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小谷の250字 http://blog.livedoor.jp/kotani_plus/

政治経済から芸能スポーツまで、物書き小谷隆が独自の視点で10年以上も綴ってきた250字コラム。

圧倒的与党支持で愛国主義者。巨悪と非常識は許さない。人間が人間らしく生きるための知恵と勇気、そしてほっこりするようなウィットを描くコラム。2000年11月から1日も休まず連載。

小谷隆
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住所
江戸川区
出身
豊橋市
ブログ村参加

2014/11/24

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  • ハル(221)

    テレビカメラが入ったことでその夜はファンが異常なほど盛り上がって、終電間際なのにいつまでもその場を離れようとはしなかった。次々とリクエストが飛んできて、それにぜんぶ応えていたらもう0時半を回っていた。 どこからわいてきたのか、オーディエンスはいつの間に

  • ハル(220)

    そのうちに常連のファンたちと親しくなった。老若男女、いろんな人がいた。それぞれに自分の抱えている悩みを口にした。僕はそれをメモ帳に書き留め、どんどん歌にしていった。 生きていることが 罪に思えてきた 死んだら誰かが 笑ってくれるかな 面白すぎて

  • ハル(219)

    1ヶ月ほどホテルに滞在しているうちに、僕は近くの高輪台に1DKのマンションの一室を買った。ついでに中古のメルセデスのクーペも買った。そんなものがポンポン買えるだけのお金があった。そのほとんどは妻子4人分の命の代償であって、どんな形であれこれを使い切らな

  • ハル(218)

    たぶんその頃の僕は東京でいちばん暇な37歳の一人だったと思う。けれど幸いその中で経済的にはかなり豊かな方だったと思うし、人生経験のダイナミックさなら五指に数えられたかもしれない。 僕は毎日10時にホテルを出て、最寄りの品川駅まで歩いてそこから山手線に乗

  • ハル(217)

    天はこれ以上ないはっきりとした答を返してくれた。苫小牧にいる理由はないということだと僕は解釈した。けれどいざユキヨと別れようとなると、何と言って出ていけばいいのか見当もつかなかった。 けっきょく僕は昼間ユキヨが水産会社に働きに出ている間に、置き手紙ひと

  • ハル(216)

    「長いことピルなんか飲んでたのがいけないのかしら」「それは違うって前の先生が言ってたはず」「ううん、絶対その影響はあるわよ」 コールガールなんてやらなければよかった、と言って、ユキヨはアパートのカーペットに突っ伏して声をあげて泣いた。彼女が泣くのを僕は

  • ハル(215)

    それから半年ばかりの間に、僕は自分が一生のうちで算出できるであろう遺伝子の半分以上をユキヨに注ぎ込んだと思う。週末になれば昼夜分かたず獣のように交わり続けたし、この日だと確率が高いという日には5回戦に及んだこともある。 けれどいっこうな懐妊する気配はな

  • ハル(214)

    僕の中でにわかに答は出なかった。ユキヨのことは好きだけれど、ここで結婚して子供をもうけたらユキヨも僕も何か別の不幸に見舞われるような予感がした。 とはいえユキヨと離れる気もない。ここはひとつ、自分の運を改めて天に委ねてみようと思った。もしも子供ができた

  • ハル(213)

    「私さあ、ピルやめたんだよね」 夜の営みの最中にユキヨはそんなことを言い出した。「でも、ゴムしてるから」と僕は言った。「大丈夫」「大丈夫じゃいやなの」 そう言ってユキヨは僕の背中に手を回して自分に引き寄せた。「妊娠したい」と彼女は真面目な顔をして言っ

  • ハル(212)

    我々は同じアパートの住人やご近所からは仲良しの夫婦に見えたらしく、僕は「旦那さん」、ユキヨは「奥さん」と自然に呼ばれるようになった。「お子さんまだなの?」と訊く主婦もいた。「旦那さんも頑張らないと。女房にばっか働かせてぷらぷらしてちゃだめよ」「家で仕

  • ハル(211)

    それから僕はユキヨとともに苫小牧で冬を越した。彼女が夜の仕事で稼いでいた分は僕が補充した。「お金持ちなんだね」お金を渡すたびにユキヨは言った。「そうでなかったら犯罪者だわ」 思ったことをぜんぶ口に出してしまうのも良し悪しではあるけれど、おかげで彼女は

  • ハル(210)

