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真実の古代史 https://ysaino11.blog.ss-blog.jp/

千三百年の間、藤原氏に消されてきた伯耆国(鳥取県中西部)の真実の歴史が今よみがえる。

サイの尾・猿田彦
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北栄町
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北栄町
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2015/08/02

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  • 古代の都は鳥取県にあった

      古代の都は鳥取県にあった     結論だけを書きますので、理由はそれぞれのカテゴリをご覧ください。   1 天照大神と徐福 ⑴ 天照大神の名の由来 第1次の徐福(紀元前219年)は米子市陰田町に到着し米子市尾高の大神山神社本社で大神と出会った。徐福は東南の大山(蓬莱山)に連れていかれ大神(伊邪那岐)の宮殿(鳥取県大山町大山の大神山神社奥宮)や銅色の龍形の使者がいて光が天を照らしている(光上照天)のを見た。 第2次の徐福(紀元前210年)は多くの少年少女を大神の国に連れていき、その国で王(大神)となり帰ってこなかった(司馬遷の史記より)。大神となった徐福は最初に見て感動した光景(光上照天)の「天照」を大神の前に付けた。 ⑵ 徐福と天照大神の来倭コースは同じ ➀ 徐福の来倭コース 第2次の徐福(紀元前210年)は辰韓(新羅)にしばらくとどまったのち伯州(伯..

  • ​​​youtubeサイの尾・猿田彦chを開設しました

    ​​​youtubeサイの尾・猿田彦chを開設しました。 立体動物キャラクターがしゃべります。https://www.youtube.com/channel/UCoP4goO7QAWB569KsKiIXNQチャンネル登録、よろしくお願いします。 ヤフオクで紙の本「真実の古代史」を発売中です。全10巻です。 読みやすいように時系列で古い順に並び変えました。難読文字にはルビをふりました。 A5版 本文(写真・図)カラー印刷 横書き 左綴じ です。 1巻 「今までのまとめ」40頁 980円 2巻 「序章、藤原氏」196頁 1780円 3巻 「天照大神、須佐之男」181頁 1980円 4巻 「黄泉平坂、大国主命とその一族、伊勢野の天照皇大神宮、 天忍穂耳命(大物主)、閑..

  • 丁未の乱について

    丁未の乱(ていび らん)について 1 宣化・敏達・用明・崇峻は百済王であった。 (1)宣化は百済王であった。 この時の倭国王は蘇我稲目大王であった。別稿「535年から乙巳の変(いっし へん)までの110年の間の倭国大王は蘇我氏三代であった」を参照されたし。宣化天皇は百済王だから宣化天皇の皇子とされる宅部皇子(やかべのみこ)も百済人であり朝鮮半島の百済でなくなっている。また、穴穂部皇子(あなほべのみこ)とされる百済人は百済で殺されており倭国に実在した人物ではない。 (2)敏達は百済王であった。 日本書紀・敏達天皇に「百済の大井に宮をつくった」とある。これについて、河内長野市太井とする説と、奈良県広陵町百済とする説がある。 私見では「百済の大井」はそのまま「朝鮮半島の百済にあった」とする。巧みに倭国の地名と倭人の名前を混ぜているが、敏達天皇は朝鮮半島の百済王であった。この時..

  • 藤ノ木古墳は鳥取県中部の一族が築造した

    藤ノ木古墳の4つの特徴 1横穴式石室の円墳 2石棺が朱塗り 3同棺複数埋葬 4江戸時代まで陵堂があり墓守がいた 1 横穴式石室の円墳 (1) 鳥取県北栄町の瀬戸古墳群2号墳は巨石を5枚使用した横穴式石室の円墳である。6世紀中頃から7世紀初め。 出典文献名:大栄町教育委員会 1998 『瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書』大栄町埋蔵文化財調査報告書34を引用 (2) 鳥取県北栄町の上種(かみだね)西15号墳は6世紀後半の竪穴系横口式石室の円墳(上種(かみだね)西古墳群発掘調査報告書より) 「竪穴系横口式石室」は5世紀後葉~6世紀前葉において朝鮮半島の栄山江(よんさんがん)流域に展開している。 「竪穴系横口式石室」が、鳥取県中部のごく限られた範囲に所在している【上種(かみだね)西15号墳、上種(かみだね)東3号墳(6世紀中葉~6世紀後半)、大法3号墳、三保6号墳(6世紀中葉~後半)】..

  • 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか

      第7節 出雲国(島根県東部)の首長は誰であったか 1 私見 出雲族は殷(いん)王朝(おうちょう)末裔(まつえい)の準王一族であった。準王一族はその王の名を代々長髄彦(ながすねひこ)・大己貴(おおなむち)神と呼んでいた。 大国主(大穴持(おおなむち))は歴代出雲国王の通称であり個人名ではなかった。 青銅器(銅鐸、銅剣など)を作る一族は青銅器を作っていた殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族しか思い当たらない。現在出土している国内最古の銅鐸は紀元前190年頃とされる。準王一族が倭国に渡ってきたのも紀元前194年頃である。出雲で発掘された沢山の青銅器は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族が作ったものであった。出雲王家は紀元前195年衛氏朝鮮の難を逃れてきた人々の末裔(えい)であり、出雲王家は殷王朝末裔(いんおうちょうまつえい)の準王一族であった。出雲..

  • 著作権を侵害された方は連絡ください

    2022年に紙の本を出版する予定です。出版にあたって著作権の問題を心配しております。問題になりそうな記述や写真は削除します。 私のブログの中で自分の写真や文章を使われて迷惑をしていると思われる方は、コメントできるようにしておきますのでコメントしてください。著作権侵害に関すること以外はコメントしないでください。コメントされても返事は書きません。あまりしつこいようでしたらコメントを削除・閉鎖します。 このブログでアフェリエイトも知らないので利益はほとんどもらっていません。出版する本も特殊な分野ですのでそんなに売れないと思っています。少ない数でも未来永劫にわたり語り継いでいってもらうために紙の本にします。それでも著作権侵害で訴えてやろうと思っておられる方はコメントしてください。

  • ​三神社の由緒に見る稚日女命(卑弥呼)と神功皇后(台与)との関係

    1 神戸の生田神社の由緒 当社にお祀りする稚日女尊は、我国における最高神太陽神と崇められ伊勢神宮内宮にお祀りされる天照大神の「和魂あるいは妹神」と伝えられ、稚くみずみずしい日の女神様であり、物を生み育て万物の成長を御加護する神様です。神功皇后が海外外征の帰途、紀伊の水門から難波へ向かったところ、海中で船が動かなくなった。そこで務古の水門に船を泊めて神占を行ったところ、稚日女尊が現れられ「吾は活田長峡国に居らむ」と託宣したので、海上五十狭茅に祀らしめた。 稚日女尊は「若々しい日の女神」の意味で、天照皇大神ご自身であるとも、妹あるいは御子であるともされる。生田神社では、天照皇大神のご幼名とする。2 三重県の伊射波神社の由緒 稚日女尊は天照大神の「妹君、分身」とも云われ、第十五代応神天皇の母君である神功皇后の崇敬厚く、神功皇后が筑紫国(九州)から倭国に凱旋した折にも、常に御許においてお祭りされて..

  • 八橋の地名由来(伝承)について

    八橋の地名由来(伝承)について1 八橋(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)の地名由来(伝承)は以下のようである。 「神代の昔、大国主神の娘である高姫神(下照姫)が、国土経営のため、出雲から加勢蛇川のほとりまでおいでになられたとき、八岐大蛇の霊魂が、高姫神に襲いかかってきた。素戔嗚に討たれた八岐大蛇が、素戔嗚の孫である高姫神に恨みを晴らそうとしたのである。空は急に曇り、川の上には雲が覆いかぶさった。その様子はまるで八つの蛇橋が重なって架かっているようであった。高姫神は恐れて、心の中で素戔嗚の御霊に加護を念じたところ、八岐大蛇の霊魂は消え去った。このときからこの川を加勢蛇川と名付け、この地方を八橋(やばせ)というようになった」とする。2 立縫郷は楯縫郷であった。 倉吉市高城地区には楯縫神社があり、その由緒には「旧楯縫郷の大社にして」「旧郷名に因み楯縫神社と改称す」とある。立縫郷は楯縫郷であった。上大立は..

  • 鳥取県湯梨浜町の出雲山に行ってきました

    1 出雲山について 鳥取県琴浦町八橋の地名由来(高姫の伝承)は倭国の笠縫邑を消すために創作されていた。湯梨浜町宮内の下照姫(高姫)の伝承も何かを消すために創作されたのではないか、と推測される。下照姫(高姫)は天若日子と倉吉市寺谷で一緒に暮らしていた。蒜山(高天原)出身の天若日子が亡くなったら、少しでも旦那の出身地に近いところに住むはずであり、湯梨浜町より蒜山(高天原)に近い倉吉市志津の倭文神社に住んだ。湯梨浜町宮内の神社は元は倭文神社ではなかった。 宮内という地名は孝霊天皇が住んでいたから付けられた地名である。また弥生時代後期の国内最長の鉄刀も宮内から出土している。湯梨浜町宮内の倭文神社が孝霊天皇(在位147年~172年)の皇居の黒田庵戸宮であった。 出雲山の由来伝承は倭文神社に孝霊天皇一族がいたことを消すために藤原氏が創作した伝承であった。 2 石山について 2019..

