J.W.Mccallister,jr さん プロフィール

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J.W.Mccallister,jrさん: 古田史学とMe
ハンドル名J.W.Mccallister,jr さん
ブログタイトル古田史学とMe
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/james_mac
サイト紹介文古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供287回 / 365日(平均5.5回/週) - 参加 2014/11/03 08:40

J.W.Mccallister,jr さんのブログ記事

  • 古代の人の「寿命」について
  •  古田史学の会の代表である古賀氏が「二倍年暦」について色々と書かれています。(「古田史学の会」のホームページに連載しているブログなど)その中に『論語』の中に「二倍年暦」があるとされています。その論を見ていて気になるのは当時の平均寿命が著しく短かったことを指摘して、そのような時代的背景の中で「70歳」とか「80歳」というのが「あり得ない」年齢であるとされ、「二倍年暦」の証拠として扱われているようです。し [続きを読む]
  • 「天武」と「薩夜麻」
  •  『書紀』に書かれている「天武」の「天渟中原瀛眞人天皇」という諡号にはいくつかの疑問とヒントが隠されています。まず「天」と書かれており、これは「阿毎多利思北孤」と同様「あめの」あるいは「あまの」と読むべきものでしょう。『旧唐書』には倭国王は歴代「天」を姓としている、と書かれています。このことは「天武」が「倭国王」である、という証明とも言えます。 また「渟」は「ぬま(沼)」の語幹と同じであり、「水」 [続きを読む]
  • 吉野と曳之弩
  •  「壬申の乱」の際に「大海人」が当初立て籠もったとされる「吉野」という場所については、元々「えしの」と発音していたものと考えられています。(古語辞典などによる)この「えしの」という言葉の表記として使用されている「万葉仮名」ではいくつか種類があるようです。 たとえば、『古事記』の「雄略天皇」の記事の中では「延斯怒」として現れます。「天皇幸行吉野宮之時」と題された「歌謡」の中に現れる例「…美延斯怒能  [続きを読む]
  • 大宮姫伝説について
  •  薩摩に伝わる伝承として「大宮姫伝説」というものがあります。(以下は古賀達也氏の研究(※)に準拠します)この話の概要は以下のようなものです。 「孝徳天皇」の白雉元年庚戌の年に開聞岳の麓で生まれた姫は二歳の時入京し、十三歳で「天智天皇」の妃となりましたが、訳あって都を追われ開聞岳に帰って来ました。「天智十年」辛未の年(通常六七一年とされる)、「天智天皇」がこの地にやって来られそのまま当地に残り慶雲三 [続きを読む]
  • 手に香廬を持っての誓いとは
  •  『書紀』には「薩夜麻」の帰国記事の直後に以下の記事があります。「天智十年(六七〇年)十一月丙辰(二十三日)。大友皇子在内裏西殿織佛像前。左大臣蘇我赤兄臣。右大臣中臣金連。蘇我果安臣。巨勢人臣。紀大人臣侍焉。大友皇子手執香鑪先起誓盟曰。六人同心奉天皇詔。若有違者。必被天罸。云々。於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起。泣血誓盟曰。臣等五人。隨於殿下奉天皇詔。若有違者。四天王打。天神地祇亦復誅罸。卅 [続きを読む]
  • 「薩夜麻」の帰国と近江朝廷
  •  「六九〇年」に「大伴部博麻」が帰還したときの「持統天皇」の詔によると、彼が捕虜になったのは「斉明七年の百済を救う役」となっており、これは通常「六六一年八月」に出兵した「阿曇比邏夫」等が率いる遠征軍を「百済」に派遣した際の戦闘と思われていますが、この戦いは「百済」が「唐」と「新羅」の連合軍により包囲され、壊滅的打撃を受け「滅亡」することとなった時点の「直後」を意味するものと考えられ、この時の戦いで [続きを読む]
  • 「天武朝期」「難波京」説に対する反論(二)
  •  『孝徳記』の示す難波宮が正しいのか、それとも『天武紀』の「難波副都」記事が正しいのか「考古学」の成果を援用して主張が繰り広げられていますが、しかし記事内容的には『天武紀』において「難波宮」に幸したり遷宮したりした形跡がないのに対して、『孝徳紀』にはそれが存在します。またそこに「伊勢王」という同一と思われる人物が活躍しているわけですが、その『孝徳紀』と『天武紀』の間の『斉明紀』にその「伊勢王」の死 [続きを読む]
  • 「天武朝期」「難波京」説に対する反論(一)
