しろみ茂平の話 さん プロフィール

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しろみ茂平の話さん: しろみ茂平の話
ハンドル名しろみ茂平の話 さん
ブログタイトルしろみ茂平の話
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/mobira
サイト紹介文「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供140回 / 365日(平均2.7回/週) - 参加 2014/12/11 07:40

しろみ茂平の話 さんのブログ記事

  • トト道
  • 管理人は半農半漁の村に育ったので、生魚を食べる機会は多かったが、それは商品にならない雑魚を意味する。年に何度か?母が「ブエン(無塩)じゃ」と嬉しそうに料理していた。日本人が無塩の魚を食べれるようになったのは、冷蔵庫が普及した、高度経済成長後と思われる。それまでは年に1〜2度、慶事に食べるものだった。ところで金浦の魚は何処が市場だったのだろう?金浦から井原・芳井・高山に売られていたと思うが、市内の新山 [続きを読む]
  • 祖父母の下着
  • 明治20年代後半に生まれた祖父母が着ていたもの。祖父は1990年代に亡くなったが、パンツでなくフンドシだった。子供の頃、父はなぜフンドシでないのだろうと思っていた。祖母は、亡くなるまでお腰(オコシ)だった。ズロースは、はかなかった。トイレは家でも畑でも立ってしていた。 [続きを読む]
  • 明治時代の結婚式は夜に
  • 管理人のひいひい祖母さんは、戦時中に98才で亡くなったが結婚式は提灯行列で嫁入りした。1846年生まれなので、20才前頃かな? 1865〜6年頃、明治維新の直前頃の式と思える。その夕方〜夜の婚礼は明治末ごろまでつづいたようだ。昭和17年、母はタクシーで嫁入りしたそうだから昼の婚礼になる。「奥津町の民族」2004年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxx昔の挙式は「夜10時にした」というように夜であった。予定 [続きを読む]
  • 「満州育ちのぼくが考える」
  • 2018年10月2日の山陽新聞文化欄に下記の記事が載った。「満州育ちのぼくが考える」山田洋次xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx山田洋次 1931年生まれ。旧満州で育つ。(映画監督)1930年代の終わり、8歳のぼくが初めて見た日本の印象は今も鮮明である。港や町の通りに人がいっぱいいる。「あの人たちはみんな日本人?」波止場をよくみると大きな麻袋を背負ったり、半裸の姿で思い大八車を引いたりする人たちがいる。「あ [続きを読む]
  • 小3の春②チャンバラ遊びと山形勲
  • 男の子はチャンバラ。漫画も映画も、見るのはチャンバラ。ラジオは、浪曲もドラマも時代劇。パッチンの図柄も時代物。遊びはチャンバラごっこ。棒きれを片手に斬りまくる。宮本武蔵や鞍馬天狗や赤胴鈴之助・・・・。しかし相手がいる。悪者で斬られ役が必要になる。それが山形勲。東映時代劇の半分は、最後に悪役の山形勲が斬られて終わる。斬られる際、鼻をぴくぴくさせながら倒れる。映画は、正面から写さず少し横顔で鼻の動きを [続きを読む]
  • 小3の春②初めてのソックス 
  • 冬の朝。火の見櫓から近いところ(豆腐屋の前)に集まり集団で学校に行っていた。大人も子供も「豆腐屋」と呼んでいたが、豆腐を作っていたのは戦前のことらしい。そのトーフ屋のおばあさんが、冬の朝は焚火をしていた。子供も焚火に当りながら全員集合するまで待っていた。ある日、頼んだわけではないが母がナイロンで作った足にはくものを買ってきた。さっそく翌朝にナイロンのはきものをして登校することにした。集合場所では、 [続きを読む]
  • 小3の春①芦田川 
  • 笠岡に川と呼べるほどの川は無いが、更に茂平には飛べば渡れる川しかなかった。福山城から明王院へ行けば、すぐ前に大河が流れていた。生徒全員が芦田川の大河に驚いた、こんな大きなものが川だろうか?先生が「川」と言っているから、川に違いない。明王院の五重塔を見学して、生徒たちは芦田川に下りた。河原には、砂やきれいな栗石があり、平べったりした栗石を川面に投げた。石は5回、6回、7回、ほど川面を打ちつけてから沈ん [続きを読む]
  • 満蒙問題
  • 民間人として満州に行ったおば(父の妹)は、「(日本人は)偉い思うとったから、戦争に敗けたらその反動が全部でた」と話していた。軍人として中国に行った父は「悪いことをしただけでなく、良いこともしとる。例えば道路を造ったが、今でも使っているはずじゃ」と”悪いこと”をした思いを持っていた。しかし例えば戦後に、満州開拓団は被害者という面からでしか語られていない。戦前・戦中を被害意識でしか見ない今の史書は、他 [続きを読む]
