活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜 さん プロフィール

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活かして生きる   〜放禅寺の寺便り〜さん: 活かして生きる   〜放禅寺の寺便り〜
ハンドル名活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜 さん
ブログタイトル活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
ブログURLhttps://blog.goo.ne.jp/cotou
サイト紹介文娑婆世界を生きる智慧〜おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供365回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2015/01/12 10:50

活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜 さんのブログ記事

  • 「この法」とは1
  • 道元禅師「正法眼蔵」に曰く、「この法は人人(にんにん)の分上ゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし」と。「この法」とは、ありのままの状態、自分の今の事実という事です。「人人の分上」とはそれぞれの人がそれぞれの立場で一杯一杯に「法」が備わっているという事です。「修せざるにはあらはれず」とは、たとえ豊かに「法」が備わっていたとしても、修行しなければそれが働き [続きを読む]
  • 自分の一生2
  • 私たち衆生は六道輪廻を繰り返し、全く「本来の自己とは何か」ということを考えることもなく「自分の一生」を送り続けているのです。もう一度申し上げます。私たち衆生は産湯につかっていることを自分では知(識)りません。亡くなった時に身を浄められていることも自分では知(識)らないのです。「本来の自己」は知(識)らないまま世の中を過ごすのがほとんどの人の「状態(一生、人生)」なのです。 [続きを読む]
  • 自分の一生1
  • 私たち衆生は、自分では何年何月何日に生まれたということは知(識)りません。自分の名前を付けられたことも知(識)りません。しかし、知らず識らずの内に「私は太郎です、私は花子です」といえるようになるのです。実に不思議です。そして、物心がつく頃になると自分自身のことは考える暇もなく、物から吸収する力が強くなってきてますます「本来の自己」から遠ざかっていくのです。また、亡くなられる人も自分の死ということは自分 [続きを読む]
  • 人の人生2
  • 過去を顧みて現在の誡めとするのはよいことです。しかし、いつまでも取り返しのつかない過去にひっかかっていては愚の骨頂です。また、先のことばかりに引きずられて行くのは誇大妄想です。古歌に、「過去を思い 未来をここに引きよせて 今現在を 常(とこ)闇にする」とあります。今日あっての過去です。今日あっての未来です。否、過去も未来も「今日(即今)」となって現成(げんじょう)しているのです。今日なくして人生なし。今 [続きを読む]
  • 人の人生1
  • 人の人生。若い人はこれから先があると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって一生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。もっと適切にいえば、今の積もったものが一生です。たとえば、一千万は一円の積もったものです。一円を欠いても一千万にはなりません。今なくして、一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来らずです。ですから、「人生は今日にあり」と、い [続きを読む]
  • 瞬間
  • 人及び一切のものには「善悪」というものはありません。善と思う時があり、悪と思う時があるということです。人は一度に「二つの考え」を思うことは出来ません。ですから、「善と悪(二つの考え)」を一度に思うことは出来ないのです。先ず「善(悪)」と思ってから、その「善(悪)」という考え方がなくならなければ「悪(善)」を考えることは出来ません。その「善(悪)」と思ってから「悪(善)」と思うわずかの間にものすごいスピードで移 [続きを読む]
  • 四つの状態2
