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なかちゃんの断腸亭日常 https://blog.goo.ne.jp/nakachan69

作家永井荷風の日記文学「断腸亭日乗」を模してこのタイトルにしました。断腸花は秋海棠の別名、日乗は日誌

なかちゃんの断腸亭日常
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2014/12/09

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  • 伊予散歩(3)~村上海賊の能島城跡(2021 4 11)

    カレイ山展望台から能島(左)と鯛埼島(右)宣教師ルイス・フロイスが”日本最大の海賊”と云わしめた村上海賊。戦国時代に因島、来島、そして能島の三島村上を統率したのが村上武吉(たけよし)だ。彼の居城・能島城は、岩礁と急流で守られた天然の要害となっている。青い海と大小の島々が織りなす景観は素晴らしいが、容易には近づけない海城だ。そんな能島の上陸と潮流クルーズを体験してみた。〈その1能島城跡〉能島は芸予諸島の大島と鵜島の間に浮かび、周囲約846mの無人島だ。南側に小さな鯛埼島を従え、周囲は激しい潮流で洗われる岩礁で囲まれている。宮窪港を出港した観光船は、舳先を持ち上げ、一気にスピードを上げる。正面から吹き付ける春風が心地よく、あっという間に能島沖合いに到着する。海面は激しい潮がぶつかり合い、うず潮やわき潮が荒れ狂...伊予散歩(3)~村上海賊の能島城跡(2021411)

  • 近江・越前散歩~賤ヶ岳の戦い 他(2020 11 15)

    北近江の賤ヶ岳から望む余呉湖天正11年(1583)4月、信長と光秀亡き後、この山域で柴田勝家と羽柴秀吉が激突。賤ヶ岳の戦いと云うと「賤ヶ岳の七本槍」の活躍が有名だが、秀吉の勝因は戦う前の圧倒的な起動力にあった。大垣から木之本へ5時間で52キロを疾走するという離れ業は、柴田軍にとって予想だにしない出来事だった。秀吉は本能寺で主君信長の死を知ったとき「中国大返し」やってのけているが、大部隊の迅速な大移動は2例目になる。この戦いは勝家軍内の身勝手な作戦や与力の戦線離脱で、徐々に追い込められ、勝家は満身創痍となって居城の越前北ノ庄城へと逃げ帰った。そして城を包囲された彼は最期を覚悟したのか、少なくなった家臣団と最後の酒宴を開き、天守を大量の火薬で爆破させ自刃する。享年62歳だった。そんな北近江の賤ヶ岳と越前の北ノ庄城跡...近江・越前散歩~賤ヶ岳の戦い他(20201115)

  • 越前散歩~光秀と越前(2020 11 14)

    朝倉館跡生年も出自も判然としない明智光秀。何年の生まれかについては、同時代の史料がないため確定できない。江戸初期から中期に書かれた『明智軍記』や『当代記』によると、享年は55歳と67歳の二説ある。近年では67歳説が有力のようだが、人生50年と云われた当時、そんな高齢で本能寺と山崎の戦いという大争乱をやってのけるかという疑問が残る。また出自は美濃の名門・土岐氏の出身とされるのが一般的だが、裏付けとなる史料はなく、美濃出身の光秀が勝手に明智姓を名乗っていた可能性もある。彼の名が史料で確認できるのは、永禄10年(1567)頃からで、前半生は未だに謎に包まれている。美濃を追われた明智一族は越前で10年暮らしていたと云う。光秀が仕えていた朝倉氏の一乗谷などを訪ねてみた。〈その1一乗谷朝倉遺跡〉足羽川(あすわがわ)の支流・...越前散歩~光秀と越前(20201114)

  • 丹波散歩~光秀の丹波攻め(2020 9 27)

