シゲさん さん プロフィール

  •  
シゲさんさん: シゲさんのblog
ハンドル名シゲさん さん
ブログタイトルシゲさんのblog
ブログURLhttp://shigeaki0303.hatenablog.com/
サイト紹介文何もできない団塊世代。日本経済、政治、無法者の歴史等を何でも書きます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供40回 / 329日(平均0.9回/週) - 参加 2015/01/11 22:58

シゲさん さんのブログ記事

  • 明治最後の仇討・臼井六郎事件
  • 浅田次郎の小説に明治最後の仇討の話がある。しかしこれはフィクションで現実の話ではない。現実にあった話は、秋月藩の執政心得臼井亘理夫妻が殺害され、実子の臼井六郎が明治13年に仇討した事件がある。この話は「幕末史談会速記録」に記載されている。臼井亘理は秋月藩士として生まれ、藩主の黒田長徳の側用人まで出世した。秋月藩は宗藩の福岡藩が親幕派の公武合体派であったため、亘理もその流れの中にいた。しかし、側用人の [続きを読む]
  • 盗賊・田舎小僧という人
  • 前回、ブログで鼠小僧について書いた。今回、取り上げるのは、鼠小僧ほど有名ではないが、同じく大名屋敷専門の盗賊・田舎小僧である。田舎小僧は、同時期の稲葉小僧と混同されるが、両者は同じ盗賊なのかは、諸説あって、定かではない。本人は「自分は稲葉小僧と名乗ったことはない。また田舎小僧と呼ばれているが、これも自分で名乗った異名ではない。」と述べたという。 盗賊生活期間は鼠小僧が10年に対して、田舎小僧は2年、盗 [続きを読む]
  • 義賊・鼠小僧次郎吉という人
  • 鼠小僧といえば、時代劇ファンでなくとも名前ぐらいは知っているだろう。100軒以上の大名屋敷に忍び込み、3,000両以上の金子を盗み出し、義賊として芝居や講談で取り上げられた。盗賊の中でもヒーロー的存在である。しかし、その実体、素顔はあまり知られていない。次郎吉が生まれたのは、寛政9年(1797年)江戸新和泉町(現在の中央区人形町3丁目)、父親は定治郎、歌舞伎芝居の出方(案内、接待係)を務めていた。定治郎は片目が [続きを読む]
  • 死出の旅の往来手形・勘助、草津の旅
  • 高橋敏氏は、著書「江戸の平和力」で、江戸時代の行き倒れ死亡者に対する対応を評価し、江戸時代は予想以上の安心社会であると述べている。内容は、江戸時代の草津温泉療養の旅に出た庶民の旅先での病死の顛末である。 弘化4年(1847年)7月22日、豆州君沢郡長浜村(現・沼津市)の「勘助」が草津温泉六兵衛の宿で病死した。勘助の草津への旅は、温泉三昧の湯冶の旅でなく、らい病(ハンセン病)にかかり、大野村宇左衛門に付き添 [続きを読む]
  • 土佐藩御用達の火消し・相模屋政五郎という人
  • 相模屋政五郎という侠客を知っている人は少ない。博徒ファン仲間でもかなりメジャーな人物である。別名「江戸の相政」ともいう。「相政」にはもう一人、佐渡へ流罪となった渡世人の面倒を見た博徒の親分「佐渡相ノ川の政五郎」がいる。そのため「相模屋政五郎」は「江戸の相政」と呼ばれていた。 政五郎は博徒でなく、本業は口入屋で、新門辰五郎同様、江戸の火消しである。土佐藩主山内豊熙(山内容堂の2代前の藩主)の時、土佐 [続きを読む]
  • 悲劇の博徒・笹川繁蔵という人