  • 倭国大乱における卑弥呼(稚日女命)の痕跡

    稚日女命(倭迹迹日百襲媛命)は四国(讃岐)より応援にきて瀬戸内・吉備国を平定し鳥取県の東部から中部・西部・出雲国と平定していった。この倭国大乱(弥生後期)以降中国地方では青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が作られなくなった。中国地方以外では弥生後期も青銅器(銅鐸・銅剣・銅矛)が製造されている。 孝霊天皇一族は鳥取県東部・中部・西部を平定した。特に西部では、妻木晩田を拠点としていた出雲族を追い払い、南部町の手間山に逃げ込んだ出雲族(大国主の兄の八十神)を手間山の麓で捉えた。鬼住山、大倉山、鬼林山の鬼(出雲神族=準王一族)と鬼の発生元の出雲も平定して出雲族を降伏させ倭国大乱は終結した。加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡の青銅器はこの時に埋められた。 稚日女命(卑弥呼)が祀られている神社1 瀬戸内・吉備国の平定、新見の石蟹への攻撃岡山県岡山市青江170 天野八幡宮岡山県真庭郡勝山町大字若代2878 八幡神社岡山..

  • 鳥取県北栄町の三輪神社(天忍穂耳)と国坂神社(大国主)

    1 鳥取県北栄町下神の三輪神社と三輪山 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑。 下神の坂の途中にある三輪神社跡の石碑 蜘ヶ家山(葛城山)より。左側が松神。右側が下神。下神の上、木の茂っているあたりに三輪山(邇邇芸)があった。三輪神社には天忍穂耳(大物主)がいた。2 茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)と北条八幡神社 三輪山の東(2kmくらい)に茶臼山(大国主の本拠地、伊那佐山・大神山・宇迦能山)がある。 蜘ヶ家山(葛城山)より。茶臼山(大国主の本拠地)と三輪山(天忍穂耳=大物主の本拠地)との間の丘陵地に造られている北栄町北尾の北条八幡神社の山。3 北条八幡神社の祭神と由緒​​ 土下の三輪神社は大国主尊、少彦名尊を祀り、猿田彦神、倉稲魂神、天児屋根尊を合祭す。 当神社は大正二年神社整理の結果八幡に合併せるものなるが元官帳所載の三輪神社なるを知るに足るものあれば茲にその概要を記..

  • 倭健命ゆかりの地に行ってきました

     1 倭建命が矢を放った矢筈山のあるのは関金町清水集落の奥ではなく、蒜山の郷土史家によると犬挟峠の東であった。 倭建命は矢筈山で「この矢のとどく限り兇徒悪魔は退散して我が守護の地となれ」と念じ矢を放った。その矢を関金町生竹の矢止めの荒神が止めた。2 矢止めの荒神 橋の向こうの集落が生竹である。この反対側には耳集落がある。 矢止めの荒神。地図では因山神社となっている。石段を上がっても小さな祠があるだけである。 案内板には「十二代景行天皇の御代、伯耆国と美作国の境に矢筈山という高山あり、その山頂に唐王権現という石祠と石塔あり、日本武尊西国平定の道すがら矢筈山に登り、山頂より東北に矢をつがえ『この矢の止まる限りをわが守護の地とならん』と、矢を放ち給えば東北なる二里余りの小鴨村加茂河内生竹と称する所に落下せり。このところに荒神宮の小祠あり、荒神宮の神さま里人と相謀り『貴き神の矢なるべし』と、この矢..

  • 葦原中津国の平定(国譲り)

    1 邇邇芸が葦原中津国を平定をした頃(紀元前160年頃)は海面が今より4m高かった。笠沙之御前は鳥取県北栄町の北条砂丘であった。笠沙之御前の右下(天神川河口)は記録によると何度も洪水にみまわれており、土砂がかなり堆積して高くなっている。 邇邇芸の時代はこの辺りも内海であった。長瀬高浜の弥生時代の遺物は洪水で流され(弥生時代の生活痕がないとされる)、笠砂之御前の笠の柄(中州)も洪水で流され、倉吉市清谷にあった神倭磐余彦が到着した楯津は土砂で埋まり、応神天皇の皇居のあった穴窪(軽島之明宮)周辺も土砂の堆積で高くなっている。  葦原中津国は笠沙之御前の左下にあり、徐福(天照大神)と素戔嗚が上陸した大山の裾野の小さな湾(橘)の周辺であった。徐福(天照大神)は祖神の大神(伊邪那岐)に連れてきた三千人の少年少女を葦原中津国で育てるように命じられていた。徐福(天照大神)たちが蒜山周辺で仙薬を探しているう..

  • 八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった

      八俣大蛇の舞台は鳥取県三朝町山田であった1 須佐之男は徐福一行(紀元前210年の第2次)のメンバーであり、徐福に次ぐリーダーであった。須佐之男も徐福(天照大神)と船で辰韓(のちの新羅)より伯州(伯耆国)に到着した。徐福一行は通り過ぎた出雲国に引き返すのではなく、鳥取県中部の小さな湾に到着し、大神(伊邪那岐)に再会した。伊邪那岐は三貴神にそれぞれ治める場所を指示した。伊邪那岐は須佐之男に「海原を治めよ」と言った。海原とは、縄文海進で以前は海であったが須佐之男の時代には原になっていた地域である。海原(海抜4m~海抜20m)は世界中どこにもあるので、地名が付いていたはずである。それは黄泉の海原であった。黄泉国は根国ともいい、現在の倉吉市中心市街地であった。 徐福(天照大神)一行は蒜山(高天原)に行き、蒜山周辺の山に登り仙薬(水銀)を探した。蒜山周辺の山は「せん」と読む山が多い。 2 須佐之男..

  • 朝鮮半島に三韓ができる前後の中国・朝鮮の歴史

    朝鮮半島に三韓ができるまでの中国・朝鮮の歴史   1   中国の春秋戦国時代に河北省、遼寧省、山東省辺りにあった燕や斉は秦国に滅ぼされ、難民が朝鮮半島に流れ込んだ。韓も紀元前230年に秦によって滅ぼされ、韓の難民は山東省から朝鮮半島南部に辰国を建国した。韓族は当初、馬韓を支配し、辰韓を秦の始皇帝の労役を嫌った秦人に譲ったが辰韓の支配権は馬韓が握っていた。馬韓は山東半島にいた韓族だったので、長江文明の流れを汲む中国の南方系の民族であったし、辰韓と弁韓は鉄器製造技術を持った秦語(陝西方言)を使う中国の北方系の民族であった。鉄鉱山もある山東半島や北京以南から遼東半島に掛けて、いろいろな異民族が集まっていた。 ※私見 青銅器文化も、中国の山東半島や遼東半島にいた部族からきたと思われる。それは燕や斉の難民であった。馬韓は衛氏朝鮮によって滅ぼされた箕子朝鮮の残党によって、その支配権を奪われた..

  • 神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った

    神倭磐余彦4兄弟は鬼八(略奪集団)を平定するために、九州に行った。 1 九州には生贄の風習のある鬼八がいて渡来人を掠め取っていた。御毛沼命は常世国から渡来しようとする者に「朝鮮半島の辰韓を経由して倭国(鳥取県中部)に来るように」渡来ルートの変更をさせるために常世国(台湾やベトナムや中国雲南省)に渡った。 鳥取県中部の標高172mの四王寺山は周囲に太陽の光を遮る山などがなく、当時は家や船を造るため木を切り「つくし」ていたので日当たりの良い日向の地であった。神倭磐余彦4兄弟は日向(四王寺山)を出発した。  2 山口県光市より西は神倭磐余彦4兄弟の伝承がほとんどないが、島田川流域には磐余彦や御毛沼の伝承があるので、山口県光市から大分県の宇佐に渡ったと思われる。神倭磐余彦4兄弟は宇佐から岡田宮に移った。稲飯命は九州の西側から辰韓に渡り、鉄の鏃を作って半島の西側(馬韓)から出港し岡田宮で待っていた神..

  • 葦原中津国の中心(北栄町大島)に行ってきました

    1 北栄町大島(旧島)の全体像。 伊邪那岐(大神)・伊邪那美は天照大神(徐福)が連れてくる三千人の少年少女を住まわす国を北栄町大島を中心にして造っていた。伊邪那岐(大神)はその三千人のために「千五百の産屋を作ろう」と言った。 当時、周辺は汽水池であったので魚類も豊富に捕れた。また、汽水池の周辺は葦原となっており水稲稲作に適した地であった。縄文海退で周辺が陸地になってからは、全面穀倉地帯になっている。白い建物は収穫した米を貯蔵するカントリーエレベーター。 蜘ヶ家山(葛城山)より西が葛城だったので北栄町大島も葛城地域であった。孝安天皇の葛城室之秋津島宮があった。 家並みの奥の丘を取り巻くように家が建っている。2 大島(室秋津島)の中心にて 島の一番高いところである。向こうに火火出見命が宮を定め神武天皇四兄弟がいた四王寺山が見える。3 宮崎神社(昭和9年鳥取県神社誌より)由緒(抜粋) 「・・・。..

