okinawasan さん プロフィール

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okinawasanさん: 新しい沖縄歴史教科書を造る会
ハンドル名okinawasan さん
ブログタイトル新しい沖縄歴史教科書を造る会
ブログURLhttps://okireki.muragon.com/
サイト紹介文地方史ではない、沖縄県民から見た、 琉球・沖縄の歴史を書いています。
自由文教科書と書いていますので、
間違いがあったりした時には、
しれっと訂正します。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供18回 / 365日(平均0.3回/週) - 参加 2015/06/17 20:12

okinawasan さんのブログ記事

  • 地割制が琉球の発展を阻害したのか?
  • 地割制とは何か? 地割制は琉球国において、 租税徴収の基礎となった制度であるとされる。 すなわち、王府は各間切、各村に住む住民に土地を割当てて、 そこに年貢を課し、厳しく取り立てる事によって 財政を維持したというのである。 また、王府は土地の私有を認めず、同時に平等を担保する為に、 7〜8年ごとに土地の割り当てを変えていた。 その為に土地を私有できない農民の勤労意欲は上がらず、 琉球の農業の発展に [続きを読む]
  • 盲目的に従順ではなかった琉球の庶民
  • 自らの利益を考え行動する庶民 私達は、いつも前時代をこのように錯覚します。 「昔の人には義務教育もないし、知識も乏しいから、 ただ権力者の言うままに働いて搾取されていたに違いない 可哀想な事だなあ・・」 しかし、これは間違いです。 義務教育がないから知識が乏しいという事はありません。 長年生きていれば、役人の悪辣さも分かります。 今より、人と人の関係が密ですから、自分が見えない部分の 情報も人づて [続きを読む]
  •  琉球国滅亡に庶民は無関心だったのか?
  • 明治政府と階級闘争史観で消える民と王の絆 琉球国時代、多くの農民は圧政で搾取され続け、 明治政府の支配を喜び王国が崩壊しても無関心であった。 多くの歴史書には、そのように書かれています。 確かに当時の琉球人の多くが貧しく重税にあえいでいた というのは事実ですが、それはただちに王制の打倒、 明治政府の歓迎に繋がったのでしょうか? 政府の官憲が記した王国最期の日 一概にはそうとも言い切れないと言える資 [続きを読む]
  • 薩摩藩が琉球に課した税金の重さとは?
  • 琉球国にのしかかる島津氏の年貢とは幾らか? 1609年以降、薩摩藩の支配下に入った琉球には、 重い年貢が課せられた。 しかし、その年貢について具体的な数値が出ている資料はなく 最近では、大した事のない金額であったという話まである。 では、実際の所、島津氏が課した年貢とは幾らだったのか? 1609年の琉球国の石高 島津氏の侵略により、直轄地とされた奄美大島などを除き、 先島を含めた琉球国の石高は89 [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成10
  • ・拒否する権利がない奴隷契約書 1877年、10月11日付の東京タイムズに掲載された、 「日本と琉球~明治政府の声明」は、Ⅰ~Ⅳに分れ、 古代から琉球が日本の一部であったとする詭弁を並べているという事は、 過去9回のシリーズで述べてきた通りである。 さて、時代は降り、島津氏による琉球侵略の後、 すなわち1609年以後を明治政府は、島津氏が琉球王尚寧に突き付けた 降伏文書を根拠に琉球の日本従属の根拠 [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成9
  • 琉球征伐は島津による懲罰だと主張する明治政府 明治政府の島津氏の琉球支配へのスタンスは実に珍妙なものである。 それは、島津氏による琉球侵略が、あたかも徳川幕府の命令により 実現されたかのような口ぶりを取っている事だ。 こうする事により島津氏の侵略は、薩摩への年貢を怠った、 琉球に対する懲罰にしたいのである。 何故かと言えば、琉球は古代より日本の領地であり、 島津氏の保護国であり、琉球への侵略は島津 [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成8
  • 薩摩藩と明治政府を強引に結びつける破綻した根拠 ドヤ顔をした明治政府の琉球併合に関する正統性の屁理屈は、 なおもとどまる所を知らない・・ すでに古代において、琉球国が大和朝廷に服従していたという 論拠もあやふやな事を主張した明治政府は、 次には、琉球が薩摩に支配されていたから すなわち日本領であるという、唖然とする論法を出してくる。 しかも、その文書が出典不明怪文書一通なのである。 Ⅳ近代史 島津 [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成7
