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意志による楽観主義のための読書日記 https://blog.goo.ne.jp/tetsu814-august

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意志に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ム

意志による楽観主義のための読書日記
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2015/07/14

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  • 経済で読み解く織田信長 上念司 ****

    室町時代から戦国時代に戦乱が多かった理由はデフレによる経済不調、その結果としての政権不安定化が原因、という筆者。天下統一まであと一歩にまで迫った織田信長はデフレを終わらせ適度なインフレを実現できたのか、その経済施策はというのが本書の視点。室町時代の金融の要は、荘園を所有し資金力豊富な寺社勢力で、土倉や酒屋などの金融業者に資金提供をしていた。日宋貿易、日明貿易の担い手も実は寺社勢力だったが、当時の日本での貨幣は宋銭であり自国通貨は流通していなかった。明朝が地球寒冷化による農業生産不足から財政難に陥り、不換紙幣を発行してインフレが過度に進行、その反動としてデフレになったのが日本の義満政権から義教政権に移行する頃。義満は日本国王とは名乗ったものの、明朝に対しては冊封体制に入り朝貢する姿勢を示したため、日明貿易は...経済で読み解く織田信長上念司****

  • 日本史が面白くなる「地名」の秘密 八幡和郎 ***

    百済滅亡による亡命渡来人が増えてきたとき、大和朝廷は九州に百済の飛び地国家ができてしまうことを懸念、渡来人を計画的に全国各地に分散させた。666年、百済人2千余人を東国に移し、669年には近江国蒲生郡に7百余人を移し、716年には高句麗人1779人を東国に移すなど。埼玉県新座市は新羅郡の表記を新座と変更して読み方を変更。日高市高麗郡、高麗山聖天院、高麗神社、高麗川、東京都狛江、大磯町高麗、高座郡、滋賀県東近江市の百済寺、枚方市の百済王神社、百済寺などがその名残り。京の都、メインストリートは朱雀大路、今の通りで言えば千本通。朱雀門は今のJR二条駅の北あたり。平安京の設計時には北の船岡山から田辺にある甘南備山へ向けて南北線を引いて決めたという。室町時代には上京と下京に二分されていた京の街、その境目は今の二条通...日本史が面白くなる「地名」の秘密八幡和郎***

  • 日本史X世界史 つなげてみれば超わかる 森村宗冬 ***

    日本史と世界史を別々に学ぶよりも同時並行的に並べて理解するほうがよりよく分かる、という一冊。日本列島の黎明時代に人類の祖先が約1万年かけてアフリカ大陸から日本列島にやってきた頃、世界でも人類の世界的拡散が進んでいた。約1万年ほども続いたという縄文時代には、東地中海ではクレタ島に金石文化が興りエーゲ文明が誕生。エジプトではメネス王が上下エジプトを統一、エジプト第一王朝が樹立。メソポタミアではシュメール文明が興り、ウル、ウルク、ラガンシュなどの都市国家が形成。中国大陸で生まれた文明により玉器の加工技術が発展し、長江文明や北方、南方文化などが融合して縄文文化が形成された。地球温暖化と寒冷化は繰り返し興り、寒冷化の時代におきた動乱の余波を受け、日本列島に逃れてきた大陸からの渡来人たちにより稲作が列島にもたらされた...日本史X世界史つなげてみれば超わかる森村宗冬***

  • ことばの発達の謎を解く 今井むつみ ***

    赤ちゃんはどのようにして母国語を学んでいくのかを考察して、言語の仕組みを解析する試み。日本語を基本にして言語の仕組みを考えていくのが本書で、赤ちゃんが動詞と名詞の違いに気がつくところから。赤ちゃんは数多くの事例を学びながら2-3歳程度になる頃には、どの言葉が動詞なのかに気がつくという。また、「投げる」のは手であり足ではないことにも、間違いながらも理解が到達するのがこの頃。高い低い、高い安い、前後左右、対象物の前と後ろ、自分と対象物の位置関係などとの関係にも気がついてくる。色彩表現は言語により違いがある。日本語の赤橙黄緑青藍紫と他言語では同じ赤や紫でもレンジが異なり、黄色とオレンジでは明らかな違いもあるという。これらは色彩表現全体のシステムとしての理解が重要となり、単色を一つずつ理解というよりも、全体系統を...ことばの発達の謎を解く今井むつみ***

  • 言語の本質 今井むつみ、秋田喜美 *****

    人はどのようにして言語を獲得してきたのか。類人猿との違いは何かを、オノマトペの特質から入り、赤ちゃんはどのように言語を身につけるのかを考察。身振り手振りによるコミュニケーションから言語への移行、オノマトペの言語による違い、帰納法と演繹法、さらには仮説検証(アブダクション推論)による推論、AIにおける記号接地問題などを絡めて考えた一冊。ヒトがどのようにして言葉を生み出してきたかを考えた感動的ともいえる言語論。AI研究で唱えられたのが「記号接地問題」で、AIの世界や現実世界の言語が、実世界や人間による実体験と結びつくことにより、記号や言語の本質的な意味を理解することをいう。つまりAIが宿るコンピュータは機械であり人間が実体験することで得られる本当の意味での理解はできないのではないかという問題である。例えばメロ...言語の本質今井むつみ、秋田喜美*****

  • 荘園 墾田永年私財法から応仁の乱まで 伊藤俊一 ****

    日本史の古代から中世にかけて、政治や文化の後ろ側にあったのは土地所有形態の変遷であり、土地の所有を巡って律令政府は国有化を目指し、開墾奨励のために私有化を許した。しかしその土地からの納税を巡ってなんとか徴税を逃れるための方策が寺社や貴族への寄進による荘園化であった。灌漑や農作技術の進展により田畑面積の拡大が進み、その土地のあり方の中で日本史で特徴的なのが荘園の存在だった。奈良時代、聖武天皇は天然痘の大流行からの復興と仏教振興のため開墾田の私有を認める墾田永年私財法を発布、寺社や貴族により設置されたのが荘園の濫觴。郡司を勤めてきた古代豪族が力を失うと、摂関期には国司(受領)に権限委譲し有力農民である田堵に経営と納税を請け負わせた。税の軽減を認めて更なる開墾を認め、それを免田とした。官物を免除されるのが不輸、...荘園墾田永年私財法から応仁の乱まで伊藤俊一****

  • 日本史サイエンス 播田安弘 ***

    筆者は三井造船で造船の設計を担当した船の専門家。日本史におけるいくつかの不思議に科学的に迫る一冊。本書で取り上げたのは、船にまつわる3つのエピソードで、文永の役で蒙古軍はなぜ一夜で撤退したのか、羽柴秀吉の中国大返しはなぜ成功したのか、戦艦大和は無用の長物だったのか。元寇では日本側は当初古来の作法に従って一騎打ちを挑んで、集団で新兵器を用いた蒙古軍にさんざん打ち負かされたというのが通説であり、その後蒙古軍が暴風雨に襲われて日本は九死に一生を得た、という神風神話。しかし博多湾の深さ、操船技術と当時の船の大きさなどから、船から2万人という大軍勢が一日では上陸できないこと、上陸可能な場所は博多市街からは距離のある百地濱だったこと、「一騎打ち」を挑んだというのは絵巻に描かれた戦いの様子に引っ張られた解釈であり、日本...日本史サイエンス播田安弘***

  • 続・竹林はるか遠く ヨーコ・カワシマ *****

    「竹林はるか遠く」の続編、太平洋戦争敗戦後の朝鮮半島からの引き揚げ実体験者によるドキュメント、感動的な2冊の本である。朝鮮半島での引き揚げ時に共産軍化した朝鮮人や、日本人を賞金稼ぎの対象とする現地の人たちに命を狙われたり、性暴力を受けたりした経験を綴っているため、コリアンの反感を買って韓国では販売停止に追い込まれたといういわくつきの一冊で、それがかえって日本でのブームになるという何とも皮肉な顛末付き。主人公の川嶋擁子は引き揚げ時には13歳、その兄が朝鮮半島から一人で遅れて引き揚げるときには親切な朝鮮人家族に助けてもらったり、一方で母と姉、そして擁子の3人が、同胞であり同じ引き揚げ者から意地悪されたり暴力を振るわれたりもする。読み手からすれば13歳の少女の視点によるフラットな実体験であったと思われるが、日本...続・竹林はるか遠くヨーコ・カワシマ*****

  • 竹林はるか遠く ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著 ****

    1986年にアメリカにて刊行、中学校教科書に教材として採択された11歳の少女の視点による、太平洋戦争敗戦直後朝鮮半島からの引き揚げの物語。著者は1933年、青森で生まれた川嶋擁子、生後6か月で南満州鉄道に勤める父に連れられ、家族とともに朝鮮北部の羅南、現在の清津に移住。1945年敗戦間際に母、16歳の姉好とともにと共に羅南を脱出、朝鮮半島を縦断する決死行で日本への引き揚げをするという体験をした。帰国後、京都市内の女学校に入学、働きながら学業を続け卒業し大学で英文学を学んだ。卒業後は米軍基地で働きアメリカ人と結婚し渡米。現在ケープコッドに住んでいる。本書は英語により書かれて1986年米国で発刊され、日本語版が平成25年日本で日本語により発刊された。1945年7月29日の真夜中に、「ソ連兵が攻めてくる」と言わ...竹林はるか遠くヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著****

  • 新書100冊 視野を広げる読書 高橋昌一郎 ***

    中央公論新社が主催する『新書大賞』については、有識者など105名による偏向審査があって、中公新書にあまりにおもねった結果となっていることから中央公論新社による「新書大賞」の「廃止」を提言している。2022年の結果を見ると、上位20冊の8冊が中公新書、岩波、講談社、ちくま、NHK出版が各2冊ずつ、集英社、小学館、幻冬舎、日経プレミアムが各1冊となっていて偏りが激しい。光文社、ブルーバックス、文春、平凡社、朝日選書、角川などの新書が登場しないのは不思議だという。例えば、売上高、Amazonレビュー、新聞などの書評より選出されればもう少し納得性は高まるはずだともいう。そして本書では、筆者により100冊が公正に選ばれたというが、筆者による新書が5冊も入っているのはどうか。まあそれはおいておいて、選ばれた100冊は...新書100冊視野を広げる読書高橋昌一郎***

  • 聖徳太子の正体 小林恵子 ***

    記紀による記述に従って理解されている日本の古代史には多くの疑念があることはよく知られている。編纂時のヤマト政権は天武・持統天皇であり権力者は藤原不比等、彼らの都合がいいように過去の記述がなされていることは想像に固くない。疑念の一つが本書タイトルの聖徳太子であり、蘇我氏、そして推古王朝時代の業績である。7世紀末のヤマト政権は中国大陸の大国唐への対抗心から、我が国日本の歴史が長く続いており、大陸にも引けを取らない立派な体制を持っていることを示そうとしていた。その一つが天皇家が万世一系で1000年以上も続いてきた王朝であること。しかし天武・持統政権のほんの100年前の政権であった推古時代の記述にさえ疑念が持たれている。蘇我氏の隆盛は未だに人々の記憶にもあり、記紀記述においても隠しようがなかったが、聖徳太子とされ...聖徳太子の正体小林恵子***

  • 日本源流の古代史 神浩二 ***

    学術研究ではなく、古代史が大好きな一般人が想像してみた日本列島に住み着いた先祖たちの物語、という一冊。学者ではないので、想像の翼の広がりは果てしない。二千数百年前、日本列島が弥生時代の中期と呼ばれる時期に、中国大陸では秦の時代、始皇帝治世の末期頃に、長江の南、江南と呼ばれる地方から、北方の黄河文明との軋轢を逃れて、長江文明の担い手の後裔と考えられる人々の一部が、亡命の地を求めて海上を移動、日本列島に次々とたどり着いた。稲作技術や養蚕、陶器作成、製鉄等とともに、祖先の神話ももたらしたかもしれない。日本列島にはすでに北方サハリンなどからの移住者や南方、琉球諸島沿いに渡ってきた人たちが住んでいた。大陸から来た人たちは用意周到に準備し、測量や土木工事、男女、若い働き手なども集団には含まれていたことだろう。そうした...日本源流の古代史神浩二***