  • 倭建命の父は孝霊天皇であった

    1 倭建命の父は孝霊天皇であった。 (1)倭建命の系譜 古事記・日本書紀は、「12代景行天皇は倭建命の父であり、14代仲哀天皇は倭建命の皇子である」とする。これは正しいか。 12代13代14代は潤色されている(別稿「12代景行・13代成務・14代仲哀について」を参照されたし)。また「景行天皇は倭建命のひ孫を娶り」とあることや、「仲哀天皇は倭建命が亡くなってから35年目に生まれた」ことになるため、倭建命と12代、倭建命と14代の親子関係を否定する説が有力である。これをもとに倭建命はいなかったとする説があるが、いなかったのは12代景行・13代成務・14代仲哀のほうである。12代13代14代は百済王であり、倭国王の倭建命を取り込もうとしたがほころびが生じた。 倭国大王の13代は武内宿禰大臣(王)であった。成務天皇と同日生まれとするし、「王」を「臣」と書き換えたと思われる。12代..

  • 稚日女命は、勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である

    稚日女命はやはり、海部氏勘注系図9世孫の妹の日女命(倭迹迹日百襲姫命)と同神であり、卑弥呼である。 1 卑弥呼は孝霊天皇の皇女の「倭迹迹日百襲媛命またの名を日女命」と言う説が有力であり、調べてみることにしました。 孝霊天皇は鳥取県神社誌の祭神になっており、祀られている神社の分布図を作ってみました。すると、昭和9年の時点で鳥取県は2市7郡でありましたが、出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に集中していました。卑弥呼が孝霊天皇の皇女の「倭迹迹日百襲媛命またの名を日女命」ならば、出雲国に隣接する2郡に父の孝霊天皇と一緒に分布しているはずである、という推測のもとに鳥取県神社誌を調べてみました。ところが、祭神として倭迹迹日百襲媛命も日女命も祀っている神社はありませんでした。その代わり、稚日女命と倭姫命を祀っている神社が出雲国に隣接する2郡(西伯郡と日野郡)に見つかりました。しかも、孝霊天皇の祀..

  • 葛城は鳥取県中部(倭国)にあった

    葛城は鳥取県中部(倭国)にあった。 1 「高尾張邑の土蜘蛛を皇軍は葛の網を作って、覆い捕らえて殺した。その邑を改めて葛城邑とした。」(日本書紀)のだから葛城邑は荒神(土蜘蛛=出雲神族)神社のある蜘ヶ家山の麓の曲集落であり、麓に葛城邑(曲集落)のあった山を葛城山(蜘ヶ家山)と呼ぶようになった。 鳥取県北栄町曲の荒神神社 鬼・土蜘蛛を荒ぶる神(荒神)と言っていたので、ここに土蜘蛛の家があった。土蜘蛛の家があったから蜘ヶ家山という。 神武天皇の長男の多芸志耳は関金町耳で生まれ、湯梨浜町の長瀬高浜(多芸志)にいたが、神沼河耳は長男の多芸志耳を殺害して第2代天皇となった。第2代綏靖天皇の「葛城高岡宮」は北栄町の蜘ヶ家山(葛城山)の岡神社であった。 2 第5代孝昭天皇の皇居は葛城掖上宮(灘手神社)だが、葛城山の東の掖上は磐余邑であり4人の大王の皇居があったから掖上とは書かない。掖上宮..

  • 第2代~第9代(欠史8代)の天皇は鳥取県中部(倭の都)に実在していた

    第2代~第9代(欠史8代)の天皇は鳥取県中部(倭の都)に実在していた。   1 欠史8代 非実在説 (1) 旧辞的部分を欠く。 (2) 諡号がおかしい。 (3) すべて父子相続である。 (4) 2代~9代の寿命は異常に長い。 (5) 物事の順序からして、奈良盆地の一隅にいる豪族が盆地の外へ進出・発展していくためには、その前提として盆地を制圧・平定し、支配下に置いていなければならないはずです。ところが古事記・日本書紀ともに、奈良盆地の制圧・平定に関する経過を何一つ記していません。10代崇神に至っていきなり、盆地外への進出・発展の動きが現れます。神武の子孫たちが次第に実力を蓄えて奈良盆地の一隅から徐々に勢力を拡大し、やがて盆地全体を制圧・平定するに至るまでの経過を、説話として残していない。奈良盆地の外へ進出・発展していくためには、盆地の制圧・平定が前提であるにもかかわ..

  • 孝霊天皇一族について

    1 古事記 大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)は意富夜麻登玖邇阿礼比売命(倭国香媛)を娶って、夜麻登登母々曾毘売命(倭迹迹日百襲姫命)、日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命=大吉備津日子命(彦五十狭芹彦命)、倭飛羽矢若屋比売(倭迹迹稚屋姫命)を生んだ。 また、阿礼比売命の妹・蠅伊呂杼(絚某弟)を娶って、日子寤間命(彦狭島命)、若日子建吉備津日子命(稚武彦命)を生んだ。 大倭根子日子國玖琉命(母は細姫のち孝元天皇)は、後に天下を治めた。大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二人で力を合わせて、針間(播磨)の氷河のところに忌瓮をすえ、そこを針間の道の口として吉備を攻め、支配下に置いた。 大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命は吉備国を平定し、大吉備津日子命は吉備の上道臣の祖となり、若日子建吉備津日子命は吉備の下道臣、笠臣の祖となった。 日子寤間命は針間(播磨)の牛鹿臣の..

  • 天照大神は徐福であった

    1 中国人は大喜びであり、我々日本人は大変残念であるが、我々が尊敬してやまない天照大御神は徐福であった。悔しいが、これが真実であると思われる。時代も神武天皇即位年紀元前60年説を採れば無理なくつながる。卑弥呼も天武天皇も道教を信奉していたが、これは始祖が道教を信奉していたからである。始祖とは道教の方士徐福である。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭迹迹日百襲姫であった。倭迹迹日百襲姫も道教の祭祀をしていた。何のために伊勢神宮を参拝していたのだろう、と思われるかもしれないが、歴代の天皇が参拝しなかったのは、これも理由の一つと思われる。   2 史記(司馬遷)淮南衡山(わいなんこうざん)列伝第五十八に「(始皇帝は)また徐福に船出して神仙を求めさせたが、戻って、私は海中の大神に会い、『そなたは西皇の使者か』と言うので、私が『そうです』と答えると、『そなたは何を求めているのか』『不老長寿の薬を..

  • 邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった

    邇邇芸の時代は今より海面が4m高かった 1 古事記によると「邇邇芸は筑紫の日向の高千穂のくしふるねに天降り、『この地は 韓国に向きて、笠沙の御前を真来通りて・・・』といった」とある。 (1)筑紫とは 木を切り「つくし」たところである。千五百の産屋・家・船を造らなければならなかった。 (2)日向とは 日当たりの良いところである。 (3)高千穂とは 中国山脈でも特に高い大山・烏ヶ山・蒜山三座の裾野から穂のように切立った山肌が見える。 (4)クシフルネとは 「川などの向こうの丘」という意味であり、鳥取県北栄町亀谷丘陵のことを指していた。 (5)「韓国に向きて」とは 朝鮮半島にある韓国(辰韓)のことである。天照大神や大国主に協力して天忍穂耳は稲作を導入して日本列島の国造りをするために、常世の国(雲南省周辺)より、稲作技術を持った人々を日本列島に入植させていたが、..

  • 蘇我馬子大王(在位572年~626年)の磐余池辺雙槻宮は鳥取県北栄町島にあった

     1 磐余の地の旧名は、片居または片立という。神武天皇の時代は海抜4mに海面があったから、北栄町米里集落と島集落の地形は中央に池があり、片側に居るか、片側に立つことになる。だから、片居・片立と言っていた。奈良の磐余邑ではなぜ片居・片立といったのかの説明ができない。また、神倭磐余彦が家来二人に赤土を下ろさせた土下集落も近くにある。   磐余邑は現在の行政区分とは異なり、米里だけではなく、島も含んでいた。 2 奈良の磐余邑の説明文に「履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間..

  • 神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった

    神武元年は紀元前60年(弥生時代中期)であった 1 神武元年は日本書紀によると西暦紀元前660年に相当する。この神武元年は実際よりも古く改ざんされているという説がある。 なぜ神武元年を実際より古く見せなければならなかったか。 それは天照大神が紀元前210年に来倭した徐福であることを消す方法の一つとして紀元前210年よりもずっと古くしなければならなかったからである。天照大神が徐福であることを消す方法としては他に、欠史八代を作り長い寿命にしたり、72代にわたるウガヤフキアエズ王朝を創ったり、高天原は雲の上にあったとしたり、天照大神は女性であったとする、などがある。 ただ、何年改ざんされているかについては説が分かれる。(1)600年改ざん説 (2)660年改ざん説 (3)720年改ざん説がある。それぞれ確信のある年代から割出した説である。例えば660年改ざん説によると神武天皇の即位は西暦元年と..

  • 記紀の高天原は蒜山高原であった。

    1 高天原について 「古事記」においては、その冒頭に「天地(あめつち)のはじめ」に神々の生まれ出る場所として高天原が登場する。次々に神々が生まれ、国産みの二柱の神が矛を下ろして島を作るくだりがあるから、海の上の雲の中に存在したことが想定されていた。天照大神が生まれたとき、伊邪那岐は高天原を治めるよう命じた。 高天原には「多くの神々(天津神)が住み、天安河原(鳥取県江府町下蚊屋明神)や天岩戸、水田、機織の場などもあった」ことが記述されている。 葦原中国が天津神によって平定され、邇邇芸命が天降って(天孫降臨)から、天孫の子孫である天皇が葦原中国を治めることになったとする。2 高天原の各説(地名を根拠にするものは削除しました。)(1)天上説(本居宣長) 戦前は皇国史観(天皇を神とする)と結びついてこの考え方が主流であった。※私見:天照大神は実在した人間なので地上にあった。(2)滋賀県米原市伊吹..

