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  • 「高僧名僧伝・行基」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天。

    行基(668年~749年)奈良時代の僧。河内国大鳥郡蜂田首虎身の長女古爾比売。15歳で出家し、24歳で高宮寺徳光を師主として受戒した。高宮寺は大和国葛城上郡高宮郷市大字西左味にあった寺で、金剛山の中腹にあたり、修行の根拠地になる山寺である。徳光は山林修行も習ったと推定される。一方、経典学習のため法興寺、薬師寺所属しにも、摂論系の瑜伽・唯識学を学習した。704年(慶雲元)山林を出て故郷に戻り、生家を改め家原寺とした。長年にわたる山林暮らしをやめて故郷に戻ったのは、三階教に出会ったからと考えらえる。三階教は隋の信行により開かれた民衆宗教で、山林修行を否定し、街頭宗教で山林信仰を否定し、街頭集落における民衆の宗教的共助活動を重視し、無尽蔵施と称する布施行により我が身と祖先の罪業が消滅すると説いた。その教籍は道昭が請来...「高僧名僧伝・行基」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天。

  • 「戦後日本の回想S25年」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天。

    昭和25年、朝鮮戦争が勃発、戦後復興に軍需産業の活況に日本経済は大きく景気拡大に展開する。日本も国力あった軍備を備えることを望む保守政党は憲法改正に動きを見せるが野党の強い反対で遅々として進まず、序段階の動きとして「警察予備隊公布」と「海上保安庁8000人」の増員を指示し、国体を整備をしていった。国民の娯楽は映画・ラジオからテレビの試験放送が開始され、それに伴ってプロ野球も国民的人気を得ていった。政党の編成は自由党・国民民主党など緑風会など離合集散を繰り返し、自由党と民主党が政治の基軸として国会運営がなされていった。この年、紙幣が1000円札が発行されて、国家予算の拡大の一方、人口も9000万人近く増大していった。再建日本の建設ダッシュに徐々に景気が上昇して行くのであった。「戦後日本の回想S25年」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天。

  • 「戦後日本の回想S24年」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天。

    昭和24年ともなれば、経済も徐々に成長し、アメリカから収支均衡予算の編成するように注文を付けら、実質を伴わない「竹馬経済」と揶揄された。日本周辺諸国を見れば、東南アジアは独立が加速し、それにつれ国交回復と貿易も盛んになり、日本の得意分野の成長が著しく見られた。何より日本人に自信と誇りをもたらしたのは「湯川秀樹のノーベル賞」受賞であった。この頃より労働組合の組織拡大がみられ、国鉄の労使の対立が激化し、特にGHQのレッド・パージは日々厳しく規制がかけられた。そんな時労使の対立から下山事件・三鷹事件・松山事件がGHQがらみで謎の事件が連続して起き、国民に話題を呼んだが未だその解明に至っていない。また海外の戦地に有って捕虜となっていた旧陸海軍の復員も盛んになって、特にソ連の奥深く収容されたシベリア抑留者の祖国日本に帰国...「戦後日本の回想S24年」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天。

  • 「歴史の回想・田中正造」電子書籍紹介・角川・グーグル・

    田中正造たなかしょうぞう(1841―1913)明治期の政治家、社会運動家。下野国安蘇(あそ)郡小中(こなか)村(栃木県佐野市小中町)の名主富蔵の長男として生まれる。17歳で小中村名主に選ばれ、主家六角(ろっかく)家の苛政(かせい)に反抗し、改革を試み投獄される。維新後の1870年(明治3)上京し、江刺(えさし)県(岩手県)の属吏となり、花輪分局に勤務。翌年上役殺害の嫌疑を受けて投獄され、1874年ようやく無罪釈放となり帰郷。この間『西国立志編』などを読み、西欧思想に触れる。1879年『栃木新聞』を創刊、国会開設の急務を説く。翌年安蘇郡選出の県会議員となり、以後1890年衆議院議員に選出されるまで在職、1886年からは議長を務めた。この間、1880年安蘇郡に民権結社中節社を組織し、国会開設建白書を元老院に提出、ま...「歴史の回想・田中正造」電子書籍紹介・角川・グーグル・

  • 「歴史の回想・田中義一」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

    田中義一たなかぎいち(1864―1929)陸軍軍人、政治家。元治(げんじ)1年6月22日、長州藩下級藩士の家に生まれる。1883年(明治16)陸軍教導団に入り、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業、日清(にっしん)戦争に出征した。戦後は参謀本部に入り、ロシアに派遣され、日露戦争に際しては開戦を積極的に促進、満州軍参謀となり、張作霖(ちょうさくりん)との間に「俺(おれ)が弟」と称するような深い関係をつくった。1906年(明治39)山県有朋(やまがたありとも)の命で「帝国国防方針」の原案を作成、以後軍事課長、軍務局長を歴任し、帝国在郷軍人会の組織、2個師団の増設などにあたり、軍政の中枢にあって手腕を発揮した。1915年(大正4)中将、参謀次長、1918年原敬(はらたかし)内閣の陸相に就任、シベリア出兵を遂行し、1920年...「歴史の回想・田中義一」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

  • 「歴史の回想・大隈重信」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

    大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パーク...「歴史の回想・大隈重信」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

  • 「歴史の回想・大隈重信」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

    大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パーク...「歴史の回想・大隈重信」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

  • 「歴史の回想・大隈重信」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

    大隈重信(1838~1922)明治大正期の政治家。佐賀藩士大隈信保,三井子の長男。7歳で藩校弘道館に入学したが,朱子学による教育や葉隠主義に不満を持ち,学制改革を試みて放校処分を受けた。のち蘭学寮に移って西欧の学問に接したのを機会に長崎に出て英学を学んだ。ここでアメリカ人宣教師フルベッキに会い,世界への眼を開かれ政治家になることを決心し,みずから英学塾を設けて青年を教育した。文久3(1863)年の下関外国船砲撃で長州藩援助を企て,翌年の長州征討では,藩主鍋島直正をかついで朝幕間に斡旋しようとしたが失敗,また慶応3(1867)年には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして脱藩上京したが,捕らえられ謹慎処分を受けた。明治1(1868)年3月徴士参与職,外国事務局判事として長崎に在勤,キリスト教徒処分で英国公使パーク...「歴史の回想・大隈重信」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

  • 「歴史の回想・浜口雄幸」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川・

    浜口雄幸はまぐちおさち(1870―1931)大正・昭和期の政治家。明治3年4月1日高知県で山林官水口胤平(たねひら)の三男として生まれ、同県の豪農浜口義立の養子となる。1895年(明治28)東京帝国大学政治学科を卒業後、大蔵省に入り、山形、松山、熊本など地方の税務管理(監督)局長を長く務めたのち、1904年(明治37)に本省に戻り、専売局に勤務した。第三次桂太郎(かつらたろう)内閣の逓信(ていしん)次官就任まで、もっぱら専売局にあって、専売事業の確立に努め、1907年には初代専売局長官に就任、専売局の基礎固めをした。その誠実な人柄と仕事ぶりを見込まれ、住友から重役就任を請われたこともあった。また後藤新平からは、後藤の台湾総督府民政局長就任のおりに台湾行きを、満鉄総裁就任のおりには満鉄入りの誘いを受けたが、断り続...「歴史の回想・浜口雄幸」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川・

  • 「歴史の回想・尾崎行雄」電子書籍紹介・グーグル・楽天

    尾崎行雄おざきゆきお(1858―1954)政治家。戸籍上は安政6年(1859)11月20日神奈川県生まれ。号は咢堂(がくどう)。慶応義塾、工学寮を中退。1879年(明治12)福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』主筆となる。ついで1881年統計院書記官となるが、明治十四年の政変(1881)で退官。翌1882年『郵便報知新聞』の論説記者となり、立憲改進党の結成に参加した。1887年、後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進したが、保安条例により東京から退去を命じられ、アメリカ、イギリスに外遊。1890年第1回総選挙に三重県から立候補して当選。以後1952年(昭和27)の総選挙まで25回連続当選し、63年に及ぶ議員生活を送った。日清戦争前後の尾崎は対外硬派の先頭にたって政府を攻撃、第二次松方正義内閣では外務省参事官、第一次大隈重...「歴史の回想・尾崎行雄」電子書籍紹介・グーグル・楽天

  • 「歴史の回想・頭山満」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

    頭山満とうやまみつる(1855―1944)国家主義者、大アジア主義者。安政(あんせい)2年4月12日、福岡藩士筒井家に生まれ、母の実家を継いで頭山と称す。初め矯志社(きょうししゃ)など不平士族の反政府運動に加わり、萩(はぎ)の乱で一時入獄。1878年(明治11)板垣退助(たいすけ)の影響で民権運動に投じ、翌年箱田六輔(ろくすけ)、平岡浩太郎(こうたろう)らと福岡で向陽社(のち共愛会)を設立、国会開設運動を行った。81年国会開設の詔勅が出ると、平岡らと共愛会を玄洋社と改め、民権論から離れて国権の伸張を主張、大アジア主義を唱えるようになった。以後、玄洋社の中心人物として対外強硬論を主張。井上・大隈(おおくま)の条約改正案への反対、第二次松方正義(まつかたまさよし)内閣の内相品川弥二郎(やじろう)のもとでの選挙干渉の...「歴史の回想・頭山満」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

  • 「歴史の回想・大川周明」電子書籍紹介・グーグル・角川。

    大川周明おおかわしゅうめい(1886―1957)日本ファシズム運動の理論的指導者。明治19年12月6日山形県に生まれる。第五高等学校卒業、東京帝国大学哲学科でインド哲学を専攻。その後もインド哲学の研究を続けたが、しだいに植民地インドの現状にも目を向け、植民史、植民政策の研究に重点を置くようになった。1918年(大正7)満鉄に入社、翌年から満鉄東亜経済調査局に勤務。また20年には拓殖大学教授となり、植民史、植民政策などを担当した。研究、調査に従事するかたわら、18年には満川亀太郎らとともに猶存社(ゆうぞんしゃ)を結成。北一輝(きたいっき)との意見対立がもとで脱退したが、24年には行地社(こうちしゃ)を創立して国家改造を目ざした。この間、日本社会教育研究所、およびこれを改組した大学寮で日本精神の研究、指導者の養成に...「歴史の回想・大川周明」電子書籍紹介・グーグル・角川。

  • 「歴史の回想・上海事変」電子書籍紹介・角川・グーグル・

    上海事変(しゃんはいじへん)日中間の戦争で、第一次、第二次にわたる。第一次目次を見る満州事変の際に起こった日中間の局地戦争。世界の耳目を「満州国」の設立工作からそらし、中国の抗日運動を抑えるための謀略工作から発した。参謀本部付少佐田中隆吉(りゅうきち)らは、関東軍参謀大佐板垣征四郎(せいしろう)らの依頼で中国人を買収し、1932年(昭和7)1月、日本人僧侶(そうりょ)を襲撃・死傷させ、抗日運動の中心地上海に険悪な情勢をつくりだした。この事件は、中国側当局が日本の抗議要求をのんで落着したが、日本海軍は日本租界に陸戦隊を配備し、28日中国軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地物を巧みに利用して陸戦隊を苦しめた。2月、日本政府は陸軍3個師団余を動員、激戦を展開した。上海は...「歴史の回想・上海事変」電子書籍紹介・角川・グーグル・

  • 「歴史の回想・広田弘毅」電子書籍紹介・グーグル・角川。

    広田弘毅(ひろたこうき)(1878―1948)昭和期の外交官、政治家。明治11年2月14日福岡県に生まれる。生家は貧しい石屋。若いとき玄洋社(げんようしゃ)に出入りし、その影響を受けた。東京帝国大学法科卒業後、外務省に入り、欧米局長、駐蘭(らん)公使を務め、1930年(昭和5)駐ソ大使となった。1933年9月斎藤実(さいとうまこと)内閣の内田康哉(うちだやすや)外相が辞任したのち外相となり、「満州国」の発達完成、「外侮を蒙(こうむ)ることなき」程度の軍事力の充実、外交手段による方針の貫徹などを内容とする新しい外交方針を決定した五相(首・外・陸・海・蔵)会議に参加した。1934年中国に対する欧米の共同援助に反対する方針などを固め、中国駐在の有吉明(ありよしあきら)公使に秘密裏に伝えたが、天羽英二(あもうえいじ)外...「歴史の回想・広田弘毅」電子書籍紹介・グーグル・角川。

