樋口山城守与六 さん プロフィール

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樋口山城守与六さん: 古城巡り 写真館
ハンドル名樋口山城守与六 さん
ブログタイトル古城巡り 写真館
ブログURLhttp://yamashiro2015.blog.fc2.com/
サイト紹介文関東を中心に全国の、城館や史跡をデジタルアルバムのデジブックにて現在の城を紹介して行きます。
参加カテゴリー
更新頻度(1年)情報提供403回 / 365日(平均7.7回/週) - 参加 2015/08/12 19:14

樋口山城守与六 さんのブログ記事

  • 真板氏館 埼玉県行田市
  • 真板氏館跡の花蔵院築城年代など詳細不明。鎌倉幕府の御家人・真板五郎次郎経朝が当地を領し、築いた居館と伝わる。経朝は仁治4年(1243年)に弓始めの射手として選ばれ、その後幾度も射手を務める程の弓の名手であったという。遺構らしき物は無いと、思われる・・・・・・・・・・・・・・・・・。真板氏館石碑真名板高山古墳 古墳は物見として使用か??健治元年の板碑 [続きを読む]
  • 成田氏館 埼玉県熊谷市
  • 成田氏は、初代助高から九代親泰に至る四百余年を熊谷市上之に館を構えていましたが、延徳3年(1491)、親泰が忍大丞を攻め滅ぼし、本拠地を忍城に移しました。現在、館跡は耕作されていたり、住宅が建っていたりして、堀や土塁は見られません。しかし、地元の話や地形図から判断すると二重の堀をもつ館と考えられます。成田氏の菩提寺・・龍淵寺龍淵寺は成田家十二代当主、成田家時が開基したお寺で、成田氏の菩提寺でもあり、成田 [続きを読む]
  • 西別府館 埼玉県熊谷市
  • 成田助高のニ男・別府次郎行隆が別府に住んでから、その子太郎義行は東別府に、二郎行助が西別府氏に数代相対しながら領地とした。(東別府氏、西別府氏と名乗る)その行助から5代目の西別府頼重まで居としたいたのが、この西別府氏館である。祠の前に石碑が有るが周辺には、遺構は残っていません・・・・・・・・・・・・・・・[埼玉県熊谷市西別府2142−2]大きい地図・ルート検索  ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI [続きを読む]
  • 常泉の代官屋敷 埼玉県加須市
  • 子孫の方が建てられた復元門小田家は本姓を福島氏とされ、江戸時代には常泉周辺の名主代官として屋敷を構え、明治維新以降に本姓である福島家に戻したものと思われます。本姓を有するという場合には、一般に天正18年(1590)徳川家康の関東入府以前の後北条氏が支配していた戦国時代において、有力な地侍階層(土豪)として存続していたであろうことも窺われるものですがその詳細は不明です。現在代官屋敷は、物流倉庫となり堀跡 [続きを読む]
  • 駒寄城 茨城県坂東市
  • 旧・猿島町の山地区、旧町役場の東側の台地に築かれた駒寄城は近世から近代にかけての開発で城の所在した台地だけではなく周辺まで大きく地形が変わります。城が機能していた戦国当時は飯沼が丘を囲み、西側は旧役場から延びる丘陵と地続きで飯沼に突き出した半島状の丘陵先端部に城が築かれていたました。現在では飯沼は干拓され農地となり、西側は昭和10年代の西仁連川の開削工事により丘陵が削られ駒寄城が独立した台地になっ [続きを読む]
  • 大鳥館 茨城県
  • 逆井城とは谷津を挟んだ北西の台地に大鳥館または大鳥城といわれる城館があったといわれます。巨大な土塁が残るとされるが現在は確認できません、しかし民家裏手の竹林の中には平場が確認できます。台地の東南は武家と呼ばれ逆井城の家臣達の屋敷との伝承があるようです。大鳥館 遠景 [続きを読む]
  • 千徳丸供養塔 埼玉県越谷市
  • 照蓮院の秋山家の墓所に武田勝頼の遺児千徳丸の供養塔が有ります瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田家の重臣秋山伯耆守信藤であることを伝えています。天正10年(1582)武田家滅亡のとき、信藤とその二男長慶は武田勝頼の遺児千徳丸を奉じて瓦曽根村におちのび潜居しましたが、千徳丸は間もなく病死しました。長慶はこれを悲しみ、瓦曽根村照蓮院の住職となってその菩提を弔りましたが、寛永14年(1637)秋山家墓所に五輪塔による供養 [続きを読む]
  • 道祖士氏館 埼玉県川島町
  • 道祖士氏館 道祖土家戦国時代の古文書である「道祖土家文書」を所蔵していたことで県内でも著名な旧家です。道祖土家に伝わる文書類からは、岩付太田氏の家臣として享禄3年(1530)太田資頼から「29貫500文」を拝領していること、あるいは元亀3年(1572)、天正9年(1581)の氏政、氏直への代替わり時の改定着到状において「馬上1名、鑓持1名、旗持1名で合計3名の軍役」という比較的規模の小さな在地領主であることなど [続きを読む]
  • 太田道灌陣屋 埼玉県川島町
  • 養竹院は臨済宗の寺で、明応の頃(1492〜1500)太田道灌の養子で岩付城主・資家が道灌の菩提を弔うため道灌の弟で鎌倉円覚寺の禅僧・叔悦和尚を開山として建立したものです。元は太田道灌の陣屋があった所と伝わります。養竹院に堀跡らしき物が有るが、遺構で在るかは不明。太田道灌陣屋石碑養竹院の板碑 [続きを読む]