  • 天照大神は男性である。

    天照大神は女性か 1 天照大神の性別に関しては、古事記は一切触れていないが、日本書紀では 一ヶ所、素戔嗚神が天照大神に「如不與姉相見」(お姉さんと会いたいと思って)とあることから、女性とする見方が優勢である。日本書紀の冒頭は陰陽二元論で始まり、イザナギ・イザナミ二神による国生みや神々の生成もこれに従っており、国中の柱(天之御柱)を回る場面では、イザナギを陽神(をかみ)、イザナミを陰神(めかみ)と呼んでいる。日本書紀においては、男は陽で、女は陰であり、陽は太陽で、陰は月であるから、天照大神は太陽神であり、本来男でなければならず、月読尊は陰神であり、本来女でなければならない。女神や人間の女が太陽の光を受けて受胎する話が多いが、このことは太陽が男であること意味している。 2 ある方の疑問 近くの寺に天照大神の像があるのですが、男の姿をしています。作られたのは江戸時代と言いますし..

  • 伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった

    伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった 1 鳥取県の天神川は木の根のように見える。 黄泉国(根堅洲国)は鳥取県倉吉市中心市街地であった。 黄泉平坂は倉吉市中心市街地から津(鳥取県北栄町の原)までの坂であった。 2 古事記にある伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」は鳥取県北栄町の原であった。 黄泉平坂は不入岡(イザ原)から始まる。黄泉平坂は蜘ヶ家山を越えて倉吉市上神集落から北栄町原集落に行く道も想定される。その周辺に遺跡が多く見つかっている。発掘調査報告書でも「古代は蜘ヶ家山を通って原集落に行く道路が幹線道路であった」とする。縄文晩期(海面が海抜4mにある時代)では倉吉市不入岡から蜘ヶ家山を通って原集落に行く道路が黄泉平坂であった。 伊邪那岐と伊邪那美は三貴神の一行を迎えるために葦原中つ国(北栄町大島を中..

  • 「山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について

    1 「古人大兄皇子=大海人皇子(天武天皇)」説について   ⑴ 「紀」は、古人大兄皇子と大海人皇子の二人だけに共通するキーワードを用いている。「仏道修行」である。「仏道」とは、「仏教と道教(神道)」を組み合わせた語であり、「紀」では二人に対してだけ使われている。 「紀」で仏教だけを指す場合は、「仏法」と書かれている。   ⑵ このように、「紀」は天武天皇が古人大兄皇子に近い人物だったと臭わせているので、古人大兄皇子と天武天皇を同一人物とする説がある。「神皇正統記」は「不明な天武天皇の前半生に古人皇子を継ぎ足した」としている。   ⑶ 私見 古人大兄皇子は、蘇我入鹿が中大兄と中臣鎌子(藤原鎌足)に暗殺された時、「韓人が鞍作臣を殺した」と言って、中大兄と藤原鎌足が韓国(百済)の人であることを証言した。 古人大兄皇子は入鹿殺害の現場に立ち会っていた。この古人大兄皇子は誰..

  • 倭健命は第九代開化天皇であった

    1 11代天皇と12代天皇の問題となる系譜⑴ 垂仁天皇(本拠地は岡山県美咲町大宮神社)皇居は鳥取県湯梨浜町川上皇后(後):日葉酢媛命(丹波道主王の女)大足彦忍代別尊(景行天皇)倭姫命(史実は孝霊天皇皇女であった)古事記によれば開化天皇が丹波の竹野比売(タカノヒメ)を娶った産んだ子が、比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)、その子が大筒木垂根王(オオツツキタリネ王)〔9代開化天皇系譜〕、その子供が迦具夜比売命(カグヤヒメ)〔11代垂仁天皇系譜〕となる。古事記によれば「垂仁天皇の妃の迦具夜比売(かぐやひめ)は 開化天皇のひ孫」となる。⑵ 景行天皇(屋主忍男武雄心命)皇居は奈良の纒向日代宮皇后(前):播磨稲日大郎姫( 若建吉備津日子女) このモデルは津山市にいた影姫であった。小碓命(倭建命=若日子建吉備津日子) このモデルは武内宿禰であった。古事記では「倭建命(景行天皇の子)のひ孫の訶(迦)具漏比..

  • 神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された

    神武天皇(紀元前112年生、紀元前60年即位)のいた四王寺山の近くから紀元前100年頃の遺跡が発掘された。1 鳥取県倉吉市大谷の中尾遺跡より弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟が見つかった。 倉吉市ホームページより教育委員会事務局 文化財課 ―弥生時代中期の集落跡発見!― 中尾遺跡発掘調査 「倉吉市教育委員会では、平成27年(2015年)8月より中尾遺跡(倉吉市大谷)の発掘調査を行っており、弥生時代中期(約2100年前)の竪穴建物跡12棟、掘立柱建物跡5棟、古墳時代後期の円墳1基などを確認しました」とある。2 遺跡の位置 中尾遺跡は神武天皇4兄弟の世話と守りをしていた大谷集落を隠すように取り巻く丘陵地の上にあり神武天皇4兄弟と同時期に建てられたものであると解する。 3 私見では「神武天皇の即位年は紀元前60年であり、神武天皇の生年は紀元前112年であ..

  • 台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった

     ​​ 台与は豊鋤入姫命であり、景行天皇の妹であった​​1 魏志倭人伝の卑弥呼と台与と国史における倭姫命と豊鋤入姫命(1) 魏志倭人伝によると「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす」とあり「更に男王を立つ。国中服さず。更に相誅殺し、当時、千余人を殺す。復(また)、卑弥呼の宗女、壹與、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる」とある。 「台与は卑弥呼の宗女」とある。宗女とは宗室(王室)の女子のことである。台与は卑弥呼の属する宗室(王室)の女子であり「王の娘」である。 国史において豊鋤入姫命は崇神天皇の皇女とされる。豊鋤入姫命は台与(トヨ)と発音も似ているので、魏志倭人伝の台与(トヨ)と思われる。卑弥呼も宗室(王室)の女子と思われる。卑弥呼は倭国大乱の時代の天皇の皇女(王の娘)であった。 倭国大乱(146年~189年)後に女王と..

  • 鳥取県は東アジアからの移民を受け入れる玄関口であった。列島の王もここに居た。

    鳥取県は東アジアからの移民を受け入れる玄関口であった。列島の王もここに居た。   邇邇芸命の「この地は 韓国に向きて、笠沙の御前を真来通りて 朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり」について   1 「韓国に向きて」とは 「韓国」とは朝鮮半島にある韓国(新羅)のことである。 韓国(新羅)から人力船で出港すると海流(リマン海流と対馬海流)に流されて鳥取県に到着する。渡来人は葦原中津国(橘)や、東郷池(難波津)や、青谷(上寺地遺跡)や、湖山池や但馬にも到着していた。鳥取県は海流(リマン海流と対馬海流)の流れによって韓国に向いていた。 伊邪那岐(大神)は人口を増やしたかったので徐福(天照大神)に多くの少年少女を連れてくるように言った。天照大神や素戔嗚やその子の大国主も祖神(伊邪那岐)の遺志を受け継ぎ、列島の人口を増やすことを考えていた。天武天皇の頃まで倭朝廷は祖神(伊邪..

  • 神功皇后の民間伝承はもとは豊鋤入姫命(台与)の伝承であった

    神功皇后の民間伝承はもとは豊鋤入姫命(台与)の伝承であった。 河村哲夫氏は「神功皇后の謎を解く」(原書房 2013年出版)において「神功皇后を祭る神社に加え、伝承が由来になった地名、腰掛けたと伝わる石などを含めると山口、福岡、佐賀、長崎、大分、宮崎6県に3千ヵ所もあった」とする。1 神功皇后実在説の根拠(1)民衆 名もない民人たちが、伝承という形で脈々と地域の歴史を伝えてきた。(2)大和朝廷に押しつけられた虚構の話を地元の伝承として残した、というような伝承は一件もない。まさに、神功皇后そのものの伝承として地域に伝えられている。(3)地域の人々が『日本書紀』『古事記』を読んで、それに合致するような伝承を捏造したというような説は成り立たつはずもない。『日本書紀』『古事記』が一般民衆のレベルまで流布してはいなかったからである。(4)広域的な通信手段を持たない古代人が、壱岐・対馬を含む北部九州..

  • 豊鋤入姫命(台与)は鳥取県倉吉市鋤集落を本拠地とした

    景行天皇(屋主忍男武雄心命)は都を奈良の纒向に移したが豊鋤入姫は鳥取県中部(倭)に都を戻した 1 魏志倭人伝に「卑弥呼は死に、塚を大きく作った。直径は百余歩。徇葬者は男女の奴隷、百余人である。さらに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。また、卑弥呼の宗女、十三歳の壹與を立てて王と為し、国中が遂に安定した。張政たちは檄をもって壹與に教え諭した。壹與は大夫の率善中郎将、掖邪拘等二十人を遣わして、張政等が帰るのを送らせた」とある。 「梁書倭国伝」「北史倭国伝」では「臺與」と記述されている。「壹與」は正しい表記ではなく「臺與」(とよ)が正しいと思われる。国史で「とよ」とは豊鋤入姫である。もともと倭姫命と豊鋤入姫命の巡行は時代も目的も違うものであった。藤原氏は伊勢神宮の由緒を創るために、同じ目的で引き継いだとする倭姫命世記を創作した。順番も書き換えた。日本書..