  •  「前期難波宮」が「七世紀」中葉のいわゆる「孝徳朝」に造られたというのは定説になっていますが、それにも関わらず、以前より少なくない反論が提出されています。それは「難波宮」が造られたのは「天武朝」である、ないしは「天武朝」に「改修」または「整備」が行われているというものです。 これらの考え方の従来からの根拠としていたものは『書紀』の『天武紀』の記載でした。そこには「副都制」の詔が書かれていて、また「 [続きを読む]
  • 「狭義」の「筑紫」と「広義」の「筑紫」
  •  ところで、『書紀』で確認される「筑紫」の多くは「小筑紫」とでも言うべき「福岡県」程度の広さを指していると考えられます。古田氏が『盗まれた神話』の中で指摘したように「天孫降臨の地」も「福岡県を指す「狭義」の「筑紫」でした。(日向峠付近か) また、同様のことは「磐井」の記事からも言えることと思われます。 「磐井」については「筑紫国造」とされ、また「筑紫君」ともされています。(「子」とされる「葛子」も [続きを読む]
  • いわゆる『筑紫風土記』の成立について
  •  現在確認されている風土記の中に「筑紫風土記に曰わく」という出だしで始まるものが二つ確認されています。いずれも『釈日本紀』に「逸文」として採録されているものです。 以下にその文章を掲げます。 (一)筑紫の風土記に曰く、肥後の國、閼宗の縣(あがた)。縣の坤、廿余里に一禿山(とくざん)有り。閼宗岳と曰う。頂に霊沼有り、石壁、垣を為す。計るに縦五十丈、横百丈なる可し。深さは或は廿丈、或は十五丈。清潭百尋 [続きを読む]
  • 国分尼寺と筑紫尼寺
  •  肥沼氏のブログを中心に「国分寺」の起源について深い検討がされています。そこでは聖武天皇の国分寺造営の詔に先立って各地にすでに「塔」が建てられており、それが古代官道などと同様「正方位」を示しているのに対して、明らかに後出する「伽藍」については「磁北」が基準と思われ、正確な北を示していないことが指摘されています。そのことは「古代官道」の建設時期と同様初期国分寺(塔)の造営が七世紀初頭まで遡るものでは [続きを読む]
  • 「筑紫尼寺」の実在性
  •  「観世音寺」の鐘と「妙心寺」の鐘には「銘文」の有無のほか微妙な違いがあり、若干「観世音寺」の鐘のほうがその製造時期として先行すると見方もあり、その意味では明らかな「同時期」とは言えない可能性もありますが、それがどの程度の時間差を伴うものかは不明とされ、同一の「木型」を使用しているとすると大きな時間差(年次差)は想定するのは困難ではないかと思われます。(同一の「鋳物師」によるとする説(※1)もある [続きを読む]
  • 「檀林寺」と「筑紫尼寺」
  •  ところでこの「壇林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように、「尼寺」であるようです。『文徳実録』「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」 ここで「比丘尼」を「持律者」として遣わしたとされており、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(後には唐から招来した僧「義 [続きを読む]
  • 「妙心寺」の鐘と「観世音寺」の鐘
  •  ところで『徒然草』には「天王寺」の楽について書かれた段があり、その末尾に「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。「再掲」(『徒然草』第二百二十段)「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて, ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の [続きを読む]
  • 「妙心寺」の鐘と「檀林寺」
  •  鎌倉時代に「後深草院二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した「とはずがたり」という随筆様の文学があります。その巻三の中に以下のような記述があります。「…れいの御しやくにめされてまいる一院御ひわ新院御ふえとう院こと大宮の院姫宮御こと春宮大夫ひわきんひらしやうのふえかね行ひちりき夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院 [続きを読む]
  • 「天王寺」と「四天王寺」
  •  「天王寺」という寺院は中国南朝に実在していた寺院名でした。 (以下の記事)「天王寺 在梅嶺岡《陳云・今之雨花山也》。劉宋時置。梁為昭明太子果園・梅聖?詩所謂宋日天王寺 梁時太子園也。 唐改奉先禪院・内起寶光塔。趙宋為普光寺。明為寶光寺云。考證 至正金陵新志引乾道志・宋置天王寺 ・梁為昭明太子果園・呉為徐景通園・南唐保大四年更置 奉先禪院・葬曇禪師・起塔・因名寶光塔院・今為普光寺。○宋梅堯臣集有送峙師移 [続きを読む]
  • 「法隆寺」の「四天王像」と「四天王寺」の「四天王像」の差異