    「ていうか」とユキヨは仰向けになって暗い天井を眺めながら言った。「このさい結婚しちゃうとか?」「さすがにそれはな」と僕は言った。「まだ旅の途中だからね」「まだどこか行きたいの?」「行きたいというか」と僕は口ごもった。「居場所がないんだ。実家はあるけど今

  • ハル(209)

    「ねえ、もしかして私のこと大事にしてくれてるの?」「もちろん大事にしてる」「嬉しい! けど、私は何番目に大事な女?」と訊いてからユキヨはハッとして物言いを変えた。「ごめん。つまんないこと訊いたね」「今は君しかいないから」「私しかいない? まじで?」「

  • ハル(208)

    寒冷地特有の二重窓を閉め切ってしまえば電車の音も踏切の音も聞こえない。ユキヨの出勤がない日の夜の営みはいつも絶望的な静寂に包まれていた。「あなたは着けなくていいよ」と肌を合わせながらあるときユキヨは言った。「お客には漬けさせてるけど、こういう仕事してる

  • ハル(207)

    苫小牧といえば工業都市ではあるけれど、ユキヨのアパートがある海に近い街はとても寂れた印象だった。なだらかな傾斜の土地にポツポツと街並みが続き、その先は森になって遠くの樽前山に連なっている。至る所でキタキツネが野良犬のようにうろついているのを見た。 海岸

  • ハル(206)

    「そんな君がどうして苫小牧に?」 流れからしてここにはさむべき質問を僕はインタビュアーのように投げかけた。「男と駆け落ちしてきたのよ」とユキヨは鍋の味見をしながら言った。「その人もテレクラで知り合ったんだけどね」 一度だけ勢いで寝たその相手が故郷の苫小

  • ハル(205)

    驚いたことにユキヨは東京の生まれだった。葛飾区で生まれ、江東区で育ち、名の知れた短大も出て、3年間は都銀の支店に勤めていたという。 仕事のストレスから夜な夜なテレクラに電話をするようになり、そこで知り合った相手と男女の仲になった。男に貢いで作った借金を

  • ハル(204)

    「一緒にいてあげる」 ユキヨはそう言って、半ば強引に僕をホテルから引きずり出すように車で彼女の家に連れていった。家はコールガールの胴元がある札幌ではなく苫小牧にあって、比較的新しい1DKの小綺麗なアパートだった。「ここだったら宿泊費もかからないわ」とユキ

  • ハル(203)

    軽井沢を離れて1年半も経っていた。5人で暮らした家に独りで住むのは寂しかったし、そもそも義父との繋がりもなくなれば僕が会社にいる意味もなくなった。 社長の座はマキの妹の夫に譲り、僕は潔く家を出た。皮肉なことに、事故の賠償金で僕は一生働かなくても暮らせる

  • ハル(202)

    ひとしきり泣いたあと、僕はシャワーを浴びた。それからベッドに戻って、横たわる彼女のバスローブを剥ぐと、貪るようにその豊満な肢体を抱いた。そして倒れるように眠りについた。 夢を見た。僕はマキや子供たちと食卓を囲んでいた。そこに真実も、ミチコさんも、ミカも

  • ハル(201)

    僕はそこに滞在している間におそらく20人ぐらいの女性を呼んだけれど、誰とも交わることはなかった。ただ同じベッドで添い寝してもらっただけだった。 どの女性もどこか訝しがるような態度でほとんどは背を向けて寝ていたけれど、彼女だけは僕に向き合って、「あなたの

  • ハル(200)

    彼女はベッドの上でストレッチをしたり、時おり僕に顔を寄せてみたり、起き上がって冷蔵庫のビールを飲んだりしながら、白々と外が明るくなるまで僕の話を聴いてくれた。「泣けるよ、まじで」と窓際の彼女は涙声で言った。「なんであなたは泣かないの? やっぱり作り話な

  • ハル(199)

    いろんなことがありすぎて、そのときの僕は人に話さないと頭の中を整理できなかった。けれど見知った人にはおいそれと語れない話だ。源氏名しか知らないような相手だからこそ話せたのだと思う。 僕は彼女と肌を合わせることもなく、ただ寝物語にこれまでの来し方を彼女に

  • ハル(198)

    「その話、もし作り話だとしても泣けるよ」と彼女は言った。「作り話だろうけど」 歳は30前後だろうか。彼女はふくよかな肢体をバスローブに包み、窓際で煙草を燻らせていた。窓の外には寂寥感しかもよおさない、周囲に深い雪を湛えた湖が広がっている。その先には真っ

