活かして生きる 〜山里の寺便り〜 さん プロフィール

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活かして生きる   〜山里の寺便り〜さん: 活かして生きる   〜山里の寺便り〜
ハンドル名活かして生きる 〜山里の寺便り〜 さん
ブログタイトル活かして生きる 〜山里の寺便り〜
ブログURLhttp://blog.goo.ne.jp/cotou
サイト紹介文娑婆世界を生きる智慧〜おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供364回 / 365日(平均7.0回/週) - 参加 2015/01/12 10:50

活かして生きる 〜山里の寺便り〜 さんのブログ記事

  • 「生きている」ということ4
  • 不満足だという感じを受けるものも、本当に満足したという感じを受けるものも、こちら側(自分自身)で受け取るものは「同じところのもの(心意識)」です。しかし、そういうことになかなか気づかないために、「迷い」というものを生じさせているわけです。そういういわゆる「迷い」というものを人類で初めて「解脱」されたお方を「おシャカ様(仏陀)」といっています。この方が初めて「迷い」というものから目醒められて「 [続きを読む]
  • 「生きている」ということ3
  • 人間にはどうしても「煩悩」があって、いくら「事実のまま」と言われても満足(納得)出来ないのです。ですから、どのようにしたら今のこの働きのままの自分(事実このまま)というものを、満足(納得)させることが出来るだろうかという生き方を探ることになるのです。これは、「貪顚痴」という「三毒」の煩悩の中に入ってしまうわけですけれども、本当は「生き方」というものは探れるものではありません。「生き方」を求め [続きを読む]
  • 「生きている」ということ2
  • 私たち衆生が「生きている」ということは、「説明」なのです。説明するにはものの実体というものがなければなりません。その実体というのは何かというと「此の物」です。説明のために自分自身を指し示せば、こういうもの(此の物)です。「此の物(こういうもの)」は、「見聞覚知(けんもんかくち)」する、そういう働きだけのものです。物に執着する働きだけのものです。 [続きを読む]
  • 「生きている」ということ1
  • 「生と死」の区別はどこでつけるのでしょうか。これは大問題だと思います。今までも仏教以外では「生と死」の区別をつけているものはありません。私たち衆生は、お父さんお母さんの因縁を借りて現実にこのようにありますが、こういう状態を人間(にんげん)は「生きている」といっています。ものが見える、音が聞こえる、話が出来るわけです。これはあくまで、「生きている」ということの説明の域を脱しません。 [続きを読む]
  • 今の教育4
  • 旧稿「自然(しぜん)と自然(じねん)」〈2015/04/06〉でも論考しましたが、「今の教育」で「自然(じねん)」を教えて頂きたいのです。そして、「差別(しゃべつ)と差別(さべつ)」の違いを教えて頂きたいのです。そうしないと、現代社会が問題視している「格差社会、人権問題」も根本的な解決にはならないと思います。「此の物(自分自身)」には社会的存在として人格を中心に考えた「人(ひと)」という塊りを何処にも [続きを読む]
  • 今の教育3
  • 人間(にんげん)が「人間(じんかん)”人の世、世間”」で「人間(にんげん)」を「観念的な自己」として「個(自我観)」を育てることが「教育」だと思っているのです。「人間到処有青山(じんかん いたるところ せいざんあり)」「人間万事塞翁馬(じんかん ばんじ さいおうが うま)」とはっきり「人間(じんかん)」と「教育」して頂きたいのです。 [続きを読む]
  • 今の教育2
  • ですから、「今の教育」は人間(にんげん)を本当に造る「教育」ではないということです。極論すれば、「人間を混乱させる教育」なのです。「個人(自我観)」を盛んに、「私(わたくし)」という観念を育てていくから世の中騒動が起きるのが当たり前なのです。起きないのが「不思議」なのです。そういう意味において「今の教育」は人間(にんげん)を教育する教育ではありません。 [続きを読む]