  • 「利根の川風、袂に入れて、月に棹さす高瀬舟」講談、映画で有名な大利根月夜の舞台であり、天保水滸伝として、笹川繁蔵、用心棒・平田深喜(別名・平手造酒)と飯岡助五郎との大利根川の決闘は良く知られている。 笹川繁蔵の生家岩瀬家は、須賀山村の東南にある羽斗村(現・千葉県香取郡東 庄町)で代々醤油と酢を醸造した旧家で、地元の富豪である。繁蔵は岩瀬家七左衛門の三男として生まれた。母親は地元で有名な美人で、繁蔵も [続きを読む]
  • 次郎長の兄貴分博徒・津向文吉という人
  • 津向文吉は、駆け出しの頃の次郎長が喧嘩の仲裁をした相手方で、それを機会に次郎長の兄貴分となった博徒である。文吉は、温厚な性格で、男盛りの39歳で、八丈島に島流しになったため、あまり知られていない博徒である。しかし、細面で品のある二枚目の色男である。長年の流刑暮らしの結果、主たる抗争もなく、長寿を全うし、畳の上で生涯を終えた幸運な博徒でもある。(博徒名) 津向文吉    (本名)宮沢文吉(生没年)  [続きを読む]
  • 喧嘩しない大親分博徒・蕎麦亀という人
  • 博徒というと国定忠治、黒駒勝蔵、清水次郎長などの名しか思いつかない人がほとんどだろう。しかし、世間的に名も知られていないが、博徒として歴史に名を残しても良い博徒がいる。歴史的有名人だけが優れているのではない。無名でも優れた博徒がいる。特に博徒は喧嘩を華とするため、抗争、喧嘩をしない博徒は歴史に残らず、忘れ去られることが多い。そんな博徒の一人として、喧嘩をしないことを信条とし、大親分となった博徒・ [続きを読む]
  • 賊軍旧幕兵士戦死者を埋葬した博徒たち
  • 明治維新で賊軍幕府側戦死者の遺体収容の行動を取った博徒は少なくとも4人いた。中でも最も有名なのが威臨丸の清水次郎長である。新政府に反旗を翻した旧幕府海軍榎本艦隊威臨丸が台風に遭遇、破損して駿府藩の外港清水に緊急避難した。艦長小林文次郎は駿府藩に恭順の意を表し、兵士と武器を陸揚げし、停泊中の艦内は副長春山弁蔵、弟鉱平兄弟以下少数の水夫が残っていた。明治元年(1868年)9月18日、そこに新政府軍の富士丸、 [続きを読む]
  • 次郎長より有名な博徒・森石松という人
  • 森石松というと東映映画30石船の「寿司食いねえ」の中村錦之助を思い出す。片目でドモリのおっちょこちょいのやくざという印象である。清水一家では一番有名な子分である。しかしその実像は謎が多い。存在そのものが架空という人もいる。清水一家での活動期間は短いが、存在は間違いない。明治になって次郎長が監獄出所後の晩年、次郎長に面談した人が石松のことを聞いた時、次郎長は涙したと語っている。しかし、石松に関する資料 [続きを読む]
  • 悪者博徒の代表・飯岡助五郎という人
  • 飯岡助五郎は天保水滸伝では悪者博徒の代表である。子供の頃、見た映画では、配役は笹川繁蔵を高田浩吉、平手造酒が鶴田浩二で、非常に恰好良く、飯岡助五郎は近衛十四郎であり、いかにも憎たらしかったことを覚えている。助五郎は関東取締出役の目明しの二足草鞋の博徒であり、繁蔵の縄張りを狙い、お上を後ろ盾としたため、判官びいきの世間に嫌われる博徒だったのだろう。(博徒名) 飯岡助五郎   (本名) 石渡助五郎( [続きを読む]
  • 次郎長のお目付け役博徒・安東文吉という人
  • 安東文吉は駿河国府中(現・静岡市駿河区)に一家を構えた二足草鞋の博徒である。別名「暗闇の代官」「日本一の首つなぎ親分」と呼ばれ、その評価はさまざまである。(博徒名) 安東文吉   (本名) 西谷文吉(生没年) 文化5年(1808年)〜明治4年(1871年) 享年64歳      府中の自宅で病死安東文吉は駿河国安倍郡安東村(現・静岡市葵区)の豪農である西谷甲右衛門の子として生まれる。大柄で力もあるため、弟の辰五 [続きを読む]
