活かして生きる 〜山里の寺便り〜 さん プロフィール

  •  
活かして生きる   〜山里の寺便り〜さん: 活かして生きる   〜山里の寺便り〜
ハンドル名活かして生きる 〜山里の寺便り〜 さん
ブログタイトル活かして生きる 〜山里の寺便り〜
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/cotou
サイト紹介文娑婆世界を生きる智慧〜おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供365回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2015/01/12 10:50

活かして生きる 〜山里の寺便り〜 さんのブログ記事

  • 見性の意義3
  • 必ず「見性」が無ければ「修行の土台」が見つからない訳です。別の言い方をすれば、先ず「見性」して自分の本当の姿を見届けるということです。先般も論及しましたが「坐禅の意義」と同じことです。その「意義」がはっきりしないと、「見性」なんていうものが有(在)るのだろうか、悟りというものが有(在)るのだろうか、という疑いをもって修行すれば中中「修行が成就しない」ということが出て来る訳です。菩提達磨大師は、「直指人 [続きを読む]
  • 見性の意義2
  • 言葉は違いますが「悟り」ということも「解脱」ということも、「見性」ということは同じです。これを「異名同体(いみょうどうたい)」といっています。おシャカ様の一つの大きな目的は、「見性する」ということだったのです。ところが昨今では、「見性」にも色々な段階(ランク)が有(在)るようにいわれています。或いは最後には「見性」まで否定してしまうような非常に寂しい状態に成っています。けれども決してそういうものでは [続きを読む]
  • 見性の意義1
  • 私たち衆生は喜ぶ、悲しむ、怒るーーーと、様々な自分の状態というものがあります。どれもこれも皆、本当です。「皆本当の事実」がそのまま表れています。ですから、私達衆生は何時でも、何処でも、何をしていても「本当の事」しかしていないのです。それでは一体何処に「ウソのものと、本当のもの」が有(在)るのかということになってしまうのです。そういう「ウソのものと、本当のもの」を区別するのが「自我(エゴ)」というもの [続きを読む]
  • 寂滅2
  • ですから、煩悩の無い心の働きであるので「寂光浄土」なのです。決して他に「浄土」という土地が有(在)る訳ではないのです。「仏」が居れば何時何処に居ても「寂光浄土」であり、私たち衆生も心が円覚に成り果たせれば何時何処で何をしていても「寂光浄土」なのです。 [続きを読む]
  • 寂滅1
  • 楞伽経(りょうがきょう)に「寂滅とは名付けて一心とする」とあります。「一心」とは「誠」ということです。又、「寂光浄土」ということは仏書に所所にありますが、「浄土」といってもそういう土地は何処にも無いのです。唯この「円覚清浄の仏性一遍」に成って、了って一切の煩悩が無くなったというのが「寂」であり、その時の心の働き、「円覚の光明の一遍」に成って了って普く照らすというのが「光」なのです。 [続きを読む]
  • 登頂2
  • 元来は「円覚清浄の仏性」です。しかし、今は様々な煩悩の為に迷いおわって「錆び(垢)」が付いて来たから、その「錆び(垢)」を落とすために「修行」という砥石にかけて磨かなければならないのです。だから、それで「仮りに方便を説きたまえ」とあるのです。今、謂う所の「修(修行)も無く成就も無し」というのが本来なのです。 [続きを読む]
  • 登頂1
  • 山に登る間は、「修(修行)も無し、成就も無し」とは言えません。既に登っていて山頂に達すれば「修(修行)も無し、成就も無し」ということは出来ると思います。「末世の衆生のために仮りに方便をときたまえ」という文言(もんごん)が円覚経にありますが、此の「仮りに」とは、修行する方便を「仮りに説く」という意味です。ですから、戒法保つとか、坐禅をするとか、これらは皆「仮り」です。何故かというと「本来成仏」だから [続きを読む]
  • 妄想の根源6
  • 仏教は、「ものはもともと一つのものである」と究極を強調します。では、「一つのもの」であったならば、何処へ捨てるのか、又、妄想が全てであったら、実相を求めることが妄想になります。妄想は何処へ捨てるのでしょうか。実は、「妄想は妄想に成る以外に何処にも捨てようが無い」のです。其の事を白隠禅師は、「衆生本来仏なり、水と氷のごとくにて、水を離れて氷なく、衆生のほかに仏なし、衆生近きを知らずして遠く求るはかな [続きを読む]