    福知山城丹波の国はたくさんの山と谷が複雑に入り込んだ地形だ。そこに多数の国人衆が勢力を競い合い、統治が極めて難しい地域だった。特に「丹波の三大要害」と云われた八上城、八木城そして黒井城の豪族は離合集散を繰り返していた。信長が光秀に丹波攻めを命じたのは天正3年(1575)6月。あくる月には惟任(これとう)の名字を与えられ、日向守(ひゅうがのかみ)となった光秀は、まず丹波最大の有力豪族・赤井(荻野)直正の黒井城を攻めた。しかし味方の寝返りで総崩れとなり余儀なく撤退する。以降光秀の丹波平定は、4年の長い歳月を要する厳しい戦いとなる。そんな丹波に点在する黒井城、八上城そして平定のシンボルとなった福知山城を訪ねてみた。〈その1黒井城跡〉NETからの画像舞鶴若狭自動車道の春日ICを下り、R483を2キロほど西進すると、右手...丹波散歩~光秀の丹波攻め(2020927)

  • 讃岐散歩(3)~讃岐の西行法師(2020 7 26)

    第75番札所の総本山善通寺”心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ”(新古今集・巻四)(世捨て人である私が感じ取ったこの感動を、和歌の言葉で伝えたい。鴫の群れが飛び立った羽音の轟く沢辺に、秋の夕暮れが寂しく訪れる)白峯寺にある崇徳天皇陵を訪ねて以来、すっかり西行法師(1118~90)に魅了されてしまった。彼の歌は心象と情景が見事に融合し、なおかつ900年近く経った今でも、冒頭の歌のように解かりやすい。選ばれたひとつひとつの言葉は、まるでコルトレーンのバラードのように、心のひだに沁み込んでくる。73年間の生涯で2千首を越える和歌を残し、彼の死後編纂された新古今和歌集には、堂々の第1位の94首が選ばれている。御所を警備する北面武士だった彼は、23歳のとき突如妻子を残し出家。32歳で高野山に入山す...讃岐散歩(3)~讃岐の西行法師(2020726)

  • 讃岐散歩(2)~讃岐の崇徳上皇(2020 6 27)

    81番札所白峯寺境内保元の乱(1156)で京を追われた崇徳上皇。讃岐に配流された8年間は凄まじいほどに憐れだ。彼は寝ても覚めても京を想い、近くを流れる綾川を鴨川と云い、東に見える五色台を東山と呼んだ。訪ねて来る人はほとんどなく、寂しさのあまり写経に没頭するものの、それはやがて血でしたためた血書経となる。仏事で心中鎮まるどころか、怨恨と怒りに満ちた大悪魔へと凶変し、髪は伸び放題、爪も切らず、生きながらにして恐ろしい天狗の姿になっていった。そんな壮絶な日々を送った讃岐に残る崇徳院の史跡を訪ねてみた。(※崇徳天皇、崇徳上皇、崇徳院など色々表記方法はありますが、以降崇徳院に統一します)〈その1松山の津〉”浜ちどり跡はみやこへかよへども身は松山に音(ね)をのぞみなく”(崇徳院)(浜千鳥の足跡は岸辺に、私の筆跡をしたためた...讃岐散歩(2)~讃岐の崇徳上皇(2020627)

  • 近江散歩(5)~光秀と坂本城跡他(2019 11 30)

    天正2年(1571)9月12日、信長は比叡山焼き討ちを決行する。信長公記によると「一棟の建物も残さず、ひと時の間に雲霞のように焼き払った」とあり、「一人残らず首を打ち落とされ、目も当てられない惨状となった。数千人の死体が散乱し、哀れなことであった」と記されている。光秀はこの焼き討ちの武功で、信長から近江滋賀郡を与えられた。即刻、織田軍の上洛の拠点になっていた宇佐山城に入り、軍団内では初めての城持ち大名になった。翌年には湖岸に坂本城を築き、ナンバー2としての地位を確固たるものにした。このとき光秀は45歳、順風満帆の時期だった。そんな南近江の坂本の街を訪ねてみた。〈その1坂本城跡〉大津から国道161号線を右手に琵琶湖を見ながら北上。近江八景のひとつ「唐崎の松」を過ぎると、小さな城址公園がある。想像以上にこじんまりと...近江散歩(5)~光秀と坂本城跡他(20191130)

