唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さん プロフィール

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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さん: 唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
ハンドル名唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さん
ブログタイトル唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/seikannamo
サイト紹介文私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思ってい
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供180回 / 365日(平均3.5回/週) - 参加 2014/11/27 21:21

唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さんのブログ記事

  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(7)
  •   今読ませていただいています滅定証は、第七末那識の存在論証であります二教六理証の第四二定差別証と不可分の関係にありますので、その箇所を少しみていこうと思います。   第四の二定差別証は、無想定と滅尽定との相違から、第七末那識の存在を明らかにしているわけですが、もし染汚の第七識の存在が無いならば、染汚心を滅せない無想定と、一切染汚心を起こさない滅尽定との区別がつかないことになることを述べています。 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(6)
  •   「謂く、眼等の識は行相麤動(ギョウソウソドウ)なるを以て、所縁の境の於(ウエ)に起るときに、必ず労慮(ロウリョ・疲れ倦むこと)す。彼を厭患(オンゲン・きらうこと)するが故に、暫く止息(シソク・やむこと)せんと求めて、漸次(ゼンジ・次第に、だんだんと)に伏除(ブクジョ・取り除くこと)して都尽(トジン)の位(すべてを滅し尽くした処)に至る。此の位に依って滅定に住する者を立つ。故に此の定の中には、彼の識いい皆滅しぬ。」(『 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(5)
  •   唯識無境ということは、第八識という、私の「いのち」を支えてくれている根本なる識で浄なる性質であり、善・悪・無記と転易しない無垢なるもの、境と一体のものの性質から、無境と云い表されているように感じます。私たちの分別意識からでは、境という対象物は有りますね。例えばもうすぐ紅葉の季節になりますが、青いサングラスをかけて鑑賞したら、紅葉はどのように見えるでしょうか。確かに、紅葉は境として存在しているの [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(4)
  •   第一に総論として諸部派の、滅定の中に在って本識無しという主張を論破し、滅定でも存在する心は第八識しかありえないことを明らかにする。第二に有部の主張を論破し、第三に経量部の本計(ホンケ・根本の主張)を論破し、第四に経量部の末計(マッケ・根本主張に対する付随的主張)を論破する一段。 第一の総論になります。 諸部派は、滅定では転識はすべて滅すると主張した、六識のみで識体系を述べる説をまとめて論破しています [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(3)
  •   「寿」について、有部は命根であるといいます。『倶舎論』に「命根は體即ち寿なり、能く煖及び識を持つ。」と述べられています。煖と識とを保つ働きをもつものが寿と云われているのです。又、『中阿含』や『長阿含』には、寿煖識の三法が身から離れる時が、即ち死する時であると説かれているのです。有部は寿は実有であり、寿が煖と識とを維持し、煖と識とが寿を維持すると説いています。 「命根は體即寿なりと云う。大乗は前 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(2)
  •    本文に入ります。 「又、契経に説かく、滅定に住せる者(ヒト)は、身と語と心との行を皆滅せずということ無し、而も寿(ジュ)は滅せず、亦は煖(ナン)を離れず、根は変壊(ヘンネ)すること無し、識は身に離れずと云う。」(『論』第四・四右) また、ある滅定を説く経には次のように説かれている。 (第一は滅尽定について)滅尽定に住せる者は、身と語と心との行が皆滅しないと云うことは無い、滅するのである。しかし、寿は [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(1)