  • 倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地

    倭姫命世記において豊鋤入姫の巡行した本当の比定地 倭姫命世記に「倭笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神と草薙の剱を奉遷し、豊鋤入姫命に奉斎せしめた。但波の吉佐宮に遷幸し、倭伊豆加志本宮に遷り、木乃国奈久佐浜宮に遷り、吉備国名方浜宮に遷り、倭弥和乃御室嶺上宮に遷った」とある。 豊鋤入姫命は、倭笠縫邑、但波の吉佐宮、倭伊豆加志本宮、木乃国奈久佐浜宮、吉備国名方浜宮、倭弥和乃御室嶺上宮を巡行した。これら6か所の現在の比定地はどこだろうか。 (1)倭の笠縫邑(鳥取県琴浦町八橋) 倭笠縫邑の比定地は奈良県桜井市の檜原神社とする。楯縫神社の由緒に「旧郷名にちなみ楯縫神社とした」とあるので、立縫郷は楯縫郷であった。楯を立に変えている。立見集落があるが、元は楯見であり、製品となった楯を検査するところであった。 琴浦町八橋の隣に笠見集落がある。これも、製品となった笠を検査す..

  • 倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった

    倭建命の白鳥陵は鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳であった。 1 東郷池にはコブ白鳥がいた。   エサをくれると思ったのか、寄ってきた。向うは望湖楼と千年亭。    子育て中の東郷池のコブハクチョウ(養生館の横で)。 2 鳥取県湯梨浜町宮内の狐塚古墳(前方部が池側を向いている)   この前方後円墳は「前期古墳時代の特徴的な外形を示している」ので古墳時代前期と思われる。古墳時代前期がいつから始まるかはまだ流動的であるが考古学では3世紀中頃という説に落ち着いてきている。4世紀とするのは一昔前の考古学である。倭建命は188年頃に亡くなっているから遅くとも3世紀初頭には築造されている。しかし前方後円墳だから古墳時代前期ということになる。   倭建命(若日子建吉備津日子命=稚武彦命)は前方部の池の畔で白鳥にエサをやったのではないか。それを、卑弥呼(夜麻登登母母曾毘..

  • 出雲大社のモデルは松江の田和山遺跡の5本柱遺構ではなく、湯梨浜町の長瀬高浜遺跡の巨大4本柱遺構であった

    出雲大社のモデルは松江の田和山遺跡の5本柱遺構ではなく、湯梨浜町の長瀬高浜遺跡の巨大4本柱遺構であった。   1 稲吉角田遺跡の絵画土器に描かれている高い建物は出雲大社のモデルではないか、という説が多い。 道向こうには天真名井のある淀江町高井谷集落がある。 絵画土器の土器片から復元された壺である。 この4本柱の高い建物が出雲大社のモデルではないか、と言われている。  2 松江の田和山遺跡の5本柱の建物は出雲大社のモデルではない。   遺跡自体は高いところにある。 一番上から宍道湖方面を望む。 5本柱遺構は柱の太さ20~30cm。柱と柱の間は2mありません。 古事記には、国譲りに際し大国主命が「この葦原の中つ国は、天神の詔のままに、ことごとく差し上げよう。ただその後の私の住処は、天神の御子が住んで世をお治めになる宮と同様に、どっしりと宮柱が太く、千木を空高く掲げて造っ..

  • 穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた

    穂積大王の次の大王(在位715年~734年)は鳥取県中部(倭国)にいた   1 元明天皇と元正天皇と山上憶良と聖武天皇について ※ 元明天皇(女帝・中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は707年~715年である。 ※ 元正天皇(女帝・中継ぎの中継ぎ天皇といわれる・火葬)の在位は715年~724年である。 ※ 山上憶良は伯耆守に任ぜられ(716年~721年)第34代倭国大王(在位715年~734年)に仕えていた。721年に奈良に帰り東宮・首皇子(聖武天皇)の侍講(家庭教師)となり倭国王家の王道を聖武天皇に教えた。しかし、長屋王暗殺計画の妨げになるため、筑前国に下向させられた(726年~732年)。大宰府に着任した大伴旅人とともに、筑紫歌壇を形成した。 ※ 聖武天皇の在位は724年~749年である。火葬ではないから実在していた。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、たび..

  • ​神武東征は不比等の創作であった

    ​神武東征は不比等の創作であった 1 日本書紀の神武東征の順序 ➀速吸の門(豊予海峡)(椎根津彦)②一つ上がりの宮(宇佐)③岡水門(筑紫)④安芸⑤吉備⑥浪速国 2 古事記の神武東征の順序 ➀日向を出発して②足一騰宮(宇佐)③岡田宮(筑紫)④安芸⑤吉備⑥速吸の門(明石海峡)(槁根津日子) 3 私見  速吸の門を日本書紀では豊予海峡でなければならないし、古事記では明石海峡でなければならない。どちらが正しいであろうか。 明石平野の弥生時代の遺跡 椎根津彦(槁根津日子)は国つ神であり土地に土着の者であるから縄文人であった。新方遺跡では弥生時代前期に石鏃の刺さった縄文系人骨3体が発掘されている。新方遺跡に住んでいたのは椎根津彦(槁根津日子)一族であった。神武天皇は弥生時代中期だから殺害されてから通りかかり、椎根津彦(槁根津日子)に賊はどこに行ったか聞いた。..

  • 神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた

    神武天皇は山を穿って道をつけ、ゲリラ戦を展開していた 神武天皇は鴨建角身(八咫烏)の案内で鏡ヶ成から野添経由で上大立(穿邑)に降臨した。 最初に下福田にいた兄ウカシを退治した。大立に楯縫邑を置いた。 上大立(穿邑)から最初につけた道は鳥取県道313号線であった。終点下見の近くに別宮(城田)を造った。もう一方の終点に佐野大橋を造った。 日吉神社に行くように道が続いている。日吉神社の祭神は邇邇芸になっているが、川の横にあるので祭神は日吉神社から船を出している。日吉神社の祭神は饒速日であった。ウマシマジはこの時までに合流していたので日吉神社を通った。富海のほうから見つからないように関金宿に入っている。 関金宿から穿って鳥取県道306・38号線つけ、福山・曹源寺・下西谷・穴鴨・加谷・木地山・下畑・田代・大谷から竹田地区(猛田郷)を平定した。円谷広瀬線も同時..

  • 兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった

    兄磯城と弟磯城は事代主と百八十神(出雲族)の子孫であった 1 大国主と事代主は親子ではない。大国主は素戔嗚の子であり、事代主は葦原中津国で大国主に蹴散らされた出雲族(百八十神)の頭であった。大穴持命や大穴牟遅神は歴代の出雲族の王名であり大国主ではない。出雲大社に祀られているのは大国主ではなく、出雲族の歴代の王であった。国譲り後、大国主は天孫族の4伴緒と一緒に湯梨浜町長瀬高浜・久留にいた。そこに高い建物を建ててもらった。 事代主と百八十神(出雲族)は国譲り後、倉吉市福庭に到着し大平山に上がった。事代主と百八十神(準王一族=出雲神族)はいつまでも大平山におらず、生活の拠点を東郷池の水辺に移した。そこは湯梨浜町長和田であった。長和田が師木邑であった。 2 倉吉市福庭の波波岐神社の伝承に「事代主は近くの泉の畔で余生をおくられた」とある。 畔に使う用例として泉(いずみ)はおかしい。畔は..

  • 神武天皇の「島つ鳥 鵜飼いがとも」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった

    神武天皇の「鵜飼いが友」の歌の舞台は奈良ではなく鳥取県北栄町であった 1 日本建国史 「曲学の徒」桂川光和より 「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。 伊那佐山の木の間を行き来しながら、楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、という意味である。 苦戦する兵が、食料の到着を待つ差し迫った歌である。現実感のある歌だと思う。 興味深いのは「島つ鳥」である。従来鵜飼にかかる枕詞とする解釈は多い。しかし前に述べたように、この時代では枕詞というような、慣用的表現は確立していないであろう。 神武は奈良盆地侵攻の前に、吉野や阿田(五条市阿田)など奈良県南東部を訪れている。吉野の阿田..

  • 「天の安河の河原」は鳥取県江府町下蚊屋明神の地であった

    「天の安河の河原」は鳥取県江府町下蚊屋明神の地であった   宮崎県高千穂町の「天の安河の河原」は行かれた方も多いと思う。 しかし、本当の「天の安河の河原」は鳥取県江府町下蚊屋(さがりかや)明神の地であった。 1 以前は鳥取県の大山西麓に思金神を祀る神社が多く、高天原は蒜山である、としながら「天の安河の河原」はどこか知らないと答えていた。しかし、高天原と思金神を祀る神社が多い大山西麓との間にあるはずである思い調べてみた。 2 思金神が一番東(蒜山高原に一番近い)に祀られている神社は江府町の貝田神社である。 貝田集落の山側に大河原という地名がある。ここだろうか。いや、地名に惑わされてはならない。 それでは、思金神がいた貝田集落だろうか。貝田神社は河原とするには河から離れている。 貝田神社の案内板に「貝田集落は天保時代以前からサ..

