青松光晴 さん プロフィール

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青松光晴さん: 日本古代史つれづれブログ
ハンドル名青松光晴 さん
ブログタイトル日本古代史つれづれブログ
ブログURLhttps://aomatsu123.blog.fc2.com/
サイト紹介文邪馬台国を中心とした日本古代史の謎を、神話・史書・遺跡・各地伝承などから、解き明かします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供61回 / 365日(平均1.2回/週) - 参加 2015/02/22 10:20

青松光晴 さんのブログ記事

  • 宗像神を祭る神社データは語る(11)〜宗像神が祭られた時期
  • ここまで、矢田氏論文のデータを基に、宗像神についてみてきました。矢田氏は、膨大なデータを駆使して、見事な分析をしてます。古代史において、ここまで統計データを用いて解析をするのは、なかなかないのではないでしょうか?。なにか理系の臭いを感じますね。ここまで論者である矢田氏について紹介してませんでした。矢田氏は、元静岡理工科大学 理工学部 機械工学科教授で、金属工学が専門のようです。神社関連の研究は、趣味 [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社データは語る(10)〜中国山地の宗像神
  • 広島県は、宗像神を祭る神社が最も多いのですが、その分布をみてみましょう。図7を見てください。上段の数字は各郡の全神社数に対する宗像神を祭る神社の比率、下段の数字は純宗像系神社(宗像神社を含む)の数です。宗像神は、安芸の厳島神社のある海岸地帯ばかりでなく、内陸部にも多く、特に現在三次(みよし)市の一部となっている旧三谿(みたに)郡で、最も高い集中を示してます。ではなぜこのような山奥に、宗像神が祭られ [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社データは語る(9)〜印旛沼周辺の宗像神社群
  • 次に千葉県です。引き続き矢田氏論文からです。長くなりますが、たいへん興味深くかつまた参考になるので、引用させていただきます。3.印旛沼周辺の宗像神社群”千葉県の13社の宗像神社は、すべて旧印旛沼の北岸に沿って丘陵上に分布する。印旛沼は、現在ではいくつかの小さい湖沼に分かれているが、かつては利根川に繋がる長大な河跡湖であった。図6に郷土史家の小倉博氏による分布略図を示した。この図に示すように、この宗像 [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社データ(8)〜栃木県の田心信仰
  • 次は、栃木県です。2.栃木県の田心信仰”栃木県でタゴリを祭る66社はすべて神名を田心と表記し、「古事記」風の表記は全くない。これはこの信仰が、古くかつ強固であることを示唆する。タゴリのみを祭る神社61社のうち社名がもっとも多いのは滝尾(瀧尾)神社(タキオまたはタキノオ)の14社(うち1社は日光滝尾神社)で、うち20社は田心のみを祭り、他神がない。1社はイチキシマを配祠し、3社は他に大己貴(オオナムチ)命と味 [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社の全国分布(7)〜津軽のムナカタ神社
  • さて宗像神信仰は、古代から広く分布していたことが、データからも確認できました。今回は、現代においても顕著に分布している地域をみていきましょう。それを知ることにより、伝播の姿がみえてくるかもしれません。論文で挙げられている地域と信仰は、1.津軽のムナカタ神社2.栃木の田心信仰3.千葉印旛沼周辺の宗像神社群4.中国山地の宗像神です。以下、概要をまとめます。1.津軽のムナカタ神社「平成データ」によると、 [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社の(6)〜古代における宗像神の位置と現在の比較
  • 前回、現在の神社を、信仰されている系統別に整理しました。1位が八幡信仰、2位が伊勢信仰、3位が天神信仰でした。そして多くの神社において、さまざまな神様が習合されていることも、お話しました。では、古代においては、どのような神様が信仰されていたのでしょうか。今回はそれをみていきます。表7は、延喜式神名帳から、社名が同一であるか、同一と判断される社の数を集計したものです。1位が鴨、2位が兵主、3位が [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社データは語る(5)〜現代で最も多い神社の神様は?