  • 近江散歩(4)~浅井長政と小谷城跡ほか(2019 11 9~10)

    天正元年(1573)9月1日、織田軍の総攻撃を受けた浅井長政は、小谷城落城とともに自刃。享年29歳の若さだった。戦国一の美貌と云われた信長の妹・お市の方は、3人の娘を連れて難を逃れた。お市26歳、長女茶々は4歳、二女お初は3歳、そして三女お江は生まれたばかりだった。当初は信長による政略結婚だったが、長政とお市は仲睦まじく比翼連理の夫婦だった。落城寸前にはどんな言葉を掛け合ったのだろうか?愛する妻と子供を逃がし、最後まで勇敢な武将として戦った長政の姿は、美しくそして無念と云うしかない。〈その1小谷城跡〉浅井三代の居城・小谷城。長政の祖父・亮政(すけまさ)が築城し、北陸道と中山道の要所を押さえた戦国最強の山城だ。標高495mの頂上からU字型に派生した二つの尾根上に、棚田のように何段にも曲輪が造られている(特に...近江散歩(4)~浅井長政と小谷城跡ほか(2019119~10)

  • 安芸・奈半利散歩~マルモッタンほか (2019 7 5)

    〈その1モネの庭・マルモッタン〉睡蓮をこよなく愛したクロード・モネ(1840~1926)。43歳のとき北フランスのジヴェルニーに移り住み、亡くなる86歳まで約200点の睡蓮画を残している。アトリエのある庭に、セーヌ川の支流から水を引き込み、創作以外の時間は池や庭の手入れに余念がなかったようだ。そんなモネの庭を再現したのが高知県北川村のマルモッタン。マルモッタンとは、モネ作品の世界最大コレクションで知られる美術館名から取られ、世界で唯一「モネの庭」の名称が本家より許可された施設だ。広い庭は駐車場をはさみ、花の庭、水の庭、光の庭の3エリアに分かれている。特に水の庭は池自体がキャンバスのようで、どこを切り取っても名画のようだ。池には小さな橋が架かり、周遊する遊歩道には花棚やベンチが絶妙に配置されていて、モネの見...安芸・奈半利散歩~マルモッタンほか(201975)

  • 尾張・美濃散歩(2)~信長の諸城(2019 4 27)

    山麓から望む岐阜城桶狭間の戦いで鮮烈なデビューを果たした信長は尾張をほぼ平定。1562年には三河の松平元康(後の徳川家康)と軍事同盟を結び、東方からの威嚇をなくした信長は、本格的に美濃侵攻に乗り出すことになる。そして翌年にはより美濃に近い小牧山に築城し、拠点を清洲から小牧山城に移した。信長の城造りはこの小牧山城から始まり、岐阜城そして安土城で完成をみる。最初入城した清須城は、屋敷が並立的に建てられた既存の館城(やかたじろ)だったが、この小牧山城以降は、権威と権力を核にした求心的な城になっていく。家臣団を城下に住まわせ、同時に尾張の首都機能をもち合わせた城下町も発展させていくことになる。〈その1小牧山城〉名古屋市内から頭上に高速道路を見ながら国道41号線を北上。右手に低い丘にある天守が見えると、ナビは城郭の...尾張・美濃散歩(2)~信長の諸城(2019427)

  • 尾張・美濃散歩(1)~信長と桶狭間(2019 4 26)