  • 徐福と天照大御神の来倭コースは重なる

    徐福と天照大御神の来倭コースは重なる 1 宮下文書(徐福文書)より抜粋 東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは木日国(紀伊国)木立野の大山であった。 徐福が、熊野那智山を眺めていると、白衣の老翁が姿を現して、那智山は不二(富士)山ではなく、不二蓬莱山は、東方にあると告げた。一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。 この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。徐福は一族とともにこの地に止まり..

  • 倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった

    倭姫命は「迹々日百襲」を省略された倭迹々日百襲姫命であった。1 讃岐国における倭迹々日百襲姫命の農業開発 香川県の説明板によれば、倭迹々日百襲姫命は土地の人に弥生米をあたえて、水路を開き、日照に苦しむ人々のために雨祈で、雨を降らせ、水源を教え、米作りを助けたといわれている。 倭迹迹日百襲姫命は農業・水の神と伝えられている。香川県は全国有数の雨の少ない県である。そのために溜池が多い。讃岐国でため池を作ることを最初に思いついたのは倭迹迹日百襲姫であることも考えられる。そうなれば、讃岐国で、農業の神として祭られている理由も説明がつく。当時の讃岐国は凶作の年が続いていた。彼女のアイデアで次々と農業開発が行なわれ人々の生活は次第に潤っていった。このときに溜池を作ることを考え出したのだろう。2 志摩国における倭姫命の農業開発 倭姫命は鳥の鳴声が高く聞えて、昼夜止まずかまびすしかったので、「此、あや..

  • 倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース

    倭国歴史書原本の本当の神武天皇行軍コース1 日本書紀も、1540年までに書き換え、挿入をしている。 日本書紀は720年以降も藤原一族の何人もの手で何度も書写されている。書写するときに示し合せて新たに文を挿入したとしてもおかしくない。人代巻28巻がそろったのは1540年であった。それまで、改ざん挿入がなかったと考えるほうが無理である。2 日本書紀・神武・橿原即位 「饒速日命は、天の磐船に乗って大空を飛び廻り、この国を見てお降りになったので、名付けて『空見つ日本の国』という。」とある。面白いけれども、空想科学小説であり、のちに挿入されたものである。原古事記においては、饒速日命は、船で小鴨川を下って大倭国(鳥取県中部)に至った、と記されていた。奈良時代には「虚空(ソラ)」と書かなかった。 「ソラミツヤマトの国」と言ったのは饒速日命ではなく神武天皇である。稲飯命が建国した新羅の国号は「徐那伐..

  • 日本書紀は列島における百済再興のために制作された

      日本書紀は列島における百済再興のために制作された。   1 旧唐書に倭国と日本(百済)は別の国と書かれるほど唐に疑われていたので万世一系の天皇家と思わせるようにしなければならなかった。そんなおり、太安万侶より倭国の歴史書が上程された。不比等をはじめとする亡命百済人たちは百済(日本)の歴史書を創るにあたり、倭国と日本(百済)は別の国と思われないために百済の王の中に倭国の王を混ぜた。 日本書紀において原古事記から引用したと思われる倭国大王は神武天皇、崇神天皇、応神天皇、雄略天皇、天武天皇くらいである。あとは百済王の在位期間を持ってきている。大臣とされているのも、すべて倭国の大王であった。亡命百済人たちは、奈良で仕事を与えられ、倭国の下僕として働いていた。石像などを造ったのも亡命百済人である。テロで政権を奪った亡命百済人たちは日本書紀において倭国の大王を下僕(大臣)として仕え..

  • 鳥取県中部の古代人は身体に朱丹を塗っていた

    鳥取県中部の古代人は身体に朱丹を塗っていた。 1 瀬戸岩子山遺跡発掘調査報告書 鳥取県大栄町(北栄町)瀬戸 1998年 大栄町(北栄町)教育委員会 (1)まとめ 瀬戸35号境は円墳で、主体部の箱式石棺と墳裾部から子供用の箱式石棺の2基を検出した。主体部からはⅤ字状の石枕をした男性人骨と女性人骨の2体を検出し、副葬品に布痕のある鉄刀と刀子を検出した。頭蓋骨には赤色顔料が付着していた。子供用の箱式石棺からもⅤ字状の石枕が検出された。 本古墳で検出された箱式石棺はこの地域の特徴であるⅤ字状の枕石を配しているが、町内では、妻波古墳群で同じ埋葬形態の箱式石棺が確認されており、中でも妻波1号墳(向畑古墳・5世紀中期)では、瀬戸35号墳の1号埋葬施設と同じ形態の箱式石棺及び、Ⅴ字状の石枕が検出されている。その埋葬形態は男性1体と反対側から上に重なった女性1体が埋葬され、副葬..

  • 青谷上寺地遺跡は倭国大乱そのものであった

    青谷上寺地遺跡は倭国大乱そのものであった。 1.2019年3月2日に鳥取市で「倭人の真実」というシンポジウムが開かれた。 青谷上寺地遺跡で見つかった数十体の殺傷痕のある人骨が亡くなったのは2世紀後半であり、倭国大乱(147年~188年)の時期と一致する、とパネリスト3人の内2人(藤尾慎一郎氏と篠田謙一氏)が認めた。篠田氏は「土器編年より2世紀後半」とし、藤尾氏は「炭素年代測定により今まで数十年早く出る年代を修正すると2世紀後半になる」とした。 2 謎の出雲帝国・出雲神族の伝承より 「ヒボコ族は天孫族と手を結び物部を将として吉備(?)から攻めてきた。彼らは逃げまどう女や子供までも殺した。出雲人が絶滅するのではないか、と思われるほどであった」とある。 3 私見 出雲族の子孫の富氏の口伝によると「彼らは逃げまどう女や子供までも殺した」とする。この本が出..

  • 因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた

    因幡国(鳥取県東部)でも疎開先の但馬国から来て孝霊天皇と倭建命(若日子建吉備津日子=開化天皇)・大吉備津日子(崇神天皇)たちは倭国大乱を戦っていた。 1 孝霊天皇が土蜘蛛を襲ったのは大分県(碩田国)ではなく鳥取県(因幡国)であった。 日本書紀・景行天皇十二年・「天皇は碩田国(大分県)に着かれた。・・・天皇は好ましくないと思われ、進んで行かれなかった。来田見邑に留まって、仮の宮をたててお住みになった。群臣と謀って、「いま多くの兵を動かして土蜘蛛を討とう。もしわが兵の勢いに恐れて山野に隠れたら、後にきっとわざわいをなすだろう」といわれた。椿の木を取って椎に造り、これを武器とされた。強い兵をえらんで椎を授け、山をうがち草をはらって、石室の土蜘蛛を襲い、稲葉川の上に破りことごとくその仲間を殺した。血は流れて踝までつかった。時の人は、つばきの椎を作ったところをつばき市といい、また血のなが..

  • 倉吉市の大原神社が石上神宮であり湯梨浜町長瀬が多芸志(タギシ)の浜であった

     1 国土交通省のホームページ「暴れ川とのたたかい」より   天文13年(1544)に起こった「天文の水」と呼ばれる洪水では、小鴨川が天神川に合流するあたりで栄えていた見日千軒を押し流し、下流の北条平野を泥沼に変えてしまいました。    2 天神川の造成の跡 「古くから天神川は度々の氾濫で河道の位置を大きく変えていた。この河道が、現在のように直接日本海に流入するようになったのは、元文年間(1736-40)の河口開削工事によるもので、「天神川変遷略図」によると掘割を東村勘右衛門が設計し、米村所平が施工したとされています。これは天神山から東方の長瀬へ続く通称「石山さん」と呼ばれる安山岩の岩を撤去して今日の流路を作った」とある。 ※ 私見 江北浜集落の天神山から出ていた安山岩の岩の「石山」の読みはどう読んでいたのだろうか。江北浜集落には(いそえ)姓が多いのでこの辺りは(いそ)であっ..

  • 第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった

    第13代武内宿禰大臣(王)の皇居は鳥取県北栄町原集落にあった。1 13代武内宿禰大臣(王)の皇居は北栄町原の元野神社である。 日本書紀・推古・蘇我馬子の葛城県の要請とその死・において、「冬十月一日、大臣馬子は、阿倍連と阿倍臣摩侶の二人に天皇に奏上させ、『葛城県は元、私の本貫であります(代々葛城氏が居り、蘇我は葛城の同族になるという考え)。その県にちなんで蘇我葛城氏の名もありますので、どうか永久にその県を賜って、私が封ぜられた県といたしとうございます』といった。推古は「いま、自分は蘇我氏から出ている。馬子大臣はわが叔父である。今わが治世に、急にこの県を失ったら、後世の帝が『愚かな女が天下に君として臨んだため、ついにその県を亡ぼしてしまった』といわれ、後世に悪名を残すことになるだろう」として許されなかった」とある。 蘇我馬子大王が「葛城県は『元』、私の本貫」と言ったのは武内宿禰大王の..