  • 明治という奇跡 皿木喜久 **

    日本史で学んだ「明治維新」は日本人が思う以上に奇跡的な国家的変革を成し遂げたことを見直そうという一冊。数百年も続いてきていた封建制度を、戊辰戦争という戦いは経ていたものの、国民的には破壊的な戦乱とはならずに廃止できたこと。そして武士の立場を捨てても国民国家を目指そうという理想を実現しようとした幕末から維新にかけての志士たち、そして明治の元勲と呼ばれる人たちの高い志を筆者は称賛する。変革を成し遂げるには人々を引き付ける象徴が必要であり、幕末には尊王攘夷というキャッチフレーズ、明治維新後はその象徴が天皇であった。攘夷の部分は列強諸国の実力を実感して、それを信奉していた孝明天皇が死去するやすぐに撤回され、ご維新の精神は「五箇条の御誓文」に象徴されるフレーズへと変貌を遂げた。明治に入り、天皇に対する考え方として改...明治という奇跡皿木喜久**

  • 藩と県 日本各地の意外なつながり 赤岩州五 北吉洋一 ***

    江戸時代265年ほどの間、増減はあったが270ほどの藩があり、廃藩置県後の整理統合で現在の47都道府県に落ち着くことになる。本書では、参勤交代が地方特産物を江戸にもたらし、大名の配置換えである転封や江戸における藩屋敷の位置関係などのつながりで、各藩が他地方の藩とどのようなつながりを持っていたのかを調査し、特産品や習慣の由来などについて解説している。ケンミンSHOWで小倉の糠味噌で炊き込んだ鰯や鯖を特産物として紹介していた。「じんだ煮」と呼ばれるこの食べ物、実は小倉の大名細川氏に代わって譜代の小笠原忠真が転封して来たことに由来する。忠真の前任地は播磨の明石、その前が信州松本だった。松本には福井由来の「へしこ」があり、ハラワタを抜いた鰯や鯖を一年間寝かしたもの。長野では「こんか鰯」つまり小糠であり、千国街道経...藩と県日本各地の意外なつながり赤岩州五北吉洋一***

  • 江戸の橋 鈴木理生 ***

    室町から戦国時代に作られ、江戸時代以来発展し続けていた街、江戸には多くの堀と橋があった。それは現代の東京からは想像もできないほどの水路の街で、当然水路を渡るための多くの橋が存在した。本書では、慶長のはじめにはまだあった日比谷の入江と江戸前島をどのように埋め立てて、丸の内、八重洲、銀座、日本橋、京橋、茅場町、築地などが蔵、舟堀、町民地と武家屋敷に生まれ変わっていったのかを文献などから解き明かす。17世紀はじめに記された「慶長見聞録」と現代の「東京地質図」から復元した江戸時代初期の地形とその後の掘割の合成図を見てみる。江戸城は当初日比谷入江に直接していて、その後日比谷入江と河川などを付け替え埋め立てながら、城壕そして運搬路としての舟堀、水路を開削していったことが分かる。平川の流れの先に開削されて水路とされたの...江戸の橋鈴木理生***

  • 戦国武将の死亡診断書 ***

    大河ドラマを見ていると、武将たちが頻繁に酒盛りをしている。あんなに酒を飲んで戦に行けるのかと心配になる。もう一つ、誰か止める人がいなくて肝硬変になってしまうと思っていたが、そのとおりだった。幕末の山内容堂は有名だが小早川秀秋や前田利家もそうだった。戦に向けてのストレス解消や裏切りへの鬱憤には酒を飲んでウサを晴らすことが重要だった。16世紀のはじめ頃に日本列島にもたらされたのが梅毒。戦国武将たちは、遊女から移され、病気の知識もなく多くの武将たちが感染したという。本書で紹介されたのは、好色家で大酒飲みだった加藤清正、30歳を過ぎて感染し鼻が欠損、神経過敏被害妄想もあり梅毒が進行して第4期まで行っていたと考えられる結城秀康、足が不自由だったが、梅毒が原因と考えられる骨髄炎の疑いがあり、晩年は大言癖、誇大妄想が見...戦国武将の死亡診断書***

  • 私の日本古代史(下) 上田正昭 ***

    古代とされる時代の継体朝から記紀編さんの時代までを概括的に述べた一冊。上巻では列島文化の始まりから出雲や吉備、大和盆地に豪族勢力が集まり、政権の母体が櫻井近辺に集約されてくるまでを記述。依拠するのはもちろん古事記と日本書紀となるが、その成り立ちと目的はそれぞれで、古事記が「邦家の経緯、王化の鴻基」を定めんとするのに対し、日本書紀は「日本国の紀としての面目」があり、作為や潤色が見られるとする。書紀には編纂されたとされる720年にこの世を去った藤原不比等が深く関わっていたとする。大王家の系譜によれば仁徳のあと葛城の磐之媛を母とする履中、反正、允恭が大王に即位、こうした王位継承の争いが王族内部に抗争を広げた。雄略の後も、清寧、顕宗、仁賢、武烈の大王を経て、応神の五代孫とされた継体が即位。清寧から武烈の間は20年...私の日本古代史(下)上田正昭***

  • シリーズ日本古代史① 農耕社会の成立 石川日出志 ***

    本書は古代史シリーズの第一巻で、縄文から弥生に至る日本列島の農耕社会成立、そして古墳時代を迎えるまでをまとめている。論点としては、縄文から弥生への移行が、日本列島内で数百年の時間的幅と西日本から近畿、東海と東北、関東という列島の中での地理的差異があったこと。そして、その移行は縄文人から渡来系を中心とした弥生人への入れ替わりがあったわけではなく、列島に従来から住み続けている人たちが中心となり、渡来人がもたらした灌漑稲作を生活の一部として取り入れながら従来からの狩猟採取生活も続けていたということ。つまり「弥生時代」とは、紀元前1000年ほども前から北九州で灌漑稲作が始められてから、瀬戸内海沿いに何百年をかけながら東に向けて広がり、日本海側からも北陸、東北地方、そして関東にも伝わっていく幅広い時代を指しているの...シリーズ日本古代史①農耕社会の成立石川日出志***

  • 地図と写真から見える!京の都歴史を愉しむ!

    時代劇で、特に今年の大河ドラマの紫式部の物語、住まいや出来事の位置関係を頭に描きながら見ると一味違うと思います。式部の住まいだとされる廬山寺、朧月夜や花散里もこのあたりに住んでいたのかも知れません。廬山寺は御所の東隣り寺町通り沿いにあり道長の住まいとされる鴨沂高校からみれば徒歩5分程の位置にあることが分かります。物語の最初の部分で、まひろと三郎が出会った川は多分鴨川。この時代にはまだお土居はなかったはずなので、広小路から丸太町の河原近くでは店が出て芸人たちが散楽などを披露していたのかもしれません。実際に会ったのかどうかは不明ですが、すれ違うことは時々あるくらいの位置関係です。陰陽師安倍晴明は陰陽寮に勤めていたので清涼殿の直ぐ側に居たので呼べば直ぐ参上できる。呪詛、などといえば現代なら暇なことをと考えがちで...地図と写真から見える!京の都歴史を愉しむ!

  • ホモ・デウス(上・下巻) ユヴァル・ノア・ハラリ ***

    現生人類はホモ・サピエンスと呼ばれる種であるが、それ以前にも人類種は存在した。ジャワ島で発見された10万年前ほどに絶滅したというホモ・エレクトス、主にシベリアと東アジアで発見されているデニソワ人、太平洋の島々に生息していたとされるホモ・フローレシェンシス。彼らに何があって絶滅し、ホモ・サピエンスは、その後なぜ生きき続けられたのか。ほんの少しの手先の器用さであったのかもしれないし、ひょっとしたらコミュニケーション能力が高かったのかもしれない。小さなDNA上の遺伝形質が歴史を左右した可能性もある。現生人類に現時点で何が起きているのかを俯瞰してみると、10万年間苦しめ続けられたであろう食料確保の問題、飢饉を効率的農業により概ね解決し、有史以来も苦しめ続けてきた解決不可能と思われてきた感染症や原因不明の疫病に対し...ホモ・デウス(上・下巻)ユヴァル・ノア・ハラリ***

  • 出島ー異文化交流の舞台 片桐一男 ***

    以前、「オランダ商館長が見た江戸の災害」を読み、出島に赴任して江戸の将軍に挨拶に来るオランダ商館御一行が江戸での大火災に巻き込まれる様子を知った。江戸時代の挨拶、手土産、お礼、日程調整などの面倒な様が、同時に得られる貿易による実益により我慢すべき事柄と認識されていたことがわかった。本書は、その様子を出島に限定して紹介したもの。出島の存在は、キリスト教布教禁止と貿易継続の両立を願う江戸幕府政策の一環。島原の乱までは多くいたポルトガル商人を一箇所に集め、管理する必要があった。長崎の有力町人25人に出資させて江戸時代初期の1636年に人工的に築港させたのが出島。1637-38年の島原の乱後はポルトガル人はマカオに追放、平戸に開設していたオランダ商館を出島に移転させて貿易の管理徹底を図った。唐蘭定期貿易船の検閲、...出島ー異文化交流の舞台片桐一男***

  • 万葉集があばく捏造された天皇・天智天皇(上) 渡辺康則 ****

    日本書紀は、その内容が史実かどうかが疑われる箇所があり、特に初代神武から7代までは実在が疑われて、5世紀ころまでの大王についても実在と在位年が疑われているところは定説。7世紀中盤の大事件、乙巳の変あたりには、特に疑問が多い。蘇我氏を滅ぼして推進されたとされる大化の改新で行われた政治改革は、その多くが推古朝以降、蘇我氏を中心とした政権が推進してきた内容と同じなのはなぜ。乙巳の変後に中大兄はなぜすぐに即位しなかったのか。万葉集で有名な額田女王と大海人皇子が蒲生の野で遊んだあとにお互いを詠んだ句は、天智の人妻となっているはずの額田女王が、元の夫である大海人皇子を、中大兄と大勢の人々がいる前で大ぴらに互いの気持ちを表現したと思われる。なぜこんなことが許されたのか。皇太子の最有力候補だった古人大兄はなぜ中大兄にいと...万葉集があばく捏造された天皇・天智天皇(上)渡辺康則****

  • 万葉集があばく捏造された天皇・天智天皇(下)渡辺康則 ****

    すごい仮説、学者でもない著者が、日本古代史の通説に真っ向から異を唱える。題名の通り、万葉集をよく読めば、乙巳の変の首謀者の一人、中大兄は大和朝廷の皇子ではなかったことを示す上下巻。著者は、サンデー毎日の編集委員等を経て、現在は作文塾の経営者であり、本書を読めばよく分かるが、歴史や和歌に通じていて詳しい方。記述は時に大変詳細であり、重複もあるが、かえってそれにより筆者の執念を感じられる。本書では、一般読者だけではなく日本古代史の学者、研究者、そして古代史全体に問題提起している。下巻では、まず斉明時代の皇太子は誰だったのかを究明。日本書紀を普通に読めば、中大兄は舒明紀から称制天智紀まで引き続いて皇太子だったように読めてしまう。しかし、よく分析すれば、斉明朝の皇太子は中大兄だとは記述していない。皇極帝の最後と孝...万葉集があばく捏造された天皇・天智天皇(下)渡辺康則****

  • 永田鉄山と昭和陸軍 岩井秀一郎 ***

    昭和初期に、陸軍の中での勢力争いがあり、合理的な戦略立案と実行を企図する統制派、天皇への敬慕と熱き愛国心を重視する皇道派に分かれていた。永田鉄山は統制派の首魁であり、皇道派から敵視され、昭和10年8月12日、狂信的愛国者の相沢中佐に軍務局長在任時、執務室内で斬殺された。同僚や上司から評価され部下からも慕われていたという人物評価から、殺されなければ東條に代わって陸軍大臣や首相にもなっていたと評価される逸材だった。永田鉄山は病院長の息子として誕生、陸軍士官学校、陸大を次席で卒業、教育総監付きの「軍隊教育令」を作成する仕事に携わる。首席は士官学校でひとつ上の梅津美治郎、いずれも陸軍のエリートである。教育令を作る難しさは、軍の長老の意思をいかに統一するかであったが、永田は忍耐強くこの任にあたり、意思を統一しただけ...永田鉄山と昭和陸軍岩井秀一郎***

  • 乱と変の日本史 本郷和人 ****

    乱と変以外にも、前九年の役、長篠の戦い、宝治合戦、大阪夏の陣、霜月騒動などが使い分けられているが、明治時代の学者・先人がそういった、従来からそう言われている、という理由によるらしい。秀吉による朝鮮出兵の文禄・慶長の役や蒙古襲来による文永・弘安の役は海を超えての戦争であり、大がかりな戦争を意味している。各藩におけるお世継ぎを巡る騒ぎなどで使われそうなのが「騒動」。「霜月騒動」は、鎌倉幕府の御家人安達泰盛が滅ぼされた事件なので、本来は「乱」と言ってもおかしくはない。観応の擾乱に至っては、これ以外に擾乱と呼ばれる事件はないのだから、「観応の乱」でも良いのではないか。「関ヶ原の戦い」は実際には家康が上杉景勝を成敗するために出陣するところから始まり、毛利輝元を大阪城から追い出すまでを指し示す、家康天下取りの戦い全体...乱と変の日本史本郷和人****

