ヤコブの夜桜 さん プロフィール

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ヤコブの夜桜さん: カトリック清流
ハンドル名ヤコブの夜桜 さん
ブログタイトルカトリック清流
ブログURLhttp://blog.livedoor.jp/catholicseiryu/
サイト紹介文2015年洗礼を受けました。キリスト教(カトリック)を軸に広く宗教・思想・社会に思いを巡らせます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供18回 / 365日(平均0.3回/週) - 参加 2015/04/19 16:36

ヤコブの夜桜 さんのブログ記事

  • [教皇フランシスコ] 正しさの鍵(かぎ)
  • 「貧しい人々のことを忘れないでください」ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が、2013年3月、当時76歳で新教皇に選出された時、同僚の枢機卿から言われ、深く心に刻まれたという言葉。そして「フランシスコ」という名前の契機ともなった言葉である。ーーーーーーー186自らが貧しい者となり、貧しい人々や除(の)け者にされた人々につねに寄り添ったキリストへの信仰から、社会においてほとんど見捨てられている人々の全人的発 [続きを読む]
  • [教皇フランシスコ] ケリュグマの社会的影響
  • ケリュグマ、すなわち福音の最初の告知は、それを伝え受け取る、個人の次元のみではなく、社会的次元もまた、十分考慮される必要がある。教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』から、ケリュグマの共同体的・社会的影響について学んでゆきたい。ーーーーーーー177ケリュグマは必然的に社会的な内容を含みます。共同生活も他者とのかかわりも、福音の神髄に属します。最初の告知の内容は直ちに道徳的影響をもたらしますが、 [続きを読む]
  • [教皇フランシスコ] 福音の最初の告知(ケリュグマ)
  • 福音の最初の告知はケリュグマと呼ばれている。教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』から、この福音の最初の告知、ケリュグマについて学びたい。ーーーーーーー164・・・信仰教育を行う者の口には、いつでも福音の最初の告知が響きます。「イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うためにいのちをささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、開放してくださいます」。 [続きを読む]
  • [教皇フランシスコ] 福音の喜び:福音の告知
  • 教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』には、使徒的勧告の名の通り、現代世界で福音を告知するにあたっての様々な勧告や助言が含まれている。第三章「福音の告知」より、響いた箇所を紹介したい。(P.108 - 110)ーーーーーーー119洗礼を受けたすべての人には例外なく、福音宣教に駆り立てる聖霊の聖化する力が働いています。神の民が聖なる者なのは、「信仰において(in credendo)」、誤ることのない油を注がれているか [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:ご聖体の祝日
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「ご聖体の祝日」。この文をもって一連の紹介のおわりとしたい。ーーーーーーーヨハネ聖福音書を静かに読むこととしましょう。ヨハネ第6章はご聖体の秘跡についてのところです。イエズスさまはまず、  「永遠の生命へと至らせる食べ物のために働きなさい」(27)とおっしゃいます。食べるためにだけ毎日働くのではたりないのです。それでは、神のわざに加わるような働き方をするには、どう [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:聖三位一体の秘義
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「聖三位一体の秘儀」。ーーーーーーーきょうも、静かに聖書を読みましょう。第一福音書(マタイ)の第28章(18−20)です。ご復活ののち、最後のご出現の時のこと。キリストはでしたちにこうおっしゃいました。  「天においても、地においても、いっさいの権能が、わたしにさずけられました。そこで、みなは出かけて行って、父と子と聖霊の名によって洗礼をさずけ、すべての国民の中か [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:聖霊のご降臨
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「聖霊のご降臨」。ーーーーーーー聖霊降臨の大祝日にあたって、教会はヨハネによる聖福音第14章(23−31)を読みます。それは、最後の晩さんのあとのイエズスさまのおことばです。  そのとき、イエズスさまは、こうおっしゃいました。「わたしをほんとうにだいじに思う人は、わたしのことばを守ります。主イエズスの教えを忠実に守るということ、特に、その愛のおきてを忠実に守るとい [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:ご昇天の秘義