  • 「歴史の回想・立憲民政党」電子書籍紹介・角川・グーグル・

    立憲民政党(りっけんみんせいとう)立憲政友会と並ぶ昭和前期の二大政党の一つ。1927年(昭和2)6月1日、憲政会と政友本党の合同により結成。総裁浜口雄幸(はまぐちおさち)、顧問若槻礼次郎(わかつきれいじろう)、床次竹二郎(とこなみたけじろう)。政綱に「議会中心政治の徹底」、「各種社会政策を実行」することを掲げた。28年2月の第1回普通選挙で与党政友会の217名に対して216名を当選させ勢力伯仲したが、8~9月床次派ら35名が脱党。29年7月田中義一(ぎいち)内閣の後を受けて浜口雄幸内閣を実現、緊縮財政と協調外交を二大方針に掲げ、産業合理化、金解禁を推し進めるとともに軍備縮小を図った。30年2月の総選挙では273名の絶対多数を得、ロンドン軍縮会議では軍部を抑えて条約締結に成功し、政党内閣の実質を示した。しかし軍縮...「歴史の回想・立憲民政党」電子書籍紹介・角川・グーグル・

  • 「歴史の回想・尼港事件」電子書籍紹介・角川・グーグル・

    尼港事件(にこうじけん)シベリア出兵中の紛争事件。1920年(大正9)2月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが3月12日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。5月日本の救援軍が尼港に向かうと、パルチザンは日本人捕虜と反革命派ロシア人を全員殺害し、市街を焼き払って撤退した。日本はこの事件を「過激派」の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し、反ソ世論を高めた。参謀本部はこれを利用して、アムール州からの撤兵を中止し、7月にはハバロフスク駐兵の継続を決め、またこの事件の解決をみるまで北樺太(からふと)を保障占領するとして、これを実...「歴史の回想・尼港事件」電子書籍紹介・角川・グーグル・

  • 「歴史の回想・副島種臣」電子書籍紹介・角川・グーグル・

    副島種臣(1828~1905)明治期の政治家。父は佐賀藩士,藩校弘道館教授枝吉忠左衛門,母は喜勢子。安政6(1859)年父が死去し,同藩士副島利忠の養子となる。号は蒼海,一々学人。嘉永3(1850)年兄の枝吉神陽を中心とする義祭同盟に大木喬任,江藤新平らと共に参加し,尊王論に傾倒。5年京都に遊学し,国学者矢野玄道らと交流。その間神陽の命を受け公家大原重徳に意見書を提出,青蓮院宮朝彦親王から佐賀藩兵上洛を求められる。帰藩後,藩兵上洛は藩主鍋島直正に退けられ,副島は藩校教諭を命じられた。元治1(1864)年長崎に行き米国人宣教師フルベッキに師事し,英学,米国憲法を学ぶ。慶応3(1867)年大隈重信と脱藩し江戸に行き,目付原市之進(水戸藩士)に大政奉還を説いたが,藩より謹慎処分を受けた。維新後長崎で対外折衝を担任,さ...「歴史の回想・副島種臣」電子書籍紹介・角川・グーグル・

  • 「歴史の回想・大逆事件」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

    大逆事件(たいぎゃくじけん)明治天皇の暗殺を計画したという理由で多数の社会主義者、無政府主義者が検挙、処刑された弾圧事件。幸徳事件ともいう。日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加え、1908年(明治41)6月の赤旗事件で堺利彦、大杉栄らの中心的人物を獄に送った。これ以後、実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、09年5月に幸徳秋水、管野すがらの創刊した『自由思想』も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。迫害に窮迫した彼らは急速に、直接行動・ゼネストによる革命の実現に突破口をみいだそうとし、とくに弾圧への復讐の念に燃えた管野は、宮下太吉、新村忠雄、古河力作とともに、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾に...「歴史の回想・大逆事件」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

  • 「歴史の回想・佐賀の乱」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

    佐賀の乱(さがのらん)1874年(明治7)2月佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1000余人が明治政府に反対して蜂起(ほうき)、鎮定された事件。士族反乱の一つ。73年8~10月の征韓論争の破裂後、佐賀県内には民権派など進歩派士族をも含めた征韓党と保守派士族を糾合した憂国党が結成された。翌74年1月征韓党は征韓論争後下野し、「民撰(みんせん)議院設立建白書」に署名して帰国した前参議江藤新平(しんぺい)を迎えて党首とし、また憂国党は、維新後北海道開拓使判官、侍従、秋田県令などを経て東京にとどまっていた島義勇(よしたけ)を迎えて2月14日党首とし、ここに両党は2月佐賀で反乱を起こした。政府は2月4日、鎮圧のため出兵を命令。13日、江藤らは「決戦の議」を発し、18日佐賀県庁を占拠した。しかし、政府が佐賀県下士族の...「歴史の回想・佐賀の乱」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天

  • 「歴史の回想・大正政変」電子書籍紹介・グーグル・

    大正政変(たいしょうせいへん)1913年(大正2)2月、第一次憲政擁護運動によって第三次桂(かつら)太郎内閣が倒れた政変。前年12月、2個師団増設要求がいれられず上原勇作(うえはらゆうさく)陸相が辞任、陸軍が後任陸相を出さなかったため、第二次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣は総辞職し、宮中に退いた内大臣桂太郎が組閣した。この事態は陸軍・藩閥の横暴と受け止められ、憲政擁護運動を興起させた。桂首相は従来のような政友会との妥協策をとらず、議会の停会を重ねながら新党(立憲同志会)結成によって事態を打開しようとしたが、民衆運動の激高、政友会の護憲運動への全面的参加のなかで孤立し、2月10日民衆が議会を包囲するなかで総辞職を決めた。民衆の政治的成長が背景にあり、長州閥と政友会の提携である桂園時代を終わらせるとともに、陸...「歴史の回想・大正政変」電子書籍紹介・グーグル・