  • 満洲事変 「侵略」論を超えて世界的視野から考える (PHP新書) 宮田昌明 ***

    相手国戦力に対する甘い見通しと無謀で向こう見ずな国力評価、世界情勢への誤判断から突入してしまったのが日本にとっての太平洋戦争。そしてそこに向かう道を決定づけるきっかけとなったのが満州での権益確保と満洲事変。本書では、そこに至る歴史を中国側、ロシア・ソ連側、米英側、そして日本側と多面的な分析を施す。中国国内では、アヘン戦争までは清朝の繁栄が続いていたが1840年以降は太平天国の乱、アロー号事件と英国を始めとした欧米列強による植民地的権益の蚕食が進んでいた。しかし一方で、中国大陸のマジョリティを占める漢族は東トルキスタン、内モンゴル、満州への入植をすすめ、チベットに対してもその支配の食指を伸ばして、英国との対立を招いていた。朝鮮半島を巡っては、日清戦争を挟んで日本からの侵入と権益拡大圧力を受け、満州に関しては...満洲事変「侵略」論を超えて世界的視野から考える(PHP新書)宮田昌明***

  • 花押を読む 佐藤進一 ***

    花押は大河ドラマや時代劇に時々登場するが、それは何を象徴するのか。信長は生涯で多くの種類の花押を使ってきたと言われるが、麒麟の「麟」のいち字を花押としたことがある。麒麟とは「至治の世に出現する想像上の動物」であり、平和の時代への願望を意図したことが明らか、とするのが本書。これを用い始めたのは、松永久秀が将軍足利義輝を弑殺した事件がきっかけであり、信長の確固とした政治意志の現れだとした。勝海舟もその名「麟太郎」の一字「麟」を取ったため、信長の花押と類似している。花押の伝統からすれば、親子、一族、主従の花押は相互によく似ていながら多少とも違い、同時に明確に区別できるものである必要がある。署判者が紛れもなく本人であることを証明し、保証することが花押の第一義的な機能であるからである。しかし、名前とは一切関係のない...花押を読む佐藤進一***

  • 江戸藩邸へようこそ 久住祐一郎 ***

    大名に江戸のまちなかに与えられた屋敷が「江戸藩邸」で、国替えがあって領地が変わっても江戸藩邸は変わらないケースも多かった。屋敷は大名に対して与えられたものであるが、藩邸の持ち主が変わることもままあって、それは国替えとは無関係に行われたという。江戸時代の街図絵には「松平伊豆守」のように屋敷の主人名が書かれ、三河吉田などと地名では表記されていない。江戸藩邸で暮らすのは大名一家に加えて、江戸藩邸で勤務する江戸詰めの家臣、すなわち定府番とその家族ならびに、国元から単身赴任でやってきた勤番である。江戸の武家人口は約60万人で、その多くは大名とその家臣、家族であった。これは参勤交代の制度化により多数の大名屋敷が建てられたことによる。参勤交代制度により、各藩の出費の約半分以上が江戸での経費だったと言われる。上屋敷は江戸...江戸藩邸へようこそ久住祐一郎***

  • 写真で見る 日めくり日米開戦・終戦 共同通信編集委員室 ***

    太平洋戦争に至った理由は何、という問いについて、新聞記事から考えてみたという一冊。満州事変から回帰不能点となった南部仏印進駐まで、真珠湾攻撃までの1ヶ月、ポツダム宣言受諾までの1ヶ月、そして敗戦後の1ヶ月と4部に分けて写真つきでまとめられている。戦争は突然は始まらない、必ず手順を踏む、というのが保阪正康。明治維新以来、第一次大戦後までに日本国は日清・日露戦争を経て、南樺太、台湾、西太平洋、朝鮮半島などの権益を獲得してきたが、その欲望をさらに中国大陸にまで広げたのが満州事変。ここが回帰不能点だった。きっかけは1931年の柳条湖事件、比較的日本への配慮もにじませていたリットン調査団報告を受け入れようとしない日本は、国連を脱退した。1934年にはドイツでヒットラーが政権を奪取。1937年には盧溝橋事件をきっかけ...写真で見る日めくり日米開戦・終戦共同通信編集委員室***

  • 富士山宝永大爆発 永原慶二 ***

    歴史に残された最後の富士山爆発は江戸時代、赤穂浪士討ち入りがあった元禄時代のあと、宝永4年となる1707年11月23日に起きた溶岩流出を伴わない噴石と砂礫噴出による大爆発で宝永噴火と呼ばれる。それ以前にも1083年(永保3年)、864年(貞観6年)、800年(延暦19年)に爆発記録がある。何年経過すると危ないという規則性のようなものはないが、富士山噴火の歴史をさらに振り返ると、貞観から宝暦の624年ほどの間隔は、観測できる限りはこの期間が最長。そのため宝暦大爆発のエネルギー蓄積は巨大だった。宝永大爆発の49日前にはM8.4の宝永大地震が起きているが、それより以前も以降も東海・東南海に大地震は起きていて、爆発との関係性は否定できないものの、大地震があれば爆発するというものでもない。江戸の町でも地震に伴う大火...富士山宝永大爆発永原慶二***

  • 板垣退助 自由民権運動指導者の実像 中元崇智 ***

    板垣退助はどんな人?昭和の百円札で肖像画を見た人も多いはずだが、総理大臣経験者?自由民権運動の指導者と言うけれど、国会設立に貢献したと。そういえば「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとか言わなかっただろうとか。顔は知っているのにその足跡、業績について知らないことが多すぎる。幕末の板垣は土佐藩で、山内容堂、吉田東洋に抜擢され、その後土佐藩倒幕派の中心人物として活躍。戊辰戦争で官軍の指揮官として活躍して名声を獲得。板垣は土佐藩藩政改革を実施、維新後は政権に参議として参画するが、明治8年の政変で権力闘争に負けて西郷隆盛らと下野。西南戦争が西郷たちの敗北となり、板垣は西郷に呼応しなかったことで武力による政権奪還も不可能と成る。そこで板垣は言論による自由民権運動に活路を見出して民選議会設立に邁進。1870-80年代...板垣退助自由民権運動指導者の実像中元崇智***

  • 紫式部 清水好子 ***

    約1000年前に全54巻の源氏物語を書き上げたという紫式部、実は生誕年も実際の名前も分かっていないという。平安時代の女性でそういう記録が残る女性は皇族で、それも皇后などになった人だけだと。分かっているのは越前守などを務めた藤原為時の娘で、藤原宣孝の妻となり、夫の死後1004-1011年ころに藤原道長の娘で一条天皇の中宮となった彰子の女房となり仕えたということ。父親が式部大丞を務めていたため、宮中では藤式部と呼ばれていたが、源氏物語で紫の上が有名となり、後年紫式部と呼ばれた。しかし、紫式部が書き残したとされる書物は多い。彼女が残して一部編集したという紫式部集、道長が式部の才能を見込んで宮中の出来事を書き残させたという紫式部日記。そしてもちろん源氏物語。特に自身でその配列を考えたとされる紫式部集は、彼女の娘時...紫式部清水好子***

  • 天皇・コロナ・ポピュリズム 筒井清忠 ****

    歴史上の出来事は形を変えて再び起きるが同じ結果に成るとは限らない。本書ではコロナ禍をきっかけにした緊急事態に日本政府と日本人がどのように振る舞い、対応したのかを考察して、メディアの役割と一般的日本人の同調圧力について述べている。章立ては以下の通り。第1章岐路に立つ象徴天皇制第2章天皇周辺の「大衆性」―近衛文麿と宮中グループ第3章戦前型ポピュリズムの教訓第4章コロナ「緊急事態」で伸張したポピュリズム第5章ポピュリズムと危機の議会制民主主義―菅内閣論第6章大正期政治における大衆化の進展第7章関東大震災と「ポピュリズム型政治家」後藤新平第8章「大正デモクラシー」から「昭和軍国主義」へ第9章太平洋戦争への道程とポピュリズム終章ポピュリズム型同調社会と政治的リーダーの形成感染症流行で緊急事態に陥ったとき、政府や行政...天皇・コロナ・ポピュリズム筒井清忠****

  • 天正壬午の乱 平山優 ****

    天正壬午の乱とは、天正十年、本能寺の変をきっかけとして起きた東国での戦乱。その年の3月には甲州を中心に強大な勢力を誇った武田氏が織田勢に攻め込まれ滅亡、そして6月に本能寺の変が起きたことが引き金となり、織田勢力が切り取った信濃、甲斐、上野が空白地帯となる。そこに、北からは上杉景勝、東から北条氏直、西からは徳川家康が一斉に攻め込んだ。信長後継を巡って秀吉、柴田勝家らが揉めている間、「元は自分の領地」と北条、真田、上杉らが動き出したところに、家康が信長後継の代表を名目に攻め込んだ。しかし、信濃の各豪族たちは家康の正当性を信じない、北条とのつながりを重視した信濃の国衆は当初、北条と手を結び、家康は苦戦する。これが東国の状況で、秀吉らは家康の正当性を担保するため援軍を送ることを約束するが、勝家と秀吉の対立が激化し...天正壬午の乱平山優****

  • 大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯 藤井一二 ***

    古代の10以上ある主なる豪族の中で平安時代に生き残り続けたのは断トツで藤原氏であり、その他の蘇我、物部、葛城など多くの主要豪族が先細りになる中、藤原氏の周辺豪族として生き残っていた豪族の一つが大伴氏。家持は718年-785年の人で、天平を代表する歌人、万葉集編纂に関わったとされるが、大伴氏は従来武辺の家系。祖父が従二位大納言だった安麻呂、父が従二位大納言にまで出世した旅人、妻は従姉妹にあたる坂上大嬢、その母が坂上郎女で、安麻呂の娘である。遠くは継体王朝を実現させた大伴金村の子孫として従三位中納言参議にまで上り詰めた。道鏡、恵美押勝、橘奈良麻呂の変など数多くの政争が渦巻いた時代に生きながらも470首の歌を残した。大伴氏を背負って立つ立場にまで出世しながら、政争にまきこまれ陸奥鎮守将軍として死亡したとされる。...大伴家持波乱にみちた万葉歌人の生涯藤井一二***

  • 遊郭と日本人 田中優子 ****

    「遊郭は二度とこの世に出現すべきではなく、造ることができない場所であり制度である」と語る筆者。借金のかたとして身柄の自由を抑制され、厳重な監視下に置かれるという遊女たちがその中にいたから、そして病と暴力の危険にもさらされていた遊女たちの身を守るすべがなく、病気予防は運に任されるような体制だったことがその理由。また遊郭内では地位の格差が大きく、暮らしの様子は低位にとどまる多くの遊女では、飲酒などの食生活や不規則な日常生活面などで、早死にするケースが多かったという。一方、吉原遊郭は江戸文化の基盤であり、その影響は同時代の歌舞伎や芝居、新内などの娯楽、そして庶民の日常生活、年中行事にも多大であった。本書は吉原遊郭に関する一冊。幼い時から遊郭で育てられた遊女は、禿、新造、そして花魁、と出世するに従い、その社会的地...遊郭と日本人田中優子****

  • 古代豪族の興亡に秘められたヤマト王権の謎 古川順弘 ***

    3-4世紀にかけて、奈良の桜井市にある纏向遺跡あたりにヤマト王権の中心地があったとされている。その盟主が大王家であり、王権を盛り立てていたと考えられるのがその地方に群雄割拠していた豪族だといわれている。豪族たちの合議制による政権運営は7世紀、乙巳の変から大化の改新へと続く時代まで続いた。本書で取り上げられたのは、葛城、物部、忌部、蘇我、中臣、大伴、吉備、出雲、上毛野、秦の10氏であるが、そのほかにも天皇家に妃を多く出した尾張氏、和邇氏、琵琶湖周辺を本拠とした息長氏、紀国の国造だった紀氏、賀茂神社の賀茂氏、出雲系の出雲氏、古墳築造を担った土師氏、海部族の安曇氏など多くの豪族が地方にもあった。豪族を示す名称には氏と姓(ウジとカバネ)があり、氏は居住地や本拠地の地名や職掌に多く由来、地名によった事例が蘇我氏、平...古代豪族の興亡に秘められたヤマト王権の謎古川順弘***