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「ご昇天の秘義」。ーーーーーーーマルコによる聖福音第16章(14−20)を読みましょう。  十一人が食卓についていたとき、イエズスさまはかれらにご自分をあらわし、かれらの不信仰、キリストが復活なさったのを見た人たちを信用しない、かたくなな心をおとがめになりました。イエズスさまは、ご自分についてのほんとうのことを「あらわして」くださいます。わたしどもの心の中に。それ [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:御父の愛
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「御父の愛」。ーーーーーーーヨハネによる聖福音第16章(23−30)を静かに読みましょう。最後の晩さんのあとのことでした。イエズスさまは、でしたちにこうおっしゃいました。  「これはほんとうにほんとうのこと、あなたがたが御父にお願いすることは、わたしの名で、くださいます。」これは、どういうことでしょうか。イエズスさまはでしたちに、御父への祈りを教えていらっしゃるの [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:真理の霊
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「真理の霊」。ーーーーーーー最後の晩さんのあとのことでした。イエズスさまは、でしたちに、こうおっしゃいました。  「わたしをおつかわしくださったかたのところに、いま、わたしは行きます。『どこに行くのですか』と聞く人は、みんなのうちにひとりもいません・・・。」どこに行くのですかとおたずねして、イエズスさま、あなたが御父のもとに行くとおっしゃることのすばらしさを教えて [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:だれもうばえない喜び
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「だれもうばえない喜び」。ーーーーーーーイエズスさまは、でしたちにこうおっしゃいました。  「少しすると、もうわたしを見なくなる。だがまた少しすると、わたしを見るようになる。」こうおっしゃったのは最後の晩さんのあとのことでした。  でしたちのなかのある人は、  「どういうことなのだろうか。『少しすると、もうわたしを見なくなる。だが、また少しすると、わたしを見るよう [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:よき牧者のたとえ
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「よき牧者のたとえ」。ーーーーーーーヨハネ第10章(11−16)を、ゆっくりと味わいたいと思います。深い意味があるにちがいありません。  あるとき、イエズスさまはファリザイ人たちに、おっしゃいました。「わたしはよい牧者です。よい牧者は羊のためにいのちをささげる。牧者ではなく羊が自分のものでない、賃金をもらって働く羊飼いは、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げて [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:復活の力
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「復活の力」。ーーーーーーーヨハネによる聖福音書第20章(19−31)を読みましょう。  一週のはじめの日の夜のことでした。でしたちは、ユダヤ人のかしらたちを恐れて、家の戸を全部しめていました。十字架のはりつけから三日めのこと。  そこにイエズスがおいでになってでしたちのまん中に立って、こうおっしゃいました。  「みなさんに、平和。」  こうおっしゃって、手と脇ば [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る:復活の喜び
  • 沢田和夫神父の『聖書で祈る』より、「復活の喜び」。ーーーーーーーきょうは復活祭です。キリストは復活して生きておいでになる。静かに聖書をよみましょう。  キリストさまが十字架のはりつけになってから、二日めの土曜日の夕方のことでした。  安息の日がすぎて、マグダラ村のマリア、ヤコボの母マリアとサロメとは、イエズスの遺体にぬってさしあげようと思って香料を買いました。  そして一週のはじめの日、朝早く、日 [続きを読む]
  • [沢田和夫] 聖書で祈る
  • 少々古い本であるが、沢田和夫神父が著(しる)された『聖書で祈る』という本がある。この本をゆっくりと、ここで紹介しながら、読んでいきたい。ーーーーーーー人は「神の口から出るあらゆることばによって生きる」(マタイ4−4)ゆっくりと聖書を読めば、そこから祈りがわいてくる。主のおことばに教えられ、はげまされて、主とともに天の御父に祈りつつ、このいろいろと苦しいことの多い現代の生活を生きぬいてゆきたい。主の [続きを読む]
  • 洗礼と水路