  • ハル(197)

    そしてとうとう、僕の歌が日の目を見るのをマキは見届けることができなかった。 ある年の8月、子供たち3人を車に乗せ、国道18号をマキは佐久から戻るところだった。追分の上り坂をを走っているとき、対抗車線から大型のトレーラーがはみ出してきた。おそらくマキはと

  • ハル(196)

    僕はいっぱしのミュージシャン気取りで余暇を過ごした。何曲も自作の歌が溜まっていった。できるたびにまずマキに聴いてもらった。 マキは優れたリスナーだったと思う。何でも手放しに褒めるようなことはしなかった。よくない曲はよくないとはっきり言ったし、彼女に不評

  • ハル(195)

    バブル崩壊後の商売がうまくいって、会社はどんどん大きくなっていった。義父は会長に退き、僕が社長に昇進した。 長女の誕生を機に僕たちの一家5人は中軽井沢の駅近くにひと回り大きな家を建てて引っ越した。 マキの計らいで、新居には防音のきいたスタジオまがいの

  • ハル(194)

    それからというもの、僕は夕食後の2時間をギターや歌の練習にあてた。といっても、もともとはマキが片付けや子供の世話をしている傍らで、ソファにでんと腰かけてテレビを観るともなしに眺めていた無駄な時間だった。 マキは文句も言わないどころか、時おり僕の部屋に来

  • ハル(193)

    「ありがとう」と涙を流したまま精一杯の笑顔を浮かべてマキは言った。「パパって、もしかして音楽の道に進みたかったんじゃないの?」「昔、ちょっとだけね」と僕は言った。「けど、そんなに甘い世界じゃない」「素人耳だけど、パパの歌、すごくよかった。音痴だとか言っ

  • ハル(192)

    マキは僕がギターケースを持ち帰ってきたのに少し驚いたけれど、特に問いただすわけでもなく、「パパ、ギター弾けるの?」とだけ訊いた。「学生時代に少しだけ」 30を過ぎて趣味ひとつないのも悲しいから、と僕は説明した。「ね、弾いてみて」とマキは言った。 僕

  • ハル(191)

    バブルがはじけて不動産価格が下落していたこともあって、割安な物件はすぐに売れた。あれよあれよと手持ちの弾がはけてしまうとにわかに暇になって、そこで初めてお茶の水の楽器屋に足を運んでみようと思った。 輸入ギター専門の店に行ってみると、折からの円高の恩恵で

  • ハル(190)

    またギターを買うようにとミチコさんがくれたお金は封筒のまま書斎の引き出しにしまったままだった。ちょうど会社は別荘管理に加えて不動産の仲介まで始め、東京にも事務所を構えて精力的に営業するようになっていた頃だった。 すでに上信越道が開通して東京から軽井沢へ

  • ハル(189)

    僕はコウダハルが血の繋がった従姉妹であることも、僕とミチコさんとの間に生まれた真実のこともマキには伝えていなかった。ハルのことは口外するとろくなことがなかったし、真実もすでに他人の家の娘であって、マキに迷惑をかけるこもない。後ろめたい気持ちもあったけれ

  • ハル(188)

    スター。 その言葉でハルはさらに遠くへ行ってしまった気がした。ぽっと出のアイドルではなく、その名の通り天上に輝く星。僕はもうハルを仰いで眺めるしかなかった。 とはいえ僕は僕なりに幸福な家庭を築きつつある。マキは家の中をいつも清潔にしていたし、朝昼晩と

  • ハル(187)

    ハルは離婚から1年で再婚した。相手は美容外科医だった。式も挙げず、都内のマンションで幼い娘ともども暮らしていると報じられた。 ヒット曲はなくても、ハルは様々な歌番組に登場していた。まだ二十代なのに大御所の歌手のような風格すら湛えていた。 僕は軽井沢の

  • ハル(186)

    その中身がお金であることは容易に知れた。「やめてください」と僕は言った。「僕はもう社会人なんですから」「これでギターを買って。少しばかりだからいいものは買えないでしょうけど、手元にギターを置いておいて。そうしたらいつかまたやる気が出るかもしれないから

  • ハル(185)