  • 歴史の回想「高僧名僧・夢窓疎石」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    夢窓疎石(1275年~1351年)鎌倉時代から南北朝時代の臨済宗仏光派の禅僧。夢窓とは道号、疎石は諱。朴訥叟とも称した。伊勢の人。宇多天皇の9世の孫で、母は平氏。甲斐平塩寺で出家し、1292年(正応5)叔父明真を頼って奈良に赴き、慈観について受戒。やがて禅を学ぶために、建仁寺の無隠円範に参じ、1295年(永仁3)鎌倉に赴いて、無及徳前全、桃渓徳悟、痴鈍空性らに参じたのち、いったん建仁寺の無穏のもとに戻ったが、再び鎌倉に赴いて来日僧一山一寧に参じた。さらに奥羽に赴いて苦行を積んだのち、鎌倉の高峰顕日に参じて、ついにその法を継いだ。そののち甲斐国龍山菴、土佐国吸江庵、相模国三浦泊船庵、上総国退耕庵などに穏棲したが、1325年(正中2)春、後醍醐天皇の勅を受けて南禅寺に住した翌年。鎌倉の南芳庵を開き、浄智寺、瑞泉寺、...歴史の回想「高僧名僧・夢窓疎石」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「本多氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    本多氏の出自は、三河国の国人、江戸時代譜代大名・旗本家。左大臣藤原顕光11代目の助秀が豊後国本多に住してより本多を称し、12代助定の時足利尊氏に仕えたという。13代助政のあと定通家と定正家に分かれ、それぞれ三河で松平宗家に仕えた。歴史上著名な人物としては、定通家からは本多正信・本多忠勝が、定正家からは「徳川四天王」の一人とされた父子が出ている。正信の家は、元和8年(1622)正純の改易で絶えたが、本多氏全体としては、江戸時代には多くの大名・旗本の家に分かれた。大名として明治に至ったのは、定通家からは、三河国岡崎藩本多氏、正信を祖とする播磨国山崎藩本多氏、忠以を祖とする陸奥国泉藩本多氏、正時を祖とする近江国膳所藩本多氏、忠恒を祖とする伊勢国神戸藩本多氏、忠相を祖とする三河国西端藩本多氏の大名家6家が、定正家からは...歴史の回想「本多氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「武田信玄の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    武田信玄(1521年1573年)甲斐の戦国大名。武田信虎の長男。通称は太郎。名は将軍足利義晴の偏諱をうけて武田晴信、出家して信玄と号した。官途受領は、大膳大夫、信濃守。はじめ扇谷上杉朝興の女としたが早世したため、1536年(天文5)京都の公家三条公頼の女を性質に迎えた。1541年6月、父武田信虎が今が義元に嫁いだ自分の女に会いに行ったとき、甲斐・駿河の国境を閉鎖し父を追放自ら武田氏を継いだ。その翌年には信濃を侵略して諏訪頼重を攻め、偽って講和したうえで頼重を殺害した。その後、頼重の女を側室に迎え、この側室との間に後に家督を継ぐ武田勝頼が生まれている。1547年「甲州法度之次第」26か条を制定して領国支配の規範としたが翌年2月14日、信濃上田原戦いで村上義清と戦って敗れ、かつて、同じ年、塩尻峠・勝弦峠の戦で小笠原...歴史の回想「武田信玄の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「日本神道の神々」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞穴や奇岩、巨木に巨大岩石に峻険な峰々に精霊を感じ信仰されていった。また大自然の海や川、山岳に畏敬の念をもって祀られていた。それぞれの地域に集団で氏族が形成され、一族の崇敬する祭神が氏族の団結を高めていき、古神道が生まれていった。『記紀』が成立し、神話の世界から天地創造の神々が生まれ、いち早く地方へと神々の伝播されていった。仏教伝来と同時に、時代を経て融和、同化していった。それが「神仏習合であった。千年以上も神仏習合の歴史文化が明治維新の神仏分離令を持って、分別されていった。今や神社数、仏教寺院数はほぼ同じ勢力を持って棲み分け作って共存している。再び過去の日本神道は振り返って神道はどう進化と変化をしてきたか検証し...歴史の回想「日本神道の神々」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「日本仏教十三宗諸派総覧」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「十三宗五十六派」とは、宗教団体法が施行される、昭和15年(1940)以前に日本の仏教の成立から見て、教義・歴史・伝統がその根本にある宗派のことである。仏教歴史上、古代時代・中世時代・近世時代に立宗し日本を代表し存続し影響し続けた仏教宗派である。「十三宗」とは、それぞれの宗旨のことである。「五十六派」とは、それぞれの分派のことである。宗教学上で仏教の伝統宗教と定義されるのは、この五十六宗派に基づく。また、歴史教科書に書かれる鎌倉祖師たちの宗名は宗旨のことである。ただし、法相宗、華厳宗、律宗、融通念仏宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗は、宗派に分かれていないため、宗旨と宗派が同一である。また天台宗・浄土宗・日蓮宗のように宗派名が宗旨名と同一の場合でも、他派を従属するものではなく、本末・包括関係もない。「十三宗五十六派」と言...歴史の回想「日本仏教十三宗諸派総覧」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「九条家一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    藤原北家の嫡流。五摂家の一つ。関白藤原忠通の三男藤原兼実に始まる。家号は兼実の殿第が京都九条にあった。この事に由来し、坊名の陶化坊から陶化とも称す。鎌倉初期。兼実は源頼朝の後援を受けて摂政、氏長者、兄基実の興した近衛家・九条家の両家に分かれた。その後、兼実の孫九条道家の代に、頼経・頼嗣ら摂家将軍の父祖として鎌倉幕府と結んで家門が隆盛し、その3人の子息教実九条、二条良実、一条実経が相次いで摂政・摂関に任じられ、九条家からは二条家、一条家から両家が分立した。また、この時期に近衛家からは鷹司家が分かれたために、摂関家は近衛・九条・鷹司・二条・一条の五家となり、いわゆる五摂家が成立した。以後、九条家は他の摂関家と共に公家社会再興の意を占めて明治維新に及び家族に列した。それぞれ爵位を授けらえた。歴史の回想「九条家一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「日本人の釈迦仏と阿弥陀仏」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    日本歴史の三大要因の一つに仏教伝来がある。6世紀半ば欽明天皇の時代に百済から仏教が伝わったと言うのが一般的である。仏教は紀元前5世紀頃インドの仏陀に端を発し、中国、朝鮮半島などを経て伝わった。インド中国と経て来る内にバラモン教に影響を受けた諸仏なども加わって、多種多様の諸仏が形成されて伝わった。中でも、実在したと言われる釈尊(仏陀)と大乗仏教で重要な尊像の一つの阿弥陀如来の無量寿如来・無量光如来という、西方極楽浄土に有って衆生を救済するという阿弥陀如来は釈迦如来に次いで古く形成され、中国に伝わり、やがて日本に伝わって我が国の仏教に大きな影響を与えた。釈迦如来の法華経を元に影影響を受けた日蓮宗や法華宗に、釈尊から何代も伝承された達磨によって禅宗が形成確立された。釈迦仏と阿弥陀仏がインドでどう形成され、小乗仏教とし...歴史の回想「日本人の釈迦仏と阿弥陀仏」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「松平氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    中世後期の三河国の武家、近世の大名・旗本、惣領家は永禄9年(1566)に徳川と改名し後に江戸時代の将軍となり、一族の多くが大名・旗本となった。江戸幕府官選の「朝野旧聞裒藁」によると足利氏の迫害をうけた清和源氏新田氏の庶家徳川氏の末裔が、本貫地上野国新田郡徳川郷を退去して時宗の僧となり、諸国を流浪し、親氏が三河国加茂郡松平郷の松平信重の娘婿となったという。新田氏の末裔説は後世の付け合わせであるが、遍歴僧婿入り話は地元の伝承見て事実とみて良い。2代泰親は15世紀前半に額田郡岩津に進出し、3代信光は室町幕府の政所執事伊勢貞親の被官となっており、額田郡など将軍直管領の下代官で、寛正6年(1465)額田郡一揆鎮圧や応仁・文明の乱における三河での戦功により、岡崎・安城などの領地として給封されたという。次代は伊勢氏低に出仕し...歴史の回想「松平氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「鍋島氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「鍋島氏」(なべしまうじ)近世大名、肥前佐賀藩主の家系に連なる一族。藤原秀郷流、少弐氏の子孫とも伝えられる。14世紀末京都北野から、肥前国佐賀郡鍋島村に土着した長岡宗元に由来しる。北九州の豪族龍造寺氏の家臣として、16世紀中ごろより頭角を現す。龍造寺隆信に仕えた鍋島直茂(なおしげ)は、大友・有馬らとの抗争で戦功をあげ、1584年(天正12年)の隆信戦死後は、その子政家(まさいえ)を補佐した。一方、九州に支配を広げた。実権は鍋島直茂に移って行った。その後、龍造寺氏の家督を相続鍋島体制が確立した。本藩鍋島氏は35万7千石余、豊臣秀吉とも独自に誼を通じて、豊臣氏直轄領長崎の代官に任じられるなど重用され、朝鮮侵略に際しては、加藤清正とともに先鋒を務めた。1590年に政家が隠居するとともに、直茂はその子高房を補佐し、事実...歴史の回想「鍋島氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想・南部七族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    平安末期以来の武家。甲斐国巨摩郡南部郷を名字の地とした清和源氏加賀美遠光三男の南部光行を始祖とする。鎌倉期には、御家人として陸奥、但馬その他各地に所領を与えられ、また得宗御内人となった一族もいた。甲斐南部は室町期まで確認できるが、著名なのは、日本最北、最大の郡であり駿馬の産地として知られている陸奥国糖部郡に依存した奥州南部氏である。一戸から九戸まで郡内区画を各々名字とし、南北朝には八戸、室町・戦国期には三戸の南部信直は豊臣秀吉から糖部、岩手、鹿角、閉伊、斯波、久慈、遠野の七郡を安堵、さらに稗貫、和賀の二群を加えられ、近世の盛岡藩・八戸藩・七戸藩の祖となった。歴史の回想・南部七族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「武田氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    武田氏は中世武家の源義家の弟新羅三郎義光を祖とする。義光の長男義業が常陸国佐竹郷を本拠として佐竹氏の祖となり、三男の義晴が同国那珂郡武田郷を与えら「武田冠者」と呼ばれた。しかし武田義清は常陸大掾市の一族吉田氏らの在地武士団と衝突、告訴されて開国市河に配流され子の清光と共に甲斐に移住した。その後、巨摩郡北部の逸見郷に入り、辺見氏と名乗り、長男光長がこれを継ぎ、次男武田信義が武田氏を継ぐことになった。信義は源頼朝の挙兵に応じその戦功で駿河守護に補任された芳賀、長男一条忠頼が頼朝によって誅殺されたので、五男の石和信光が武田嫡流家を継ぎ武田信光(1162~1248)と呼ばれた。信光は承久の乱にあたって甲斐一国の兵を率いて出陣していることから、甲斐守護だった可能性が高い。またこの時の戦功で安芸国の守護も与えられた。この安...歴史の回想「武田氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・日露戦争」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    日露戦争は韓国(朝鮮)と満州(中国東北地域)との支配権をめぐって日本と帝政ロシアとが行った戦争。明治37年(1904)2月8日に始まり、7明治37年(1905)9月5日に終結した。「東アジアをめぐる情勢」日清戦争では日本は清国の勢力を朝鮮半島から追い、支配圏の拡大を図ったが、大国ロシアとの対立に直面し、ロシアの挑戦に対する政治的・軍事的・経済的影響力は日本を凌いだ。一方、19世紀末期から申告に対する欧米列強の分割競争が本格化していった。朝鮮の支配権争いも清国を中心舞台とした東アジア全体の列強による分割競争の一環に組み込まれてていった。これに対して深刻では1900年に義和団運動という大規模な反侵略の民衆蜂起が起こり、日本も含めて列強8か国の連合軍を送って鎮圧戦争を遂行した。とりわけ大軍を満州地域に送り込んだロシア...「歴史の回想・日露戦争」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・宝治合戦」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    宝治合戦1247年(宝治元年)6月、相模の有力御家人三浦泰村一族が執権北条時頼、安達景盛らによって滅ぼされた事件。三浦氏の乱ともいう。三浦氏は幕府創業の功臣であり、泰村も執権泰時の女を娶るなど代々北条氏と婚姻関係を結んで、相次ぐ内乱を生き抜いてき、相模・武蔵においては北条氏に比肩しうる最後の武家であった。泰村の弟で評定衆として幕府政治に関わってきた光村は、1246年(寛元4)名越光時の京都送還後も、頼経に心を寄せ時頼打倒を画していた。この動きを知った時頼の外祖父景盛は、出家先の高野山から鎌倉に戻り、19歳で執権についたばかりの時頼と謀って、光村処分を打ち出して三浦氏を挑発し、ついに、子義景・孫泰盛とともに泰村一族を滅ぼした。源頼朝の墓所法華堂で泰村とともに自殺した者500人を超え、諸国で三浦氏の与党が討伐された...「歴史の回想・宝治合戦」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「平清盛の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    平清盛(1118年~1181年)平安後期の武将。最初の武家政権の樹立者。刑部卿平忠盛の嫡子、実は白河法皇院の落胤。母は白河法皇の身辺の女性で、懐妊後忠盛の妻として下賜され、1118年(元永元)1月18日に生まれたのが清盛である。これに関して母を祇園の女御もしくは彼女を妹とする伝承があるが、根拠がない。居館が六波羅にあり、武家として初めて太政大臣従1位に昇ったので、六波羅殿、六波羅入道・平相国・平禅門などと呼ばれた。清盛は祖父正盛・父忠盛が院の近習として、また院政の武力的支柱として政界に地歩を築いたのを受けて、発展させた。保元の乱では後白河天皇方として勝利に導いた、乱後は藤原通憲(信西)と組んで勢力を伸張。平治の乱では源義朝らを破り、その後は圧倒的な軍事力を背景に、中央の政局を左右する政治勢力に成長した。清盛は、...歴史の回想「平清盛の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「畠山忠重の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    畠山重忠(1164年~1205年)鎌倉前期の御家人。父は畠山重能、母は三浦義明の女。武蔵野国男衾郡畠山荘をを本拠とする。畠山庄司次郎と称した。源頼朝挙兵の当初は、頼朝軍に敵対して三浦氏を攻撃したが、後に服属、平氏追討に功があった。同国菅谷に居館を構え、頼朝より武蔵国留守居守所検校職を任じられなど、武蔵を代表する武士であった。北条時政の女との間に重保が生まれている。1205年(元久2)時政の調略により謀反の嫌疑をかけられ、武蔵国二俣川で幕府軍と戦い、敗れ戦死した。公正無私にして武勇に優れた鎌倉武士の典型とされ、数々の器が残されている。歴史の回想「畠山忠重の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「豊臣秀次の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    豊臣秀次(1568年~1595年)安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の甥。通称孫七郎。父は三好吉房、母は秀吉の母の姉。1584年(天正12)小牧・長久手の戦に出陣し、敗れて有力家臣を失い、秀吉に叱咤された。しかし、翌年秀吉から近江に43万石の領知と山内一豊以下4名の宿老を付与され、八幡山に城を築いた。1590年秀吉の東国平定に際しては尾張清洲城に入り、宿老たちは東海道の要所に進出、豊臣政権の対東国最前線に配置された。実子に恵まれなかった秀吉が関白になると、羽柴秀長らとともに昇殿、1586年の右近衛中将から中納言、内大臣、左大臣と昇進。1591年には関白職を譲られ、後継者の地位についた。1593年(文禄2)秀頼が生まれると、実情は一変し、太閤として実権を握る秀吉と関白秀次権力との間に矛盾が表面化し、尾張の蔵入り地に太閤...歴史の回想「豊臣秀次の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「蜂須賀小六の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    蜂須賀小六〈正勝〉(1526年~1586年)戦国の武将。幼名小六、のちに彦右衛門尉。尾張国海東郡蜂須賀の土豪蜂須賀正利(1504年~1553年)の子に生まれる。美濃の斎藤道山、ついで尾張の織田信賢・信清に仕え、のちに信長に従い桶狭間の戦に参戦。1564年(永禄7)豊臣秀吉に従い美濃攻めに参加、墨俣築城に功を立てて以降秀吉に直臣として近江、越前、播磨、中国筋に転戦した。播磨龍野の城主として5万3000石を拝領。1582年(天正10)備中高松攻めに尽力した。山崎の戦い、賤が嶽の戦に功あり。秀吉より大阪在住料として5000石加増1585年。四国平定の功により阿波を与えられるが辞退し、子の家政にが代わって阿波国一国を封ぜられた。翌年、大坂の邸にて没する。歴史の回想「蜂須賀小六の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・二・二六事件」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    二・二六事件は昭和一一年(1936)早朝、東京で起こった陸軍の反乱事件。陸軍第一師団下の歩兵第一・第三連隊を主力とした将校20名、下士官88名、兵1375名などが総理大臣岡田啓介、内務大臣斎藤実(即死)大蔵大臣高橋是清(即死)教育総監渡辺錠太郎(即死)らを急襲、さらに別動隊は神奈川県湯が原町で前内大臣牧野伸顕を急激した。蜂起部隊は永田町・三宅坂一帯を占拠し、政治の中枢機能は完全に麻痺した。収集を急ぐ陸軍大臣川島義之は宮中の協議の結果、この日の午後3時30分「陸軍大臣告示」を決起舞台に下達した。そこのは「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノと認ム」と記され、状況は決起部隊に有利に展開したかに見えた。しかし、翌27日午前8時50分、東京市には戒厳令が施行され、28日午前5時8分には「反乱軍」の原隊復帰を命ずる「奉勅...「歴史の回想・二・二六事件」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「前田利家の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    前田利家(1538年~1599年)織田信長取り立て大名で加賀藩藩祖。尾張国愛知郡荒子村の土豪前田利春の四男。幼少より信長に仕え、軍功を上げ赤母衣衆に列し、1575年(天正3)柴田勝家の越前一国拝領の際、府中三人衆の一人として武生府中城に入った。加賀一向一揆の壊滅後は、1581年、能登一国を拝領し七尾小丸山城に移り、越後上杉の戦いに従事した。本能寺の変で信長が倒れたあと、柴田勝家と行動を共にしたが1583年の賤ケ岳の戦いの最中、秀吉に寝返り、北加賀2群を加増され金沢城に移り秀吉政権を支えた。1585年の秀吉の越中出兵に出陣、佐々成正を富山城を破り、翌年上洛し従四位下筑前守となる。1590年の小田原攻めにも従軍し伊達氏・南部氏の意向を秀吉に取り次いだ。1592年(文禄元)の文禄の役では肥前名護屋城在陣し、秀吉渡海の...歴史の回想「前田利家の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「武田勝頼の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    武田勝頼(1546)年~1582年)甲斐・信濃・駿河の戦国大名。武田信玄の四男として生まれる。幼名は伊奈四郎。母は諏訪頼重の女。信玄は当初勝頼に諏訪惣領家を継がせようと思っていた。「甲陽軍鑑」によれば、1562年(永禄5)勝頼を伊奈郡代・高遠城主としている。のち兄義信の幽閉・自刃によって、信玄後継者として遇され、信長の養女と結婚、1571年(元亀2)には高遠から甲府に戻り、1571年(天正元)の信玄の死によって家督を継いだ。しかしその後織田信長・徳川家康と対立、1575年の三河長篠の戦いで大敗を喫しした後は次第に領国を縮小させていった。1582年、離反した木曾義昌救援に赴いた信長勢に責められて、天目山麓の田野で、妻(北条氏康の女)とともに自害し、武田氏は滅亡した。歴史の回想「武田勝頼の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・日清戦争」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    明治27年(1894)一年間、日本が清国と戦った戦争。「政治危機下の日本」1894年5月、朝鮮では東学奉ずる農民の蜂起(甲午農民戦争)により全羅道の首府全州が陥落した。朝鮮政府は宗主国の清国に救援を求め、清国はそれに応じた。天津条約(1885年)の規定によりその通告を受けた日本政府は、議会で内閣不信任案が可決された政治的危機に直面していたため、世論転換のために公使館と在留邦人保護を名目に川上操六参謀本部次長と陸奥宗光外相の謀議により混成旅団を出兵を決定した。内閣が宣戦を決議する以前の平時にもかかわらず戦時大本営条例により大本営を設置、参謀総長が用兵の全権を握り出兵した。両国の派兵で擾乱は収まり、清国代表の袁世凱も日清同時に撤兵を提案したが、陸奥外相は膨大な経費を要いて出兵したからには何らかの権利を得ないまま撤兵...「歴史の回想・日清戦争」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「北条早雲の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    北条早雲は室町から戦国時代の武将。小田原北条氏の祖。北条早雲は俗称で、本来の名字は伊勢氏で伊勢新九郎と称した。「早雲」早雲庵瑞の庵号、入道ののちは早雲庵宗瑞または伊勢宗瑞と称していた。実名は長氏、氏茂と伝えるが確実な資料はない。早雲の出自は備中伊勢氏設、京都伊勢氏、伊勢国出身説などがあるが、近年の研究で、備中の伊勢盛定の子盛時の後身とする説が有力視されている。伊勢盛定は、伊勢氏の一族で備中国荏原郷(現岡山県井原市)を所領した備中伊勢氏の庶子で、本宗家である京都伊勢氏の貞国の女を室とした。盛時は盛定の次男であったという。上洛して足利義視に仕え、伊勢を経て駿河今川の下に下向し、1476年(文明8)義忠没後の今川家の家督争いに姉北川殿、義忠嫡子今川氏親を支持し、小鹿範満の野望を抑え、調停に成功した。その任を果たして上...歴史の回想「北条早雲の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「筒井氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    中世の武家。興福寺成身院の家元。本拠は大和国添下郡筒井平城(現大和郡山市)代々興福寺の官符衆徒に任じ、一条院門跡の坊人となる。出自については諸説があるが、未詳。南北朝内乱末期から台頭。官符衆徒の棟梁として活躍する一方、いわゆる大和武士として、大和の制圧を目指して越智氏らと鋭く対立した。大和にも影響力も大きい河内守護畠山氏に分裂が起きると筒井順永と兄の成身院宣(1390~1469)が畠山政長を強力に支援以降も代々政長を支持して、畠山義就流を支持する越智氏らと抗争を繰り返した。天正4年(1576)筒井順慶は織田信長から大和一国の支配を任され、郡山に築城。その後、家臣の対立でお家騒動、改易、後継者に恵まれず、不遇な戦国の世に生きたが、しかしも定次の世で理不尽にも、豊臣秀吉によって伊賀上野城に転封させられ、大坂の陣後は...歴史の回想「筒井氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「島津氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    鎌倉時代より江戸時代に至るまで南九州の大名家。島津藩主,始祖島津忠久は惟宗姓を名乗り、摂関家近衛家の家司であった。比企氏との縁で源頼朝に重用され、近衛家領島津荘の総地頭に任じられた。建仁3年(1203)の比企氏の乱で薩摩一国守護・地頭に留まったが、鎌倉幕府の滅亡後は、大隅の守護職に任じられ回復した。南北朝時代島津貞久は三男島津師久に大隅の守護職を譲った。前者師久は官位上総介から総州家と呼ばれ、後者氏久の官職が陸奥守で奥州家と呼ばれた。日向三国守護職を有し、鹿児島清水城を本拠とした。忠国以降の一族の反乱、国一揆に苦しみ忠昌は天文5年(1535)国外に退去し自殺した。その後養子となった相州家、島津忠良の子島津貴久が三州の統一を推進し、その子島津義久から島津義弘は伊東・大友・相良・龍造寺氏らを破って九州一円に勢力を拡...歴史の回想「島津氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「島津義久の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「島津義久」(1533年~1611年)戦国大名、島津家16代、島津隆久の長男。幼名虎寿丸、通称又三郎、はじめ忠良。1552年(天文21)将軍足利義輝より諱を賜り義辰と称し、後に義久に改名。1566年(永禄9)家督を継ぐ。1577年(天正5)伊東義祐を破り、薩摩・大隅・日向を統一。1585年弟義弘を守護代として九州統一を進めたが、豊臣秀吉の九州平定にあい、1587年5月、剃髪して竜伯と号し降伏した。関ヶ原の戦後、徳川方と折衝し、1602年(慶長7)4月家康より薩摩・大隅・日向緒県郡の本領を安堵された。歴史の回想「島津義久の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「沖田畷の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

