しろみ茂平の話 さん プロフィール

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しろみ茂平の話さん: しろみ茂平の話
ハンドル名しろみ茂平の話 さん
ブログタイトルしろみ茂平の話
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/mobira
サイト紹介文「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供114回 / 365日(平均2.2回/週) - 参加 2014/12/11 07:40

しろみ茂平の話 さんのブログ記事

  • 南京大虐殺③ 極東軍事裁判
  • 下記の本から転記する。「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx極東軍事裁判における南京大虐殺判決1937年12月初めに、松井の指揮する中支郡派遣軍(中支那方面軍)が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するため残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。中国軍は、この市を防衛するために約 [続きを読む]
  • 南京大虐殺② 国内の報道
  • 南京虐殺に関して一般紙は報じていないと思っていたが、中外商業は記事にしている。当時の中外商業は東洋経済と並び冷静さを保っていたようだ。下記の本から転記する。「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx南京、市民避難で「市の町」となる(12・11・24)ニューヨーク22発南京からの報道によれば、抗日の牙城南京が日本軍の攻略するところとなるは [続きを読む]
  • 日中戦争と郷土部隊⑥銃後の組織化 岡山県史近代Ⅲ
  • 岡山県史近代Ⅲより転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx赤柴部隊の独流鎮の戦いの報道が、県民に伝えられている最中の、8月24日だけの記事のなかにも、凝縮して現れている。まず、県知事以下県会議員が先頭になって「国威宣揚」「皇軍武運長久」の祈願を行う。吉備津神社。総社町 帝国在郷軍人会吉備郡連合分会主催、郡下各町村分会長会を開催。在郷軍人会を中心に市町村や警察が乗り出して、各地域 [続きを読む]
  • 日中戦争と郷土部隊⑤戦争報道 岡山県史近代Ⅲ
  • 岡山県史近代Ⅲより転記する。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx赤柴部隊の天津から徐州を経て武漢への、果てしない行軍は、そのまま、戦争目的もあいまいなまま、ズルズルベッタリに、戦争に深くのめり込んでいく日本の姿そのものであった。合同新聞は「仰げ護国の人柱 碧血に輝く郷土将兵の偉勲」「あゝ○○大尉 我が赤柴部隊に鳴る勇猛果敢」と大きく報道した。岡山市の留守宅を訪れると、夫人は流石に [続きを読む]
  • 日中戦争と郷土部隊④赤柴部隊 岡山県史近代Ⅲ
  • 岡山県史近代Ⅲより転記する。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和12年)赤柴八重蔵大佐が歩兵第十聯隊長に発令されたのが、盧溝橋事件から半か月後の7月22日。聯隊への動員下命が7月27日。応召者およそ5千名。天津到着が8月18日。「支那駐屯軍」と合流、任務は北京・天津地区の支那軍を膺懲し、同地区を安定さす」作戦地域は「概ね安定」していた。ところが中国中央軍の予想外の進出・抵抗のため支那駐 [続きを読む]
  • 日中戦争と郷土部隊③山陽新報の日中戦争観 岡山県史近代Ⅲ
  • 岡山県史近代Ⅲより転記する。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx盧溝橋事件勃発直後から、事件の原因は中国側の抗日姿勢にあるとして、連日センセーショナルな報道を続けている。8月16日の社説「断固膺懲に決す」において「今度という今度は、断じて支那の常套手段に乗ぜられて姑息不徹底な解決に堕してはならない。膺懲の鉄槌は徹底的に下さるべきである。国民は挙国一致、政府を支援し、しかして皇軍の武 [続きを読む]
  • 日中戦争と郷土部隊②暴支膺懲(ぼうしようちょう)  岡山県史近代Ⅲ
  • 岡山県史近代Ⅲより転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和13年7月)現地では、ともかく11日午後8時に停戦協定にこぎつけた。ところが、同じ日軍中央では「三個師団か四個師団を出して一撃し手を挙げさせる、一部兵力を残せば北支から内蒙古は思うようになる」という拡大派が大勢を制し、近衛内閣は「重大決意」のもと華北へ派兵を決定、事件拡大に大きく踏み出した。「支那軍の暴戻を膺懲し以って [続きを読む]
  • 日中戦争と郷土部隊①盧溝橋の銃声  岡山県史近代Ⅲ