    「少しでもいいから、続けてみたら? あなたの歌は並大抵じゃないわよ。こう言ったら失礼かもしれないけど、こんな所に埋もれていい人じゃないわ。私はずっとそう思ってきた」 僕には返す言葉がなかった。まさかここで音楽の話が出るとは想像もしていなかった。だいいち、

  • ハル(184)

    ミチコさんとは僕の結婚が決まってからはさすがに肌を合わせることはなくなったけれど、たまにランチをともにした。式には呼べなかったけれど、結婚することは親よりも先に報告していた。「よかったじゃない」とそのときミチコさんは言ってくれた。「社長の後継ぎとはね。

  • ハル(183)

    マキは言葉数こそ少ないけれど聡明な女性だったし、家事も仕事もすべて隙ひとつ見せないほど完璧にこなした。決して美人とはいえないけれど、透明感のある白い肌の持ち主で、それに時おり見せる愛嬌のある笑顔は僕だけでなく周囲の誰をも癒していた。「白雪姫」とあだ名さ

  • ハル(182)

    社長にそう言われてからはいろんなことがトントン拍子に進み、僕とマキは翌年の初めに町内の教会で式を挙げた。新居には築3年ほどの、本来は別荘として建てられた家を会社が買い上げてあてがってくれた。 春にはイタリアとフランスへハネムーンに出かけ、戻ってくると僕

  • ハル(181)

    二つのカップを置いたテーブルをはさんでマキと向かい合った。丁寧に切ったりんごも盛られていた。いつも仕事から戻ると、マキの淹れてくれる喫茶店なみに美味しいコーヒーを飲みながら、何を話すわけでもなくこうして定時まで時間を過ごした。 マキは僕より2つ歳上の3

  • ハル(180)

    「おかえりなさい」 マキはハウスクリーニング会社の事務所で、導入したばかりのパソコンと格闘しているところだった。彼女は社長の長女で、会社の経理を任されている。「ホワイトハウスは今日で完了です」と僕は言った。「買い手がつくまでしばらく様子見です」「ご苦労

  • ハル(179)

    ハルとその夫の離婚が報じられたのは10月のことだった。夫と若手女優との不義が原因だと報じるメディアもあれば、ハルが結婚前から引きずっていた派手な男性関係が原因だと報じるメディアもあった。離婚にともなって都内の高級マンションと軽井沢の豪邸を売却するとも報

  • ハル(178)

    ダミーのベビーシッターは数日滞在しただけで赤ちゃんとともにまたマスコミを大騒ぎさせながら帰ってしまったけれど、そのあとハルもその夫もホワイトハウスを訪れることは一度もなかった。そのうちに豪邸を囲むメディアの人々の数も減っていって、秋風が吹く頃にはもとの

  • ハル(177)

    「ご苦労様です」 生まれたばかりの子を抱きながら言ったのはハルではなかった。軽井沢の家の周囲が騒ぎになっていると聞いて、ハルはマスコミを欺くダミーを兼ねたベビーシッターの女性を先によこしていた。赤ちゃんだけは本物だ。 少し赤ちゃんの顔を覗かせてもらった

  • ハル(176)

    その年の春、ハルは女の子を出産した。大物カップルのプリンセス誕生だけに、メディアは懐妊が噂された頃からハルやその夫である俳優をつけ回していた。 真夏には軽井沢の豪邸の周囲にも記者がたむろし、テレビ局はすれ違いさえやっとなほど狭い道に堂々と車を駐めてハル

  • ハル(175)

    どんな人が入るのかまではさすがに図々しくて訊けなかった。いずれにしても並大抵の経済力でないことは確かだった。ざっと外から眺める限り、建屋の部屋数は10以上あるかもしれない。ハウスクリーニングの会社としては大きなお得意さんになる可能性もある。「またちょく

  • ハル(174)

    あるとき、ホワイトハウスの正門になると思しき場所でスーツ姿の男性が二人、図面を持って打ち合わせでいたので、思い切って声をかけてみた。「ハウスクリーニングの会社です」と言って僕は名刺を差し出した。「ご用命の際はご連絡ください」「それはご丁寧にどうも」

  • ハル(173)

    いったいどんなものができあがるのだろうか気になって、近くの別荘へ仕事に行くときは必ずそこの様子を覗いていった。 春先から重機が何台も入ってあっという間に土地が造成されると、今度は敷地を取り囲むように高さ2メートルはあるコンクリートの壁がはりめぐらされた

  • ハル(172)