    肥前の龍造寺氏は、もともと少弐氏の被官であった。龍造寺隆信が家を継ぐと、主家を少弐氏を滅ぼし独立、異父弟の鍋島直茂、四天王と讃えられた百武賢兼・成松信勝・円条寺信胤・倉町信俊らの勇猛な家臣の活躍で、筑前・筑後・肥後に勢力を伸ばしていった。龍造寺隆信は「肥前の熊」と称されるほど武勇に優れた武将であった。しかし、隆信は武勇・知略には長けていたものの、残忍な性格も併せ持ち、新参の武将のなかには彼に心服していない者も少なくなかった。天正九年(1581)、北進を目指す島津氏は肥後の相良氏を降し、肥後に勢力を伸ばしてきた。これをみた肥前島原領主の有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じた。これを知った隆信は、嫡子政家に有馬討伐を命じたが、有馬氏は政家の妻の実家ということでもあり、有馬氏討伐は遅々として進まなかった。これにし...歴史の回想「沖田畷の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

  • 歴史の回想「後鳥羽上院と北条執権」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    後鳥羽天皇(1180年~1239年)鎌倉初期の天皇。1183年~1198年在位。高倉天皇の第四皇子。母は坊門信隆の女の七条院藤原殖子。一一八三年(寿永2)安徳天皇が平家とともに都落ちしたため、祖父の後白河法皇に選ばれて即位した。これは同母兄に守貞親王が平氏に連れ去られたことによるものであり、守貞が生還し、さらに1192年(建久3)後白河上皇死去したのち、その立場は微妙であった。1198年源頼朝の異議を退け、19歳の若さで長男の土御門天皇に譲位。これによって彼の権威はようやく確立される。ついで直系継承者に三男(順徳天皇)を選び、1200年(正治2)これを皇太弟に縦1210年(建保6)順子の子(仲恭天皇)を立太子させ皇位継承を自らの意思で進めた。この間に、貴族社会が家格の秩序を確立する趨勢に乗り、九条家を近衛家と並...歴史の回想「後鳥羽上院と北条執権」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・信長包囲網」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「はじめに信長包囲網」(のぶながほういもう)は、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことをいう。永禄11年(1568年)2月8日、三好三人衆・阿波三好家と、松永久秀・三好家当主三好義継の権力抗争が続く中、戦いを優勢に進める三好三人衆方の推挙により阿波公方・足利義栄が第14代征夷大将軍(将軍)に就任した。しかし、室町幕府第13代将軍足利義輝の弟義昭は、これに抗い、同年9月、織田信長の軍事力を背景に上洛を果たし、同年10月2日、三好三人衆と阿波三好家の軍勢を阿波に追いやった。一方の松永久秀と三好義継は織田家に降った。10月18日足利義昭は第15代将軍に就任し、これにより、織田信長は将軍の後見人として権勢を振るうことになった。永禄12年(1569年)1月、三好三人衆と三好笑岩が和泉に上陸、...「歴史の回想・信長包囲網」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「三木合戦」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「三木合戦の概要」秀吉が播磨征伐に着手したのは、天正5年(1577)の秋。西播磨の拠点・上月城や福原城を攻略し、播磨はまたたくまに平定されました。ところが、翌年3月、それまで織田方として活躍してきた三木城主・別所長治が、突如、離反。織田方と敵対関係にあった西国の毛利氏に寝返ります。それに呼応して播磨の諸勢力が次々と毛利方に寝返り、播磨における秀吉の優勢は一挙に後退してしまいました。このエピソードからは、長治の発言力がいかに大きかったかがうかがえるでしょう。それもそのはず。別所氏は、中世以来、播磨国の守護大名として君臨してきた赤松氏の流れをくむ名門氏族。応仁の乱の後、赤松家臣団のなかから別所則治が頭角を現し、就治の代には東播磨を基盤として主家をしのぐほどの勢力を築きあげました。長治離反の折、特に東播磨の諸勢力がこ...歴史の回想「三木合戦」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

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    「三木合戦の概要」秀吉が播磨征伐に着手したのは、天正5年(1577)の秋。西播磨の拠点・上月城や福原城を攻略し、播磨はまたたくまに平定されました。ところが、翌年3月、それまで織田方として活躍してきた三木城主・別所長治が、突如、離反。織田方と敵対関係にあった西国の毛利氏に寝返ります。それに呼応して播磨の諸勢力が次々と毛利方に寝返り、播磨における秀吉の優勢は一挙に後退してしまいました。このエピソードからは、長治の発言力がいかに大きかったかがうかがえるでしょう。それもそのはず。別所氏は、中世以来、播磨国の守護大名として君臨してきた赤松氏の流れをくむ名門氏族。応仁の乱の後、赤松家臣団のなかから別所則治が頭角を現し、就治の代には東播磨を基盤として主家をしのぐほどの勢力を築きあげました。長治離反の折、特に東播磨の諸勢力がこ...歴史の回想「三木合戦」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「江口の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

    「江口の合戦の概略」三好政長は三好氏の惣領・三好元長に従い、元長が大永7年(1527)に足利義維・細川晴元を擁して和泉国堺に新政権(いわゆる堺幕府)を発足させるに際して軍事的中核を担い、いわば堺幕府樹立の功労者であった。その堺幕府から元長が離脱した大永8年(=享禄元年:1528)以後は三好一族の長老格として晴元の参謀格となり、一貫して晴元に付き従っている。元長死後の三好氏惣領はその嫡男・三好長慶が継承し、天文3年(1534)より幕府に出仕しているが、長慶と政長は不仲であった。長慶と政長の対立は根深い。長慶の父・元長は享禄5年(=天文元年:1532)6月に畠山義堯に与して木沢長政・一向一揆の連合軍と戦って敗死したが(飯盛城の戦い、顕本寺の戦い)、この抗争に際して晴元は木沢陣営を支援していたため、長慶にとって晴元お...歴史の回想「江口の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