  • 渡来の古代史 国のかたちをつくったのは誰か 上田正昭 ****

    大陸から朝鮮半島伝いで日本列島に移住してきた人たちを渡来人と呼び、縄文、弥生、古墳、奈良と続く日本文化の黎明を築き、支えてきたのは渡来人たちだったとする。百済・伽倻系の人たちが漢人(あやひと)、新羅系が秦人(はたひと)、高句麗系が高麗人(こまびと)と分類して、それぞれが果たしてきた日本史における役割を解き明かす。帰化人という呼び方があるが、帰化とは統治された国または組織体制に外部から帰属するという場合に使い、大陸からの移住者たちの多くが日本列島に移動した時期は、列島に統治された国はなかったのだから、その頃の移住者たちは渡来人と呼ぶ必要があるという主張。日本書紀が、日本国の歴史を立派に見せたいという意図から、古渡の移住者にも「帰化」という表現を使ったという解釈。日本という国号は天智天皇670年以降で大宝元年...渡来の古代史国のかたちをつくったのは誰か上田正昭****

  • 謎の大王 継体天皇 水谷千秋 ***

    武烈大王が跡継ぎを残さずに、ライバルを皆殺しにしたまま死んでしまい、次の大王を誰にするのかで混乱した時代があった。時の有力豪族の一人、大伴金村は越後、近江で地方豪族として生き延びていた応神の5代孫とされる継体を次期大王として即位させたが、大伴をはじめとした蘇我、物部、葛城、平群、紀、膳、巨勢、阿部、坂本、春日、中臣、三輪という集団合議制を形成していた13の中央豪族の意見は分かれ、継体は大和盆地に直接は入らず、樟葉、綴喜、乙訓と20年ほど場所を移しながら力を蓄えた後に磐余玉穂宮、大和盆地に入ったとされる。つまり、今までの血統とは別とまでは言えないが、武烈までの血統とはかなり離れた皇族の中から選ばれた大王が継体。それに加えて、次の大王を決めるのに、前の大王の意思とは全く別のところで決まるという合議体制が形成さ...謎の大王継体天皇水谷千秋***

  • 縄文人と弥生人-「日本人の起源」論争 坂野徹 ***

    最新の定説は、日本人のご先祖は、最初に大陸から移住してきて定住し始めた狩猟採集民が縄文人となり定住した日本列島に、渡来系の米作民が混血して生まれた、というもの。DNA分析によれば、大陸北方民からの移住者と南方島伝いと大陸南方陸地伝いの移住者が混じり合っているという。さらに、縄文時代と弥生時代の境目も明確には決め難く、狩猟収集生活と漁労生活、そして稲作、農作による生活は、気候変動や灌漑、鉄器などの技術進歩とともに時間をかけて混ざり合い、列島を東西から南北へと漸進して広がっていったことが考えられる。この定説が定着するまでに、人種交代説、固有日本人説、混血説、変形説などの様々な仮説が唱えられてきた。日本で唱えられる縄文時代と弥生時代という土器に基づく歴史的区分呼称は、世界での旧石器時代、新石器時代、金属器時代と...縄文人と弥生人-「日本人の起源」論争坂野徹***

  • 地球の履歴書 大河内直彦 ****

    45億7千万年前に誕生したという地球の歴史がたどる軌跡を科学の視点から一般読者にわかるよう、面白く解説した一冊、面白かった。45億3千万年前にティアと呼ばれる火星ほどの大きさの惑星が地球に衝突、地球上は想像を絶するカオスが出現し数十年後に地球から2万メートル離れたところに月が誕生した。現在の月はその距離38万メートルなので、見た目で今の20倍ほどの大きさに見えたはずである。ドロドロに溶解した地球では、重い鉄やニッケルが中心部に沈みコアを形成、続いてケイ素やマグネシウムを含む物質が沈殿、マントルを形成する。表面は硬化して地殻となるが、45億年経過した今でも内部には溶解したままの物質が存在する。その後蒸発していた水分が地上に降り落ちて海が形成され、地上には地殻をすっぽりと覆う海ができた。月がクレーターだらけな...地球の履歴書大河内直彦****

  • 日露戦争史 横手慎二 ***

    日露戦争は日本にとっては日清戦争に続く大国との対外戦争であり、辛くも勝利したとされているが、戦闘に参加した軍人軍属は108万人、戦死者84000人、戦傷者143000人という膨大な人的損害を被った。ロシアにとっても、シベリア鉄道で戦場に送られた人数が129万人、戦死者5万人以上を含む27万人の喪失というデータが残っている。戦争の目的は朝鮮半島と満州における双方の利権確保であり、旅順や日本海海戦での日本側の勝利から、日本サイドとしては賠償金と樺太割譲の要求をしたがロシアは断固としてこれに応じなかった。もともとの戦争目的であった韓国の保護国化ならびに遼東半島租借地、東清鉄道支線譲渡はすんなり決着がついたため、樺太の北緯50度線以南割譲のみで、賠償金なしという決着で全権大使小村寿太郎は交渉を終えた。軍部としては...日露戦争史横手慎二***

  • 明治十四年の政変 久保田哲 ***

    明治維新後の日本では政治経済分野で特に国の形を変える様々な改革が行われた。明治を前期、中期、後期と分けると、前期は維新で活躍した維新三傑とも呼ばれる、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允が活躍したが、廃藩置県、版籍奉還、徴兵制度、地租改革、などの大改革を実現しながらも、それぞれ戦死、暗殺、病死を遂げた。中期は、江戸時代末期締結の不平等条約の改正、国力増強、富国強兵のための殖産興業、国民国家の樹立のための議会設立、憲法制定、藩閥政治改革などがテーマ。活躍したのは維新二世代目とも言える、伊藤博文、井上馨、大隈重信、福沢諭吉、黒田清隆、五代友厚など。その頃起きたのが北海道開拓使払い下げ事件で、それが取引材料のようになり、積極財政から緊縮財政への転換と議会設立が図られたのが明治十四年の政変。大隈重信が下野し、払下げは中...明治十四年の政変久保田哲***

  • 東大寺のなりたち 森本公誠 ***

    著者は東大寺に入門して70年以上、東大寺の長老にして2004-7年に218世別当を勤めた。奈良の大仏で有名な廬舎那仏が建立されることになるのは、743年の聖武天皇による詔により、747年より鋳造が始まったとされる。その前身は、若草山麓に創建された金鐘寺(金鍾寺とも)が起源とのこと。728年に、聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くした基王を弔うため山房を設け、これが金鐘寺の前身となる。741年に国分寺建立の詔が発せられ、金鐘寺は大和国の国分寺と定められ金光明寺と改められた。749年には娘の孝謙に譲位、大仏の鋳造が終了、大仏開眼会が挙行されたのは752年。その後、754年に待ち望んでいた鑑真和上来日、大仏殿の建設も始められ、758年に完成した。聖武天皇が即位したのは724年のことで、誕生した701年に制定されたの...東大寺のなりたち森本公誠***

  • 人事の日本史 遠山美津男、関幸彦、山本博文 ****

    古代から近世までの日本史を振り返り、「人事」の本質について考察してみた一冊。視点は次の三つ。1.歴史上重要な人事の決まり方2.歴史上の人物たちは人事に対してどのように考えふるまったか3.日本における人事に対する論理はあるのか経済雑誌「エコノミスト」2003-4年連載の記事をまとめた本書。読者のサラリーマンたちにどのように訴えるのか、朝礼の挨拶で使えるフレーズなどを意識したと思われる。日本歴史と思うと遠い昔の話、しかし人事と考えれば身につまされて自分に引き寄せて考えられるというもの。確立された人事制度として記録に残る日本史最古のものと言えば、冠位12階と憲法17条、厩戸皇子制定とされるが、内容から書かれた内容は天武朝以降のものと考えられる。官職の等級ではなく、組織に属する人間の上下関係、トップとの距離を服装...人事の日本史遠山美津男、関幸彦、山本博文****

  • 人名の世界地図 21世紀研究会編 ***

    日本では生まれてきた子供に希望と期待を込めて、自分が気に入った名前を付けるが、キリスト教圏など宗教がらみの名前を付けることが一般的。そのため、名前の種類はある程度限定される。本書は世界の姓と個人名の由来をまとめたもの。Peterは新約聖書のペドロに由来。ドイツでもPeter、Petri、Petris、フランスではPierre、イタリアではPietro、スペインではPedro、ロシアではPyotrとなる。出身地を示す姓ではイングランドを示すEngland、Inglis、ブリテン島をしめすBreton、Brett、Britt、スコットランドはScollan、Scott、ウェールズはWalch、Wallace、Wallis、Welch、Wellsman、コーンウォール地方のCornell、Cornwell、アイ...人名の世界地図21世紀研究会編***

  • 日本史の内幕 磯田道史 ***

    「武士の家計簿」の筆者でもあり、本書の筆者の磯田さんは本書によれば15歳で古文書の解読を始めたとのこと。古文書が読めれば、貴重な一次資料に出会う確率が高まるので、歴史学者としては必要不可欠な能力となる。本書は、自分で見つけて解読した古文書から分かったこと、これをまとめているので、ニセ情報も中にはあるが、本で学んだだけではない、当然聞きかじりではない、本物の歴史的事象に巡り合うことができるかもしれない。家康が信玄に大敗した三方ヶ原の戦について検証している。通説では信玄軍2ー3万、家康軍が8000、信長からの援軍3000としている。信長からの援軍はこんなに少なかったのかというのが目の付け所。3000人の根拠は1685年成立の「織田軍記」で、その他の資料からは過少な数字の可能性があると見た。徳川重臣最古参の酒井...日本史の内幕磯田道史***

  • 「お金」で読む日本史 本郷和人 ***

    米価により過去の金額を現代に置き換える手法でみると、鎌倉時代の一石(1000文)は10万円ほどとして、大仏鋳造に使われた宋銭(一枚2gが6000枚ほど使われたと換算)相当で、1石が150Kgとする換算では60億円ほどとなる。承久の乱後に地頭に任じられた御家人の年収は、200町歩とすると年貢が得られるのは18町ほど、172石として計算すると1720万円。信玄が獲得した最大領地は甲斐、信濃、するが、上野の西半分、越中、飛騨、美濃、三河、遠江の一部で、太閤検地での石高で120万石、1200億円ほどとなる。4公6民とすると480億円ほどにもなる。津具金山からの収入だけでも24万両で180億円。領内の金山は28あったとのことで、金収入が莫大であったことが分かる。江戸時代の暮らしでは、新田開発が進み菜種の栽培が増加、...「お金」で読む日本史本郷和人***

  • 戦国、まずい飯! 黒澤はゆま ***

    戦国時代を描くドラマを見ていると、大名はやたらにお酒を飲んでいるが、どんな食事をしていたのだろうか。とくに戦場での食事は、大将と一般侍、そして足軽ではずいぶん差があったのではないか。そもそも、ドラマで女性陣が戦場向けにみんなで作る美味しそうな握り飯など本当にあったのだろうか。赤米:戦国時代までは、治水、灌漑、施肥、害虫対策などのため、限られた人出と農機具性能の限界があり、水稲と陸稲が混在し、美味しいが手間がかかる白米以外にも促成栽培が可能な大唐米と呼ばれた赤米が育てられていた。地主に納めるのは白米だが、百姓自らは赤米や稗・粟を季節をずらして栽培し食していた。精米に必要な石臼も、室町前期には全戸に設置なされていた訳でもないので、五分つき程度のの穀類を吸い物と一緒に飲み込むように食べていたと考えられる。糠味噌...戦国、まずい飯!黒澤はゆま***

  • 英国公文書の世界史 一次資料の宝石箱 小林恭子 ***

    イギリスはロンドンのキューにある国立公文書館には、この1000年に発生して保管されてきた中世から現代までの膨大な歴史資料が存在する。期限が来れば誰にでも閲覧可能、その期限も50年から最近は20年にまで短縮されている。日本では見られない外交資料も、ここに来れば見ることが可能なため、近代の外交史を調べたい学者はここに来るという。具体的には、最古の公文書である土地台帳、マグナカルタ、ヘンリー8世の離婚証明書、蒸気機関車の見取り図、世界初の切手、ロンドン万博の記念手袋、タイタニック号からの無線メッセージ、米国独立宣言のポスター、シェイクスピアの遺言書、欧州分割を決定づけたチャーチルの手書きメモから、夏目漱石の名前が残る下宿簿、ホームズや「切り裂きジャック」の手紙、ビートルズの来日報告書などあらゆるジャンルの資料が...英国公文書の世界史一次資料の宝石箱小林恭子***