  • 修行の過程において、さらに四つの状態があることは別の覚者はお示しになっております。①自分が無くなったけれども、相手がある状態②相手は無くなったけれども、自分が残っている状態③相手も自分もあるという状態④自分も相手も無くなったという状態「今の事実」「自分の今の様子」というものは、この四つの状態の他にあるということです。別の言葉でいえば、今の私たち衆生一人一人の状態が、この四つの状態の他の処にあるとい [続きを読む]
  • 四つの状態1
  • 「今の事実」「自分の今の様子」を振り返って見ると習慣性があります。そうなると下記に掲げる四つの状態の一つに入ってしまいます。①言葉では言えるけど、内容が伴わない②内容は分かったけれども、どうしても言葉としてはその状態を言い表せない③言葉も内容も全く分からない④自分の思う内容も言葉に依って言える [続きを読む]
  • 本来無自己2
  • 具体的にどうしたらいいのか。それを、「自己を忘るるなり」とお示しになっているのです。私たち衆生は、「眼・耳・鼻・舌・身・意(六根)の働き」に因って「見聞覚知(けんもんかくち)」しているものを「自分」だといつの間にか(知らず識らずに)思い込んだりしています。そういう私たち衆生の様子を「生死の元(生きたり死んだり迷ったりする元)」だといっています。ですから、それを「忘れなさい」といっているのです。そうすれ [続きを読む]
  • 本来無自己1
  • 道元禅師の正法眼蔵の中に「仏道をならうというは、自己をならうなり、自己をならうというは、自己を忘るるなり」とお示しになった文言(もんごん)があります。「仏道をならうというは、自己をならうなり」の「自己」とは、因縁生に因ってつくられたところの「無自性」ということです。ですから、「中心のない、どこにもつかみどころのない自己」ということです。これを、「本来無自己」といっています。その「自己」を自分で見つ [続きを読む]
  • 道は知にも属せず不知にも属せず2
  • こちらに「聞くという働き」があるから、「人」がいなくても聞こえるのです。また、「見ようと思う時」は「見るという働き」があるから「人」がいなくても宇宙総がかりで、ものが見えるのです。考えたから見える、思ったからあるのではありません。これはまったく「知識」とかあるいはそうではないとかに関係なく「道」というものはそういうものです。このことを「道は知にも属せず不知にも属せず」といいます。 [続きを読む]
  • 道は知にも属せず不知にも属せず1
  • 私たち衆生には「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という六つの働きがあります。しかし、それはそういう働きだけのものです。私たち衆生には「私」という中心になるものはないのです。唯「耳」に音として音が入るのです。同じように様々な音が一度に入ってきても間違えることはありません。「人」が中心になってそういうものを聞いたり、見たり、考えようとすると間違いの元となります。何故そのものがそのものとして同時にそのま [続きを読む]
  • 「今」を看る3
  • 今の学校教育は「分からないことが有ってはならない」ということを基本にした教育です。しかし、「分からないことがある」ということを、はっきり分かって欲しいのです。それがほんとうに「分かったということ」です。「分からないという一番の源」は「自分自身を知(識)らない」ということに尽きます。「宗教の宗」というのは、本源という意味です。この本源を追求(追究)することが「本来の宗教であり科学」でなければなりません [続きを読む]
  • 「今」を看る2
  • 私たち衆生は既に生きているのに、どのように生きていこうかと考えるものです。しかし、私たち衆生は考える以前に既に生きているのですから、生きていることに対して一所懸命にならないといけないのです。それが「今」に一所懸命に成るということです。「今」というのは説明の出来ない世界です。すべてに関係なく誰でも「今」というところで生活しているわけです。 [続きを読む]
  • 「今」を看る1
  • 「悟り」は「吾が心」と書きますが、人(ひと)の分別心や認識の入らない世界をいいます。言い換えれば「今」ということです。私たち衆生は過去・現在・未来に対して掴むことが出来ない、分からないことを色々と考えて悩んでいるのです。「今」というのは、生きてもいないし死んでもいない、そういう状態です。「自分が生きている」ということは過ぎ去ってしまったから分かることなのです。 [続きを読む]
  • 「今」ということ3
  • 「一切のもの」が、いつでも完全な状態であり、充実した相(すがた)であるということです。それが「道」というものです。「ものが見える、ものが聞こえる、話が出来るから生きている」といいますが、それは全て「生きているという言葉の説明」にすぎません。それらは「今(今の事実)そのもの」ではなくて、「今(今の事実)の説明」にすぎないことです。「事実」というものがなくならないと「本当の今(今の事実)」ではありません。この [続きを読む]