    『人間五十年化転(けてん)のうちにくらぶれば夢幻のごとくなりひとたび生(しょう)を受け滅せぬ者のあるべしや』謡曲『敦盛』天文3年(1534)に生を受け、天正10年(1582)に本能寺で自害した信長。口癖のように唄いかつ舞った敦盛のごとく、その人生は戦さの絶えない波乱万丈の50年だった。戦国時代の革命児と云ってしまえば早いが、彼の残した政治上の改革や自由経済への移行などの業績は大きい。また一方で性格的に見た場合、色々な欠点を持ち合わせていたのも事実だ。合理的で実証的な性分をプラス面とすれば、傲慢や残虐性、そして猜疑心の強さなどのマイナス面は常軌を逸している。そんな信長に従う家臣団は常に戦々恐々としていただろう。もしタイムスリップできるなら、本能寺を決断した光秀に会い、信長のどんな言葉や行為が許せなかったのかぜひ聞...尾張・美濃散歩(1)~信長と桶狭間(2019426)

  • 伊予散歩(2)~坂の上の雲を訪ねて(2018 5 20)

    司馬先生は『坂の上の雲』を書き終えたとき、「私は寒村の駅長に過ぎず、つぎつぎに通りすぎてゆく列車たちを送ったり、車掌から物をうけとったり、列車の番号と通過時刻を書類に書き込んだりする役目にすぎなかった」と語っている。また『龍馬がゆく』とこの作品だけは、数万人以上とつき合った感があるとも告白している。確かに登場人物は多い。三国志並みの多くの人間が次々と現れては去っていく。彼らを通過する列車にたとえ、ひとり残された駅長の心情がひしひしと伝わってくる。それは高く苦しい山の頂きにやっと立てた達成感というよりも、どうしても立たなければならないという天命からの開放感かもしれない。この作品は昭和43年4月からサンケイ新聞夕刊に5年半連載されたが、資料集めとその読み込みで、4年以上の準備期間が必要なほど濃厚な作品だ。先生の40...伊予散歩(2)~坂の上の雲を訪ねて(2018520)

  • 5つの秘境駅を訪ねて~芸備線と伯備線(2018 4 21)

    思い立ったらどうにもとまらない。山あいを蛇行しながら、トンネルをくぐり橋梁を渡るJR路線図を見ていると、どうしてもその場に行ってみたくなる。中国山地のほぼ中央、岡山県、広島県そして鳥取県が接する山深い場所に、秘境駅は集中している。広島駅と備中神代(こうじろ)駅を結ぶ芸備線、倉敷駅と伯耆大山駅を結ぶ伯備線は、自然豊かな山岳地帯で列車の走る見事な景観を見せている。〈その1内名駅〉東條の町から国道314号線を北上。カーナビに従い途中から右折する。さらに脇道に入ると対向もできない細い山道になる。民家は一軒もなく、道の両側は新緑の木々で覆われている。どうやら小高い峠を越えているようだ。この道で本当に合っているのか?と疑いつつ更に車を進めると、やっと小さな山村が見えてきた。その中を流れる小川の橋を渡ると、高台になった土手上...5つの秘境駅を訪ねて~芸備線と伯備線(2018421)

  • 津山散歩(Part 2)~鉄道館とJR因美線(2018 3 31)

    〈その1津山まなびの鉄道館〉中国山地で新見と三次と並んで交通の起点となっている津山駅。姫路と新見を結ぶ姫新線、岡山と結ぶ津山線、そして鳥取と結ぶ因美線が交わり、3路線4方向の列車が乗り入れている。全路線非電化のため、列車はすべてキハ系の気動車だ。駅前に置かれたC型蒸気機関車が印象的。津山市はお城と鉄道をメインの観光スポットにしているだけに、車体はピカピカに磨き上げられている。駅前に展示された機関車はよく見かけるが、これほど手入れの行き届いた車両は見たことがない。これに比べ、以前見た旧出雲大社駅に置かれた機関車ほど哀れな姿はない。旧出雲大社駅の蒸気機関車(2016年11月12日撮影)駅の南側にある「津山まなびの鉄道館」には、扇形機関車庫と転車台が現役の姿で保存されている。京都の梅小路蒸気機関車館に次ぐ全国2番目の...津山散歩(Part2)~鉄道館とJR因美線(2018331)

