ひろかずのブログ さん プロフィール

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ひろかずのブログさん: ひろかずのブログ
ハンドル名ひろかずのブログ さん
ブログタイトルひろかずのブログ
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/hirokazu0630
サイト紹介文加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供373回 / 365日(平均7.2回/週) - 参加 2014/12/02 13:43

ひろかずのブログ さんのブログ記事

  • 宮崎奕保さんのこと(22) さようなら、ありがとう
  • さようなら、ありがとう 只管打坐によって宗門を導いていくと宣言した宮崎禅師は、それを実際に行動によって示しました。未明の僧堂には、誰よりも早く坐禅を行う老住職の姿がいつもありました。 永平寺の住職(貫主)になった当初、自分にどれだけその大役を務めることができるか、分かりませんでした。 「せいぜいもって、一年か二年だろう」  かつて大病を患ったこともあり、不安を抱えながら、永平寺の住職 [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(21) 奕保氏、永平寺の住職(曹洞宗貫主)に
  •     再び永平寺へ 札幌にある大寺院、中央寺の住職になって5年の歳月が流れました。この間奕保禅師は雲水の育成に全力を注ぎました。 昭和56年の夏、宮崎禅師(せんじ)の人生にまた大きな転機が訪れました。 永平寺で監院(かんいん)を務めていた禅師が亡くなり、宮崎禅師は、その後任を引き受けてほしいと頼まれたのです。 監院というのは、禅寺において会計や人事、あるいは地方の寺院との連絡や外部との交渉、さらに [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(20) 北の大地にわたる
  •      北の大地にわたる 昭和47年4月、長い人院生活が終わり、老僧は、ようやく寺に戻ることが できました。72歳でした。 老僧は、体力がかなり衰えていました。 病院での生活が長かった上に、結核の後遣症で片方の肺の機能を失っていたからです。食事もあまり進みませんでした。 老僧は、身を引くことを真剣に考えていました。 そんなある日、弟子の側にやって来て、禅師はこう言ったのです。 「今、札幌から [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(19) 平気で生きること
  •   「平気で生きること」の大切さ 宮崎禅師は、もう死ぬかもしれないという瀕死の状態を経験しました。 ・・・・ 命も危ないというほどの大病をして、「もう変わったというより、生まれ変わってきたようなもんや。いっぺん死んだんだから、生きておるということが不思議になってきた。だから、それからは、第二の人生や」と、よく言っておられました。 また、次のように述べておられます。 「正岡子規の『病牀 [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(18) 死の淵での坐禅
  •       死の淵での坐禅 音崎禅師は、その後も身を粉(こ)にしながら、務めを果たしました。 しかし、一週問の法要の後、さすがに自らの進退を考えました。体の具合が、あまりにもひどくなっていたからです。 ところが、宮崎禅師は、新たに住職になった佐藤泰舜(たいしゆん)禅師から「自分のもとでもう一期、永平寺の運営、雲水の指導を引き受けてほしい」と言われたのです。 この事態に周囲の人々はあわてました。このまま [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(18) 奕保禅師倒れる
  •      奕保禅師倒れる 熊沢泰禅(たいぜん)禅師は、永平寺73世貫主です。 奕保氏は熊沢禅師のもとに仕えていました。 昭和43年、永平寺の後堂(雲水の指導)として、二年を過ごした宮崎禅師は、生涯忘れることができない、ある出来事に遭遇しました。 その日、後堂は夜中に目を覚まし、トイレに起き、部屋に戻り床に就こうとした時でした。突然、電話が、鳴り響きました。時刻は、午前零時。 すると、受話器の向こうか [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(17) 永平寺の僧堂を任される
  •    永平寺の僧堂を任される 昭和40年10月、65歳になった宮崎禅師は、大役を任されることになりました。 時の永平寺住職七十三世貫首(かんしゆ)から本山の後堂(ごどう)に就任してほしいと頼まれたのです。 後堂は特別な存在です。永平寺をまとめ、雲水たちの修行に対して責任を負う立場です。 永平寺の雲水たちは、修行を終えたら各地の寺に戻っていき、そこで檀信徒たちに道元禅師の教えを伝えます。 永 [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(16) 本当の自由を求めて
  •     本当の自由を求めて 宮崎禅師と和朗老師が二人で修行を行った頃の日本は、世の中がどんどん変化していった時代でした。 加古川の街も、徐々にその姿を変えました。 化学、繊維、食品加工などの工場が次々と建設されていきました。 また、港湾の整備や埋め立て、あるいは工業用水用のダムも建設されました。 そして、昭和40年代に入ると、神戸製鋼所の加古川製鉄所が操業を始め、加古川の河口付近の広大な埋め立て地に [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(15) 宮崎和朗(わろう)禅師
