建築と福祉と宗教 さん プロフィール

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建築と福祉と宗教さん: 建築と福祉と宗教
ハンドル名建築と福祉と宗教 さん
ブログタイトル建築と福祉と宗教
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/nariyasufuru
サイト紹介文建築士から介護ヘルパーへ急転身。転身したからこそ知った新しい社会。同じ地域で建築士の30年間、私の知ら
自由文本来の、欲が悪いという意味は、自業自得のような意味であって、無が夢中なこと、すなわち夢でもないことを夢の中と思っていたり、せっかくの無であるのにそれを夢の中と思うことに等しいということでしょう。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供18回 / 365日(平均0.3回/週) - 参加 2014/11/03 19:01

建築と福祉と宗教 さんのブログ記事

  • 過去の記事 …
  • 円滑なマイホーム作りのための地域秩序の組み立て
  • 地域の建築士会の管理は一応地域の経営者層が邸宅を作る際に因んで関わっていると考えてよいでしょう。経営者である限り一応地域の建築士会はどんなところかを親しく知ってから住宅設計監理を依頼したいところだからです。それらの手法は建築士会とゴルフ接待などを一緒に楽しみながら関わりを持つわけで、その接待監修の代表が地域の政治家というところでしょう。何分、地域の一般家庭のマイホーム作りの円滑さを上手く創り出すか [続きを読む]
  • 出世のすすめ、善い人間も悪い人間も世界平和の達成
  • 善い人間も悪い人間も出世さえすれば世の中のためになるのです。 世のため人のためになるのは出世を果たせた後の結果に因るものです。お釈迦様は先ず自分自身のために出世を目指すことを指導しています。それは、最初から心掛けて世のため人のためになろうと意気込んで目指す者こそいつまでも出世が出来ていないためです。なぜかといえば、正直に世の中や他人のことは自分自身の事より難しくて当前なのであり、当初から必ず慎重に [続きを読む]
  • あなたはマンション管理士のことを知っていますか?
  • マンション管理士のことを知っていますか?マンション管理士という名前は聞いたことがあるけれど、かなり古い資格なのではないかと思いがちだと思います。しかし、この資格が創設されたのは2001年(平成13年)だそうですから意外や意外、今年でまだ16年程度しか経っていない新米ホヤホヤな資格なのでした。しかし、もっと古いイメージに思えてくるのは不思議です。マンション自体が外国には古くからあり、日本においても戦後から少 [続きを読む]
  • 管理建築士という資格をご存じだろうか?
  • 管理建築士という資格をご存じだろうか?恐らく知っている人はごく少ないと思う。管理建築士とは建築に関する契約全般の管理を行う建築事務所の経営と運営に常駐で専従する一級建築士や二級建築士のことである。つまり、建築士事務所を経営するための管理義務と経営権利を資格化したもので、平成20年の建築士法改正以降はこの資格がないと建築士事務所の経営の持続や設立などをできなくなった。ただし、この資格は建築士として3 [続きを読む]
  • 〈天上世界は欲望の世界〉
  • 人間世界の上には天上世界という神々の住む世界があるとされています。仏教ではその天上界とは欲望を主に支配する世界であると説いています。つまり、天上界の諸天神はこの世の欲望に関する絶対権限を持って住んでいるというのです。その神々は欲望そのものを咎めているわけではなくて、この世の欲望の在り方を審査し個々に差別化しているのです。 ところで、神々にも無数の種類が存在しています。この世の生き物のすべて種類には [続きを読む]
  • インドの釈迦牟尼仏を白虎隊の青年は超えていた?