  • 品川台場建設に貢献した博徒・大場久八という人
  • 大場久八は、韮山代官江川太郎左衛門の要請により、兄弟分である甲州豪商天野海蔵とともに、品川台場建設に協力した博徒として有名である。 (博徒名) 大場久八  (本名) 森久治郎 (生没年) 文化11年(1814年)〜明治25年(1892年)  享年79歳       上州への旅の途中、現・都留市谷村において中風で死亡 大場久八は伊豆国田方郡函南村間宮の百姓栄助の長男として生まれた。28歳のとき野天博打で無宿となり、博徒 [続きを読む]
  • 悪者にされた勤皇博徒・黒駒勝蔵という人
  • 黒駒勝蔵は、清水次郎長の敵役として有名で、その生涯は喧嘩に明け暮れ、最後には官軍の兵士でありながら、博徒の罪で処刑された謎多き運命をたどった博徒である。(博徒名)黒駒勝蔵  (本名)小池勝蔵(生没年)天保3年(1832年)〜明治4年(1871年)  享年40歳      斬罪により処刑黒駒勝蔵は、天保3年、上黒駒村(現・山梨県笛吹市)で村役人を務めた家である小池嘉兵衛の息子として生まれた。安政3年25歳のとき、勝 [続きを読む]
  • 偽官軍の名で殺された美濃博徒・水野弥三郎という人
  • 皆さんは幕末に偽官軍として、信州下諏訪で処刑された「赤報隊」のことをご存じだろうか?その後、昭和になって亡霊のように、朝日新聞襲撃事件において「赤報隊」の名が使用された。この赤報隊に深く関わり、最後は自ら縊死した博徒が水野弥三郎である。(博徒名)岐阜の弥太郎  (本名)水野弥三郎(生没年)文化2年(1805年)〜慶応4年(1868年)  享年64歳      大垣藩本牢内で縊死により自殺水野弥三郎は、岐阜矢島 [続きを読む]
  • ヒーロー博徒・国定忠治という人
  • 国定忠治を、幕府代官の羽倉外記が「忠治伝」で、「凡盗にあらずして劇盗なり」と言わしめたのは、忠治が相応の学問を修め、かつ剣術にも深くかかわっていたためである。忠治は、赤城の山に立てこもり、代官や関東取締出役と対決した博徒として有名である。清水次郎長が半分、二足草鞋に近いような博徒であったに対し、徹底抗戦を貫き、最後は大戸関所で磔となった忠治の美学に、庶民が共感したのだろう。(博徒名)国定忠治 (本 [続きを読む]
  • 会津小鉄という人
  • 京都の会津小鉄会が山口組の抗争で話題となっている。会津の小鉄は関東の大前田英五郎、東海の清水次郎長に対して関西の小鉄と呼ばれた博徒である。生まれはどこかわからないが、秩父、坂東、西国、四国巡礼を母親とともに放浪旅をしながら育ったと言われている。大坂に流れ着いたとき、母親が四天王寺の雪駄直し職人の内妻となり、小鉄である鉄五郎も養父の職人に引き取られた。鉄五郎が15歳の時、父親の家を飛び出し、江戸に下 [続きを読む]
  • 美談で作られた無法者・新門辰五郎という人
  • 新門辰五郎は、江戸浅草金竜山浅草寺に住み、鳶仕事師の親分、町火消十番組の頭であり、浅草寺の香具師、大道商人等の総元締めである。辰五郎は、寛政12年(1800年)下谷山崎町飾り職人中村金八郎の長男として生まれ、その後、上野輪王寺の家来町田仁衛門の養子となった。新門という名は、倫王門跡宮が浅草寺別当の伝法院へ隠居したとき、浅草凌雲閣付近に新門を作り、その番人に町田を任命したことによる。しかし、町田家は生活 [続きを読む]
  • 長寿を全うした博徒・大前田英五郎という人
