唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さん プロフィール

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唯識に学ぶ・誓喚の折々の記さん: 唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
ハンドル名唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さん
ブログタイトル唯識に学ぶ・誓喚の折々の記
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/seikannamo
サイト紹介文私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思ってい
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供69回 / 365日(平均1.3回/週) - 参加 2014/11/27 21:21

唯識に学ぶ・誓喚の折々の記 さんのブログ記事

  • 第二能変 六月度テキスト・開導依についての解説
  •  「伽陀に説けるが如し、 阿頼耶を依と為して、故(かれ)末那転ずること有り、 心と及び意とに依止して、 余の転識生ずることを得という。」(『論』第四・二十一右) (伽陀(『入楞伽経』第九巻・大正16・571c20「依止阿梨耶 能轉生意識 依止依心意 能生於轉識」の取意)に説かれている通りである。「阿頼耶識を依とすることに於いて、末那識は活動する。心と意とに依止して、他の転識は生じる。) 『入楞伽経』 [続きを読む]
  • 第二能変 六月度テキスト・開導依について
  •  等無間縁依(開導依)について、 『論』第四(テキストp86)に護法の正義が記されています。 「開導依(かいどうえ)というは、謂く有縁の法たり、主と為り能く等無間縁(とうむけんえん)と作(な)る。此れ後に生ずる心・心所法に於て開避(かいひ)し引導(いんどう)するを以て開導依と名づく。此れは但心のみに属す。心所等には非ず。」 説明 一刹那前に滅した心を開導依という。前念の一刹那を開避し、後念の心・心所 [続きを読む]
  • 五月度テキスト
  •  随分暖かくなりました。日中は汗ばむくらいですね。 唯識の学びも遅々として進みませんが、末那識の所依について煩雑な論考もなされています。このところはスルーして今回は護法菩薩の所論を学ばせていただきたいと思っています。原文と和訳をてきすととして用います。5月24日八尾別院で午後三時開講です。 「有義は、前の説くこと皆理に応ぜず、未だ所依と依との別(ことなる)ことを了せざるが故に。」(『論』第四・十九 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(23)第五・経言無属難(9)雑感
  •  連休最終日、皆さんはどのようにお過ごしのことでしょうか。 滅尽定は、仮定のこととしてしか話せませんが、滅尽定において初めて散乱粗動し間断がある前六識が波立たないことになるのでしょう。六識が無くなるわけではなく、五識が転じて成所作智・第六識が転じて妙観察智という智慧となって働いてくるのでしょう。真宗では信心の智慧と表されていると思うのですが、この信心の智慧は何を依り所として生起してくるのか、この問 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(22)第五・経言無属難(8)
  •  『述記』の釈から、「此の定(滅尽定)をも無心定と名くが故に」と、経量部の末宗の転計(末計)を破斥しましたが、ここで経量部からの反論がでます。 それは、第八識の問題です。護法さんが立てられるは八識別体の論法から云えば、滅尽定でも第八識が存在するというのは有心定ではないのかということです。 『述記』の釈を読んでみます。 「述して曰く、初に心有りというを破する中文分かって三とす。 初に名に違するを難じ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(21)第五・経言無属難(7)
  •  総結の文が閉じられまして、第四に経量部が「心が有る」という主張を論破する科段になります。名に違する難。理に違する難を以て論破し、後に意趣を結びます。 滅尽定にあって、種子を保持する識が存在しないと言うのであれば、滅尽定から出た後に識はどうして生ずることができるのかと論破された経量部が再度反論してくるのです。 それは、滅尽定にあっても、六識は滅しているが、種子を宿している第六識が存在するので、識が [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(20)第五・経言無属難(6)
  •  第四は、以量成有識難(イリョウジョウウシキナン)を説明します。 以量は推論です。成有識は第八識が存在することを明らかにしています。つまり、第八識が存在するという推論を以て経量部の主張を論破する科段になります。 「然も滅定等の無心の位には、有心の位の如く、定んで実に識有るべし、根と寿と煖とを具して、有情に摂めらるるが故に。」(『論』第四・五右) (しかも滅尽定等の無心位の中においては、無心位の中にいる有情は [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(19)第五・経言無属難(5)