    こんな所どうにもしようがないし、ここに別荘を建てようなどという奇特な人がいるとも思えない。さてどうしたものかと悩んだのもほんの数日、なんとこの土地がけっこうな値段で売れてしまったのだった。 買い手は東京の建築デザイン会社だという。言い値でいいというので

  • ハル(171)

    殺伐とした部屋でぼんやりしていてもしかたないので、僕は会社が買い上げたという土地を見に行った。 そこほ大日向という地域で、浅間山がかなり近くに見える。稜線からつながるなだらかな斜面に、造成もされていない枯れ草の荒地が続いている。あちこちに、前の週に降っ

  • ハル(170)

    儲かる事業を考えろといっても、早い話、バブルが弾けて安く売り出された土地をどう活用するかという極めて限定的なミッションだった。 素人の僕にそんなことできるはずもない。だいいち大学だって文学部の史学科だったし、不動産の知識なんて皆無だった。 僕はなんと

  • ハル(169)

    マイがいなくなったあと、2人の新人が入ってきた。一人は地元の30代の主婦、もう一人は大学を中退した22歳の男だった。 そのタイミングで僕は社長に呼び出され、現場からはずされた。「君には新しい事業開発をやってもらいたい」 社長はそう言って僕に本社の社屋

  • ハル(168)

    「そんなことがあったの?」 小諸駅前の喫茶店でコーヒーカップを宙に浮かせたままミチコさんは言った。「ほんとはビクビクでしたけどね」「そんなとこで意気がったらためよ。何かあったらどうするの?」 ミチコさんは涙ぐんでいた。「あなた、もしかしてその子のこと

  • ハル(167)

    しかしよく見ると明らかに僕より年齢は遥かに若そうだった。なぜこんなやつに敬語を使う必要があるのか、と思った。「あまりひどいことをすると警察に」と言うか言わないかのタイミングで下腹に軽いジャブが入った。「滅多なことはせえへん方がええどぉ」と言って彼は僕

  • ハル(166)

    「隠し事したら面倒なことになるで」 そう言って男はニヤリと笑った。「知りません」と僕は言った。「調べはついとるんや。あんたがようけマイのこと世話してくれたいうのもな」と言って男は上着の胸ポケットに手を入れた。「マイとはやったんかい?」「何もありません

  • ハル(165)

    マイとはその後ドライブもしたし、中軽井沢の居酒屋で飲んだりもした。けれど帰り際に軽く唇を重ねるぐらいで、その先に発展することはなかった。 3月の初めにペアで仕事をしたのが最後で、マイは知らないうちに荷物をまとめて姿を消してしまった。その何日か後、見るか

  • ハル(164)

    「楽しかったよ。ありがとう」 助手席のマイは眠そうな声でそう言ったきり、静かな寝息を立て始めた。その横顔をたまにちらりと眺めながら、僕は曲がりくねった下り坂でハンドルをさばいた。「んなん、引き出しん中にあるやろ」 マイは寝言でそんなことを言った。彼女は

  • ハル(163)

    そのキスを終えたとき、マイは僕の胸に顔を埋めた。「ごめんね」「どうして謝るの?」「私ね、実はダンナがいるの。もうずっと別居してるけど。離婚してもらえてないのよ」「じゃあ僕も隠してたことを話すよ」 僕はミチコさんとの間に娘がいることを打ち明けた。「デ

  • ハル(162)

    マイとは公私ともに気が合って、休日には会社の車を拝借して一緒に出かけることもあった。菅平までスキーに行ったり、万座まで温泉に入りに行ったりもした。 プライベートのとき、マイはほとんどメイクをしなかった。髪の毛は金色ではあるけれど、薄いメイクのマイはお世

  • ハル(161)

    じっさい仕事中、僕はマイを師匠と呼び、マイは僕のことをデッシーと呼んだ。一緒に仕事を組むとき、僕が慣れないことで失敗してもマイは怒るどころか大笑いするばかりだった。ひとしきり笑い終えると、僕のしくじった所をあれよあれよという間にリカバーした。 その仕事

  • ハル(160)

    その中でただ一人、マイという21歳の女の子と仲良くなった。補導歴10回、逮捕歴2回を自慢する彼女は僕と同じ別荘管理会社に勤めている。 背中まで伸びた髪を金に染め、清掃の作業衣を着た細身で長身の彼女はレディースのヘッドそのものだった。顔立ちは決して悪くな