  • 歴史の回想「蟹江合戦」伝」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「蟹江城合戦の概略」「蟹江城は、愛知県海部郡蟹江町にある平城である。城の名前の由来としては、この付近は蟹(カニ)がたくさんいたそうで、カニがいる入江ということで蟹江と呼ばれたらしい。最初の築城は永享年間(1429年~1440年)で、北条時任が砦を築いたのがはじまりとされます。北条時任は鎌倉幕府最後の執権・北条高時の孫とされいる。その後、北条時任は愛知郡横江村に移って、子孫は海西郡の赤目城を本拠とし、横井氏を称ししたらしい。ただし、渡辺源十郎が最初に築城したとする説もあるようある。その昔、蟹江は海に面しており、熱田、津島と並んで、尾張有数の港町であった。戦国時代になると拠点化され、本丸、二の丸、三の丸の三郭で構成されていった。また、大野城、下市場城、前田城と3つの支城にて防衛網を構成していった。織田信秀が没すると...歴史の回想「蟹江合戦」伝」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想・石橋山の戦い」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「石橋山の戦いの概略」鎌倉幕府を開いた事で知られる源頼朝の父である源義朝は、源氏の頭領として平家に挑みますが、1159年平治の乱で敗れて殺害され、勝利した平清盛は、三男であった源頼朝を伊豆に流罪とします。そして、流刑の地である伊豆にて北条時政の娘・北条政子を妻とした源頼朝は、やがて平家打倒の挙兵を決意し、以仁王の令旨を受けて1180年8月17日に伊豆目代の山木兼隆を討ちます。その後、源頼朝は北条時政、北条義時、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐奈田義忠、大庭景義、佐々木四兄弟、加藤景廉、仁田忠常らを従えて相模を目指して進軍開始しますが、僅か300騎程度と言いますので、総兵数にすると約1200名と言ったところでしょうか?兵力が少なかったため、三浦半島の三浦義澄、和田義盛ら500騎を頼りにし、三浦一族は合流すべく軍を...歴史の回想・石橋山の戦い」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「新羅の入冠」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    弘仁の新羅の賊弘仁2年(811年)12月6日、新羅船三艘が対馬島の西海に現れ、その内の一艘が下県郡の佐須浦に着岸した。船に十人ほど乗っており、他の二艘は闇夜に流れ、行方が分からなくなった。翌12月7日未明、灯火をともし、相連なった二十余艘の船が島の西の海中に姿を現し、これらの船が賊船である事が判明した。そこで、先に着岸した者のうち五人を殺害したが、残る五人は逃走し、うち四人は後日捕捉した。そして、島の兵庫を衛り、軍士に動員をかけた。また遠く新羅(朝鮮半島方面)を望み見ると、毎夜数箇所で火光が見えると大宰府に報告された。大宰府は、事の真偽を問う為に新羅語の通訳と軍毅等を対馬島へ派遣し、さらに旧例に准じて要害の警備につくすべき事を大宰府管内と長門・石見・出雲等の国に通知した。弘仁4年(813年)2月29日、肥前の五...歴史の回想「新羅の入冠」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「上杉氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    中世から近世の武家。勧修寺流藤原氏。上杉重房が丹波国阿鹿郡上杉荘を領したにはじまる。重房は宗尊親王に従って鎌倉に下向、子頼重の娘上杉清子が足利貞氏に嫁いで尊氏と直義を生んで以降、一族は足利氏に重用され繁栄する。頼重の子重顕が扇谷を、重顕が扇谷を、重顕の弟憲房の子重能、憲藤、憲顕がそれぞれ宅間、犬飼、山内を称する。貞治2年(1363)に復帰して以来、一次的を除き関東管領を独占した。宅間家は早くに衰退し、犬飼家(上杉家)は応永23年(1416)鎌倉公方足利持氏に対して謀反を起こし自害した。(上杉弾正の乱)山内家(上杉家)は上野と北武蔵を勢力圏にし、両家は15世紀半以降衝突を繰り返した。天文15年(1546)武蔵川を越で扇谷朝定と山内憲政が連合して北北条氏康の軍勢と戦うが敗れ、扇谷朝定が戦死した。山内憲政は長尾景虎(...歴史の回想「上杉氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・永享の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    永享の乱は、鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲実、将軍足利義教と展開した抗争。鎌倉府は氏満の頃から自立性を強め幕府と関係を悪化させていたが、持氏は上杉禅秀の乱を機に東国大名、国人への圧力を強める一方、奉公衆の整備や結城・佐竹氏らとの連携を強めた。これに対して幕府は持氏が圧迫する大名、国人を京都扶持衆として支援、憲実は守護領国支配を基盤に自立的動きをとり持氏氏と対立を深めた。1438年(永享10)持氏は嫡子の元服将軍を偏諱を拝領する前例を無視、これを諫めた憲実は危機を感じて本国上野へ退避したため、持氏の追討を受け幕府に援軍を求めた。将軍義教が関東・奥羽に持氏追討を命じと、憲実は今川、武田、小笠原氏らと関東に出陣、持氏は抗しきれず剃髪し永安寺に入った。翌年2月、持氏は幕府軍に攻撃を受けて自殺。1年余りのち、持氏の遺児...「歴史の回想・永享の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・平治の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    平治の乱(1159年平治元)に京都に起こった争乱。後白河天皇藤原通憲(信西)は保元の乱後の朝廷を主導し、保元新制発布、記録書設置、大内裏復興など、目覚ましい活躍をした。しかし、1158年(保元3)に後白河天皇の子二条天皇に譲位すると、院の寵愛を受けた藤原信頼、二条天皇親政を目指す藤原経宗らによって反信西派が形成されていった。一方、保元の乱の後白河天皇も武力中心であった平清盛と源義朝と義朝の間に確執が生じていた。1159年12月4日に清盛が熊野詣に出立すると、信頼・義朝は9日夜半に内裏、院御所派の協力のもとに院と天皇を幽閉した。脱出した信西は宇治田原の山中に自害し、その首は京都で獄門にかけられた。急遽帰京して、16日の夜半六波羅邸に入った清盛は、信頼に名簿を提出して恭順の意を表したが、天皇側近の経宗・惟方と密かに...「歴史の回想・平治の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

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    平治の乱(1159年平治元)に京都に起こった争乱。後白河天皇藤原通憲(信西)は保元の乱後の朝廷を主導し、保元新制発布、記録書設置、大内裏復興など、目覚ましい活躍をした。しかし、1158年(保元3)に後白河天皇の子二条天皇に譲位すると、院の寵愛を受けた藤原信頼、二条天皇親政を目指す藤原経宗らによって反信西派が形成されていった。一方、保元の乱の後白河天皇も武力中心であった平清盛と源義朝と義朝の間に確執が生じていた。1159年12月4日に清盛が熊野詣に出立すると、信頼・義朝は9日夜半に内裏、院御所派の協力のもとに院と天皇を幽閉した。脱出した信西は宇治田原の山中に自害し、その首は京都で獄門にかけられた。急遽帰京して、16日の夜半六波羅邸に入った清盛は、信頼に名簿を提出して恭順の意を表したが、天皇側近の経宗・惟方と密かに...「歴史の回想・平治の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

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    平治の乱(1159年平治元)に京都に起こった争乱。後白河天皇藤原通憲(信西)は保元の乱後の朝廷を主導し、保元新制発布、記録書設置、大内裏復興など、目覚ましい活躍をした。しかし、1158年(保元3)に後白河天皇の子二条天皇に譲位すると、院の寵愛を受けた藤原信頼、二条天皇親政を目指す藤原経宗らによって反信西派が形成されていった。一方、保元の乱の後白河天皇も武力中心であった平清盛と源義朝と義朝の間に確執が生じていた。1159年12月4日に清盛が熊野詣に出立すると、信頼・義朝は9日夜半に内裏、院御所派の協力のもとに院と天皇を幽閉した。脱出した信西は宇治田原の山中に自害し、その首は京都で獄門にかけられた。急遽帰京して、16日の夜半六波羅邸に入った清盛は、信頼に名簿を提出して恭順の意を表したが、天皇側近の経宗・惟方と密かに...「歴史の回想・平治の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・三方ヶ原の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

    1572年(元亀3年)12月、武田信玄と徳川家康が遠江国三方ヶ原(現静岡県三方原)で行った合戦。信玄は、織田信長・徳川家康包囲網を形成後、信濃伊那谷から信遠国境を超えて南下、徳川方の二俣・掛川城を攻略し、家康の本拠浜松城に迫った。しかし信玄は無理な攻撃を避け、西方の三方ヶ原に進み、家康を迎え撃った。家康は惨敗し浜松城に逃げ帰り、勝利した信玄はさらに西進し翌年三河野田城を攻略した。「歴史の回想・三方ヶ原の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

  • 「歴史の回想・石山合戦」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    石山合戦は本願寺に率いられた諸国の門徒が織田信長と対決して、1570年(元亀元年)~1580年(天正8年)まで行った戦い。一向一揆の一つ。石山は当時大坂にあった本願寺の、寺地所在地の地名と伝承されている。本願寺が足利義昭・信長の新政権を警戒し、教団を護るため、信長と対立する諸勢力と結んだことが合戦の大きな原因である。戦いは第一期から四期まで区分ができる。①1570年の戦いで、旧将軍足利栄を擁立した三好三人衆の一派に本願寺が味方した戦い。足利義昭を擁して入京した織田信長に追われる三好三人衆は義栄死去後も、六角・朝倉と結んで義昭政権に抵抗を続け、野田・福島に進出した。これを撃破すべく出陣をした義昭・信長の軍勢に対して本願寺は挙兵した。これとともに浅井・朝倉勢が比叡山と結んで京都をうかがい、近江織田勢を攻撃の、信長は...「歴史の回想・石山合戦」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・保元の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    保元の乱(保元元)京都で起こった争乱。同年7月2日の鳥羽法皇の死去を契機として、天皇家では崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、摂関家では藤原忠実・藤原頼長の父子と忠実の長子藤原忠通の対立が激化し、朝廷は崇徳・頼長の上皇方と後白河・忠通の天皇方に分かれた。上皇方は源為義・平忠正、天皇方は平清盛・源義朝・源義康らの武士を招き、都は武力衝突の緊張が高まった。このなかにあって、天皇方は天皇の近臣藤原通憲(信西)を中心に、禁中・京中の警固を固め、忠実・頼長父子の軍兵を招集を禁じる綸旨を発した。このような天皇方の挑発に追い詰められてた上皇は、同月10日に白河北殿に武士を招集して臨戦態勢にはいる。無勢を理由に為義らは退いて東国武士の来援を待つか、内裏に夜襲を行うか2案をていあんするが、大和の武士の来援を期待する頼長に退けられた。翌日...「歴史の回想・保元の乱」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・本能寺の変」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    本能寺の変は1582年(天正10年)織田信長が家臣のあ結光秀によって殺害された事件。信長は備中高松城(岡山市)を囲んで毛利軍と戦っている羽柴秀吉の応援のために、光秀に先鋒を命じた、自分は僅かな近臣を率いて四条坊門西洞院の本能寺に、嫡男の信忠は室町薬師町の妙覚寺に入った変の前日、信長は多くの公家や町衆から挨拶を受けて、茶の湯で接待し、夜は本因坊算砂らに碁を打たせて楽しんだ。信長は終日上機嫌で西国遠征の勝利を確信していた。光秀は1万余名の兵を率いて居城の丹波亀山城を出発、6月2日払晩本能寺を襲った。本能寺は一応の構えがあるが、東を西洞院川が流れるほか、残る三方は堀があったかどうかは不明。信長の警固は守蘭丸以下の小姓や中間数十人で、手練の馬廻衆は市中に分宿しておらず、信長はあえなく自刃した。信忠は妙覚寺が構えがないの...「歴史の回想・本能寺の変」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「真田幸村の群像」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天・