  • 天稚比古と高姫(下照姫)は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいた

    天稚比古と高姫(下照姫)は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいた。 1 灘手神社由緒には「大正5年11月灘手村大字寺谷字西前村社矢野宮神社祭神天稚比古を合併し灘手神社と改称す」とある。鳥取県神社誌のなかで天稚比古を祀る神社は湯梨浜町宮内の倭文神社と倉吉市福庭の波波岐神社と倉吉市寺谷の矢野宮神社である。 倉吉市福庭の波波岐神社の祭神は国を譲った神を羅列して祀っているだけでそこに住んでいたわけではない。湯梨浜町宮内の倭文神社の祭神は孝霊天皇の皇居を隠すために波波岐神社の祭神を複写しただけである。天稚比古は倉吉市寺谷の矢野宮神社に住んでいたと思われる。 倉吉市寺谷の矢野宮神社。   ​​​2 大国主と阿遅鋤高日子根 神祇志料(明治6年)佐比売山神社の條に「・・・昔大己貴命、少名毘古那命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御座、出雲国由来郷に来座して・・・」とある。また、出雲風土記では..

  • 天孫降臨は2回行われた。最初は饒速日・天照大御神・月読命であった

    天孫降臨は2回行われた。最初は饒速日・天照大御神・月読命であった。 1 鳥取県江府町鏡ヶ成から降臨したのはニニギか饒速日か。 高天原は蒜山高原であった。饒速日は江府町江尾神社の祭神であり、ニニギは長田神社と加茂神社の祭神になっている。 鏡ヶ成は猿田彦が鏡を光らせていたところであり、天鈿女がその理由を聞きに訪れたところである。鳥取県江府町鏡ヶ成から降臨したのは同じ江府町の江尾神社にいた饒速日と思われる。天照大御神と月読命は5伴緒(天鈿女を含む)と思金神、手力男神、天石門別神とともに三種の神器を副えて、饒速日とともに鏡ヶ成から関金の神田神社に降臨した。鏡ヶ成と江尾神社は江府町に属しており同じ町内にある。饒速日は江尾から鏡ヶ成に上がり、関金の神田神社に降臨した。 ニニギはわざわざ加茂神社の地から鏡ヶ成まで行かなくても近くの犬挟峠を越えて矢送神社に降りればよい。矢送神社にはす..

  • 神武天皇は奈良・熊野には行っておらず、宮崎・奈良・熊野に神武天皇は実在しなかった。神武天皇の退却先は備後国であった

    神武天皇は奈良・熊野には行っておらず、宮崎・奈良・熊野に神武天皇は実在しなかった。神武天皇の退却先は備後国であった。 1 私見(1)イツセとイワレヒコは九州を平定して(鹿児島県・佐賀県・福岡県で発掘された紀元前100年頃の鉄鏃より)安芸国を通って倭国(鳥取県中部)に帰り、米子市淀江の津で新羅からの鉄製の武器を受取り、船で東郷池に入ったと思われる。倉吉市の大平山(日下村)でナガスネヒコと戦いイツセは傷つき、木国(鳥取県智頭町)で亡くなった。イワレヒコは木国(鳥取県智頭町)から山陽側(岡山県・広島県)に出た。(2)岡山県・広島県に神武天皇の伝承が多い。大阪府茨木市(摂津国)の東奈良遺跡における銅鐸製作を紀元前1世紀に線刻土器に変えさせているので摂津国(大阪府茨木市の東奈良遺跡)までは行ったはずである。しかし、1世紀に銅鐸製作を線刻土器に変えた奈良の唐古・鍵遺跡を平定したのは2代天皇以降..

  • 神武天皇の段にある「宇陀」とは鳥取県倉吉市高城地区(楯縫郷)のことであった

    1(1) 古事記には「やがて一行の船は、波荒く立ち騒ぐ波速の渡を過ぎて、波静かな白肩の港に碇泊した。この時、登美の地(土下山周辺)に住むナガスネヒコ(中洲の豪雄)が軍隊を起こして、一戦を挑んだ。・・・楯を取り、岸部に下りて防戦した。この土地の名を楯津と言い、また今に、日下の蓼津とも言っている。・・・トミビコの放った矢が、兄のイツセの命の手に刺さって深手を負わせてしまった。 ・・・南の方へ迂回し血沼の海に至って、傷を受けた手を洗った。それゆえここを血沼の海という。そこからさらに迂回して紀国(木国)の男之水門まで行ったところで・・・その息は絶えた。・・・カムヤマトイワレビコノ命はさらにその土地から迂回を続けやがて熊野の村へと着いた。・・・この土地から、道もない深山をさらに踏み越え、道を穿って難行をつづけながら、ようやく宇陀に達した。道を穿って進んだゆえに、宇陀の穿という。 宇陀の地には兄宇迦斯..

  • 内藤湖南の「倭姫命説」と笠井新也の「倭迹迹日百襲姫命説」はどちらも正しかった

    1 京都帝大教授の内藤湖南は明治43年にその論文「卑弥呼考」において「卑弥呼は倭姫命であり、台与は豊鋤入姫である」とした。「卑弥呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、我が国史にては崇神天皇の皇女、豐鍬入姫の豐(トヨ)といへるに近し。国史にては豐鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる体なれども、倭人伝にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豐鍬入姫の方を第二代と誤り伝へたるならん」とする。 内藤湖南の講義を聞いた笠井新也は大正13年の「邪馬臺國は大和である」において「内藤湖南は倭姫命説を唱えたが、自分は違うと思う」とし、「卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命であり、卑弥呼の墓は箸墓古墳である」とした。笠井新也は卑弥呼の年代についても考察している。「倭人伝の卑彌呼の時代は、国史における崇神天皇の御代である。記紀では孝霊天皇の皇女となっているが、ほんとうは次の孝元..

  • 天武天皇・持統陵の骨蔵器は後に藤原氏が入れた。キトラ古墳の被葬者は高市天皇であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁天皇である

    天武天皇・持統陵の骨蔵器は後に藤原氏が入れた。キトラ古墳の被葬者は高市天皇であり、高松塚古墳の被葬者は忍壁天皇である。 1 天武天皇・持統陵の骨蔵器は後に藤原氏が入れた。 天武天皇の次は高市天皇であり、持統ではなかった。 2 キトラ古墳の被葬者は高市天皇である。 現在は工事中である。 キトラ古墳は平成28年度に開園予定である。 3 高松塚古墳の被葬者は忍壁天皇である。 高市天皇の次は忍壁天皇であった。 4 私見(1) 忍壁天皇の皇居は鳥取県中部にあり、青谷で女子群像の描かれた木板が出土したが、何もおかしくはない。当時、都であった鳥取県中部に属していた鳥取県青谷町から高松塚古墳の彩色壁画によく似た女子群像の板絵が見つかっても不思議ではない。 青谷横木遺跡で墨で描いた女子群像の板絵が出土したことについて、百橋教授は「中国大陸や朝鮮半島の墓..

  • 神武天皇たちは妻木晩田を開いた

    1 糺(ただす)神社 明治42年まで鳥取県西伯郡所子(ところご)村大字所子字神田(じんでん)(門脇家住宅の先、サイの神の道向かい)に糺(ただす)神社があった。祭神は神日本磐余彦、鵜草葺不合、玉依姫、誉田別、倉稲魂、天照大神、大山祇、稲田姫、水象女、猿田彦、鈿女 神武天皇(紀元前112年生まれ、紀元前60年即位)とその両親も祭神になっている。普通、合併は大正時代なのに明治政府は慌てたように糺(ただす)神社を消している。糺(ただす)神社の由緒は橿原神宮(明治23年創建)を建てた関係か、明治政府にとって不都合なものであったと思われる。 2 妻木晩田遺跡・松尾頭地区 糺(ただす)神社から南西3kmのところに妻木晩田遺跡・松尾頭地区があり、紀元前100年頃の竪穴住居跡(SI100)や土坑(SK161)が発掘された。 3 線刻土器 妻木晩田遺跡のパンフレットより ..

  • 倭の五王の時代の朝鮮半島情勢について

    藤原氏は百済と新羅を入れ替えているので百済と新羅を元に戻して再現しています。1 368年、百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏上するには、百済にいる民人を連れて帰化したいけれども百済が邪魔をして任那から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を任那に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。※ 私見 おそらく襲津彦(応神天皇)は高句麗か百済に捕らえられていたと思われる。370年、天皇は襲津彦が帰国しないのは百済が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて任那(慶尚南道にあった)に派遣した。百済王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に来た。371年に倭国は高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる(三国史記)。372年(百済か高句麗)人が新羅の一礼部に来たり、集落に放火し、千人を捕虜にして立ち..

  • 倭国は、卑弥呼たちが弥生後期に全国と半島を統一するまで小国であり、鳥取県中部であった

    1 青谷上寺地遺跡発掘調査報告書4(2002年) 第5章 青谷上寺地遺跡をめぐる諸問題 第4節 殺傷痕のある人骨をめぐる諸問題 より (1)弥生時代の戦い 次に墓壙内出土の鏃について検討する。すでに述べたとおり、青谷上寺地では銅鏃およびその可能性のあるものが嵌入した人骨が4例あり、全国的にも鏃の嵌入例または墓壙内出土例が多いことから飛び道具としての鏃の検討は避けられない。表33に山陰を中心とする日本海沿岸地域における鏃の墓壙内出土例をまとめた。丹後の墳墓には鉄製武器や工具が副葬される場合が多く、鏃のみの場合もなくはないが、基本的に墓壙内の鏃は副葬品と思われる。但馬の東山墳墓群では5基の墓壙より鉄鏃(1点・1点)・銅鏃(2点・1点・1点)が出土しているが、木棺の側板が立つ位置にあるものや棺外にあるものが大部分で、人体に嵌入したものとは思えず、やはり副葬品であろう。 青谷上寺地と同じ因幡..

