しろみ茂平の話 さん プロフィール

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しろみ茂平の話さん: しろみ茂平の話
ハンドル名しろみ茂平の話 さん
ブログタイトルしろみ茂平の話
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/mobira
サイト紹介文「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供133回 / 365日(平均2.6回/週) - 参加 2014/12/11 07:40

しろみ茂平の話 さんのブログ記事

  • 慰問団と慰安所③慰安所
  • 父の話しによると駐屯地に慰安所はあり、慰安婦は日本人・・若くない(国内の遊郭からくる) 高い朝鮮人・・若い 安い 日本語カタコト中国人・・若い 安い 日本語駄目ほかに慰安所の外で中国人がいた。いちばん安いが、安全地帯でない。人物日本の女子史11巻 「からゆきさん」池田みち子 昭和53年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx日本人のいるところ何処にでも [続きを読む]
  • 慰問団と慰安所②麦と兵隊
  • 「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx 7月7日の盧溝橋事件以来、朝日新聞が「皇軍慰問資金」を募集していた。その総額が32万円にもなったという。戦争に対する国民のなみなみならぬ想いを知らされる数字で、「今回、更に軍当局の援助を得て北支戦線および中支戦線へ慰問映画班ならびに慰問演芸班を派遣することに決定せり」北支那・・・ [続きを読む]
  • 慰問団と慰安所①
  • 父の話しでは、父が北支や中支での野戦中、至るところに「慰問団」が訪れ至るところに「慰安所」があったそうだ。これは慰問団の話し「従軍歌謡慰問団」馬場マコト 白水社2012年発行 より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxそれぞれの戦後山田耕作は1948年脳溢血で倒れた。以後身体が不自由になった。古賀政男は玉音放送を聞きながら引退を考えたが1946年5月歌謡界に復帰した。「湯の町エレ [続きを読む]
  • 占守島 「8月17日、ソ連軍上陸す」②
  • 「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防記」 大野芳著・新潮社・平成20年発刊 より転記 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxそれから何時間も経ったのか、爆音直後のことか国端崎の方向から砲声が聞こえた。けたたましい有線電話のベルが鳴った。戦車連隊本部から「心配いらん」との連絡だった。ソ連軍は座礁してる油槽船を砲撃しているだけだという。17日午後10時45分ごろのことである。国端崎は、とつぜんの砲撃 [続きを読む]
  • ウミボタル(夜光虫)の採取
  • 茂平の水尻海岸に夜光虫がいた。夏休みの夜、磯で海中に光る夜光虫を両手ですくった。手のひらで、不思議な光が海水にゆれ、指から夜光虫は夜の海に落ちた。夏休みの記憶として残っている。「笠岡市史3」と「日本の戦争と動物たち2」より転記する。------------------------------------笠岡市史3巻 平成8年発行ウミボタルの採取笠岡市域の国民学校のうち、島地部や海岸に面した学校では、夏の夜浜辺に出てウミボタルを採取する作 [続きを読む]
  • カストリ雑誌
  • 管理人が高校生の頃、映画は「邦画」「洋画」「エロ映画」と三分割されていた。高校の卒業式が終わってすぐ、福山に友と二人で初めてエロ映画を見に行った。エロ場面になると、白黒映画からカラー映画に変わり、音楽も微妙に変わった。その映画を見ながら友は泣いていた。エロ映画を見て泣くことにびっくりしたが、後に本を読むと、当時のエロ映画は脚本がしっかりして高いレベルだったそうだ。戦後氾濫し時代を彩ったカストリ雑誌 [続きを読む]
  • 金浦中学の発足
  • 戦前の学校制度は複雑なうえに、国民学校や青年学校が発足し、制度が軌道にのるまえに敗戦で「学制改革」となった。以下は「文科省のホームページ」と「岡山県教育史・続編」より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「文科省のホームページ」より 新制中学校は昭和二十二年四月から発足したが、同年第一学年の生徒のみを義務就学とし、以後学年進行によって二十四年度に全学年の義務就学が完成した。 [続きを読む]
  • 南樺太--「最強師団の宿命」
  • 南樺太のことを著名な史家、保阪正康氏はどのように記述しているのだろう?同書に限らないが、8月9日未明・ソ連軍の参戦による満州の詳細な状況・情報は方面軍や樺太や千島の師団に届かなかったのだろうか。満州の状況を知れば対策が違うが、どうもそこが気になる。 「最強師団の宿命」保阪正康著2008年毎日新聞発行より転記する。 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx南樺太昭和20年8月9日にソ連軍は満州、そして [続きを読む]