  • 「愛しき日々」堀内孝雄幕末の鶴ヶ城を死守すべく会津藩の15、16歳の青年で組織した部隊『白虎隊』とは、ひょっとしたら人間の男子の真実としてお釈迦様を超えていたようにも、ふと思えてきました。そして、日本の日蓮聖人がインドのお釈迦様をライバルとして真剣に戦い、日本こそが最古仏教の発祥であると示して貫き通した生き方こそはそれが本当の人間男子の精神だったように思えてきました。また、第二次世界大戦で遂に日本 [続きを読む]
  • 今日はお釈迦様の悟りの日
  • 今日12月8日はお釈迦様の悟りの日と言われています。お釈迦様はこの日一体どんな大きな悟りを開かれたのでしょう?何かを悟る前には必ず大きな疑問を生じていたはずです。その大きな疑問は明らかな現象としてすでにずっと以前から現れていたはずなのです。悟るとは明らかな実証となる現象を観ていることでもあります。ただ頭の中で渦巻いていただけの疑問ではないのです。悟りとは日頃私たちすべてを包み込んでいる大気現象のよ [続きを読む]
  • 凶暴女人グループによる仏道守護〈陀羅尼品〉
  • 今品の十羅刹女という十人の凶暴な女人修行者は、いわゆる敵対に対する始末屋集団なのです。これら女人修行者たちはグループを組み、その凶暴手段を用いて仏道修行への過酷な妨害に悩む一人一人の法師を守り抜くことを新たな宿命として自主的に編成され、さらにその行為を仏に認められた防衛組織なのです。仏教においてこのような凶暴手段を用いた防戦を行なってよいのか?と強烈な疑問を生じると思いますが、この必要性を最初に仏 [続きを読む]
  • 良いことも悪いことも因縁は神のみぞ知るのか?〈薬王菩薩本事品〉
  • 因縁というものは恐ろしくもあり、また不可思議な可笑しさでもあるようですね。このように何となくそそっかしさを感じさせる、今日の薬王菩薩の前身の一切衆生喜見菩薩ですが、なぜ自ら身を燃やして捨て去るようなことまでに至ったのでしょう? 私たちは日ごろ、何気なく過ごしているようであっても、様々な奇怪な事件や悲しい事故などのニュースを知らされながら一生涯を過ごしています。そういった私たちが自然に日常知る限りの [続きを読む]
  • 西暦1世紀から共に歩んだ神と仏〈如来神力品〉
  • いよいよ神と仏の教えの歩調を合わせ始めたイエス・キリスト誕生の西暦1世紀頃に今の私たちは一度、振り返ってみる価値があります。それは西暦幕開け以降の私たちは、一人一人皆公平な世界の中の一人だからです! 真実の宇宙の神秘は文字では語り尽せない 人類誰もが平等に見上げてきた広大なる宇宙、その神秘なる真実を紀元前の大昔から追い求め続けて、それを全人類が公平に知るためを目標に普及を図ってきたのは聖書も仏教も [続きを読む]
  • 常の精進とは自分自身のため〈法師功徳品〉
  • 仏教で常の精進と一言でいいましても、それが一体何であるのかはちょっとピンとこないのではないでしょうか。お釈迦様はこの精進とは自身の眼・耳・鼻・口・身体・心の六根に対してであることをはっきり特定して示されておられます。ところで、私たちにとって精進とは自身のためになんて何となく恥ずかしくて、とかく世のため人の為ひたすら他者へ対する献身な努力であるように考えがちなのではないでしょうか。 それに対しお釈迦 [続きを読む]
  • 分別とは、信長の「人間五十、滅せぬ者のあるべきや」
  • 分別とは何でしょう?お釈迦様はそれを解かり易く言えば、成仏即ち救われるまでの時間の違いであるとして説いているようです。分別とは違いによる区分であって、それを知る年代を分別盛りとも言っていますね。それは、自分と他者とは明らかに違うのであることを、歳を重ねるごとに物分かりが盛んに付き出す年代ということでしょう。それは誰もが経験がなければ明らかにならない、そして予測だけでは真相は悟れない、つまり経験とは [続きを読む]
  • 釈迦の末法の始まりはいつ?
  • 法華経の内容は前半と後半とに種類が分かれているという説があるそうです。それは法華経全28品のうち単純に真ん中から分け、序品第一から安楽行品第十四までが前半部、従地涌出品第十五から普賢菩薩勧発品第二十八が後半部とされているようです。日本の日蓮聖人が特にこの分け方に触れていますが、前半部は後半部からの真実の説法を組み立てるための方便であるから前半部は今はすでに捨ててよいとまで言っていたそうなのです。つま [続きを読む]
  • 装いは狂言なのか真実なのか?
  • 皆さんにまた質問です。皆さんは見たことがありますか?ある若い二人の男が大衆の前でまるで狂言であるかのように対立しているのです。それはまるで映画の高倉健と宇崎竜童の港のシーンのようです。 私が現実にそれに偶然遭遇したのは今から数十年も昔、私がまだ東京の学校へ毎日電車で通ってい頃でした。当時国鉄民営化がこれから始まろうとしていたばかりの頃だったと思うのですが、国鉄駅ホームの朝の通勤の人々が多い時間帯に [続きを読む]
  • お釈迦様の答えはコラボレーションの光り
  • 弥勒菩薩は釈迦仏の眉間から放たれた光りの怪しさについて鋭く疑念を持ち始めましたなぜなら、その光は法華経の始まりにおける法華ではなく無量義の光だったからです 無量義とはコラボレーションのようにバラバラに拡散していく端末のような光のことだと思いますその光束には何ら統率の意味がなく、別々に混じり合って追随して放たれていくかのような奇妙さを弥勒菩薩は感じたのではないでしょうか?そして、弥勒菩薩はそれを神変 [続きを読む]
  • 「教行信証」の行と信について