    真田幸村(1567年~1615年)安土時代から江戸初期の武将。真田昌幸の次男。幼名御弁丸、後に源次郎。左衛門佐を名乗る。名は信繁、後年幸村の名で知られる。1587年(天正15年)父昌行が豊臣秀吉に属するに及んで幸村も出仕し、秀吉の配下の大谷吉継の娘を妻として豊臣家と縁故を深めた。1600年(慶長5年)上杉討伐のために会津に向かった徳川軍に父や兄に従ったが、途中石田三成の挙兵を知って父とともに引き返し、上田城に籠って反徳川の旗を挙げ、徳川秀忠の率いる大軍を引き付けて関ヶ原の戦いに参加させず、三成方(西軍)を助けた。西軍の敗北により命が危うくなったが、妻が本多忠勝の娘だったために東軍に味方した兄信之の戦功に免じて死は逃れ、父とともに高野山麓の九度山村に蟄居させられた。1614年大坂城で挙兵した豊臣秀頼の招きに応じて...歴史の回想「真田幸村の群像」電子書籍紹介・角川・グーグル・楽天・

  • 歴史の回想「大名家のお家騒動」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    江戸幕府のゆるぎない幕藩体制で、親藩、譜代、外様を合わせ約三百藩の諸藩の相続に起きたお家騒動は歌舞伎や狂言、講談の語り種となり、庶民の知る所となって、語り継がれ、記述となって伝えられている。徳川幕府の西暦1603年から1867年の明治維新までの約260年間の鎖国と共に、幕藩体制の下に日本の独自な統治と文化、風習と習慣を形成していった。中でも「お家騒動と農民一揆」は泰平の世に衝撃と混乱を巻き起こしたが、その度に封建社会と武士社会、百姓の村社会秩序が、幕藩体制の維持と統制を作り出し、長き江戸時代を支えてきた。中でも大名家の「お家騒動」は主に江戸時代における諸大名家の藩政維持と家督存続に限定した事変である。そこには藩内の主導権争いに、一族の家督相続をめぐる骨肉の争い、重臣内の覇権争いや、財政難に藩内改革派と反対派は、...歴史の回想「大名家のお家騒動」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「北条時政の群像」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    鎌倉幕府初代の執権。執権。1203年(県人)~1205年(減給)2年の在職。父は北条時家または北条時方ともいわれる。母は伊豆掾伴為房の女。北条四郎と称す。1160年(永禄元)伊豆に配流され源頼朝の監視を伊東祐親とともに命じられた。1170年(嘉応2)伊豆大島の源為朝の征伐に参加し、女の政子が頼朝と結婚したのち頼朝の挙兵計画に参画。1180年(治承4)8月の山本兼隆の攻めを指揮し、石橋山での敗戦後、頼朝より1日早く安房へ渡海。同9月、頼朝の使者として甲斐武田党の下に潜航する。同10月、甲信の軍勢ととに駿河国黄瀬川で頼朝軍と合流、以降、頼朝の近侍する。1185年(文治元)11月、源義経追討のために上洛して京都守護となり、後白河法皇と折衝して、守護・地頭設置の勅許を獲得、7か国地頭職を拝領するが、日ならずして辞退した...歴史の回想「北条時政の群像」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

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    鎌倉幕府初代の執権。執権。1203年(県人)~1205年(減給)2年の在職。父は北条時家または北条時方ともいわれる。母は伊豆掾伴為房の女。北条四郎と称す。1160年(永禄元)伊豆に配流され源頼朝の監視を伊東祐親とともに命じられた。1170年(嘉応2)伊豆大島の源為朝の征伐に参加し、女の政子が頼朝と結婚したのち頼朝の挙兵計画に参画。1180年(治承4)8月の山本兼隆の攻めを指揮し、石橋山での敗戦後、頼朝より1日早く安房へ渡海。同9月、頼朝の使者として甲斐武田党の下に潜航する。同10月、甲信の軍勢ととに駿河国黄瀬川で頼朝軍と合流、以降、頼朝の近侍する。1185年(文治元)11月、源義経追討のために上洛して京都守護となり、後白河法皇と折衝して、守護・地頭設置の勅許を獲得、7か国地頭職を拝領するが、日ならずして辞退した...歴史の回想「北条時政の群像」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「戊辰戦争の群臣」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    「戊辰戦争は明治維新政府とそれに敵対する旧幕府、諸藩との戦争。発生した慶応4年(1868)の干支である戊辰をとった呼称。前年の12月9日の王政復古クーデターで天皇を頂点とした新政権が樹立され、幕府や摂政・関白などが廃され、前将軍徳川慶喜は大坂に退去した。慶喜は新政府内の土佐・越前両藩のなどの公儀政体派の巻き返し工作に期待したが、江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が発生し、旧幕府軍は慶喜のあらわにした「討薩の表を掲げて京都へ進撃を開始した。薩摩・長州両藩など新政府軍は旧幕府軍の通行を阻止し1月3日に鳥羽伏見の戦いになった。戦争では、新政府軍が指揮官や将兵の士気、大小砲の兵器が勝り、初戦は機先を制して旧幕府軍を破った。4日には仁和寺宮嘉彰親王が征夷代将軍に任じられ、旧幕府軍が賊軍、新政府軍は官軍とされるに至って、慶喜は江戸...歴史の回想「戊辰戦争の群臣」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

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    「戊辰戦争は明治維新政府とそれに敵対する旧幕府、諸藩との戦争。発生した慶応4年(1868)の干支である戊辰をとった呼称。前年の12月9日の王政復古クーデターで天皇を頂点とした新政権が樹立され、幕府や摂政・関白などが廃され、前将軍徳川慶喜は大坂に退去した。慶喜は新政府内の土佐・越前両藩のなどの公儀政体派の巻き返し工作に期待したが、江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が発生し、旧幕府軍は慶喜のあらわにした「討薩の表を掲げて京都へ進撃を開始した。薩摩・長州両藩など新政府軍は旧幕府軍の通行を阻止し1月3日に鳥羽伏見の戦いになった。戦争では、新政府軍が指揮官や将兵の士気、大小砲の兵器が勝り、初戦は機先を制して旧幕府軍を破った。4日には仁和寺宮嘉彰親王が征夷代将軍に任じられ、旧幕府軍が賊軍、新政府軍は官軍とされるに至って、慶喜は江戸...歴史の回想「戊辰戦争の群臣」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 「江戸の群像・柳生宗矩」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    柳生宗矩(1571年~1646年)江戸初期の幕臣、剣術者。初代柳生藩主。柳生宗厳の五男。通称又右衛門。従5位下但馬の守、1594年(文禄3)徳川家康に拝謁。関ヶ原の戦に際し、大和地方の豪族を東軍に引き入れる工作に成功し、旧領2000石を安堵された。大坂夏の陣にも参戦し、夏の陣後坂崎直盛説得し手を自刃させたのは有名な話である。1632年(寛永9)には大目付に昇進し、石高もしだいに加増されて1636年には大名に列せられ、最終的には宗矩は、秀忠・家光の師範として信任厚く、また有力大名にも多く交わり剣技を教授した。以降、将軍師範地位は江戸柳生が世襲することになる。純粋に武術家というより政治家の側面が強いこともあって、当時からとやかく風評があったようで、父の後を受けて柳生流の地位を高めたことは確かである。技術ばかりでなく...「江戸の群像・柳生宗矩」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