  • 家康クライシス 浜田浩一郎 ****

    大河ドラマ「どうする家康」の副読本的存在の一冊。本書の章立てをたどることは、一年間の大河ドラマを思い出す作業と重なるほど。松平家の前史では、葵のご紋について。葵は京都の賀茂神社の御神紋で、松平家は古代賀茂一族だったという説もある。三河の賀茂郡がその所縁の地。松平家の中には賀茂朝臣と自称するものもいたという。ちなみに先祖だという新田氏の家紋は一引両。松平家は十四家もあったといわれ、大給、桜井、深溝、福釜、藤井、滝脇、長沢、竹谷、形原、大草、五井、能見、東条、三木。今川と織田の人質になった子供時代があり、織田信長との盟友関係につながるようにドラマでは描かれたが、真相は不明。家康の三大危機の一つが三河一向一揆、三方ヶ原、そして伊賀越えだが、三河一向一揆は中でも家臣の中にも信者がいて大変な問題となったはず。当時の...家康クライシス浜田浩一郎****

  • ナンバー2の日本史 榎本秋 ****

    日本史上、国のリーダーシップはどのように操られてきたかという視点で、ナンバー2がそれを握ってきたというのが本書。殿を支える家老、若将軍を支える老中、天皇を操る摂政や関白、そして院政を牛耳っていた治天の君。古代から近世までをざっと概観する。古代、大王や天皇の補佐役は連綿と役割を果たしてきた。卑弥呼の弟、伝説上ではあるが神功皇后、武内宿禰、聖徳太子に蘇我馬子、藤原鎌足とその子不比等、長屋王、藤原四兄弟、橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡。摂関政治の時代には、藤原一族から百川、良房、基経、時平、忠平、実頼、師輔、兼通、兼家、道隆、道兼、道長、そして頼道。途中菅原道真もいた。その後は院政時代で、白河、後白河、後鳥羽などと続いた。鎌倉時代はナンバー2の執権が実権を握るが、その北条氏の中でも得宗家とその支家が勢力を争った。室町...ナンバー2の日本史榎本秋****

  • 戦国の忍び 平山優 ****

    「忍者」と呼ばれるようになる存在は、明治以降の物語や昭和になってからのアニメや漫画で有名になってきた存在。歴史学者に「忍者」はいたのかと問うと、いなかった、と答える人が多いという。室町時代に出現してきた「悪党」は、災害や凶作、飢饉、戦乱などの結果、耕作地を放棄して他所に逃散した百姓やあぶれ者の一部が強盗や盗人になったもの。そうした悪党たちを戦国時代の各勢力は足軽や偵察員、調略要因、待ち伏せ要員、後方かく乱要員、非常勤職員として利用した。その活動は夜間が主で、盗人としての特徴が生かされたため重用され、城の乗っ取りなどでも活躍した。彼らは地方によっては「草」「伏し」「野臥せ」「かまり」そして戦国時代には乱波(らっぱ)、透波(すっぱ)などと呼ばれるようになる。「すっぱ抜かれる」はこれが由来。これらはその後「忍び...戦国の忍び平山優****

  • 日本の歴史を旅する 五味文彦 ***

    旅行するときに、その土地の歴史や謂れを知って訪れると楽しみが増えるし、感動や記憶も深く刻まれるのではないか。本書では、いくつかの地方、地域を選んで、「人」芭蕉、連歌師宗長、菅原真澄、若山牧水「山」筑波山、立山、白山、六郷満山「食」讃岐うどん、若狭もの、佐渡の味覚、宇都宮餃子「道」四国巡礼道、山陽道、山陰道、会津街道に分類して解説している。芭蕉と言えば奥の細道、しかし本書ではその前に執筆した場所とされる近江大津。育った地が伊賀上野で、晩年庵を結んだのが大津の幻住庵、大津は芭蕉にとっては特別な場所だった。大津は天智天皇が都をおき、中世には馬借の根拠地になり、近世には東海道の宿場町として栄えた、つまり交通の要衝であり、文化の交わる場所だった。大津市周辺にあるのは、園城寺、そのそばに大津城、北には近江大津宮跡、そ...日本の歴史を旅する五味文彦***

  • 怪しい戦国史 本郷和人 ***

    歴史書によくでてくる定説を疑ってみようという本書。新聞連載のコラムをまとめた読み物風のエッセイ集という一冊。●信長の兵力戦いを決する「兵力」の謎では、桶狭間の戦いで、信長の攻撃は正面からの攻撃であり、兵力差は大きかったが、信長からの指示を的確に忖度して実行できる精鋭部隊だったのが勝因だったと分析。●秀吉の行軍力秀吉の天下取りと「行軍力」では、近代の軍隊での歩兵の行軍スピードを一日20Kmとしたときの戦国時代の行軍を評価。秀吉の中国大返しでは、備中高松城からの200Kmを10日で移動して天王山の戦いで光秀を破った例。徳川秀忠は大阪冬の陣で、江戸から京都まで1日27Kmで進んだのに、落ちこぼれが出たことを家康に咎められたとか。●信玄の城攻め武将が「城を攻める」意外な理由の一つが、領地の境界線上の城は、攻撃の第...怪しい戦国史本郷和人***

  • 物語 ウクライナの歴史 黒川祐次 ***

    ウクライナのある場所は歴史上、東から西からの大国に蹂躙されてきた。騎馬・黄金の民族と言われるスキタイ人が紀元前750年ころから2世紀ころまで暮らしていたその場所は、スキタイの滅亡の後、4世紀にはフン族、6世紀にはアヴァール族が侵入、6-7世紀にはスラブ人によりキエフ・ルーシ公国が建国された。しかし14世紀にはリトアニアとポーランドに併合され、15世紀にはオスマントルコがクリミア半島を支配下に置く。その後もコサック登場、モスクワ公国支配、ポーランド支配、オーストリア帝国支配、クリミア戦争、ロシア帝国支配などを経て、1914年の第一次大戦と1917年のロシア革命でウクライナの地も大転換点を迎えた。ロシア二月革命でウクライナにも中央ラーダと呼ばれる独立を目指す組織が設立、ウクライナ自治宣言が出される。10月革命...物語ウクライナの歴史黒川祐次***

  • 織田信長の家臣団 ー派閥と人間関係 和田裕弘 ***

    大河ドラマを見ていると、家臣団同士のつながりは地縁と血縁で固められていることが多いことに気が付く。織田の家臣同士でも尾張、美濃の地縁とともに、織田家と家臣とのつながり、そして家臣同士の血縁を作り出すことにより、裏切りを極力防ぎ、結束を強めようとしている。それでも裏切りはあるわけで、信長の妹お市の方が嫁いだ浅井長政は信長に敵対し滅ぼされ、お市は本能寺の変の後柴田勝家の妻となるが、秀吉に担がれた信孝と敵対し、滅ぼされることになる。明智光秀の娘を娶っていた細川忠興は、本能寺の変後、明智の謀反に手を貸すことはなかった。織田家中の最古参だった佐久間信盛は、婚姻や養子縁組による人脈がなかったため、本願寺攻めの不手際から信長に追放されたとされているが、本当にそれだけなのだろうか。本書では、信長の生い立ちとともに成長過程...織田信長の家臣団ー派閥と人間関係和田裕弘***

  • 暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」 大泉光一 ***

    歴史の時間に習った支倉常長の使節派遣は、宣教師の派遣要請とメキシコとの通商交易開始。本書では伊達政宗が、江戸幕府に対抗して、幕府には極秘にスペインから武器と軍隊派遣をを要請し、オランダのイギリスのプロテスタント対抗軸をカソリック勢力の支援を得て東北に構築しようとしていたというもの。その記録は日本国内ではすべて廃却されているものの、ローマとスペイン、メキシコには記録が残っていた。史料は古典ロマンス語と言われるラテン語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語なので、そうした古文書を読解することに本書筆者は50年を費やしている。政宗はこうした意図の発覚を免れるため、使節団に持たせた親書には具体的なことを記述せず、すべては使者の支倉常長と宣教師ソテロに伝えたとしている。使節団には幕府のメンバーもいたが、日本からメキ...暴かれた伊達政宗「幕府転覆計画」大泉光一***

  • イギリス人の患者 M・オンダーチェ ****

    時は第二次大戦末期、場所はイタリア北部のフィレンツェの北にあるサン・ジロラーモと呼ばれた屋敷跡。登場するのは4人。若いカナダ人の女性看護婦のハナは戦争で傷ついた大勢の若い兵士たちを看護し看取ってきた。父を戦争で亡くしている。その父の友人だったカラバッジョおじさんは元泥棒で、連合軍に情報屋として雇われたこともあるが、ドイツ軍に捕らえられて拷問にあった。かわいい姪っ子であるハナが北イタリアに残っていると聞いてここまでたどり着いた。インド人でシーク教徒のキップは英国軍に所属する工兵で、地雷や不発弾処理を任されてきた。イギリスの文明や宗教に惹かれる部分があるが、戦争の体験、工兵としての苦悩が、有色人、アジア人としてのアイデンティティに目覚めさせる。そしてイギリス人だと自称する大やけどを負った患者。ハナ、キップ、カ...イギリス人の患者M・オンダーチェ****

  • 戦国武将の病が歴史を動かした 若林利光 ****

    戦国時代の大名同士の運命の帰趨を決めた大きな原因は大将の健康、病気だった、という本書。関ヶ原の戦いで寝返ったことで有名な小早川秀秋はその時19歳だったが、すでに肝硬変が原因による精神的な問題が数多くあらわれていた。西軍への裏切りは戦いがその山場を迎えるころまで遅れて実行されたとされるが、寝返りは事前に小早川陣営の家老たちと黒田官兵衛により合意済みだったのに、秀秋はそれをなかなか決断できなかった原因を肝硬変による精神疾患にあったのではないかと著者は推察。秀秋はこの時代の名医、曲直瀬玄朔の診療を関ヶ原の戦い後に受けて、飲酒による黄疸だと記された資料がある。結果的にその遅れた寝返りタイミングが絶妙な作戦となり、大谷吉継の軍勢が一気に押し戻され、西軍敗北の要因となった。19歳で酒の飲みすぎ、それは戦国大名の元服が...戦国武将の病が歴史を動かした若林利光****

  • 地名で読む江戸の町 大石学 ***

    東京の地名では有楽町や八重洲の名前の起源は有名だが、旧江戸市街は結構東西南北に広がっている。灌漑用水の水源地だったのが水元、明治22年に誕生した村名だが、1929年に開発された灌漑用水だったので水元と呼ばれていた。柴又の地名が最初に文書に登場するのが正倉院保管の養老2年(718年)の戸籍で嶋俣里というもの。奈良時代の島俣には42戸の家があり370名の住人がいた。小松菜の名前のもととなった小松川。鷹狩に来ていた将軍吉宗が食した菜が美味しいと「小松菜」と名付けたという。小松川は葛飾区新小岩の小松村から流れていたので小松川と呼ばれていた。巣鴨は近くに石神井川が流れていたためそれに臨んだ地域として洲処面と呼ばれた。下谷は戦国時代に、入谷は江戸時代にみられた地形から名付けられた。下谷という広域地域名の中に入谷、稲荷...地名で読む江戸の町大石学***

  • 図解 東アジアの歴史 三城俊一 ***

    米中関係、日韓関係、北朝鮮拉致問題、北方領土交渉などなど、いずれも歴史問題が絡んでくるので、アジアの歴史を知らずしてニュースの理解もままならないはず。特に近世、近代史をどれほど私達は理解しているだろうか。思い込みもあるかもしれないし、勘違いの可能性もある。好きと嫌いだけではなく、次々に起きる出来事の是非判断が難しいのが近隣関係。最低ラインでも理解しておきたいというのが本書の狙い。歴史上、必ず登場するのは中華秩序と朝貢関係を結ぶ東アジア諸国の存在。中華文明の根本まで遡り、諸子百家、儒家である孔子孟子の思想から、道家の老子、莊子、墨家の墨子、兵家の孫氏、呉氏などを紹介。こうした多士済々たる諸子百家の中でも歴代王朝の国教という特別な地位を占めたのは儒家思想。隋以降取り入れられた科挙試験でも儒教の経典理解は前提知...図解東アジアの歴史三城俊一***