  • 3月になり、気候も暖かさを取り戻しつつあるようだ。今年の復活祭(イースター)は4月1日。そして洗礼式の執り行われる復活徹夜祭は3月31日。その日、洗礼志願者は、洗礼・堅信・聖体の3つの秘跡(サクラメント)に、教会を通して、与(あずか)ることになる。イエスが使徒達に伝えたは、今年もまた新しい水路を見出し、未知なる未来へ流れて行く。Domine, Quo Vadis? (ドミネ、クォ ワディス?)主よ、どこに行かれるのですか? [続きを読む]
  • いのちの尊厳に仕える
  • 日頃常に、という訳ではないが、教皇フランシスコのtwitterを見ることがある。短文のため読みやすく、負荷もかからないのが、忙しい身には助かっている。@教皇フランシスコ 2018年2月11日「病者の皆さんは、その弱さにおいてつねに愛され、その犯すことのできない尊厳において尊重されるべきです 」「May the sick always be shown love in their fragility and respected in their inviolable dignity.」https://mobile.twitter. [続きを読む]
  • 光陰矢の如く
  • 久しぶりの投稿となる。過去記事を見ると2017年5月となっているから、大分(だいぶ)間が空いてしまったようだ。生活の方は、相も変わらず慌ただしかったが、信仰生活に関する限り、特段大きな変化はなかったように思う。受洗当時には意識された「クリスチャン」「キリスト者」「カトリック信徒」といったような自己規定も自然と抜け落ちてきたようだ。人は大人になると、幸福はお金で買えるかのような錯覚が渦巻く社会に、巻 [続きを読む]
  • [デュモリン] 普遍的な兄弟愛
  • デュモリン神父の『全き人間』より、普遍的な兄弟愛について。全人類がひとつである、という認識は、およそ人間が抱くことのできる自覚のなかでも、最高に価値あるものの一つに数えられるであろう。そしてそれはまた、金融、軍事、宗教など多くの領域で危機がグローバル化している現代世界においては、今後ますます欠くことのできない常識・良識・賢慮でもある。 ------------普遍的な兄弟愛哲学も宗教も普遍的な兄弟愛の基礎を提 [続きを読む]
  • [デュモリン] 友情とは何か(2)
  • 引き続き、デュモリン神父の『全き人間』から、友情とは何かについて。----------実生活における場それにもかかわらず、友情はあいかわらず真の人間的価値のひとつであって、むろんこれをないがしろにするわけにはゆかない。しかし、どのようにして友情に向かいあったらよいだろう。自分の生活のなかでどういう場を友情に与えるべきだろうか。一度このことについて熟考してみるのは、今日でも、いや今だからこそ必要なのではないだ [続きを読む]
  • [デュモリン] 友情とは何か(1)
  • デュモリン神父の『全き人間』より、友情とは何かについて。少年時代は大勢で共に遊び、青年時代は気心の知れた少数と共に語り、そして大人になるにつれて、人は独りで立つことを余儀なくされてゆく。身体的に共に過ごす時間は少なくなり、そのつながりも益々(ますます)精神的なものに変わってゆく。------------ 友情とは何か友情の賛歌は東洋西洋いずれの古典にも見られる。古代ギリシアではソクラテスとプラトンが、細やかな [続きを読む]
  • [デュモリン] 現代文学における連帯感
  • デュモリン神父の『全き人間』より、現代文学の連帯感について。現代といっても、ここで参照している新訂版文庫の、初版第一刷は1970年。国内では、三島由紀夫の市ヶ谷での割腹自殺(享年45歳)が、社会的に注目された年である。また遠藤周作の『沈黙』が世に出たのは1966年(当時、遠藤43歳)。その後間もなく、カトリック教会界隈で、賛否両論、様々な反響があったのは周知の通り。文学が、社会への影響力を持っていた時代であっ [続きを読む]
  • [デュモリン] 祈りかた
  • デュモリン神父著『全き人間』より、祈りかたについて。------------祈りかた祈りは人間のもっとも自由な行為であり、心の奥底からわきだして神のもとへ通うのである。したがって祈りにきまった形式などあるわけがなく、それが本当の祈りであればそれでよいのである。自分にあう祈りはたやすくみつけることができる。しかし、ときにはどのように祈ったらよいのかと迷うこともあろう。イエスの弟子たちはこどもの頃からシナゴグ(集 [続きを読む]
  • [デュモリン] 祈りの本質
  • デュモリン神父の『全き人間』より、祈りの本質について。------------祈りの本質祈ることは人間に欠くことのできない本質的なことがらであって、祈りなくしてはだれも全き人間となることができないほどである。というのは、祈りは創造主と被造物との関係をあらわす特別な人間的表現であり、宇宙をつかさどる神の永遠の愛にたいする人間の応答だからである。天と地、日と月と星、山や川や泉も、木々や野の花も、森の小鹿、林のかっ [続きを読む]
  • [デュモリン] 知性教育(2)
  • デュモリン神父の『全き人間』より知性教育について、前回の続き。----------真の知性教育まことの知性教育というものは、このような戯画をつくりあげるためのものではない。また学校で課される一定の分量をひと通り修得すれば、それでよいというものでもない。各人の知識はその種類や程度からいって、それぞれ大いに異なっていてよいのである。自然科学者、文学者、経済・法律学者などの知識の範囲が相当違っているのは当然であろ [続きを読む]