  • 美尾屋十郎廣徳館 埼玉県川島町
  • 美尾屋氏は、源義経の重臣・鈴木三郎重家が義経とその兄頼朝との仲が不和となり、奥州平泉へ逃れるため義経を慕って熊野を出て田木の吉田(現:東松山市)まできたとき、大雨により河川が氾濫し川を渡ることができずこの地に逗留。重家は子供連れで奥州へ行くのは困難と、友人の美尾屋十郎廣徳に一子を養子として託した。後3代まで美尾屋姓を名乗ったが、4代目から元の鈴木姓に改めたという。廣徳寺 本堂館を巡る堀廣徳寺大御堂 [続きを読む]
  • 比企氏累代の墓所 埼玉県川島町
  • 金剛寺 山号を清月山元光院、新義真言宗の寺で、川島町中山にあり比企氏の館跡と伝えられている地にあります。金剛寺と比企氏との関係は、当地の開発領主であり、比企能員の娘婿であった中山為重まで遡ります。比企氏の乱(建仁2年1203)で、北条方に敗れた比企一族がことごとく滅ぼされるなかで、能員の子円顕(当時2歳・俗名能本)と時員(能員の子)の子員茂はまだ母のお腹の中にいたことから生き長らえることとなります [続きを読む]
  • 今日も、朝キュウリ!!
  • 金剛寺 山号を清月山元光院、新義真言宗の寺で、川島町中山にあり比企氏の館跡と伝えられている地にあります。金剛寺と比企氏との関係は、当地の開発領主であり、比企能員の娘婿であった中山為重まで遡ります。比企氏の乱(建仁2年1203)で、北条方に敗れた比企一族がことごとく滅ぼされるなかで、能員の子円顕(当時2歳・俗名能本)と時員(能員の子)の子員茂はまだ母のお腹の中にいたことから生き長らえることとなります [続きを読む]
  • 古城巡り 写真館 
  • かつて日本には二万五千以上もの城が存在したと言われる。実際にはただ柵で囲われただけの砦のようなものもあり、文書に残っているのみでその存在が証されたのではないものも含まれるが、それでも相当数存在していたことは確かだ。しかし、数多くの戦や藩主の転封の度に廃城になったり破却されたりとその数は次第に減っていき、江戸後期にはその総数およそ200。さらにその後の明治維新の廃城令や戦争、火災、天災を免れて現在もそ [続きを読む]
  • 改 御所ノ入館(御所ノ入城・御所ノ入城砦) 栃木県佐野市
  • 御所ノ入 右手に「そば処御所ノ入」が有り、この道を直進した突き当りが館跡,数日前にも訪れましたがやっと場所を発見!!報恩寺(佐野房綱(天徳寺宝衍)の菩提寺)寺伝によれば、佐野に落ち延びた木曽義仲の子・清水冠者義高が名を佐野(岩崎)義基と改め、父祖の霊を弔うために一寺を建立し、栄西禅師を招請して開山としたことに始まるといいます。当時は如法寺と称しましたが、21世三伯玄伊和尚の時に報恩寺と改めました。佐野 [続きを読む]
  • 古代蓮の里 2018
  • 古代蓮の里 2018埼玉県行田市の天然記念物 行田ハスは、昭和46年(1971)、市の焼却場建設工事によって偶然掘り起こされ、その2年後に自然発芽・開花した約1,400年から3,000年前の古代ハスです。行田ハスは濃いピンク色の一重咲きの花を咲かせます。花径は25〜28cmの大型種、花弁数は13〜18枚と少なめ、横から見たつぼみは楕円形で、葉心角は120度〜130度と小さいのが特徴で、植物学的に極めて貴重なものです。*時期的には、もう [続きを読む]
  • やって来た、ル−シ 20180701
  • ルナ(ゴールデン)が亡くなり、8ヶ月・・・・・家の中が寂しくなった・・・・・ミルク(猫13歳・・・たぶん?)外にはクッキ−(犬12歳・・・たぶん)7月1日それは突然やって来た、突然ではないが我が家に新しい住人?住犬?・・・・・ル−シ(通称シェルティ-)生後3ヶ月ル−シ初日 20180701 玄関にてミルクとにらみ合い!!まだこれより先に行けない!!生意気なポ−ズ 先日の写真だが、だいぶ1ヶ月で大きくなりました。  [続きを読む]
  • 富田宿本陣 栃木県栃木市大平町富田
  • 富田交差点を左に曲がったすぐのところに「富田宿本陣跡碑」(左)が建てられている。本陣を務めていたのは和久井家であった。現在は蔵を残し、以外の建物は新しく建て替えられている。例幣使街道徳川家康は死後、朝廷より神号「東照大権現」を下賜され、日光東照社に祀られ神となった。後、東照社は東照宮と改称する宣下を受け、朝廷臨時奉幣使が派遣された。以降、毎年家康の命日の祭礼に「日光例幣使」が派遣されることになった [続きを読む]
  • 須藤城 栃木県栃木市
  • 須藤城は須藤行貞によって築かれたという。行貞は、榎本城の小山高綱の重臣だったといわれる。城址は須藤農園後方の山林と竹林となるが、藪が凄く遺構が確認しずらい!!北側から見た須藤城、この辺りにもソ−ラ−発電の開発が!!北側の東西に延びる、堀と土塁郭内に残る、古い板碑 [続きを読む]
  • 富田城 栃木県栃木市
  • 回字形の城であったが、現在は宅地化が進み、大平西小学校の北側に往時をしのばせる土塁・空堀がわずかに残っている。佐野氏の一族がこれを築いたといわれる。小山系図によれば「藤井玄蕃頭秀利、1470(文明2)年、富田城に住み、富田氏を号す」とあり、この一族が居城していたらしい。1555〜1557(弘治年間)年、城主富田左近は皆川領内を数度にわたって荒らしたため、皆川俊宗の兵700余騎に攻められ、二の丸に火をつけられて落城 [続きを読む]