  • 考証 鎌倉殿をめぐる人びと 坂井孝一 ***

    2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見終わって、中世史の鎌倉幕府誕生前後の歴史上有名な場面にも関わらず、知らないことが多いことに気がついた。初代執権時政とその子義時、そして泰時の関係や時房の位置づけ、朝廷側から見た新参者の関東勢力に対する見方と、武力にまさる関東勢力との立場の転換、頼朝とその子達、政子と北条執権家の立場、土地の所有への執着とその安堵の力などなど。自戒するにこれは歴史を時系列に起きた出来事として理解していた認識力の限界だった。本書は、登場人物別にその来歴や業績をまとめており、加えてその時代の制度や文化を解説、一年を通してドラマを見終わった後に、その歴史の転換点をより深く三次元的に理解しておくためには有用な一冊。鎌倉時代の歴史を記述した北条氏による歴史書が「吾妻鏡」で、13世紀末から14...考証鎌倉殿をめぐる人びと坂井孝一***

  • 日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像 大谷正 ***

    日清戦争の当時、日本も清も東アジアにおいては強国として存在はしていたものの近代的国家とは言えない状態。両国ともに19世紀中期に西欧列強各国が東アジアに持ち込んだ西欧的外交関係に取り込まれて不平等条約を締結させられていた。同時に中国は伝統的に自国を中心とする中華圏のなかで朝鮮との朝貢関係を維持し、日清戦争の原因となる朝鮮を巡る国際情勢では、この2つの国際関係が絡み合っていた。朝鮮問題を契機として戦争を仕掛けたのは日本サイドで、清サイドは李鴻章が北洋通商大臣として戦争回避に努めた。東アジアに権益を持つ欧米列強のイギリス、ロシアは戦争回避のための調停に乗り出したが日本は無理を重ねて開戦に踏み切る。日本としては出遅れたが今は開国した国民国家として、西欧諸国と同様の植民地を東アジアに築きたいという欲望があり、その手...日清戦争近代日本初の対外戦争の実像大谷正***

  • 枢密院議長の日記 佐野眞一 ****

    明治大正昭和の時代に東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官、貴族院勅選議員を経て枢密院議長を勤めた倉富勇三郎の日記を取りまとめたドキュメンタリー、ノンフィクション作家佐野真一による大作。日記は大正8年1月より昭和19年12月までの26年分。枢密院は明治憲法発布時に、天皇と議会、内閣の間に立ち、憲法や憲法付属の法令、緊急勅令、条約等について天皇の諮問に応ずる機関とされた。伊藤博文や山縣有朋、黒田清隆などが議長を務め、維新後議会を設置するに当たって、薩長の元勲が、天皇の意思をもって議会や政党の暴走を抑制する目的で設置されたものと思われる。本書の倉富勇三郎が議長時代は政党政治の時代、天皇、軍部、議会の間に立とうとしていたことが伺われるが、満州事変以降は軍部の力に圧倒されたことが読み取れる。倉富勇三郎は司法畑の出...枢密院議長の日記佐野眞一****

  • 感染症の日本史 磯田道史 ***

    「歴史人口学」の速水融を師と仰ぐ筆者。江戸時代の宗門改帳は、幕府命令により200年ほどの期間、藩によっては徹底的に実施され、歴史学的にこれほど貴重な資料はない。歴史的事実を宗門改め帖からあぶり出し、江戸時代の家族制度や「勤勉革命」と名付けた文明発展のカギについて世に問うたのが2019年に亡くなった歴史学者速水融。速水融によれば、世界の国々の中で、いち早く文明が開けた中国、エジプト、インド、ペルシャでは、その後、文明の「化石化」が起きて、20世紀になって現代文明発展国となり損ねた。こうした国家では20世紀以降、政治優先で強大な権力所持者が指導する国家となる第一系列の近代化を行っている。第二系列とは、封建国家から資本主義社会を経験し議会制民主主義を生み出した国家群。現在の欧米と中ロの対立は、そうした歴史的経緯...感染症の日本史磯田道史***

  • 関所で読みとく日本史 河合敦 ***

    関所にはその時代の権力者の政策が反映される。壬申の乱の時代には、愛発関、不破関、鈴鹿関があり、大和から大津に都を移した中大兄皇子、天智天皇が中国、唐からの侵入を恐れて、琵琶湖に逃げ道を求めると同時に、東国の勢力への防備にも気を配ったことが忍ばれる。皮肉にも、大友皇子と戦うことになった大海人皇子は、籠もっていた吉野の山から伊賀を抜けて三重に入り、東国勢力を味方につけると同時にこの3つの関所を手中に収めて、壬申の乱に勝利する。これ以降は、天皇の死や反乱が起きると、固関(こげん)と言ってこの三関を閉じ、畿内の動揺を抑える政策が取られた。弁慶と義経が呼び留められたのは歌舞伎では安宅関とされているが、資料で残るのは愛発関での出来事。蝦夷との戦いが始まると、白河、勿来、そして日本海側に越後と出羽の国境の念珠(ねじゅ)...関所で読みとく日本史河合敦***

  • 日本史人物ホントの評価 山本博文 ***

    明智光秀は、彼を取り上げた大河ドラマ「麒麟がくる」があり一時的に注目されたが、なぜ主君を打ち取りに行ったのか、その後はどうするつもりだったのかはよく分からない。同時代の宣教師、ルイスフロイスは光秀を「賤しき歩卒」と表現、同時代の書物にも「足軽から美濃の守護土岐氏に仕え、その後足利将軍家にも仕えた」とされ、低い身分から立身出世を遂げたのは間違いないところ。比叡山焼き討ちには反対したという記述が「天台座主記」にはあるため、大河では比叡山に同情的と描かれたが、一次資料には比叡山国衆への調略を積極的に進めていた形跡もあるという。焼き討ちの功績や将軍義昭の追放で信長の家臣となり、そして丹波攻めと続いて惟任日向守と名乗るようになる。信長がその後には九州進出を光秀に任せたいと考えていたとされる。このころの光秀はまさに信...日本史人物ホントの評価山本博文***

  • お茶と権力 信長・利休・秀吉 田中仙堂 ****

    室町時代から武家でも嗜まれるようになった茶道。武士たちも公家に負けない嗜みとして茶道に励み、唐物や名品と言われる茶道具を集めた。時代は室町から戦国、下剋上の毎日の情報伝達は手紙や忍び、噂などにより伝わるが、その速度は今では想像がつかないほど遅い。戦闘がありどこそこの大名の首がとられた、という情報が地方にまで伝わるには時間がかかった。おまけに、武士の強みは武力だが、その武力を自慢することは庶民に馬鹿にされた。つまり、戦いに勝って領地を得た、というようなことを離合集散を繰り返すライバルたちに自分からは言いにくい。戦いに勝つと、武士たちは相手が所有している領地と同時に、大切にする姫君や茶道の名品を召し上げた。取り上げた茶道の名品をお披露目できる場として茶会が利用されたという。その茶道を政治の道具として活用したの...お茶と権力信長・利休・秀吉田中仙堂****

  • 「檄文」の日本近現代史 保阪正康 ***

    筆者による「陰謀の日本近現代史」は明治維新から太平洋戦争まで、「昭和史7つの謎と7大事件」は、太平洋戦争と戦後の事件を解説した一冊であった。本書は「檄文」に現れる歴史性を昭和史に絞って解説した一冊。何らかの政治的、軍事的、文化的その他、歴史に残るような大きなことを計画したり、企んでいる人間サイドの心理状態から考えると、その出来事を引き起こすに至った理由、出来事の背景、期待する今後の展開などについて解説したいと考えると思う。平成から令和にかけて青春、社会人、働き盛りを迎えている人達から見ると、昭和史はだいぶん前に過ぎ去った歴史なのかもしれないが、日本の今はなぜこうなったのかを考える際には、昭和の出来事を知っておくことが何らかの気づきのきっかけになるかもしれない。日本が英米連合国に戦争を始めた理由、中国が日本...「檄文」の日本近現代史保阪正康***

  • 大阪城 北川央 ***

    大坂城、と聞けば多くの人は、特に浪速の人は太閤秀吉を思い起こすのではないか。上町台地の北西端に屹立して、築城当初は大坂の街のどこからでもそびえ立つお城が見えたに違いない。築城されたのは天正11年(1583年)で、当時は本丸への正門は南側の桜門だったが、文禄5年(1596年)には廊下橋形式の極楽橋が城の北側に完成。擬宝珠高欄がつけられた黒塗りの橋だったが、その後、金鍍金した屋根を設け、橋の中央に平屋作りの二基の小櫓を突出させたという。筆者によれば、文禄5年に淀川改修工事が行われ、左岸堤防上が京と大坂を結ぶ京街道として整備され、大坂城北口の京橋口につながることが関係しているとしている。しかし慶長5年、秀吉の死後に京都東山に豊国社建造の際、解体・移築され二階門となった。さらに、その後家康はその極楽門を琵琶湖に浮...大阪城北川央***

  • オランダ商館長が見た江戸の災害 フレデリック・クレインス著 磯野道史解説 ****

    江戸時代、初期には平戸に、のちに出島にオランダ人の日本における活動拠点があった。そこには日蘭ビジネスをつかさどる商館があり貿易管理を行う機能を果たしていた。商館長は貿易記録や財務記録とともに勤務と江戸参府に関する日記をつけることがオランダ本国から義務付けられていたため、報告書の目的で、当時の日本の社会や文化に対するオランダ人ビジネスマンとしての感想や情報が記述された。記録は1633年から幕末までのものが残されオランダのハーグ国立文書館に保管されている。本書では膨大なその記録の中から、日本における災害記録を、オランダ商館長の行動と対応、思考に焦点をあててまとめた一冊。筆者はベルギー生まれの日欧交流史を専門とする国際日本文化研究センター准教授。オランダ商館長の任期は基本的には一年、就任時には江戸の将軍に挨拶に...オランダ商館長が見た江戸の災害フレデリック・クレインス著磯野道史解説****

  • 禁断の江戸史~教科書に載らない江戸の事件簿 河合敦 ***

    江戸時代の庶民の暮らし、お侍の実態などは比較的多くの情報が手に入るが、歴史の時間に習うことは少ないのではないか。・富山の殿様は、藩内で薬として有名な「反魂丹」をいつも持ち歩いていた。あるとき、江戸城で福島の殿様が癪を起したときに飲ませたら効いたと評判になり、それ以降は各藩からの求めに応じて反魂丹を増産、日本中に評判が広がって、以降、富山からは薬売りが全国を売り歩くようになった。そもそも、富山は修験道の盛んな土地で、布教のため修験者は立山信仰を広めるために、全国を歩いていたという。その際、持参するようになった一つが反魂丹だったという。一方の各藩では、他の藩から人が出入りしてくることは本来は好ましくない。そこをかいくぐるため、富山の布教者、修験者たちは、求めに応じた商品を持参するようになる。反魂丹に加えて、薩...禁断の江戸史~教科書に載らない江戸の事件簿河合敦***

  • 邪馬台国は「朱の王国だった」 蒲池明弘 ***

    天然に産出する「朱」は赤色の塗料であり、薬品となり、防腐剤、防虫剤としても利用される。水銀と硫黄の化合物が硫化水銀(HgS)であり朱、辰砂とも呼ばれ、漆に混ぜて塗る技法は古代縄文時代より土器や木櫛などに施されてきた。硫化水銀を加熱して硫黄を分離すれば水銀を得ることができ、金の精製や仏像への金メッキに水銀が使えるので、金、銀とともに水銀や硫化水銀は貴重な資源だった。また古代中国では朱と水銀を不老不死を願う仙薬として貴重品として扱い、白粉の原料としても使われた。朱は火山活動の結果生まれるとされ、古代より朱が、火山の多い日本列島から朝鮮半島や中国大陸に向けて輸出された。日本列島における古代の朱産地は九州、四国、近畿であり、特に産出の多いのが奈良、三重、そして九州北部、それも中央構造線近辺とされた。日本における朱...邪馬台国は「朱の王国だった」蒲池明弘***

  • 大嘗祭 工藤隆 ***

    大嘗祭とは何なのか。毎年行われる豊年を祝う新嘗祭の中でも、新天皇即位の年に行われるのが大嘗祭とされるが、その形式的な淵源は天武天皇即位の時まで遡るという。その後、1466年後土御門天皇を最後に中断、1687年東山天皇で再開するまでの221年間断絶していた。復活に際しては式次第の考証や復元作業があったと考えられる。延喜式には受禅(生前譲位)の場合、7月以前の即位はその年に、それ以降の即位なら次の年に大嘗祭を執り行うとされるが、死去による場合には、葬儀や喪に服す期間などを考慮するともある。しかし、その儀式の本質を見ると、即位儀礼や三種の神器移譲などとともに行われる稲作と酒造り、そして天皇の霊的パワーの移譲も含まれ、その濫觴は縄文・弥生、そして稲作のルーツとされる東南アジアにおける女性シャーマン中心の豊穣の祈り...大嘗祭工藤隆***