  • 今の教育1
  • 「眼(まなこ)」は訓練したのではないけれど、違っている物は、違ったままちゃんと誰でも分かります。考えなくても、「教育」したからでもありません。「眼」は無教育でもそういうふうに働くように出来ています。「六根全体」はそういう「事実」を持っているのです。それを私たち衆生は知(識)らないのです。私たち衆生には根本的に備わっているのです。その大切なもの、見えていて今それを使っているのに「今の教育」 [続きを読む]
  • 迷悟について4
  • 本当に「功夫だけに成った時が即ち身心脱落の時」です。ですから、功夫だけに成り切れないために、結果として身心脱落が出て来ないのです。本当に真剣に「ただに成る、ただに成った時に、求めるとか求めないとかにかかわらず無所悟無所得のその今に、自分が明らかに目醒める」ということがあるのです。それがないということは、やっぱり二人連れの坐禅をしているということです。「ただと自分」、「公案と自分」というものが [続きを読む]
  • 迷悟について3
  • 迷いとか悟りとかいいますが、「もともと迷っていなかったんだ」ということに気が付く、それだけのことです。迷っていなければ悟りというものがあるはずがないのです。ですから、「迷いも悟りもない」のが今の私たち衆生の「本当の様子(状態)」なのです。それを、「今」といっているのです。今の連続ですから、今を離れてものというものは存在しないのです。迷いも悟りも入る隙間もないのが「今」なのです。そういう今 [続きを読む]
  • 迷悟について2
  • 「金剛座に坐す」というお示しがありますが、過去の諸仏は必ず坐禅をする時分には「金剛座」に坐したのです。「金剛座」ということは、永久に変わらない、変化のない坐禅です。どこへどのように坐っている時も、立っている時も、寝ている時も、いつの場合においても変わらないそうしたところにいることが、この「金剛座」といわれる所以です。 [続きを読む]
  • 迷悟について1
  • 迷いや悟りということを問題にするということは、現在の自分の気持ちに乱れがあり、その気持ちに乱れがあるということを問題にしているからです。考え方をああでもない、こうでもないと言えばきりがないのです。ですから、そんなものを一切問題にしないで、そういうふうに問題にしようとするその主体を離してしまえばよいのです。「不変不動」というお示しがあります。問題にする「主人公」を離してしまえば、始めからもう永久 [続きを読む]
  • 不安と安心2
  • 「困っている状態がなくなれば、安心だとか、悟りだとか、満足というものがあるだろう」と思うこと。考え方としては分かりますが、「実際にはどんなものが、そういうものであるか」ということは分からないわけです。おシャカ様を始めとして歴代の覚者の書物、道友の指導などを受けて、「参禅」をするわけですけれど、どうしても「不満に対しての満足の状態というものは、こういうものだろう」というものが離れないのです。それ [続きを読む]
  • 不安と安心1
  • おシャカ様を始め、歴代の覚者と言われる方々でも、不安や苦しみ、悩みというものは、おありになったと思います。「不安を除けば安心というものがあるだろう」と思うこと。これは、「想像」です。「安心というものがどういうものであるか」ということはまったく見当がつかないのに、です。対象として、「今の自分の不安は、こういうものだから、こういうものが無くなれば、安心というものがあるだろう」という、そのくらいの [続きを読む]
  • 迷い・不安について2
  • 別の言い方をすれば、自分というものがあり、それが迷いや不安を生じさせているのだから、自己を明らめさえすれば、迷いや不安がなくなるであろうと思うことは間違いなのです。「自己の正体を見極める」ということを、自分さえなくなりさえすればと間違って受け取られると、いつまでたっても、迷いや不安が残ります。迷いや不安というのは、自己とは別のものではないということを、はっきりここで認識をして頂きたいと思います [続きを読む]
  • 迷い・不安について1