  • 津山散歩(Part 1)~津山城跡・鶴山公園(2018 3 31)

    お城と満開の桜ほど見事なコラボはない。「日本のさくら名所百選」に選ばれている津山城跡・鶴山(かくざん)公園。下から見上げると、青い空の下で、白い櫓と淡いピンクの桜が神々しいほどに映えている。長い階段を上ると、公園入口横に森忠政公(1570~1634)の銅像。この城と城下町を本格的に建設した戦国大名だ。忠政は本能寺の変で信長の盾となって討ち死にした森三兄弟(蘭丸、坊丸、力丸)の弟。「待てよ!森蘭丸にまだ兄弟がいたのか?」と思い、調べてみると忠政は6人兄弟の末っ子だった。1582年の本能寺のとき忠政はまだ12歳の少年で、まだまだ信長の正式な家来になる年齢には達していなかった。その後、秀吉政権下では忠勤に励み羽柴姓を得て、関ケ原の時には家康の嫡男・秀忠軍のもとで、真田上田城の攻略で戦功をあげている。その論功行賞として...津山散歩(Part1)~津山城跡・鶴山公園(2018331)

  • さよなら!JR三江線(2018 3 25)

    JR三江線は広島県三次(みよし)市と島根県江津(ごうつ)市を結び、営業キロ数は約108㎞。路線が並走する江の川(ごうのかわ)は、三次から北上するものの三瓶山(さんべさん)山域で進路を阻まれ、粕渕(かすぶち)付近で大きく蛇行している。流れは南西に向きを変え、そのまま日本海沿いの江津市に流れ込んでいる。108㎞の路線は一度に開業したのではない。1930年(昭和5年)に一部区間から始まり、1975年(昭和50年)に全通しているから意外に新しい。開通当初から利用状況はあまりよくなく、昭和62年の平均通過人員458人が、平成28年には83人にまで落ち込んでいる。何度も赤字路線として話題になり、とうとう2018年3月31日をもって廃線の憂き目を見る。江の川河岸を切れこむように走る三江線。たくさんの鉄橋とトンネルが織りなす景...さよなら!JR三江線(2018325)

  • 古事記の山歩き(3)~三瓶山と国引き神話(2017 10 1)

    島根県の三瓶山(さんべさん)は今も活火山、約4千年前の最後の噴火で現在の地形ができ上がったという。「室の内池」と呼ばれる火口湖を四つの峰が取り巻いている。その一番高い峰が標高1126mの男三瓶山(おさんべさん)、二番目が子三瓶山、そして三番目が女三瓶山(めさんべさん)だ。それらを繋ぐ尾根道は場所によっては険しいが、四つの登山口と各峰の周遊道の組み合わせはバラエティに富んでいる。例えば、北の原から男三瓶山のみを上り下りすれば初心者向きのルートだが、子三瓶山や女三瓶山などを周遊すればかなりの距離になり、上級者向きのルートになるだろう。初めての三瓶山、「青少年交流の家」のある北の原から登ってみた。〈その1男三瓶山〉交流の家の広い駐車場に車を置き、深い森に包まれた登山道に入る。残暑厳しい平地とうって変わり、森の吐き出す...古事記の山歩き(3)~三瓶山と国引き神話(2017101)

  • 古事記の山歩き(2)~比婆山&吾妻山(2017 09 09)

