philo1985 さん プロフィール

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philo1985さん: イデアの昼と夜
ハンドル名philo1985 さん
ブログタイトルイデアの昼と夜
ブログURLhttp://philo1985.hatenablog.com/
サイト紹介文東京大学で哲学を学びつつ、ブログを書いています。よろしくお願いします。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供182回 / 365日(平均3.5回/週) - 参加 2015/05/22 09:59

philo1985 さんのブログ記事

  • 意味は隣人のうちに
  •  夜中の2時半にこれを書いているのだが、人間の最も大きな仕事とは、毎日の日々における隣人たちとの関わりなのではないかと昼間に散歩していて思ったのである。 われわれ人間は、毎日色んな他者たちと関わって、話したり、一緒に何かしたり、互いに笑い合ったりする。僕個人の例でいえば、今日はだいたい五人くらいの人と、入れ替わり立ち替わり関わりつつ話をしたのである。  われわれは話をする中で、自分の信念とか価 [続きを読む]
  • 俺のKAMAKURA
  •  頼朝の話を続けよう。平安時代末期の関東地方がめちゃくちゃ興味深いのは、当時のこの地域が、ドラスティックな変化の可能性を潜在的にはらんでいたからである。  頼朝の決起は、この潜勢力を関東の大地に炸裂させたのである。それまで、なんとか自分の土地を守ってゆくことに汲々としていた武士たちが、この決起を境にして、すさまじい求心力とともに動きはじめたのだ!  頼朝と最初に立ち上がった40騎は、もう人生どん [続きを読む]
  • すごいぞ、頼朝
  •  クリスマスとはほんとに全然関係ないんだけど、最近、鎌倉時代の歴史にはまっているのである!  「……鎌倉時代、ですか。」  うん。ていうか、特に源頼朝という人物からは、何か学びとるべきものがあるような気がしてならないのである。  頼朝の人生は、THE・逆転人生である。少年期に殺されかけて九死に一生を得たのち、伊豆に流されて待ちに待ってか・ら・の・大フィーバーである。うおぉ決起したる、みたいな!東 [続きを読む]
  • 今月はクリスマス
  •  毎日熱いマテ茶を飲むという南米の習慣は、遺憾なことに、食道にはよくないらしい。というわけで、別に普段から飲んでるわけではないが、マテ茶に対するすさまじい恐怖を感じずにはいられない今日この頃ではあるが、いちおう調子は二日前よりも少しだけよくなったのである。  というわけで、あらためて  現状の認識:  今月12月は、クリスマスの月である。  あんまりテンションを上げすぎてるとまた食道が大変なこ [続きを読む]
  • 熱い食べ物をめぐる不安
  •  しくしく。心配なのである。悩みすぎてもしょうがないのは自分でもわかってるんだけど、それでもやっぱり心配なのである……。  「……どうしたんですか。」  うん。あのね、熱い食べ物とか飲み物って食道にはよくないって、よく言うでしょ。このところ、ずっとうっすらと気になってはいたんだけど、さっきカレーを食べたあとに少し気持ち悪くなってからというもの、なぜかそのことをめぐって不安が止まらないのである。 [続きを読む]
  • 「波は、あなたのもとに……。」
  •  前々回の記事で用いた「キリストを宣べ伝えるビッグ・ウェーブ」という表現については、次のような意見もあるかもしれぬ。  キリスト者への一意見:  ビッグ・ウェーブねえ……。こんなこと言ったら申し訳ないかもだけど、わたしの所にはそんな波、全然届いてないわね。まわりにも、キリストを宣べ伝えてる人なんて全くいないわよ。  この意見、まことにもっともである。しかしマドモワゼル、どうか次のようなキリスト [続きを読む]
  • ポーランドのマチェクさん
  •  ところで、前回の記事で二年前のポーランド旅行のことをちょっと話題に出したあと、そこで出会ったマチェクさんという人物のことを思い出したのである。  「philoくん。俺は昔、毎晩のようにパーティーに出かけて暮らしていた。だがある時、そんな生活がふいに空しくなったんだ。」  日曜日の礼拝に出させてもらったワルシャワの教会でお昼をごちそうしてもらった時に、僕はキリスト者で建築家のマチェクさんから話を聞 [続きを読む]
  • 教会とは何か