  • 岡山県史近代Ⅲより転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx盧溝橋事件は偶発的な事件であった。日本軍の満州での傀儡国家樹立とそれ以後の華北への侵略行動に対して、中国は、いつ何時でも日本軍に反撃を加え追い出す正当な権利を有していた。「日本軍の面目が立てればよい」「軍の威信上奮起した」「我が軍を冒涜するも甚だしい」というのである。実際に損害を受け危険が迫っているとか、戦略・戦術上必 [続きを読む]
  • 漢口攻略戦その五 北支への転進と凱旋
  • 父の所属する部隊の記録を転記する。 「岡山県郷土部隊史」より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和13年)師団は11月29日漢口に着き、翌30日鴨井丸・黒姫丸等四隻に乗船下航し、12月5日南京に着き浦口より徐州を経由して12月11日石家荘に着く。北支についた各部隊はそれぞれ、石家荘を中心として南北の各主要都市に分散して守備につく。昭和14年にはいって第一期粛正作戦を四次に分けて行い、第二期粛正戦を行う。8月11 [続きを読む]
  • 漢口攻略戦その四 平靖関の攻撃
  • 父の所属する部隊の記録を転記する。「岡山県郷土部隊史」より転記xxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和13年10月)大迂回作戦の栄誉を樹立した毛利部隊は、戦塵を洗う暇もなく、霖雨で泥まみれとなって疲れた身体を10月16日より平靖関の攻略にとりかかった。平靖関は武勝関と共に漢口北方の護りであった。行軍二日突然山から砲弾が飛んできた。平靖関の鉄壁にぶつかったのだ。10月19日より、右第三大隊、左第一大隊で血闘の幕 [続きを読む]
  • 漢口攻略戦その三 信陽南方への迂回作戦
  • 父の所属する部隊の記録を転記する。 「岡山県郷土部隊史」より転記xxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和13年9月下旬)羅山を出発した第33旅団は右・歩兵63連隊、左・歩兵10連隊が進むと、わずか5粁南進して王家湾で、北側斜面から急射を受け、逐次敵は兵力を増してきた。歩兵は猛射のため前進できない。10月1日頃より羅山西方8粁の八里店付近で敵は重砲・山砲を配して猛撃を繰り返し、信陽の攻防戦は最高潮に達する。わが方 [続きを読む]
  • 漢口攻略戦その二 光州の攻撃
  • 父の所属する部隊の記録を転記する。煙弾とはどうゆう類のものだったのだろう? 「岡山県郷土部隊史」より転記xxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和13年9月)固始の堅塁は第8旅団が攻撃しこれを占領する。固始を出発した第33旅団は、9月15日毛利部隊栗栖大隊が先頭となって第一中隊が尖兵となって前進する。戦闘が開始されると行軍に疲れた兵士も緊張して落伍者は一人もいない。七里崗が光州の前衛陣地である。ここではじめて [続きを読む]
  • 漢口攻略戦その一 光州への行軍
  • 父の所属する部隊の記録を転記する。 「岡山県郷土部隊史」より転記xxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和13年)8月17日〜20日帰徳を出発して徐州を経て8月19日〜22日蛙埠に列車輸送で着く。8月21日〜22日蛙埠を出発して徒歩行軍で陳橋・武店・永康鎮・朱家昭・東郭家戸・商家集・路々集・四十頭と露営を重ねて8月27日〜30日慮州に入る。この頃第10師団は第3師団と共に、六安・固始・光州の線を進む。第10師団でも歩兵8旅団が [続きを読む]
  • 占守島 「終わらざる夏」より
  • 浅田次郎署「終わらざる夏」に、占守島旅団長、個人の話は載ってない。小説より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx未明に攻撃が始まると、師団司令部は大本営宛ての電文を起案した。札幌の方面軍の頭越しに打たなければ間に合わぬという緊急電である。今十八日未明 占守島北端に敵(現地の報告不明成なるもソ軍なるか如し)の一部上陸し 第91師団もまたこれをむかえて自衛的戦闘実施中なる [続きを読む]
  • 寄島の塩田 「寄島風土記」
  • 「寄島風土記」昭和61年発行より転記。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx天候が相手で、やけつく夏も、凍てつく冬も、盆も正月もない。雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回のメシを食べるきつい仕事であった。万牙(まんが)浜子は理屈は知らないが、朝、昼、晩と太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦、横、斜三様の引き方で砂に着いた海水濃度を高くする。力と技術を要するので素人には [続きを読む]
  • 寄島の塩田 「寄島町誌」
  • 「寄島町誌」昭和41年発行より転記。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx東は早崎港から西は青佐西端に至る2キロに及んだ。二町歩(2ヘクタール)をもって1番とし6番まであり、その後昭和30年には15番まで増えた。明治38年、一日七トン貨車20輌を30日間発送し、山陽鉄道との特約トン数に達せしめたと言われ、当時の生産量は松永・味野・山田塩田を凌駕していた。明治38年専売法が施行され、塩業者は販売から手 [続きを読む]