  •    宮崎和朗(わろう)禅師(現在の福田寺ご住職) 戦後、宮崎禅師は、福田寺で人々に禅の教えを説く一方で、僧侶の育成にも尽力しました。 昭和21年46歳になった宮崎禅師は、永平寺から単頭(雲水の指導)を務めてほしいとの要請を受けました。 宮崎禅師はこの時、初めて永平寺の仕事を務めたのです。 しかし、宗門の中でその力量を認められる存在となっていったものの、この頃の宮崎禅師にはある悩みがありました。 実は [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(14) 奕保氏と戦争
  •      奕保氏と戦争 宮崎禅師の軍隊生活は、それほど長く続きませんでした。37歳という年齢もあって、その年の12月に帰国させられました。しかし、日本に戻った後も、戦争と無縁ではありません。 昭和16年12月8日、日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの間でも戦争を始めました。 日本全体が、戦争一色に染まりました。もちろん、宮崎禅師が住む加古川の街も例外ではありません。 加古川に建設された飛行場は、関西防空の要 [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(13) 戦地でお経を唱える
  •      戦地でお経を唱える 宮崎禅師が福田寺の住職になったころの日本は、国全体が戦争に向かっていました。 昭和6年に満州事変がおきると軍部が台頭。ナショナリズムが一気に高揚しました。 加古川の街も、徐々に戦時色が濃くなりました。 昭和10年、加古川に陸軍の飛行場が建設されることが決まると、様々な軍事施設が造られ、街は小軍都と化していきました。 宮崎禅師も戦争に巻き込まれていきました。 昭和12年 [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(12) 印 可
  •   印 可 禅の世界では、僧侶の修行の程度がどれくらいに達しているかは、先達の僧侶によって評価され、認められなければなりません。 そして、それが悟りに値するものであると認められると、先達はそのことを書にしたためるなどして証明します。 それが、印可です。 しかし、印可は、修行を重ねていけば誰でも得られるというものではありません。 むしろ、いくら修行を重ねても、印可を得られないことが多いの [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(11) 若き住職の誕生
  •      若き住職の誕生 宮崎禅師(ぜんし)の師匠、小塩闇童(こしおぎんどう)老師は遺言状を残していた。 福田寺(ふくでんし)の住職を宮崎禅師に譲る旨が記されていました。 遺言状を見て、宮崎禅師は驚きました。そして、師匠が自分を後継者に指名してくれたことに感謝しました。 宮崎禅師は、師匠の死の5ヵ月後に、29歳の若さで福田寺の住職に就任したのです。 禅の世界では、住職に就任することを晋山(しんざん)と言い、 [続きを読む]
  • 11月の散歩
  •        11月の散歩 11月も一日10.000歩を歩くことができました。最近は、足が軽く感じるようになっています。嬉しいです。 ただし、2回(午前・午後)に分けて歩いています。1回で10.000歩は少し無理ですので・・・・   1(木) 11.444歩 自宅〜長田公園〜鶴林寺・加古川東岸まで    2(金) 13.210〃 自宅〜長田公園・自宅〜ブックオフ     3(土) 11.639〃 神戸布引の滝・ハーブ [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(10) 小塩師匠亡くなる
  •     小塩師匠の死 大学を中退した宮崎禅師は、再び京都の大徳寺に行きました。 27歳の時のことでした。 この時、宮崎禅師は、以前に大徳寺で修行をした時よりも、さらに一生懸命修行を行いました。 また、歴史ある大徳寺には、古い文献が数多く残されています。宮崎禅師は、連日、書庫を訪ねては、それらの古い文献を読みあさりました。 昭和4年5月23日、京都で修行を行う青年のもとに電報が届きました。 加古川からでし [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(9) 念願の学生生活
  •       念願の学生生活 大正10年、宮崎禅師は満年齢で20歳になり、徴兵検査を受けました。 この時期、宮崎禅師が戦地に赴くことはなく、そして三年間の軍隊生活を終えて24歳になった宮崎禅師は、僧侶として一人前になるための経験を積んでいました。 最初は、大正13年の夏に行った立職(りっしよく)でした。 禅寺には、百日修行といって、およそ三ヵ月間、雲水たちが寺に籠もって集中的に修行を行う慣わしがあります。そ [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(8) 坐禅をして何になるのか