  • 大前田英五郎(栄五郎とも書く)は、国定忠治より18歳、年長で忠治から「おじご」と呼ばれ、同盟関係にあり、また、忠治の保護者でもあった。大前田英五郎は、上州勢多郡大前田(現・前橋市大前田町)に生まれた。父の名は久五郎といい、家は名主の家柄で父も博徒であった。子供の頃より、火の玉小僧とあだ名され、身長高く、顔色浅く黒く、かなり肥満していたという。父、兄ともに博徒で、13歳の頃には、すでに博徒になり、関東取 [続きを読む]
  • 信州の博徒・間ノ川又五郎という人
  • 信州長野は、昔から博徒が関八州の追手からの逃亡する場所として知られている。国定忠治も関八州取締から何回も信州へ逃れている。長野善光寺は全国から参拝者が来るので、博徒が身を隠すには便利なのだ。 間ノ川又五郎も上州生まれで、旅暮らしの結果、信州長野中野村に一家を構えた。幕末の博徒では清水次郎長、黒駒勝蔵、大前田英五郎、天保水滸伝の笹川繁蔵などが有名である。間ノ川又五郎もそれらと比しても遜色のない博徒で [続きを読む]
  • 義理と人情に生きた博徒・吉良仁吉という人
  • 吉良仁吉は村田英雄の歌「人生劇場」で有名な博徒である。清水次郎長の子分として、荒神山の喧嘩で壮絶な死を遂げた義理と人情に生きた博徒でもある。 (博徒名)吉良仁吉  (本名)太田仁吉 (生没年)天保10年(1839年)〜慶応2年(1866年)  享年28歳       勢州高神山観音寺境内の裏山で喧嘩死 三州吉良仁吉は、三河国幡豆郡上横須賀村御坊屋敷(現・愛知県西尾市)の小作農出身だが、別名「御坊善」の博徒名を持つ [続きを読む]
  • 関東取締出役を翻弄した博徒・石原村幸次郎という人
  • 武州熊谷石原村(現・埼玉県熊谷市)の無宿幸次郎という博徒をご存じであろうか? 石原村幸次郎は、嘉永2年(1849年)、武蔵国熊谷宿あたりに突如出現し、武装したアウトロー集団を結成、次々と殺人、強盗、拉致傷害などしたい放題、挙句の果てに逃亡、甲州から駿河と、行く先々を荒らし回り、甲州に舞い戻り、信州までわがもの顔で横行して、悪の限りを尽くした博徒一味の頭目である。最後は、甲州勤番に捕縛され、江戸小塚原の刑 [続きを読む]
  • 一揆鎮圧に協力した博徒・小川幸蔵という人
  • 幕末から明治にかけ、武蔵国多摩郡の博徒に、小金井小次郎と小川幸蔵の二人がいた。だが、小川幸蔵は世間によく知られた博徒ではない。北島正元長の著書「幕藩制の苦悩」は当時の博徒について次のような記述がある。 「博徒の本場と言われた上州には、国定忠治のほか、大前田英五郎(勢多郡大前田村)・栄次(勢多郡月田村)・三木文蔵(新田郡世良多村)・高瀬仙右衛門(邑楽郡上高島村)などの貸元がおり、下総の飯岡助五郎・笹 [続きを読む]
  • 次郎長兄弟分博徒・寺津間之助という人
  • 寺津間之助(本名・藤村甚助・父親の名を襲名した。)は、清水次郎長より一つ年上で、次郎長と4分6の兄弟分の杯を交わした、三州幡豆郡寺津村(現・愛知県西尾市寺津町)の博徒である。幕末の寺津村は、上横須賀村とともに沼津藩の飛び地領地として、大浜陣屋(現・愛知県碧南市)の支配下にあった。三河平野一帯は三河木綿の栽培地で、三河木綿の綿打ちが盛んに行われていた。寺津港は綿花、木綿、さらには古くからの吉良の製塩「 [続きを読む]
  • 関東取締出役との抗争で自決した博徒・勢力富五郎という人
  • 講談「天保水滸伝」で有名な総州下総国(現・千葉県)の博徒で、二足草鞋で関東取締出役道案内の飯岡助五郎と地元博徒の笹川繁蔵がいた。勢力富五郎は、この笹川繁蔵の子分である。親分の繁蔵が助五郎に謀殺された後、親分の仇討ちのため、助五郎を狙って、関東取締出役と死闘を繰り広げ、最後に追い詰められ、28歳で自決した武闘派博徒である。その後、絵師歌川豊国が、「近世嘉永水滸伝」で、勢力富五郎の錦絵を描き、一躍、侠客 [続きを読む]