  • 妄想の根源5
  • 私たち衆生の考えの常として「妄想は悪いものだから捨てなければならない」という潜在的な考えが有(在)ります。又、「本来の物の姿(実相無相)というのは、おシャカ様の言われるお言葉だから、正しいものだ、だからこれは大切にしなければならない」と、自分の考えを起こすものです。「見」とは、「仏法(仏道)」を知識として認めて、それを使うことです。此の「見」が如何しても捨てられないものです。此れが修行の上で大変大き [続きを読む]
  • 妄想の根源4
  • みなさん一人一人も色々な自分が有(在)ると思います。本当の自分は何れか、実はみんな本当なのです。私たち衆生は「有(在)りながら無い、無いながら有(在)る状態」で生活している訳です。「仏道、仏法、迷い、悟り」といいますが、結果に至ればそれは皆「妄想」から生じるものだと分かります。「私」という何処にも認めようが無い物を有(在)ると思っていることが一切の「妄想の根源」なのです。 [続きを読む]
  • 妄想の根源3
  • ですから、「有(在)りながら無い様子」をはっきりと自分でつかむ必要があるのです。「無いながらに有(在)る」ということでも同じです。例えば、音を立てれば確かに聞こえます。一体どこに有(在)るのでしょうか。此の事が「有(在)りながら無い、無いながら有(在)るという様子」ではありませんか。それをはっきり自分の物にしなければなりません。 [続きを読む]
  • 妄想の根源2
  • 私たち衆生は「空」に成るために努力している訳ですが、「空」らしきものを想像して、自分の考えの中で「空」を作り上げてしまい、一所懸命に「空」に成るために修行するのは大変な間違いです。「空」とは、「有(在)りながら無い様子」なのです。物が色々集まっているけれども、集まっている物自体は「空(からっぽ)」です。実体は有(在)りません。「空(からっぽ)」が集まっているのですから、其の物は「空(くう)」なのです。 [続きを読む]
  • 妄想の根源1
  • 仏教語でいう「妄想」とは、広辞苑に拠れば①[仏]みだりなおもい、正しくない想念と、記されています。一番大きな「妄想」とは、無いことを有(在)ると思うことです。何故、妄想が起こるのかというと、即ち「見聞覚知(けんもんかくち)」の働きをしている「此の物」を自分だと思っている、これが、全て「妄想の根源」です。「見聞覚知」とは「六識」の作用で眼・耳・鼻・舌・身(覚)・意(知)のことです。 [続きを読む]
  • 三界唯一心
  • 「三界唯一心(さんがいゆいいっしん)」とは、空間的に「心ならず処は無い」のです。悟も迷うも心一つなれば「宇宙」は一心の働きです。「人間(じんかん)至る処青山あり」です。「一心(一つもの)」なら迷いも悟りもないのです。「心」はコロコロ転げているから「心」なのです。それは本来私たち衆生に具わっているのです。商人は商人、病人は病人、生まれる者は生まれる者、死ぬ者は死ぬ者に「宇宙の心」は有(在)るのです。こ [続きを読む]
  • 常楽我浄(四つの誤認)2
  • ③「我」について自己と認めようが無いのに指導者が「無我に成りなさい」というと、何処になにかしら具わっている「我」というようなものが有(在)ると思ってしまうのです。④「浄」について浄不浄は本来無いのに「浄」はきれいな物、「不浄」は汚れた物と思ってしまうのです。これらの「四つの認識」によって私たち衆生は「生死輪廻の苦」を受けるのです。これ等は全部「自己という認めようが無い物(此の物)」を有(在)ると認め [続きを読む]
  • 常楽我浄(四つの誤認)1
  • 「常楽我浄(じょうらくがじょう)」とは、広辞苑に拠れば「②四顚倒(してんどう)---無常、苦、無我、不浄の現実を凡夫が常楽我浄と誤り、思うこと」と、記されています。つまり私たち衆生は「常楽我浄」について四つの誤認が有(在)るということです。①「常」について「無常」とは一時として同じ状態が無いということです。何時も変化し続けているということです。これを「変化している其の物自体を無常」といっているのに私た [続きを読む]
  • 妄想