  • ハル(159)

    僕は年末には借りていた山荘も前の会社の寮も引き払い、別荘管理会社の提供するアパートに移った。アパートとはいってももとはどこかの保養所に使われていた建物で、部屋数は20もあり、それぞれ8畳もあって、床暖房まで効いていた。 他の部屋には関連する会社の従業員

  • ハル(158)

    「本気です」 実は次の仕事も決まっていた。散歩の途中で立ち寄ったコンビニに別荘管理会社の求人があって、それに応募して採用されていた。朝食もつくし、寮としてアパートも与えられる。そのことをサナダさんに説明した。「あんた正気? 世界に名の知れた会社から軽

  • ハル(157)

    「あんた宛の辞令持ってきたから」と言ってサナダさんは会社のマークが入った白い封筒を乱暴に差し出した。「ノウカイ行きよ。意味わかるよね?」「ノウカイ、ですか?」 能力開発部への異動ということだ。異動といえば聞こえはいいけれど、要は使えなくなった社員や問題

  • ハル(156)

    軽井沢の家は12月の半ばには引き払うつもりだった。引き払うといっても来たときに手で持ってきたものを持って帰るだけの身軽さだったから、いつでも出られる状態だった。 そうこうしているうちに雪が降った。夜半すぎに振り始めた雪は、朝までに20センチほど積もった

  • ハル(155)

    「ありがとう」 ミチコさんはそう言って、裸のまま身を起こすと、長くやめていたはずの煙草に火をつけた。「すごく気持ちよかった。久しぶりに女に戻れた気がするわ」「僕も6年前以来ですから」「私?」「そう」「嘘。もてそうなのに」「ミチコさんだって今も魅力的

  • ハル(154)

    ミチコさんとはその後2度逢ってランチをともにして、お茶を飲んだ。3度目にどうしてもと請われて寝た。軽井沢の隣町には周囲の田園地帯とはまるで別世界のラブホテル街があって、そこへミチコさんの車で乗りつけた。 ミチコさんは以前よりふくよかにはなっていたけれど

  • ハル(153)

    サナダさんを駅まで送る道すがら、広報部の中で多くの異動があったことを聞かされた。社内報の課長は閑職に飛ばされ、人事部から新しい人が交代で課長になった。それと入れ替わりにサナダさんが人事へ行くことになった。「サナダさんが次の課長になると思ってました」と僕

  • ハル(152)

    じっさい僕も最初はこの退屈が苦痛だった。けれど退屈というものはある閾値を超えるとそれが当たり前になって、何かしたいと思わなくなるのだとわかった。そう話すと、サナダさんは訝しそうな顔をしながらも、渋々という感じで何度も頷いた。「わかった。とりあえず生きて

  • ハル(151)

    僕はサナダさんを家に入れ、ソファに座ってもらった。狭い家なので薪ストーブを炊けばすぐに暖かくなる。それでもサナダさんはずっとコートにくるまったまま身を縮めていた。 二人で並んで座り、最近飲むようになったレモングラスのお茶を啜りながら、僕は退屈な近況をサ

  • ハル(150)

    「どうしてここへ?」と僕は訊ねた。「人事部に異動になったのよ」とサナダさんは言った。「その最初の仕事が、あろうことかあんたの安否確認よ。びっくりしたわ。寮にもいないっていうから、あんたの実家に電話してここを聞いてきたの」 サナダさんはおもむろに立ち上が

  • ハル(149)

    もうずいぶん厚く落ち葉の埋まった細い道を、僕はザクザクと音を立てながら山荘へ歩いた。裸になった木々の間を、西に傾いた日がまっすぐ差してくる。人っこ一人いない静かな森に、甲高い鳥の声が響いた。 家の数十メートル手前で「異変」に気づいた。最初は黒い点に見え

  • ハル(148)

    軽井沢の家まではミチコさんが車で送ってくれた。歩いて2時間の距離も車だと10分そこそこだった。苦労して歩いたことを空しくさえ感じた。 すれ違いも転回も大変そうな細い砂利道まで来てもらうのは申し訳ないので、近くで降ろしてもらった。「またお茶でも飲みまし

  • ハル(147)

    「逢ってく?」とミチコさんは訊ねた。「いいです」と僕は答えた。「もう少し時間をください」 真実も他の子供たちも我々の姿には気づかず、柔らかな日差しが注ぐ園庭で、逃げ回る先生を一心不乱に追いかけていた。「その方がいいわ」とミチコさんは言った。「もう少しあ