  • 「教行信証」の行と信について親鸞聖人はどちらを選ぶべきかを討論しましたこれについて私なりに考えを述べさせていただきたいと思います「行」と「信」とは、真実とは常の「行い」なのか、それとも一途の「信念」なのかということだと思いますが、この二つを横に並べて右か左かのどちらかではなく、どちらが上なのか下なのかという問いだったのではないかと思います 今日の如来神力品の四大菩薩たちへは釈迦はすぐにすべては説か [続きを読む]
  • 釈迦の友情は愛情よりもあまりに知られていない
  • 提婆達多品第十二は法華経の中に後で付け加えられたものらしいですが、提婆達多の教え自体はかなり古い時代から存在していたのが現実らしいです西暦以降の時代の急変に対しハードボイルドタッチな要素を迫られる緊迫感を感じずにいられません、これはまるで時代の復活だったのですこれはやはりいつまでも終わらない、時として急激に蘇ってくる錯覚というエネルギーが常に存在しているのだと思います 1950年頃のアメリカ作家レ [続きを読む]
  • ミサンガのように
  • 【ミサンガのように】宗教組織という一種の法人格を釈迦はどう思っていたでしょう?仏教など宗教のすべてはそもそも一人一人の心掛けを成長させるものであり、その組織存続は二の次の想定、或いはダミー的な維持が組織、つまり法人なのだと思えますその釈迦族の組織(サンガ)の代表的な大弟子の一人であった舎利弗が釈迦よりも早く死去することになった時の釈迦の嘆きの激しさはどのようのものだったでしょう?舎利弗こそ組織維持 [続きを読む]
  • 立宗記念日の日蓮聖人さまを拝して
  • 日蓮聖人がお生まれになった1222年の前年1221年には承久の乱がありました。この戦いの原因と結果こそが決定的に日蓮聖人を立正安国論へと駆り立てて行った最大の動機だったのです。ところで、この戦いは日本史上稀にみる国を司る政治権力が時の天皇軍側と幕府軍側とに二つに分岐して奪い合う熾烈な天下分け目であったことは実際のところあまり多くは知られていないのではないでしょうか?そして更なる謎は、なんとその乱で幕府軍の [続きを読む]
  • 「終わり善ければ総て善し!」信解品第四 その3
  • 「無量の珍宝、求めざるに自ら得たり」 大弟子たちは釈迦の教えへの感謝の言葉として、このように言ってますが、これはどのような意味の感謝と考えられるでしょうか?弟子たちは、求める気持ちが無くても多くの得を貰えたということらしいですが、これは本当に正しいことなのでしょうか?これは、長く連れ添った弟子として釈迦の厳しい仏道を本心からは目指すつもりがなかったけれど、思いついたらすでに知らず内に目指していたと [続きを読む]
  • 経済成長と防災進歩との裏腹な課題について
  • 近頃は、暮らしの経済効果が攻め手の優先とばかりにとらえてしまい、その反対に受け身的な用心な心掛けをダメな人間だと批判する傾向が見られることがあると思います。 しかし、それら経済的にはダメとされがちな者であったとしても、他人との助け合いを大事にし、災害などの社会的マイナス面を補正する防災普及に取り組む社会貢献型にも実は経済効果とは別な進歩が着々と進んで行く中で、それにより経済効果と防災進歩との両者が [続きを読む]
  • 誰も教えてくれない家づくり、その契約の重要なコツ!
  • 家づくりの契約はすべて同じではない!  家を造るということは、誰にとっても一生の財産だけに簡単には判断できませんね。ところで、その重要な家づくりを依頼する契約のことですが、最も手間のかからない簡単な方法としては皆さん、全国に名の通った住宅メーカーにさえ依頼すればそれで一流の家づくり契約ができると思っていませんか?  確かに国内でも有名な住宅メーカーなら、その住宅そのものの品質基準に関しては世界にも [続きを読む]
  • 仏とは何でも許してくれるものなのか?
  • 私たちは物心のつきだす幼い頃には、親や祖父母から仏さまというものがいて、私たち一人一人の日常をちゃんと見ているのだから正しく生きないといけないと教えられてきているのではないでしょうか。そして、この世の私たちの側には見えなくても、何か悪いことをすればしっかり罰が当たって牢屋へ入れられたり、地獄へ落とされることになるとも教えられ、正しく生きれば天国へ行くことができるよう、しっかり仏さまは見ているのだと [続きを読む]
  • 商売の建前、請負の建前
  • 「建前」といえば、私は建築の仕事をしていた関係上、今は残念ながらかなり薄れてきている風習儀式としての建築物の上棟式のことが思い浮かびます。しかし、通常は「本音」の反対の意味で用いられているのが「建前」というものでしょうから、その場凌ぎの飾りであったりその時だけを装う方便のように考えられますね。ですから、一般的な意味からは特に商売人などがお客様とのおだてや褒め言葉に多用するように本音はお金稼ぎなのだ [続きを読む]
  • 「釈迦に説法」とはことわざ?
  • 「釈迦に説法」といった言葉を聞きますが、これが正式なことわざや格言と思っていたらだいぶ勘違いしやすいと思います。あまり有り難くない意味で使われているとも聞きますので、それは明らかにおかしいと疑問に思わなければなりません。これは確かに釈迦が説法するのはわかりきっている・・かと言って耳にタコができるほどだと喩えればあからさまに失礼ですね。インターネット上で調べる限りでは意味がないことや釈迦に対し [続きを読む]
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