  •  第三は、余非受熏等難です。 受熏処の問題です。種子を熏習する場所はどこなのかが問われています。 「諸の色等の法は、識に離れては皆無しといい、熏を受け種を持すということも、亦已に遮してしが故に。」(『論』第四・五右) (諸々の色等の方は識に離れてはみな存在しないといい、熏習を受けて種子を保持するということも、また既に否定されているからである。) 本科段は経量部の根幹をなす色心互熏説を論破することに [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(18)第五・経言無属難(4)
  •  今回は、第二の論破、無体非因儀難(ムタイヒインギナン)という、体が無い存在は存在の因とはなり得ないという点からの論破になります。 「過去と未来と不相応法とは、実有の体に非ずということ、已に極成してしが故に。(論』第四・五右) (過去と未来と不相応法とは実有の体ではないことはすでに部派仏教の間でも認められているからである。) このことは既に破斥したことでもあるわけです。 過去は現在に影響を与えてはいますが [続きを読む]
  • 四月度テキスト
  •  今月のテキストを掲載します。13日の金曜日午後二時より八尾別院書院にて開講です。どちら様もお誘いあわせの上ご聴聞くださいませ。  第二能変 所依門 増上縁依(倶有依) (1) 概説 次からの科段は増上縁依(倶有依)のについて述べられます。(「次に第二の依なり、四師の解有り。)倶有依とは同時に存在する所依を指しますが、あるものが生じる時、そのものと同時に存在してそれを生じる依り所、その因を倶有依と [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(17)第五・経言無属難(3)
  •  お知らせです。今月の正厳寺様での講義は、旭区仏教会の花祭りイベントのため中止とさせていただきます。聞成坊様主催の講義は13日(金曜日)午後二時八尾別院にて開講です。よろしくお願いいたします。 第三は、経量部の根本の主張を論破する科段になります。 この論破が四つに分けられて説明されます。 『樞要』より、 (1)無因果不生難(因が無ければ果は生じないという点からの論破)、 (2)無体非因儀難(体が無 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(16)第五・経言無属難(2)
  •  後半は、有部の主張が論破される理由を挙げます。 「諸の異熟識は、此の身を捨し已って、離して余身に託しぬる時に、重ねて生ずること無きが故に。」(『論』第四・五左)  非常に分かりにくい文章です。ここは輪廻転生を否定していることを、有部の主張では認めることになる過失があると論破しているのです。 直訳しますと、 (諸々の異熟識(大乗では第八識・有部では第六識)は、この身を捨ておわって(死して)この身を [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(15)第五・経言無属難
  •  「桜吹雪に心を重ね、散りゆく際の見事さに」 仕事も落ち着いてきましたので、またブログを再開することができそうです。 本科段説一切有部の主張に対する護法の第五の論破になります。初めに有部の主張の矛盾を指摘して論破します。 「既に爾らば後のいい必ず還って生ぜざるべし、身に離れずと説くこと、彼何の属する所かある。」(『論』第四・四左) (すでにそうであるならば、のちの識は必ず(絶対に)還って生じないで [続きを読む]
  • 今月の課題・テキスト
  •  第二能変  所依門・「所依について広く解す」「諸の心・心所をば皆有所依という、然も彼の所依に総じて三種あり。」(『論』第四・十三右) (諸々の心・心所をみな(すべて)有所依という。そして心心所の所依には三種がある。) ・ 心・心所がそなえている三条件(有行相・有所依・有所縁)の一つです。 (所依の体について、初め因縁依(種子依)について説明する。) 「一には因縁依、謂く自の種子ぞ、諸の有為法は、 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(15)第四・根寿無持難
  •  FBの「唯識に自己を学ぶ」において『成唯識論』第二能変を解読してきましたが、先般終了させていただきました。次回より第三能変を解読できればと思っています。ブログでは初能変を解読しております。阿頼耶識の存在論証の第九滅定証の第三まで読ませていただきました。今後は滅定証のつづきと、第十理証である染浄証を解読していければいいなと思っています。その後は、もう一度初能変をまとめるという形で復習をさせていただ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(14)応非有情難
  •   ちょっと間があきました。『成唯識論』を初めから少しづつ読み直しているのですが、、先ず初めに気づかされたことが有ります。それは「我」についてなのです。私たち真宗門徒にとって天親菩薩の『浄土論』は大切な聖教として経に匹敵する重さをもったものとして敬っています。その帰敬序に「世尊我一心」と表白されていますが、曇鸞大師『浄土論註』で「仏法の中には我は無し、此の中に何を以てか我と称するや」と問いを立てら [続きを読む]