  • ハル(146)

    ミチコさんと僕は車を降りた。金網越しに、園庭で子どもたちが細身の先生を追い回している光景が見えた。「どの子かわかる?」とミチコさんは訊ねた。 僕は黙っていた。あの子だと言われなくても、僕にはすぐに真実を見つけることができた。他の子供たちよりも少し背の

  • ハル(145)

    「行きましょ」ととつぜんミチコさんは言った。「すぐそこだから」「どこへ?」「決まってるでしょ。真実のとこよ。いま保育園にいるから」 ミチコさんの運転する軽自動車の助手席に乗せられ、浅間山に連なるなだらかな斜面の換算とした住宅地をのぼっていった。やがて矢

  • ハル(144)

    ミチコさんが独りで出産して僕を遠ざけていた理由も何となくわかる。いくらその子の父親だといっても、あの頃の僕は学生だった。仮に籍を入れて僕がそばにいたところで何の役にも立たなかっただろうし、何よりミチコさんは僕の将来のことを心配してくれたのだと思う。 ミ

  • ハル(143)

    二人で駅前の喫茶店に入った。「再婚したのよ」とミチコさんは言った。「今はここで家族4人で暮らしてるの。あ、14になる夫の連れ子もいてね」「真実ちゃんは元気ですか?」「元気よ」と言ってミチコさんは悪戯っぽく笑った。「あなたにすごく似てきたわ」 僕は返

  • ハル(142)

    20分ほど待ってやってきた電車に乗ろうとしたとき、降りてきた女性と1メートルほどの距離で目が合った。「え?」 彼女と僕はほぼ同時にそう言ってその場に凍りついた。「ミチコさん?」 当惑したような、嬉しそうな、なんとも言えない顔でミチコさんは黙って立ち

  • ハル(141)

    路線沿いのあてない歩き旅はやがて小諸にまで到達した。信濃追分から距離にして10キロほどになる。連日の長歩きで足も慣れてきていて、もうこれぐらいの距離ではへこたれもしなかった。たぶん足は少しずつ江戸時代の人々のそれに戻っていたと思う。 小諸はこのあたりで

  • ハル(140)

    信越本線沿いに歩けば、帰りは信濃追分まで電車で帰ることもできる。そこに気づいてからはほぼ線路に沿って西へ西へと向かった。かつてミチコさんが住んでいた家にもたどりついた。長いこと誰も住んでいないのがひと目でわかるほどの荒れようだった。学生時代に書いた返信

  • ハル(139)

    もはや散歩ぐらいしかすることがない。落ち葉で埋まり始めた森の砂利道を、僕はあてどなく歩いた。見通しのいい場所では雄大な浅間山が見えた。噴煙がたなびく日もあれば、そうでない日もあった。 あまり遠くに行きすぎて帰り道がわからなくなったこともある。なんとか国

  • ハル(138)

    ただ幸い家は信濃追分駅からほど近い距離だったので、車がなくても生活物資の調達に困ることはなかった。電話がないのには不便するかと思ったけれど、独身寮も電話は取り次ぎだったし、そもそもかける相手もいなければ、かかってくる相手もいなかった。何かあれば電報が届

  • ハル(137)

    会社の中ではなんとなく生き辛くなってきて、それだけが理由ではなかったけれど、僕は会社を休職した。神経科医の前で適当なことを言って診断書を書いてもらい、人事部に提出した。心配が多くて眠れないと言えばそれだけで病気扱いになった。 休職中は独身寮にいても仕方

  • ハル(136)

    ハルといとこ同士であることは社内には伏せておいてほしいと先輩にはお願いしたけれど、1週間もすると部署全体に広まっていた。そればかりでなく、他部所にいる同期の友人たちにまで伝わっていた。 見知らぬ人までが僕の部署を訪ねてきた。「コウダハルの従兄弟くんって

  • ハル(135)

    ハルはマネジャーと思しき人と一緒に入ってくると、僕に向き合って座った。それから真顔でじっと僕の顔を眺めた。その顔がみるみるうちに弛んで、満面の笑みに変わった。「にいちゃん!」とハルは素っ頓狂な声をあげた。「どうして? どうして?」 先輩社員は何が起こ

  • ハル(134)