  • 占守島の闘い--「最強師団の宿命」
  • 占守島のことを著名な史家、保阪正康氏はどのように記述しているのだろう?「最強師団の宿命」保阪正康著2008年毎日新聞発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx北海道分割を阻止した昭和20年8月18日、占守島の戦いスターリンは北海道分割占領を狙い、日本のポツダム宣言受諾後も戦闘を継続し、千島北端の占守島に上陸した。しかし日本軍守備隊の予想外の頑強な抵抗の為、作戦は遅れ、北海道上陸は [続きを読む]
  • 東京へ行ってきた②陸軍東京第一病院
  • 昭和15年、父は岡山の連隊の陸軍病院から、東京の陸軍第一病院へ搬送された。その後も二度の出征を経たが、無事95才で人生を終えた。いつか、その地へ行ってみたいと思っていた。行っての帰り、ほっとした気持ちになった。昭和15年東京・戸山 陸軍第一病院以下柏書房「戦争遺跡の辞典」より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxx陸軍軍医学校跡地 皇居の北西部に軍事施設が集中している区域がある。 「戸山ヶ原」で、陸軍軍 [続きを読む]
  • 東京へ行ってきた①東京湾海堡
  • 竹芝桟橋から伊豆大島へ高速ジェット船で行った。雨の天気だったが、波間に浮かぶ東京湾第二海堡は迫力があった。できれば、二階席から見たかった。以下は転記。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「戦争遺跡の辞典」柏書房 東京湾要塞は、東京湾に侵入しようとする敵戦艦の通行を阻止し、かつ海上からの敵の攻撃に対し、帝都東京および横須賀軍港を護る目的で建設された。 海堡は、海上に築島して、その上に砲台を築いたも [続きを読む]
  • 占守島 「8月17日、ソ連軍上陸す」① 
  • 8月17日、ソ連軍上陸す 大野芳著・新潮社・平成20年発刊 より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx8月9日払暁、ソ連軍は、国境を越えて北満州、朝鮮北部、南樺太へ攻めてきた。そして同日、大本営は、第5方面軍司令官・樋口中将に対して、国境方面所在の兵力をもって対ソ作戦の発動を準備するよう命じる。第5方面軍は第91師団に戦闘準備を発令する。師団から旅団へ、旅団から大隊へという連携をみれば、北千 [続きを読む]
  • 神仏分離①最上稲荷
  • 「流れる おかやま百年」山陽新聞社 昭和42年発刊より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx新しい政府は明治元年3月、神仏分離の布告を出し、神社から仏教的なもののすべてを取り除かせた。”廃仏毀釈”の運動が各地に起こり、仏像や仏具が焼かれた。寺院内にあった神社で神官にのっとられたところもある。吉備郡高松町の日蓮宗稲荷山妙教寺(最上稲荷)には正一位稲荷大明神もまつっていた。いわゆる神仏混合 [続きを読む]
  • ”赤線”の灯消える ②
  • 「流れる おかやま百年」山陽新聞社 昭和42年発刊より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxむずかしい転業岡山県下では10地区、327業者、接客婦822人の転廃業が進められた。県は、業者の転業、接客婦の更生にあれこれ知恵をしぼった。岡山市下石井に婦人厚生施設の建設。岡山市東中島や玉野市日比、笠岡市伏越三地区での編み物機10台を持ち込んでの講習会、婦人更生資金の貸し付け(総額64万円)などなど。ま [続きを読む]
  • ”赤線”の灯消える ①
  • 「流れる おかやま百年」山陽新聞社 昭和42年発刊より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx82年の歴史昭和33年4月1日、政府は画期的な売春防止法を実施した。岡山県では一足早く、この年3月15日を期して赤線の営業ストップをかけた。赤線最後の夜、モヤが春の宵を包む岡山市中島かいわいは、タクシーがひっきりなしに行き交い、サラリーマン風の男が連れだって繰り込む。かつてない盛況。玄関口では、火ばちに [続きを読む]
  • ”藤田の売逃げ”
  • 藤田財閥の児島湾干拓地は、戦後の農地改革でどのように解放されたのだろうか?「流れる おかやま百年」山陽新聞社 昭和42年発刊より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(終戦直後)その頃、全国的な大地主は本間元也(山形)市島徳厚(新潟)と並んで、藤田農場が超大物で、県下では大原農場、服部合資のど大どころが控えていた。なかでも明治、大正、昭和にかけて”小作争議”の焦点だった藤田農場の開放 [続きを読む]
  • 笠岡市内の忠魂碑
