願うものとして、以下のことを提案させていただきます。趣旨は「門戸」を広く開放することであり、投稿論文に対する活発な意見交換を可能にすることです。 以前会報に書かれてあった意見で「会報」が「難しい」というものがあったように見受けられました。また「上城氏」の意見にもあったように「学説」ないしは「意見」を投稿しても、なかなか「双方向」的な結果に至らない場合がほとんどと思われ [続きを読む]
  • 谷本様のコメントに対して
  • 谷本様より「古田史学会報一四八号」をみて)という当方の記事に対し、コメントが寄せられました。以下にその一部(全体は「コメント欄」を参照してください)をご紹介すると共に当方の意見を書かせていただきます。>基本的に他人のブログの場で歴史研究の詳細を記述することはしておりませんので、予め御了承ください。当方が提示した問題には「ブログ」の上では答えないということのようですが、元々直接応答が得られるとも思っ [続きを読む]
  • 「ホームページ」と「ブログ」の関係について
  • コメントで以前ホームページを運営していたものをなぜ止めたのかという問がありました。実は今でも迷っているのですが、ホームページが良いのかブログが良いのかかなり悩んだ結果です。実際ホームページは複雑過ぎて自分でも把握しきれず、また研究(というほどでもないのですが)の進捗などにより各所で整合性が取れなくなっていた現状がありました。あちらの記事とこちらの記事が矛盾する状態となっていた部分があったのです。そ [続きを読む]
  • 通りすがりの素人様の問題提起に対して(三)
  • 通りすがりの素人様 コメント頂きありがとうございます。 頂いた内容について当方の説明不足があったようなので、再度記します。>そこで、金光元年が510年でも理解できるとすればですが。四寅剣による天然痘の破邪と言う事を考えれば510年でも理解できるように思われます。(他にも570年の根拠があるとは思いますが) 元岡古墳より出土した「四寅剣」に記された日付が「五七〇年」の元嘉暦に正確に合致しており、干支一巡移動す [続きを読む]
  • 通りすがりの素人様の問題提起に対して(二)
  • 通りすがりの素人様コメントありがとうございます。頂いたコメントの中で「唐」からの「新羅」と「倭」の年号強制に対する違いについて書かれていますが、ずっと以前「賀正礼」について書いた中で( https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/748756ce83f5c448b28b91146d530f90  )「新羅」は「唐」に軍事援助を要請する代わりに「唐」の制度等を受容せざるを得なかったものであり、「倭国」はそれらを自主的、選択的に受容したと見 [続きを読む]
  • 通りすがりの素人様の問題提起に対して
  • 通りすがりの素人様コメントへの返答ありがとうございます。ご指摘の「倭国王」の「改元」能力の有無の問題や、「物部」の「年号発布の可能性」については、かなり重要な指摘を含んでいるものであり、コメント欄に書くにはボリュームがありすぎるので、記事としました。 ご指摘の点については確かに起こりえた内容と思います。それに関連して以前考察したものを再度読み直し、また考察してみました。それは「倭国への仏教伝来」と [続きを読む]
  • 『隋書』に出てくる「倭語」について(最新版)
  •  『隋書俀国伝』には「倭国」の官職制度について説明した箇所があります。「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。」 ここに書かれた「軍尼」「伊尼翼」という官職名唐について以前考察しましたが、新たな知見を得たので書き加えて再掲します。 この時派遣された「遣隋使」の一行には当然ながら「通事」(通訳)がいたと思われますが、また彼らは「百済」を経由して「隋」へ訪れたも [続きを読む]
  • 「磐井の乱」と「神籠石」について
  •  すでに「神籠石(神護石)」遺跡について (https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/6b98ee46f828558af81960921e4d4c00)でも触れていますが、「神籠石遺蹟」と「物部」との関連について再度述べてみます。 「磐井の乱」は『書紀』によれば「五三一年」に起きたとされていますが、この「磐井の乱」は「直接」的衝突としては「物部」とのものでした。『書紀』でも『古事記』でも「磐井」と直接対峙したのは「物部麁鹿火」(荒甲) [続きを読む]
  • 「国造」と「評督」
  •  『隋書俀国伝』によれば「小国」が多数分立している状態であり、いわゆる「広域行政体」についての表記が確認できません。「有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。」 これをみると「軍尼」が統括している地域(領域)は120あるとされており、明らかに「広域行政体」としての領域(範囲)とは異なると思われます。その後「隋」から種々のことを学んだ「阿毎多利思北孤」は国内にそれ [続きを読む]
  • 『古田史学会報』一四八号をみて
  • 『古田史学会報』一四八号が発行され、そこに「谷本茂氏」の『「那須国造碑」からみた『日本書紀』の紀年の信憑性」と題する論が巻頭掲載されています。前回の記事はこの論の存在を前提としたものでしたが、さらに以下の点を指摘しておきます。 この谷本氏の論をみると各種の資料状況から「干支が現行歴とは一年ずれた暦が存在したことは確実です。」としていますが、そのうち『定恵伝』については「遣唐使」団の一員として派遣さ [続きを読む]
  • 「那須直韋提」の碑文解釈をめぐって(その後)
  • 『続日本紀』では「大宝」と「建元」と共に「始停賜冠。易以位記」とあり、この時始めて「冠」を与えるのをやめ、「文書」にしたとあります。『続日本紀』「(文武)五年(七〇一年)三月甲午。對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。始依新令。改制官名位号。親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。勳位始正 [続きを読む]
  • 「伊勢王」とは(二)
  •  「伊勢王」に関する考察を行いましたが、さらに考えてみます。 『孝徳紀』によると「白雉改元」儀式の際に「執輿後頭置於御座之前」、つまり、「白雉」が入った籠が乗った御輿を担いで「天皇」と「皇太子」の前に置く、と言う重要な役どころで「伊勢王」という人物が登場します。 (以下白雉献上の儀式)「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人 [続きを読む]