    取材の趣旨に配慮して、場所はスタジオのコントロールルームになった。巨大なミキサーコンソールの向こうはガラス張りになっていて、薄暗い部屋に天井からマイクが吊るされているほかは何も見えなかった。 コンソールの前に置かれた椅子に腰かけて待っているあいだ、先輩

  • ハル(133)

    けれど社内報に配属されたことは僕にとって思わぬ幸運をもたらすことになる。子会社のレコード会社への取材で、あろうことかコウダハルにインタビューすることになったのだった。 その頃のハルはベストテンを賑わす歌手ではなくなっていたけれど、時おり海外のアーティス

  • ハル(132)

    社内報は週報と、三ヶ月ごとに出す季報を制作していた。何万人という社員の目に触れるという意味ではへたな新聞や雑誌よりも影響力がある。会社の上層部もまめに読んでいる。 だから文章は細かく添削された。どこかの部署に取材に行って記事を書いてみると、あそこが足り

  • ハル(131)

    社内報は小柄な男性の課長以外は6人の女性社員からなる女所帯だった。40代前後の女性を筆頭に、まだ27歳だった僕よりもみんな歳上で、そしてもれなく独身だった。 課長は物静かな人で、必要な指示以外はまったく口を開かなかった。しばらく仕事をしてみると、この部

  • ハル(130)

    テレビコマーシャルを作る宣伝部とは違い、広報部の仕事は地味だった。新商品の紹介をするプレスリリースを書き、新福記者の集まる記者クラブに投函する。記者から問い合わせがくれば答える。記事になるように一生懸命答える。けれどよほど物珍しいものでもない限りほとん

  • ハル(129)

    ハルと大物俳優との壮大な結婚披露宴が都内のホテルから全国へテレビ中継されていた夜、僕はそこから目と鼻の先にあるオフィスにいた。窓から見下ろすと、ホテルに続く坂道を人が埋め尽くしている。世紀の披露宴を終えて出てくる二人の車を待っている人々だった。「来た来

  • ハル(128)

    ハルの結婚が報じられて世の中が騒然としたのは僕が会社に勤め始めて間もない頃のことだった。相手はひと周りも歳の離れた大物俳優だった。それまで恋多き女として芸能人やプロ野球選手、アナウンサー、青年実業家、医師、政治家まで、いろんな男性との関係が取り沙汰され

  • ハル(127)

    大学も卒業間近の2月、先生が亡くなった。まだ60代半ばの若さだった。何年も胃癌を患っていたという。 テレビは偉大な作曲家の死を悼む声を伝えていた。むかし先生の曲で大ヒットを飛ばした女性歌手は「いつも物静かな紳士でした」と涙ながらに語った。先生にはいろん

  • ハル(126)

    大学4年の秋、僕は都内のホテルのボールルームにいた。整然と並べられた夥しい数の椅子を、ダークスーツに身を固めた同世代の男女が埋めていた。その数は392人だと冒頭に司会者が伝えていた。 翌春の新卒入社の内定式である。僕は大手家電メーカーに就職することにな

  • ハル(125)

    その途中で先生はガウンを脱いだ。中は全裸だった。還暦近くにしてはかなり鍛えられた筋骨ながら、腹だけは出ている。肌はなめらかそうで、丹念に処理されているのか、体毛ひとつなかった。 豪奢な家具を散りばめた部屋にはどこか東洋的な匂いのお香が漂っている。そのう

  • ハル(124)

    「よく来たね」 先生はどこぞの公爵様の着るような豪奢なガウンを身に纏っていた。「まずはそこへお座り」 言われるままに座ったソファは柔らかすぎて腰まで沈んでのけぞりそうになったけれど、何とか身体を立て直した。 その隣に先生は慣れた動作で腰かけた。「レッ

  • ハル(123)

    2週間ぐらいして、詞がのったデモテープと手書きの歌詞原稿を手渡された。歌はスクールの生徒がギターの伴奏に合わせて歌っている。聴いた限り、この人の方が僕よりはるかに上手い気がした。この人がこの歌でデビューすればいいのに、とさえ思った。 ともかくもそのテー

  • ハル(122)

    マイナーのエイトビート。グループサウンズの時代を彷彿させる。これを自分が歌う姿をまったくイメージできなかった。 それでも何か言葉をのせてみようとはしたけれど、どんなフレーズも陳腐に聞こえる。それ以前に、曲そのものがとても陳腐なものに感じられてしかたなか

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