  •  話が逸れたついでに、ここで一度、教会なるものの存在について考えておきたい。  キリスト者の共通了解事項:  教会とは、キリストの体である。  これは使徒パウロが彼の手紙のさまざまな箇所で語っているところの、教会についての根本認識である。  この見方によるならば、教会とは、全部ひっくるめて一つのキリストの体なのである。この点については、教派も宗派も関係ない。キリストを信じて聖霊を受けているなら [続きを読む]
  • 映画館への小旅行
  •  話は全然変わるけど、今週の日曜日に、渋谷の映画館に『パウロ 〜愛と赦しの物語』を見に行ったのである。  一人で、ではない。友達いないがゆえに、フツーなら当然そうなるところであろうが(自分で書いてて悲しいなこれ)、今回は僕もリーダーの一人を務めている、自分の教会の教会学校の中高科で見に行ったのである。  映画自体には、感涙せずにはいられなかった。ていうか、感動したという以上に、原始キリスト教会 [続きを読む]
  • 指の役割
  •  バプテスマのヨハネといえばやはり、超有名なあのセリフを取り上げねばなるまい。  「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」(『マタイによる福音書』第3章11節)  キリスト者に必要なのは、この認識なのではなかろうか。  僕は、わたしは、俺は、何物でもない。ゼロなのよ。ダメよダメダメ、ダメっ子ちゃんなのよ。ていうか、ダメっ子ちゃんくらい [続きを読む]
  • バプテスマのヨハネについて
  •  信仰者と荒野ということでいえば、やはり『イザヤ書』40章なしですますというわけにはゆかぬであろう。  「呼びかける声がある。   主のために、荒れ野に道を備え   わたしたちの神のために、荒地に広い道を通せ。」(『イザヤ書』40章3節)  荒野で叫ぶという、このとてつもなく熱い『イザヤ書』40章の箇所を体現する者として現れたのが、かのバプテスマのヨハネである。  ヨハネは、イエス・キリストが活動を [続きを読む]
  • 荒野を恐るることなかれ
  •  「福音について書き始めてからブログのアクセスが減っている」と書いたところ、その記事をアップしたツイッターの投稿に少なからぬ「いいね」を付けていただいたのである。  このように励ましをいただいていることについては、本当に感謝としか言いようがないのである。書いたものに何か反応がもらえるというのは、決して当たり前のことではない。ある意味ではどんどんディープな方向に突っ走っているこのブログにも励まし [続きを読む]
  • 神は愛なり
  •  自分の進むべき方向に迷った時には、常に原点に立ち戻る必要があるのではなかろうか。  「神は愛です。」(『ヨハネの手紙 一』第4章16節)  愛は大事です、ではない。神は愛です、である。これこそは、イエス・キリストの福音の核にして心臓部である。  人間にとって、神から愛されているという以上の幸福はあるまい。これこそが救いであり、これこそがよき知らせである。キリスト者は、「あなたは神に愛されている [続きを読む]
  • 時が良くても悪くても
  •  はたしてこれからも、福音について書き続けるべきなのであろうか。しかし、こういう時に依って立つべきは、やはり聖書の言葉であるように思われる。  「御言葉(みことば)を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい。」(『テモテへの手紙 二』第4章2節)  時代がよくないとか、昔とは色々違ってるからもうそういうのは通用しないとか、確かにそういうことはあるかもしれん。でも、もういいではない [続きを読む]
  • 着実に減っている
  •  預言の成就についてはひと段落したので、この辺りで少し立ち止まりつつ、このブログに関する問題について考えてみたい。  『イデアの昼と夜』に関する一事実:  福音について本格的に書きはじめて以来、アクセスはゆっくりと、しかし着実に減少している。  分かってはいたことである。今のこの時代、キリスト教を伝えるというのがいかに難しいかは、理屈を超えて感覚的に納得せずにはおれないところである。  まして [続きを読む]
  • あるにはあるのですが……。
  •  キリスト者への一意見:  なるほど、インマヌエル預言ね。一応、話は分かりましたよ。だけどなんだかなあ、申し訳ないんだけど、なんかビビッと来ないんだな。もっとすごいやつないの?  これに類するコメントに対しては、まことに心苦しいのではあるが、次のように答えるのが適切なのではないかと思う。  答え:  すみません、あるにはあると思うのですが……。  たとえば、『ゼカリア書』12章10節の終末に関する [続きを読む]
  • その名はインマヌエル