  • ここまで宗像神をみてきましたが、ここで一度、全国の神社に目を向けましょう。ここで皆さんに質問です。「日本全体で、最も信仰されている神様は何でしょうか?」すぐに思いつくのは、天照大神でしょうか。あるいは天神さまやお稲荷さん?実は信仰されている神様で最も多いのは、神社の系統でいうと八幡信仰で7817社もあります。次が、伊勢信仰の神社で、4425社です。三位が、天神信仰で、3953社、以下、稲荷信仰、熊野信仰と続き [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社のデータは語る(4)〜弁天信仰との関係
  • 日本各地に、「弁天さま」と呼ばれるものがあります。安芸の厳島も、日本三大弁天(弁財天)として、知られてます。ちなみに日本三大弁天とは、厳島神社のほか、宝厳寺・竹生島神社(滋賀県 竹生島)と江島神社 (神奈川県 江の島)です。<江島神社> (Wikiediaより)”弁財天とは、もとはインドの川の神サラスヴァティーである。それが仏教に取り込まれ、中国経由で日本に入ってきたのは奈良時代とされる。平安時代に日本の女神 [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社のデータは語る(3)〜厳島神社との関係とは?
  • 前回までで、宗像神信仰は、イチキシマ・タゴリ・タギツの三女神の信仰が分かれており、イチキシマ信仰は突出して多いこと、三女神セットの信仰は西日本に偏っているというデータを紹介しました。これらのデータから、もともとはイチキシマ・タゴリ・タギツ信仰があり、後代になり宗像三女神に変わっていったのではないか、という仮説が立てられるという話をしました。さて今回は、三女神のなかでも突出して多いイチキシマ信仰につ [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社データは語る(2)〜三女神の分布の違い
  • さて全国の宗像神を祭る神社は3532社ありますが、そのすべてが元来の宗像神であったわけではない、といいます。地名にもある八王子を祭る八王子信仰社は、のちに宗像神にすり替えられたと考えられます。ここからは、八王子信仰社607社を除いた2925社について解析してます。”宗像神が最も多く祭られているのは、広島県の240社で、以下山口・愛媛・三重・福岡の順となる。福岡県を信仰の出発点と仮定すると、宗像信仰は周防灘から瀬 [続きを読む]
  • 宗像神を祭る神社データが語ること(1)〜宗像三女神とは?
  • さて前回まで、纏向遺跡は邪馬台国なのか?、というテーマでお話してきました。結論は、纏向遺跡は邪馬台国の要件を満たしておらず、むしろ九州北部の福岡平野にあったとされる奴国(通説)が、ほぼ条件を満たしているという話でした。当時倭国の中枢は九州北部の邪馬台国にあったわけです。それが時代を経て、畿内に中枢が移っていった、ということになります。このブログのテーマでもある、「西→東」への移動の一つです。こうし [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か(18)〜まとめ、纏向遺跡と神話の関係とは?
  • さてここまで17回にわたり、纏向遺跡についてみてきました。ここでまとめをします。■纏向遺跡は3世紀始め頃に出現し、3世紀半ばには消滅するという、わずか100年余の期間に存続した遺跡である。■周辺の弥生時代遺跡と同様の特徴をもつことなどから、異文化の人々がやってきて征服して造られたものではない。■造った人々は、周辺に住んでいた人々だったと推定される。ただし、吉備や九州北部の影響を受けており、出自として [続きを読む]
  • 新著の紹介〜シリーズ第4弾の出版です!
  • いつもブログを読んでいただき、ありがとうございます。8月27日に、シリーズ第4弾「図とデータで解き明かす日本古代史の謎4 イネ・土器・銅鐸の東伝が語る真実」を出版いたしました。これまで、日本人がいつどこからやってきて倭国を形成し、やがて日本国となるまでを、神話、史書、考古学、その他科学的データを用いて、一つの壮大なストーリーとして描いてきました。今回はそれをさらに究明しました。テーマとして、イネ・ [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(15)〜比恵・那珂周辺遺跡群の果たした役割
  • さて比恵・那珂周辺遺跡群の概要、さらには奴国(通説)において、須玖岡本遺跡が首都、比恵・那珂遺跡が副首都であり、それが弥生後期になり、比恵・那珂遺跡が首都になっていったことを、お話しました。そして広域地域圏という概念でいえば、福岡平野〜筑後川流域にかけて、連合国というとらえかたもできる、ということにも触れました。ここで一つ興味深いテーマを取り上げます。それは、「比恵・那珂遺跡群、広い範囲でいえば奴 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(14)〜北部九州の「邪馬台国広域地域圏」