  • 人間(にんげん)の大きな妄想は何か。其れは「人は死ぬ」という妄想を起こしているのです。人(ひと)というのは何時から始まって、何時終わるのか、私達衆生の「生命の根源」は何か見定めることは出来ません。人でも物でもその通りなのです。仏教では「死」というものは様々な変化をしているとしています。「無常という状態」です。様々な関係が出て来ます。実に不思議なのです。自分だといっている「自分(符号)」だけが困ったり [続きを読む]
  • 水鳥の ゆくもかえるも跡たえて されども道は わすれざりけり2
  • 人間(にんげん)の世界において、生活に間に合わせるには何かを「記憶」しておいて使用(活用)することは、それはそれで構わないのです。けれどもそういうものが、「此の物」の標準になり、そういうようなものによって求めようとしては駄目なのです。そういうような意味において「信心銘」の「一切留まらず、記憶すべき無し」というお示しを考えれば、前の事を「記憶」しておいて、次のものに間に合わせようというようなことは、 [続きを読む]
  • 水鳥の ゆくもかえるも跡たえて されども道は わすれざりけり1
  • 有名な道元禅師の歌です。絶対に「道」を誤るということはないのです。来た道は、来た道です。往った道は、往った道なのです。多くの人が「観念の誤り」として、何かを標準にしてそうしなければ本当の事が分からないのではないかと思っているのです。「事実」はそうではありません。標準を持たなくても、或いは標準無しにでも、私たち衆生は間違いなく生活は出来るのです。否、「出来ているのです」 [続きを読む]
  • 真っ只中2
  • 始めは自分で怒っていたのです。ところが、怒っていると思っていても実際には「怒り」はもう無いのです。影を追って無いものを有(在)ると思っているだけなのです。このように相手にしていくと、問題が起きるのですけど、相手にさえしなければ問題はないのです。「此の物」は「不思議な作用」をするのです。其れを誰も知(識)らずにいるのです。 [続きを読む]
  • 真っ只中1
  • 一般の宗教というのは、みんな自分を捨てさせておいて、何処かへ人間(にんげん)を頼らせようとするものです。宗教以外のあらゆる教えというものも、何処かへ連れて行って、其の間だけどうにか其の苦痛を和らぐようにする範囲のものなのではないでしょうか。「仏教」は違います。仏教というものは、その「苦痛の真っ只中」にいて、その「真っ只中のまま」で其の苦痛から離れ、遠ざかる「道」なのです。何も特別な事をするのではな [続きを読む]
  • 無所悟無所得の修行5
  • 仏教においては、「実相は無相である、一切が空である」と説かれています。これは自ら「実証」しないうちは、一つの「仮定」のようなものです。一般社会では、「事実は有(在)る」と仮定します。問題は、「事実が有(在)る、無い」という認識内容にあるのではなく認識を起こしている者、即ち、自分自身に有(在)るのです。自分が本当に「道(法)そのもの、事実そのもの」に成ることによって仏教の究極が「今の自己の様子そのものである [続きを読む]
  • 無所悟無所得の修行4
  • 例えば「道(法)を求める人」に「仮りに方便を使った」としても「方便を使う人」によっては、それが「仮り」ではありません。「事実」を示しているのです。分からない人には、このよう示していかなければなりません。しかし、「分からない人には」といっても「方便を使う人」が分からなければ「方便自体」が間違いに成ってしまい、私たち衆生を間違った方向に導くことになってしまいます。ですから、余程注意しないといけないという [続きを読む]
  • 無所悟無所得の修行3
  • 究極を唱える人が分かっていて、「無所悟無所得の修行」を唱えれば衆生教化には役立ちます。もし、究極がわかっていなくて「無所悟無所得の修行」を唱えたら一体どうなるのでしょうか。究極が分かっていて「無所悟無所得、手段、方法、方便」を唱えるというならば「起承転結」がはっきりしています。しかし、究極が分からなくて「方便、方法、手段」を唱えても「究極(本当の処)」に私たち衆生を連れて行ってあげることは出来ないと [続きを読む]
  • 無所悟無所得の修行2
  • 「結果」からいえば確かにその通りで不要のことです。不要なことではありますけれども、「不要だということ」を本当に自分のものにするには「坐禅」を修して「確証(実証)を得る必要」があるのです。そして、その「結果」というのは、「無所悟無所得の道」にかなうものになる訳です。別の言い方をすれば、何かの手段や方法を弄して、分からないことが分かったということは間違いです。しかし、分からないことを、分からないことと分 [続きを読む]