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    柳生宗矩(1571年~1646年)江戸初期の幕臣、剣術者。初代柳生藩主。柳生宗厳の五男。通称又右衛門。従5位下但馬の守、1594年(文禄3)徳川家康に拝謁。関ヶ原の戦に際し、大和地方の豪族を東軍に引き入れる工作に成功し、旧領2000石を安堵された。大坂夏の陣にも参戦し、夏の陣後坂崎直盛説得し手を自刃させたのは有名な話である。1632年(寛永9)には大目付に昇進し、石高もしだいに加増されて1636年には大名に列せられ、最終的には宗矩は、秀忠・家光の師範として信任厚く、また有力大名にも多く交わり剣技を教授した。以降、将軍師範地位は江戸柳生が世襲することになる。純粋に武術家というより政治家の側面が強いこともあって、当時からとやかく風評があったようで、父の後を受けて柳生流の地位を高めたことは確かである。技術ばかりでなく...「江戸の群像・柳生宗矩」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・明応の政変」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    明応の政変は1493年(明応2年)細川政元が将軍足利義稙を廃位した政治クーデター。前年2度目の六角氏討伐を終えて近江から帰京した義稙は、この年の2月畠山基家を討つため河内に出陣した。しかしこれに反対した政元は、義稙の廃位と基家誅伐の首謀者である畠山政長の追放を図り、4月被官上原元秀らに命じて、義稙や政長の邸宅を破却、当時天竜寺の喝食であった香厳院清晃(足利政知)の次男、後の義澄を新将軍に擁立した。5月政長は自殺、義稙は龍安寺に幽閉された。事件の背景には将軍の親裁権強化を目指す奉行人・奉公衆と、それを阻止し畿内政権樹立をもくろむ細川氏との、幕府内での主導権をめぐる対立があった。「歴史の回想・明応の政変」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「倭寇と三浦の乱」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    「倭寇は朝鮮半島・中国大陸および南方諸地域の沿岸や内陸で行動した海賊的集団に対して、朝鮮人や中国人がつけた呼び名で、語義「日本人の略奪」だが、用字例を見ると404年高句麗広開土王碑文(好太王碑)までさかのぼり、また豊臣秀吉の朝鮮出兵も日中戦争の日本軍も、全て倭寇の名で呼ばれている。歴史上の概念として倭寇が用いられるのは、主に14世紀から15世紀に朝鮮半島から中国大陸の北部に展開した倭寇と、16世紀に中国大陸・南海方面に展開した倭寇である。【14~15世紀の倭寇】朝鮮半島では13世紀初頭から倭人の略奪行為があったが、観応元(1350年)2月から11月に大規模な倭寇の船団による襲撃事件があり、これを「庚演の倭寇」として、その後固定観念としての倭寇が成立した。倭寇の行動範囲は、はじめは南朝鮮の沿岸に限られていたが、や...歴史の回想「倭寇と三浦の乱」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・石原莞爾」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    石原莞爾いしわらかんじ(1889―1949)陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(たなかちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱会(こくちゅうかい)に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。1922年陸大教官在任中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、1928年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。193...「歴史の回想・石原莞爾」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・石原莞爾」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    石原莞爾いしわらかんじ(1889―1949)陸軍軍人(中将)。明治22年1月17日山形県に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校卒業。中国の辛亥(しんがい)革命を知って日本の国家改造に関心をもち、1920年(大正9)には田中智学(たなかちがく)の所説にひかれて日蓮(にちれん)主義の思想団体国柱会(こくちゅうかい)に入会し、日本をアジア、さらには世界の盟主とするという使命観を得た。1922年陸大教官在任中にドイツ駐在武官となり、ルーデンドルフとデリブリックの論争に触発されて、将来の世界戦争が国家総力戦、飛行機を中心とする殲滅(せんめつ)戦となることを察知し、1928年(昭和3)関東軍主任参謀となると、『戦争史大観』にこれを体系化した。この観点から満州事変、「満州国」創設、日本の国際連盟からの脱退などを推進した。193...「歴史の回想・石原莞爾」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・承久の乱」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    承久の乱・1221年(承久3年)後鳥羽上皇が討幕を図った挙兵した事件。鎌倉幕府成立によって勢力範囲内が狭めらえていた朝廷で王権の優位を唱える後鳥羽上皇が、幕府の内紛をついて滅ぼそうとしたもので、直接の前提は前々年正月の将軍源実朝の暗殺にある。暗殺の数年前には、実朝の後継者として上皇の皇子をを関東に下す約束が、上皇の側近卿二位藤原兼子と実朝の生母北条政子との間で合意されていた。実朝は後鳥羽上皇に恭順な態度で一貫して保持し来ており、後鳥羽上皇の近習の源仲章侍読として側近に加えていた。実朝を受け皿にして皇子を将軍となし、幕府の服属させていくのが後鳥羽の考え方得た方向であったろう。しかし実朝の死によって目論見が崩れたことから、上皇は幕府からの皇子の下向の要請を断り、さらに寵愛する白拍子亀菊の所領である摂津長江・倉橋荘地...「歴史の回想・承久の乱」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 「高杉晋作と功山寺挙兵」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    「功山寺挙兵の起因」(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作ら正義派の長州藩諸隊が、俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。幕府による第一次長州征伐が迫るなか、長州藩では幕府への恭順止むなしとする保守派(晋作は「俗論派」と呼び、自らを「正義派」と称した)が台頭し、10月には福岡へ逃れる。平尾山荘に匿われるが、俗論派による正義派家老の処刑を聞き、ふたたび下関へ帰還。12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵。のちに奇兵隊ら諸隊も加わり、元治2年(1865年)3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。晋作は同月、海...「高杉晋作と功山寺挙兵」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・上杉禅秀の乱」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    上杉禅秀の乱は、1416年(応永23年)から翌年にかけて鎌倉で起こった内乱。首謀者は前関東管領上杉氏憲(禅秀)で鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲基を討とうとして持氏の叔父満隆を擁し、千葉・武田・大掾・岩松ら関東の多くの武家を誘い、10月2日に鎌倉で決起した。このクーデター一端は成功したが、持氏と憲基は逃走するが、将軍の継承を廻って対立していた弟の足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍足利義嗣と氏憲の内通を知った将軍義持が持氏支持の姿勢を明示し、諸将に氏憲討伐を呼びかけると、各地の武士たちは挙兵し鎌倉に進み、結局氏憲は敗れて、よく1417年正月10日に自殺した。この乱は鎌倉府を二分にし、関東の武家のほとんどを巻き込んだ大規模なもので、この事件のきかっけに関東は混乱状況に入った。「歴史の回想・上杉禅秀の乱」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「乙丑の獄」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    乙丑の獄(いっちゅうのごく)は、1865年(乙丑年)に、福岡藩で起こった佐幕派による勤皇派弾圧事件。乙丑の変、または乙丑の政変と呼ぶ場合もある。幕末の福岡藩、江戸時代末期、福岡藩は藩主黒田長溥の元「尊王佐幕」を掲げ、幕府を助けながら天皇を尊ぶ公武合体論に似た政治運動を進めていた。長溥自身非常に開明的で、城下に鉄鉱炉を建設し、また鉱山開発を進めるなど「蘭癖大名」と呼ばれるほどであった。また幕末の政治において「開国し政権が変わなければ日本の未来はないが、幕府は潰さず、朝廷と合同しそのまま改革すべし」という保守的な立場から幕府を助け、強い影響力を持つに至った。これに対し家老加藤司書・藩士月形洗蔵・中村円太・平野国臣らを中心とする筑前勤王党は「攘夷を進め、幕府を打倒し政権を天皇の下へ戻すべし」という尊皇攘夷論を唱え、藩...歴史の回想「乙丑の獄」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「伊達政宗の群像」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    伊達政宗(1567~1636)戦国・近世初期の武将。出羽国米沢城主、陸奥国岩出山城主を経て仙台城主。伊達輝宗(1544~1585)の長男として米沢城に生まれる。母は山形城主最上義守の娘義姫。1584年(天正12年)10月、家督を相続。政宗は幼い時、疱瘡を病み右眼を失明。のちに唐書に言われる片目の英雄である独眼竜といわれた。南奥州の征服者を目指し1589年磐梯山のふもと摺上原に蘆名義弘の軍を破り、白川氏・石川氏などを服属させ、居城を会津の黒川城に進めた。しかし、豊臣秀吉の奥州仕置で旧蘆名領は没収され米沢に戻った。さらに1591年旧葛西・大崎領12郡を与えられた代わりに本領6郡が没収され、米沢から陸奥国玉造郡岩出山に移された。その後、徳川家康に接近し、関ケ原の戦いに際し本領回復の判物を与えられたが、回復したのは苅田...歴史の回想「伊達政宗の群像」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 「古代の群像・橘諸兄」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    橘諸兄・橘佐為を始祖とする古代の名門貴族。736年(天平8年)に敏達天皇の系譜を美努王の子葛城王と佐為王が、臣籍降下し橘宿祢を賜わったことに始まる。橘性は兄弟の母県犬養宿祢三千代が708年(和銅元)元明天皇より橘宿祢を賜わったことに因む。737年の疫病により藤原四兄弟の死に後に、諸兄は左大臣・正一位となり政界を指導したが、藤原仲麻呂の台頭により辞任、失意のうちに757年(天平宝字元)に死去した。その直後、子の奈良麻呂も仲麻呂打倒計画したとして獄につながれた。9世紀、奈良麻呂の孫橘嘉智が嵯峨天皇の皇后となり仁妙天皇を産み勢力を回復した。子弟のために学館院を創設した。三筆の一人橘逸勢が、842年(承和9)承和の変ともあり、橘氏の勢力は檀林皇后の死後衰退していった。「古代の群像・橘諸兄」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「上杉謙信の群像」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    上杉謙信(1530年~1578年)戦国時代の武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。幼名虎千代。元服して平三景虎。のちの政虎、輝虎と改名。謙信は法名。1548年(天文17)守護代の兄晴景を追い落として春日山(現上越市)に入城、越後の盟主となる。1550年2月、父為景の例を倣って足利義晴から白傘袋・毛氈鞍覆の許可を得る。同年から翌1551にかけて、上田長尾家当主政景と対立し、これを屈服させる。1553年の4月、8月に、北信濃の領主村上氏・高梨氏の救援の要請を受けて信濃に出兵。川中島で武田信玄の軍勢と初めて対戦する。1555年7月、再び信濃に出兵し、川中島で武田勢と対陣した。この戦いは長陣となり、1555年(弘治元)10月今川義元の仲介で両軍とも引くが、1556年(弘治2)6月、引退を決意をするものの、政景らの説...歴史の回想「上杉謙信の群像」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「梶原景時の群像」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    梶原景時(?~1200年)鎌倉前期の武士。父は鎌倉景清。通称平三。1180年(治承4)の石橋山の戦で平氏方に属しながら源頼朝を救い、再起した頼朝に従臣。翌年侍所所司となる。1183年(寿永2)頼朝の命を受けて上総御権介平広常を謀殺。1184年(元暦元)源義経らと上洛し源義仲を討ち、平氏追討ののための西海を転戦、播磨・美作総追補使に任じられた。1185年(文治元)屋島攻撃の際義経と対立し、頼朝に讒訴して失脚させた。弁舌巧みで京都的教養を持つ景時は頼朝に重用され、御家人統制にあたったが、官僚的性格と憲性欲から御家人の反感を買った。1199年(正治元)頼朝の没後組織された「十三人宿老会議」の構成員になり、御家人六十六人から弾劾を受けて失脚、1200年正月再起を期して上洛の途中駿河国狐埼で在地武士とかっせんし一族ととも...歴史の回想「梶原景時の群像」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想・政僧天海と崇伝」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

    大坂の陣を勝利し、徳川幕府が開幕され、その基礎に貢献した二人の黒衣の政僧「崇伝と天海」の貢献と影響は見逃せない。崇伝(1569)は家康に見込まれて、徳川幕府の初期の参謀役的存在で実務面で大きな発言力と、豊臣家の残党の一掃の為に方広寺鐘銘事件を提起し、紫衣事件で提起攻略と徳川幕府の諸大名の法的立案と諸法度で秩序作りで、徳川幕府の幕政の骨格を作ることに辣腕を振るった。一方天下の知恵袋と称され天海は、江戸城築城に立地条件に有って、兵法に合理的な設計を提案し、天下の江戸城を構築した。天海は年齢的に崇伝より年長だが、秀忠、家光に見込まれて幕政に参入し絶大な信頼とその温厚な性格から、徳川幕府の相談役と調停役に手腕を発揮した。硬軟両者の志向は時として対立し、崇伝は臨済宗南禅寺派の再興の祖として、金地院としてその名を知らしめた...歴史の回想・政僧天海と崇伝」電子書籍紹介・グーグル・楽天・角川。

  • 「歴史の回想・奥州仕置」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    「奥州仕置の起因」(おうしゅうしおき)は、天正18年(1590年)7月から8月にかけて行なわれた、豊臣秀吉による奥羽地方に対する領土仕置。奥羽仕置(おううしおき)ともいう。豊臣秀吉による奥羽両国の無事(和平・和睦)への関与は、天正13年の金山宗洗の奥羽への派遣から開始された。宗洗は天正16年までに3度奥羽へ赴き、奥羽各領主と交渉を行った。天正16年9月、最上義光に続いて伊達政宗も秀吉に恭順を示し、奥羽の無事実現へ大きく前進した。秀吉は天正17年1月に政宗に書状を遣わし、天正17年前半の上洛を求めた。しかし、その天正17年の前半である5月に政宗は蘆名領の会津へ侵攻したのだった。秀吉は上洛要請を無視し、奥羽の無事を乱した政宗の行為に不信を抱き、政宗が会津から撤退しない場合は奥羽へ出兵する用意があることを明らかにした...「歴史の回想・奥州仕置」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「政僧・天海と崇伝」オンデマンド・アマゾン。@880円

    『政僧・天海と崇伝』アマゾン書籍紹介大坂の陣を勝利し、徳川幕府が開幕され、その基礎に貢献した二人の黒衣の政僧「崇伝と天海」の貢献と影響は見逃せない。崇伝(1569)は家康に見込まれて、徳川幕府の初期の参謀役的存在で実務面で大きな発言力と、豊臣家の残党の一掃の為に方広寺鐘銘事件を提起し、紫衣事件で提起攻略と徳川幕府の諸大名の法的立案と諸法度で秩序作りで、徳川幕府の幕政の骨格を作ることに辣腕を振るった。一方天下の知恵袋と称され天海は、江戸城築城に立地条件に有って、兵法に合理的な設計を提案し、天下の江戸城を構築した。天海は年齢的に崇伝より年長だが、秀忠、家光に見込まれて幕政に参入し絶大な信頼とその温厚な性格から、徳川幕府の相談役と調停役に手腕を発揮した。硬軟両者の志向は時として対立し、崇伝は臨済宗南禅寺派の再興の祖と...「政僧・天海と崇伝」オンデマンド・アマゾン。@880円

  • 「古事記が紡ぐ一ノ宮の神々」オンデマンド・アマゾン。@1320円203ページ

    「古事記紡ぐ一宮の神々」アマゾン書籍紹介。『古事記』『日本書紀』には神話の編纂に国津神、先住氏族の祖神の神々を多く記されている。特に出雲系の地主神、国造りの神々は古くは諸国に分布する一ノ宮の祭神から国津神と天孫の天津神の中央のヤマト王朝との対立、紛争を推測することが出来る。また古くより先住し、御神体が山々に磐座に鎮座する崇敬の信仰、氏族の祖神を祀る古代の豪族の神社など、地域に根付いた崇敬の神々が存在した。六十余諸国一国に一ノ宮に選ばれた神社の祭神は由緒、崇敬、権威、勢力などを兼ね備えた神社である。本来なら天孫降臨の祭神が多くあっても良いものだが、多くは出雲系の国津神が大部分を占める。天孫天津神と対立し「国譲り」をしたとされる、国津神の神々の分布は、一つの流れは大和から尾張、三河、遠江、武蔵野への流れ、二つ目の流...「古事記が紡ぐ一ノ宮の神々」オンデマンド・アマゾン。@1320円203ページ

  • 「重源」オンデマンド・アマゾン。@1100円124ページ

    重源は保安二年(1121)生まれ、紀氏の出身。父紀季重の子。紀氏は大和国は平郡県紀里を本拠にした豪族の流れをくむ、重源は平郡で生まれ、俗名刑部左衛門尉重定。一二歳の時に京都は真言宗の醍醐寺に入り出家する。醍醐寺は空海の孫弟子の聖宝が貞観一六年(874)に上醍醐准胝観音本尊・如意輪観音を安置して開山した。その後,下醍醐も堂塔が立ち並び、五重塔は京都で一番古い建造物となっている。醍醐寺も落雷による焼失、戦火による焼失と、再建と消失と繰り返してきた。重源が出家した修行の地は現在の下醍醐と違って西国一の険しい札所で知られている。かつては上がり口には結界があって、女人禁制で信仰の道場であった。一二歳の重源は日々厳しい修業に励み、早朝より薬師堂・醍醐寺の鎮守神で有る清瀧権現拝殿・准胝堂・五大堂などへの勤行を勤める。醍醐山の...「重源」オンデマンド・アマゾン。@1100円124ページ