  • 雑感
  •  友に、唯識の誤解を解くために敢てメッセージを送ります。 最近彼を通して自分は本当に正しい道を歩んでいるのだろうかと教えられています。教義依存症という目的喪失症に陥っていないのか。自分は正しいという自己埋没の闇の中を彷徨っているのではないのかという声が聞こえてきます。 それは存在と実体についてですが、唯識無境という命題に対して、唯識を読み解いていないという問題と、無境という無に囚われて、存在が何も [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(13)寿不離身難 結び
  •   後半は護法が正義を述べます。 「故に識も、寿・煖等の如く、実に身に離れずと許すべし。」(『論』第四・四左) このように識も、生命や・体温のように本当に身を離れないと認めるべきである。 本科段は有部の主張を受けて護法が正しているところですが、有部も自分の主張を撤回して、滅尽定においても識も寿も煖も根も身に離れないと認めるべきであると云っているわけですね すみません、ちょっと横道にずれます。朋の感 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(12)寿不離身難
  •  前回のつづきになります。 第二は、寿も識と同じく身を離れないという観点からの論破です。 寿は命根のことで、生命と考えていいと思います。 「寿と煖と諸根とも亦識の如くなる応し、便ち大なる過と成りぬ。」(『論』第四・四左) 本科段は有部の主張に対する論破ですが、先に契経に説かれていることを論証として有部の主張には過失があると述べています。 「滅尽定に住する者は、・・・しかし寿は滅さない、また煖を離れ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(11)
  •    後半は、有部の主張の問題点を挙げて論破する科段になります。 護法は五つの問題点を挙げて論破しているんですね。 第一は、如想起滅難 「是れ則ち心行のみを滅せりとは説く応からず、識と想等とは、起滅すること同なるが故に。」(『論』第四・四左) 有部の論者よ、心行のみを滅せりと説いてはならない、何故なら識と心行とは起滅を同じくするからである。心行については先に述べていますが、『述記』の説明は受と想の [続きを読む]
  • 雑考
  • 朋との会話の中で、自分という存在が如何に自分に固執し、固執していることさえ分からずに、自分が被害者意識を持つことの闇の深さを教えられています。 唯識は三法展転因果同時を教えていますが、因の種子と現行の果の同時は無覆無記だと。因は衆縁を待って現行するわけですが、現行は唯識性(般若思想では空)なんです。ここは三分説で学んでいたわけですが、つまり、識体転じて二分に似る。客観的には相分です。第八識によっ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(10)
  •    前々回からのつづきになります。 有部の説を論破する一段です。 初めに有部の主張を説明します(初に宗を叙ぶ)。後に有部の主張の問題点を挙げて(難を申ぶ)論破します。 前科段において護法が正義を述べ諸部派の主張を論破しましたので、それに対しての有部からの反論になります。 「若し謂く、後の時に彼の識還って起こること隔日瘧(カクジツギャク)の如くなるを以て、身に離れずと名くといはば、」(『論』第四・四左 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(9)
  •   「真宗の教えはおまかせですね」とよく聞くのですが、お任せとはどういうことなのでしょう。僕はね、お任せは、任せられない自分が居る、任せるといっても、任せることに執している自分が居て、自分の都合でしか任せられない、臨終の一念までね。どのような事情があってもですね、自分の好都合・不都合の物差しは自分なのですね。自分は固定的に存在していると固執している末那識の為せるすべですね。「真実信心の天を覆えり」 [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(8)
  •    ブログの更新ができていません。ここしばらく聖典と向き合う時を持つのより先に寝込んでいます。疲れからなのですが、年度末決算からずっと忙しさが続いておりまして、特にここ二三日自分の能力を超える量の仕事が舞い込んできました。有難い事で喜ばなければならないのですが、これがですね、喜べないんです。実に勝手です。残業をして帰宅をしたら、食事をとって風呂に入って寝るだけ。これもご縁なのでしょう。嫌なら断れ [続きを読む]
  • 阿頼耶識の存在論証 滅尽証(7)
  •   今読ませていただいています滅定証は、第七末那識の存在論証であります二教六理証の第四二定差別証と不可分の関係にありますので、その箇所を少しみていこうと思います。   第四の二定差別証は、無想定と滅尽定との相違から、第七末那識の存在を明らかにしているわけですが、もし染汚の第七識の存在が無いならば、染汚心を滅せない無想定と、一切染汚心を起こさない滅尽定との区別がつかないことになることを述べています。 [続きを読む]