  • 軍隊が置かれた城
  • 明治維新でお城は政府・兵部省の所有となり、明治5年に陸・海軍省発足で陸軍省が所有となり、翌明治6年に軍の使用予定がない城は廃城令が出た。廃城令が出た城は財務省が管理し、学校・役所等使用で売却することになった。中国四国では、津山城・福山城・三原城・萩城・今治城・高知城などが廃城となった。「日本の城1000城」西東社 2012年発行より転記。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx軍隊が置かれた城 [続きを読む]
  • 尼港事件--「平和をたずねて」より
  • 尼港事件(1920)から98年経った新聞記事を記録しておく。「平和をたずねて」毎日新聞 2018年8月21日より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx日本の徴兵制は本籍地主義だったことから、部隊の全滅は町や村の戦没者を一気に増やし、男性の人口を減らした。尼港事件では歩兵第2連隊(水戸)第3大隊がそうだった。連隊の犠牲者307人中281人が茨木県の出身者で占められた。在郷軍人会が水戸市 [続きを読む]
  • 軍神西住戦車長のこと② 「西住戦車長伝」
  • 徐州会戦を舞台の小説に日野葦平の「麦と兵隊」があり、菊池寛には「西住戦車長伝」がある。麦と兵隊には文学作品の匂いがあるが、西住戦車長伝は、いかにも英雄ムードの最中に世にせかされて書かれた感がする。「菊池寛全集」より「西住戦車長伝」平成7年 高松市発行・発売文芸春秋より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx発端戦車隊を率いて、上海戦を初めとし、南京、徐州の攻略戦に参加した細見大佐は、 [続きを読む]
  • 文化財の海外流出
  • 文化財や美術品の海外流出は、たいはんが明治維新後の「西洋志向」や「廃仏毀釈」の時と思っていたが、実際はかなり広範囲の時代、しかも現代までわたっているようだ。週刊新潮・2018年7月26日号より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx誰が「国宝を流出させたか」 ボストン美術館の「平治物語絵巻」は、フェノロサが道具商から言い値の倍で買った。「吉備大臣入唐絵巻」は昭和8年、ボストン美術館の東洋部長 [続きを読む]
  • 軍神西住戦車長のこと①
  • 父は昭和13年5月12日に宇品から天津に着いた。天津からは済南に向かい、5月15日に戦場へ到着、赤柴部隊長に拝謁、配属された。以後徐州戦から漢口戦まで戦線に居た。絵本や映画になった西住戦車長は5月17日に徐州戦で戦死している。部隊は違えど、同じ徐州戦争に3日間、戦さ時間を共有していたことになる。父は生前、戦車隊のことも”軍神西住戦車長”のことも話したことはない。おそらく関係も関心もなく、軍神のことも知らなかっ [続きを読む]
  • 従容として悠久の大義に生きる悦びとすべし
  • ふくろうの本「玉砕の戦場」河手書房新社2004年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx日本民間人16.000人も自決し、かつ日本軍に殺されたマリアナ諸島の修羅場昭和19年6月19日、日本の機動艦隊が大いに自信をもってのぞんだマリアナ沖の海戦は完敗だった。空母や航空機以外の兵器で日本軍の予想もできないほど大差がついていたからだ。アメリカ軍は優秀なレーダーを備え、航空部隊が米空母上空に到着す [続きを読む]
  • 一兵となるまで陣地を固守し、増援部隊来着まで本島を死守せよ
  • 大戦で亡くなられた将兵は、その亡くなられ方が悲しい人が大半だ。ふくろうの本「玉砕の戦場」河手書房新社2004年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxタワラ島の玉砕昭和18年、日本は広げすぎた戦線を縮小した。中部太平洋の東はトラック諸島までとした。ブーゲンビル島はもとよりラバウルも防衛線から外された。東部ニューギニアも外され、西部ニューギニアを守るべき地域とした。通常 [続きを読む]
  • 笠岡商業に行く予定が笠岡工業へ
  • 以下は、散歩の雑談 2018.6.9 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx私は昭和7年生まれです。笠岡商業に行こうと思っとりましたが、戦争中なんで商業が廃止され工業へ行きました。6年が終わり、試験を受けてどうにか通りました。戦争中なんで、空襲警報が鳴ると学校のグランドの下に水路があるんです。谷から降りて来る、それに駆けり込みょうりました。そしたら半年で終戦になりました。戦争が終わると、あちこち分散し [続きを読む]