  • 京都<千年の都>の歴史 高橋昌明 ****

    平安京以前に時を遡れば、壬申の乱で天武の系統が天皇になってから初めての天智天皇系が光仁天皇で、その次の桓武天皇は、天武系が作った奈良の都を否定したかったが、仏門と公家の反対が強かった。そのため、当時奈良の副都であった難波宮を長岡に移転することを装っていたが、桓武天皇の腹心藤原種継が暗殺され、事件に連座させられた早良親王の怨霊を恐れて洪水に見舞われた長岡京を放棄してそのまま平安京造営に移行した。京都には空襲がなかったので多くの古い建物が残る千年の都、というのは実は少し違う。12世紀には二年続いた太郎・次郎焼亡で、大内裏を含む殆どの市内町家が焼け、大内裏が消失したのは3度目、大極殿はそれ以降再建されなかった。鹿ヶ谷事件や以仁王の挙兵などがそれに続く出来事。その後も室町以前の多くの建物は応仁の乱で灰燼に帰し、天...京都<千年の都>の歴史高橋昌明****

  • キリシタン教会と本能寺の変 浅見雅一 ***

    光秀が主君信長を討った理由はなにか。光秀は変ののち12日しか生き延びず、一族郎党もろともが死んでしまったため、そのワケを知っていそうなのは細川ガラシャしかいないのだが、そのガラシャも死んでしまう。秀吉が天下を取り、その後は家康の世となったので、謎だけが残った。フロイスは口之津に滞在中の出来事だったが、信長に保護されていたキリシタン布教の立場、フロイスの日本史の情報元は、当時安土と京の教会にいた宣教師やオルガンティーノらによるフロイスへの書簡であり、報告者は本能寺の変を身近に見ていた。そしてそうした情報をもとに光秀の嫡子十五郎、そして細川ガラシャについて考察してみたのが本書。オルガンティーノの書簡に現れる彼らの気持ちは光秀の考えと重なる部分が多いのではないかと。信心深さはかけらもなく、神仏を否定してきた信長...キリシタン教会と本能寺の変浅見雅一***

  • 天皇諡号が語る古代史の真相 関裕二 ***

    筆者は歴史作家であり歴史学者ではないので、どんな主張をしたとしても歴史上の仮説、検証はなかなか難しい。本書でも書かれているが「聖徳太子は蘇我入鹿である」という主張があり、それも一つの仮説。天皇が死後に呼び名として付けられた名が「諡号」。「神武」「崇神」「推古」「天武」などの漢字二文字の呼び名が漢風諡号。これらの呼び名は「日本書紀」「古事記」には八世紀初頭に書かれた時点では付けられておらず、14世紀初頭に書かれた「釈日本紀」によれば、8世紀の半ば過ぎに、「懐風藻」の編者として有名な淡海三船により「神武」より「元正」までが名付けられた。本居宣長によれば、淡海三船はさらに「聖武」から「光仁」までも名付けたとしている。漢風諡号は、すぐには定着しなかったが、その後の「続日本紀」「武智麻呂伝」などでは使われているので...天皇諡号が語る古代史の真相関裕二***

  • アルテミス 上・下巻 アンディー・ウィアー ****

    「火星の人」のウィアーの二作目。アルテミスは月表面に作られた人工都市で、人口は2000人、地球からの観光客による収入により成り立っている。鉱物資源発掘によりアルミニウムとケイ素をガラスに加工する過程で酸素を作り出す。都市は5個のドームにより形成され、安全のためドーム都市から1km離れたところで発電を行う。主人公は溶接工で経験なイスラム教徒の父親とともに6歳のときに月に移住し、26歳になった若き女性ジャズ。父親から教え込まれた科学知識と思考力、そして何よりも月で生き延びる知恵と勇気を持っている。ジャズは自由に生きるのと引き換えに、自分自身の才覚により生き延びる方を選択、父親とは別の場所で貧しいながらポーターとして日銭を稼ぎながら好き勝手な生き方をしている。ジャズを取り巻くのは船外活動(EVA)マスターのボブ...アルテミス上・下巻アンディー・ウィアー****

  • 海軍乙事件を追う 後藤基治 ***

    元毎日新聞政治部長の筆者は、太平洋戦争中に従軍記者として海軍省を担当、12月8日開戦というスクープ情報を手に入れたが、事前の新聞発表には情報筋の身元が分かってしまうというリスクがあった。11月11日に米内光政邸で12月上旬開戦予定、という見通し情報を米内から見せられた後藤だったが、開戦反対論者だった米内が、記者に観測記事でも書かせて開戦時期を少しでも遅らせようとしているのかと疑った。マレー半島の気象情報や、ドイツの電撃作戦が日曜日だったことなど、様々な周辺情報からいよいよ開戦、それが12月8日であることを確信していた後藤だった。当日の朝、朝刊ゲラは出来上がっていた。「東亜撹乱、英米の敵性極まる」「断固駆逐の一途のみ」というトップである。午前6時に大本営から開戦発表、毎日新聞による大スクープが成功した。昭和...海軍乙事件を追う後藤基治***

  • 三体III 死神永生(下) 劉慈欣 ***

    いよいよ三部作三体の終盤、第二部の結末を読んだ読者なら、もうこれ以上の物語は不要と考えたのではないか。第三部を読み終えると、まだ終末は先だったことに改めて気付かされる。第三部上巻の最後に、地球からの帰還命令に反して逃亡した「藍色空間」は「万有引力」と太陽系を離脱した。そこで出会ったのが高次元空間の名残りで「四次元のかけら」。そこにいた宇宙論研究者の関一帆は、宇宙の仕組みと宇宙の住民が宇宙誕生以来なしてきたこと、そしてその結果を予測していた。第三部で、羅輯から面壁者の重責を執剣者として引き継いでいた程心は、片思いされていた雲天明から、太陽系から遥かに離れた恒星系をプレゼントされ、その結果、巨額の資産を得た。その資産を元手に設立した企業体が光環グループ。光環グループは成長し、巨大グループとなり、その経済力で巨...三体III死神永生(下)劉慈欣***

  • 三体III 死神永生(上) 劉慈欣 ***

    三体世界は地球より遥かに優れた科学と技術力を持つ文明だった。羅輯は三体が送り出した地球侵略のための艦隊が地球に辿り着く前に、黒暗森林理論にもとづいて三体世界の座標を全宇宙に向けて発する脅迫により地球を救った。羅輯は、三体世界による侵略計画に対抗するための「面壁計画」により全人類より選ばれた面壁者。実は面壁計画と同時に、侵略者に対してスパイを送り込む計画が進んでいた。人類のスパイとして選ばれたのが孤独な男、雲天明。その雲天明に若い頃から声をかけ続けていたのが、後に航空宇宙エンジニアとなる程心。程心はエンジニアとして宇宙エレベータである「階梯計画」の実現に貢献する。そして、面壁者である羅輯に代わって次の面壁者として程心は選ばれたのだが、三体世界から送り込まれた智子(ソフォン)はこのタイミングを狙っていた。引き...三体III死神永生(上)劉慈欣***

  • 三体Ⅱ(上) 黒暗森林 劉慈欣 ***

    天体物理学者の葉文潔が宇宙に向けて発信したメッセージに対応した三体世界からは1000隻の宇宙船が地球に向けて発進、450年後には太陽系に到達すると予想されている。三体世界は地球での科学技術進歩を阻害する智子(シフォン)を送り込み、同時に地球上におけるすべてのコミュニケーションをモニターする。地球では、その計画を読み取られないための防衛方策として、決してその思想を口外しない、その上で地球上における最上級の優先度を与えられる4人の面壁者を指名した。もと米国国防長官のタイラー、前ベネズエラ大統領ディアス、脳科学者のハインズ、そして社会学者の羅輯(ルオ・ジー)だった。タイラーは、策を読み取られ自殺、ディアスは創設された宇宙軍に核融合エンジンによる小型戦闘宇宙船を1000隻作り出すアイデアを考え出すが、三体にとって...三体Ⅱ(上)黒暗森林劉慈欣***

  • 三体Ⅱ(下) 黒暗森林 劉慈欣 *****

    三体世界から発された11次元の陽子「智子(シフォン)」の存在で、三体世界から出発した艦隊が地球に到達するまでの400年間の高エネルギー物理学の素粒子実験を封じられ、さらに智子は全人類のコミュニケーションを監視しているという状況から第二部は始まっている。全人類からたった4人選ばれた面壁者のうち、一人目の「蚊群戦闘機」による計画、二人目の「水星における核融合爆発による太陽系破壊による脅し」計画は破壁者により葬り去られ、3人目のハインズが人類の記憶に刻んだ勝利に向けた信念は、行き過ぎた楽観主義として未来社会に受け継がれていく。のこるは羅輯による計画であるが、彼が放った「呪いのメッセージ」は50年後にしかその結果がわからない。物語は登場人物が冬眠に入り、それが明ける200年後、現代よりも遥かに科学技術が発達した世...三体Ⅱ(下)黒暗森林劉慈欣*****

  • お殿様の定年後 安藤優一郎 ****

    江戸時代には「300諸侯」と言われ、それぞれに第XX代という歴代の殿様がいたはず、つまり、260年の間には一世代で25年とすると300X10=3000人ほどの殿様がいたということになる。基本的には世襲なので家督を譲ると隠居することになるが、そのためには幕府の許可が必要だった。隠居年齢は人さまざまで40-60歳程度が多かった。庶民の寿命は35程度と言われたが、食糧事情が良い殿様は70-80歳程度まで余生を楽しむ大名もいた。しかし、その余生は娯楽や文化事業で、その負担は各藩財政を圧迫したという。現役時代はしきたりや江戸詰め、登城など堅苦しい生活を強いられたが、隠居後は多くは大都会のお江戸で余生を楽しむ殿様が多かった。本書では、水戸藩え「大日本史編纂」を始めた徳川光圀、大和郡山藩で柳沢吉保の孫として生まれ六義園...お殿様の定年後安藤優一郎****

  • 三体 劉慈欣 ****

    物語にはいくつかの背景がある。まずはタイトルの三体、宇宙空間にある巨大物体、例えば恒星が2つ近接してあると、互いの引力で二連星となりある距離で安定するが、それが3つあると相互の関係や距離は安定しない。それがもし恒星で、その3つの恒星に惑星系があるとしたら、その惑星系で起きることは、予想がつかない。もう一つは地球環境の悪化は人類の活動によるもので、この悪化速度は中生代の終わりをもたらしたと言われる巨大隕石衝突後の地球環境の悪化に伴う種の絶滅スピードを上回っているというもの。過去と現在が交互に語られる構成。まずは子供時代の文潔は父親を文化大革命で虐殺される。政治的に問題ありと烙印を押されながらも、物理学者としてのキャリアを重ねるが、将来に希望が持てないときに謎の施設に来ないかと招聘される。そこは目的がよくわか...三体劉慈欣****

  • 幕末雄藩列伝 伊東潤 ***

    江戸時代末期、特にペリー来航あたりから、幕府内部だけではなく300あったと言われる各藩でも「開国」と「攘夷」で論が二分された。これは「佐幕」か「倒幕」の戦いでもあったが、倒幕は当初は討幕であり勤王と言われてさまざまな動きがあった。水戸藩は親藩の一つでもあるはずなのに、「尊王攘夷」思想を藩主である水戸斉昭自身が掲げ、思想の理論的支柱として藤田東湖、会沢正志斎を輩出した。水戸藩からは、勅許を得ずに開国したことに反発、井伊直弼殺害の桜田門外の変に脱藩浪士が参加、攘夷運動としての天狗党を武田耕雲斎と東湖の息子、藤田小四郎を生み出した。将軍徳川慶喜も水戸藩出身であり、藩論が二分、三分されていたと言える。その慶喜は父の斉昭の言葉「朝廷には誠を尽くせ」との言葉に、大政奉還、戊辰戦争から江戸無血開城と、最後まで縛られるこ...幕末雄藩列伝伊東潤***