  • 民族的な近さを併合の根拠にする明治政府の愚 日本自体が隣国である朝鮮半島、そして中国から、 数百年に渡り無償にして多大な文化的な影響を受け、 その模倣の土台の上に、独自の文化を築いたという事実を無視して、 明治政府は、琉球と日本の文化的な近さを嫌らしく強調してくる。 それは、日本文化を使っている琉球は俺達のモノだ、 と文化を使わせてやっている権利を主張するような口ぶりでした。 本来、無償である文化 [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成6
  • 信仰や生活習慣に手を突っ込む明治政府 1879年、10月11日に東京タイムスに掲載された、 琉球併合に対する明治政府の正当性の主張は、 次に、沖縄の信仰や生活習慣、文化に渡っていきます。 もはや、なりふり構わず、何でも似ていそうな部分には 手を突っ込んでしまえという意図が見えるものですが、 それは、ともかく、その内容を紹介します。 土着の宗教は神道 土地の人々の信仰するのは、日本民族特有の神道であ [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成5
  • 言語の近さを沖縄支配の根拠にする明治政府 1879年10月11日に東京タイムスに掲載された明治政府の 琉球併合における行動の正当性は、一重に沖縄は日本なのだから、 日本領という鼻もちならない傲慢さに貫かれている。 しかし、ただ、闇雲にそう言うだけでは意味を成さない為に、 明治政府は、歴史に貫かれた日本と沖縄の共通点を並べたてた。 今回は言語の共通性を力説する明治政府の言い分を見てみよう。 「アマミ [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成4
  • 今でも流布する言語の共通点からの支配の根拠 明治政府が東京タイムズに発表した琉球が日本に所属する根拠は 大きく四点に分けられますが、三点目からは長文になる為に ここからは、適宜刻んで掲載する事を断っておきます。 さて、 Ⅰ:みなみしま時代からの大和朝廷への服属、 Ⅱ:地理的に中国より日本が近い と詐術を尽くしてきた明治政府は次に言語の共通点を 琉球併合の根拠として出してきます。 言語・宗教・民族・ [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成3
  • 地理的に近いから日本領という珍妙な理屈 琉球弧の島々を沖縄本島にすり替え、古代から大和朝廷に琉球が 服属していたかのような詭弁をなし、神話的ロマンを持つ為朝伝説でさえ、 琉球王は為朝の子孫=天皇の臣下という悪辣な牽強付会をした明治政府は、 次に琉球と日本が地理的に近い事を領有の根拠とします。 地理関係:薩摩・福建 琉球は色々な大きさの島嶼郡からなり、島の数は37に及ぶ。 その総面積は薩摩の約10分 [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成2
  • 伝説まで沖縄支配の根拠にする明治政府 予想される清朝との琉球帰属問題では、 必ず、どちらが琉球との関わりが深いかが問題になる。 伊藤博文の懐刀、情報官僚である伊東巳代治は、 それを予見し、現在の琉球弧エリアをあらわすに過ぎない、 南島、みなみしまという、古代の大和朝廷の記述を、 沖縄本島に限定するという詐術で沖縄が古くから、 日本に服属しようとしていたという証拠としました。 さらに、伊東は、沖縄に [続きを読む]
  • シリーズ 明治政府による沖縄日本論の作成1
  • 琉球の強制併合前後から歴史を造り始めた明治政府 琉球を併合するという意志を固めた明治政府ですが、 そこには、当然、冊封国を失う清朝の反発と、 自治を失う琉球国の反発が予想されました。 それに対応する為に、明治政府は、これまで、 誰も唱えて来なかった、琉球は古来日本の一部である という理論武装を大急ぎでまとめていきます。 それは、激しく外交交渉において抗議する清朝への 明治政府の反論の根拠になり、日 [続きを読む]
  • ■東京で行われた琉・日・清の駆け引き
  • 後に尚泰侯爵の邸宅になる飯田橋の琉球藩邸に 幸地朝常、与那原良傑、池城安規が入ったのは 明治8年、9月27日頃の事だ。 近くに靖国神社があり、皇居にも近い、 宿敵である大久保利通が詰めていた内務省は、 右の丸で囲んだ辺りにあり、 池城親方は、明治8年の3月〜5月、 ここに8回通って大久保と琉球の処遇を巡り 何度も激論した。 大久保というのは身長175センチと 当時では大男で頬髯と顎鬚を生やした男 [続きを読む]
  • 明治政府要人の暴言録
  • 絶えず続く無理解と押しつけ 昨今の土人発言に限らず、日本人の沖縄への 無理解は、はるか140年前に遡ります。 ここでは、そんな身勝手な明治政府要人の言葉を 紹介していきます。 大蔵大輔 井上馨 明治5年 「かの国は南海に起伏している島で、 一方の要塞だ清との関係が曖昧なまま数百年過ぎたが、 維新の今日においては、このままではいけない。 皇国の規模を拡張する措置があってよい ただ、その際、威力で奪う [続きを読む]
  • 琉球の農民は貧しかったのか?