  • 「芭蕉紀行漂泊の憧憬」オンデマンド・アマゾン。@1540円

    『芭蕉紀行漂泊の憧憬』アマゾン書籍「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。」この名文は誰もが知っている芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭の名文である。感銘ある言葉の響きは、哲学を秘めた生死観であり、凝縮された人生観である。紀行文は見聞録として江戸時代中期の陸奥、北陸などの地方の世相、世情を後世に伝える歴史の確認の指標である。古人の足跡と古歌、神話の説話や西行の歌枕を辿りながら、時には杜甫の漢詩の一節を思い出しながら、俳諧の人脈を通じて名所、古跡の奥州と、その時代の情景、日々の暮らしとその光景が、紀行記述が俳諧を通じて味わい深い言葉で綴られている。感性に満ち溢れた美的表現の枠を極めている。この最初に出てくる冒頭文で全体の作者の思...「芭蕉紀行漂泊の憧憬」オンデマンド・アマゾン。@1540円

  • 「日本仏教十三宗・諸派総覧」オンデマンド・アマゾン。@1540円

    『日本仏教十三宗諸派総覧』アマゾン電子書籍紹介。「十三宗五十六派」とは、宗教団体法が施行される、昭和15年(1940)以前に日本の仏教の成立から見て、教義・歴史・伝統がその根本にある宗派のことである。仏教歴史上、古代時代・中世時代・近世時代に立宗し日本を代表し存続し影響し続けた仏教宗派である。「十三宗」とは、それぞれの宗旨のことである。「五十六派」とは、それぞれの分派のことである。宗教学上で仏教の伝統宗教と定義されるのは、この五十六宗派に基づく。また、歴史教科書に書かれる鎌倉祖師たちの宗名は宗旨のことである。ただし、法相宗、華厳宗、律宗、融通念仏宗、曹洞宗、時宗、黄檗宗は、宗派に分かれていないため、宗旨と宗派が同一である。また天台宗・浄土宗・日蓮宗のように宗派名が宗旨名と同一の場合でも、他派を従属するものではな...「日本仏教十三宗・諸派総覧」オンデマンド・アマゾン。@1540円

  • 「太閤の夢の夢」オンデマンド・アマゾン。@1760円302ページ

    「太閤の夢の夢」豊臣秀吉(とよとみひでよし)または羽柴秀吉(はしばひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。織田信長が西暦1534年六月生まれ、豊臣秀吉が西暦1537年三月生まれ、徳川家康が西暦1543年一月生まれで三傑の年齢差は三歳・六歳違いのほぼ同世代の英雄である。農民の子として生まれ天下人になり立身出世した。天下統一を果たした織田信長の家臣として活躍後、信長の本能寺の横死後に後継者争いに勝利を収めた。柴田勝家・徳川家康を押さえて関白に任官し、紀伊・四国・越中攻略など経て九州平定・小田原征伐を終えて盤...「太閤の夢の夢」オンデマンド・アマゾン。@1760円302ページ

  • 「日本神道の神々」アマゾン・オンデマンド@1210円

    日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞穴や奇岩、巨木に巨大岩石に峻険な峰々に精霊を感じ信仰されていった。また大自然の海や川、山岳に畏敬の念をもって祀られていた。それぞれの地域に集団で氏族が形成され、一族の崇敬する祭神が氏族の団結を高めていき、古神道が生まれていった。『記紀』が成立し、神話の世界から天地創造の神々が生まれ、いち早く地方へと神々の伝播されていった。仏教伝来と同時に、時代を経て融和、同化していった。それが「神仏習合であった。千年以上も神仏習合の歴史文化が明治維新の神仏分離令を持って、分別されていった。今や神社数、仏教寺院数はほぼ同じ勢力を持って棲み分け作って共存している。再び過去の日本神道は振り返って神道はどう進化と変化をしてきたか検証し...「日本神道の神々」アマゾン・オンデマンド@1210円

  • 「古代の群像・吉備真備」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    吉備真備(695~775)奈良時代の政治家。父は右衛士少尉下道朝臣圀勝、母は渡来系楊貴氏、下道真備ともいう。717年(養老元)遣唐使の留学生として阿部仲麻呂、玄昉などどと入唐し、滞在17年に及び、儒学、律令、礼儀、軍事などの諸般の学問を研鑽した。帰国時に万巻のを書物を将来した。帰国後まもなく東宮阿部内親王の学士になったことから機縁で、以降この女帝に長く厚遇された。藤原四兄弟の死後橘諸兄政権下登用されるが、大宰少弐藤原宏嗣は玄昉と真備の追放を掲げて九州で乱を起こした。諸兄のあとの政権を握った藤原仲麻呂には嫌われ西海道の国守に左遷される。再び遣唐副使として入唐するが、帰国後も都に戻れる大宰大弐とされ、都合地方官として10数年を送った。真備の不遇時代でもある。この間、新羅情勢が緊迫したこともあり、軍法に精通する真備は...「古代の群像・吉備真備」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「堀氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    織豊時代に大名になり、近世には信濃国飯田城主となった家系。藤原北家の出で美濃国に居住し、斎藤氏に仕えた。堀秀政(1553~1590)安土桃山時代、堀秀重の子。通称は久太郎。左衛門督。はじめ美濃の斎藤氏に仕えその後織田信長の側近として仕えた。その後豊臣秀吉に転任し、天正13年1585)羽柴の氏と豊臣の姓を与えられ、越前国北荘城18万石を領した。子の秀治は朝鮮に出陣し、慶長3年(1598)越後国春日山城30万石に移封された。その子忠俊は1610年に一族の内紛によって改易されたが、旗本となっていた秀治の弟親良はその翌年下野国真岡で1万2000石が与えられ、その子孫は寛文12年(1612)飯田城主となり以降12代飯田藩として明治維新と至った。一族の庶子は越後国村松藩主、椎谷藩主、信濃国須坂藩主になっている。歴史の回想「堀氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

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    織豊時代に大名になり、近世には信濃国飯田城主となった家系。藤原北家の出で美濃国に居住し、斎藤氏に仕えた。堀秀政(1553~1590)安土桃山時代、堀秀重の子。通称は久太郎。左衛門督。はじめ美濃の斎藤氏に仕えその後織田信長の側近として仕えた。その後豊臣秀吉に転任し、天正13年1585)羽柴の氏と豊臣の姓を与えられ、越前国北荘城18万石を領した。子の秀治は朝鮮に出陣し、慶長3年(1598)越後国春日山城30万石に移封された。その子忠俊は1610年に一族の内紛によって改易されたが、旗本となっていた秀治の弟親良はその翌年下野国真岡で1万2000石が与えられ、その子孫は寛文12年(1612)飯田城主となり以降12代飯田藩として明治維新と至った。一族の庶子は越後国村松藩主、椎谷藩主、信濃国須坂藩主になっている。歴史の回想「堀氏一族の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「以仁王の挙兵」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    以仁王(1151年~1180年)後白河天皇の第三皇子。兄の守覚が早く出家したため、普通は第二皇子とされる。母は権大納言藤原季成の女成子。三条高倉に邸宅があったために、三条高倉とも呼ばれた。幼少時、天台座主最雲の弟子となるが、師の没後の1165年(永万元)元服。鳥羽上皇の皇女八条院の猶子となる。英才の誉れが高かったが、異母弟憲仁の母憲春門院平慈子の妨害で、親王宣下さえ受けれなかった。1179年(治承3)の平氏のクーデターで後白河院が幽閉されると、王も最雲から譲られた多年知行していた常興寺領を奪われた。よく1180年4月源頼政を誘って平氏打倒の兵を挙げ、同時に全国に平氏討伐の令旨を7発した。挙兵は事前に漏れて、園城寺から南都に向かって敗走途中の5月26日、光明山鳥居前で戦死した。挙兵は失敗であったが、令旨は大いに広...歴史の回想「以仁王の挙兵」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「金ヶ崎の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

    1570年(元亀元年)、越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市金ヶ崎町)で織田信長・徳川家康率いる「織田・徳川連合軍」と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)率いる「朝倉軍」が対峙した。約3万の織田・徳川連合軍に対し、約4,500の朝倉軍。当初は、織田・徳川連合軍が優勢であったが、織田信長の義弟「浅井長政」の裏切りにより、形勢逆転。戦国史上有名な織田信長が危機的状況下で行なった撤退戦でもあることから、「金ヶ崎の退き口」や「金ヶ崎崩れ」とも呼ばれている。織田信長は、尾張国(現在の愛知県西部)を平定。三河国(現在の愛知県東部)の徳川家康、及び近江国北部(現在の滋賀県北部)の浅井長政と同盟を組み、美濃国(現在の岐阜県南部)を支配していた斎藤家を滅亡させた。加えて、伊勢国北部(現在の三重県北部)も支配下に入れた織田信長は、1...歴史の回想「金ヶ崎の戦い」電子書籍・アマゾン・グーグル・楽天・角川

  • 歴史の回想「厳島の戦いの変遷」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛利氏に挑発、大内氏の旧臣を引き継ぎ拡大路線で戦線をを広げる安芸の厳島に進駐した陶晴賢軍を急襲して全滅させた戦い。天文20年(1551)大内義隆を倒した陶晴賢は、内海交通の要所の厳島を支配下に収めた。元就は当初晴賢に協力したが、1554年陶氏と絶ち、安芸西南部の諸城から陶軍を追い占領した。晴賢は1555年9月厳島に上陸、塔岡に本陣を置き、毛利軍が拠守する同島北部の宮尾城を攻撃した。毛利氏は同月晦日夜、暴風雨に乗じて反撃を決行、元就の本隊が島の北部包浦に上陸、山越えして背後から晴賢の本陣を急襲し、小早川隆景の水軍が鳥居沖で晴賢の水軍を破り、退路を断ったので、晴賢は敗走して山中で自刃し、陶軍は完敗した。歴史の回想「厳島の戦いの変遷」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 歴史の回想「明智光秀の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    明智光秀(?~1582)安土桃山時代の武将。美濃氏土岐氏の庶流と伝えらえるが、確かなものではない。「永禄六年諸役人付」足軽衆明智とあるので、足利義輝の代から幕臣と思われる。1565年(永禄8)義輝が殺害されたのち、越前朝倉義景に仕えたらしい。68年足利義昭が義景のもとを去って織田信長に頼った際に、細川藤孝とともに仲介工作をしたと伝えられ、以降光秀は幕臣であるとともに、信長にも仕えることになった。同年義昭・信長の上洛に従い、信長に認められて、公家・寺社領の仕置きなど京都の近辺の政務を1575年(天正3)頃まで担当した。他方、武将としても、1570年(元亀元)信長の朝倉・浅井攻めに参加、翌年近江南部のの一向一揆や延暦寺との戦いに従軍し、信長による延暦寺の焼き討ち後に、その旧領近江国志賀郡を与えらえて坂本城を築城した...歴史の回想「明智光秀の群像」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

  • 「高僧名僧伝・以心崇伝」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

    以心崇伝(1569年~1633年)江戸初期の臨済宗の僧侶。円照本光国師。京都南禅寺の塔頭金地院に住したので金地院崇伝ともいう。室町幕府四職家の一色氏の出身。室町幕府滅亡後に南禅寺の玄圃霊三に師事、1605年(慶長10)に建長寺住持、ついに同年の内南禅寺住持となる。鹿苑僧録の西笑承兌の推挙で1608年駿府で徳川家康に面謁し、以降外交文書の起草に従事。1610年以降は板倉勝重らとともに諸寺院の取り締まりになど宗教関係の行政にあたった。また家康の指示で内外の古典を収集・調査し、伴天連追放令や禁中並公家諸法度、武家諸法度をきそうした。家康の死後は江戸に移り、1619年(元和5)禅宗寺院の住職の任命を管轄する僧録に任命された。1626年(寛永3)国師号を受ける。翌年紫衣事件では沢庵宗信彭らの厳罰を幕府に進言した。幕政にお...「高僧名僧伝・以心崇伝」電子書籍紹介・アマゾン・グーグル・楽天・角川。

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