  •      坐禅をして何になるのか 無断で寺を飛び出した弟子(奕保)に対して、小塩老師は罰を与えました。 それは、京都にある禅の大徳寺で修行をすることでした。 京都には臨済宗の寺が数多くありますが、中でも大徳寺には、坐禅修行を専心的に行う伝統がありました。 大徳寺に弟子を送り出すにあたって、小塩老師はこう言ったといいます。 「曹洞宗の坊主は、勉強・勉強と頭ばかりの仏法になって、只管打坐(しかんたざ) [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(7) 勉強がしたい
  •       勉強がしたい 保少年は、高等小学校の二年生の時に、得度をしました。これによって初めて正式な出家僧になりました。寺に入って4年後、15歳の時のことでした。 この得度の際に師匠から授かったのが、「突保(えきほ)」という僧名でした。 名前である「保」に加えた「奕」の字は、小塩師匠が尊敬していた明治の傑僧、諸嶽変堂(もろたけえきどう)禅師の名前からいただいたものです。 小塩老師は、弟子に立派な僧侶に [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(6) 小塩老師の教育
  •       小塩老師の教育 道元禅師が建立した永平寺は、厳しい修行の場でした。 雲水たちは、師の説法を聞き、坐禅を行い、道元禅師が中国の禅寺で学んだ作法に則って、僧侶としての規則正しい生活を送りました。 宮崎禅師が入門した福田寺も、まさに永平寺の修行と同じものでした。 小塩老師は、雲水が手を抜くことを絶対に許しませんでした。時には、拳骨もあったといいます。 宮崎禅師は、そんな師匠のことをこう振 [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(5) 余話:福田寺の層塔から
  •     余話:福田寺の層塔 稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。 研究者は、「鹿子の水門(かこのみなと)」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時(奈良時代)は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。 福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355?の花崗岩製層塔(写真)があります。 現在は十一重ですが、もとは十三重であった [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(4) 小塩闇童(こしおぎんどう)老師
  •    小塩闇童(こしおぎんどう)老師のこと 宮崎保少年が入門した福田寺は、小さいけれど非常に歴史のある寺でしたが、それが慶長年間(1595〜1615)に曹洞宗の寺になりました。 その顛末らしきことは、次回「余話」としてお話しましょう。 福田寺の本堂は、およそ三百年前、江戸時代に建てられたものです。 宮崎保少年がやって来た時、この寺の住職を務めていたのは、小塩闇童(こしおぎんどう)老師でした。 小塩老師 [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(3) 福田寺(ふくでんじ)に入る
  •    福田寺(ふくでんじ、現:加古川町稲屋)に入る 明治44年8月25日、少年の名前は宮崎保(たもつ)です。この時、尋常小学校の四年生であった。顔にはあどけなさが残っていました。 この日は夏休みでしたが、この日、住みなれた自分の家を出ました。 少年の家は、兵庫県加西郡(現・加西市)の地で32代、1200年近く続いた庄屋でした。  宮崎保少年は、その旧家の長男で、一人っ子でした。 少年は、この時、実は、両親と一 [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(2) 宮崎奕保さんを紹介する前に
  •      宮崎奕保さんを紹介する前に 宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのことを紹介したいのですが、詳しいことは知りません。 最初にお詫びとお断わりをしておきます。 「ちゃんと調べてから書け!・・・」というお叱りが聞こえてきそうです。 最初に種明かしです。 宮崎さんを紹介したいために、とりあえず宮崎奕保さんについて3冊の本を購入しました。 その内、石川昌孝氏の書かれた『坐禅をすれば善き人となる−宮崎奕 [続きを読む]
  • 宮崎奕保さんのこと(1) 宮崎奕保さんを紹介します
  •     宮崎奕保さんを紹介します 「ひろかずのブログ」の外にもう一つのブログ「ひろかずの日記」を書いています。 「ひろかずのブログ」は毎日アクセスが2.500ばかりあるのですが、こちらの方は100〜150のアクセスです。気楽に書いています。よろしかったら覗いてください。 11月5日号で、宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師について書きました。 ・・・きのう(11/4)『95歳まで生きるのは幸せですか(瀬戸内寂聴共著) [続きを読む]
  • 文観と後醍醐天皇(26) 南北朝正閏論・東播磨は「北朝方」 
  •  前号の続きです。 円福寺(東志方高畑)の本堂に向かって右隅に、(県指定文化財の宝筐印塔(ほうきょういんとう・写真)があります。宝筐印塔には康歴元年の銘が刻まれています。      北朝年号(康歴元年) 「康歴元年(1379)」は、南北朝時代の北朝年号で、南朝年号では天授五年です。 赤松四代当主・義則が赤松家所領の五穀豊饒を願い、また「一結衆」とあるところから赤松一族の安寧祈願、さらに赤松一族の供養塔 [続きを読む]