  • 搾取される農民可哀想という史観 いわゆる進歩史観という社会主義的な考えが全盛の頃は、 全ての歴史は、支配者による被支配者の搾取で語られていました。 しかし、それは、富裕層を打ち倒し労働者の政権が産まれるのが 歴史的必然と考えられたイデオロギーの産物でしかありません。 すでに江戸時代は再考され、 「百姓は生きぬように死なぬように」という言葉で知られた、 五公五民、四公六民という税率も、平和な時代が続 [続きを読む]
  • 王府の役人は無能だったのか?当時の社会を考える。
  • 琉球の役人は本当に無能だったか? 19世紀に至ると、琉球の財政は目に見えて行き詰まり、 薩摩藩からの借金まみれになっていきます。 しかし、その事から王府の役人は無為無策であり、 統治能力がないのだから、明治政府に取って替わられる べきであったという結果論がありますが、 果たしてそれは、正しいのでしょうか? 役人無能論から抜けおちる天災、江戸上り 冊封使歓待 しかし、往々にして、王府役人無能論からは [続きを読む]
  • 石川啄木と山城正忠
  • 夭折の歌人と山城正忠 山城正忠は、沖縄出身です。 本業は歯科医師ですが、歌人でもあり若い頃に上京し、 東京で与謝野鉄幹・晶子に師事していた経歴を持ちます。 山城正忠(1884〜1949) この山城正忠、あの歌人の石川啄木と親交がありました。 石川啄木(1886〜1912) 君の国では今でも、人が死んだら食うのかい? 山城は、啄木の死後、1937年6月 「月刊琉球」山城正忠「啄木と私」で石川啄木との [続きを読む]
  • 沖縄県営鉄道から見える事
  • 間切が消滅し経済が一体化する沖縄 明治12年に沖縄県が設置されると、 それまで県内の自由な往来を妨げていた間切関所が廃止されます。 それ以前は限られた人以外は間切の外に出る事は出来ず 多くの農民は生まれた間切を出る事なく一生を終えていました。 しかし、産業を育成し近代化する過程で間切の存在は すでに旧時代の遺物であり日本化によって撤廃される 運命にあったのです。 道路交通網の整備は、県都になった那 [続きを読む]
  • 日本人になる為の戦い 日露戦争と沖縄県民
  • 差別を解消すべく、大陸に渡った二千名の沖縄県人 日清戦争における日本の勝利は、清国に幻想を抱いていた 沖縄県民を完全に日本化へと向かわせました。 すでに日清戦争から志願兵として屋部憲通等が参戦していましたが 1898年、日本本土に遅れる事25年で沖縄県と小笠原諸島に、 徴兵令が施行される事になります。 沖縄においての徴兵忌避は、言語が通じない、 沖縄差別がヒドイという事情から本土より多く発生しまし [続きを読む]
  • 黄色艦隊フィーバー2
  • 1894年8月1日 日清戦争開戦 甲午農民戦争の鎮圧の為に、李朝の要請で軍を派遣した清朝と 奇留民の保護を名目に出兵した日本軍は、どちらが朝鮮から 撤兵するかで意見がまとまらず、ついに開戦となります。 清朝は、それまでの古い冊封体制を改め、朝鮮を植民地として 再編しようとし、日本はロシアの南下を阻止する為の 緩衝地帯として、どうしても朝鮮半島を必要としました。 ここに利害は決定的に対立したのです。 [続きを読む]
  • 黄色艦隊フィーバー1
  • 規模において日本を凌駕した清国艦隊 清朝は、アヘン戦争、アロー戦争と海軍力の弱さ故に 列強に煮え湯を飲まされた経験から広大な領土を守る 海軍の創設にあたる事になります。 日本の場合には、連合艦隊一つですが、領土が広大な清では、 一艦隊では、すべてをカバーできず、北洋艦隊、福建艦隊、 広東艦隊、南洋艦隊という4つの艦隊が配置されていました。 その中でも対日方面に当たったのが、李鴻章が管轄する北洋艦隊 [続きを読む]
  • 沖縄に参政権は時期尚早?これに反論する沖縄時論
  • 琉球新報が主張した参政権時期尚早論 沖縄県においては、日本に併合されてから、 実に33年、明治45年に至るまで代議士を帝国議会に 送る事が出来ませんでした。 その理由として、琉球新報を牙城とする高級士族階層の知識人は、 「沖縄では、現在も特別制度が施行され 他府県の一般制度と同じではない 参政権の条件である直接国税も支払っていない この部分が改善されてこその参政権である」 と主張していました。 こ [続きを読む]
  • 今と変わらぬ、いがみ合う沖縄人
  • 沖縄クラブを追いつめたのは同じ沖縄人 謝花昇が発起人となって始めた沖縄クラブは南陽社という 商社を起こし、肥料や文房具、沖縄時論という新聞を発行しつつ 奈良原県政を痛烈に批判していきました。 それは、もちろん奈良原の弾圧の対象になるのですが、 それより何より、激しく謝花等沖縄時論を攻撃したのは、 太田朝敷が記者をを務める琉球新報でした。 太田朝敷と謝花昇は、最初から敵対していたのではありません。 [続きを読む]