  •    〜「むなしけれ 百人千人讃えても 我がよしとおもう 日のあらざれば」〜九条武子〜 どれほど周囲からほめ讃えられようとも、我が身が我が身の事実に頷き、納得できないのなら、それは空しい人生と言わざるを得ない。しかし、どれほど我が計らいをめぐらし、外に感動を求めても、ひと時の幻影でしかない。傲慢でも卑屈でもなく、「私は私でよかったね」と、自分が自分に手を合わすことのできる人生。それは私の分別の思い [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(33)識食の体について・結び(4)
  •   第三・総結』 「既に異熟識のみ是れ勝食の性なり、彼の識という、即ち是れ此の第八識なり。」(『論』第四・三左) 「異熟識のみ是れ勝食の性なり」について、『述記』は「識食は第八識に通ずと云うことを知ると雖も、唯だ異熟識のみ是れ勝れたる食の性なり。彼の食と云うは即ち是れ此の第八識なり。」(『述記』第四末・十二右) (すでに異熟識のみが勝れたる食の性(本質)である、彼の識と云うのはこの第八識である。) [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(30)識食の体について・結び。
  •    識食の體について学んでいるのですが、このことは食を通して、相分の根拠は善悪を超えて(包み込んでと言った方がいいのかも知れません)、第八阿頼耶識が所依となることを論証しています。 結論は、世尊の教説である『四食経』を以て、すべての有情は、みな食に依って住していると説かれるのである、ということです。 『述記』は補足説明として、「本識に由るが故に、是の説を作して言く・・・」と、食が成り立つのは、本 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(29)識食の体について
  •   「此れに由って定んで知んぬ、諸の転識に異にして異熟識有り、一類に恒に遍して、身命を執持して壊断せざらしむということを。」(『論』第四・三左) 以上述べてきたことに由って、必ず知ることができるであろう。 諸々の転識とは別にして、異熟識が存在していることを。この異熟識は一類に恒に三界に遍在して、身(有根身)と命(命根)を執持して壊断させないようにしているということを。 本科段は第三に、識食の體を結 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(28)無色界には身無し。
  •    「又、無色には身無きを以て、命いい能く持すること無くなんぬべきが故に。衆同分の等きは実体無きが故に。」(『論』第四・三左) また、無色界には身が存在しないので、存在のしない身が命根を保持し、相互に食となることはできないのである。また、衆同分は実体がないから、実体のないものは食とはなり得ないのである。 本科段は、経量部の主張を一応認めたとしても、理に合わないと論破しています。 「設ひ、身は是れ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(27)二部を破す。
  •    前段で護法は経量部の本計を論破しましたが、経量部はこの論破に対して、さらに論陣を張って自らの主張の正当性をアピールしますが、再度護法はこの主張をも論破することになります。 経量部の再度の説明は、「身と命根が相互に保たれ(相持)互いに保持して食となる」と主張するのです。 「彼の上界に在りて無漏を起せる時には、有情の身と命と既に互いに相持して即ち互いに食と為す」(経量部の主張)「と言わば、此れ亦 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(26)経量部の主張を論破(2)
  •    南御堂掲示板より 経量部の本計を破す。 〔宗〕 無漏の識等きは、食と為ること能はざるべし。 〔因〕 有漏の種を執持すること能はざるが故に。 〔喩〕 涅槃等の如し。 つまり、護法の論破の主旨は、識食の体が六識が説明すると、有漏から無漏に転じた、上二界に居る有情には食が無いことになり、生存が不可能であることになる。しかし、上二界に生まれた有情が生存しつづけられるのは、転識でなく、有間断ではなく。 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(25)経量部の主張を論破
  •    今回は、経量部の根本の主張(本計)のみを論破する科段になります。 「亦、無漏の識の中に有漏の種有って、能く彼の食と為るに執すべからず。無漏の識等は、猶涅槃の如し、有漏の種を執持すること能わざる故に。」(『論』第四・三右) 前段に於いて、無漏の識等は有漏を破壊するものであるから、彼(上二界に生まれて無漏心になっている有情)の身命に対する食とはならない。そして六識の中で前五識は上二界には存在しな [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(23)上座部等を破す。
