青松光晴 さん プロフィール

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青松光晴さん: 日本古代史つれづれブログ
ハンドル名青松光晴 さん
ブログタイトル日本古代史つれづれブログ
ブログURLhttp://aomatsu123.blog.fc2.com/
サイト紹介文邪馬台国を中心とした日本古代史の謎を、神話・史書・遺跡・各地伝承などから、解き明かします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供60回 / 365日(平均1.2回/週) - 参加 2015/02/22 10:20

青松光晴 さんのブログ記事

  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(15)〜比恵・那珂周辺遺跡群の果たした役割
  • さて比恵・那珂周辺遺跡群の概要、さらには奴国(通説)において、須玖岡本遺跡が首都、比恵・那珂遺跡が副首都であり、それが弥生後期になり、比恵・那珂遺跡が首都になっていったことを、お話しました。そして広域地域圏という概念でいえば、福岡平野〜筑後川流域にかけて、連合国というとらえかたもできる、ということにも触れました。ここで一つ興味深いテーマを取り上げます。それは、「比恵・那珂遺跡群、広い範囲でいえば奴 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(14)〜北部九州の「邪馬台国広域地域圏」
  • 前回、奴国(通説)の領域が、福岡平野を中心としたエリアであること、その領域が私が邪馬台国と考える領域とほぼ同じであること、をお話しました。ところで邪馬台国畿内説においては、纏向遺跡を中心として、奈良盆地のみならず、その周辺領域も包含した広い地域を、邪馬台国「広域地域圏」とする説を紹介しました。もっとも、纏向遺跡を中枢とする以上、無理があることもお話ししました。では、九州北部においても、同様な邪馬台 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(13)〜奴国(通説)の範囲
  • 前回、邪馬台国当時の大規模集落として九州北部の比恵・那珂遺跡の概要をお話しました。遺跡の規模・内容もさることながら、注目は、遺跡南の須玖岡本遺跡が、クニの首都であり比恵・那珂遺跡が、副首都だったと考えられることです。そのクニですが、一般的に、「奴(な)国」とされてます。奴国は、三国志魏志倭人伝に出てくるクニです。伊都国の東南百里のところにあると記載されてます。一里を短里の約75mとすると、伊都国は今 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(12)〜比恵・那珂周辺遺跡群
  • 前回まで纏向遺跡について、魏志倭人伝からみた検証をしてきました。その結果、纏向遺跡は魏志倭人伝の描く倭国やその都である邪馬台国の姿とは多くの点で合致しないことがわかりました。昨今のマスコミ報道では、邪馬台国は纏向遺跡で決まりみたいな論調ですが、それとは大きく異なることになります。ところで皆さんのなかには、「魏志倭人伝は今から1600年以上前に編纂された史書で、しかも当時の中国人が倭国の伝聞を基に書いた [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(11)〜発掘担当者が語る纏向遺跡の真実④
  • 3回にわたり、実際に纏向遺跡を発掘調査された、関川氏(元橿原考古学研究所)の論文を、紹介してきました。その内容は、地元畿内の邪馬台国畿内説ではなく、逆にそれは成り立たない、という刺激的な内容でした。最後に、纏向遺跡に対して興味深い指摘をしてます。”纏向遺跡は庄内式から布留式にかけての時代であるが、この時期も、中国王朝と直接交渉の無かった時代とみることができ、卑弥呼の時代よりは後の遺跡とみることがで [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(10)〜発掘担当者が語る纏向遺跡の真実③
  • 引き続き、関川氏論文です。次は古墳です。周知のとおり、奈良盆地東南部には、箸墓(はしはか)古墳をはじめとした大型前方後円墳などの古墳群が広がってます。この大型前方後円墳の登場こそ各地のこれまでの古墳とは画期をなすものであり、古墳時代の始まりとしてます。そして”考古学における邪馬台国大和説においては、このような古墳出現の歴史的基盤が、すでに大和において存在したであろう、という想定がその根底にある。” [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(8)〜発掘担当者が語る纏向遺跡の真実①
  • 前回は、邪馬台国の広域地域圏という概念について、考察しました。結論としては、そうした概念はありうるものの、それが即「邪馬台国畿内説」とは、結びつかないことをお話しました。そのポイントの一つとして、銅鐸祭祀をどのように考えるのか、があります。具体的には、纏向遺跡が銅鐸祭祀を行っていたのか、それならなぜ遺跡出現の3世紀頃に突然、中止したのかを明確にする必要があります。なぜここにこだわるのかというと、大 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(9)〜発掘担当者が語る纏向遺跡の真実②
  • 前回、纏向遺跡を長年にわたり発掘してきた関川尚功氏の論文を紹介しました。論文によれば、大和地域全体としてみれば、弥生時代後期までは、畿内の他地域と比べても特徴的・先進的な面があるとはいえず、九州北部と比べれば明らかに後進地域であったことが、わかります。関川氏も、”こうした事実は、邪馬台国論争においても、肯定的な材料にはなりえない。”と述べてます。これに対して、皆さんのなかにはこのように考える方がい [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か(7)〜広域地域圏という概念