  • 寄島の話し
  • 大浦神社の節分祭で、地元の方に塩田のことを聞こうとしたがその話はあまり成果がなかった。2018.2.3  男性(昭和17年生まれ)の話しxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(大相撲)相撲は三回ほど来た。その頃は全体で得なく一門で来ょうた。千代ノ山や栃錦がきょうた。ここへ松があった。ワシらはその木に登って上から見ょうた。お金はありゃせんのじゃけぇ。(塩田の跡)(同年代の女性が2名参加)跡はもうない。写真 [続きを読む]
  • 盧溝橋事件 「日中十五年戦争史」①
  • 中公新書「日中十五年戦争史」大杉一雄著より転記zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz日中戦争は当時、はじめは「北支事変」、戦線拡大後は「支邦事変」と呼ばれていた。日本が宣戦布告をしなかったのは、米国中立法の適用を受けて軍需資材の輸入停止を恐れたためである。7月7日の盧溝橋事件端緒については、史実がはっきりとしていない。発端の問題は必ずしも重要なテーマではない。問題はどのように処理しようかとしたかである。当時の [続きを読む]
  • 「福山市史」⑥「生めよふやせよ」
  • 過剰人口を数百万人、国外へ移住さす方針を出した政府はその4年後には、移住政策(減らす)と同時に多子(増やす)を奨励した。 「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx食糧不足・物資不足のなかで、それらの節約が叫ばれたのとは逆に、「人的資源の確保」を目的に、「生めよふやせよ」と子どもをたくさん生むことが奨励された。「遅くと [続きを読む]
  • 「福山市史」⑤地方事務所の設置
  • 「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和17年(1942)政府の意図を地方によりいっそう徹底させ、かつ行政を敏速に処理するために、地方官寛政の一部改正によって、県の補助行政機関として、県下12カ所に地方事務所が設置された。この地方では沼隈・深安地方事務所が福山市におかれたが、以後県と町村の中間機関として、かつての郡役場 [続きを読む]
  • 満州事変 「福山市史」④小国民の暖かい心
  • 「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和6年11月26日の朝日新聞は、「この寒いのに兵隊さんはお国のために一生懸命に忠義をつくしてくだされ、本当に有難うございます。このお金は僅かですが、どうぞ兵隊さんに水飴でも買ってあげてください」と、3円の為替を呉鎮守府に送った西小学校の一児童の「美談」を大きく報道した。こうした「 [続きを読む]
  • 満州事変 「福山市史」③ 爆弾三勇士
  • 「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和7年・1932)年が明けると、1月6日に南小学校で錦州入場映画が公開されたのをはじめとして、つぎつぎと映画会が行われた。郷土部隊の活躍もあって、寒夜にもかかわらずいずれも超満員で、アンコールの要求が出るほど市民は熱狂した。たちまち大ブームとなり、各学校で修身の時間を割いて三勇 [続きを読む]
  • 満州事変 「福山市史」②
  • 「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和6年・1931)11月末になると、「満事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東・西・南・霞小学校にアサヒ学校ニュース版が作られ、「平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。12月に入ると市民を対象に、 [続きを読む]
  • 満州事変 「福山市史」①
  • 終戦後、東久邇宮首相は「一億総懺悔」を言ったが、さらには戦争は「一億総責任」であったのも事実。「福山市史 下」福山市史編纂会著 昭和58年発行 より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx柳条湖事件が発生すると、新聞・ラジオがその全機能をあげて写真展・映写会・慰問袋・肉弾三勇士などのキャンペーンを行ったので、福山においても、そうした動きが活発になった。9月24日、朝日新聞 [続きを読む]
  • 8月18日 ソ連軍、占守島に上陸「太平洋戦争通史」
  • 「太平洋戦争通史」筒居譲二著 文芸社 2013年発行 より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx8月18日 ソ連軍、占守島に上陸15日以降もソ連軍による満州侵攻は続き、関東軍との戦闘は継続されていた。ソ連も対日参戦を急いだため準備不足もあり、また戦力衰えたと言えども関東軍の必死の抵抗もあり、ソ連軍の進撃は予定より遅れていた。そのような中の18日、マッカサーの要求によって大本営は、陸海軍 [続きを読む]