  • 前回、奴国(通説)の領域が、福岡平野を中心としたエリアであること、その領域が私が邪馬台国と考える領域とほぼ同じであること、をお話しました。ところで邪馬台国畿内説においては、纏向遺跡を中心として、奈良盆地のみならず、その周辺領域も包含した広い地域を、邪馬台国「広域地域圏」とする説を紹介しました。もっとも、纏向遺跡を中枢とする以上、無理があることもお話ししました。では、九州北部においても、同様な邪馬台 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(13)〜奴国(通説)の範囲
  • 前回、邪馬台国当時の大規模集落として九州北部の比恵・那珂遺跡の概要をお話しました。遺跡の規模・内容もさることながら、注目は、遺跡南の須玖岡本遺跡が、クニの首都であり比恵・那珂遺跡が、副首都だったと考えられることです。そのクニですが、一般的に、「奴(な)国」とされてます。奴国は、三国志魏志倭人伝に出てくるクニです。伊都国の東南百里のところにあると記載されてます。一里を短里の約75mとすると、伊都国は今 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(12)〜比恵・那珂周辺遺跡群
  • 前回まで纏向遺跡について、魏志倭人伝からみた検証をしてきました。その結果、纏向遺跡は魏志倭人伝の描く倭国やその都である邪馬台国の姿とは多くの点で合致しないことがわかりました。昨今のマスコミ報道では、邪馬台国は纏向遺跡で決まりみたいな論調ですが、それとは大きく異なることになります。ところで皆さんのなかには、「魏志倭人伝は今から1600年以上前に編纂された史書で、しかも当時の中国人が倭国の伝聞を基に書いた [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(11)〜発掘担当者が語る纏向遺跡の真実④
  • 3回にわたり、実際に纏向遺跡を発掘調査された、関川氏(元橿原考古学研究所)の論文を、紹介してきました。その内容は、地元畿内の邪馬台国畿内説ではなく、逆にそれは成り立たない、という刺激的な内容でした。最後に、纏向遺跡に対して興味深い指摘をしてます。”纏向遺跡は庄内式から布留式にかけての時代であるが、この時期も、中国王朝と直接交渉の無かった時代とみることができ、卑弥呼の時代よりは後の遺跡とみることがで [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(10)〜発掘担当者が語る纏向遺跡の真実③
  • 引き続き、関川氏論文です。次は古墳です。周知のとおり、奈良盆地東南部には、箸墓(はしはか)古墳をはじめとした大型前方後円墳などの古墳群が広がってます。この大型前方後円墳の登場こそ各地のこれまでの古墳とは画期をなすものであり、古墳時代の始まりとしてます。そして”考古学における邪馬台国大和説においては、このような古墳出現の歴史的基盤が、すでに大和において存在したであろう、という想定がその根底にある。” [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(8)〜発掘担当者が語る纏向遺跡の真実①
  • 前回は、邪馬台国の広域地域圏という概念について、考察しました。結論としては、そうした概念はありうるものの、それが即「邪馬台国畿内説」とは、結びつかないことをお話しました。そのポイントの一つとして、銅鐸祭祀をどのように考えるのか、があります。具体的には、纏向遺跡が銅鐸祭祀を行っていたのか、それならなぜ遺跡出現の3世紀頃に突然、中止したのかを明確にする必要があります。なぜここにこだわるのかというと、大 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(9)〜発掘担当者が語る纏向遺跡の真実②
  • 前回、纏向遺跡を長年にわたり発掘してきた関川尚功氏の論文を紹介しました。論文によれば、大和地域全体としてみれば、弥生時代後期までは、畿内の他地域と比べても特徴的・先進的な面があるとはいえず、九州北部と比べれば明らかに後進地域であったことが、わかります。関川氏も、”こうした事実は、邪馬台国論争においても、肯定的な材料にはなりえない。”と述べてます。これに対して、皆さんのなかにはこのように考える方がい [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か(7)〜広域地域圏という概念
  • 前回、邪馬台国の広さを仮定したところ、奈良盆地だけでは納まりきらないことをお話しました。こうなると邪馬台国畿内説が成立しなくなります。一方、広域地域圏という考え方があります。簡単に言うと、邪馬台国はひとつのクニではなく、近隣の多数のクニの連合国家だ、という概念です。興味深い論文があるので、紹介します。「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」(岸本直文、国立歴史民俗博物館研究報告 第185 集 20 [続きを読む]
  • 纏向遺跡は邪馬台国か?(6)〜広さを検証する
  • 前回は、魏志倭人伝の記載と、纏向遺跡を比較すると、11項目のうち、合致しているといえるのはわずか4項目、36%に過ぎないことをお話しました。今回は、前回検証を飛ばした項目について、みていきます。その項目とは、「人口」と「面積」です。飛ばした理由は、実態があいまいであり、検証しにくいものだからです。とはいえそれでは話が進みませんから、仮定を設けて進めます。魏志倭人伝に、「邪馬台国は七万戸余り」とありま [続きを読む]