    吾妻山から見た烏帽子山(左)と比婆山御陵(右)『そこで、その神避(かむさ)りたもうたイザナミは、出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺の比婆の山に葬ったのじゃった。』(口語訳古事記「神代編」/三浦佑之訳)四十柱の神々を産んだイザナミは、火の神・カグツチを産むと死んでしまう。カグツチに女陰を焼かれ、帰らぬ人となってしまった。イザナキは大いに悲しんだ後、比婆の山に葬ったとある。イザナミの埋葬地は出雲をはじめ全国にあるが、そのひとつの比婆山(1264m)は通称「御陵」と呼ばれている。比婆山系には9つの峰があり、その東西の稜線は広島県と鳥取県の県境上を走っている。その一角の比婆山は広島県に属し、なだらかな山域はブナの豊かな純木で覆われている。登山口はそれぞれの峰にあるが、メインの「広島県民の森センター」から登ってみた。〈そ...古事記の山歩き(2)~比婆山&吾妻山(20170909)

  • 古事記の山歩き(1)~船通山(2017 7 16)

    『さて、遠ざけられ追われたスサノヲは、出雲の国の肥の河のほとり、名は鳥髪というところに降りてきたのじゃった。』(口語訳古事記神代編・三浦佑之訳)奥出雲の船通山はスサノヲノミコトが降臨した山。古来「鳥上(髪)山」とも呼ばれている。肥の河は現在の斐伊川のことで、標高1142mの船通山を源流としている。斐伊川は全長153km、奥出雲の山間を蛇行しつつ宍道湖に流れ込んでいる。しかし古代では島根半島西方の日本海に流れ、本流を西から東方向へと変更した大工事は江戸期になされたようだ。登山口は島根県側から2本、鳥取県側から1本あり、私は由緒ある島根側の鳥上コースをたどってみた。春の頂上はカタクリが咲き乱れ、開花時には多くの登山者で賑わうようだ。小さな駐車場はすでに満杯、身支度を終えたパーティが次々と登っていく。斐伊川の渓流沿い...古事記の山歩き(1)~船通山(2017716)

  • 因幡散歩~青谷上寺地遺跡・鳥取城跡 ほか(2017 7 2)

    鳥取城跡から湖山池〈その1青谷上寺地遺跡〉米子自動車道湯原ICをおり、一般道で倉吉に出て、海岸沿いの9号線を東進。途切れ途切れながらも無料区間の山陰道はありがたい。遺跡のある鳥取県青谷町は、三方から山のせまる海沿いの小さな町だ。しかし歴史は古く、平安時代の『延喜式』に登場し、因州和紙の製造地として記されている。江戸期には藩の御用紙とされ、宿場町としても栄えたらしい。この青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が発見されたのは、平成10年の国道9号バイパスの建設工事によるものだった。そのため弥生集落の遺跡は、道路に平行するように発掘されている。現場に立ってみると、住宅のせまる何カ所かの空き地に青いビニールシートが被せられ、まだまだ発掘は続いているようだ。ここから発掘されたものは「地下の弥生博物館」といわれるだけあって、土...因幡散歩~青谷上寺地遺跡・鳥取城跡ほか(201772)

  • 出雲散歩(5)~古墳・遺跡を訪ねて(2017 6 10)

    〈その1西谷墳墓群〉「よすみ」と略される「四隅突出型墳丘墓」は、出雲独特の墳墓だ。弥生時代終末の2世紀頃から500年間も作られ続け、代々の出雲王の眠る墓だと考えられている。到着したのは朝10時。隣接する出雲商業高校の野球グランドでは、ちょうど練習試合が行われていて、墳墓の小高い丘の上まで観衆の声援が響きわたっている。丘はグランドの外野席のような位置にあって、応援する数人の父兄の姿もある。墳丘墓は大小6つの墓が南北に繫なっていて、山から派生した小さな尾根上にある。大きなもので一辺40mあり、土俵を高く大きく盛ったような形をしている。そして最もユニークなのが、名称にもなっている四隅の突出だ。ヒトデの上半分を切り取ったような形をしていて、突出した四隅は墓上に上がる道らしい。登り道であれば辺からの道も考えられそうだが、...出雲散歩(5)~古墳・遺跡を訪ねて(2017610)

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