  • 「ものがある」ということは、「もの」があるのではありません。自分があるということなのです。 迷いや不安は、自分以外のところにあって、それを自分が認めているものではありません。迷いとか不安というもの自体、それが自分なのです。自分を認めて「自己の正体を見極める事」によって、迷いや不安が解消されると思うのは間違いです。「迷い・不安がすなわち自己」ですから、指導者は「迷いに成り切りなさい」「不安に [続きを読む]
  • 不安2
  • どうなるかわからない、ただやるだけだったのです。 「正しい悟りを得なければ、この坐を立たない」という その決意が「一見明星(いっけん みょうじょう)」に成って 実現したということです。 ですから、「おシャカ様も一見明星なさるまでは、今の自分と同じだったんだ」 というふうに考えていただきたく思います。 [続きを読む]
  • 不安1
  • 「道」を得た人というのは、「悟り」とはどんなものだろうか、 あるいは出来るだろうか、どうだろうか、という皆そういう 「不安」を持って始めは出発したものです。 それがなくなってきて、坐禅三昧、功夫三昧になったおかげで 「道」を得られたということです。 二千五百余年前のおシャカ様も今の私たち衆生のこの「坐禅」と 全く同じだったのです。 [続きを読む]
  • 迷いとは
  • ものを正しく考え、正しく見るという「正」の字は「一つに止(とどまる)」と書きます。 「本来一つしかないもの」を正しいとか正しくないとか、好きとか嫌いだとか相手の側にそういうものがあるように思って迷っているのは「正」ではありません。 「迷い」というのは対象に迷わされるのではなくて「自分の中の自分の象徴」と 「本来の自分」とが葛藤を起こしていることなのです。 従って、どんなに素晴らしい教えでも、他か [続きを読む]
  • 絶学2
  • おシャカ様は「一見明星」して初めて自分というものも含めて「法」でないものは無いという事に気付いた人です。「自分の法」の中にいて「法」を修行しているのです。ですから、どんな恐れも迷いも不安も「恐れという法」「迷いという法」「不安という法」なのです。それがそうと気付けば煩悩は菩提になり、迷ったまま悟りとなり、不安のままが安心(あんじん)に成るのです。自分の意識の中に異質なものが入り込むというこ [続きを読む]
  • 絶学1
  • 困りに困っていた人が、迷いから離れたり、苦しみから逃れることが可能なものが「法」です。それを十分理解しておいて頂きたいと思います。そのことが本当に理解出来ないと、坐禅が「習学」になってしまいます。禅の修行は「絶学」でなければなりません。ひと息、ひと息が全部一息(いっそく)という呼吸そのことで脱落しなければならないようになっているのです。しかし、なかなかそういうことに気が付かないのです。どう [続きを読む]
  • 全異全同4
  • しかし、「眼横鼻直(がんのうびじょく)」はどこまでも同じです。「四大仮和合(しだいけわごう)」は、どこまでも同じなのです。因縁は各々(おのおの)異なりといえども、無自性なることは、どれも同じなのです。ですから、どうしても「自己という塊り」を認めようがないのです。 [続きを読む]
  • 全異全同3
  • 般若心経の「色即是空」とは「色」に惑う人の為に設けた「応病薬」なのです。「空即是色」は「空」に惑う人の為の一時の設けです。本来は、「空即空」です。「色即色」です。男性これ男性、この男性は、かの男性ではありません。女性これ女性、この女性は、かの女性ではありません。 [続きを読む]
  • 全異全同2
  • いくら遠ざかっていても同じものなのです。それほど親しいものはありません。離れていながら一つ物なのです。「元来一つ物」なのです。「波」は変われども、「水」は一つなのです。「全異波全同水」なのです。「同」に偏してはいけないし、「異」に堕してもいけないのです。 [続きを読む]
  • 全異全同1
  • 世間法すべて「名(な)」です。「物物元来同一性(もつもつがんらい どういつしょう)」です。「四大(地・水・火・風)」は古今に通じています。同じものから「縁」に触れて千差万別があるのです。言い換えると、千差万別のままで同じものなのです。これを「全異全同」といっています。男性は男性、女性は女性、天は天、地は地と別々にいてそのままで一つ物なのです。 [続きを読む]