  • 忠魂碑はほぼ全町村に一基は、戦前または戦後に建立されている。小学校・神社・山頂が多い。学校にあった忠魂碑は戦後すぐ、隠したり(地下に埋める)、移動している。独立後に小学校に戻し、戦死者名の墓誌を追加設置の地区が多い。(笠岡市城見の忠魂碑)岡山県遺族連盟発刊の「遺族三十年の軌跡」より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx笠岡全地区忠魂碑・・昭和47年6月に郷友連盟笠岡支部が中心となり市内古 [続きを読む]
  • 昭和8年の笠岡伏越港発の定期船
  • 航路が時代を感じるので転記する。「神島史誌」よりxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx伏越港発時間表(笠岡合同廻漕店)午前7:40 玉島行8:00 豊浦行8:30 多度津行9:45 外浦、白石行 隔日11:10 外浦、白石行 隔日11:50 高島行午後0:30 金風呂行0:50 正頭行1:10 楠行1:30 外浦行1:50 北木島2:00 白石行2:30 真鍋行2:50 北木島3:00 白石行4:00 外浦行4:45 北木島5:00 豊浦 [続きを読む]
  • 8月18日(土)慰安施設設置の指令
  • たった3〜4日前まで、戦争にもし負けたら、鬼畜米英に男は殺され、女は犯されたうえで殺されると喧伝していた政府は、連合軍が来る町へ慰安施設設置の指令を出した。こうゆうことは素早い。書類を焼き捨てたり、慰安施設の設置といい、やることがあくどい。下記の本から転記する。 「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和20年)8月18日内務省、地方長官に [続きを読む]
  • 8月18日(土)占守島
  • 下記の本から転記する。 「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx(昭和20年8月18日)ソ連軍が千島列島最北端の占守島に、カムチャッカ半藤ロバトカ岬から直接長距離砲による砲撃を加え、午前一時半から上陸。日本軍守備隊(第91師団基幹約2万3千人)と激戦。占守島の艦攻、ソ連軍上陸船団を攻撃、海防艦2隻、輸送艦1隻を撃沈、4隻を撃破。(喜多和幸「われソ連 [続きを読む]
  • 蒋介石の抗日戦勝利演説
  • 終戦後、中国からの復員が平和裏に行われたのは、蒋介石や中国の人のおかげが大きい。戦後の日本人には中国に対し、感謝の気持ちが少ないように思う。下記の本から転記する。 「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx蒋介石の抗日戦勝利演説(20・8・14)わが中国が暗黒と絶望の時期を8年にわたって奮闘してきたその信念は、今日ついに実現を見るにいたった。わ [続きを読む]
  • 戦後自決した方々
  • 陸軍大臣阿南大将は、神州不滅を確信しつつ「一死以て大罪を謝し奉る」と、終戦の前夜自刃した。これは誰に対して”謝し”なのか不明で、もう一言あった方がわかりやすい。死んでいった兵に対してか?銃後の国民にか?軍の暴走を納める意味か?戦争に勝てなかった責任か?天皇に対するおわびか?「陸軍省発表。阿南大臣は輔弼の責めを十分に果たし得ざりしを閣下に御詫び申しぐる・・・」となれば、天皇に死んで詫びたことになる。 [続きを読む]
  • 日本全土、B29の空襲 新聞の報道 「年表 太平洋戦争全史」
  • 戦後の戦争責任者は東京裁判で裁かれたり、公職追放等で処分されたが「神社」と「マスコミ」は免れた。新聞は最大の戦犯者のように見える。 下記の本から転記する。 「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会 xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx既に12回も来襲 燃やせ無限の敵愾心 日本民族の抹殺が目標B29暴虐の大都市無差別爆撃日本完全抹殺を呼号する敵米がわが本土に対す [続きを読む]
  • 仁科芳雄博士の手紙
  • 広島の新型爆弾を、大本営は”原爆”と分かっていたようだが確認の意味を含めて、開発者である仁科博士を現地に派遣した。博士の故郷・里庄町では、「原爆」であると認定し、それにより戦争終結に至った大恩人であると紹介している。それには・・違和感がありすぎる。下記の本から転記する。 「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx仁科芳雄 [続きを読む]
  • 忠魂碑 「真備町史」
  • 「真備町史」より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx真備町内の忠魂碑旧村内に一つずつあり、明治以来の戦没者を顕彰慰霊する碑である。真備町内の旧村7ヶ所の碑を簡単に説明しておく。碑文は全部忠魂碑と大きな字で書いてあり、その側に多くは筆者の肩書氏名を書いてある。筆者は県下各地のものがほとんど陸軍大将か元帥のもので、中には岡山師団長とかその他のものもある。櫛田昭和3年、櫛田小学校校庭に [続きを読む]