  • 前回、邪馬台国の広さを仮定したところ、奈良盆地だけでは納まりきらないことをお話しました。こうなると邪馬台国畿内説が成立しなくなります。一方、広域地域圏という考え方があります。簡単に言うと、邪馬台国はひとつのクニではなく、近隣の多数のクニの連合国家だ、という概念です。興味深い論文があるので、紹介します。「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」(岸本直文、国立歴史民俗博物館研究報告 第185 集 20 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(6)〜広さを検証する
  • 前回は、魏志倭人伝の記載と、纏向遺跡を比較すると、11項目のうち、合致しているといえるのはわずか4項目、36%に過ぎないことをお話しました。今回は、前回検証を飛ばした項目について、みていきます。その項目とは、「人口」と「面積」です。飛ばした理由は、実態があいまいであり、検証しにくいものだからです。とはいえそれでは話が進みませんから、仮定を設けて進めます。魏志倭人伝に、「邪馬台国は七万戸余り」とありま [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(5)〜魏志倭人伝記載との検証
  • ここまで纏向遺跡の概要をお話してきました。遺跡内には、遺構、遺物、古墳などがあるわけですが、ではそうした考古学的なものは、三国志魏志倭人伝に描かれているものと、一致しているのでしょうか?。そのあたりをみてみます。改めて魏志倭人伝の描く倭国の様子を再掲します。1.紀元前後から継続している遺跡である。2.周辺含めた全体領域は、少なくとも3万ha以上,人口は40〜50万人に及ぶ。3.海辺にあり、漁業を中心とし [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(4)〜纏向遺跡の遺構・出土物・古墳
  • 前回は、纏向遺跡の特徴をお話しました。今回は、実際の遺構・出土物をみていきたいと思います。桜井市纏向学研究センターHPより、ポイントをまとめました。まずは遺構です。 大型建物群は、卑弥呼の館かと話題になりました。住居は炉跡がないなど、生活の臭いが感じられません。祭祀の場だったのでしょうか?<大型建物遺構>(奈良県HP「歩く・なら」より)次に遺物をみましょう。 弧文石、弧文板は、吉備由来です。という [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(3)〜纏向遺跡とは
  • さて、それでは本論である「纏向遺跡」にはいります。”奈良県桜井市域の北部、JR巻向駅周辺に展開する。3世紀初頭〜4世紀前半にかけて存続した。南北約1.5km、東西約2kmにも及ぶ。現在までの調査は、全体面積の5%程度である。”(「邪馬台国ー近畿説の一例 纏向遺跡の調査とその特質」(橋本輝彦、桜井市教育委員会文化財課)より)面積は約300ha(万?)にも及ぶ広大な弥生時代末期から古墳時代前期にかけての遺跡です。卑 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(2)〜魏志倭人伝が記す「倭国」の詳細
  • 「邪馬台国」がどこなのか?、は日本古代史最大のミステリーと言ってもいいでしょう。前回は、同時代の西日本集落をまとめましたが、多くの遺跡があることがわかります。ではどこなのかについては、議論百出といったところで、結論が出てません。それは一つには、「邪馬台国」について最も詳細に記している中国史書「三国志魏志倭人伝」が示す位置が、いかようにでも解釈しうるからからです。実際には丁寧に読み解くと、位置はみえ [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(1)〜まずは遺跡の整理から
  • 前回までで、イネ・土器・銅鐸・古墳などのさまざまなデータから、日本古代史の動きを推定してきました。さらにそれらの動きを時系列的・横断的に整理して、史書に記されてい史実と対比させると、興味深い関連性があることも、お話しました。 それらをさらに極めていきたいと考えてます。今回は、大和(奈良県)の纏向(まきむく)遺跡です。纏向遺跡といえば、最近遺跡の発掘が進み、時期や規模の大きさ、出土物などから、邪馬台 [続きを読む]
  • まとめ〜土器、銅鐸、古墳、イネが語る古代日本の真実
  • ここまで長らく、土器、銅鐸、古墳、イネについて、科学的データからみてきました。それぞれを時系列でみれば、複雑かつダイナミックな動きがあったことが改めてわかりました。その動きを歴史のなかでとらえれば、「西→東」という大きな流れがあったと言えるわけです。もちろん細部についてはいろいろあるでしょうが、鳥瞰的にみれば、そのような流れがあったことは、明らかです。これまではそうした動きを個別にみてきたわけです [続きを読む]
  • イネは語る(6)〜縄文の心、弥生の心
  • 5回にわたり、イネが日本に渡ってきた歴史をみてきました。稲作は私たちが学校の歴史の授業で習ったような「弥生時代の渡来」ではなく、はるかに時代をさかのぼり、縄文時代の6400年前には、日本列島にやってきました。そのイネは、熱帯ジャポニカ(陸稲)であり、焼畑により栽培していました。温帯ジャポニカ、すなわち水田稲作が伝わったのは、紀元前10世紀ころと推定されてます。ただし水田稲作と言っても、私たちが思い描くよ [続きを読む]
  • イネは語る(5)〜「道上の道」と人の移動とイネの伝播
  • 前回、イネは古代東南アジアにあったスンダランドから直接伝わった、という話をしました。皆さんのなかにはそれを読んで、日本からみてはるか遠い地域から直接伝わるなどということがあるのだろうか、と思われた方も多いと思います。ここで改めて、前々回お話した「新・海上の道」を再掲します。「新・海上の道」とは、小田静夫氏(元東京都教育庁文化課職員)の命名で、”柳田國男氏が「椰子の実」から想定した原日本人南方渡来仮 [続きを読む]
  • イネは語る(4)〜熱帯ジャポニカの原産地は?