  • ポツダム〜新型爆弾投下〜ソ連参戦
  • ソ連大使はとんだピエロをやらされた。仁科芳雄博士は確認のため広島に飛んだ。「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防紀」新潮社より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxソ連、参戦へポツダムから、スターリンとモロトフがモスクワに帰着したのは8月5日だった。佐藤大使は、すぐさまモロトフに会見を申し入れた。モロトフは、8月8日午後5時(日本時間午後11時)を指定した。昭和20年8月6日午前8時15 [続きを読む]
  • 石工(いしく・せっこう)
  • 子供の頃、山を開墾して段々畑を作っていた。開墾で出た小石を積み上げて石垣にしていた。「庄原の歴史 通史編」より転記する。xxxxxxxxxxxxxx石工石工にはおよそ三通りの種別があり「石採(いしとり)工)と「石彫(いしほり)工」と「石積(いしつみ)工」である。ここでは「石彫工」を中心に記述してみる。和泉国の石工が遠路庄原に来て、この地方の人が技術を覚えたのは幕末近くなってからであろう。江戸時代に [続きを読む]
  • 明治維新後
  • 「三原市史・第二巻」より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx維新後の三原町明治3年、正月4日の初寄合での協議内容によると、(1)町では近頃物価高になり、商売も少なく、みんな困窮しているのに、役所へ上納する間内銀は三倍増となり、時の相場で米で立て替えて上納することになった。(2)米値段はことのほか銀高になり毎年調達するのに困っており、取り揃えも容易ではなく、手元で立て替えて支払い、あとから未 [続きを読む]
  • 新制高校の誕生
  • 「流れる おかやま百年」  昭和42年1月 山陽新聞発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx新制高校の誕生23年には新制高校、教育委員会制度が生まれ、PTAも各校に設けられた。総司令部は総合化と男女共学、学区制を指導した。旧制中学をそのまま新制高校とし、21年までの入学生は付設中学に収容、24年8月から県立51校、市立3校、計54校を県立35校に統合した。旧岡山一中と二女が統合さ [続きを読む]
  • 満州の日本人
  • 管理人のおば(父の妹)は、結婚と同時に満州に嫁いだが、おばが話す満州吉林市の生活は、ほぼ下記の本の記述に重なる。おばたち満州の日本人は、全員が満州にとどまることが出来なかった。それほど、日本人は嫌われていた。「いのちと帝国日本・14」小学館2009より転記する。それにしても、昭和初期の「婦人公論」は、内容が冷静で、かつ出版も可能だったことにも驚く。zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz南 [続きを読む]
  • 甘港事件
  • 「いのちと帝国日本・14」小学館2009年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx駐留し続ける日本軍に対する潜在的な恐怖が、ニコラエフスク(甘港)事件という惨劇を引き起こす遠因となった。1920年(大正9年)5月、獄中にとらわれていた日本人130名(うち居留民12名)が殺害され、市街に火が放たれ尼港は焦土と化し、600名を超す日本人が犠牲になった。事件の直後、7月10日に出版された溝口白羊著「尼 [続きを読む]
  • シベリア出兵
  • シベリア出兵より日本軍が狂い始めたような気がする。「いのちと帝国日本・14」小学館2009年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxシベリアの沿海州やアムール州には多くの日本人が居住し、またそれを上まわる数の中国人や朝鮮人が住んでいた。ロシア人のほかに北方少数民族もあわせ、複数民族社会の様相を呈する地域だった。シベリアにも1917年の10月革命の波が年の瀬に押し寄せて来た。1918年1月、 [続きを読む]
  • 墓地
  • お墓には、個人墓や共同墓地やお寺の墓地がある。庄原では共同墓地化で火葬が増えたとあるが、笠岡では昭和40年頃まではほとんどが土葬であったような気がする。終わったのは昭和50年代と思う。「庄原市の歴史 通史編」より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx埋葬地共同墓地は、一般には新しい墓が多い。明治中期からのものがほとんどである。広島県は明治25年、一定の場所に墓地を設けさせ、利用 [続きを読む]