  •    第三は、上座部等の説を論破します。 「有るが執すらく、滅定等には、猶第六識有るを以て、彼の有情に於て能く食事と為ると云う。彼が執ずること理に非ず、後に當に広く破すべし。」(『論』第四・三右) 初めには、上座部の説を論破し、後に経量部及び有部の説く所を論破します。 注意するところは「猶第六識有るを」です。「猶有」は細を表しますから、ここは細意識ということになります。微細な意識で、行相・所縁に覚 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(22)
  •     心豊かな人とは、合掌礼拝の出来る人なんでしょうね。そして、心貧しき人とは、合掌礼拝の出来ない人なんではと思います。合掌に始まり、合掌で終える。人として最低限の行為だと思いますが、そこには、如来は大悲を以て、寝ても覚めても四六時中、合掌礼拝してくださっているのですね。合掌礼拝は、如来のご苦労に報いる、御恩報謝になるんでしょうね。 「段等の四食に摂めざる所なるが故に。」(『論』第四・二左) 「 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(21)心不相応行法について
  •   基本図書としてお薦めです。 前回は心不相応行法について概略を述べていましたが、参考文献として良遍著『法相二巻鈔』を引用させていただきます。いきなり原文で申し訳ありません。 「不相應二十四ト云ハ。又百法論ニ列タル二十四ナリ。是皆假法也。此二十四ヲ名不相應事ハ。五蘊ト申ス法門アリ。色・受・相・行・識是也。此五ガ中ノ第四ノ行蘊ニハ。諸ノ心所并得・命根・衆同分等ノ法ヲ攝タリ。其中ニ。心所ハ心王ト相應スト云ハ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(20)論破
  •    東寺 今日は、不相応行法という、五位の中の一つですが、詳しくは、心不相応行法といい、唯識は24に分けて説明しています。行のうちで心とも色とも相応しない法という意味になります。 本科段はすでに有部の本計(ホンケ・根本の主張)を論破し終って、「救して言うならば」という、救は救済措置といってよいのでしょうか、一旦有部の主張を認めて、再度論破するという方法です。 「又、無想定の等きと不相応行とを、即ち [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(19)論破
  •    僕は、家庭でも食事を頂く所に、このように手を合わすことが出来たら十分、僧堂・食堂という意味をもつのだと思います。ただ単に食事をとるところではなく、身心を養い育て、そして生きていく上で何が大切なのか、日頃からあらゆる命を頂いて、我が身を育てて頂いていることへの眼差しが育てられてくるのだと思います。できれば家にはお内仏を、食堂には、食前の言葉、食後の言葉を掲げ、手を合わせていけるようにしてゆきた [続きを読む]
  • 食堂(ジキドウ)と食堂(ショクドウ)の違い
  •   永平寺僧堂。参拝者や参禅者は中には入れません。修行僧のみの結界です。 食堂(ジキドウ)の意味。 大谷大学教員エッセイより転載しました。  沙加戸 弘(さかど ひろむ)(国文学 教授) 「学生食堂は、学食と略称され、大衆食堂は、やゝ古色を帯び、食堂車は運行時間の短縮によって姿を消したが、「しょくどう」とよめばこれはたしかに現代日常用語である。  「しょくどう」のよみは明治以後のことになる。学校教育 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(18)論破
  •    興福寺伽藍と食堂(現国宝館) 昨日は因明から有部の説を論破する一段を読ませていただきました。三支作法からですね、 《宗》「無心位の過去や未来の識等は、食の体用が無い」    「定の前後去・来の有漏の順益するの識は食の体用に非ざるべし。」(『述記』) 《因》「現でも常でもないからである」    「現常に非ざるが故に」(『述記』 《喩》「空華の如く」    「空華等の如くと」(『述記』 こういう [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 四食証(シジキショウ)(17)論破
  •   薬師寺食堂と壁画(阿弥陀三尊浄土図)  部派からの主張を護法さんが論破する科段になります。 護法さんが勝手に論破するのではありません。経典の記述から、部派の矛盾点を指摘し、第八識の存在を論証しておられるのです。 「諸の有(アルヒト)の、第八識無しと執ぜるは、何等の食に依ってか、経に是の言(ゴン)を作(ナ)して、一切の有情は、皆食に依って住すといえる。」(『論』第四・二右)  部派の主張には二十ある [続きを読む]