  • 前回までで、縄文時代に伝わった稲作(陸稲、熱帯ジャポニカ)と、弥生時代に伝わった稲作(水稲、温帯ジャポニカ)が、どこからやってきたのかについて、お話しました。縄文稲作(熱帯ジャポニカ)は、長江中下流域から、直接あるいは朝鮮半島経由で伝わったとする従来の説のほか、南方から伝わったとする「海上の道」説の可能性もある、とのことでした。(「イネの日本史」(佐藤洋一郎)より)ここでよく見てください。弥生時 [続きを読む]
  • イネは語る(3)〜弥生時代の稲作の実態とは?
  • 前回は、稲作は縄文時代に伝わった、ということをお話しました。ただしそのイネは熱帯ジャポニカであり、陸稲稲作であったと考えられます。その後弥生時代になり、温帯ジャポニカの水田稲作が伝わりました。かつてその時期は、紀元前3〜4世紀頃とされてきましたが、近年紀元前10世紀にまでさかのぼるとする説が発表され、衝撃を与えました。まだまだ異論もありますが、次第に浸透しているように感じます。ところで学校の歴史の [続きを読む]
  • イネは語る(2)〜縄文時代にやってきた稲作
  • 前回のとおり、稲作は約7000年前に長江中下流域にて始まりました。それより古い遺跡も発見されてますが、出土した種子などの年代が測定されていないため、現時点では最古は7000年前ということになります(佐藤洋一郎氏による)。その稲作が日本列島に伝わったとしてます。かつては稲作は、弥生時代の紀元前3〜4世紀頃に伝わったとされてきました。それが弥生時代の幕開けでもあったわけです。ところが遺跡の発掘調査により、日本 [続きを読む]
  • イネは語る(1)〜意外な実態とは?
  • このところ、数十回にわたり、土器、銅鐸、墳墓についてみてきました。一連のデータからわかったことは、大きな流れとして、「西→東」という移動があったことです。もちろん実際にはそのような単純な話ではなく、さまざまな複雑な流れがあったわけですが、大まかな流れとして、そのようなことが言えるわけです。そして前回までの古墳の話のなかで、畿内王権の全国支配の象徴とされる「前方後円墳体制」なるものは、少なくともデー [続きを読む]
  • 古墳は語る(28)〜まとめ
  • ここまで27回の長きにわたり、縄文時代の墓から弥生時代の墳丘墓、そして古墳時代の前方後円墳などを、時代を追ってみてきました。ここからわかることは、特に弥生時代以降は西から東への伝搬があったということです。また前方後円墳については、その起源はまだよくわからないものの、少なくとも畿内が発祥ではないことは明らかです。そして私たちが歴史の教科書で習った「前方後円墳は、大和王権の全国支配の象徴である」という [続きを読む]
  • 古墳は語る(27)〜阿蘇のピンク石とは?
  • 前回は、装飾古墳という、異国情緒漂う美しい古墳の話をしましたが、もうひとつ興味深いものがあります。名前は「阿蘇のピンク石」です。正確には「阿蘇山溶岩凝灰岩」のうちの、熊本県宇土産の石を指します。「ピンク石」という奇妙な名前がつけられてますが、名前のとおり、ピンク色をしています。そしてこの石を石棺に使用している古墳があるのです。<今城塚古墳石棺、大阪府高槻市>(「NIKKEI STYLE」(2011.11,1)より)被葬 [続きを読む]
  • 古墳は語る(26)〜装飾古墳分布の不思議
  • 石室内部に、不思議な模様が描かれている古墳があります。「装飾古墳」と呼ばれている古墳です。"墓室の壁面や棺などに,絵具や線刻で絵画,文様の装飾を施した墓のこと。中国の漢〜唐代,朝鮮の高句麗時代,日本の古墳時代後・末期の墓にみられる。絵画には人物,馬,馬具,武具,舟などもみられ,文様には同心円文や三角文などの幾何学文がある。赤,青,白などの色が多く用いられている。”(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事 [続きを読む]