  • 鳥取県倉吉市大宮(橿原宮)には山陽から帰ってきた神武天皇がいた

    鳥取県倉吉市大宮(橿原宮)には山陽から帰ってきた神武天皇がいた。 1 岡山県久米郡美咲町百々大宮には第十一代垂仁天皇がいたと比定したのであるが、周りにある弓削や久米という地名はヤマト王朝に直結する部民がいた集落につけられた地名である。久米にしろ弓削にしろ大宮からはかなり離れたところにある。ところが、倉吉の大宮は弓削なり久米の地名は近くにある。ということは、ここにいた王は第十一代よりも初期であったという推測が成り立つ。 鵜草葺不合は火火出見のあだ名であったから火火出見(鵜草葺不合)は倉吉市の四王寺山(日向)に宮を造った。欠史8代(第2代~第9代)の皇居も比定地が分かっているので欠史8代(第2代~第9代)でもない。第10代の皇居は磯城(東郷池周辺)である。素戔嗚はヤマト王朝の王ではない。残るのは、山陽から帰って来た神武天皇である。 2 地図より 県道38号線を通っても集落へ入る橋が..

  • 聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった

    聖徳太子(蘇我入鹿天皇)の皇居は鳥取県北栄町由良宿にあった。 1 皇居と産屋の距離 (1) (瓊々杵命)鳥取県北栄町下種集落 大宮神社(2) (木花之佐久夜毘売)鳥取県北栄町由良宿 高江神社 (1)~(2)の間は4.1km(3) (神武天皇)鳥取県倉吉市大宮集落(4) (媛蹈鞴五十鈴媛命)鳥取県倉吉市耳集落 (3)~(4)の間は3.7km(5) (蘇我馬子天皇)鳥取県北栄町島集落(6) (物部鎌姫大刀自)鳥取県倉吉市馬場町 (5)~(6)の間は3.7km(7) (物部氏の本拠地)鳥取県倉吉市大原集落 (6)~(7)の間は4.2km 瓊々杵命と神武天皇と蘇我馬子天皇の皇居と産屋を上記のように比定したのだが、3人とも産屋との距離がほぼ同じように思われる。当時の皇居と産屋の距離は4km前後であったと思われる。これは偶然ではなく、比定地が正しいからと思われる。 また、..

  • 第五節 鳥取県神社誌に見る倭の大乱に関係すると思われる祭神

      鳥取県神社誌に見る倭国大乱に関係すると思われる祭神 1 天穂日命〈鳥取県東部〉中村神社 岩美郡福部村大字中字宮ノ谷賀茂神社 八頭郡賀茂村大字宮谷字寺坂大江神社 八頭郡大伊村大字橋本字馬場都波只知上神社 八頭郡散岐村大字佐貫字林ノ谷都波奈彌神社 八頭郡散岐村大字和奈見字林ノ内湯谷神社 八頭郡西郷村大字湯谷字大瀧隼神社 八頭郡隼村大字見槻中字宮ノ本日下部上神社 八頭郡安部村大字日下部字宮ノ谷諏訪神社 八頭郡智頭町大字智頭字宮ノ前天穂日命神社 気高郡大郷村大字大畑字森崎〈鳥取県中部〉五郷神社 三朝町牧560の1 大原神社 倉吉市大原619番 田内神社 倉吉市巌城1494番 松崎神社 湯梨浜町松崎566番〈鳥取県西部〉天萬神社 南部町天万1009番多里..

  • 伊勢神宮参拝

    神はいないしいたこともないテーマパークであるとわかっていても、話のついでに行ってみたいのが人情である。 1 伊勢神宮は敷地が広くて神社も立派である。さすがに藤原氏である。なにもなかったところにテーマパークを造っている。宮司だけは沢山いて、遷宮のときには国民から金を巻き上げて、それで撮影は禁止です、とは何事であろう。戦前の不敬罪の精神が思い起こされた。何もいないのに何を保護するというのだろうか。建物の形状だろうか。藤原氏の短気さが見えたような伊勢神宮参拝であった。 伊勢神宮内宮正殿には心御柱がある。地中2尺地上3尺、長さ5尺の柱。心御柱祭は深夜に地元の娘たちが心御柱の周りを踊りながらまわるというから心御柱は男根である。天照大神が男性であることを隠すために写真撮影を禁止していた。 2 伊雑宮にも心御柱がある。伊勢神宮の心御柱は伊雑宮の心御柱を模倣したものである。 伊雑宮の宮司..

  • 倭国大乱の原因

    1 出雲神族の富氏の口伝によると「ホヒ(天穂日)は出雲神族(準王一族)と婚姻関係を結んで、後続部隊の手引きをした。出雲神族(準王一族)の反乱を防ぐため、神武から数代の王は、出雲の王家の娘を妻に迎えた」とある。 出雲には「出雲族(準王一族)の姫を天皇家が殺したから攻撃を始めた」とする伝承がある。これが倭国大乱の原因と思われる。 2 孝霊山の伝承 鳥取県の大山北麓に孝霊山という山がある。この山に孝霊天皇の伝承が伝わっている。 第7代孝霊天皇(私見では120年生~211年没)の時代のことです。「伯耆国の妻木の里(大山町妻木)に、朝妻姫という大変美しくて心がけの良い娘がいるそうな。」「朝妻は比べ物のないほどの絶世の美女だ。」「朝妻の肌の美しさは、どんな着物を着ても透き通って光り輝いているそうな。」などと、うわさは都(鳥取県中部)まで広がって、とうとう天皇のお耳に達しました。 天皇は早速朝..

  • 八岐大蛇は第1次の徐福一行(紀元前219年)を追いかけてきた始皇帝の家来たちであった

    八岐大蛇は第1次の徐福一行(紀元前219年)を追いかけてきた始皇帝の家来たちであった。 1 八俣大蛇は八俣だから九頭竜のことであり、九頭竜なら中国にも伝説として存在する。しかし、素戔嗚と話ができて、酒を飲んでくれるような関係である。八俣大蛇とされていたのは、素戔嗚と同じ秦語を話し、始皇帝の剣を持っていた第一次の徐福(紀元前219年)を追ってきていた始皇帝の家来と思われる。彼らも伯耆国に到着し、東郷池から波関峠(忍坂)を越えて、片柴(忍坂邑)を通り、三朝町山田の地に辿り着いていた。八俣の大蛇伝説は八の字が好きな藤原氏が三朝町山田(ヤマタ)であった事件を後に脚色したものと思われる。 始皇帝の剣は始皇帝陵から見つかっているものでもそんなにたくさんは無いようである。しかし、今でも錆びずにカミソリのような切れ味でしかも形状記憶合金でできているというから、その当時でも貴重なものであったと思われる。..

  • 初代天皇から第30代天皇までの皇居のうち29天皇の皇居は鳥取県中部にあった。実在しない天皇は除外している

    1 初代神武天皇から第30代天武天皇までの天皇の皇居(実在しない天皇は除外しています) 初代神武天皇 畝火之白檮原宮 鳥取県倉吉市大宮。 第二代綏靖天皇 葛城高岡宮 鳥取県北栄町曲岡神社。 第三代安寧天皇 片塩浮穴宮 鳥取県湯梨浜町橋津観音堂。 第四代懿徳天皇 軽之境岡宮 鳥取県倉吉市小田。 第五代孝昭天皇 葛城掖上宮 鳥取県倉吉市穴沢灘手神社。 第六代孝安天皇 葛城室之秋津島宮 鳥取県北栄町大島。 第七代孝霊天皇 黒田廬戸宮 鳥取県湯梨浜町宮内倭文神社。 第八代孝元天皇 軽之堺原宮 鳥取県倉吉市小田。 第九代開化天皇(倭健命) 鳥取県北栄町瀬戸観音寺。 第十代崇神天皇 師木の水垣宮 鳥取県湯梨浜町長和田。 第十一代垂仁天皇 師木玉垣宮 鳥取県湯梨浜町川上。 第十二代景行天皇 鳥取県倉吉市下大江。 第十三代武内宿禰天皇 鳥取県北栄町..

  • 鵜草葺不合は彦火火出見のあだ名であった

    1 古事記・日本書紀は「鵜草葺不合は彦火火出見命の子である」とする。 先代旧事本紀の天孫本紀には「天孫天津彦々火瓊々杵尊の孫、磐余彦尊が天下を馭ようとして東征した」とある。「瓊々杵尊の孫、磐余彦尊」とある。鵜草葺不合(産屋を建てるのが間に合わなかった)とは正式な名前だろうか。2 ウィキペディアより ウガヤフキアエズ王朝は、「ウエツフミ」「竹内文献」「神伝上代天皇紀」などの古史古伝に記載されている神武天皇以前の古代王朝で、火々出見命の子鵜萱葺不合命が開いた王朝とされる。鵜萱葺不合命は、「古事記」、「日本書紀」の中では、神武天皇の父とされている。「ウエツフミ」、「竹内文献」、「神伝上代天皇紀」などの中では神武以前に何代か続いた王朝の始祖とされている。しかし、これらの文書の中でも天皇の数や王朝の継続期間は一致していない。そもそもこれらの文書は史料価値が認められておらず、ウガヤフキアエズ王朝とは..

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