  •  聖徳太子が創建したという伝承のある「四天王寺」ですが、資料により「天王寺」と書かれているものがあり、さらに現在も(過去も)「天王寺」という地名が存在していることを重視すると、本来は「天王寺」として創建されたのではないかという疑いが生じます。このことについて考察してみます。  既にみたように「尺八」に関する伝承や「鐘」の「音高」についても「隋代」にもたらされたものと思われ、それが「文帝」との関連で [続きを読む]
  • 「法隆寺」と「三十三間堂」
  •  ところで、「法隆寺」の「四天王像」(広目天)の「光背」に作者として「漢山口直大口」という「名前」が書かれています。彼は「難波宮殿」建設の際に「奉詔」して「千躰仏」を刻んだとされています。「白雉元年(六五〇年)…是歳。漢山口直大口奉詔刻千佛像。…」 「法隆寺」の「玉虫厨子」に「千躰仏」がレリーフされています。「玉虫厨子」は「金堂」の完成模型と言われていますが、実際の「金堂」には(法隆寺全体としても [続きを読む]
  • 「法隆寺」の「瓦」と「隋」
  •  「九州」では「四一八年」の仏教伝来以降「倭の五王」の時代の後半(「済」「興」「武」のころ)はすでに仏教文化がかなり浸透し、「鬼道」につながる「古神道」勢力もかなり根強かったとはいえ、仏教に対する理解もかなり深くなって来つつある時期であったと考えられます。それを示すように前述したような「九州年号」に関連する事実(「法師」の出現や「万葉仮名」の完成など)も現れ、遅くとも「六世紀」の初め頃には「寺院」 [続きを読む]
  • 「法隆寺金堂釈迦像」及び「薬師像」の光背銘文について
  •  ところで、一部の議論の中に「法隆寺釈迦三尊像光背」の銘文に使用されている「年次」が「後代」の追刻ないし「偽造」であるというものがあります。(※1)(小川伸之「法隆寺金堂本尊について」『史学』第四十三巻一九七〇年五月 慶應義塾大学など) この「銘文」以外にも「法隆寺旧蔵」の弥勒菩薩像の台座銘文なども同様であり、これらの表記については「七世紀半ば以降」のものであるとされているわけですが、そのような議 [続きを読む]
  • 中国で発見された『維摩経疏』残巻について
  •  『扶桑略記』や近年発見された『日本帝皇年代記』には「(内大臣)鎌子」が「呉僧元興寺福亮法師」から『維摩経』の講説を受けたことが記されています。『扶桑略記』「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。…同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」『日本帝皇年代記』「戊午(白雉)七(六五八年 [続きを読む]
  • 「法隆寺」創建本尊について
  •  「法隆寺」には「薬師三尊」と「釈迦三尊」及び「阿弥陀三尊」があります。「釈迦三尊」は「光背銘」に「法興年号」が使用されているので有名ですし、また金堂の中央にあります。この三尊がこの金堂の、と言うより「法隆寺」の中心であるのは間違いありません。 「釈迦三尊」の光背銘文によるとこの「釈迦三尊」は「上宮法王」の「病気平癒」を祈念して造り始められたのですが、完成半ばで「上宮法王」は死去してしまいます。完 [続きを読む]
  • 「法隆寺」と「元興寺」
  •  『書紀』の「元興寺」への「丈六仏」の納入に関して、天皇以下諸臣に至るまで「共同發誓願」したのとほぼ同じ「形式」の出来事が「法隆寺釈迦三尊像」の光背銘にも書かれています。(以下「釈迦三尊像」の光背銘を抜粋)「…法興元卅一年歳次辛巳十二月鬼/前太后崩明年正月廿二日上宮法/皇枕病弗腦干食王后仍以勞疾並/著於床時王后王子等及與諸臣深/懐愁毒共相發願仰依三寶當造釋/像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安/住世間…」 [続きを読む]
  • 「碾磑」について
  •  『推古紀』に「碾磑」(てんがい)に関する記事があります。それによれば「推古十八年」に「高麗」から僧が来倭して彼らによりこの「碾磑」が「造られた」とされます。「推古十八年(六一〇年)春三月。高麗王貢上僧曇徴。法定。曇徴知五經。且能作彩色及紙墨。并造『碾磑』。盖造碾磑始于是時歟。」 この時の「碾磑」の使用目的は何だったでしょうか。 そもそも「碾磑」は、元々「粉挽き用」の石臼であり、「米食」が盛んでは [続きを読む]
  • 「元興寺」と「法興寺」
  •  「元興寺」という寺院があったとされます。(というより現存していますが、それが過去のものと同一かを問題にしようとするためこのような書き方としています。) この「寺」は一般には「法興寺」と同じものであり、またその「法興寺」は「飛鳥寺」と呼称したとも言われています。また、「平城京」に「法興寺」が移設された後は「本元興寺」と呼ばれるようになり、また奈良の「法興寺」は「元興寺」と呼称されたとされます。ちょ [続きを読む]