  •  最も有名な預言のひとつとして、『イザヤ書』7章のものを取り上げてみることにする。  インマヌエル預言:  「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」  (『イザヤ書』7章14節)  いわゆるインマヌエル預言である。ここで語られているのは、神の側からユダヤ人たち(より広くは人間)に対して、ひとりの幼子が与えられるということである。  ユダヤ人たちは、彼らのもとにやって来 [続きを読む]
  • 「預言の成就」
  •  それにしても、終末についてさらに掘り下げる前に一点、福音について先に論じておくことがあったのである。  福音の核心その2:  預言は成就した。そして、キリストの到来とともに、今や新しい時代が始まっているのである。  ザ・プロフェシー・ハズ・カム・トゥルー。最高度に輝かしい、この現在完了形。これだよ。これこそがわが人生の捧げどころ、イエス・キリストの福音だよYEAH!  「……。」  ……ごめん、 [続きを読む]
  • 「いつ来るんすか?」
  •  おそらく終末というと、次のような疑問が出てくることは避けられぬであろう。  キリスト者への疑問:  いや〜終末っすか、いいっすね、いい感じに狂ってますね!僕、そういうの大好きっす。でも2012年のアセンションの時も期待してたのに何も起こらなかったし、空振りは切ないっすよ。で、いつ来るんすか?  テンションを下げてしまうかもしれないとはいえ、真理を曲げることは不可能であるゆえ、ここは次のように答え [続きを読む]
  • 「あの曲は、実は……。」
  •  しかし、再臨についてさらに考えてみる前に、先に検討しておかねばならぬことがある気もする。 伝道に関する一事実: 福音を伝えきる前に、コミュニケーションの回路を切られてしまったら終わりである。 いやこれ、ホント難しい問題だと思うんよ。まず大前提として、聖書という本には、世界の終わりなる主題について、紛れもなくしっかりと書かれているわけである。 ていうか、ひと昔前まで(一部は今も)そういう本 [続きを読む]
  • メシアは二度来る
  •  ところで、メシア(=キリスト)の到来を待望していると書くと、中には次のような疑問が出てくる向きもあるかもしれない。  キリスト者への問い:  あれ?メシアの到来を待望してるって言いますけど、確かイエス・キリストって二千年前くらいの人じゃなかったですか?待望してるっていうか、もうすでに来たんじゃないの?  この疑問は、まことにもっともなものである。これに対しては、次のように答えねばならぬ。   [続きを読む]
  • この世にメシアは必要か
  •  罪についてはいずれまた立ち戻ることにして、今回は前回にちょこっとだけ出てきた、救世主という語について考えてみたいのである。  さて、救世主である。ヘブライ語で言えば、メシアである。僕は、高鳴る胸の鼓動を抑えきれないのである。いやごめん、うっとうしいとは思うんだが、でもさでもさ、メシアだよ!メ・シ・ア!  「……はぁ。」  ……うん。僕だってわかってるんだよ。この孤独な大興奮に、共感を求めち [続きを読む]
  • 「罪から来る報酬は……。」
  •  先日、このブログを読んでくださっている女性の方から「チョコ次郎買いました!」と声をかけていただいたのである!サク山チョコ次郎のファンの輪は、少しずつではあるが着実に広がっている……!それはさておき  罪なるものについては、とりあえず、次のような二つのスタンスが考えられる。 1. 「いやー。確かに罪って、誰でもそういうのはなくはないと思うんですけど、まあでもそれって逆を言えば誰にでもあるのではな [続きを読む]
  • 人間は有罪か
  •  今もまだ成熟したわけではないけど、恥ずかしき若かりし日々のことを思い出すとき、福音はわが魂のうちで、ますます強く大きく響いてくるのである。  福音の核心(前出のものより一部抜粋)  「イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかり……」  神学的に言うならば、恥と罪のあいだにある差異に目をつぶるわけにはゆくまい。しかし、この二つのものが極めて密接につながっていることは確かである。そして [続きを読む]
  • 素通りしていた留学時代
  •  しかし、人生には何事にも時があるというのは否定できない事実なのである。  ていうか、今思い出したんだけど、僕が最初に本格的に聖書を読んだのは、20代のはじめにフランスに留学していた時だった。どういう流れかは忘れちゃったけど、『ヨハネによる福音書』をその時読んだのである。  僕は夢中になった。なんか、天からパンがたくさん降ってくるみたいな不思議な夢も見た気がする。でも、夢中になったのはほんの一瞬 [続きを読む]