  • 「今」ということ2
  • 「今というのは、もののない、認めようがないもの」です。ものの「有る無し」の「無い」ではありません。相対的な考えの「無い」ではありません。私たち衆生の日常生活は「生死生(しょうじ)を超越したところ」で行われているのです。これを「今」といっているのです。私たち衆生は「今をあるかの如く」に思っていますが、それは「私」というものを認めた所産なのです。ですから、「私の正体」を見極めれば「あるかの如く思っていた [続きを読む]
  • 「今」ということ1
  • 私たちの日常生活を見てみると、ほとんどの人が過去と未来の中にしか生活が出来ていないと思います。すなわち「過去というのは過ぎ去ったことであり、未来というのは未だ来らずのこと」なのに往々にして過去は愚痴になり、未来は不安の種にしてしまっているように見受けられます。過去と未来があるということは、必ず「今」がなければなりません。「今」があるから、過去と未来が生じるということです。これは「道」が分かる分から [続きを読む]
  • 「法」を求める態度
  • 修行している間は、(修行に期間があってはなりませんが)まず自分を忘れなければなりません。一度自分の考えを捨てないと道元禅師のいう「仏道をならうは自己をならうなり自己をならうというは自己を忘るるなり」になりません。考えと自分とは別のものではありません。自分を考え自分を自分で忘れるのではありません、「考えそれ自体」を忘れなければならないのです。おシャカ様のお言葉も、歴代の覚者のお言葉も、なかなか頭に入 [続きを読む]
  • 秩序と階級3
  • ですから、「その事実を知っても知らなくてもそういうふうになっている」ということです。実に「不思議」です。「不思議」とは「思議(考え)の及ばないところ」ということです。前後を見ないで今の事実に徹して下さい、今の自分の様子を見極めて下さい。そうすれば必ず秩序が保てるし、階級も「そのままありながらないと等しい状態」で「法(道)のまま、差別(しゃべつ)のまま」の生活が出来るということです。 [続きを読む]
  • 秩序と階級2
  • 秩序と階級はすべて「因と果」が元になっています。大きな因をつくれば大きな果を得るし、小さな因を播けば小さな果を得るのです。これは「理(理論)」として当然のことです。ですから、誰がつくったものということはいえないのです。これを「因果無人(いんがむにん)」といいます。私たち衆生の日常生活というのは必ず「私」というものの知(識)らないところで見たり、聞いたり、泣いたり、笑ったり、喜んだり、悲しんだりというよ [続きを読む]
  • 秩序と階級1
  • 今は自由にものがいえるようになりました。同時に民族意識とか民族の思想というものが、いわれるようになってきました。そこで好き勝手なことをして秩序が乱れたり、階級がなくなったり、今、世界中が混沌とした状態になっています。よほど各々(おのおの)ひとりひとりが自分の存在というものをはっきり「法(道)のまま=差別(しゃべつ)のまま」に活かして生きていかないと力の強いものが、また力で抑圧をしたり思想を統一して「平 [続きを読む]
  • 二重の迷い2
  • さらに成人してからも「観念以前の事実(本質)」を知(識)ることが出来ないまま「自己の現実と理性との間」に矛盾が生じてしまうのです。これが「もう一重の迷い」です。ですから、私たち衆生は「本質(認識以前の存在事実)」を知(識)らなければならないのです。おシャカ様は初めて認識の発生したことを知(識)り、「観念が錯覚を起こして迷うという事実」を見極めたのです。 [続きを読む]
  • 二重の迷い1
  • 「人間(じんかん、世の中、世間)」では、子供の成長すなわち物心がついた時を「知恵がついた」といいます。しかしこれは「一重の迷い」なのです。それは、子供時代の「物心のつく時の観念(認識以前の存在事実)を観念だという自覚」がないからです。そしてそのまま成人してしまい、観念に観念を生じ、思いに思いを重ねて社会生活を送るようになるのです。普通の人はこのことを知る由もないし、たとえ知り得てもその源を知(識)ら [続きを読む]
  • 業について5
  • 「自我」がものを認めることに因って「業、因縁、因果」というものがつくられる訳です。相手を認め、自分を認めれば溝が出来ます。溝が出来るから苦しいのです。そのくるしみを「地獄」といっています。「地獄」は亡くなってから行く所ではありません。「道」という羅針盤を”思い出さずに忘れずに” 精進していただきたく思います。道歌に「草木すら 仏となると 聞くからは 心ある身の たのもしきかな」 [続きを読む]