  • 月と蛇と縄文人 大島直行 ***

    表紙の妊婦写真が印象的な本書。これは油絵だそうで、写実的なこの絵画と縄文時代のシンボリックな土偶妊婦像を対比するために採用したのだとか。本書は筆者の強い主張に満ちている。読者へのメッセージは明確である。狩猟民族である縄文人の価値観は現代人とは大きく異なり、生命への敬意と感謝に満ちていることを理解することが本書理解の前提となる。有名な火焔土器を見て、容器や鍋としては使いにくそうな土器を作った意味はなんだろうと考えるのはやめて、祭祀的使用目的、美的感覚で解釈する必要があるという。土器だけではなく、竪穴式住居、貝塚、土偶、石器などあらゆる生活の道具や環境までもが生命、水、多産、再生などのシンボリズムに満ちているという。「月」は新月から満ちていって満月となり、また新月に戻る。そしてその繰り返し、つまり誕生と成長、...月と蛇と縄文人大島直行***

  • プロジェクト・ヘイル・メアリー(上・下) アンディー・ウィアー *****

    この一年で読んだ小説の中で一番面白かった。私がSF好きだということを差し引いても、誰にでもおすすめしたい作品。火星に一人で取り残される「火星の人」を知っているなら、その宇宙旅行版だといっても良い。以下ネタバレありのため注意が必要である。WBCでの日本の勝利を知った上でも、手に汗握り日米戦決勝のビデオを見られる方は以下もどうぞ。病院の一室のような閉じられた空間で徐々に目覚めた主人公は、自分の名前も今いる場所、そしてなぜこうなったかを覚えていない。同室には自分の世話をしてくれるロボットと、2つのベッドに横たわる死体が二人。物語は、主人公がいる宇宙船の現在と、徐々に思い出してくる過去の経緯が交互に現れ、読者にも状況が分かってくる。過去の経緯が現在起きている状況の説明になり、現在に危機が迫ると、その過去が危機の原...プロジェクト・ヘイル・メアリー(上・下)アンディー・ウィアー*****

  • 宮廷政治 山本博文 ****

    関ヶ原の戦い以降も、秀頼が大坂城にいる間は徳川家と秀吉に恩顧を感じる大名の間に緊張感があった。しかしそれは、家康が大御所となり秀忠が将軍になり、そしてさらにその子、家光が将軍となっても、転封、改易と言うかたちで継続していた。西国の大名で旧秀吉恩顧大名だった広島の福島正則、熊本の加藤清正の子忠弘、などちょっとしたきっかけを見つけて改易させられた。秀忠が将軍となったのは、1605年、27歳の時。秀忠は三男で、家康の長男・信康信長の命で切腹、次男秀康は秀吉の養子、その後は結城家へ。三男だった秀忠が徳川将軍家を相続することになったのである。しかし将軍となっても実権を握っていたのは、大御所家康。そして夏の陣で秀頼が殺されたあと、家康もなくなり秀忠の時代が来ると、家光に実権を渡すあいだにも40もの藩を取り潰し、改易す...宮廷政治山本博文****

  • 『ザ・タイムズ』にみる幕末維新 皆村武一 ****

    1852年から1878年にかけての幕末維新の日本関係のザ・タイムズ記事は450もに上る。ペリー提督浦賀来航から西南戦争、大久保利通暗殺まであたりである。当時の日本の政治、経済、文化、風土はちょうどアジアへの進出を企図していた英国人にとっては興味と関心の的。しかし、保守(トーリー)党と自由(ホイッグ)党対立がある英国議会では、植民地への支配と人権状況についての議論と対立があった。アヘン戦争による中国侵攻への非難であり、同様の対応を隣国日本では取るべきではないという議論であった。国際社会を意識し始めた日本の様子を、他の外国人の見聞記とともに描いた一冊であり、当時、日本はどのように議論されたのか、その視点に改めて客観的な日本に対する見方を教えられる。1852年当時の日本からのニュースは香港経由で英国到着は2ヶ月...『ザ・タイムズ』にみる幕末維新皆村武一****

  • 薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実 桐野作人 ***

    「人斬り半次郎」の異名は池波正太郎の小説から有名になったと言われるが、幕末には中村半次郎、維新後は桐野利秋は幕末から近代史の西南戦争あたりで目にする名前。密偵時代には人殺しもしたが、その後西郷隆盛の側近として征韓論に与し、西郷とともに西南戦争を指揮して死んだ。西郷隆盛が征韓論に拘った理由としては、維新後の旧士族への待遇不満を背景にした新政府への不満を対外対応で逸したいこと、そして日本人への反感をあらわにしていた朝鮮民族への反感があったという。桐野利秋はそうした西郷の側近として薩摩の旧士族をとりまとめ率いて、西南戦争で最後を遂げた、とされている。江戸時代には、各藩の武士階級には上士と下士があり、大きな身分差があったことは知られている。薩摩藩でも鹿児島城下に主に暮らす城下士、地方の郷に居住する武士団である郷士...薩摩の密偵桐野利秋「人斬り半次郎」の真実桐野作人***

  • 明治日本はアメリカから何を学んだのか 小川原正道 ****

    以前読んで感動を覚えた「イザベラ・バードの日本紀行」を思い出した。彼女の日本訪問は王立協会後援の視察であり、日本へのキリスト教布教のための調査旅行でもあったが、日本への発展の期待とともに深い懸念があることを伝えている。「多大な政府による借金、経済発展至上主義、欧米の良い技術だけを取り入れて日本人だけでうまく運営しようとする考え方、倫理道徳教育の欠如、アイヌやアジアの人たちへの差別的考え方など」である。江戸末期の知識階級は、中国がアヘン戦争で骨抜きにされ、列強諸国にいいように植民地されるのをみた。そして自分たち武士階級が幕府体制をひっくり返して開国を実現させることを実現した。殖産興業、富国強兵で坂の上の雲を見た明治日本人の夢は日清・日露戦争の勝利、第一次世界大戦後の領土拡大で達成できたかに見えたが、科学的分...明治日本はアメリカから何を学んだのか小川原正道****

  • 渋沢栄一と勝海舟 安藤優一郎 ***

    渋沢栄一の生涯を描いた大河ドラマを見た方なら、栄一が徳川慶喜への感謝と尊敬の思いを生涯いだき続け、幕末維新での慶喜公の悔しい気持ちと維新以降の忍従の日々について徳川慶喜公伝として後世に残したこと知っているはず。一方の勝海舟は、幕末の幕府代表として、江戸城無血開城へ向けた東征軍との交渉にあたり、戊辰戦争後は海軍顧問として新政府にアドバイスする傍ら、徳川家維持のために貢献した。しかし海舟は戊辰戦争で朝敵とされた慶喜公に対しては、旧幕臣の悔しさと新政府への配慮から、最後まで複雑な感情をいだき続けた。海舟は栄一よりも20歳ほども歳上であり、海舟の交渉手腕を高く評価した栄一だったが、最初の出会いでは小僧扱いされたことでプライドを傷つけられた。栄一による海舟の評価は幕末の三傑よりも一段下、というあたり。一芸一能の器で...渋沢栄一と勝海舟安藤優一郎***

  • 吉田松陰 津本陽 ****

    明治維新政府とその後の長州閥政治家や軍人たちに、なかば神格化されてしまった感のある吉田松陰。ファンは多いかもしれないが、本書は彼の業績とともにその生涯を客観的に俯瞰してみようという一冊。吉田松陰は長州藩の下級藩士で兵法師範の家系、杉百合之助の次男として1830年(天保元年)に生まれた。しかし6歳のときに、兵法師範役だった叔父吉田大助の死去に伴い山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐ。それからは、もう一人の叔父、玉木文之進から厳しく教育を受ける。幼かった松陰は、母の瀧の優しさに守られながら文之進の朱子学に根ざした厳しい教えを受け止めた。貧しい暮らしに耐えていた両親や親族は幼いときからその学問の才能の片鱗を見せていた松陰の将来に期待した。松陰もそうした期待に答えるべく学問に精進、10歳にして藩主毛利敬親に山鹿流兵学を講...吉田松陰津本陽****

  • 姫君たちの明治維新 岩尾光代 ***

    江戸時代後半になると、江戸幕府は朝廷や有力大名との関係を良好にするために、徳川家と有力公家、各大名家の婚姻をすすめた。幕末の事例で大河ドラマにもなった13代将軍家定に嫁した島津敬子、天璋院篤姫の家系図を見ると和宮や島津家と将軍家のつながりが分かる。家定には、18歳のときに結婚した鷹司任子(あつこ)がいたが家定25歳のときに死去、一年後一条秀子を継室とするも1年後に病死していた。30歳で将軍となり33歳のときに藤原敬子を継室とする。将軍の正室となるため、摂関家近衛家の養女となり結婚。しかしその1年9ヶ月後、家定が死去、篤姫の後継者だった島津斉彬も死去してしまう。その後は新将軍家茂の後見人として勢力を増した篤姫だったが、鳥羽・伏見の戦いの戦いで立場は急変。江戸に逃げてきた将軍慶喜と面会し、確執のあった家茂の妻...姫君たちの明治維新岩尾光代***

  • 女系天皇 天皇系譜の源流 工藤隆 ****

    日本に現存する天皇制度は、世界に誇れる王室文化であり、残していきたい、というのは日本人の総意であろう。しかし、側室制度や皇室への養子制度を容認しない現在において、男系男子にこだわれば、皇位存続の危機は早晩訪れるに違いない。天皇の歴史を顧みれば、過去には8名の女性天皇がおり、女系により継承できた王位もあったことが分かる。明治維新新政府が決めた男系男子継承のルールは今見直す時が来ている、というのが本書の主張。古代天皇制が始まったのが天武・持統天皇時代と考えると、それ以前の大王では、縄文時代から続く日本的シャーマニズム、アミニズムの色彩が強く、大王には神祇、神との対話を期待する部分と、行政、安全保障、司法的決断など現実社会の統治を期待する部分があった。魏志倭人伝に記された卑弥呼時代には、倭国騒乱により単独の男子...女系天皇天皇系譜の源流工藤隆****

  • 斗南藩 「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起 星亮一 ***

    美濃松平家から養子に入り会津藩主となった容保は、28歳の時に京都守護職を拝命したが、当時の会津藩内では京都守護職への着任に反対する声も大きかった。反対した最先鋒が筆頭家老の西郷頼母。容保は頼母に謹慎を命じて守護職に着任し、のちに新選組となる「壬生浪士組」を誕生させた。この時代、薩摩藩と会津藩は同盟を結び朝敵としての長州征伐を行い、京都市内で守護職であった容保の配下には新選組、見廻組などを率いて、反幕府勢力を徹底して取り締まった。長州勢が御所に攻め込んだ禁門の変では会津が長州勢を撃退したことで容保は孝明天皇からの信頼は非常に厚かったが、長州藩士たちはこの時の会津藩に深い恨みを抱いた。薩長同盟成立後、孝明天皇の死後は一気に倒幕の勢いが増し、鳥羽・伏見の戦いの後その立場は朝敵へと暗転した。徳川慶喜と共に大坂城を...斗南藩「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起星亮一***

  • 暗い時代の人々 森まゆみ ***

    1910-1945年は日本近代史の中では言論を抑圧された暗い時代、その時代に自分の意見を表明し、さらには行動につなげていくことは容易なことではないはず。最初の兆候は「大逆事件」、明治天皇を暗殺しようとしたという嫌疑で捕らえられ、それを理由に反政府的な言動をする人たちと、その友人たちもなんの嫌疑かも明らかにされないままに拘束され処刑されてしまった人がいた。その次のきっかけは普通選挙法と同時に制定された治安維持法の成立。自由主義的言論で、反政府活動とみなされ拘束されたり、監禁・拷問され虐殺される人々がいた。その後は満州事変から太平洋戦争へとまっしぐらだった。そうした中でも、自身の言論を変えず、主張すべきは貫いた人たちがいた。本書はそうした9名の紹介。出石に生まれた反骨の政治家、斎藤隆夫。立憲主義を信奉し、大正...暗い時代の人々森まゆみ***

  • 戦国夜話 本郷和人 ***

    筆者は中世史を専門とする本郷和人さん、話題は方々に広がるが、関ヶ原の戦い前後で、戦国大名だった地方の上杉氏、前田氏、そして細川氏がどのように天下取りに関わってきたのか、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康との関係はどうだったのか、各家内の内紛をどのように処理してきたのか、などを72のエピソードで語り尽くす、という本書。関ヶ原の戦いで天下の趨勢が決した、というのは歴史を知っているから分かるのであって、当時の各勢力は、これからどうなるか、分かっていなかったのではないかというのが一つの疑問。東方の筆頭は家康、西方は石田三成、それとも毛利輝元、それとも豊臣秀頼。当時はまだまだ豊臣政権下であり、五大老の勢力争いが始まっていた。五大老の一人、上杉を打とうと東に移動した家康の不在を狙って、秀頼を奉じて五大老の一つ格下、五奉行の...戦国夜話本郷和人***

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